映画評

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カテゴリー「ま」の55件の記事

2017年5月11日

マグノリア(1999)

Magnolia

- New Line ~Warner -

末期癌患者、その家族、クイズ番組に翻弄される少年、孤独な警官など、心に問題を抱える人々が入り乱れて登場するグランドホテル・スタイルの物語。DVDで鑑賞。   

それぞれの人物の演技が非常に上手く、演出も適切で、役者にも監督にも大変な才能を感じる。音楽の使い方も素晴らしく、その方面のセンス、おそらく監督自身のミュージシャンとしてのセンスも鋭どそうな印象を受ける。 

ユーモアのセンスも感じる。ドジな人間がやりそうな失敗、あせった表情が的確に伝わる。表情に注目すべき時はちゃんとアップし、背景として写っているだけのシーンでも、中心の人物の話に反応して後の人物が仕草を変えている様子が、ピンぼけ状態でもちゃんと分かるように演出されている。表現力が確か。

そもそもストーリーは監督のオリジナルらしい。神をイメージさせる流れは、作品のレベルを上げているように感じた。ただの群像劇だけでは、感動することはできない。運命や教訓をイメージさせるために、良い設定をしていたと思う。

いっぽうで全体的な流れの統一性や、話のつながり、最終的な盛り上がりには何か不足する部分があって、最高の出来映えには至らなかったような気もした。冗長になってしまっていた。

それに、この作品は子供向きの表現でない部分もあり、家族で鑑賞するタイプの映画ではないと思う。セリフには酷いスラング言葉も多かったようで、ほとんど理解できなかった。テーマとしては子供の心に関しての配慮を示唆する面があり、真摯な内容ではあったと思うのだが、作品は大人向きであった。

トム・クルーズが怪しげな啓蒙者を演じていた。自信たっぷりにプレゼンをこなすようなタイプの人物を演じさせると、若い頃の彼は非常に上手い。しかも、失敗して茫然自失するシーンがあると、そのギャップを明確に演じることができている。その鮮やかな対比の演じ分けが、彼独特だ。

ヤク中の娘を演じた女優さんや、末期癌で死ぬ寸前の患者を演じたジェイソン・ロバーツなどが、いつもにも増して非常に上手かった。名演技が多かったから、役者個人の能力だけじゃなく、演出法も良かったに違いない。

臨終のシーンがあったので、自分が死ぬときのことを考えた。

劇場主は家内に謝ることは多くないと勝手に思っているのだが、日常の態度に関しては問題がある。家内の無茶な行動を腹に据えかねて、無視したり冷たい態度をとったりすることが多いから、人として謝らないといけないだろう。でも、じゃあ今すぐに謝ったらどうかと言われると、今は嫌だと感じるのだが・・・

劇場主は、親の臨終に立ち会えなかった。遠方にいたし、仕事場を離れることが難しい上に、両親とも急変したので無理だった。幸い、意識がしっかりしているうちに生前のことへの感謝を伝えていたから、意識を失った後に会えなくても諦めがついた。一緒に暮らしていないなら、仕方ないのかと思う。

自分が死ぬときも、必ずしも子供達に集まって欲しいとは思わない。むしろ皆が忙しく、仕事で時間を取れずに集まれないまま、病院か施設のスタッフに看送ってもらったほうが幸せかも知れない。それだけ責任のある人間を育てることができたなら、そのほうが意義のある人生だったと言える。もし意識のある間に話ができているのなら、ひっそり死んで迷惑を最小限にできたほうが幸せかもと思う。

ただし、現実は随分違ってくるかも知れない。その時になってみないと分からない。

 

 

2016年12月10日

マネー・モンスター(2016)

Money_monstar

- 疑心暗鬼 -

投資に関する番組コーナーが、爆弾を持つ男にジャックされた。犯人は番組のせいで自分が破産したと言う。株の暴落について、会社のCEOに詰問するつもりだったようだが・・・・

・・・・監督はジョディ・フォスターだという。そう言えば彼女が主演した「フライト・プラン」のような空気が続き、謎解き、犯人捜しが進む流れも、よく似ていた。自分の出演作を参考にしたのかも知れない。いつのまにか監督業もこなすようになって、この作品はちゃんと玄人の出来映えに感じた。

アイディアが良かったのだろう。ジム・カウフといった人達が原案を考え、専門の脚本家達がチームで仕上げたようだ。主演のジョージ・クルーニーの演技も、最近の彼の作品の中では最も役柄に合っていたように感じた。ジュリア・ロバーツは脇役に近い役どころだったが、存在感は充分だった。

カトリーナ・バルフという美しい女優さんが非常に良い役どころを演じていた。もろにモデル体型なので、一般的な役は演じにくいだろうが、こんな役には最適だ。今後はどうだろうか?演技力や、存在感はよく分からなかった。

残念だったのは、敵役。役者の問題と言うより。演出の問題ではなかったかと思う。とことん憎々しく、しぶとく、抜け目なく演じて欲しかった。犯人から上手に逃げ、主人公達を困らせる必要があり、捕まっても自分だけは生き残ろうと汚い手段をとる、逆転勝利を目指す・・・そんな描き方が欲しかった。

また、最初の段階で、およそラストの展開が読めてしまったので、もう一工夫必要だったのかも知れない。何かの逆転劇、裏切り行為、ワナなど、予想を超えるものが欲しかった。主人公の苦悩、人間性、行為の必然性などが滲み出るような設定もできたのではなかろうか?

