映画評

  • 当劇場は劇場主のための映画館です。訪問者を期待しておりません。内容の客観性、正確性は保障できません。でも、真摯な批評を目指します。

劇場主


Conflict of Interest

  • 特にありません。

おことわり

  • 当劇場は誹謗中傷を目的としておりません。もし権利を侵害されたと感じられた方は、申し訳ありませんが管理会社や公的機関に御相談ください。

カテゴリー「な」の29件の記事

2019年5月 2日

なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議(2019)

Photo_49
-半藤一利著 - 

軍OBの座談会の録音テープ内容を書籍化した本だという。著者の半藤氏は、太平洋戦争の研究で知られる方。「日本の一番長い日」などの作品が映画化されている。この本は座談会の会話で映画化されにくい内容だから、たぶん本だけで終わると思うが、特番などには使われうるのではないか?

軍が、戦前にどの程度の勝算を持っていたのかは気になる。なぜ戦争を始めたのだろうか? 上層部の間では、石油がなくなるまでの数年間は戦えるという目算はあったように書かれているし、実際にもそうだった。長期戦になると、燃料資材不足でジリ貧がやってくることも共通認識だったようで、これも実際にそうなった。彼らの認識が間違っていたわけではないと言える。当時のエリートたちだから、能力はかなりあったはずだ。問題は、それに対する対処法だと思う。そこは大きく間違っていたようだ。

①まず、ジリ貧は嫌なので思い切って勝負を挑み、後は新たな展開を期待するいう考え方は、さすがにムシの良い論理だと思う。戦争は常にそんなものなのか? 窮余のあまりにそんな結論が出てしまったのだろうか? でも無責任な話だ。 国の方針をイチかバチか方式の考え方で決めてもらっては困る。目途が立たないなら、勝負は避けるべきだ。困った状況でも最悪を避け、対処が可能な状態を維持するのが上層部の責務だと思う。 

②戦う前に既に勝負ありの状態になったのは、その前の段階で間違っていたからだ。 米国は現在も経済封鎖を、圧力の大きな柱としている。今の時代だとイランや中国がその対象になっており、ベネズエラなど、経済規模が小さい国では大混乱が起こっているから、経済力の強い米国ならではの強力な武器だ。米国だけじゃなく歴史上、世界中どこの地域でも、封鎖は戦いの定石だ。予想しないといけない。 戦前の日本は、攻撃対象にならないようにと、なぜ考えなかったのだろうか? 

資源を輸出してくれる米国との戦いは、他の資源国が支援してくれない限り、負けと決まっている。当時だと、米国相手の戦いで味方になってくれる資源国はないのだから、戦うという選択肢は最初からなかったはずだ。強い味方が出てこない限り、我慢する必要がある。そこを重視した議論があったのかどうか、この本でも曖昧だった。出席したエリートたちも理解できておらず、その議論に参加できていなかったようだが、それは不思議な感じもする。最も重要な点だと思うのだが・・・ 

③松岡外相の責任  本では松岡外相に対して厳しい意見が多かった。松岡外相が戦争に積極的だったというのは本当だろうか? 元軍人たちとしては、彼を悪者にして自分たちを有利にしたいという考えが共通してあるのかも知れない。 軍人以外の有力者は、敵と感じてしまう癖があるはずだ。松岡外相は米国の大学を出た人間なので、その国力を知らないはずはない。何かの勘違いがあったのか、彼も軍部に流されたのか、そのへんは分からないと思う。

④世論の問題もきっとある。その当時の世論は、新聞の記録を見る限りでは戦争に肯定的だったようだが、記録に残っていない一般人の感覚は、また違ったものかも知れない。その点を検討した本は少ない。もっぱら新聞を参照して当時の国民が好戦的だったと論じているが、新聞は軍部に支配されているし、受けねらいの極論が多いはずなので、実態は分からない。 戦地に送られるのは選挙権を持たない俺たちだ・・・残された家族はどうなる・・・と考えると、積極的になれたかどうか?   

