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2017年3月 3日

ニュースの真相(2016)

Truth


- 疑惑への対処法 -

大統領選の最中、ブッシュ候補の兵役逃れ疑惑のニュースがスクープされる。しかし、証拠書類の信憑性が問題となり、報道スタッフに圧力がかかり始める・・・・

・・・・DVDで鑑賞。作品に登場していたメアリー・メイプスという女性が、この作品の原作となる書籍を書いているようだ。

この作品は、子供には面白くなさそうだ。家族で楽しむ類の映画ではないように思う。テーマは重々しくて暗く、内容は娯楽的とは言い難いし、法廷闘争やアクションシーンのない、きわめて真面目な作品。たぶん政治に無関心な人は、最初から興味を持たないだろう。

ヒロインが正しい選択をしたのかは分からない。しかし、ヒロインの演技は素晴らしかった。ケイト・ブランシェットが役柄にはまっていた。独特のプライドや仕事に対する熱意、懸命さなどが感じられ、アカデミー賞ものの演技だと思った。

物語自体は、あんまり感動できる内容ではないと思う。ヒーロー、ヒロインの活躍を描いたとは言えない。登場人物の家族の協力、同僚達それぞれの対処には、それぞれのドラマがあって丁寧に描かれていたと思うが、スパイ映画のように緊迫感が感じられるものではない。マイナー路線の作品だろう。

そもそも問題の文章の信憑性だが、作品の表現通りなら素人が作る捏造文書ではなさそうで、あくまで印象でしか言えないが、限りなくクロに近いと思う。つまり本当に軍歴詐称はあったかも知れない。でも、この種のニュースの場合は、可能性が高いくらいで報道することは許されない。完全な裏付けが必要だ。報道してしまったことは、やはり正しくない。

軍の情報は残るはずだから、除隊の証明も出来たのではないかと思う。選挙戦に間に合わせるために、無理を承知でやったのだろうか?映画だけでは、そのへんの心理、狙いは分からない。それなのに、この作品のタイトルである「真理、真実」という言葉を使うのは、少し態度がおこがましくはないだろうか?あるいは、米軍の虐待事件を報道したことで、彼女は政権からマークされていて、ワナにはまったのかも知れない。

疑惑の証明が難しい事例では、自分の手柄は放棄し、週刊誌など、他の媒体に情報を売ることも選択肢のひとつだろう。実績を上げるために焦って、大きな失敗をしないように注意すべきだった。失敗を怖れるあまり、萎縮して権力の暴走を野放しにしないことも大事で、公表するかどうか、その判断は非常に難しいものだろう。

最近、安倍首相の周辺でも妙な疑惑があるらしい。疑惑への態度には注意しないといけない。

大阪市の学校法人が国有地を異常に安く入手したと報じられている。学園側が安倍総理を利用したように見受けられるのだが、真相は分からない。総理の側も暗黙のうちに認めていたか、あるいは積極的に関与していたか、今のところ闇の中。夫人が理事に就任していたことが総理の側にはマズイ点だが、まさか夫人の意志によるとは考えにくく、総理の指示ではないか?

払い下げ金額は、明らかにおかしい。あの価格について、問題になると誰も予想しなかったのだろうか?担当の役人は、さすがに将来自分が責任を問われないかと心配しないはずはない。でも政権側に同調すれば自分はなんとかなると思ったのか?あるいは問答無用で上層部から命じられたのか?

あらためて思うに、権力は固定させず定期的に移らないといけない。国民は、その意味がどうしても理解できないようで、与党が固定し、安倍総理の天下が続いている。党の執行部や総理がいかに清廉潔白であっても、周辺は濁ってくる。今回の事例も、起こるべくして起こったのだろうに。

疑惑への対策は、権力の交代だけ。法律の改正だけでは無理。不正行為、大きな政策の間違いを防ぐためには、定期的に政権を移行させることが必須。その認識が不足している。万年与党は諸悪の根源。安倍総理がいかに優秀で、民進党がいかに酷かろうと仕方ない。権力移行を考えないなら、この種の疑惑は気にしないことだ。

疑惑が残るままでは、心が荒む。上層部だけ優遇される場合、誰が命をかけて組織のために行動するだろうか?疑念があれば、組織の力が損なわれる。国家も、その力を維持するためには、疑惑を常に解消しないといけない。信用が大事。能力も望まれるが、信用も必要。

さて、問題の国有地はどう処理されるのだろう?学園の評判はいちだんと悪くなったろうから、もはや経営維持は無理かも知れない。学校の認可も取り消しかも。その場合は、また売却されるのか?日本会議が買うのも、倫理的な問題がある。国が買い戻すのか?

首相の関与は、証明が難しいだろう。口利きに文書を取り交わすとは思えないし、役人が総理から指示を受けたと証言するはずもない。大阪府の担当者だって、松井知事の関与は否定するだろう。ただし否定しても、判断の妥当性は証明できそうにない。疑惑は残る。本来なら、判定の際の議事録の公表が必要だが、公表は渋るだろう。分からないまま終わるのだろうか?

 

 

2016年10月23日

日本のいちばん長い日(2015)

Shochiku

- 松竹版 -

終戦をめぐる軍部、政府のかけひきを描いた作品。28年8月14日にテレビで鑑賞。この作品は平成版で、原作が完成版というのは、何度も改訂されたのだろうか?原作は前にも映画化されたことがあるという。古いほうは観ていない。

観ていないのは、過去の戦争映画に、つまらないものが多いからだ。兵士役が過剰に演技してしまい、善きも悪しきも劇的過ぎるか、作り手の感情がこもりすぎてしまう傾向がある。娯楽作品としては、感情がこもったほうが良いかも知れないが、客観性も必要。

この作品も、演出過多の傾向がなかったわけではない。でも、過去の作品よりはリアルな印象を受けた。いろんな工夫がされていたのだろうが、演出を穏やかにしようという意図が徹底していたのかも知れない。

当事者や家族がまだ存命である時代に、問題の人物を演じるというのは勇気の要ること。悪役の場合は、特にそうだろう。例えば東條元首相や、特攻隊を指揮した大西氏を演じる場合は、演じ方が性悪そうでも善人でも、どこかからか必ず批判が殺到する。批判が必ず起こる内容をテーマにした原作者の半藤氏には、敬意を表したい。物語としてまとまり、作品が成り立っていた。

人の記憶は曖昧なもので、おそらく関係者本人ですら自分の姿を脚色し、過剰に業績を誇ったり、過度に卑下したりするはず。ましてや部下、家族の手記などは、脚色のオンパレードだろう。しかも戦後の米軍の政策によって、米国の都合にしたがった定義付けが必ずなされている。それに反する内容は表しにくい。どう描くかは、非常に難しい問題。

この作品に戦闘シーンはないし、暗殺シーンも直接的な描き方はしていないので、子供でも鑑賞可能かも知れない。ただし、子供が楽しめる内容ではない。あえて恋人と観るような内容とも思えない。

本木雅弘の昭和天皇役は、体格が良すぎることが気になった。もっと細身だったはずだ。でも穏やかな話しぶり、目線の動かし方や悲しげな表情が、高貴な人間の所作を上手く表現していたように思う。作品の質を上げていたようだ。

山崎努の首相役も素晴らしかった。鈴木首相は日清戦争時代の兵士で、80歳くらいの高齢であったらしいから、よく首相が務まったものだと驚く。補佐官がかなり奮闘していたのではないか?終戦が達成できたのは、彼らの能力と運があったからだろう。終戦後、鈴木氏は数年して亡くなったそうだから、活躍によって死期はだいぶ早まったに違いない。

阿南陸相は、この作品の主人公と言える。彼の扱い方が非常に難しい。実像も、死後にかなり脚色されているはずだから、主戦派だったか、終戦を進める方向に当初から決めていたのか、本当のところは分からない。作品では天皇と特に親しい関係だったので、御意志に忠実に行動し、結果的に陸軍を裏切るという解釈になっていたが、実は反乱の首謀者かも知れない。悲劇のヒーローだったのだろうか?