今日の株取引は、かなり自動化されているという。高速の取り引きで、どのようなメリットがあるのかすら劇場主には理解できないが、株価の変動のパターンから、次の展開を読むためには、人間の感性だけでは不安があり、対処も遅れるし、コンピューターの解析は参考になると思う。ただし、害も多いだろう。

例えばもし中国経済が著しく衰退する危険性が出た時、噂で不安になった一部の投資家達が売りに出たら、コンピューターはどのように反応するのだろうか?売りの勢いをさらに加速させるのではないか?すると、恐慌をより深刻化させることになる。人より先に売り抜けようと、凄いスピードで売られたら、市場や政府が対応できないかも知れない。

他の会社のソフトの特徴を把握できれば、ワナにかけて損失を生じさせ、その会社の株を空売りしたりすることも可能ではなかろうか?より悪質なソフトが、他の会社のソフトを利用し、証券会社ごと倒すような事象が生じるかも知れない。

先日、NHKドキュメンタリーで「シリーズ・マネー・ワールド」を観た。今は資本主義のシステムに皆が疑問を持ち、あらたなルール、新しい技術を心待ちしている時代だ。トマ・ピケティ教授や、ハラリ教授の本を読むと、我々が勘違いしていた部分に気づく。このままではいけないのだろうと、皆も疑心暗鬼になっているはずだ。

そんな心情の中で、実際の景気後退が明らかになる何かが起こり、予想通り政府も国際機関も手詰まりと判断されたら、どうなるだろうか?リーマン・ショックの時は、予想された破綻がやってきて、過去に有効だった手段が予定通り採られ、それなりに乗り越えた。今度はどうだろうか?

 

 

2016年9月20日

マキシマム・リスク(1996)

Maximum_risk

- スタイル違い -

逃走していた男が殺される。しかし男には双子の兄がおり、弟の死因を探るために、あえて敵の本拠地に向かうこととなった・・・・

・・・・8月28日、衛星放送で鑑賞。ジャン・クロード・バンダム主演のアクション映画。舞台は南フランスとニューヨーク。ロシア系マフィアとFBIを相手に、主人公が活劇を繰り広げていた。

まさに活劇だった。監督が香港出身だったせいか、ハリウッドとはスタイルの違うアクション、展開だったように思う。微妙な違いなのだが、たとえば冒頭の逃走シーンは、ハリウッドならあっさり終わるだろう。合理的に考えて、亡くなっていく兄弟は直ぐ死んだほうが都合が良いから。

しかし香港製では、おそらく懸命に逃げようとしたことが分かるようにといった判断があるのか、かなり長めに描かれる。どうみても彼が主人公であり、ここで彼は逃げ果せるだろうという風に見せて裏切る・・・そんな演出を好むのか?

ラスト近くで同僚の刑事がつかまって人質にされるシーンがある。実にいきなり、何の説明もなく、同僚が簡単に捕まっていたが、あれはテレビのために短縮された編集の問題だろうか?独特の省略が、互いの映画界の約束事で決まっているようには思えるのだが・・・

アクションの描き方も、たとえば今のジェイソン・ステイサムとは違う。カメラの位置や、シーンが切り替わるタイミングが今よりも遅めに感じる。テンポが遅めだったようだ。何が変わったのか、テンポだけかカメラ配置や編集スタイルか、よくは分からないが、今の流行と比べると時代遅れに感じてしまう。

敵役のあり方も何か独特のものを感じた。普通のパターンなら、ずる賢い性格異常者のような怖い首領、腕力抜群の殺し屋、手下にドジなヤツがいる、などがお約束のパターン。殺し屋はなかなか迫力のある人物だったが、他は約束から外れていた。

今回の敵の首領には、もう一段上の首領がいて、ちょっとだけ登場して、怖さが分からないまま直ぐ消えていくのだが、あまり意味のない存在だったように思う。上役の上役などと複雑になるからには、それだけの理由が欲しい。登場する必要のない人物は、最初から出ないほうが良い。

ナターシャ・ヘンストリッジが出演してヒロイン役をやっていた。あらためて思うに、彼女は猛烈な美人であるのに表情が分かりにくい。同じようなモデル体型の女優であるキム・ベイシンガーやミラ・ジョボビッチと比べると、恐怖の表現力などに違いがあるように感じられる。少なくとも日本人の感覚では、分かりにくい表情。

おそらく、この作品のヒロインは、凄い美人である必要はないが、恐怖の表情が分かりやすいことが絶対条件だったと思う。体型は多少くずれていても構わない。好感が持たれて、逃げ惑う際の怖さが分かれば、きっと観客は納得できたと思う。そんな点で、企画の進め方に、何かの問題があったはず。

この作品は、おそらく家族で楽しめる映画ではなくなっているように思う。時間つぶしのための映画ではないか?

 

 

 

2016年9月17日

マイ・ファニー・レディ(2014)

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- 映画通的発想 -

新進女優がインタビューを受ける形式で、舞台監督、役者、コールガール、客、恋人、奥さん連中が入り乱れるバトルを描いた作品。ボグダノビッチが監督していた。DVDで鑑賞。ビデオ屋に置かれていた棚での扱いは控えめだった。タイトルも興味を惹くものではないと思う。でも、非常に面白い喜劇。

ヒロインのイモージェン・プーツという女優さんが素晴らしかった。意味ありげな目配せを多用した表情が、いかにも過去にコールガール業をやっていた雰囲気を出して、かなり嘘っぽく、しかも完全なプロではない素人っぽさを自然に表現して、大変に魅力的だった。彼女の過去の出演作を観た記憶がなかったが、どこかで観たような印象もあり、そう感じたのは過去にコールガールを演じた他の女優達の表現を、彼女が参考にしていたせいかも知れない。

目くばせが大事だったようだ。そこを考えると、アマンダ・サイフリッドなども、この役に向いていたかも知れない。目の表情が生きてくるはずだ。彼女ならネーム・バリューでもっと作品が売れたかも知れない。あるいはもっと大物の、大御所的な女優でも良いかも。本当に過去が怪しそうな女優はいかがか?

