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カテゴリー「に」の14件の記事

2020年3月18日

日中の攻防 2025 

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-青山繁晴・著 -

中国の野心や、それに対する日本の対応に関する著者の意見を主に書かれた本。

中国の野望は様々な本で記述されている。日本人のごく一般的感覚としても、中国政府の発表に不信感や恐怖を感じている人は少なくないと思う。なにしろ特殊な政治形態にあるので、目標を決めると断固として進み、効率が良い。経済発展も早かったし、新型肺炎に対しては病院を短期間で建てる、交通の要所を封鎖するなど、対応が早い。

いっぽうで軍事政権型の独裁政権なので、万事が強硬に進められる傾向があり、相手国の権利や自国民の自由を無視することも常で、覚悟しておかないといけない。理屈で何か考えられたら、心情や相手の都合は無視されても不思議ではない。何を決めて何をしてくるか、戦略的に考える必要がある相手だ。青山氏が強調する危機感は、劇場主も感じる。疑念が多い国である。  

メタン・ハイドレートについては最近よく聞く。NHKの報道番組でもよく目にする。日本のエネルギー戦略を大きく変える可能性があるのかもしれない。

問題は、①採取の方法が確立していないこと、②採取によって地球温暖化を進行させないか、③採算性、④地震にからむ安全性など、多々あると聞いている。近海にあるとしても、人間が潜れるような場所ではないはずだから、潜水艇や大掛かりな採取機械、さらにはロボットなどの助けがないと、事業として成立しえないものかも知れない。費用はかかるだろう。

したがって、今の時点では研究段階の話であり、あくまで将来の可能性を有する資源でしかない。中国が、そんな資源をどの程度狙っているのかは分からない。興味は持っていて、チャンスがあれば事業に参入し、出来れば利権を確保したいと考えているはずだが、それは中国に限らず、どの国もそうだ。米国もきっとそうだと思う。日本政府に圧力をかけて、石油メジャーの利権のひとつにしようとするに違いない。

日本の経済水域の境界を無視してでも入手したいと考えれば、どの国でもやって来ると思う。日本ができることは研究すること、事前に法律を整備し、圧力を受けても海外から利権を簒奪されにくい体制を準備することくらいだろう。力ずくで来られたら、完全に対応するのは難しいので、なるべく有利に行けるよう、そつのない準備が望まれる。青山氏はこの分野に熱心なので、彼が国会議員になったことは良いことかも知れない。  

以前から青山氏の顔は知っていた。テレビ番組に登場して、国家戦略や防衛に関して明解なコメントをしていて印象的だった。でも、明解さと正しさは、また別ものだ。どんな人物なのか、分かりにくいと感じる。今は参議院議員だが、元々は通信社に勤務して、研究所を立ち上げたりしていて、研究が本業と言えるだろうか? 通常の意味での学者ではない。 

「戦略の専門家」の評価は難しい。たとえば手術の専門家なら、手術数や成功率などをみれば力量は判断できる。でも国家戦略の専門家の場合は、指標が少ない。おそらく、過去にどれくらい予想を当てたか、仕事を担当したことがあれば具体的にどのような交渉をまとめたか、その結果どれくらい権益を守ったか、そこらの評価が指標になる。非客観的な、相対的な評価基準になる。

評価は数値化できるものではないので、意見が割れてしまう。能力は客観的に評価しづらい。素晴らしい論客と思えるた人が、実は嘘まみれの誇大妄想癖の人間だったと後になって判明することもある。青山氏の場合も分からない。中国が今後ひどいことをしてくるとしても、それは氏が正しいからではなく、誰でも分かっていることだ。評価の参考にはならない。

氏はまだ具体的に大きな成果を挙げたとは言えない人間だ。氏の個性のせいかも知れないが、口調の鋭さを特徴とするところがあるので、言い過ぎているのではないかと感じる。熱情にかられているのか野心的なのか、説得を焦っている気もする。勉強しているらしいとは思うが、論理の飛躍が気になる記述も多い。学者の文章とは性格が異なる。誤謬を生じやすい話の進め方に危惧を感じる。

そして断言する文章が多すぎる。世の中に明白なことは、そんなにないと思う。たとえば、日本の憲法を作った米軍の人間が、氏に本当のことを言うとは限らない。その人物は偏った思想の持ち主で、軍内部では異端児だったかも知れない。そのコメントが本当かどうかも、担保するものはないのだから、素直に信じたような書き方は好ましくない。人が何か言っても、本人が本当にそう考えているとは限らない。青山氏は騙されているのかもしれない。  

また青山氏の奥様が、まさにメタンハイドレートの研究者らしいので、研究費に関して利益誘導が生じないように、注意も必要であろう。氏が議員になったことで、既に利益相反の問題があると思う。研究の予算策定に関係することは避けるべきだ。夫婦の利益のために本を書き、議員になったなどと言われないように、身辺はきれいにして、疑われることがないようにして欲しい。

旧日本軍の参謀たちも、優秀で明瞭、上官から評価され、威勢が良くて口論では負け知らずだったはずだが、大きく間違っていたのであるから、人の評価には注意が必要だ。言論明解、勢いが良いことは、意見が正しいこととは別のこと。評価の基準から外さないといけない。もし仮に青山氏の見解が非常に優れ、様々なことを正確に予言していたとしても、どうせ中国と対決し続けることはできない。すぐそばにある国だから。

もちろん中国の出方には注意が必要と、劇場主も考える。日本の生き残りをかけての、工夫と忍耐が必要だろう。

 

2020年1月 9日

2020年の正月に(2020)

2019~2020年の年末年始、劇場主は家族で近くの温泉旅館に泊まり、のんびり過ごした。ところが、正月明けてみたらびっくり。想像もしていなかったような事件が起こっていた。世の中には、良い意味でも悪い意味でも、凄いことを考える人間がいるのだと、驚き呆れた。実際の世の中のほうが、映画館より劇場めいていた。

まず、カルロス・ゴーン容疑者が、レバノンに逃亡してしまった。警備が手薄になる事を知って、米軍特殊部隊出身の専門家が段取りを組んだらしい。どうにかして関西空港に移動し、変装するか荷物に潜むかしてプライベートジェット機に乗ったらしいのだが、協力者がいないと難しい仕事だろう。

検察や裁判所はメンツを失ったと思う。逃げられるような金額で保釈してしまった判断ミス。警備や監視能力の低さ、そもそもの危機管理意識の低さ、油断、想像力の欠如など、考えの甘さが露呈してしまった。国内では過剰なほどに厳しく、強大な権力を持っているが、国際的な犯罪には弱い。海外のプロ相手には全く歯が立たないと、自ら証明してしまった。

ゴーン氏が今後どうなるのか、今の時点ではよく分からない。国際手配の対象になるのだろうか?中東や欧州方面になら、出国しても日本が逮捕するようなことはできないだろうと思う。米国に行くと、日米の協定によって逮捕されるはずだ。活動範囲は狭まる。ルノーに返り咲くとは考えにくいが、また活躍する日が来るかもしれない。あるいは、資産運用に徹するかもしれない。

ゴーン氏のような立場になったら、海外逃亡すればよいという悪い例を作ってしまった。ゴーン氏側から、日本を非難する声明が繰り返し出て来るだろう。それをどう考えてよいか、分からない。犯罪者の嘘まみれの遠吠えか、司法制度の犠牲者の真摯な訴えか、いったいどっちなんだろうか?

