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カテゴリー「も」の13件の記事

2014年4月 1日

モスキート・コースト(1986)

- 一理あるけど -

アメリカの現状に絶望し、ホンジュラスの密林に一家で乗り込んだ家族。農園を作り成功したかに思えたが、武装集団との戦いで村ごと失ってしまう・・・

・・・既成のルールや、文明社会からの脱出を描いた作品が多いピータ・ウィアー監督作品。名前だけは知っていたが、観る気にはなれなくて今回初めてDVDを借りた次第。随分と重い内容だった。

楽しくはない作品。示唆には富むと思うが、主人公に共感できるような設定が足りなかった。故郷の町で友人が何かの犠牲になって死ぬとか、絶望的な現状を表す出来事がぜひとも必要だったと思う。それがないと、この作品は誰にもお勧めできない。

懐かしいリバー・フェニックスや、まだ若いヘレン・ミレンが出演している。ヘレン嬢は、いまやお婆ちゃんの殺し屋役が似合うけど、この当時は色っぽい。

ハリソン・フォードが狂気にかられたような主人公を演じていた。この主人公のキャラクターを考えると、今ならダニエル・デイ=ルイスなどが最適。強いこだわり、強烈な個性を貫くイメージが合致しているから。ハリソン・フォードも頑張って抵抗するキャラクターだったが、狂気が似合うとは思えない。

有能な発明家でありながら、周囲の人との交流を絶ち、独自の世界観に捉われている。家族の危険を顧みずに成功の保障のない事業に乗り出す・・・そんな見方をするなら、なんて酷い男としか思えない。

とにかく主人公は酷かった。海岸の傍に、それも河口のそばに小屋を建てたら、ハリケーンが来たら終わりだ。水害に遭ったことがないのか?大陸育ちだから、経験がなかったかも知れないが、あの立地は酷すぎる。親切な友人の忠告に、あんな態度をとるなんてありえない。強情だけでは済まない、偏屈者だった。

危機管理はしないといけない。水害が来たら、強盗が来たら、ハリケーンは、病害虫は?それらに対して、一定の危険性を想定し、準備をしないなら、子供を連れるのはダメ。親たる資格はない。一人でやるべきだ。

しかし、考え方は色々。主人公の言い分にも一理ある。文明社会には欠点も多く、日本製のテープしか買えないことに主人公が怒ったように、グローバリズムの中で個人の自由が侵される場合も多い。キリスト教の勧誘の仕方にも、嫌悪感を感じる場合はあるだろう。

教会への誘いを‘洗脳’とする言い方が映画で使われていたが、アメリカであんな風に描くなんて怖ろしいこと。でも、逆に恐ろしいという事実が、そもそも病的とも言える。教会批判しても何も怖くないのでないなら、何かの強制力がはたらいている証拠。

牧師が銃を持ち出して攻撃してくるシーンがあったが、あれは宗教家の一面を表すことは間違いない。宗教と戦争、殺戮は切っても切れない関係にあり、宗教戦争で失われた人命は計り知れない数。宗教は殺人に関係している。非常に密接に。

牧師がいないのにテレビかビデオで講義をしている、あのシーンも偽善性を表現すると思う。その場にいないから仕方ないといった理屈もあろうが、何かおかしいのである。おかしいという感覚は、偽善性を嫌う点では間違ってない。

ただし、窮地に陥った家族が助かるために、教会の援助を求めていればと感じざるをえなかった。とりあえず援助を請うべきと私は思う。命が一番。一般的に、そんな感覚で宗教を信じる~使う?人が多いのでは?安易な考え方で偽善的だが、私の場合はそうだ。

つきつめて考える人間は、アメリカ社会では‘アカ’と評価されるだろう。70年代に多かったドロップアウト集団は、たぶんアカというレッテルで捉えられ、良い点は無視して阻害され、やがて齢をとって社会に飲み込まれてしまったのでは?

・・・モスキート・コーストというのがどの辺りを指しているのか知らない。ホンジュラス近辺の密林地帯のことらしいが、簡易な地図では記載されていなかった。俗称かも知れない。

この話の原作がどんな経緯で書かれたのかも知らない。ある程度の実話なのか、モデルがいるのか気になった。ヒッピー達の中には、こんな冒険をした連中がいたかも知れない。コミューンを作ろうという話は多かった。麻薬まみれになった集団も多かったかも知れない。確か、リバー・フェニックスはそんな場所で育ったのではなかったか?

普通、密林に入る場合は、子供の病気が一番の問題になる。怪我がないはずもなく、医薬品の備え、医療知識がない家族の場合は全滅を覚悟しないといけない。武装集団の襲撃も怖い。生活が成り立つ村には、必ずのように侵入してくる犯罪者がいると考えないといけない。つまり、こちら側も武装が原則になる。

そこが、まさに失敗の原因となっていたようで、現実を示すものだった。完全に文明から遊離するのは非常に難しい。武装集団が持っている高度な武器は、文明道具でもあるのだが、密林の中にも武器は出回っており、その毒から逃れることは難しいのが現実。夢のようなパラダイスは、なかなかない。無人島に行かないと無理。

私自身は偏屈な点は主人公と似ているが、主人公より臆病なので、文句をブツブツ言いながらも都会で暮らしたい。文明の利器にまみれていないと耐えられない。山の涼しいところで育ったので、暑いところは全くの苦手。自衛隊の体験キャンプに行ったら、汗まみれになって耐えられなかった。テント生活は嫌だから、ジャングルにドロップアウトしたりはしない。

私は生まれつき危機管理の考え方が好きで、悪いことを考えすぎてしまう。偏屈で、何か自分が勘違いしていると常に思ってしまうクセがある。だから冒険ができない。それも仕方ないと思う。冒険もいいが、海辺に家を建てるのはアホウだ。