中心となる人物は、オーウェン・ウィルソンが演じていた。この種の作品の、困り者の役には彼が最高だ。彼の役は監督の分身かも知れない。実体験がヒントになったという噂みたいな話もある。シャルル・ボワイエが映画で使った古いジョークをヒントにしていたが、あのアイディアも良かった。あれも実体験かも知れない。あんなセリフは、映画通が使いそうだ。

ジェニファー・アニストンという女優さんの魅力は、今まであまりピンと来ていなかったが、この作品での彼女は素晴らしい。一種の嫌われ役的な個性だが、表情を大きく変えずに演じた関係か、とても自然に思えた。自然だと笑いにつながる。無理なオーバーアクションだと、シラケにつながる。加減が素晴らしかった。

作品の着想は素晴らしかったが、登場人物が多すぎた印象もある。客である判事は電話の声だけではいけなかったか?繰り返し電話してくると笑える。私立探偵の老人も、必要性が薄かったように思う。ヒロインの両親も、声だけの出演で構わないはず。無駄に人を増やすと、ドタバタ劇として格を下げる面がある。収拾不能な状態を笑う意図から考えれば悪いことではないとしても、冷める観客が必ずいるだろう。

特に今回はインタビュー形式を進行の中心にしている。そこに、ドタバタ映画の様式を盛り込むと、観客の頭の中に混乱を生じるかも知れない。流れは大事である。三谷幸喜監督の作品にも多数の人物がドタバタするものが多いが、観客の疲れにつながりやすい点で、同じような危険性を持つかも知れない。

この作品は基本が色っぽい話なので、子供には向かない。家族での鑑賞は、多少マズイ内容。恋人との鑑賞には向いていると思う。爆笑に至れるかどうかは保証できないが、皆でワイワイ観るような状況なら、この作品はアクの少ない上質さを持つから、最適かも知れない。一人より、複数の人と観たほうが良い作品。

 

 

2016年8月24日

マネー・ショート 華麗なる大逆転(2015)

Paramount

- 華麗と言える? -

サブプライムローンが破綻する可能性に気づいた人達が、空売りを試みる。しかし、業界に株価維持の思惑が働き、予想した下落が来ない。彼らは危機に瀕する・・・・

・・・DVDで鑑賞。この作品はスター達がそろって出演しているのだが、劇場では公開されたのかすら知らない。テーマが日本人にはマイナーな分野に感じられるし、娯楽性に満ちた作り方をしていなかったので、おそらく輸入業者も興業的に期待できなかったのではなかろうか?

分かりにくい構成だった。誰が主人公なのか、曖昧ではなかったろうか?いちおう最も先に問題を把握したマイケル・バーリが主人公だろうと思うが、彼の影響で空売りをする連中は、彼と直接の接点がない。彼ら同士の交流は、この業界では情報を漏らすことに通じたり、インサイダー取り引きと疑われて危険だからできなかったとは思うが、接点がないと物語にならない。その点が、分かりにくくなった理由ではないか?

そして、ブラッド・ピットが演じた元証券マンは、存在理由が分からなかった。印象的な人物で、業界の問題点を端的に解説してくれてはいたが、本筋からは外れた存在だと思う。彼と、若い二人のトレーダー達も、この物語に登場しなくて構わなかったと思う。登場人物を絞り、対決させ、勝敗を描くのが原則だろう。

敵味方を作り、互いに討論させ、互いが危機に陥り、出し抜き、戦う、そんな関係を描くほうが絶対に盛り上がる。登場人物が妙に観客に向かって解説をしたり、有名人が例をあげて説明したりしていたが、作品の質を損なう手法だったと思う。完全な喜劇の場合は有効な方法でも、この作品の質を考えると絶対に避けるべき手法のはず。

つまり監督は・・・サブプライム業界と同じように、本質から外れた思考パターンで、この作品を作ってしまったのか!

バーリ氏と、スティブ・カレルが演じた証券マンは、異常者と言えるほど独特の個性の人間だった。両者の病状は違うが、発達障害の何かは確実にあって、興味のない対象には非礼な行為を気にしない。仕事柄そうなるだろうが、冷酷と言っても良い。実像がどうかは分からないが、天才肌の人物として、映画的な観点に立てば魅力的と言える個性だった。でも一般的な感覚では華麗でも、魅力的でもないだろう。

サブプライムローンの危機については、2005年くらいから雑誌で報じられていた。なのに数年経っても大きな景気の変化がないので、米国政府が手を回して解決したのかな?くらいの甘い考えで、劇場主は忘れてしまっていた。すぐに業界が崩壊しなかった理由は、多数の株屋の思惑買いなどが働いていたのだろうか?