阿南陸相の実際の写真を見ると、役所広司とは全然イメージが違う。失礼ながら、悪役が向くような印象。顔のイメージは大事だ。キャスティングによって、観客の解釈さえ違ってくるだろう。

本土決戦を目指した参謀達の意見が、繰り返し述べられていた。本土を戦場にして、2000万人くらいの犠牲を覚悟でゲリラ戦をやれば、米国は根をあげるという理屈だったようだ。確かにそうなれば長期の戦闘を要し、相手が一般人になると倫理面の葛藤が生じ、米国も行動しにくい。米側の犠牲者も凄い数になるだろうから、良い条件での講和が可能になったかも知れない。戦略的見込みゼロとは言えない。

でも具体的に、どんな条件を勝ち取ることが期待できるかだが、予測は難しいのでは?第三国を介して、何かの保証があるわけではない。当時は日本と利害を共有する第三国がなかった。米軍もソ連軍も、無慈悲に殺戮を続けたかも知れない。そこを考えると、やはり降服が望ましかったと思う。万単位の人的被害は、避けることが望ましい。

2000万という数字は、ソ連が被った死者を参照しているのだろうが、実は独ソ間だけの数値ではなく、恨みを持つバルト諸国などが関与した死者が多数なのかも知れない。しかも日本の場合、国土も狭いし、米軍の攻撃兵器は性能も違う。いろんな点で日本とは事情が違うから、根拠として不適当だろう。根拠のない理屈から発生する戦略は、やはり無謀だ。

ソ連の場合、国民2000万人くらいの犠牲は、彼らにとれば許容範囲だったろうと思う。なんといっても、内戦や粛正でもっと多くの国民を殺した国だから、いまさらという感覚では?ソ連の首脳部にすれば、被害が大きいほど国民の怒りがたかまり、勝敗や戦後の支配には都合が良い。細かい戦術などは、あまり考えなくて良い。日本とは違う。

いずれにせよ、数千万人の犠牲を厭わない参謀は、たとえ戦争に勝ったとしても絶対に死刑が望ましい。悪魔だって、それだけの人間は殺さない。人道的責任というものがある。それだけの犠牲を設定した場合は、もはや戦略と言えるかどうかも怪しい。

若い将校達が天皇の御意志に反して行動する点が、どうも理解できない。作品の中で東條英機が参謀達に、「広義の勤王、狭義の勤王」を聞く場面があった。あれは端的に参謀達の行動を説明しようとした演出ではないかと思う。実際に彼らはあのように教育されていたのだろうか?あの内容が表に出たら、即座に不敬罪に相当したはずだが、公然と問答があったのだろうか?

軍事的な面だけを考えて、反逆を考えるとは思いにくい。軍事面でクールなら、そもそも開戦しない、あるいは戦線縮小して集結し、状況が好転するまで忍耐といった答えに至るはず。相手が攻めにくい状況を維持するのが、戦略の基本だろう。戦略ができていなかったことから考えると、彼らは自分自身の自己実現、自己充実感や出世欲、あるいはエリート意識にとらわれていなかったろうか?

その疑問への答えは、彼ら自身にも分かりっこない。人は無意識に、なんでも脚色していくものだ。自分は国家のことだけ考えていたと思いたいはず。大友皇子の時代から、似たような理屈で武人達は行動したはず。反乱を起こす当事者には、常にそれなりの理由がある。厳しい判断を迫られた彼らには同情もするが、敗戦の責任を思えば、そうとばかり言ってはおれない。

さて、フランスは過去に何度も英国やドイツから攻撃され、そのたびに戦場になって、凄い犠牲を被っているはずだが、引き分けか戦勝国なみの待遇をちゃんと勝ち取っている。国土が広いことや、人口が多く、外国が支配を続けるのが難しい点もあるのだろうが、対処が上手い点も感じる。日本とは対照的な感じ。ソ連スタイルではなく、フランス流のほうが理想的ではないか?

フランス流は逆に、もろすぎる印象を味方に見せてしまい、内部反発を呼ぶ難点はある。組織のルールがしっかりしていないと、収拾がつかなくなる危険性は高い。ルネサンス時代のフランスは、イタリアから見たら政治下手に見えたらしい。当時は国力を無駄に使い、やがて革命も起こったりで、上手か下手か分かりにくかった。今も分かりにくい。

でも一貫して生き残りのセンスを感じる。早々と撤退し、講和に踏み切る。マトモに戦って壊滅的な被害を被ることを避け、余力を残して生き残ることを最優先する、そんな感覚が広く行き渡っているのかも知れない。余力は大事だ。玉砕は戦力の喪失を意味し、より条件の悪い交渉を生じやすい。国力の小さい方がやってはいけないことだ。本土決戦は被害が大きすぎる。

もし本土で戦えば、戦ったという誇りは保て、精神的な面では満足できたかも知れない。今のような米国の支配も拒絶できたかも知れないが、生き残りはもっと大事。誇りは、やがて挽回するチャンスがあると思う。

 

 

2016年8月21日

日本会議の研究(2016)・その二

- 扶桑社・菅野完 -

この本に対して、日本会議側は批判しているらしい。もしかすると、この本は本当に虚偽の内容かも知れない。したがって、これは現時点での感想文である。実態は知りようがないと思う。

この本は日本会議を分析する内容で、多くの批判が含まれていた。著者は自分のことを保守側の人間だと述べていたが、保守にもいろいろあり、日本古来の保守的穏健勢力があれば、明治維新以降の新しい神道、皇道勢力もあり、その中でも穏健派や過激派と、様々あるようだ。互いに批判的になるのも当然だろう。

「京都ぎらい」(朝日新書・井上章一)に書かれていたが、宗教に関わる勢力にも色々あって、敵側まで鎮魂する神社・寺院があれば、味方だけしか祭らない、例えば明治の最高の功労者である元君西郷であっても反乱者だから祭らないという神社もある。情念部分の違いは、各々の勢力の行動に関わるようだ。情動は、人の判断の方向性、生き方に関与するものと思う。

「西郷をどう評価?」→「功労者だが反乱者」→「反乱者は許さない」→「功労は無視」・・・そんな思考パターンがあれば、「第一の功労者」→「無私無欲の反乱」→「敵も味方も同じ国民」→「ともに称えよう」・・・そんなパターンもありうる。情念と理屈が作用して、同じ事象に対し、頭の中での評価が正反対になることがある。おそらく、そのようなことが起こっているのだろう。

仲間以外を冷遇したがる勢力は、昔からいたはず。動物本来の、生き残りのための感覚かも知れない。学校のクラス内部や会社内部の人間関係を思うと、グループに別れて互いに険悪な関係になる場合があるが、あれはグループにいる安心感や、味方への縛り、敵への恐怖などが関係する情動的現象のようだ。ときに派閥争いが組織全体の成果を台無しにする場合があっても、争いに熱中してしまう。

情動以外にも、‘反省’に対する感覚の違いが重要かも知れない。どの団体、どんな主義主張であるかにかかわらず、宗教や主義を根拠として人を鼓舞し、過剰に管理し、悲惨な運命をもたらした場合は、できれば結果を認め、反省すべきと考える。もちろん数十年以上前のこと、例えば大戦中の行状で私たちの世代が責任を問われても、生まれてない時代のことで如何ともしがたい。これは土下座しろ、賠償せよといった意味の反省ではない。