もうひとつ、米軍がイランの革命防衛隊の司令官を暗殺した。無人機を使って、周囲の人達もいっしょに殺したらしい。イランの司令官がバグダッドにいた理由がよく分からないが、イラクが招待していたのだろうか?

米軍とイランは、イラク国内の基地をめぐって年末にも攻撃合戦があっていたので、緊張状態にはあったが、まさか爆撃して殺すとは驚いた。革命防衛隊はイランの正規軍とは言えないのかも知れないが、公的な立場にあると思う。その司令官を殺すとなると、やはりテロ行為と言える。戦争になっても仕方ないと感じる。

おそらく、本当に戦争を願っているはずはないと思う。劇場主にとっては驚愕すべき怖ろしい攻撃だが、米国にとってはチェスの駒を動かした一手に過ぎず、おそらく最終的にはイランの原油を米国企業が管理することをイラン側が納得するまで、一般人の想像を超える攻撃が繰り返されるのではないだろうか?

もしロシアの石油企業がイラン原油を管理することになったら、どうなるだろうか?ありえない話ではないと思う。中国は良い顧客になるはずだし、3国が集まれば経済圏が大きくなるから、米軍の言うことに従わなくても良くなる。イラン側としては、ロシアと中国の間で埋没する危険性と、米軍に支配される危険性を天秤にかけ、有利な方を選ぶだけ、そんなことも考えられる。米国はイランを遠ざけ過ぎないほうが良いと思いたいが、米国首脳の考え方が分からない。

トランプ大統領の支持率に、今回の攻撃がどう影響するのかも気になる。支持が集まるなら、トランプ氏はさらに強硬な攻撃をやらかすだろう。大統領選に不利になれば、次の大統領がどんなイラン政策をとって来るのか、それによってイランとの関係がガラリと変わる可能性もある。そう思う。

日本にも大きな影響が出そうだ。中東に自衛隊を派遣する予定らしいので、革命防衛隊との戦闘が起こるかも知れない。呑気に温泉に入っているうちに、気がつけば頭上をミサイルが飛び交う状況が来るのかも知れない。

 

 

 

 

2019年4月19日

ニムロッド(2019)  

 - 上田 岳弘 著  -    

IT技術者の主人公、その恋人、映画作りを趣味とする友人、あだ名のニムロッドを名乗る先輩らがからむ物語。文藝春秋の誌上で読んだが、講談社から本が出ているそうだ。いかにも映画になりそうな題材だと思うので、この劇場でも評価したい。

著者は実際にもIT企業に勤めている方だそうで、仮想通貨を扱ったかどうかは分からないが、一般人よりは知識のある方だろう。主人公も著者も現代風と言える。古代の伝説上の人物と仮想通貨、そして無駄な機能を発展させてしまった飛行機、それらを結び付けたセンス、そして物語として表現している筆力に感心した。特に仮想通貨に関する表現力は見事だったと思う。技術者以外の人間が表現しにくい点も、本職ならできるということか。

劇場主はビットコインなどには手を出していないが、今後の可能性を感じることはある。何度か暴落しているのに、いまだに続いているので、また高騰するかも知れない。スマホ決済が流行って行けば、その価値はまた上がるかも知れない。通貨の概念が今変わろうとしているように感じている。この分野も、文学的に表現されるべき時期に来ている。    

採掘・・・通貨を採掘するということは感覚的にシックリ来ないのだが、そのように設定すれば、立派に通貨として成り立ちうることは分かる。要は貨幣の価値を定める設定の問題だ。金や米と交換できる紙を通貨にしたり、外国為替の影響で貨幣の価値が変動したりは、そのように設定されたからであり、別な設定もありうると思う。それが電気信号であっても、たしかにおかしくはない。一瞬で消えそうな不安があるだけだが・・・

怖いのは、IT大国がインフレになったりした場合、流通している仮想通貨の価値も急変することが予想されるが、おそらく外国の通貨に急いで変換しようとする人が殺到し、外国の実質通貨の価値にも変動が急速に起こり、過去になかったほどの大混乱が起こりうる点。 そのような変化は、それこそ電子的に、一瞬のうちに発生すると思うので、気がついたら劇場主の預金の価値がダイコン一本程度になっちゃってた、なんてことになりかねない。 そうなりえない設定が必要だ。でも誰がそうならないと保証するのか? 

作品で気になった点もある。ニムロッド(ニムロド)が登場して飛行機を解説する時、昔の小説家なら、「我が名はニムロッド。」といった風に、誇り高い人物を想定し、古めかしく威厳を持つ言い回しをしたのではないかと思う。人間の王を名乗っており、古代の人物の名を取ってきたのだから、古めかしさをともなうのが普通だ。そこを、「僕はニムロッド。」としたのは、ニムロッドが成長途中の人物で、あくまで現代に生きる人間であり、あだ名としてそう名乗っているにすぎないことを表現しようとしたのか?でも、そんな表現に意味があったのだろうか? 

作品の中のニムロッドは、もともとが将来の小説の元になりそうな話を想定してあったのだから、構語調に格調をたかめたり、なにか深遠で意味深な存在を連想させるような、それにふさわしい語り口がふさわしかったと思う。それでストーリーに悪影響があるとは感じない。古めかしい言い方にして、ニムロッド自身も演劇の舞台の独白のようなセリフをはいて、時代が変わっていくことに不安を抱いている様子を語らせた方が良い。せっかくのアイディアなのだから、カズオ・イシグロばりの格調の高さが欲しかった。

 

 

 

 

 

2018年5月31日

日本軍兵士(2017)

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- 中公新書・吉田裕著 -  

 

著者は吉田裕氏、一橋大学の教授だそうだ。太平洋戦争の反省、検証を試みた内容と考える。 

 

記載されているかっての首脳たちには遺族もいる。首脳たちは敗戦の将だが、家族の心情を考えると記述には注意が必要。かといって同情心全開、忖度とイデオロギーに満ちた賛美のし過ぎもいけない。間違いは間違いとして、純粋に訂正と改善を目指す・・・それが難しいことだが、そう目指すべきと考える。 著者の吉田氏がそのようなスタンスに立っているか、少し疑問を感じた。やや感情的な表現もあるようだ。 でも、概ね学術的に述べている印象。内容が著しく左に偏っていると評価するのは無理がある。 

 

本でも取り上げられているインパール作戦は代表的な失敗事例だと思うが、あの作戦では兵站を十分に考えていなかったのは間違いない。 それが悲劇の直接的原因になっているはずだ。 補給の確保は簡単じゃないだろうが軍隊の基本である。どんな思考回路で作戦を決行したのだろうか? 反対意見もあったろうに、強行を防げなかったのは組織に問題があったからだ。そこを検証し、再発を防がなければ、兵士は「俺たち、無茶な作戦に駆り出されないかなあ?」と、常に思っておかなければならなくなる。それではいかな勇者でも、戦意喪失する。失敗例については、検証を妨げてはならない。気分が滅入っても、検証作業は大事だから、止めてはいけない。