東洋の田舎の素人でさえ知っていたこと。米国の株屋が気にしないはずはない。おそらく買い支える勢力と、空売り勢力、利益確定したい勢力がしのぎ合いを演じていたのでは?破綻がいよいよ明らかになり、株価に影響しても、劇場主には影響がほとんどない。あまり興味を持たないまま、浅ましい株屋をちょっと軽蔑しつつ見ていた。100年に一度の変動?・・・そんなはずはないよと思っていた。

だが、問題の本質や、その影響については考え直さないといけない。この作品でも低所得者の住人が出てきて、自分が家を手放さないといけないことを人に言われて初めて認識していたが、彼のように犠牲になる社会的弱者の存在を忘れてはいけない。まさか彼らを「不相応な物を買った連中」などと、軽蔑することはできない。家を手放すことは、涙なしではいられないことだから。

CDSという保険のような仕組みの存在を初めて知った。株に保険を設け、それを証券化すると、当然ながら悪用する連中が出るはず。裏社会などには魅力的な仕組みだろう。相当厳しい管理をしないと、この作品のような暗躍を誘導することが明らかだが、今もそのままなのだろうか?

そもそも空売りは実業と関係のない行為で、正当な商取引ではない。人や企業を救うことなどを目標としていない。いわば証券業界の裏をかく、ギャンブルに近い行為だと思う。自分だけが確信を持って下落を予想できる時にやらないと意味がないので、圧倒的な自信、根拠となる証拠、分析力と資金調達力があり、しかも政府が介入して株価が上がったりしないという運も必要。成功したら賞賛される類のことだか、疑問もある。

能力と勇気には感心する。空売りのために証券を借りた場合、その金利を利益で回収できるのか、どんなローンを組むのか知らないが、危険であることは間違いない。危険を犯すときには、興奮の度合いは額に応じてすさまじいものだろう。その賭けに勝ったなら、得られる収益に対する嬉しさも凄まじいものであろうと思う。

金を得るのは大事なことで、その際の手段に関係なく嬉しいものだ。貴賤を問うておられない場合もある。それに金を手元に持つといろんな事ができるから、自由になった感覚、偉くなった感覚を得られる。卑屈な態度をとり続ける必要がない、将来の金銭的心配が減るなど、万事が有利にはたらく。犯罪者達が頑張るのも、持った時の幸せをイメージできるからだろう。

もちろん理想なら事業を興し、人に職を与え、利用者に良質のサービスや製品を提供し、社会の発展に寄与したいもの。株価下落に乗じて金をかすめるような行為は、さっそうとした仕事だと今の劇場主は感じない。実際に億単位の金を何度も手にできるなら、すぐ感覚が変わってくるのだろうけど・・・

空売りは、もちろんやったことがないので意味が分からない。法に違反していないなら、糾弾して利益を取り上げたりすべきタイプの行為ではないと思う。破綻によって、いかに多くの低所得者達が困ったことになったとしても、彼らを直接騙していたとは言えない。低所得者達に警告することが可能だったら、してあげたほうが良心的だろうが、そんな行為こそ訴えられる危険性が高い。黙っているしかない。

空売りによって得られる収益の出所は、結局はどこなんだろうか?直接的には、株価上昇に賭けた株の所有者である貸し手、つまり証券会社や投資家達になるのか?それなら、少なくとも家を失った哀れな弱者から巻き上げた金ではないから、弱者に恨まれなくても良い。ただ、その投資家達の金は、どこから出ていたのか?投資家自身の資産か、あるいは銀行だろうか?銀行ならば、もし公的支援を受けたりした場合は特に、一般人の金を巻き上げたということになる。

それが華麗だろうか?泥棒に近くないか?

2016年6月 7日

マーシュランド(2014)

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- 停滞感 -

スペインのある川の河口近くの湿地帯で、連続殺人事件が起こる。派遣された二人の刑事が事件を担当するが、犯罪組織、村独特の状況などが絡んで、捜査は難航する・・・

・・・フランコ時代の名残りがあることが作品の時代設定となっていて、そこが作品の重みにつながっている。日本でも似たような状況はあったはずだが、そういった陰湿な感情、恨みを上手く表現できた作品を知らない。

最初のシーンが素晴らしい。幾何学模様かな?と思って見ていたら、鳥が動いている・・・・湿地帯を上空から写していたのだった!芸術的なセンスを感じる映像。誰か、この風景を上空から見て、魅力を知っていたのだろう。

Marsh は湿地帯の意味らしい。広大な平原や、水路、砂地が舞台となっていて、いかにも事件が起こりそうな、さびれた雰囲気が映画向きだった。犯罪を描く作品の場合、時代と場所の設定が大事だということを、改めて感じた。

この作品は映像美において非常に優れていると思う。でも、やはり子供に見せたい作品ではない。死体もリアル過ぎる印象。子供の夢見が悪くなるかも。暗くてグロテスクな内容でもあり、恋人と鑑賞する対象とも思えない。

フランコが亡くなったニュースは覚えている。大戦を生き延びた希有の存在だった。70年代は、まだスペインは右翼勢力が有力で、おそらく地主勢力がフランコ政権を支持していたからではないかと思うが、古い社会秩序が社会を停滞させた状況だったのではと思う。

その閉塞感、市民の貧しさが、この作品では切実に感じられた。若者は村から出ることしか考えられない。その願いが犯罪者につけいられる、そんな仕組みが分りやすかった。その流れは、万国共通のものかも知れない。