‘反省’にも、いろんなニュアンスがある。反省=謝罪だと、謝罪は絶対に嫌だ!→ 反省も嫌だとなる。このような単一のニュアンスしか理解できないと、態度が強硬になる。・・・そう言えば、平成28年度の戦没者慰霊祭で、天皇陛下は反省のお言葉を述べられたが、無視した政治家もいた。誤訳されて謝罪を要求されたくなかったのかも知れないが、陛下をどう思っているのか、疑問に思える態度ではある。戦前の青年将校と共通する態度。

反省を毛嫌いする人は多い。反省は敗北、弱い立場、弱気を連想させる。だが反省を伴う正確な分析は、我々を強くするためには必要で、道を間違えないため、判断を曇らせず、失敗しないことを目標としてやるもの。謝るための反省ではなく、過去の失敗を把握しているかどうか、その意味での反省を経た思考パターンは、考えのレベルに直結する。都合の良い分析だけでは、低レベルの戦略につながる。

ところが宗教や主義の世界は、まず思考の第一に教義を信じるもので、基本的には理屈抜き。まして教義に関わることを反省するなど、最初から思考の範囲外だろう。いっぽう、国民の運命が関わる問題では純粋に戦略に則って考えないといけない。よって自ずと宗教の影響を排除すべきと決まってくるはずだが、教義が第一と考える人が、そうですかと身をひいたりはしない。

教義第一の人物、あるいは自分の人生での勝利が第一、結果に責任を認める気などない人なら、身を引くことに納得するはずがない。子供の喧嘩で、口を尖らせながら言い合う姿を思い出せば、予想がつく。子供は口喧嘩に勝つことが第一で、正しい正しくないは関係ない。激論に持ち込んで、その場を支配することしか考えない。

結果を認め身を引くこと=自分の敗北、権威失墜を意味するから、当然そうなる。これも自然な成り行きだろう。譲ることを知らない強硬な人は目立つから、指導的立場に立ちやすい。でも、いかに強い態度で、どれだけ理路整然としていても、そんな人物は信用できない。そして、この種の人間の説得は難しいので、大事な判断をする責任者は、彼らの取り扱いに用心する必要がある。もちろん、責任者自身が彼らのようになってはいけない。

国民の運命は、常に厳しく圧力をかける外敵に振り回されている。残念ながら、宗教や主義的な判断が入り込むスペースは、ほとんどない。厳しい世界を生き抜くためには、クールな現状分析と効率的な対処を繰り返すしかない。したがって、宗教関係者は基本的に政治の世界からは引っ込むべき。現行憲法は、その意味で国民を守る内容と評価する。

もし宗教家が国を愛するならば、己の分をわきまえ、必要に応じて政治から距離を置くのが本道。多くの宗教団体は、そうしていると思う。右翼も左翼も同じ。極端な政治信条で、大事な政治判断を曇らせてはならない。宗教や主義主張を捨てる必要は全くないが、政治家と利益を融通し合ったり、選挙の際に票をとりまとめたりは、国家の行く末を危うくするだけで、結果的に教義をも逸脱する。

どのように真摯で純粋な考えがあろうと、国民や皇室を、再び危険にさらして欲しくない。

会議は今後、発展するだろうか?国内では、さらに支配的になりうる。中国が圧力をかけてくると、国内の状況もエスカレートするだろう。でも、キリスト教国やイスラム圏で勢力を伸ばすのは非現実的。米国の利益を侵害しないなら生き残ってはいけるが、勢力は国内に留まると思う。そうなると、立場は厳しい。国内の支配だけ可能でも、今は鎖国の時代じゃないのだから、海外との利益調整は必ず必要。

リアルな国際舞台において、クールで戦略的な敵を相手にすれば、宗教的な国内と、リアルワールドである国外で態度を変える必要が必ず出る。そうなると、主張の一貫性を維持できない。矛盾が表面化し、破綻、あるいは過激化、分裂が予想される。戦前がそうだったと思う。

この本を読んで、改めて過去にたどった道を連想した。

2016年8月15日

日本会議の研究(2016)・その一

- 扶桑社・菅野完 -

新書コーナーの売れ筋上位に置かれていたので購読。日本会議については、全くの前知識なしだった。記載されたデータの信用性は確認しようがないものの、この本は資料を入念に集め、裏付けを取るように努力した力作であると感じた。かっての田中角栄研究と似ている。内容に偏見が入っている可能性はあるとしても、真実に近い部分は多いだろう。

ただし、日本会議側は、この本には虚偽の内容が多いなどと批判しているそうで、訴訟沙汰に発展する可能性もある。今後の経緯次第では、本の紹介をした文章にも問題なしとは言えないかも知れない。もし著作側が敗訴したら、この文章全体を嘘に踊らされた内容として忘れていただきたい。

かって石破氏が自民党総裁になれなかった時、妙な水面下の交渉の存在が感じられたが、あれは非常に怪しい動きだった。米国の意志か、もしくは何かの宗教か政治団体がらみかと疑ったが、正体は分からない。憶測に過ぎないのだが、その後の状況を見ていると、日本会議が関与していても不思議ではない。

さて、日本会議を宗教団体と認識すべきか、右翼団体と括るべきか、その点は本を読んだ後でも分からない。おそらく、多様な団体の集合体で、意見も様々で一括りにできないのではなかろうか?構成する各団体が、一致団結して動くのは難しいと思う。

戦後は政教分離が原則となったので、今の宗教団体は教団を名乗らない傾向がある。○×学会、◇×会議など、学術団体と区別が付きにくいように、おそらく意図的に工夫している。宗教をそのまま名乗るのは、昔からの名門宗派か、もしくは税制上の理由から宗教法人と言いたい営利団体くらいか?そのため、右翼も純粋な神社関係団体も、区別がつきにくい。

実質が宗教法人であるなら、政治に関与しないのが現行憲法上では当然のはず。ところが、与党がそもそも宗教団体と密接な関係にあり、規定を無視してしまっている。いびつな構造だ。政教分離は事実上破綻しており、おそらく司法や検察、某国情報機関との間でどのようにか‘手打ち’が成立したのだろう。憲法の番人であるべき存在は、その仕事を放棄したのか?

こんなこと気にしても仕方ないのだろうか?政界、法曹界には、矜恃の観念など元々ないのかも知れない。一般人なら仕方ないと思うが、国の中心が法の精神を曲げるようでは、やがて後悔することになるはずだが・・・・しかし、組織が理念によって成り立つのは理想に過ぎず、力関係や利害調整、出世欲などによって運営方針が決まるのは、どの世界でも似たようなもの。腐敗は免れえない。

ただし言えることは、偏った政治信条の圧力に安易に乗ったらどうなるか、歴史をみれば明らかだ。どこの国も宗教や主義の熱狂で、凄い数の人を殺してきた。法を遵守する必要性を認識していないと危ない。「あいつらは強硬だから仕方ない、法を曲げて言うことを聞いとこう・・・」 そんな判断が現実的だと思っていると、ずっと後になって抜き差しならぬ状況に陥るかも知れない。

この本の分析の通りだと、今の状況が変わる可能性は低い。宗教や政治信条の意味など、普通の人間は考えたがらない。選挙となれば、身近な利害関係でしか投票しないから、長期的な展望が効かない。かってナチスが投票で選ばれたのは、民主的な選挙によるというが、あのようなことも繰り返されるだろう。 隠れた支配権を確立している勢力は、よほどなことがない限り、勢力が衰えるとは考えにくい。