 

歴史の検証は難しい。特にイデオロギーが関係する近代以降の歴史を語る場合は、ひとつの事象を同時に見ているはずでも、解釈が全く正反対になることが珍しくないようだ。そして記録する人にも立場があり、忖度によって記載を変えたり、記録を捨てたりされることもあったのだろう、昨今の自衛隊の日報の記録についての報道を見ると、捨てたり編集したりが普通に行われている。なんたる認識不足。昔はさらに酷かったに違いない。事実は隠されるものであり、真相は簡単には分からない。

 

そもそも中国への侵略が、どうして実行されたのだろうか? 石炭以外の地下資源は、そんなにあるようには思えないので、経済圏を作って欧米の帝国主義に対抗しようと考えたのか? 確かに当時の帝国主義は激しく、日本は不利な立場だったろう。それに中国は大きい市場だ。でも、経済的な意味合いがどれくらいあったのか分からない。また実際に侵略が達成可能かどうか、維持できるかも不透明だ。欧米からの妨害や現地の抵抗を排除できると考えた理屈も分からない。 

 

劇場主は間違いを正さないと進歩しないと考えるので、当時の間違った人達がどう考えていたのか、意志決定がどのようにされたのかに興味はあるのだが、一般的にはそういう考え方は主流じゃない。劇場主こそ間違っていると認識する人も多いだろう。過去のことは忘れようと考える人のほうが多いはずだ。いまさら考えても終わったこと、過去のことについては学者達の見解も分かれるし、イデオロギーに支配された極論も多いので、よく分からない。記録も不完全で、全面的には信頼できない。   

 

検証への抵抗、激しい批判も必ず起こる。論争は避けたいだろう。忘れたいし、都合の悪いことの責任を回避したい。忖度して保身や利益を第一に考えるからか、面倒な検証は気分的に滅入るといった理由からか、様々な思惑が絡んで、闇は闇のまま処理される傾向が続いている。多数派がそんな思惑を持っていると、検証するのが悪いことのように言われてしまう。正確に記録し、検証を続けないと戦いには負けるはずなんだが、もはや集団としての勝ち負けは気にならないのか?     

 

帝国主義は消え去ったわけじゃない。欧米諸国が手法を変えただけだ。野望の活動形態は変遷している。覇権を狙っている国がなくなったわけじゃなく、大戦以前より規模が大きいというのに、それを認識できていない人が多いだけと感じる。より強大な覇権国家が、すぐそこにある。こちらに隙があれば、相手は当然ついてくるだろう。失敗を検証して原因を把握し、学んで改善し次に備える。その姿勢が必要と思う。次の心配がないとは思えない。だから、こんな本は必要なのだ。

 

 

 

2017年3月 3日

ニュースの真相(2016)

Truth


- 疑惑への対処法 -

大統領選の最中、ブッシュ候補の兵役逃れ疑惑のニュースがスクープされる。しかし、証拠書類の信憑性が問題となり、報道スタッフに圧力がかかり始める・・・・

・・・・DVDで鑑賞。作品に登場していたメアリー・メイプスという女性が、この作品の原作となる書籍を書いているようだ。

この作品は、子供には面白くなさそうだ。家族で楽しむ類の映画ではないように思う。テーマは重々しくて暗く、内容は娯楽的とは言い難いし、法廷闘争やアクションシーンのない、きわめて真面目な作品。たぶん政治に無関心な人は、最初から興味を持たないだろう。

ヒロインが正しい選択をしたのかは分からない。しかし、ヒロインの演技は素晴らしかった。ケイト・ブランシェットが役柄にはまっていた。独特のプライドや仕事に対する熱意、懸命さなどが感じられ、アカデミー賞ものの演技だと思った。

物語自体は、あんまり感動できる内容ではないと思う。ヒーロー、ヒロインの活躍を描いたとは言えない。登場人物の家族の協力、同僚達それぞれの対処には、それぞれのドラマがあって丁寧に描かれていたと思うが、スパイ映画のように緊迫感が感じられるものではない。マイナー路線の作品だろう。

そもそも問題の文章の信憑性だが、作品の表現通りなら素人が作る捏造文書ではなさそうで、あくまで印象でしか言えないが、限りなくクロに近いと思う。つまり本当に軍歴詐称はあったかも知れない。でも、この種のニュースの場合は、可能性が高いくらいで報道することは許されない。完全な裏付けが必要だ。報道してしまったことは、やはり正しくない。

軍の情報は残るはずだから、除隊の証明も出来たのではないかと思う。選挙戦に間に合わせるために、無理を承知でやったのだろうか?映画だけでは、そのへんの心理、狙いは分からない。それなのに、この作品のタイトルである「真理、真実」という言葉を使うのは、少し態度がおこがましくはないだろうか?あるいは、米軍の虐待事件を報道したことで、彼女は政権からマークされていて、ワナにはまったのかも知れない。

疑惑の証明が難しい事例では、自分の手柄は放棄し、週刊誌など、他の媒体に情報を売ることも選択肢のひとつだろう。実績を上げるために焦って、大きな失敗をしないように注意すべきだった。失敗を怖れるあまり、萎縮して権力の暴走を野放しにしないことも大事で、公表するかどうか、その判断は非常に難しいものだろう。

最近、安倍首相の周辺でも妙な疑惑があるらしい。疑惑への態度には注意しないといけない。

大阪市の学校法人が国有地を異常に安く入手したと報じられている。学園側が安倍総理を利用したように見受けられるのだが、真相は分からない。総理の側も暗黙のうちに認めていたか、あるいは積極的に関与していたか、今のところ闇の中。夫人が理事に就任していたことが総理の側にはマズイ点だが、まさか夫人の意志によるとは考えにくく、総理の指示ではないか?

払い下げ金額は、明らかにおかしい。あの価格について、問題になると誰も予想しなかったのだろうか?担当の役人は、さすがに将来自分が責任を問われないかと心配しないはずはない。でも政権側に同調すれば自分はなんとかなると思ったのか?あるいは問答無用で上層部から命じられたのか?

あらためて思うに、権力は固定させず定期的に移らないといけない。国民は、その意味がどうしても理解できないようで、与党が固定し、安倍総理の天下が続いている。党の執行部や総理がいかに清廉潔白であっても、周辺は濁ってくる。今回の事例も、起こるべくして起こったのだろうに。

疑惑への対策は、権力の交代だけ。法律の改正だけでは無理。不正行為、大きな政策の間違いを防ぐためには、定期的に政権を移行させることが必須。その認識が不足している。万年与党は諸悪の根源。安倍総理がいかに優秀で、民進党がいかに酷かろうと仕方ない。権力移行を考えないなら、この種の疑惑は気にしないことだ。

疑惑が残るままでは、心が荒む。上層部だけ優遇される場合、誰が命をかけて組織のために行動するだろうか?疑念があれば、組織の力が損なわれる。国家も、その力を維持するためには、疑惑を常に解消しないといけない。信用が大事。能力も望まれるが、信用も必要。

さて、問題の国有地はどう処理されるのだろう?学園の評判はいちだんと悪くなったろうから、もはや経営維持は無理かも知れない。学校の認可も取り消しかも。その場合は、また売却されるのか?日本会議が買うのも、倫理的な問題がある。国が買い戻すのか?