子供達の成長のためには、工具を持って木を切ったり、ヤブを切り開いたりする経験は望ましいと思う。都会育ちで、受験勉強ばかりやっていたら、センスの部分で世界に通用しない気がする。キャンプではなく、開墾に近い体験は、一度はしたほうが良いと思う。でも、移住はリスクが大きい。

 

2012年8月 7日

モンスター上司(2011)

- 発想よし -

それぞれの職場で、上司にえげつない仕打ちを受けている3人組が、互いの上司殺害計画を実行する話・・・・

・・・・発想が良かった。殺しを企画しながら、マヌケなグループが大失敗を繰り返す、そんな話は今までの映画でも可笑しな話が多かった。返り討ちに遭ったり、思わぬところで強い相手が何か失敗して自滅してしまう意外性など、パターンは決まっているのだが、それでも可笑しい。

また、上司役も役者達がそれぞれ頑張って演じていたので、楽しい作品だった。敵となる人物が怖ろしく、しかも狡猾であればあるほど、主人公達が可哀相になってくる効果もある。常道のままやれば、必ず可笑しい映画になる。

中心の3人の個性が目立たない印象はあったが、「ハングオーバー」シリーズに近い笑いがあった。大物俳優が敵役を演じていたので、意外性もあった。画期的な笑いはなかったと思うが、適度に意外で、ほどよく下品な路線は外れではなかったと思う。

3人組の理想のパターンとして、一人は比較的まともだが気が弱い、一人は変態めいた趣味を持った男、一人はスケベと考えるのは適切な判断だったようにも思えたが、互いに過去の何かの経緯で恨みや不信感を持っていて、それがネックになって失敗するパターン、または高校時代の失敗をいまだに引きずって、それが原因でケンカになる、作戦に影響する、そんな設定もパターンのひとつだったと思う。それはなかった。

普通なら、作戦に失敗し、互いに罵り合い、「お前は高校の時もそうだったんだよ!だから出世しないんだ!」みたいなセリフを言い合うシーンが欲しい。激しい対立から、再び力を結集するシーンは良いと思うんだが・・・ そんなヒネリの面が少し検討不足だったのかも。

時間があればだが、主人公達が家庭でも虐げられ、鬼のような奥さんに怒鳴られ、子供にはバカにされ、救いようのない可哀相な状態であったほうが、観客の同情がより集まると思う。それもなかった。

この作品は子供には向かない。中学以上の子になら受けるし、悪影響も知れていると思うのだが。恋人と観る場合、お気楽な映画が好みなら結構いけるかもしれないが、基本的にばかばかしい作品なんで退屈する人、ギャグに付いていけない人も多いと思う。

最も目立っていたのはタフでいじわるなボスを演じるケヴィン・スペイシー。とことん部下をいじめ、嫌われ方が半端じゃないところが良かった。でも、よりリアルな路線を狙うなら、狡猾に立ち回って自分の上司には受けがよく、部下も上手に使い、なぜか信頼もされているという演出もありえたと思う。

少なくとも本物だったら、玄関先でいきなり銃を発砲したりはしない。目撃者がいないことは気にするはず。主人公のせいにしようと、わざと何か証拠物を落としたりして画策するほうが、よりイヤラシイ。 それに犯行を示唆されたら、さすがに刑務所が怖いからなんらかの怖れの表情を出すはず。いったんは怯んで、しかし持ち前のズルさで逆に主人公達を窮地に陥れる、その流れが足りなかった。二転三転する展開を徹底すべき。

お色気歯医者さんを演じたジェニファー・アニストンは、やや役柄と合っていない印象も受けた。悪魔のような怖いイメージのグラマー女優が高級コールガールを演じるような、どぎつい色気路線も良かったのでは?

 

 

 

2012年4月22日

モテキ(2011)

Photo

- 恋人との鑑賞は微妙 - 

久保ミツロウ氏原作のマンガの映画化。テレビでもやっていたらしい。ネット関連企業に勤める主人公が、様々な女性たちと知り合い・・・そして・・・ま、そんだけの話。

森山未來が演じた主人公は、まさに森山のはまり役。感動ものの存在感だった。ナレーションも演技も抜群に素晴らしい。ダンスを踊る時の表情がおかしい。彼なくして、この企画は成立し得ない。

もっと見栄えのするタレントが主人公だったら、あんまり笑えない。嘘っぽい喜劇になってしまう。彼しかいない。

カラオケやBGMと連動した映画の作り方がおかしい。パフュームが突然のように飛び入りで参加する無茶な設定も、この作品なら許せる。飲み会やカラオケの雰囲気が90年代~2010年くらいを再現しているかのよう。そつのないギャグが、独特のユーモアを感じさせる。

麻生久美子、中里依紗の演技も非常に素晴らしかった。30過ぎのOLやシングルマザーの雰囲気、言いそうなセリフ、しそうな表情が実に見事に再現されていた。作者は女性らしいが、女性ならではの視点による鋭さもあったかもしれない。

長澤まさみがヒロインだったが、最初どうも笑い方が気になった。笑顔が魅力的な美人というイメージで演出してあったようだが、さすがに笑い過ぎではなかったか?この作品は、意外にもリアルな会話、現代の若者の実態に即した状態が大事なんで、少しやり過ぎだったような気がした。

現状の問題が渦巻く中で、主人公だけ漫画的なシチュエーションというのが、おかしさにつながる条件だと思う。長澤が早い段階から悲劇のヒロインとして設定されていたら、悲しい中で懸命に笑顔を浮かべる凄いヒロインになっていたのでは?映画的な盛り上がりを期待するなら、それが常道。でも、真面目路線は、現代の若者を題材にする場合は娯楽の範囲を超えてしまう。