右翼団体に、かって意義はあったと思う。もし左翼が幅を効かせたままだったら、国は米国との関係を維持できず、国土が戦場になっていた可能性もある。そうでなくても、テロや暴力沙汰の応酬は続いていたかも知れない。政治的な面に多くの国民がシラけたのは、左翼が自滅した部分が大きいが、右翼のおかげもあったと思う。赤軍派みたいな連中が国を支配したら、いまごろ大変だったろう。

でも今日は、左翼勢力が幅を効かす時代ではなく、完全に逆。ネット右翼のような勢力が、国益を侵害しないかと危惧される時代。どんな信条の人でも、国益優先で行動して欲しいものだが、自称愛国者たちの自己実現欲や権力欲は、国益よりもずっと優先される傾向がある。いかなる団体も純粋な心だけでは成立しないので、それは自然のこと。

歴史に鑑みて、劇場主は政経分離の方針に賛成する。神道を利用して権力を持ち、国を危険にさらした勢力が存在したことは確か。これは米国や中国に強調されるまでもなく、否定し難い史実だろう。宗教が害悪だなどとは思わないが、個人の野心がからむと、とんでもない結果につながる場合があると思う。

そんなことを気にさせる本であった。

2015年3月 2日

21世紀の資本論(みすず書房)

- 欲に耐えるべし -

トマ・ピケティ教授著の「21世紀の資本」が評判なので、買ってみた。5940円もしたので、ちょっと高すぎる。その内容だが、経済学用語についてはさっぱり分からない。そのため特に前半部分は理解不充分。また、理論的にも感服できない。高額資産に課税すべきという結論が文章の随所で述べられているので、論理性には欠けていて、最初から結論ありきに過ぎる印象も受けた。1回では用語が分かりにくい。

時間を作って二回読んだら、少し理解できた。すると、どうも日本語の訳がおかしいことに気づいた。学者が翻訳しているのだろうか?日本語になっていない文が多い。言っちゃいけないが、日本の経済学者にロクなのがいないことが証明されたのかも。

結論に真新しさはなく常識的なもので、ピケティ以前から新聞等にも繰り返し述べられてきた内容。格差是正、海外のタックスヘイブンへの対策の必要性は、既に指摘されて久しい。そういった内容に対しては米国流の反撃があって、なかなか世論の大きな潮流になれていなかった。評論家達はメディアお抱えの人たちばかりだろうから、自由貿易しかないという意見がほとんど。

安倍政権の方針は、米国のシカゴ学派などの潮流から発生していると思う。米国の意志に従った勢力だろう。そもそも首相誕生の流れは不自然で、米国の意志が関与していたように見えた。日本政府への米国からの要求は、おそらくはビジネスマン種族の要請に準じる形で、米国政府の要求として求めているものだろう。それに沿った政策は、基本的にはピケティ氏のとは反する方向にある。

これだけピケティ氏が人気になると、今後予想されることは以下の通り。

①反ピケティ運動・・・シカゴ学派に準拠する勢力が、何か仕組んで反発してくる可能性はある。特に米国でピケティ派が大きな活動を始めた場合、論拠となるピケティ氏の評判を下げる必要がある。何かのスキャンダルが発生しないだろうか?美人局的にインタビューさせるワナなどありうる。米国のインタビュアーにはモデル並みの人が多いから、色気でピケティ氏を陥落させないとも限らない。肉欲に耐えるんだ!ピケちゃん。

②米国の選挙に影響が生じるか?米国の選挙は、ウルトラ右翼で人類のことなどおかまいなし、自分の利益以外は考えない連中が激しく活躍するという。連日の祭り騒ぎがほっとして、我に帰った有権者が「いやいや格差の是正も必要よ。世界ではそれが主流だもん。」と気づいた場合、一気にその票を取り込もうといった動きが出てくる可能性もある。アカだ!と攻撃する連中と、格差打破を叫ぶ連中が激しく戦うだろう。米国のマスメディアで、日本ほどピケティ本が報じられているか、圧力がかかって報道が控えられているか、その辺に興味がある。

③欧州対米国企業との諍いが生じる可能性。欧州はピケティ派が主流を成すかも知れない。政府もそれを無視できず、多国籍企業への風当たりが強くなり、課税の動きが出るだろう。すると米国との関係に変化が生じるはず。米国政府はもろに企業体の人間が補佐官に陣取っているはずだから、意見の調整ができるか予想は難しい。米国だけ企業体が優勢のままか、欧州の流れに押されるか?その時にロシアやイスラム諸国との関係に何か重大なことがあったら、壮大な妥協が生じる可能性もある。

④本当に多国籍企業に何かの課税があるかもしれない。そうなると、企業は対抗策として中国やロシアへの逃避を考えないだろうか?ピケティ理論は、企業にとれば脱出の理由になりうる。欧州や米国が強制できない地域に逃げる、それが最も単純な対策。中国なら欧州のルールなど気にしないから喜んで受け入れ、結局は課税が難しいといった情況もありうる。そうなると、理論も絵に描いた餅。あんまり効果を期待できないことになる。

⑤日本がどうすべきかだが、日本人は学習意欲旺盛だから、学会の中ではアベノミクスだめ、ピケティ派万歳という大きな潮流が発生するかもしれない。すると日本の巨大企業や資産家たちは、やはり海外逃げ出しを考え、産業空洞化と税収不足が起こって、またまた景気財政が悪化し、それ見たことかとシカゴ学派が復権・・・そんな二転三転のシナリオも成立しうる。

⑥日本の政府もマスメディアも、米国の意志の下にある。だから、ピケティ派は大きな潮流にはならないかもしれない。ピケティ派の学者は教授になれず、テレビにも新聞にも登場させないという大きな方針がトップダウンで来るかも。シカゴ派の学者達が揃って論陣を張って宣伝に走るか?ピケティ氏の資料によれば、既に長年の黒字分は内部留保か海外投資されているらしい。それが、そのまま国外に逃げるだけだろうか?

ピケティ派の第一の問題は、実際の政策や税制に影響しうるかどうかということ。敵は根深い所でメディアや政府、議会を握っているから、なかなか正面からは戦えない。

海外と多少は事情が違っても、日本にも一種の氏族意識が強い人は多い。平等よりも、自分の家族の豊かさが圧倒的に大事。資産課税には拒否反応、自分の資産に影響する税制は許さない。格差が是正されようと興味はなく、心情的に反対のはず。まあ当然だろう。誰でも金を取られるのは嫌だ。彼らが態度を変えるのは命令に対してだけ。そんな心情は利用され、反ピケティ運動に利用されかねない。理論がいかに正しかろうと、ピケティは悪魔の手先と言われるだろう。

最近の税制改正で、生前贈与に関してはかなり緩和されたらしい。政府も資産を流動化させる必要性は充分に理解しているはず。なんといっても予算が足りないのは明らか。予算の元がどこにあるか考えたのだろう。ただ、本当に有効な手段である企業や資産への課税には強硬な反対が予想されるので、手をすくめている状態かも。

筆者が思うに、仮に資産税を強化するとしても、個人資産には今のままが基本であるべき。中間層を保護するのが目標なんで、中間層の上部に位置する小資産家には影響を少なくすべき。せいぜい相続税の調整による、緩やかなものが望ましい。本当の敵はグローバル企業や、桁外れの資産家だけであることを強調しないといけない。小資産家は保護しないと大反対を生じる。どうしたって、ファッショだ!アカだ!といった批判は必ず浴びるだろうけど。

何かの理由で格差問題がもっと大きな政治的ウェイトを占めれば、合法的に有効な対策がとられる可能性もあるが、ふつう高齢の人たちは孫がどう懇願しても、感情的に資産税には反対だろう。孫自身も、資産がある子は当然反対する。頭では考えきれない。大半の人が無資産に近づくほど事態が進めば、さすがに皆も正気になるかもしれないが、そこまで待つべきではないだろう。