首相の関与は、証明が難しいだろう。口利きに文書を取り交わすとは思えないし、役人が総理から指示を受けたと証言するはずもない。大阪府の担当者だって、松井知事の関与は否定するだろう。ただし否定しても、判断の妥当性は証明できそうにない。疑惑は残る。本来なら、判定の際の議事録の公表が必要だが、公表は渋るだろう。分からないまま終わるのだろうか?

 

 

2016年10月23日

日本のいちばん長い日(2015)

Shochiku

- 松竹版 -

終戦をめぐる軍部、政府のかけひきを描いた作品。28年8月14日にテレビで鑑賞。この作品は平成版で、原作が完成版というのは、何度も改訂されたのだろうか?原作は前にも映画化されたことがあるという。古いほうは観ていない。

観ていないのは、過去の戦争映画に、つまらないものが多いからだ。兵士役が過剰に演技してしまい、善きも悪しきも劇的過ぎるか、作り手の感情がこもりすぎてしまう傾向がある。娯楽作品としては、感情がこもったほうが良いかも知れないが、客観性も必要。

この作品も、演出過多の傾向がなかったわけではない。でも、過去の作品よりはリアルな印象を受けた。いろんな工夫がされていたのだろうが、演出を穏やかにしようという意図が徹底していたのかも知れない。

当事者や家族がまだ存命である時代に、問題の人物を演じるというのは勇気の要ること。悪役の場合は、特にそうだろう。例えば東條元首相や、特攻隊を指揮した大西氏を演じる場合は、演じ方が性悪そうでも善人でも、どこかからか必ず批判が殺到する。批判が必ず起こる内容をテーマにした原作者の半藤氏には、敬意を表したい。物語としてまとまり、作品が成り立っていた。

人の記憶は曖昧なもので、おそらく関係者本人ですら自分の姿を脚色し、過剰に業績を誇ったり、過度に卑下したりするはず。ましてや部下、家族の手記などは、脚色のオンパレードだろう。しかも戦後の米軍の政策によって、米国の都合にしたがった定義付けが必ずなされている。それに反する内容は表しにくい。どう描くかは、非常に難しい問題。

この作品に戦闘シーンはないし、暗殺シーンも直接的な描き方はしていないので、子供でも鑑賞可能かも知れない。ただし、子供が楽しめる内容ではない。あえて恋人と観るような内容とも思えない。

本木雅弘の昭和天皇役は、体格が良すぎることが気になった。もっと細身だったはずだ。でも穏やかな話しぶり、目線の動かし方や悲しげな表情が、高貴な人間の所作を上手く表現していたように思う。作品の質を上げていたようだ。

山崎努の首相役も素晴らしかった。鈴木首相は日清戦争時代の兵士で、80歳くらいの高齢であったらしいから、よく首相が務まったものだと驚く。補佐官がかなり奮闘していたのではないか?終戦が達成できたのは、彼らの能力と運があったからだろう。終戦後、鈴木氏は数年して亡くなったそうだから、活躍によって死期はだいぶ早まったに違いない。

阿南陸相は、この作品の主人公と言える。彼の扱い方が非常に難しい。実像も、死後にかなり脚色されているはずだから、主戦派だったか、終戦を進める方向に当初から決めていたのか、本当のところは分からない。作品では天皇と特に親しい関係だったので、御意志に忠実に行動し、結果的に陸軍を裏切るという解釈になっていたが、実は反乱の首謀者かも知れない。悲劇のヒーローだったのだろうか?

阿南陸相の実際の写真を見ると、役所広司とは全然イメージが違う。失礼ながら、悪役が向くような印象。顔のイメージは大事だ。キャスティングによって、観客の解釈さえ違ってくるだろう。

本土決戦を目指した参謀達の意見が、繰り返し述べられていた。本土を戦場にして、2000万人くらいの犠牲を覚悟でゲリラ戦をやれば、米国は根をあげるという理屈だったようだ。確かにそうなれば長期の戦闘を要し、相手が一般人になると倫理面の葛藤が生じ、米国も行動しにくい。米側の犠牲者も凄い数になるだろうから、良い条件での講和が可能になったかも知れない。戦略的見込みゼロとは言えない。

でも具体的に、どんな条件を勝ち取ることが期待できるかだが、予測は難しいのでは?第三国を介して、何かの保証があるわけではない。当時は日本と利害を共有する第三国がなかった。米軍もソ連軍も、無慈悲に殺戮を続けたかも知れない。そこを考えると、やはり降服が望ましかったと思う。万単位の人的被害は、避けることが望ましい。

2000万という数字は、ソ連が被った死者を参照しているのだろうが、実は独ソ間だけの数値ではなく、恨みを持つバルト諸国などが関与した死者が多数なのかも知れない。しかも日本の場合、国土も狭いし、米軍の攻撃兵器は性能も違う。いろんな点で日本とは事情が違うから、根拠として不適当だろう。根拠のない理屈から発生する戦略は、やはり無謀だ。

ソ連の場合、国民2000万人くらいの犠牲は、彼らにとれば許容範囲だったろうと思う。なんといっても、内戦や粛正でもっと多くの国民を殺した国だから、いまさらという感覚では?ソ連の首脳部にすれば、被害が大きいほど国民の怒りがたかまり、勝敗や戦後の支配には都合が良い。細かい戦術などは、あまり考えなくて良い。日本とは違う。

いずれにせよ、数千万人の犠牲を厭わない参謀は、たとえ戦争に勝ったとしても絶対に死刑が望ましい。悪魔だって、それだけの人間は殺さない。人道的責任というものがある。それだけの犠牲を設定した場合は、もはや戦略と言えるかどうかも怪しい。

若い将校達が天皇の御意志に反して行動する点が、どうも理解できない。作品の中で東條英機が参謀達に、「広義の勤王、狭義の勤王」を聞く場面があった。あれは端的に参謀達の行動を説明しようとした演出ではないかと思う。実際に彼らはあのように教育されていたのだろうか?あの内容が表に出たら、即座に不敬罪に相当したはずだが、公然と問答があったのだろうか?

軍事的な面だけを考えて、反逆を考えるとは思いにくい。軍事面でクールなら、そもそも開戦しない、あるいは戦線縮小して集結し、状況が好転するまで忍耐といった答えに至るはず。相手が攻めにくい状況を維持するのが、戦略の基本だろう。戦略ができていなかったことから考えると、彼らは自分自身の自己実現、自己充実感や出世欲、あるいはエリート意識にとらわれていなかったろうか?