停滞感が気になる。この作品では、田舎村の停滞感も大事な要素だった。

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上の写真、よくもこれだけ徹底的に壊れたねと、呆れる。熊本地震は余震が非常に多く、いつ終わるのかさっぱり分からない。時々地下から妙な衝撃音が聞こえてくるので、下は凄く動いているのだろう。熊本市は今、GPS情報では東方向に移動中らしいのだが、なぜそう動くのか皆目分らない。治まる時期が分らないと、復旧作業の段取りも組みにくい。

復旧が遅れると、住民は出て行くしかない。飲食業や観光業は、道路が完備され、時間的にも余裕がないと客足が戻らない。客がいないと、営業は厳しい。家があって年金で生活できる人を除けば、再度ローンを組んで家を持ち、仕事や育児をこなすかと考えてみれば、被災地に残る選択をするのは無理をともなう。

現在抱えているローン、今後の地震への不安、収入を確保できるかどうか、そういった様々な要素は、気分的な停滞感を生みやすいと思う。国からの補助もかなりあるようだが、費用が全額出るわけではない。ハンデを背負うことは間違いないから、気分的に明るくはなれそうにない。停滞感は必ず生じる。

益城町や南阿蘇地域に、また家を建てようと考えられるだろうか?まず、そこが気になる。断層はそのままあるわけだし、今後もっと凄い地震が来る可能性があることは明白。他に建てる場所が絶対にない、頑なに残る・・・そんな人はどれだけいるだろう。

停滞感を打破するためには、政府の援助、税制面の優遇、そして時間と事業の誘致が決め手になるだろう。建設関係の業界がまず潤うはずだが、そこから金がどう回り、一般の商売へと波及していくか分からないが、流れが滞らないように祈る。

 

 

 

2016年4月12日

マイ・インターン(2015)

Warner

- 良い話 -

ネット通販で急成長した企業の社長に、70才の研修生が直属の部下としてつく。世代の違う二人だったが、やがて友情が芽生える・・・・

・・・・DVDで鑑賞。違和感を感じながら観ていたが、話は良い内容で、ドラマとしての完成度が高いと思った。上流階級のドラマではないのだが、出演者の皆がポライトな話し方をしていたように思う。

職場における男女差別に関して、良いセリフがたくさんあった。差別を厳しく糾弾するわけではなく、分析して問題視しし、改善を心がけようといった健全な視点を感じる。

違和感が生じた理由は、たぶん配役が主因ではないかと思う。ロバート・デ・ニーロが好々爺みたいな人間を演じ、アン・ハサウェイがやり手起業家を演じるのは、意表をつきすぎていたように思う。

意表をつくことは、悪いことではない。予想外の印象が得られたら、作品の好感度に直結する効果があると思う。でも、失敗例も当然ながら多いから、賭けになる。賭けに勝つためには、何かのインスピレーションが働いて、役者の隠れた才能に気づかないといけない。

デ・ニーロは喜劇も得意だ。生真面目な人間だって充分に演じることができる。そこは分っている。今回の役柄に求められたのは理想の会社員の個性で、気配りの効く人間だろうが、彼の場合はさすがにわざとらしさを感じる部分もある。過去の役柄のせいだろう。

おそらく、この役は他の俳優のほうが良かったと思う。かっての二枚目で、今はクタビレているが、どこかに色気を感じさせるような俳優が。たくさんいると思う。

ヒロインは、負けん気の強そうな女優が良い。人を見下すような悪い印象が浮かぶくらいでも良いと思う。頑張りすぎて無理している様子が充分に分るためには、髪がボサボサでだらしない傾向があったほうが良い。そんな中でも、一瞬だけ極めて魅力的に写るシーンがあれば、最後には好印象につながる。それが常道ではないか?

配役には不満を感じたが、ストーリーは悪くなかった。ひねりが足りないと言えばそうだろうが、分りやすく、上品で、軽いギャグ、軽い冒険もあり、昨今主流の激しい表現方法を採っていない点が良い。

ファッションに関してはよく分らなかったが、スタイルの良いアン嬢を採用したのは、おそらく服のセンスの良さが理解できるような女優にしたかったからと思える。たしかに充分な美しさを感じた。ただし、そのへんは、メーキャップや衣装係の努力でいかようにもできると思う。もっと年輩で、もっと切れ者の雰囲気がする女優のほうが良かったはず。

デート中に観るのも悪くない内容だと思う。家族での鑑賞だって可能だろうと思う。大受けは規定できないが・・・

 

2016年2月21日

マイ・フレンド・フォーエヴァー(1995)

Universal

- 絶望の表現 -

HIVに感染した少年と、その友人となった少年の冒険を描いた作品。DVDで鑑賞。

この当時、エイズはまだコントロール不能な病気だった。怪しい治療法が報道され、それに踊らされる人々は多かったと思う。映画でもたくさんの作品がエイズ患者の不幸を描き、涙なしには観れない者ものも多かった。この作品も泣ける。

治療法がないと話す時の絶望の表情が素晴らしい。目を合わせて、何も言えなくなるシーンが何度も出てきた。

子供の場合、自分が助からないと感じさせるのは大人の場合より辛い。子供に限れば、何も分からないまま眠って亡くなるほうが良いと思う。何か自覚を持たせて良い方向性があるなら別だが、苦痛を感じる時間は短いほうが良いと思う。

特に実話に基づく話ではないと思うが、原作の小説があるようには書いてない。映画用のオリジナル脚本かも知れない。少年が薬草を試みる話や、兵隊のオモチャで残酷な遊びをするシーンは、実体験があるように感じたが、ストーリーは当時しかありえない。