ひょっとしてだが、吉高由里子に非常にノリの良い娘を演じてもらったほうが盛り上がったのではないか? どこの職場にもいるだろう、とことん突き抜けた陽気な娘。そんな娘が、実は・・・という流れなら、バカみたいに陽気なほうが良い。それなら吉高だ。長澤は正統派美人、イメージが異なる。

ラストの設定が予想に反していた。ギャグで終われなかったのか?確かに終わり方が難しい映画だったと思う。

この作品は、20~40歳くらいの独身には必ず受けを狙える作品ではないか?少なくとも、たいていは共感する部分があると思う。子供にはマズそうな印象。やはり主人公は頼りないし、情けない言動をとっている。変な影響を受けては困る。家族で観るような作品ではない。

恋人とどう観るか、その辺も非常に微妙。もしかするとだが、別れ話のきっかけになりかねないヤバイ内容もある気がする。笑って済ませれば良いが、笑いながらも相手の目だけは笑ってないケースも大いに考えられる。

そのようなことが気になるのは、この作品のレベルが高いからだろう。リアルな部分、時代の雰囲気を正確に表現している面が確かに感じられる。全体が真面目に分析していると生真面目な映画になって面白くないが、ギャグに満ちた中に鋭い面があるとハッとする。センスが良いスタッフが揃っていたのでは?

セリフが辛辣で、かつリアル。主人公が言う「・・・ってゆうか、年収200万ちょっとじゃ、普通結婚できないっしょ。」などは、身につまされる。今は低収入に甘んじなければならない人も多い。収入がなければ、結婚は考えられないと思うのも解る。カラオケなどの安い遊びで憂さを晴らす、そんなんじゃ可哀想だが、現実だから仕方ない。

街中で携帯をじっと眺めていじっている人をよく見かけるが、忙しい人は携帯に時間をさけない。基本的に暇な人間が、場合によっては本当に他に何もすることがなくて扱っていることも考えられる。ケータイへの依存度が高いことは、仕事に邁進できないせいもあるかも。

遊ぶ暇もない早い時期に結婚させて、子育ては国家がバックアップすることが本当は望まれる。子供を作る個人の余裕がないので、社会が助けないといけない時代だと思う。若者の努力だけに期待することは、我々世代には許されない。自助努力に限界がある。我々の世代はたまたま恵まれていただけなのだ。

彼らの人生設計を成り立たせるためには、既得権にメスを入れるしかない。消費税が上がったら、買物が多い若い世代ほど影響を受けそう。いったん払っても、低所得者の場合は税金が返ってくるシステムが望まれる。そして本来なら、資産額や会社の規模と責任に応じた、別な税のほうが望ましい。

登場人物の行動で理解できなかったのは、ツイッターの使い方。いかにネット関連会社勤務とは言え、仕事中に閲覧するのは基本的にはマズイ。時間外もスマートホンに縛られている。ケータイにかかりっきりの時間が増えると、実社会から遊離してしまわないか?

飲み会もヒドイ。作品の中の人物達は仕事してんのか?

20台の頃は私も頻繁に町に出てたが、金が心配だった。金が入り出すと、今度は時間的余裕がない。恋愛対象も少なかった。自分を卑下しすぎていたのか、自分と付き合う相手が気の毒に思えてならないから、声もかけられない。後悔している。素晴らしい娘さん達がたくさんいたのに。

できれ私もモテキに浸りたかったが、自分で自分の魅力を実感できない → つまり自信がなかった。この世に絶望してヤケクソだったし、甲斐性もなかった。主人公も、多くの若者もそうかも知れない。でも今思うに、何か成し遂げ、自信をつけ、何かのメドが立ったらなどと考えるべきではなかった。

私なんて、とうとう魅力が身につかないままだったのだから。反省するばかりだが、そう思う。

 

 

 

2012年3月 6日

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(2011)

- 復帰、復興の物語  -

9・11テロのため父親を失った少年が謎のカギを見つけ、その意味を探る物語。ジョナサン・サフラン・フォアという作家原作の小説の映画化。

アイディアが詰まっていてレベルが非常に高い。この作品でオスカーが取れなければ、オスカーの意味がないとすら思える作品。・・・ところが、取れなかったのだ!公開の時期のせいか、何か業界の裏事情のせいか?素晴らしい作品なのに。

やや難解な作品とは思う。子供には解り辛いから大人向き。恋人と観ても悪くない作品だとは思うが、基本的に恋には関係ない話。静かで高級な作品を観たいカップルに限定される映画であろう。楽しくはないが、ユーモアはある映画。

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主人公の少年はエキセントリックそうな表情が上手かった。上の写真のようにタンバリンを持って歩く姿がおかしかったが、あれは好感を持たせる良い小道具だった。セントラルパークは、まるで山脈の合い間の湿地帯のような風景で、実に美しい。

トム・ハンクス演じる父親は良い役だった。それゆえ、かえって目立たなかった。もう少しギャグが得意な役者だったら、主人公を徹底的に笑わせ、それが後で逆に悲しみを誘うという流れもあったかもしれない。トム・ハンクスは主人公の年齢の子供にはやや年上すぎて、ほとんどお爺ちゃんに近い。

もしくは、ヒーロー映画で活躍していた俳優なども、イメージの違いが強調されて印象に残るかもしれない。

母親役のサンドラ・ブロックは役としては難しかったはずだが、見事な演技ぶり。派手に泣き崩れない、怒り過ぎて叫んだりして目立ち過ぎない、主人公への愛情と配慮あふれる対応を演じきっていた。父親と比べて、やや引いた立場なのがいい。