根本的な欠陥が、当時の軍や政府にあったと感じる。

A 意思決定が論理的にできない仕組みがあったようだ。非論理的な戦いをしたのは、それなりの論議しかできなかったからだろう。  

B 記録の不足 誰が間違ったか分からない点が、そもそも許し難い。失敗を繰り返さないために、会議の内容は完ぺきに記録されないといけないし、概要を将校たちが納得できないといけない。理解しないと戦えない。エリートたちですら方針を分からないなら、戦いようがない。 

C エリートの質への疑問 本に出て来たOBの会話は、あまり理路整然としていない。質が低いと思う。座談会だから当然かも知れないが、テーマを考えると、もっと理屈があって良い。エリートたちは、もしかすると威勢と記憶力だけが良い、理屈嫌いの優秀な学生だったのかもしれない。 

戦後の日本は随分開かれた政治体制になったが、同じような間違いをしそうな気配は濃厚である。意思決定が恣意的、忖度が蔓延、記録は消去され責任回避が常態化、過激な意見に支持が集まり理屈がない。そのままである。   

 

 

2018年9月21日

七つの会議(2016)

Photo

- 池井戸潤・集英社文庫 -           

 

大手メーカーの子会社でパワハラ騒動が発生。怠け者社員を課長がやり込めたのがパワハラになったのだ。騒動は、やがて会社を揺るがす騒ぎに発展していく・・・・ 池井戸潤の小説の文庫本を購入。充分に楽しめた。      

 

この話の構成方法は、同じく池井戸氏の「銀行総務特命」に似ていると思った。雑誌に掲載されたものかも知れない。独立した読み物の各々の章が、結局は連続した流れで結末に向かっていく。誰かの視点で各々の章は進んで行くが、会社の中でのことだから、互いに関係しあい、時には敵となり、時には協力し合って、やがてかなりの人達が運命を共にしていく、まるで大河ドラマのような話になっていた。           

 

考えてみれば、多くの企業がこんな仕事を積み重ねているのかもしれない。新しい商品を生み出し続け、売り込んで成長し、新しい社員が次々登場して行くばかりではないはずだ。以前からの契約を破棄されたり、価格を下げるように圧力をかけられたり、苦しい交渉を繰り返していることだろう。それは、さながら歴史小説ばりの、壮大な物語になると思う。切り合い、殺し合いになっていないだけだ。        

 

さらに感心したのは、各々の章で主役となっている人物の、出身、成長の話が盛り込まれていた点。悪役と言えども、それぞれの会社員は苦労して入社してきたり、家庭が犠牲になっていたり、面白おかしい人生ではなかったはずで、会社で成果をあげるだけ頑張れるのは、頑張らざるを得ないだけの理由があったのだと、その人物紹介で理解することができる。そこが徹底していたので、人物に実在感のある共感しやすい対象として感じることができた。         

 

この物語でも、問題の中心は「ネジ」になっていた。池井戸作品ではたびたびネジの問題が出て来る。確かにネジは重要な製品で、精度が少しでも狂えば、巨大建造物も簡単に壊れてしまう。でも製品の単価は安く、多くの場合は町工場が大手の製造所から委託されて製造しており、契約更新のたびに怖い思いをしていると想像される。中国製品との競争も、大きな問題になっているはずだ。池井戸氏が銀行勤務時代に、実際にそんな現場を担当していたのかも知れない。        

 

日産やスバル、製鉄業界で法令違反が次々明るみになった時期があった。不正行為への誘惑は、業種を問わずあるものらしい。よほどな足枷がないと現場に侵入し、蔓延化していくものだろう。上司から強要された場合は断りにくいが、その上司だって保身のためには平気で裏切るものだ。劇場主にも経験がある。劇場主の場合は断ったために実際にクビになったが、大きな会社じゃなかったから悔しくもなかったし、生活に困ることもなかった。事情によっては、断るには勇気が要る場合もあるだろう。 