少年らの母親達を演じた女優ふたりが素晴らしい演技をしていた。エイズの少年の母親役は、実の親子のような雰囲気だった。悪役の母親も、いかにもそれらしい不満気な表情が上手かった。

主人公の少年役は、その後麻薬中毒で亡くなったそうだ。元々、そんな早熟でアンバランスな面があったのだろう。たしかに演技には何も問題なく、充分な芝居をしていたと思う。

ただし、髪型が坊ちゃん風に思えた。あんな髪型だと、不良っぽいキャラクターとは合わない。この作品の主人公は完全な不良ではなかったが、ハイソなお家の坊やでもなかったはず。鍵っ子に近い境遇で、両親が離婚していて生活に乱れがあり、もう少し汚い、格好つけた髪型の少年のほうがタイプに合致していたのでは?

そもそも俳優がハンサム過ぎた。この役はヒネた個性の、いきがったワルガキタイプの顔が欲しい役柄。昔のジャック・ワイルドなどに近い個性の俳優が望ましい。そして、少年が少し年長過ぎた印象も受けた。そして、もっと細身が良い。神経質そうな、骨と皮のような体型が望ましい。おそらく当時高い評価を受けていた主演の俳優を無理に引っ張ってきたのでは?

それにしても、ハリウッドの有名子役は不幸な人生をたどる人が多い。どこか異常な部分や、なにかトラウマのような影の部分があると映像的な魅力が出てくるのかも知れない。その個性の悪い面が発揮されると、麻薬などへの依存が生じやすいのでは?周りの業界人達にも中毒が蔓延しているのだろう。

エイズは極めて不幸な病気だった。今でもそうだが、80年代は神の罰とさえ思えたほどやっかいな病気だった。今は注目度が下がった関係で、患者数としては増えつつあるように聞いている。

レトロビルの発売は1987年だそうだ。90年代はHAART療法によってコントロールが可能になってきた時代。つまり望みが出てきた頃。そうでないと、こんな作品も作れなかったかも知れない。全く望みのない状態だったら、患者の不幸を描くこと自体が不幸を助長しかねない。過去の話として描けるようになって初めて公開が可能になったかも知れない。

2016年2月 3日

マン・オン・ザ・ムーン(1999)

- 偽善への嫌悪 -

アンディ・カウフマンというコメディアンの伝記映画。ジム・キャリーが主人公を演じている。同名の歌があるそうで、そこから映画のタイトルもとられたのだろうか?DVDで鑑賞。

カウフマンの人物像に迫るという真面目な路線ではなかった。冗談や演技を抜きにした彼の心情がほとんど出てこないと、話としての奥行きはないことになる。彼の仮面の奥を、もっと描いて欲しかったと思う。描く人物は破天覧でよいが、描き方には原則がある。

売れない時代もあったはずと思うのだが、作品で描かれたように、苦には感じていなかったのだろうか?修業時代などがなかったのか?それがないと、観客が彼に共感することが難しい。作り手の視点に問題があったと考えられる。

この作品は子供には全く向いていない。ギャグが常識を逸脱している。影響を受けたらロクなことはないような、そんな人物像が描かれているからだ。もともとカウフマンのギャグがそうだったのだろうが、描き方にも問題があったように思える。恋人と観る作品としても、勧められるとは思えない。

当時、同時代でテレビを観ていた人なら、思い出して笑う作品として推奨・・・推奨という表現は適切ではないような気もするが・・・される作品。芸人の中では非常に評価が高い作品かも知れない。新しい笑いを追及している芸人達には、過激でシュールな彼の芸風は受けるだろうと思う。

ただし、この作品は興行的には惨敗だったようだ。そこがいかにも、彼の物語らしく、この作品らしいと思う。

カウフマンは芸人に該当するようだが、過激な芸風が特徴だったらしく、演技なのか真剣な話なのかが曖昧なまま、きわどい騒ぎを続けたらしい。テレビや劇場を悪ふざけの道具として楽しむかのような、妙な精神興奮状態を感じる。ヤク中のような雰囲気がする。

ジム・キャリーも非常に派手な演技を特徴とする俳優だが、カウフマンは彼の先輩にあたると言えるかも知れない。顔や体の芸というより、通常なら公衆の面前で言えないような顰蹙ものの表現を、制限もなくやってしまうのを芸にするという、常識破りの路線が売りだったようだ。

劇場主も常識破りのギャグが好きだ。時々場をわきまえずにやらかして、後で後悔している。カウフマンも一時期はアル中でヤク中だったらしいが、劇場主も高校から大学にかけてはアル中に近い状態だった。中毒者に共通する、タガが外れた恍惚感、自由を好んでいたのだろうか?