うるさくて近いものとは?あっさり言ってしまえば、おそらくは家族や自分を取り巻くものを意味すると思えるが、深く考えると様々な解釈が可能な、奥行きのあるタイトル。障害者ならではの表現とも思える。障害を持つ人物を主人公にして、彼なりの理解で彼なりに語らせるというアイディアが、ある意味では成功の”カギ”だったようだ。

extremely 、incrediblyといった表現は、あちらでもオーバー気味な表現ではないかと思う。多用すれば発達障害や極端な個性の人物をイメージさせる。そのような人物なら、よく話すという行為も非常にうるさい、親密な関係も信じがたいほど親しいといった表現になる。障害者や子供に語らせるのは、強調して表現する際の文芸上の常套手段であるとも思うが、テーマには最適の手法だった。うまく表現できない、整理して冷静に話すことが難しい場合の表現方法が、主人公の特徴を表す。

あれは誰も頭を整理できないような、本当にありえない事件だったのだから。

劇の中で母親も言っていた。本当に理解できない。なぜ航空機でビルに突っ込んだりするのか、それによって肉親を失わないといけないのか。解説など無理だ。想像を絶するテロ計画が象徴的な場所で起こり、しかもテロリストさえ予測できなかったほどの劇的な破壊を生んでしまった。我々もアメリカ国民も、頭を整理できなかったはず。

9・11の事故当日、主人公が留守番電話を聞く情景が何度も繰り返し出てきた。最後に、録音の6回目に相当する電話に対しての主人公の反応が再現されたが、普通の少年でも対処の仕方に困惑しそうな怖ろしい状況、主人公のトラウマになりそうなことが容易に解った。

ただし、この作品の手法は、もっと別もありえたような気がする。かなりの部分を時系列で描くことも可能だったのでは?時系列で描くメリットは、解りやすくなること。繰り返し事故当日に戻ることは、謎解きや盛り上げには有効な手法だが、解りにくくなりやすいという欠点もある。原作の構成に従ったのかも知れないが、映画では説明に限界があるので、可能な限り単純化すべき。

設定の無理も感じた。

主人公の母親は、昼間主人公が尋ねそうな場所に行くことが可能だったろうか?もし主人公が帰ってきた時間に誰もいない、緊急の際に連絡が取れない、そんな心配を考えると、自分があちこち訪ねるのは危険であると考えるほうが自然。

事故の犠牲者には保険が降りたのではないかと思うが、生活の心配が全くないほどの金額だったのだろうか?宝石店の借金はなかったのか?生計がどのようになっていたのか?自分の仕事を辞めていたのか?そのへんは解らないまま。したがって、母親の行動は物語のために作られた話・・・という印象を残してしまった。

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失語症らしい間借り人が、その状態でアメリカに移住し、生計を立てていくことは容易だったのだろうか?特色ある人物を作るために無理な設定をしたのではないかという印象を与えてしまわないか?失語症は必須の設定だったのだろうか?

母国で両親を空襲で亡くしたことと9・11を連想させるためには有効だとは思うが、必須だったのか?私なら、「ああ~」「うう~」といったうなる声ぐらいは発声して、あんまり落ち着いてない病的な人物のほうが間借り人のイメージに合致するような気もした。

何の変哲もない花瓶、しかも何かのカギが入った状態で、なぜ主人公の父親がそれを手にしたのかもよく解らなかった。主人公に謎解きをさせるため?私の感覚では、遺品を購入するのは気味が悪いしゴミが増えるから、宝石装飾品程度の大きさの物ならともかく、花瓶なんぞは絶対に入手しない類のものだと思う。しかもカギはジャマだから、捨ててからオークションに出すだろう。あくまで私としてはだが、そもそもが無理な設定だと感じた。花瓶以外なら可能かも。

私自身も多少の発達障害があると思うが、よく解らない。

子供の頃は、いっしょに遊んで心から楽しめる友人が多数いた。だんだん違いが気になり、何か遠慮したりするようになる。進路が全く違ったら、何か住む世界が違うかのように疎遠になる。たまに遭うと、かっての友人達と居ても居心地が悪い気になる。私の何かの障害のせいだろう。

多くの人が状況を誤認している気もしてならない。思い上がった考え方だろうが、誤認が大勢を占める中で正しい認識をすると、居心地が悪くなることはないだろうか。

原発が解りやすい例だが、事故管理が不充分なことは明らかになった。対応がおかしい原因は、認識の仕方にあるように思う。事故でテンパッた状態になって対応できなかったという調査報告が最近出されていたが、事前のマニュアルが実地で使えないレベルのものだったのだろう。菅総理が何を言おうと、マニュアルで対応できないといけない。

充分な対応策を作らないで運営してきたこと、そもそも建設の仕方、導入の経緯、総理のせいにしようとする安易な態度、何から何まで低レベルだった。そんな会社、そんな役人、政治家や学者達を選んできた我々自身が、誤認ばっかり繰り返してきた。つまり、認識障害があったのだと思う。それは、それこそ信じがたいほどに。

居心地よく過ごせたのは、心から誤認していたか気にしないように努めていたからか。どちらも罪悪に通じるような・・・・

我が子の一人は発達障害者。引きこもりに近い状態だが、彼は家族や他人とどのような態度で接してよいのか解らないようだ。話はできるし、難しい試験問題に挑戦することもできるが、理解の仕方は独特で、アスペルガー症候群に近い病状。

障害を治癒させることは難しいから、折り合いをつけて、社会に最低限でも適応できる道を探すべきと考える。でも本人はそのようなアドバイスを受け付ける状態ではない。何か言っても能力的に理解できないから、怒っても仕方ない。説得、説明、治療、あらゆる対処を拒んだ状態だから、時期が来るのを待つしかない。最悪の結果が来ないことを祈る。