その疑問への答えは、彼ら自身にも分かりっこない。人は無意識に、なんでも脚色していくものだ。自分は国家のことだけ考えていたと思いたいはず。大友皇子の時代から、似たような理屈で武人達は行動したはず。反乱を起こす当事者には、常にそれなりの理由がある。厳しい判断を迫られた彼らには同情もするが、敗戦の責任を思えば、そうとばかり言ってはおれない。

さて、フランスは過去に何度も英国やドイツから攻撃され、そのたびに戦場になって、凄い犠牲を被っているはずだが、引き分けか戦勝国なみの待遇をちゃんと勝ち取っている。国土が広いことや、人口が多く、外国が支配を続けるのが難しい点もあるのだろうが、対処が上手い点も感じる。日本とは対照的な感じ。ソ連スタイルではなく、フランス流のほうが理想的ではないか?

フランス流は逆に、もろすぎる印象を味方に見せてしまい、内部反発を呼ぶ難点はある。組織のルールがしっかりしていないと、収拾がつかなくなる危険性は高い。ルネサンス時代のフランスは、イタリアから見たら政治下手に見えたらしい。当時は国力を無駄に使い、やがて革命も起こったりで、上手か下手か分かりにくかった。今も分かりにくい。

でも一貫して生き残りのセンスを感じる。早々と撤退し、講和に踏み切る。マトモに戦って壊滅的な被害を被ることを避け、余力を残して生き残ることを最優先する、そんな感覚が広く行き渡っているのかも知れない。余力は大事だ。玉砕は戦力の喪失を意味し、より条件の悪い交渉を生じやすい。国力の小さい方がやってはいけないことだ。本土決戦は被害が大きすぎる。

もし本土で戦えば、戦ったという誇りは保て、精神的な面では満足できたかも知れない。今のような米国の支配も拒絶できたかも知れないが、生き残りはもっと大事。誇りは、やがて挽回するチャンスがあると思う。

 

 

2016年8月21日

日本会議の研究(2016)・その二

- 扶桑社・菅野完 -

この本に対して、日本会議側は批判しているらしい。もしかすると、この本は本当に虚偽の内容かも知れない。したがって、これは現時点での感想文である。実態は知りようがないと思う。

この本は日本会議を分析する内容で、多くの批判が含まれていた。著者は自分のことを保守側の人間だと述べていたが、保守にもいろいろあり、日本古来の保守的穏健勢力があれば、明治維新以降の新しい神道、皇道勢力もあり、その中でも穏健派や過激派と、様々あるようだ。互いに批判的になるのも当然だろう。

「京都ぎらい」(朝日新書・井上章一)に書かれていたが、宗教に関わる勢力にも色々あって、敵側まで鎮魂する神社・寺院があれば、味方だけしか祭らない、例えば明治の最高の功労者である元君西郷であっても反乱者だから祭らないという神社もある。情念部分の違いは、各々の勢力の行動に関わるようだ。情動は、人の判断の方向性、生き方に関与するものと思う。

「西郷をどう評価?」→「功労者だが反乱者」→「反乱者は許さない」→「功労は無視」・・・そんな思考パターンがあれば、「第一の功労者」→「無私無欲の反乱」→「敵も味方も同じ国民」→「ともに称えよう」・・・そんなパターンもありうる。情念と理屈が作用して、同じ事象に対し、頭の中での評価が正反対になることがある。おそらく、そのようなことが起こっているのだろう。

仲間以外を冷遇したがる勢力は、昔からいたはず。動物本来の、生き残りのための感覚かも知れない。学校のクラス内部や会社内部の人間関係を思うと、グループに別れて互いに険悪な関係になる場合があるが、あれはグループにいる安心感や、味方への縛り、敵への恐怖などが関係する情動的現象のようだ。ときに派閥争いが組織全体の成果を台無しにする場合があっても、争いに熱中してしまう。

情動以外にも、‘反省’に対する感覚の違いが重要かも知れない。どの団体、どんな主義主張であるかにかかわらず、宗教や主義を根拠として人を鼓舞し、過剰に管理し、悲惨な運命をもたらした場合は、できれば結果を認め、反省すべきと考える。もちろん数十年以上前のこと、例えば大戦中の行状で私たちの世代が責任を問われても、生まれてない時代のことで如何ともしがたい。これは土下座しろ、賠償せよといった意味の反省ではない。

‘反省’にも、いろんなニュアンスがある。反省=謝罪だと、謝罪は絶対に嫌だ!→ 反省も嫌だとなる。このような単一のニュアンスしか理解できないと、態度が強硬になる。・・・そう言えば、平成28年度の戦没者慰霊祭で、天皇陛下は反省のお言葉を述べられたが、無視した政治家もいた。誤訳されて謝罪を要求されたくなかったのかも知れないが、陛下をどう思っているのか、疑問に思える態度ではある。戦前の青年将校と共通する態度。

反省を毛嫌いする人は多い。反省は敗北、弱い立場、弱気を連想させる。だが反省を伴う正確な分析は、我々を強くするためには必要で、道を間違えないため、判断を曇らせず、失敗しないことを目標としてやるもの。謝るための反省ではなく、過去の失敗を把握しているかどうか、その意味での反省を経た思考パターンは、考えのレベルに直結する。都合の良い分析だけでは、低レベルの戦略につながる。

ところが宗教や主義の世界は、まず思考の第一に教義を信じるもので、基本的には理屈抜き。まして教義に関わることを反省するなど、最初から思考の範囲外だろう。いっぽう、国民の運命が関わる問題では純粋に戦略に則って考えないといけない。よって自ずと宗教の影響を排除すべきと決まってくるはずだが、教義が第一と考える人が、そうですかと身をひいたりはしない。

教義第一の人物、あるいは自分の人生での勝利が第一、結果に責任を認める気などない人なら、身を引くことに納得するはずがない。子供の喧嘩で、口を尖らせながら言い合う姿を思い出せば、予想がつく。子供は口喧嘩に勝つことが第一で、正しい正しくないは関係ない。激論に持ち込んで、その場を支配することしか考えない。

結果を認め身を引くこと=自分の敗北、権威失墜を意味するから、当然そうなる。これも自然な成り行きだろう。譲ることを知らない強硬な人は目立つから、指導的立場に立ちやすい。でも、いかに強い態度で、どれだけ理路整然としていても、そんな人物は信用できない。そして、この種の人間の説得は難しいので、大事な判断をする責任者は、彼らの取り扱いに用心する必要がある。もちろん、責任者自身が彼らのようになってはいけない。

国民の運命は、常に厳しく圧力をかける外敵に振り回されている。残念ながら、宗教や主義的な判断が入り込むスペースは、ほとんどない。厳しい世界を生き抜くためには、クールな現状分析と効率的な対処を繰り返すしかない。したがって、宗教関係者は基本的に政治の世界からは引っ込むべき。現行憲法は、その意味で国民を守る内容と評価する。

もし宗教家が国を愛するならば、己の分をわきまえ、必要に応じて政治から距離を置くのが本道。多くの宗教団体は、そうしていると思う。右翼も左翼も同じ。極端な政治信条で、大事な政治判断を曇らせてはならない。宗教や主義主張を捨てる必要は全くないが、政治家と利益を融通し合ったり、選挙の際に票をとりまとめたりは、国家の行く末を危うくするだけで、結果的に教義をも逸脱する。