事態が悪化する前に対処できるとしたら、外圧か強制しかない。強制が働かない場合は、ズルズルと破綻に向かうはず。効率の良い投資が出来る集団が資産を集め、その究極の姿はSFチックになる。少数の支配層と大多数の貧乏人の世界だ。バカバカしい話。中間層が保たれるようにしないと、若者は結婚や出産を控え、共同体全体が沈没する。そんな政策を皆が支持するなんて・・・・でも現実、支持されてきたのだ。理解は難しいのだろう。

筆者なんだが、筆者には資産がないので、大儲けは諦めている。若い頃に相当考えたことで、もう30年以上前に筆者はデータなしでピケティ理論にたどり着いてたから、元祖ピケちゃんと呼んで欲しい。 氏との違いはデータの裏付けがなかったことと、諸悪の根源を企業におく事。企業の中枢であるビジネスマンや投資家も確かに凶悪だろうが、個人より企業体として考えるべきでは?あちらのビジネスマンは、一人では行動しないと思う。

今は、成功を夢見る時代ではない。学問がなくても、普通に考えれば分かるはずだ。よほどな幸運、経済成長の勢いがないと、無資産の人間にできることは少ない。能力だけでは、自然の成り行き(資産の集中)には抗えない。壮大な神話の時代は去って、新参者には厳しい時代。そして穏やかな人間は、自分の精神衛生を考えても、商売に徹する生き方は選べない。感謝や協調を基本としたい。

もともと税率というのは、機会均等を維持できるように様々な調節をすべきだろう。古来、そうされてきたはず。どこかに資産が集まるなら、普通に考えても課税強化が望ましい。タックスヘイブン対策も必要と思う。G8などで策を練るべき第一の議題だと思う。成長に直結する問題なのだから・・・・筆者はピケティより前から、21世紀資本論をぶっていたのじゃ・・・・結果、世間から浮いちゃってる。

浮いてしまう理由は色々あるが、「俺は努力して今の自分がある。それを否定するな。」という意識がある人は、感情面で筆者の意見に同調できない。それが理由のひとつになる。成功神話に取り付かれている人にとっては努力=財力=成功=評価が当然で、努力が通用する時代だからそうだったとは考えたくない。努力の及ばない富の集中や、経済の膨張縮小が人の生き方に関わることを、どうにも理解できない人が多い。

筆者の態度に問題があることも確か。日常で30年も格差問題を考えている人間は、普通いない。気味が悪かろう。しかも人の努力を評価しない、敬意を示してこないとなると、ロクな人間とは思えないはず。最悪の評価とあいなる。

とにかく筆者は資産家になれない。教育資金を捻出し、ローンを返すのに汲々。でも、それが結構楽しい。変態だろうか?・・・ピケちゃんがどうなろうと巨大企業が海外に逃げようとも、筆者には変わりがない気がする。ピケティの本を完璧に理解できても、それで何かできるとは感じない。格差是正は必要だが、世間は未だ違う風潮が主流で、ことの意味を違ってとらえている。

当面は何も変わらないだろう。でも、どこかの国がいち早く格差是正に成功し、経済成長したら、急に変わるかも知れない。手本があれば、問題点は明瞭になる。どこか、そんな国があるか、だが・・・・

 

2015年1月31日

西の魔女が死んだ(2008)

Asmikace

- 耐える意味 -

田舎で一人暮らす祖母の下に、登校拒否に陥った少女が同居する。少女は祖母が実は魔女だったという話を聞かされる。少女の魔女特訓が始まる・・・

・・・素晴らしいアイディアに満ちた話だった。祖母が魔女という設定、少女の傷ついた心が癒される流れ、少女の成長などが美しく、健全な形で描かれていて感心した。元々は梨木香穂氏の児童文学書が原作らしいが、児童文学に留まらない拡がりを感じる話だった。

祖母役のサチ・パーカーも、孫役の少女も非常に存在感を見せていた。前半部分ではさすがにパーカーのセリフが不器用すぎる印象を受けたが、それも徐々に慣れて後半では違和感を感じなくなっていた。少女役のキャスティングも素晴らしかった。もっと可愛い娘だと、多くの場合は演技力の点で納得できない場合が多かったろう。そこらの娘のような平凡な外見と、生き生きした表情が素晴らしかった。

少し思ったのは、魔女役はイギリス人でないといけなかったのかという疑問。日本人でもそれほど不都合はなかったのではないか?どうせ童話のような話なんで、日本人の魔女がいても不思議には感じられないのでは?作者はイギリス在住が長かったようなんで、そこの文学の匂いにこだわりがあったかもしれないが、必須の条件だったとは思えない。

日本人で、怖い顔をした女優ではどうだったろうか?魔女の雰囲気が出ている人なら、怪しくて何かが起こりそうな気配が、作品の良い魅力となったと思う。

気味の悪い隣人役や、愉快な郵便局員など、脇役も良い味を出していた。文学的な設定や、セリフの内容なども非常に高度なセンスを感じた。本職の文学者でないと出せない雰囲気なんだろう。

この作品はもっとヒットしても良かったと思うのだが、確か熊本市では電気館で少しばかり上映されただけで、テレビコマーシャルもなく、いたってひっそりとした上映だったように思う。商売がかっていない作品ではあるものの、何か訴えるアピール力に欠けていた面があったかも。

実際に魔法を何か見せるという手もあったかも。ささいな術のようなものでも良く、それで何かが大きく変ることはなくても良いが、少女には意味が分かり、その術で自分が癒されたのだと感じることができる何か、そんな演出はあざといということだろうか?

登校拒否。幼い心が深く傷つき、疎外感や不安でいっぱいになるのは可愛そうだ。自分が子供の頃は拒否など全く考えることすらなかったが、実は知らないだけで学校に行こうにも行けない児童は多数いたに違いない。ある子は自宅に引きこもり、ある子は施設などを介して世間に出ていたのではないか?おそらく中卒で就職する子も多かったから、登校しないまま卒業して就職し、問題化しない場合もあったのでは?

昨今は高学歴が当然だし、昔より経済的に安定した家庭が多いから、学校を出て仕事に就く必要のない場合は、そのまま家にいることになり目立ってしまうかもしれない。登校拒否の実数が増えているのかも。競争が激しく、他人をいじめることで戦いの本能を維持する連中がはびこると、どうしても家に逃げ込まざるを得ない子供は増えるだろう。

子供自身の能力や精神状態も大きなウェイトを占めているに違いない。酷い待遇を受けても、負けん気の強い子供はかなり耐えることができる。でも闘争本能に欠ける子や、耐える意味を見出せない子供は耐えられない。つまり相手に勝つ意味がないと自然に判断している子がいるのかも知れない。その子が単に孤立したといった安易な分析は、もしかすると本質から外れたものかも。

夏目漱石や芥川龍之介の伝記や作品を読んでいて、彼らのような感性の持ち主は一般人と話をするのも嫌だったのではないかと感じることがある。英文学者として共通する価値観は、一般の日本人とは少し解離している。「こころ」の先生や芥川自身は、帝国主義国家としての当時の風潮に違和感を感じ、行く末に関しても誰よりも優れた感覚で見抜くことができたのではと、なんとなく感じる。

日々の人々の判断、話の内容、国から発表される方針などを聞いていると、誰でも世間の風潮というものが感じられる。筆者は経済に関して学んだことはないが、それでも風潮と現実を比べて、景気の動向や国の成長具合は分かる。行く末が分かり、現時点の出来事の歴史的意味も、それなりに分析できる。改善を目指さない人々が嫌になる。おそらく芥川などは、もっと鋭く予測し不安でいっぱいになっていたのでは?