障害があると、人は持てる能力で状況を理解し、頭を整理しようとする。不必要な単語を使って表現し、不適当な解説をし、「ビルにいたのがお母さんなら良かった。」などと、不適切な言葉を発してしまう。必要もない記憶内容をベラベラ人に解説したりするが、それが障害になって問題解決されないのでなければ、とりあえず構わない。

やがて頭の中が整理されれば、社会活動も可能。主人公も、その母も、そして私の子も、被災者の方々も、あるべき姿になって欲しいと願う。

 

 

 

2012年1月30日

モンスターズ/地球外生命体(2010)

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- 子供用ではない -

メキシコに地球外からのモンスターが出現し、危険地帯が軍によって設定される。社長令嬢と、彼女を護送する役目を担ったカメラマンの旅を描いた作品。

間違いなく相当な傑作。予算が非常に安かったらしいが、そんな印象はほとんど受けないほどの演出の腕を感じた。

戦闘機が飛ぶシーンは、たぶんニカラグアなど南米で実際に町の上を戦闘機が飛び交っている場所を背景にしただけだろう。映画のために戦闘ヘリをチャーターするのが普通のハリウッドスタイルとは全く違った方法が採られたに違いない。きっと少年時代から映画を作ってきたような人物が、この作品を作ったんだろう。

それにしても、日常であのように街が破壊され、戦車がそこらに破棄されたまま、戦闘機は頭上を飛び交っている国とは、今の日本では考えられない、あきれた状態である。本物の凄さがあった。

監督はギャレス・エドワースという人らしい。本人が脚本も書いたようだが、日本語のセリフはやや表現内容に何かが足りないような印象を受けたものの、間がゆっくりした点や、ドキュメンタリー風の編集が緊迫感につながって、なかなか味のある雰囲気を出していた。とにかくセンスが良い。

親子の感情、恋人との仲違い、ラブ・ストーリーなどの要素がうまく盛り込まれていて感心する。

ロードムービーとしても王道に近い。色んなエピソードが主人公達の心の結びつきに影響していくことが丹念に描かれていたと思う。やみ雲に怪物が襲ってくるだけでは飽きてしまう。

怪物の出し方も良かった。あんなでかい怪物がいたら、昼間にさっさと爆撃されてたちまち退治されそうなものだから、荒唐無稽な話だと解ってはいるが、暗い場面でのっそり動くモンスターがかすかに見えると、何か神秘的な感じさえ受けてしまう。

モンスターは、だからもっと小さくて良かったかも知れない。動きが素早く、簡単に銃撃できないので、はびこってしまう。隠れるのが上手い。繁殖力がある。そのようなキャラクターの面での検討は足りなかったかもしれない。

現地の人として登場する人達は、驚いたことにほとんどが素人だったらしい。とてもそうとは思えないほどの芸達者ぶり。エイリアン達を壁画に描いている点は、ちょうど「第9地区」などでリアルさを演出していた手法だったようだが、ここでも有効。

しかし、この作品はたぶん子供にはそれほど受けないだろう。やはり子供は解りやすい怪物の実際の映像や、激しい爆撃、空中戦などを欲する。通好みといえる地味な映画は、たぶん喝采をあびるのは難しい。興行的に成功するためには、少し予算をかけてCGを使うべき原案だったのかもしれない。

その代わり、大人の観客には受けるはず。

この作品の監督の今後に期待したいが、このセンスはしかし、応用が可能だろうか?この作品で使ったアイディアは、作品を量産する場合には使えない。スピルバーグのような立場になるためには、別なアイディアと、やはりCGスタジオの助けが必要ではないかと思う。

2012年1月16日

もののけ島のナキ(2011)

鬼達は人間に追われて異次元の海に住んでいた。そこに人間の子供が侵入したことから起こる騒動を描いた作品。3Dではなかったようだが、立体感が抜群の映像。童話の「泣いた赤鬼」をモチーフにした物語。

長いこと劇場で宣伝はしていたが、公開が随分と遅れた印象。おそらく映画の企画から製作に至るまで、何かトラブルがあったのでは?もしくは、スタッフが主に日本人だったようなので、ドラエモンのように海外のスタジオで一気に作り上げるようなシステムがなかったということか?とにかく、宣伝を見出してから実物を見るまで、1年近くは過ぎていた。

費用のことを考えると、海外のスタジオに頼んだほうが圧倒的に安いに違いない。でも、国産の技術の維持、育成も大事。山崎貴監督達に限らず、こだわりをもつ映画人は多いのでは?

CG関係の技術にも、おそらく多くの特許が絡んでいるに違いない。CGは、いったん作ってしまうとコピーの要領でいくらでも似たような画像を作れる。人物の顔や姿を微妙に変えて、動きのバージョンはモーションキャプチャーで得た情報にインプット・・・といった具合で、ペンギンもライオンも同じ動作のダンスが踊れる、当然鬼も人間も同様に動き、泣ける、そんな情報がストックされれば、将来はパソコン上で多数の映画ができるし、”誰々編集バージョン”も可能になる。

「いやあ、スターウォーズの”白組”版は、本家のスターウォーズよりも自然だったね、感動したよ。」ってな時代も、権利が切れる頃(50年後?)には期待できるかも知れない。

よく出来ていた。人間達の造形はマンガチックに過ぎたかも知れないが、もっとリアルにすると動きが気になってくる。マンガに近いほうが、動きも自由にできると思う。立体感や、絵の細やかさが素晴らしい。森の上を鬼が飛ぶシーンの美しさは、海外のCG映画に近いレベル。

ただし、「アバター」のCGのような自然な動きには至っていない。

今では普通になってしまったが、波の動き、涙の流れ方から衣服に落ちた時の染込み方に至るまで、手を抜かずにやっている。3D映画だと眼が疲れてしまうが、この作品は専用のめがねが要らないから楽。それでも充分な立体感があったから、今後もこの方式がメジャーになってくれたほうが、自分には有り難い。