 

 

2017年11月 1日

ナイスガイズ(2016)

The_nice_guys

- Warner Bros. -

私立探偵と問題処理屋のコンビが、ある女性の探索を依頼されたことからはまる、巨悪との戦いをコメディ・タッチで描いた作品。DVDで鑑賞。

懐かしいタイプの作品で、劇場主は満足できた。劇場で鑑賞するとなると、ちょっと損した気分になったかも知れないが、おそらく若い人がデートで観る場合は、ちょうど良い程度に笑え、爆笑には至らない、充分には満足できないかも知れないが、我慢はできるからちょうど良いといった作品ではないだろうか?

「探偵はBARにいる」と似た作品だった。この種の作品のオリジナルは、おそらく古いコメディの何かにあると思う。おそらく映画誕生の前の舞台劇や小説だけの時代からあり、チャップリンの作品にも共通する部分を感じる。デコボココンビが、最初は殴り合いの関係から始まり、ともに危機に瀕し、やがては友情で結ばれ、敵を倒すというパターン。

探偵役は抜けていて、腕力に欠けるのがお約束。今作品ではライアン・ゴズリングがアル中のダメ男を演じていた。彼の娘がしっかり者で、協力して探偵業務をこなすところは面白かった。こんな娘役も、よく見るパターンではあった。

ライアン・ゴズリングがアル中役に合っていたかどうかは、少し疑問に感じた。日本の大泉洋は、表情や声が実におかしいが、ゴズリングは少なくとも話し方までおかしくはない。本職の喜劇役者が演じたほうが、きっと役柄の魅力を引き出せたのではないかと、劇場主は思った。

腕力担当はラッセル・クロウが演じていた。通常、この種のパターンでは、腕力担当者は極めてクールであることが望まれる。松田龍平は無表情で、考え方にクセがあることが、その行動からも直ぐ分かり、より個性的だったと思う。徹底が足りなかった。性格の設定の点で、「探偵は~」のほうに歩があったかも知れない。

結局、この作品は興業的には失敗だったらしい。個人的には残念に思う。ほんの少し、キャラクター設定などに工夫をこらせば、「探偵は~」に近いおかしさが出たと思う。アクションに関しても、もっと派手にやったほうが客受けが良かったと思う。ちょっとしたヒネリで充分だったはずだ。

 

2017年6月25日

ナチュラル・ボーン・キラーズ(1994)

Natural_born_killers

- Regency,Warner -

・・・・殺人者カップルの行動を描いた作品。原案はタランティーノ監督で、実際の監督はオリバー・ストーンがやったらしい。その経緯は分からない。社会派のイメージが強いストーン監督が、なぜ関わったのかもよく分からない。DVDで鑑賞。

この作品の存在は知っていたが、どんな作品なのかは知らなかった。また、ジュリエット・ルイスがヒロインだとも知らなかった。この作品には「ギルバート・グレイプ」と同じ頃に出演していたようだが、役柄がかなり違う。俳優の家庭に育って、演技に関して早熟で上手かったのかも知れないが、本物の殺人者の雰囲気が強く感じられたとは思えない。

本物の雰囲気が強くなると、見るに堪えない作品になるから、あえて演技が見えるようにしていたのだろうか?

テーマは、おそらくだが我々の中に潜む野獣性、凶暴性ではないかと思う。テレビキャスターが人質になりながら積極的に脱獄の手助けをする様子や、刑務所の所長自らが凶暴な行動で収監者を取り押さえる様子、さらには彼らを逮捕する刑事が実は殺人者であることは、裏に潜んだ衝動、凶暴性を表しているのではないか?