なんとなく想像するのだが、常識破りがクセのようになっていたのではとも考える。一種の病気のようなもので、上手く運べばアイディアマンだが、間違えれば爪弾きになりやすい個性。画期的なアイディアを生んだ真のパイオニアは、病気に近い個性の人物も多いから、一概に悪いものではないと思う。

悪意を持って詐欺を働く人物や、過剰な欲望のせいで他者を虐げる人物より、カウフマンは良心的な個性と思う。もちろん品性は良くないかも知れないが、行動の目的が犯罪的ではない。その点を忘れてはいけない。紳士的で理性的でも、偽善的な大犯罪者は多い。彼らと比べたら、下品なギャグは許されてしかるべき。

そもそも、破天覧なギャグは、現実社会の偽善や矛盾に着目して発生する例が多い。ビートたけしなどの漫才がそうで、「赤信号皆で渡れば・・・」などは、正しくないが現実的にはよくあること。くそまじめなルールに反抗し、笑っているとも言える。年寄りをお荷物として扱うギャグも同様。おそらく、カウフマンの破天覧さには、偽善への嫌悪感が関係している。

偽善について、最近考えなおすことがあった。偽善に敏感すぎると、別世界(~月世界)の住人のように破天覧になるし、鈍感すぎると人間のクズになりやすい。

劇場主自身も結構な偽善者である。全くのボランティア精神だけで仕事や生活をこなしているわけじゃない。利潤も追求している。偽善について語るには、だから役不足。でも、他者の不利益を前提とした行動は採らない。結果はともかく、基本は利他の精神が自分にはあるから、消極的偽善者と言えるであろう。

ただし、これも微妙なラインだ。偽善を嫌って何かにこだわる場合、それを批判されたりすることに対抗する必要性が生じ、えてして別種の偽善につながることが多い。さらに批判精神が嵩じると、何に対しても皮肉屋になる傾向も出るから、取っつきにくい人物になる。劇場主は、まさにこの袋小路にはまっていると思う。

偽善を嫌う利他の精神は、医療現場では厄介な判断が必要になる場合もある。検査や処置で害が予想されるが、やらないと診断が曖昧な場合、劇場主は患者の利益を優先しすぎて検査を省略することが多いが、出世するタイプの医者は侵襲をためらわない。「私が医学的に必要と思ったからやる。」そんな理屈で、特に問題を感じていない。

研究の場では、ある程度の冒険も必要。でも一般の診療の場で、ためらいのない行為ができるのは、おそらく多くの場合は学問への信奉が過剰すぎるか、何か情緒面で鈍感だったり、自分の功名心、自己実現欲の過剰さ、そんな要因に引っ張られていることもあるはず。

利他の精神でやっていると口では言っても、実は偽善と言える場合も多いのではと、劇場主は彼らの口調や態度から感じていた。そこを指摘すると、彼らは偽善者に典型的な態度で、決まり文句を並べて反論するのだが、どこまで正直に言ってるのか分からない。本人も、自分が正直に言っているか正直な気になっているだけか、分からないのかも知れない。

時々、臨床試験の作為的操作が明らかになって、劇場主の感覚が外れてはいなかったことが分かる場合もあるが、あんな事件は氷山の一角で、作為的行為はいたることろに潜んでいる。ほとんど医者の自己実現の野望、金銭的野心を隠した偽善の元に、医学研究も医療行為も行われている・・・・それも否定できない。

さらにやっかいなのが特に日本人の場合、偽善という言葉は近代の歴史認識に関係する。かっての侵略行為や軍国主義精神は、それをどう理解しているかが問われやすい問題。これは戦勝国から教育や憲法を押しつけられ、他力で理念を変えられてきたからこそ生じた、独特な現象だと思う。伝統的な価値観が偽善に関係したと教育されたら、善悪の判断に、引っかかりが生じてしまう。我が国の弱みを攻撃したい場合は、そこをついてくるのがパターン。

敗戦は古いことだが、影響は残る。人の考え方は、特に深く考える人ほど歴史認識に引っ張られる。古い時代の理想が偽善だったかどうか、それは戦争だけじゃなく、震災や事故、犯罪や何かの失敗も、認識への信頼を揺るがせるので、同じように影響される。固定観念の誤りが分かると、理解のし直しに時間がかかるものだ。自分を指導してくれた言葉に偽善を感じると、立ち位置が分らなくなる。

偽善を良しとしない人は、生理的に過去の偽善を嫌悪するが、えてして嫌悪しすぎて厭世的になったり、精神的に不安定化する。いっぽう、こだわらない人は偽善の有無より、生活の維持や資産形成、業績のほうが第一という考えられる。それも立派な考え方である。それに集中することができるから競争に強くなるし、業績もあがる。生き抜かないと仕方ない。

加えて宗教も、偽善に関する考え方が影響する領域。宗教団体は、組織の論理でヤバイ橋を渡らざるをえない場面もある。キリスト教団だって異教徒を殺し、征服を重ねてきたが、それは宗教の教えとは別の理屈によるもので、かなりの偽善的判断が重ねられたはずだ。宗教家は、偽善と無縁であるはずがない。立派な宗教家ほど、御自身の偽善には目をつぶってくれよと願っているものと考える。

キリスト教、イスラム教の双方に、素晴らしい経典があって、壮大な思想体系が構築されているが、何を偽善と判断し何をそうでないと判断するかには、さほど食い違いはないように思う。微妙な表現の違いがあって、解釈が違ってしまうだけだ。そして、実は宗教本来の対立というより、解釈する双方の宗教家の偽善の隠し合こそが、争いの本体のように感じる。そこに、対立の根深さの理由があるとともに、対立解消の糸口があるのかも知れない。

つまり、宗教宗派同士は何も対立していないことを明示できて、常に宗教家や政治家などの偽善が対立をあおるのだという認識からスタートし、指導者の偽善的見解抜きで意見を調整できれば、あるいは従来とは違った領域で整合できるのではという可能性の話だが、なにしろ激しい宗教、宗派対立の現状を考えると、ひとつの改善策にはなるかも知れない。