この作品は当然だが子供に向く。大人でも楽しめると思う。恋人と見に行く映画ではないと思うが、SMAPの香取君ファンの女子なら許してくれるかも。

Gunnjyou

キャラクター設定が少し気になった。原作の青鬼は、比較的物静かな、”黙って仕事をこなす”クールなタイプではなかったかと、これは個人の記憶なんだが思う。原作には、いくつかのバージョンがあるようだし、二人の鬼のキャラクターも本によって様々なようだが、少なくとも火をつけられて暴れるキャラクターではなかった。

そんな役割は、赤鬼と他の小さな物の怪達が演じれば良いはずである。青鬼は徹底してクールで、物静か。赤鬼を完全に騙し、本気で戦わせる仕事を見事にやってのける、そんな仕事人にして得がたい友人、そのキャラクターであって欲しかった。

もしくは赤鬼の危機を助ける、鬼達からも嫌われる赤鬼をかばう明確なエピソードをひとつだけでも挟んでおくべきだった。笑いなしに。そうなると、後半の二人の戦いは非情なものになる。

笑いの部分は、せっかくだから個性的な他の住民達に演じてもらえば良い。普通の考え方ならでは、役割を明確に分担すべきだった。現代ではクールな怪物は受け入れられない、全員がギャグに走らないといけないという確かな判断があったのか? たぶん、深い考えなしでやっちまったのでは?

さらにピクサー~ディズニー的な流れにするなら、鬼の中にも悪玉がいて、人間の子供を利用して何かを企もうとする、まんまと赤鬼達はワナにはまる、そして赤鬼青鬼の連係プレーで危機を逃れるってな調子の物語が好まれる。そうなると、もう長時間にわたる大河ドラマ・サーガの誕生だ。そんな物語はさすがに誰も期待しないと思うが・・・

 

 

2011年6月10日

モンタナの風に抱かれて(1998)

- 癒しの難しさ -

事故で片足を失った少女、体と心に変化を来たした馬。双方の傷をいやすことができるのは、ホース・ウィスパラーという特殊な技能を持つ男。彼を訪ねて、少女と母親がモンタナにやってくる・・・

・・・ロバート・レッドフォード62歳の頃の作品。製作、監督、主演をやっているから、意気込みのほどが解る。相当ヒットしたらしい。良い話だった。原題はそのまま「馬にささやく者」といった意味で、馬の調教~治療師のことらしい。実際にも、そんな仕事をする人がいるのかも。

日本語のタイトルも悪くはないかも知れないが、別にモンタナでなくても良いような気がするし、そのまま「馬にささやく人」でも良いのでは?その存在だけで面白いと思えるし、何か神秘的でいかにもスピリチュアルな雰囲気がする。

癒しの表現が素晴らしかった。簡単に解決しないこと、互いの信頼に傷がつきそうになること、美しい自然、それらが調和を持って描かれていた。

ただし、映画の話の流れとは関係ないが、あの美しい土地は絶対にインディアンの物だとも思える。白人達は権利を得て入植しているとは言っても、強引な契約によって得られた権利には違いない。インディアンにもささやく必要がある。

14歳のスカーレット・ヨハンソンの演技には驚く。傷ついて母親と口論する時の顔が実に自然だった。うちの娘も似たような顔つきをする。自己を主張する時の「権利~自由意志を守りたい」という戦いの姿勢が見て取れた。

母親とカーボーイの展開は、もしかすると過剰だったかも知れない。叙情的な作品にと思うなら、言いたくても何も言わず、ただ泣いて別れるほうが美しい話になったはず。ダンスくらいは良かったと思う。盛り上がるが、それこそが二人の唯一の愛の場であったと後で観客にわかるくらいがちょうど良い。

子供ともよく口論になる。先日もそうだった。次男が三男の頭をひじで打ちながら、自分の寝場所を広げようとしていたので、紙のパイプで作ったおもちゃで頭をたたいて「頭をたたくならお父さんがたたくぞ!」と怒ったら、泣き出して逃げようとした。

捕まえて、遊び半分で殴ったりしないこと、頭をたたかないこと、ストレスを人に向けないことなどを約束させた。その後、機嫌直しに兄弟いっしょに映画館に連れて行った。次男はふてくされないことが偉い。怒られると自分が子供の頃は数日は会話も嫌だったが、参らないところは凄い。反省の度合いも低いようだが・・・

足を失うような事故は、さすがに精神に影響するはず。なにげなく出歩くことも容易でなくなると考えたら、ぞっとする。「命が助かってよかったね。」などという言葉も本人には白々しく写るだろう。

我が家の子供達も心に傷をもっていることが窺える。自分が子供時代にもトラウマになりそうなことはたくさんあったが、運よく解消できた。でも子供達は、はつらつと問題に対処できていないようだ。心の問題だから、基本的には自分で解決してもらうしかない。

援助を期待されたら応じるくらいはできるが、能動的に解決しようとしても難しい。特に我が家の場合は何をするにしても母親が反対するし、反対だけじゃなく家事をサボタージュしたり子供に毒づいたりして、さらに子供を不安にさせるので、対処は無理。

怒るばかりではだめとは思うが、優しくするだけでもだめ。能動的に動くと母親が荒れて逆効果だし、子供も反発するし、効果的な手を打てない。

希望を持って今やれることをやるという姿勢を促したいが、相手のほうに答えられるだけの自我や自立心がないと理解はできまい。実際にどう話すかは難しい。いかに話すかより、子供自身がいかな情緒を持っているかのほうが大きく、親ができることには限度があるような気がしている。

 

 

2010年8月 6日

燃えよドラゴン(1973)