監督の解説を観てみたら、編集の途中でかなりのカットをやっているようだ。つまり、撮影しながら方針を変えて、表現のやり方を検討していたのだろう。映画では、そんなことが多いという。行き当たりばったりの演出の中で、表現法としてマズイ部分もあったのかも知れない。「俺たちに明日はない」とは少し違った路線だったようで、評価としてもそれなりになってしまったと思う。

両作品とも似たような主人公であったのだが、鑑賞後の印象は全く違う。作品として完成するうえでは抱えたトラウマを上手く表現し、観客の同情を買う必要はある。その演出に、少し足りないものがあったように思う。

作品のためには、殺人者の人格が理解できることが望ましい。普通には理解しがたい凶悪犯でも、その生い立ちや思考パターン、彼らなりの道理があるのかどうか?そこが作品のテーマにつながるし、観客の納得にも結びつくだろう。この作品、充分に納得させる力があったとは思えない。

この作品は恋人と観るべき代物ではない。こんな作品で喜ぶような人物とは、とっとと別れたほうが安全だ。いつ殺されても不思議じゃない。もちろん、子供には絶対に見せたくないタイプの映画。バイオレンス映画の中でも、最悪の方向性にあると思う。

ただし、人に潜んだ邪悪な業は否定できない。現実に裏社会は歴然と存在するし、身近にも怖ろしく凶暴な酔っぱらいがいる。そして、サイコパスのような冷たい凶暴性、過剰な競争意識に満ちた人物も多い。暴力に訴えなくても、経済的な暴力によって富を独占しようとする人は珍しくはない。そんな人物でも成功したら賞賛されているのが現実。ほんのちょっとした違いしかないのに、成功者と生来の殺し屋に分かれる、そんな印象もないわけではない。

劇場主は、生来人が良い。ナチュラル・ボーン・グッドマンと言える。運転の際には譲ってばかりいる。早くから脇に寄せて、高齢者や若い女性の車を優先させ、自分は後回しだ。ただし、その善意は相手からの感謝を期待しての面がある。譲ったら、にっこり会釈でもして欲しい。ときどきは酷い車もあり、譲ったこちらを怒鳴っていくような信じられないクソ車には、殺意さえ覚える。「ナニ考えてんだ、テメエ!」・・・そんな時、自分に潜んだ衝動性に気付く。

 

2016年4月18日

ナイトクローラー(2014)

Boldetc

- 主人公像が決め手 -

事件を録画取材し、テレビ局に売り込む商売を始めた主人公。ライバル達と競争しながら、特ダネを得ようとするが・・・・

・・・・DVDで鑑賞。素性の怪しい主人公が、本物のフクロウのような目つきで夜の町を徘徊する様が、実に気味の悪いものだった。一種の犯罪映画で、ハードボイルド路線の作品。その路線が成功していると思う。

グロテスクな死体が登場するので、小さな子供の鑑賞には向かない作品。恋人と楽しむには、ちょっと気味が悪すぎるかもしれない。基本は一人で鑑賞するタイプの映画ではないかと思う。でも、同性の友人といっしょの鑑賞会といった状況なら、かなり盛り上がるかもしれない。明らかに質の高い企画だから。

世の中には得体の知らない仕事を生業としている人間がたくさんいる。公務員か大工、農家、商店主くらいしか頭になかった劇場主には、とうてい理解できない仕事が多く、しかもちゃんと成り立っている。

テレビ局に画像を売る商売は、確かに考えられる。今日だとスマホの画像を無償で送る人が多いと思うが、テレビでの鑑賞に堪えうる画質を得ようと思えば、本物のビデオのほうが良いのは間違いない。でも、事故現場に急行できるためには、グループで動かないと難しいだろう。

アメリカの大都市なら、商売になるかも知れない。実際に複数のモデルがいるのかも知れない。局のスタッフではない、独立した会社が。その実像がどうかはともかく、この作品の主人公は実在感が充分に感じられた。

演じていたジェイク・ギレンホールは、以前の作品の風貌とは随分変わっていた。激しいダイエットをしたらしい。目つきが完全に異常人のものになっていた。アカデミー賞に相当するような迫力だった。彼の存在感が、作品のレベルに直結していたようだ。