あらためて思ったが、偽善の内容を皆が隠すために、偽善の存在の客観的な証明が難しいので、ジョークの題材にはできても、冷静な議論の対象にはなりにくい。常に隠された真の狙いの存在を想定しながら、偽善的会話にもこだわらずに対応しながら(つまり、こちらも偽善と付き合うということになる)、良い方向を探るしかないと思う。

過剰に偽善を取り上げて皮肉ったりする感覚は、できれば避けたほうが身のためだ。偽善とは、付き合うほうが良い。

 

 

2016年1月 7日

満州暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦(2015)

- 安富歩著 角川新書 -

満州国の軍事や経済的な面に関して述べた著書。著者は経済学者で、かなり気鋭の方らしい。独特の感性を持っているようで、経済の本なのに自分が女装に目覚めた経緯なども書いてる。そこから判断すると、内容と関係ない話も持ってこれる自由な思考方法の方のようだ。

学者は、基本的には自由であるべきと思う。よほど人を誹謗中傷するか、事実と異なる言論をやらないかぎり、言動を縛るべきではない。でも、そう思わない人間は多く、何にかこつけて難癖をつけたがる。本来、女装や性的な趣向に何かあっても、本の主題とは関係のない話。だから、この本で自分のことを書く必要はなかったのでは?

満州の経済に関しては、かねてより興味があった。特に、資金を捻出するために、台湾銀行と本国とを経由して詐欺まがいの資金捻出をやらかす点については、NHKでも報道されていて感心・・・感心しちゃいけないんだが・・・していた。

満州について語るのは難しい。今だ多数の引き上げ経験者の方が御存命でらっしゃる。移住がどんな形態であったとしても、夢や大志を抱いて現地に行った人達は、あの地に感情を伴わずにおれるものではない。仮に満州国が悪行に満ちたものであっても、そこに賭けた人々の感情を忘れてはいけない。

この本は、その面の配慮が不足している印象を受けた。悪行をはたらいた人も、当時は夢を抱き,、あるいは義務感を持ち、正しいと信じてやった場合は多いはず。もし彼らを評価するなら、純粋に学問的にクールな姿勢でやるべきで、自分の女装の話などを同じ本の中で述べるような態度は、さすがに疑問。洗練されていないと思う。

もちろん、そんな配慮ばかりを強調し、都合良く自分の立場に利用しようとする「立場主義(著者の指摘する表現)」は最悪で、立場より意見の是非、本の学問的な中身そのものを評価すべきである。おそらく著者を攻撃したい立場重視の人間は多いはずなので、著者を批判する際には用心が要る。

現地人のことも、当然ながら忘れてはいけない。武力で支配しに来た連中に、存在の根拠などあるはずがない。どんな人物であろうとも絶対悪と言える。我々が満州国の良い面に着目したりしたら、元々の現地人にとっては言語道断としか思えないだろう。インフラを整備しようとしまいと、侵略者であることには変わりない。それも配慮すべき点。

いまだに満州が理想郷で、現地人とも友好な関係にあった、インフラ整備を施してやったといった文章がよく出てくる。現地人が心底歓迎していたなど、どう考えても無理と思うので、言い方に注意すべきだと思うが・・・・

この本では大豆を国の主要産物として注目していた。可能なら、輸出産物の中で金額ベースで何パーセントが大豆だったなど、経済的変遷の具体的提示が欲しかった。想像だが、大豆の意義は大きかったものの、重工業関係の利権も相当なものだったのではと思う。過剰な単純化は、本の価値を下げる。別な研究書でも読まないと、そのへんの実像がつかめない。

当時は様々な業種で野心家がいたと聞く。鉄道関係、金融関係はもちろん、大豆の輸出業者、出光や日産などの会社も進出していた。巨大なダムを造ってインフラ整備をしたと強調する人もいるが、それは日本企業の工場への送電が主な目的だったはず。そう言えば、チッソや旭化成もそうだった。マンションの基礎工事はその当時やっていなかったろうが、窒素工業の顛末と同様、野心が被害につながる伝統的流れがあるように思う。

ただし発展していく地域に、企業として商売人として、進出をためらうようではいけない。アメリカ西部のように、フロンティアは本来が矛盾に満ちた土地。犯罪者と英雄が紙一重で同居するような場所。満州もそうだったのではと想像する。悪行もあり、大成功も大失敗もあったはず。一面では捉えられない。

正しい行為を・・・・といった観念に基づく議論は、フロンティアでは最初から違和感がある。現地に存在すること自体が非道な日本人が、正しいかどうか語るのはそぐわない。やはり、そこではいかに利益を得るか、経営を成功させるか、それに目がくらむのが自然。それが良いことではないが、自然と目がくらむもの。フロンティアは、そういう場所。

満州国の意義を肯定的にとらえるのは不遜で、無慈悲で非人道的。帝国主義の時代しか通用しない考え方。いっぽう、全否定する見方は、当時の人々の野心や誇り、希望や義務の意識を無視し、やはり受け入れられない考え方。それだけ、満州国を語るのは難しいことなのであろう。

大事なことは、騙されて現地に置いて行かれないようにすること。勘違いして現地人を迫害しないこと。それに、大きく間違った判断をする連中に力を与えないことだろうか?でも、大半の人が大間違いを支持してしまうのが現実。やはり目先の金、職に人は弱い。切実な欲求は、長期的な間違いを気づかせにくくするもののようだ。

たとえば、仮にアベノミクスが目先の金を我々に与えようとも、クールに評価して大きく間違った方向に行かせないだけの常識が求められているということだろう。

 

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