皆といっしょに社会を良い方向に向けようと考えると、皆のことなど考えたくない人物からは邪魔だ。「皆のための意見だってよ!俺には嬉しくない。」と、他を出し抜こうとする人からは排除されやすい。何か良い方針を訴えた時、それが全く支持されず、力関係の都合によって無視される・・・それが支配的な構造となれば、希望など持ちようがない。

なすべきと納得できる方向に皆が向かっている時期は、たとえ苦しくとも我慢できるが、おかしな方向に世の中が移っていると、芥川流の‘ぼんやりとした不安’に取り付かれてしまいやしないか?嫌にならないか? 登校拒否する子供は、社会の認識と自分のセンスの違いを感じているだろう。子供のほうが能力的に劣っている場合も多いだろうが、この社会は間違い続けている可能性も高いとしたら、彼らは先を読むことが出来る子供かも知れない。

仮に家庭も学校も社会全体も大きく間違っており、妙な方針でやたら強硬なことばかりやっているとしたら、優れた感性の持ち主は社会の中で耐える意味など感じない。・・・問題はそんなことだけじゃないとは思う、やはり彼らは勘違いしており、克己心や敢闘精神に欠けるだけかも知れないが、例えば経済で言えば20年くらい国の成長率が伸びないのは、資源がないことだけじゃなく、妙な判断が幅を効かしているからと思う。我々は間違っていたし、今も間違っているはず。

 

 

 

2014年9月25日

25時(2002)

Touchstone

- 鎮魂のイメージ -

麻薬ディーラーが刑務所に収監される前の1日を描いた、スパイク・リー監督作品。主人公は、自分を警察に売ったのが恋人かと疑っている。信頼できる幼馴染、父と最後の時を過ごし、マフィアのボスには自分が裏切っていないことを伝えなければならない・・・

・・・製作者の紹介で、トビー・マグワイアの名前が出た。同姓同名かと思ったら、役者本人のようだ。融資を受けたのか、資産をつぎ込んだのか?自分が主演したかったのだろうか?ただ、エドワード・ノートン君のほうが美男子なんで、トビー君が演じなくて正解だったように思えた。

クラブで踊るシーンでは、女子高生がファレル・ウイリアムスの名前を出した。今でこそファレルはミュージック界の第一人者のような存在だが、この当時はグループの一員に過ぎなかったはず。才能を感じていたに違いない。スタッフの感性に感心せざるをえない。

音楽もセンス良かった。鎮魂のイメージが漂う曲が、ちょうど主人公の厳しい状況に合致していた。

この作品、雑誌の映画紹介のコーナーで知ってはいたが、2003年頃は全く時間がなかったので鑑賞できないまま。ビデオコーナーでも目にかかるところには置いてなかったので、とうとう観ないままだった。でも、これは犯罪者を描いた映画として最高級品に当たると思う。独特の荒さも感じるが、間違いない秀作。

犯罪者を描く映画は、派手なドンパチで散っていく悲劇、恋人の死で空しさを知るといったsストーリーの定番のようなものがある。この作品はでも、時間を絞ってアクションシーンを排除していることなどが独特で、描き方のセンスが素晴らしい。犯罪を心から後悔している主人公を描くことは、更生を促すこと、犯罪抑止の観点からも悪くないと思う。

原題の25th hourのthの意味がよく分からない。ただの25時ではなく、24時間過ぎた後、夢のある別な生き方・・・つまり逃亡、新生活を‘25時間目’として、特別な強調をしたいといった意図があったのだろうか? 

9・11の後しばらくしてのグラウンドゼロを写していたようだ。冒頭、イントロに相当する映像の中で、ビルの横に何か光っているシーンがあったが、しばらくは何を写しているのか意味が分からなかった。シーンが変って、横からサーチライトを写しているシーンになって始めて理解できた。あれも現在ではビルになって見られない一時期の光景だろう。

あの時代のニューヨーカーの感覚を上手く表現していたように思う。筆者はニューヨークなど行ったこともないが、彼らを描いた作品には、東京っ子とは違った思い入れを感じる。同じような巨大都市でも、世界の中心に近い意識、愛憎入り混じった強い思い入れがあるに違いない。矛盾をはらんで酷い町だが、我らの故郷といった感覚か。

9・11は彼らに限らず、世界中に大きな衝撃を与えた事件。特にニューヨーカーには衝撃だったろう。普通なら、復讐~アラブ人排斥~嫌悪と怒りに満ちた感情が巻き起こり、主人公が毒づくように、何もかもクソッたれ!といった態度に帰結するはず。この作品は、その後の反省や諦め、心の安定の後の融和につながるイメージを、異民族の笑顔で表現していたようだ。

主人公の友人役の一人、バリー・ペッパーの役には不満を感じた。証券会社のシーンで仕事が上手くいったのは効果的とは思えない。失敗したり、上司と喧嘩してたりしてたほうが、イラつきや攻撃性、主人公への想いを表すには良かったと思う。俳優の個性としても、もっとエリート面した俳優か、肉体的にタフそうな役者のほうが良かったはず。力の強い大男が、主人公を倒した後でメソメソ泣くと余計に悲しいから。

友人のもう一人、フィリップ・シーモア・ホフマンの役割もよく理解できなかった。他のキャラクターだったら、もっと主人公との関係について深みのようなものが出たのではないか?例えば、ヤク中で主人公の客の一人だったとか、あるいは主人公に何か酷いことをやった負い目があるとか、そんな人物のほうが良いはず。

友情関係に焦点が当たり過ぎないように、あんな描き方をしたのか?ロザリオ・ドーソンのキャスティングにも疑問を感じる。もっと色気全開、あるいは悲劇が似合う不幸そうなイメージの女優でも良くなかったろうか?そういった点に何も疑問を感じないで済むように作っていたら、この作品は「タクシー・ドライバー」をも凌駕する名作になっていただろう。もちろん、このままでも充分な名作だと思うが。

 

2011年9月17日

ニュースの天才(2003)

- 彼はいかにして選ばれたか -

一流雑誌の若きライターである主人公は、次々と話題のニュースをモノにして、一躍スター的存在になる。しかし、出し抜かれたライバル社の記者は、記事に疑問を抱く・・・

・・・ヘイデン・クリスチャンセンが自ら製作にも関わり、主演した映画。興味深い人格の主人公を、上手く表現していたと思う。

仲間を励まし絶えず気を配り、丁寧な言葉をかける様子が解る。何か意図があるからこそポライトな印象を保つ努力をしたのだろうが、認められたい、成功したい、注目を集めたいという欲求のようなものが病的にあったのかも。

始終仲間と触れあい、慰めあうことを求める甘えのようなものも演出されていた。実際がどうだったかは解らないが、そうだったかもと訴える説得力を感じた。脚本と演出の力があったからだろう。

注目され、認められ、高い評価を受けたいと願うのは自然な感情。そのために不正な手段を採ってしまう人間、この作品の主人公はそんなキャラクターになると思うが、説得力があった。ただし、どこから足を踏み入れたかという、犯罪の瀬戸際は描かれていなかった。そういう迫力は目指さなかったようだ。

日本の記事の書かれ方は知らないが、アメリカのジャーナリスト達は度々映画になっている。誰かが記事を書くと、直ちに「裏づけは取ったのか?」と質される。つまりは記者が騙したり、騙されたりした例が少なくなかったからだと思う。嘘の報道をした場合は、訴訟や辞職のリスクは必ずついてくる。