Burusu 

- このポスター何度見たことか -

日本でのブルース・リーの人気を決定づけたカンフー映画。衛星放送で鑑賞。

二級品の作り方だったが、面白く、見ごたえがある。公開時には観ることができなかったが噂は凄かったし、テレビなどでも度々紹介されるので、ストーリーまで知っていた。でも実際に見た時は、感動はしなかった。心から憧れるほどの完成度がない、所詮は二級品という印象を受けた。

でも、なぜか観た後は晴々とした気持ちになっていた。スカッとした。それが一番大事なんだろう。

アクションは素晴らしい。若い主人公の動きは確かに見栄えがする。でもアクションの最中に人形を平気で蹴飛ばしたりするので失笑する観客も多かった。撮影の技術、根本的な感覚のレベルがまだ完成されていない感じがする。

空手やカンフーでの戦いが売りになるという発想が、まだ当時の日本には希薄だったような気がする。打ち合わせをした組み手を見せても笑われるだけで、主人公がヒーローになることなど考えられない、主人公が真面目な顔をするとギャグにしかならないというのが当時の一般的な感覚。

この作品でもブルース・リーの表情は臭すぎると思う。でも、その中で時々自然に笑うシーンがあったり、共演者の立場をちゃんと解説してあったりの手順を守れているので、ギリギリだが滑稽な映画にはなっていない。一歩間違えると、他のカンフー映画のレベルに落ちそうなところで、ヒーロー映画に留まれたようだ。

スパイ物のような音楽、忍び込み捜査の面もあった。ジェームズ・ボンドよりも身軽そうだったが、彼ほどのモテかたはなく、色っぽい部分は共演者が果たしていた。キャラクターとしては真面目すぎる感じだが、クールなヒーローは当時のマンガでも流行りだった。

高倉健の映画は、我慢に我慢を重ねた主人公が、ついに敵の卑怯な行為に立ち向かう流れだった。我々は主人公に同情し、もういい!我慢しなくてよい!という気持ちになって、それでラストの戦いに感動できた。最初から敵を殺しまくっていたら、殺伐とした気持ちになるだろう。

前半で主人公は戦わない。それは基本だ。この映画でもそうだった。今のアクション映画は十分ごとにアクションという流れが多い。流行の分析によって、そうなっているのか?

Moeyo

鏡の部屋のアイディアは誰が決めたのか知らないが、不気味な緊張感を出して、一方的な殴り合いで終わらせない効果があった。

妹の復讐という感情的な色づけも抜かりがなかった。変な泣き顔で敵を倒した場面で、主人公の気持ちを理解できた。あれがないと、感情無しに戦う殺人者になってしまう。

変と言えば、アチョーの声は実に変だった。髪形もおかしい。アフロヘヤーをイメージしたのか?

「北斗の拳」のケンシロウ、「ドラゴンボール」のキャラクターたち、皆が影響を受けている。「アチョー」の声が「アタタタ」に変わったりはしても、影響は大きかったようだ。

中学校には誰かが兄貴のヌンチャクを借りて持ってきていた。教室の後ろでは「アチャー」「オチョー」と戦いが開催されていたが、ヌンチャクは扱い方が難しく、怪我するハメになっていた。そこで厚紙などで代用しようということになり、工作室の道具を勝手に使用して試作品を製作し、これでようやく実戦に使用可能な製品が出回ることになり、教室での戦いは盛り上がったのであった。

香港からハリウッドに進出してみようという感覚が素晴らしい。スタッフの皆が野心家で、将来を展望する能力に長けていたようだ。

日本映画のチャンバラ、千葉真一のアクションなどが受け入れられるなら、カンフーも当然ヒットが狙えると考えるのは自然だ。ブルース・リー以前にも進出をした映画人はいたはずだ。よいストーリーと、ある程度鑑賞に耐えられる撮影、編集が備われば、ブームの下地はあったと思う。でも、それを実際に成し遂げるのは大したものだ。

香港からスタッフを招いてくれたハリウッドの製作者達も偉かった。「これはイケル。」という判断をできる人間がいたからこそ、映画ができたわけだ。

今の格闘シーンは、この時代よりリアルになっている。ヒーローが一方的に多数の敵をなぎ倒すことは稀だ。組み付かれたり、ある程度殴られたりしながら、徐々に勝利に持っていくスタイルが多い。ジャッキー・チェンの頃からヒーローもかなり殴られていた。リアルさを出さないと、失笑を買ってしまうから当然だ。

たぶん今後はもっとリアルになっていくに違いない。パワーを表現する技術が進んで、実際に殴り合っているとしか思えない格闘シーンが描かれるに違いない。「アバター」では怪物たちが攻撃してくる様子をCGで上手く表現できていたのだから、これから先は完全にCGになっていくのかも知れない。役者のモーション・ピクチャーすらない、最初からCGだけのカンフー映画も、そのうちできるだろう。

格闘技の動きの面では昔のジェット・リーが最高のレベルに達していたと思う。特にまだ若い頃の「少林寺」では、見た目の美しさに関しては完璧だった。ブルース・リーは戦いの仕方がちょっと違う。アメリカナイズされたステップで、ボクシングなどの要素も取り入れた競技会のようなノリのカッコづけた演武である。あれがないと、アメリカでは理解されなかったかもしれない。

 

 

 

2010年3月10日

モンスター・vs・エイリアン(2009)

- シリアス路線が懐かしい -

主人公の女は近々結婚を控えて幸せの絶頂にあった。ところが突然隕石が落下し彼女を直撃。彼女は不思議なパワーを浴びて体が巨大化してしまう。そして彼女は軍の秘密基地に連れて行かれ、あわれ化け物軍団の一員になってしまう。そこに宇宙からエイリアンがやってくる。目的は彼女のパワーを手に入れ、地球を侵略すること。モンスター軍団が出動するが・・・