どのように真摯で純粋な考えがあろうと、国民や皇室を、再び危険にさらして欲しくない。

会議は今後、発展するだろうか?国内では、さらに支配的になりうる。中国が圧力をかけてくると、国内の状況もエスカレートするだろう。でも、キリスト教国やイスラム圏で勢力を伸ばすのは非現実的。米国の利益を侵害しないなら生き残ってはいけるが、勢力は国内に留まると思う。そうなると、立場は厳しい。国内の支配だけ可能でも、今は鎖国の時代じゃないのだから、海外との利益調整は必ず必要。

リアルな国際舞台において、クールで戦略的な敵を相手にすれば、宗教的な国内と、リアルワールドである国外で態度を変える必要が必ず出る。そうなると、主張の一貫性を維持できない。矛盾が表面化し、破綻、あるいは過激化、分裂が予想される。戦前がそうだったと思う。

この本を読んで、改めて過去にたどった道を連想した。

2016年8月15日

日本会議の研究(2016)・その一

- 扶桑社・菅野完 -

新書コーナーの売れ筋上位に置かれていたので購読。日本会議については、全くの前知識なしだった。記載されたデータの信用性は確認しようがないものの、この本は資料を入念に集め、裏付けを取るように努力した力作であると感じた。かっての田中角栄研究と似ている。内容に偏見が入っている可能性はあるとしても、真実に近い部分は多いだろう。

ただし、日本会議側は、この本には虚偽の内容が多いなどと批判しているそうで、訴訟沙汰に発展する可能性もある。今後の経緯次第では、本の紹介をした文章にも問題なしとは言えないかも知れない。もし著作側が敗訴したら、この文章全体を嘘に踊らされた内容として忘れていただきたい。

かって石破氏が自民党総裁になれなかった時、妙な水面下の交渉の存在が感じられたが、あれは非常に怪しい動きだった。米国の意志か、もしくは何かの宗教か政治団体がらみかと疑ったが、正体は分からない。憶測に過ぎないのだが、その後の状況を見ていると、日本会議が関与していても不思議ではない。

さて、日本会議を宗教団体と認識すべきか、右翼団体と括るべきか、その点は本を読んだ後でも分からない。おそらく、多様な団体の集合体で、意見も様々で一括りにできないのではなかろうか?構成する各団体が、一致団結して動くのは難しいと思う。

戦後は政教分離が原則となったので、今の宗教団体は教団を名乗らない傾向がある。○×学会、◇×会議など、学術団体と区別が付きにくいように、おそらく意図的に工夫している。宗教をそのまま名乗るのは、昔からの名門宗派か、もしくは税制上の理由から宗教法人と言いたい営利団体くらいか?そのため、右翼も純粋な神社関係団体も、区別がつきにくい。

実質が宗教法人であるなら、政治に関与しないのが現行憲法上では当然のはず。ところが、与党がそもそも宗教団体と密接な関係にあり、規定を無視してしまっている。いびつな構造だ。政教分離は事実上破綻しており、おそらく司法や検察、某国情報機関との間でどのようにか‘手打ち’が成立したのだろう。憲法の番人であるべき存在は、その仕事を放棄したのか?

こんなこと気にしても仕方ないのだろうか?政界、法曹界には、矜恃の観念など元々ないのかも知れない。一般人なら仕方ないと思うが、国の中心が法の精神を曲げるようでは、やがて後悔することになるはずだが・・・・しかし、組織が理念によって成り立つのは理想に過ぎず、力関係や利害調整、出世欲などによって運営方針が決まるのは、どの世界でも似たようなもの。腐敗は免れえない。

ただし言えることは、偏った政治信条の圧力に安易に乗ったらどうなるか、歴史をみれば明らかだ。どこの国も宗教や主義の熱狂で、凄い数の人を殺してきた。法を遵守する必要性を認識していないと危ない。「あいつらは強硬だから仕方ない、法を曲げて言うことを聞いとこう・・・」 そんな判断が現実的だと思っていると、ずっと後になって抜き差しならぬ状況に陥るかも知れない。

この本の分析の通りだと、今の状況が変わる可能性は低い。宗教や政治信条の意味など、普通の人間は考えたがらない。選挙となれば、身近な利害関係でしか投票しないから、長期的な展望が効かない。かってナチスが投票で選ばれたのは、民主的な選挙によるというが、あのようなことも繰り返されるだろう。 隠れた支配権を確立している勢力は、よほどなことがない限り、勢力が衰えるとは考えにくい。

右翼団体に、かって意義はあったと思う。もし左翼が幅を効かせたままだったら、国は米国との関係を維持できず、国土が戦場になっていた可能性もある。そうでなくても、テロや暴力沙汰の応酬は続いていたかも知れない。政治的な面に多くの国民がシラけたのは、左翼が自滅した部分が大きいが、右翼のおかげもあったと思う。赤軍派みたいな連中が国を支配したら、いまごろ大変だったろう。

でも今日は、左翼勢力が幅を効かす時代ではなく、完全に逆。ネット右翼のような勢力が、国益を侵害しないかと危惧される時代。どんな信条の人でも、国益優先で行動して欲しいものだが、自称愛国者たちの自己実現欲や権力欲は、国益よりもずっと優先される傾向がある。いかなる団体も純粋な心だけでは成立しないので、それは自然のこと。

歴史に鑑みて、劇場主は政経分離の方針に賛成する。神道を利用して権力を持ち、国を危険にさらした勢力が存在したことは確か。これは米国や中国に強調されるまでもなく、否定し難い史実だろう。宗教が害悪だなどとは思わないが、個人の野心がからむと、とんでもない結果につながる場合があると思う。

そんなことを気にさせる本であった。

2015年3月 2日

21世紀の資本論(みすず書房)

- 欲に耐えるべし -

トマ・ピケティ教授著の「21世紀の資本」が評判なので、買ってみた。5940円もしたので、ちょっと高すぎる。その内容だが、経済学用語についてはさっぱり分からない。そのため特に前半部分は理解不充分。また、理論的にも感服できない。高額資産に課税すべきという結論が文章の随所で述べられているので、論理性には欠けていて、最初から結論ありきに過ぎる印象も受けた。1回では用語が分かりにくい。

時間を作って二回読んだら、少し理解できた。すると、どうも日本語の訳がおかしいことに気づいた。学者が翻訳しているのだろうか?日本語になっていない文が多い。言っちゃいけないが、日本の経済学者にロクなのがいないことが証明されたのかも。

結論に真新しさはなく常識的なもので、ピケティ以前から新聞等にも繰り返し述べられてきた内容。格差是正、海外のタックスヘイブンへの対策の必要性は、既に指摘されて久しい。そういった内容に対しては米国流の反撃があって、なかなか世論の大きな潮流になれていなかった。評論家達はメディアお抱えの人たちばかりだろうから、自由貿易しかないという意見がほとんど。

安倍政権の方針は、米国のシカゴ学派などの潮流から発生していると思う。米国の意志に従った勢力だろう。そもそも首相誕生の流れは不自然で、米国の意志が関与していたように見えた。日本政府への米国からの要求は、おそらくはビジネスマン種族の要請に準じる形で、米国政府の要求として求めているものだろう。それに沿った政策は、基本的にはピケティ氏のとは反する方向にある。