そのチェックをかいくぐって、でっち上げの記事を書いてのけるのは、よほどの完成度と、のめり込みが必要だろう。のめりこみ方は、はっきり病的だったと思う。

同僚達を演じた俳優がリアルな雰囲気を上手く出していた。特に女性記者は、もしかしたら本当も恋人だったのかもしれないが、連帯感のようなものがあったことを感じさせた。ストーリーと直接の関係はないが、人間関係を丁寧に表現したことは、場面のリアルさにつながる効果があった。

何となく、デビッド・フィンチャー監督を思い出してしまった。彼なら、もしかすると誰が犯人か解らない推理劇仕立てにして、ラストで真相が判明するという仕組みにしたかも。

(勤務医時代に)

勤務医時代、隣の診察室で話されている会話を耳にして、言葉は悪いが「上手く騙すなあ。」と感心することがあった。脅迫めいた言葉で、画像検査に持っていこうとする医者は多い。病院勤務の医者の場合は自分の興味や実績を狙う意図や、検査をしないで帰して後で訴訟沙汰になるのが怖いのと両方あると思うが、基本的に検査を勧めることが求められている。

全くの虚構を話しているわけではないから、意図的に騙すという表現には当たらないのだが、ほとんど騙す結果と同じ場合が多い。結果的に病気は見つからず、無駄な医療費、無意味な患者の心配を発生させたことになる。

「やってみないと解らないから検査する。」と言われると、確かにその通りだし、法的にも認められた行為でもあり、時には本当に診断が合っていて役立つので全否定はできない。でも、無駄な行為が大半の医者も多いと、あくまで私個人の印象だが思う。

脳外科のCT、MRIは、おそらく7~8割は不要では? 個人のクリニックでMRIを持つ場合は、本来なら絶対ペイしないはずだが、余分な検査を勧めてペイする方向にしていないだろうか?

大腸ポリープ切除も怪しい。大腸検査とポリープ切除は、切除によって寿命が延びる効果が証明されない限りは意義が不明確。効果が解らないことに医療費を使わせるのは、自分の場合は気が引ける。病院負担でなら構わないのだが。

一回検査を受けた患者達に、手紙を書いて検査を勧めている病院もある。本来なら、定期検査は何年毎が有効という統計を取って、それに従って予定を組むのが原則だと思うが、人間ドック的な検査で医療費から金をせしめている。

健診に医療費を使うのは法的には犯罪だから、医者の大半が本当は犯罪者かも。

真面目に必要性を調べ、根拠を持って検査する先生もいるかもしれない。本当にどう考えているのかは証明のしようがないので、あくまでひとつの意見に過ぎないが、道義的にギリギリ~もしくはアウトの例もないとは思えない。現時点で、ポリープ切除の効果に関するエヴィデンスは希薄。

主人公のモデルになった記者は、解説編に出演していた。テレビのインタビュー番組を載せていたようだが、丁寧な物腰で、はっきり自分の行為の誤りを謝罪し、悪辣な人物には全く見えない。あのような話し方をされたら、疑うのは難しい。ついつい信頼してしまう。

彼は弁護士の資格を取ったとコメントされていたが、言いくるめる才能は確かにあるはずだし、殺人を犯したわけではないので、構わないと思う。ただし、よく弁護士をめざしたなあと思う。

法廷での信頼を得るのは無理では?あちらの弁護士は、法廷でいかに勝つかだけを考える人が多いような印象も受けるが、裁判員の信頼を得るだけの経歴も必要だろう。余計な要因で裁判に負けると困るから、彼に弁護の依頼が来ることは難しいはず。

彼が職場のスター的存在で、厳しいはずのチェックをかいくぐって作品が次々採用されたのは何故だろうか。解らないが、選ばれるための何かを持っていたのだろう。

(選ばれ方に関して)

私が若い頃、未来に絶望したのは、人の選び方に大きな壁を感じたから。自分が人から選ばれるのは難しい気がした。考え方が違うから。

日本が抱えている問題の根源には、人の選び方に関する我々自身の間違った判断の積み重ねがあると感じた。人の選び方=社会の進む方向という面はあるから。

30年前の私の頭の中では、将来の日本の社会はあらゆる分野で構造疲弊を起こし、経済は停滞、政治は小田原評定、頭脳や産業は流出していくことが明白だった。社会のあり方から変えない限り、先は見えていると思った。先走りすぎたが、分析は外れてなかったと思う。自慢にすぎないけど。

もちろん、大半の人は豊かで安定した生活を維持しているから、悲観する必要はないという考え方もある。絶望するなどおかしい。できれば将来への不安要素を減らしたいと願うだけのレベルの話。差し迫った危機はそれほどない。

でも正しい選択をする努力は、長期的には意味があると信じる。今は良いが、将来は悪化すると予測するのは気分が悪い。現時点では、選ぶという基本的な場面のセンスのなさを感じる。それによって、将来が悪化すると考えざるをえない。

原発事故のような危機を、国や会社の力で事前に予防するのも難しかったと感じる。予測できる人間を排除することで、具体的な対処を排除するから。

極端に言えば、社会の隅々で間違った人の選択がなされる結果、理解できない人間に改善策を言っても理解されないし、正しい判断ができない人間に正しい意見が取り上げられるはずはなく、今後もできそうにない。決定できる人間の皆がモラルや予測能力に欠けていて、自信を持って間違う。

自分が生きているうちは、良い方向に向かいうるか解らない。だから、当時の私は無力感に囚われた。今の若い人もそうかも知れない。

周囲は「大仰な考え方しないで、とりあえず自分の生活、金儲け、業績、出世を考えよう。」と、冷静な連中が多かった。彼らは正しい。理解できない人に無理やり言っても意見が通るはずがないし、”敵”は本物であり、既得権が絡むから都合の悪い意見は無視するのが道理。

自分の取り分にありつくことは大事なことで、全体が没落する危険よりも目の前の利益に固執する、それは自然な感覚。既得権は手放したくない。その否定につながりそうなものは許せないから、選択しない。集団の生き残りを優先する私のような人物を、あえて選びたいとは誰も思わない。よほど状況が悪化しないかぎり、私の考えが選択されることはない。

意見が通るためには、それなりの説得力が必要。強制力、目に見える利益配分、または親近感、信頼がないと聞いてすらくれない。客受けする内容でないといけない。冷徹な予測を話されても、「正しいかも知れないが、俺には解らない。」という反応が大半。目に見えないことは判断しにくいから無視、というのが現状。

権威をつけるために社会的地位を上げる必要があるが、どっぷり構造疲労にはまらなくてはならない。原子力関係の学者達が良い例。 御用学者でないかぎり、役職に就くことは難しい。真摯な考え方は、組織の論理とは相容れない。取り立てられて出世することで、自らが社会の害悪になる。原子力業界に限らない。

原発事故の対応を見て、権威があるはずの原子力の専門家は、私の目には能力と真摯さが欠けていたように写ったが、でも彼らは正当な方法で選ばれた人達だった。事故の前までは優秀な人間の代表。でも判断は正しくない。ああでなければ、選ばれなかったと想像する。

彼らは凄く優秀だと思う。あんな事故でも、時間をかけて収束させる能力がきっとある。役人達も、事故は起こしたものの、今後は安全な原発を作る法規制、管理方法を構築できると思う。問題点が明らかになれば、事態を把握して対処する作業に納得してとりかかれるし、作業能力に関しては優秀。

ただ、予防や戦略に関しては得意でない。事故が起こって初めて事態を理解できる。そんな人が選ばれたのだ。そんな人だったからこそ選ばれた、そこが根源的な問題。

選ばれた人物である自民党、民主党の議員も、充分役に立っているとは思えない。試験で選ばれた優秀な官僚集団の対策も、信じがたい手抜かりが多いような気がする。根本的に選び方が間違っていたのでは?今も間違い続けているのでは?戦前のエリートと同じく、戦略に欠けていたと思う。