アイディアが良かった。CGはドリームワークスがやっているようだ。過去に恐怖映画の怪物役だった連中が、皆ドジで人間性あふれる怪物として登場していた。特にアメーバ役がボケ係として活躍しており、つなぎ役として話のテンポを出していたようだ。

モスラ映画に対してパテント料を払ったかどうか知らないが、決定的な威力を持つ仲間として大事な役割を果たしていたから、何かコメントくらい必要では?半漁人は戦いでは役に立たなかったが、キャラクターとしては魅力的だった。もっと出しゃばって嫌われたり、大きなミスをしたりしても良かったかも。

最近ドリームワークスの映画で気になるのは、登場人物たちのキャラクターが子供用に設定してあるようで、人間の顔が無理して漫画チックになっていることだ。人間だけは大人用に自然にすることも簡単にできるはずだが、子供が主に見るだろうと考えているようだ。

大人も見ると思う。さすがに今のようなマンガチックな顔では飽きてくる。シュレックやバズ・ライトイヤーなどのように最初から人間でないキャラクターでは気にならなかった顔の表情が、人間だと気になる。「よくできたCGだなあ」とは思えなくなっている。それくらいなら、最初からアニメでもよいのではないか?アニメのほうが、かえって自然さが出る。

宮崎駿の作品が近年のアニメに帰ろうという動きをしたのは、まさにこのような考え方によるのかもしれない。コンピューターを使った視覚的効果も最初は新鮮だったが、やがて慣れてしまうと味が失せる。さらなる進化を遂げないと、幼稚さだけが鼻につくという結果になる。徹底的に技術を進化させるか、もしくは原点に帰るほうがよい。

意外に子供も似たようなことを感じているはずだ。子供向けという感覚は、実は映画には必要ないと思うくらいだ。子供は大人になりたい、大人のような感覚に慣れたいという潜在的な欲求があるので、不必要に難解で内容が解るか解らないかギリギリの時に満足するものだ。

だから普通に作ればいいと思う。受けを狙って子供映画にする必要はないかもしれない。大真面目に感動を狙ってもいい。メロドラマにしても良いくらいだと思う。主人公が自分の運命を呪い涙しながら、怒りをこめてエイリアンと戦えば、ある種の感動が得られるのだ。ワンワン泣く子もいるだろう。そこを狙うべきではなかったか?

そう言えば、「どろろ」や「デビルマン」などには笑いの要素が少なかった。途中でわずかにギャグめいたシーンがあるにはあったが、本当に気味の悪いシーンのほうが多かった。敵の化け物に同情さえ感じるような場面もあった。逆説的な視点が結構心に残る要素なんだと私は思う。

 

 

 

2008年1月20日

もしも昨日が選べたら(2006)

- 手慣れた手腕を感じました -

始まった途端に結末が解りました。でも、この作品に限り悪いことではないと思います。陳腐なストーリーの映画は、安心して観れるという良い面もあります。ホームドラマを観ているような感覚で、お約束のギャグで笑い、ラストでは泣けました。

脚本家が「ブルース・オールマイティ」と同じで、そう言えば作品の雰囲気も同じで、夢のような力を手に入れた主人公がまき起こす冒険、トラブルをギャグを織り交ぜて映像化していました。こちらの作品のほうが特撮効果は練ってあったようで、肥満体になる時のメーキャップ、過去の場面を見るときのCG画像の処理は非常に進んでいました。スピルバーグ監督の作品と差がないくらいの高い完成度だったように感じました。

この作品は、でも大人向けでしょう。ぬいぐるみに犬が挑んでいる姿が頻繁にでていましたが、小さい子供への影響は「?」です。恋人と観るには、最高の作品かも知れません。ギャグが汚すぎないし、テンポ良く話が進みますから、ほとんどのカップルが退屈しないで楽しめると思います。

主人公のアダム・サンドラーがサタデー・ナイト・ライブ出身のためか、共演者が喜劇映画で頻繁に見かける人達でした。主人公の奥さんの友人役ジェニファー・クーリッジと社長秘書のスタイルの良い女の子は、「最愛絶叫計画」で共演していました。スタイルの良い女優はソフィー・モンクという娘ですが、目つきが厳しくて色っぽいけど喜劇的でネコのような雰囲気が、いかにもエッチな雰囲気を出しています。

アダム・サンドラーのギャグの時の力は素晴らしいものでした。ジム・キャリーのような顔芸はないかもしれませんが、総合的には彼よりも上かも知れません。何となくいい人じゃないかという雰囲気がにじみ出て、非常に魅力的でした。やや毒が少なめなのは、最近のコメディアンには珍しいキャラクターです。下手すると簡単に消えてしまう可能性もありますが・・・。

奥さん役は好感度の高い旬の女優を選んでありました。良いキャスティングでした。色っぽすぎても勇ましすぎてもダメで、好感を持ってもらわないといけない難しい役でしたが、うまく演じていました。

コメディアンが毒々しくなく、しかもラストでしんみりさせるのは、ちょうどチャップリン映画のパターンです。笑わせて親近感を充分持った観客は、コメディアンの不幸に心から同情します。あまりにも毒々しい俳優には難しいことです。将来、彼の主演で凄い傑作な悲劇~喜劇を作れそうな予感がします。

特殊メイクは、有名なリック・ベイカーが担当していましたが、太った時の肉のつけ方、肉質などは本当に見事でした。しかもメイキングビデオを見ていたら、必要に応じてデブの実写に顔だけ合成したりしていたそうで、恐れ入りました。主人公以外の人が止まった状態の映像も、実に自然でした。

SF大作ではないマイナー気味の映画、と言ったら失礼ですが、このような作品に、素晴らしいテクニックを導入して、見事な映像を作り出せることに感動します。技術者の底力があるから、できることでしょう。

 

 

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