これだけピケティ氏が人気になると、今後予想されることは以下の通り。

①反ピケティ運動・・・シカゴ学派に準拠する勢力が、何か仕組んで反発してくる可能性はある。特に米国でピケティ派が大きな活動を始めた場合、論拠となるピケティ氏の評判を下げる必要がある。何かのスキャンダルが発生しないだろうか?美人局的にインタビューさせるワナなどありうる。米国のインタビュアーにはモデル並みの人が多いから、色気でピケティ氏を陥落させないとも限らない。肉欲に耐えるんだ!ピケちゃん。

②米国の選挙に影響が生じるか?米国の選挙は、ウルトラ右翼で人類のことなどおかまいなし、自分の利益以外は考えない連中が激しく活躍するという。連日の祭り騒ぎがほっとして、我に帰った有権者が「いやいや格差の是正も必要よ。世界ではそれが主流だもん。」と気づいた場合、一気にその票を取り込もうといった動きが出てくる可能性もある。アカだ!と攻撃する連中と、格差打破を叫ぶ連中が激しく戦うだろう。米国のマスメディアで、日本ほどピケティ本が報じられているか、圧力がかかって報道が控えられているか、その辺に興味がある。

③欧州対米国企業との諍いが生じる可能性。欧州はピケティ派が主流を成すかも知れない。政府もそれを無視できず、多国籍企業への風当たりが強くなり、課税の動きが出るだろう。すると米国との関係に変化が生じるはず。米国政府はもろに企業体の人間が補佐官に陣取っているはずだから、意見の調整ができるか予想は難しい。米国だけ企業体が優勢のままか、欧州の流れに押されるか?その時にロシアやイスラム諸国との関係に何か重大なことがあったら、壮大な妥協が生じる可能性もある。

④本当に多国籍企業に何かの課税があるかもしれない。そうなると、企業は対抗策として中国やロシアへの逃避を考えないだろうか?ピケティ理論は、企業にとれば脱出の理由になりうる。欧州や米国が強制できない地域に逃げる、それが最も単純な対策。中国なら欧州のルールなど気にしないから喜んで受け入れ、結局は課税が難しいといった情況もありうる。そうなると、理論も絵に描いた餅。あんまり効果を期待できないことになる。

⑤日本がどうすべきかだが、日本人は学習意欲旺盛だから、学会の中ではアベノミクスだめ、ピケティ派万歳という大きな潮流が発生するかもしれない。すると日本の巨大企業や資産家たちは、やはり海外逃げ出しを考え、産業空洞化と税収不足が起こって、またまた景気財政が悪化し、それ見たことかとシカゴ学派が復権・・・そんな二転三転のシナリオも成立しうる。

⑥日本の政府もマスメディアも、米国の意志の下にある。だから、ピケティ派は大きな潮流にはならないかもしれない。ピケティ派の学者は教授になれず、テレビにも新聞にも登場させないという大きな方針がトップダウンで来るかも。シカゴ派の学者達が揃って論陣を張って宣伝に走るか?ピケティ氏の資料によれば、既に長年の黒字分は内部留保か海外投資されているらしい。それが、そのまま国外に逃げるだけだろうか?

ピケティ派の第一の問題は、実際の政策や税制に影響しうるかどうかということ。敵は根深い所でメディアや政府、議会を握っているから、なかなか正面からは戦えない。

海外と多少は事情が違っても、日本にも一種の氏族意識が強い人は多い。平等よりも、自分の家族の豊かさが圧倒的に大事。資産課税には拒否反応、自分の資産に影響する税制は許さない。格差が是正されようと興味はなく、心情的に反対のはず。まあ当然だろう。誰でも金を取られるのは嫌だ。彼らが態度を変えるのは命令に対してだけ。そんな心情は利用され、反ピケティ運動に利用されかねない。理論がいかに正しかろうと、ピケティは悪魔の手先と言われるだろう。

最近の税制改正で、生前贈与に関してはかなり緩和されたらしい。政府も資産を流動化させる必要性は充分に理解しているはず。なんといっても予算が足りないのは明らか。予算の元がどこにあるか考えたのだろう。ただ、本当に有効な手段である企業や資産への課税には強硬な反対が予想されるので、手をすくめている状態かも。

筆者が思うに、仮に資産税を強化するとしても、個人資産には今のままが基本であるべき。中間層を保護するのが目標なんで、中間層の上部に位置する小資産家には影響を少なくすべき。せいぜい相続税の調整による、緩やかなものが望ましい。本当の敵はグローバル企業や、桁外れの資産家だけであることを強調しないといけない。小資産家は保護しないと大反対を生じる。どうしたって、ファッショだ!アカだ!といった批判は必ず浴びるだろうけど。

何かの理由で格差問題がもっと大きな政治的ウェイトを占めれば、合法的に有効な対策がとられる可能性もあるが、ふつう高齢の人たちは孫がどう懇願しても、感情的に資産税には反対だろう。孫自身も、資産がある子は当然反対する。頭では考えきれない。大半の人が無資産に近づくほど事態が進めば、さすがに皆も正気になるかもしれないが、そこまで待つべきではないだろう。

事態が悪化する前に対処できるとしたら、外圧か強制しかない。強制が働かない場合は、ズルズルと破綻に向かうはず。効率の良い投資が出来る集団が資産を集め、その究極の姿はSFチックになる。少数の支配層と大多数の貧乏人の世界だ。バカバカしい話。中間層が保たれるようにしないと、若者は結婚や出産を控え、共同体全体が沈没する。そんな政策を皆が支持するなんて・・・・でも現実、支持されてきたのだ。理解は難しいのだろう。

筆者なんだが、筆者には資産がないので、大儲けは諦めている。若い頃に相当考えたことで、もう30年以上前に筆者はデータなしでピケティ理論にたどり着いてたから、元祖ピケちゃんと呼んで欲しい。 氏との違いはデータの裏付けがなかったことと、諸悪の根源を企業におく事。企業の中枢であるビジネスマンや投資家も確かに凶悪だろうが、個人より企業体として考えるべきでは?あちらのビジネスマンは、一人では行動しないと思う。

今は、成功を夢見る時代ではない。学問がなくても、普通に考えれば分かるはずだ。よほどな幸運、経済成長の勢いがないと、無資産の人間にできることは少ない。能力だけでは、自然の成り行き(資産の集中)には抗えない。壮大な神話の時代は去って、新参者には厳しい時代。そして穏やかな人間は、自分の精神衛生を考えても、商売に徹する生き方は選べない。感謝や協調を基本としたい。

もともと税率というのは、機会均等を維持できるように様々な調節をすべきだろう。古来、そうされてきたはず。どこかに資産が集まるなら、普通に考えても課税強化が望ましい。タックスヘイブン対策も必要と思う。G8などで策を練るべき第一の議題だと思う。成長に直結する問題なのだから・・・・筆者はピケティより前から、21世紀資本論をぶっていたのじゃ・・・・結果、世間から浮いちゃってる。