選ぶセンスがなかったし、今もない、今後改善するシステムもない。今のところ、長い間の国民的努力によって貯蓄は豊富だし、外貨や海外資産も多い、国民の大半が死ぬような大災害も大戦争もないので、日々の仕事に精出して行けば困らないが、過去の資産を喰っていけば、やがて孫達は大変になるだろう・・・

一般に安易な分析をする人のほうが人気はある。希望を持たせてくれないと、選ぶ場面では優位になれない。でも、そうやって選ばれた人が社会を占めてしまったら、どうなるのか。頭の中まで希望だらけではいけない。冷徹な予測は、その集団の生き残りのためには必要。

組織の力を保つためには、異端の人を排除してはいけない。希望を与える人間と、冷徹に予測する人間、チェックする人、画期的な手段に打って出る人、色々な人物を選ばなければならない。選び方にセンスがないから、システムで改善していくしかないと思う。そのシステムを作る能力がある人間がいないことが問題だが、でもシステム構築は不可能ではない。

映画の中の新聞社よりも、もっと酷い選択をやらかしているのが現状。我々自身も反省が必要ではないか?・・・映画を観て、そんなことに考えが及ぶなんて、私はほとんど病的な愛国者なんだわ。

2011年6月13日

ニキータ(1990)

Photo

- グラマーではダメ -

ヤク中の不良少女ニキータが警官を殺し、終身刑の判決を受ける。しかし、彼女は秘密の訓練所に送られ、政府のために裏で活動する工作員に仕立てられる・・・

・・・久しぶりに思い出して鑑賞。この映画は今の奥さんといっしょに観たような記憶。ただし記憶が曖昧。確認すると大変なので、黙っておこうっと。 もう20年以上も前の作品。

久しぶりに観ても、実によくできた作品。良かった点を挙げると、①ニキータを演じた主演女優の体型、風貌。 ②殺し屋を演じたジャン・レノの迫力。  ③そもそもの設定。  

逆に良くなかった点を挙げると、①音楽が印象に残らない、②陰惨なシーンも多い。 ③上官役の迫力は今ひとつ

CGを使ったカーチェイスなどをやらなくても、充分に迫力のある映画だった。冒頭で忍び込んだ店と、レストランで撃ち合いをするのが唯一と言えるほどのアクションらしいアクション。なぜかは解らないが、充分に迫力を感じる。簡単に相手が死んでないからか?

ヒロインを演じていたのはモデルか何かだったのだろうか?個性的な女優だったが、この作品以外には印象に残らなかった。抜群の設定があったからこそ存在感がきわだったのだろう。意外なことにワタシと同い年で当時既に30歳だったはず。随分と若く見えていた。

ジャン・レノの印象も強烈だった。彼のほうは、その後もたくさんの作品に出続けている。印象は強かったものの、見直してみたら意外に登場している時間は短い。早々と撃たれているし、さっさと死んでいる。でも印象には残れた。

サングラスの形が良かった。冷酷だが仕事に忠実な姿に、妙な尊敬すら覚えてしまった。笑ったりしなかったことが良かったのだろう。

この作品はリメイクもされたし、テレビシリーズにもなっている。リメイク版の時は、確かブリジット・フォンダがヒロインを演じていたと思うが、印象には残らなかった。

先日拝見したテレビ版のほうの女優はやや痩せ過ぎの印象の東洋系?の女優。悲しさの表現に関しては、初代には敵わない。単なるお色気ネエちゃんの雰囲気で残念。DVDも発売されたそうだ。

似たような話は昔からあったような気がする。死刑になったはずが、首のロープが外れて・・・という展開はスパイ物で何度も見た記憶がある。違うのは、市民生活を送りながら、本物の恋人ができること、そして心から悩むこと。その表現の良さ。

ボリューム感たっぷりの女だったら、色気が先に立ってメソメソしていても絵にならない。少女体型で一見すると弱そうな女が怖ろしい殺し屋で、しかも恋愛に悩むというアンバランスな点が是非とも必要だった。それが適切だったので、作品に魅力が出てきたようだ。

やはり子供には見せられない作品。恋人といっしょなら、この作品は今でも結構いけてる。

 

2011年5月18日

ニューヨーク、アイラヴユー(2008)

- 摩天楼は希望の灯火  -

ニューヨークを舞台に、様々なカップルが繰り広げる愛~友情~好意の物語を、一種のオムニバス形式で描いた作品。

全体を通じて、おしゃれで静かな雰囲気が流れてまとまっていた。夜景が非常に美しい。公園も広大で凄い規模。ロケーションとして最高。

大人限定の作品。恋人と観るのは正解だと思う。

日本人の岩井という人が一遍を監督したらしいが、特に日本人だからというのはアニメが登場していたことくらいで、ちゃんと全体の雰囲気の中に混じって自然だった。

様々な人種が混在し、生粋のニューヨーカーのほうが少ないかのような特殊な都市で、寄り添う人を求める感情が貫かれていたようだ。ある者は介護が必要なほどの老人、あるものは若いスリなどバラバラの人間だったが、感情には共通点あり。

たくさんの有名なスターが出演していたんで、俳優達のギャラが気になった。

ヘイデン・クリステンセンは、この作品ではケチな泥棒にしか見えない。スターウォーズとは全く違った人物を演じ分けるということは、確かな演技力があるということだろう。

けちなチンピラを演じる時は、その人物なりに何かのプライドを持っている風に見せることがコツではないかと思う。ただただヒネて突っ張っているだけの演技では、それほどの共感は得られない。この作品のスリは、主人公だったからでもあるが上手かった。

オーランド・ブルーム演じたミュージシャンは、それに対して過度に病的で、リアルさに欠けた印象。アル中でないかぎりは、常に床で寝てしまっている人物はおかしい。もっと別の演出があったのでは?

イーサン・ホークが女を誘うセリフは素晴らしかった。でも、ややストレート過ぎたようだ。婉曲的だが、誰にでも解るように話すのが常道。聞き取れた限りは翻訳どおりだったようだが、日本向けには別な表現もありえたと思う。

女優の卵とデートする話は筋が見えてしまった。娘が差別的な扱いを受けて悲しむシーンが欲しかった。そうすれば観客も騙されて娘に同情し、最後にどんでん返しにはまるはず。

イーライ・ウォーラックの演技はリアルだった。御歳93歳?あれくらいの年齢になると、出演するだけで絵になる。

ニューヨークには行ったことがない。危険そうだから住みたいとも思わない。刺激があふれる場所だとは思うが、例えば私達がタバコの火を借りようとしても、断られるはず。そんなことで嫌な思いをしたくはない。

商売をして大儲けを考えるなら、勝負を賭けるために大都市に行くべき。でも医業の場合、所詮は奉仕と考えるのが筋だろう。商売っ気の多い病院は多いが、自分の場合は自分が許せなくなるから、無理に大掛かりな営業はしない。それが私の限界なんだろう。

儲けを考えるなら、最初から医学部なんぞ受けなければ良い。私は散々悩んで学業に手がつかないくらい苦しんで、結局は儲けを諦めて医学部に入ったのだから、方針を変えるつもりはない。もういちど悩みたくない。

もっと派手な人生を求めるなら、ぜひニューヨークででも勝負すべきだ。大都市で起業すべきだ。ニューヨークには、それができそうな希望が沸き起こる不思議な吸引力がある。摩天楼のせいだろうか?少なくとも私達の世代ではそうだ。これからは、もしかするとそれが上海だったり、ニューデリーだったりするのかもしれない。

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