浮いてしまう理由は色々あるが、「俺は努力して今の自分がある。それを否定するな。」という意識がある人は、感情面で筆者の意見に同調できない。それが理由のひとつになる。成功神話に取り付かれている人にとっては努力=財力=成功=評価が当然で、努力が通用する時代だからそうだったとは考えたくない。努力の及ばない富の集中や、経済の膨張縮小が人の生き方に関わることを、どうにも理解できない人が多い。

筆者の態度に問題があることも確か。日常で30年も格差問題を考えている人間は、普通いない。気味が悪かろう。しかも人の努力を評価しない、敬意を示してこないとなると、ロクな人間とは思えないはず。最悪の評価とあいなる。

とにかく筆者は資産家になれない。教育資金を捻出し、ローンを返すのに汲々。でも、それが結構楽しい。変態だろうか?・・・ピケちゃんがどうなろうと巨大企業が海外に逃げようとも、筆者には変わりがない気がする。ピケティの本を完璧に理解できても、それで何かできるとは感じない。格差是正は必要だが、世間は未だ違う風潮が主流で、ことの意味を違ってとらえている。

当面は何も変わらないだろう。でも、どこかの国がいち早く格差是正に成功し、経済成長したら、急に変わるかも知れない。手本があれば、問題点は明瞭になる。どこか、そんな国があるか、だが・・・・

 

2015年1月31日

西の魔女が死んだ(2008)

Asmikace

- 耐える意味 -

田舎で一人暮らす祖母の下に、登校拒否に陥った少女が同居する。少女は祖母が実は魔女だったという話を聞かされる。少女の魔女特訓が始まる・・・

・・・素晴らしいアイディアに満ちた話だった。祖母が魔女という設定、少女の傷ついた心が癒される流れ、少女の成長などが美しく、健全な形で描かれていて感心した。元々は梨木香穂氏の児童文学書が原作らしいが、児童文学に留まらない拡がりを感じる話だった。

祖母役のサチ・パーカーも、孫役の少女も非常に存在感を見せていた。前半部分ではさすがにパーカーのセリフが不器用すぎる印象を受けたが、それも徐々に慣れて後半では違和感を感じなくなっていた。少女役のキャスティングも素晴らしかった。もっと可愛い娘だと、多くの場合は演技力の点で納得できない場合が多かったろう。そこらの娘のような平凡な外見と、生き生きした表情が素晴らしかった。

少し思ったのは、魔女役はイギリス人でないといけなかったのかという疑問。日本人でもそれほど不都合はなかったのではないか?どうせ童話のような話なんで、日本人の魔女がいても不思議には感じられないのでは?作者はイギリス在住が長かったようなんで、そこの文学の匂いにこだわりがあったかもしれないが、必須の条件だったとは思えない。

日本人で、怖い顔をした女優ではどうだったろうか?魔女の雰囲気が出ている人なら、怪しくて何かが起こりそうな気配が、作品の良い魅力となったと思う。

気味の悪い隣人役や、愉快な郵便局員など、脇役も良い味を出していた。文学的な設定や、セリフの内容なども非常に高度なセンスを感じた。本職の文学者でないと出せない雰囲気なんだろう。

この作品はもっとヒットしても良かったと思うのだが、確か熊本市では電気館で少しばかり上映されただけで、テレビコマーシャルもなく、いたってひっそりとした上映だったように思う。商売がかっていない作品ではあるものの、何か訴えるアピール力に欠けていた面があったかも。

実際に魔法を何か見せるという手もあったかも。ささいな術のようなものでも良く、それで何かが大きく変ることはなくても良いが、少女には意味が分かり、その術で自分が癒されたのだと感じることができる何か、そんな演出はあざといということだろうか?

登校拒否。幼い心が深く傷つき、疎外感や不安でいっぱいになるのは可愛そうだ。自分が子供の頃は拒否など全く考えることすらなかったが、実は知らないだけで学校に行こうにも行けない児童は多数いたに違いない。ある子は自宅に引きこもり、ある子は施設などを介して世間に出ていたのではないか?おそらく中卒で就職する子も多かったから、登校しないまま卒業して就職し、問題化しない場合もあったのでは?

昨今は高学歴が当然だし、昔より経済的に安定した家庭が多いから、学校を出て仕事に就く必要のない場合は、そのまま家にいることになり目立ってしまうかもしれない。登校拒否の実数が増えているのかも。競争が激しく、他人をいじめることで戦いの本能を維持する連中がはびこると、どうしても家に逃げ込まざるを得ない子供は増えるだろう。

子供自身の能力や精神状態も大きなウェイトを占めているに違いない。酷い待遇を受けても、負けん気の強い子供はかなり耐えることができる。でも闘争本能に欠ける子や、耐える意味を見出せない子供は耐えられない。つまり相手に勝つ意味がないと自然に判断している子がいるのかも知れない。その子が単に孤立したといった安易な分析は、もしかすると本質から外れたものかも。

夏目漱石や芥川龍之介の伝記や作品を読んでいて、彼らのような感性の持ち主は一般人と話をするのも嫌だったのではないかと感じることがある。英文学者として共通する価値観は、一般の日本人とは少し解離している。「こころ」の先生や芥川自身は、帝国主義国家としての当時の風潮に違和感を感じ、行く末に関しても誰よりも優れた感覚で見抜くことができたのではと、なんとなく感じる。

日々の人々の判断、話の内容、国から発表される方針などを聞いていると、誰でも世間の風潮というものが感じられる。筆者は経済に関して学んだことはないが、それでも風潮と現実を比べて、景気の動向や国の成長具合は分かる。行く末が分かり、現時点の出来事の歴史的意味も、それなりに分析できる。改善を目指さない人々が嫌になる。おそらく芥川などは、もっと鋭く予測し不安でいっぱいになっていたのでは?

皆といっしょに社会を良い方向に向けようと考えると、皆のことなど考えたくない人物からは邪魔だ。「皆のための意見だってよ!俺には嬉しくない。」と、他を出し抜こうとする人からは排除されやすい。何か良い方針を訴えた時、それが全く支持されず、力関係の都合によって無視される・・・それが支配的な構造となれば、希望など持ちようがない。

なすべきと納得できる方向に皆が向かっている時期は、たとえ苦しくとも我慢できるが、おかしな方向に世の中が移っていると、芥川流の‘ぼんやりとした不安’に取り付かれてしまいやしないか?嫌にならないか? 登校拒否する子供は、社会の認識と自分のセンスの違いを感じているだろう。子供のほうが能力的に劣っている場合も多いだろうが、この社会は間違い続けている可能性も高いとしたら、彼らは先を読むことが出来る子供かも知れない。

仮に家庭も学校も社会全体も大きく間違っており、妙な方針でやたら強硬なことばかりやっているとしたら、優れた感性の持ち主は社会の中で耐える意味など感じない。・・・問題はそんなことだけじゃないとは思う、やはり彼らは勘違いしており、克己心や敢闘精神に欠けるだけかも知れないが、例えば経済で言えば20年くらい国の成長率が伸びないのは、資源がないことだけじゃなく、妙な判断が幅を効かしているからと思う。我々は間違っていたし、今も間違っているはず。

 

 

 

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