物語としては、買う側に取り入るところから、やがて脅迫する側に転じていく様子が面白かった。実際には、テレビ局側には仲間がいて、独立したカメラマンを町から完全に排除するくらいは簡単にできると思う。業界には何かのルールができるのが普通だ。だから、この作品の流れには少々無理を感じた。

キャスターが複数いて、互いに激しい競争をしていて主人公を抱き込もうとするなら話は分りやすい。観客もより納得しやすかったかもしれない。

殺人現場、犯人逮捕の現場はスリルたっぷりで、それがそのまま作品の緊迫感につながるはず・・・この企画ではおそらく誰もがそこを予想していたに違いない。その狙い通り、この作品には緊迫感があった。

あちらの映画界には、素晴らしいアイディアを企画化し、資金を集めて作品に結びつけるシステムがある。アイディアは万国どこでも生まれるはずだが、企画力や資金の集め方、宣伝や制作全般に関するシステマティックな力には感服する。どこの国でもできるものではないと思う。

 

 

 

2015年3月29日

名もなく貧しく美しく(1961)

Touhou

- 20世紀資本論 -  

聾唖者の二人が結婚し、戦後の苦しい時代、経済的に苦労しながら子育てに奮闘する様を描いた作品。実話が題材になっているそうだ。DVDで鑑賞。リマスタリングについては確認しなかった。画質はよろしくなく、この作品より前に製作された他の映画のほうが、もっとよく見えるような気もした。

名もなく貧しく美しい・・・おお、筆者のことか?・・・・いや違うようだ。当たり前だが。

戦時中に聾唖状態というのは非常に怖い話。爆撃機が襲ってきても気づかないかもしれない。普通の人間でも恐怖におののくと思うが、聾唖者の恐怖は想像を絶する。大きな爆発は振動で感じることもできるが、危機が迫ることに気づく反応は遅れるだろう。盲目よりマシかもしれないが、いずれにせよ知覚障害は怖ろしい。

聾唖者の記録としてはもちろん、一般的な日本人の戦後の生き様を良く描いていたと思う。美しい物語。

そもそも不思議に思うのだが、終戦前に多数の家が財産を破壊されたはずなのに、よく復興できたものだ。復興自体が経済的に大きな動きになるから、いろんな産業に波及して購買意欲、ローンの意欲、ガムシャラな勤労意欲につながったとは思うけど、どこも廃墟という情況から、そう上手く復興できるなんて、やはり信じがたい。

金融がある程度は発達していたし、政府も存続していたから、融資も公的投資も可能だったことで、金が上手く回れた点は理由だろう。無政府状態だと、金融業も無産階級の一般人に融資はしないはず。多少の預金や土地の権利も、個人個人が何か事業を始める際に役立ったろう。まったくのゼロからでは、復興は遅れたはず。

担保と融資、投資といった金の流れは単なるシステム、概念のようなもので、それだけでは実態を伴わないのだろうが、それがないとダイナミックな復興は無理。この作品は、20世紀の破壊と復興の記録、20世紀資本論と言える・・・かな?

沼田曜一が悪い弟役で出演していた。子供時代には御馴染みの、懐かしい俳優。個性的な顔が、いかにも役者に向いていた。母親役の原泉、姉役の草笛光子も堂々とした役者ぶりで、充分に自分の役割を果たしていた。 

ヒロインの高峰秀子は他のスターと違って、大女優の顔をしていない。近所のおばちゃん達とそう変わらない。女優の多くは華があって、日本人離れした目鼻立ちの方が多いが、彼女は純日本人の顔つきで、表情も目立たない印象。怒っていても目がぎらつかないので、外国人には感情が読み取りにくいかもしれない。なんでスターになったのか?と、疑問に思っていた。

特に「24の瞳」の先生役でそう感じた。あの作品は画質が悪すぎて、役者の顔がほとんど分からなかったからでもある。でも今回の作品を観ると、彼女の良さが非常に分かりやすかった。おめめパッチリタイプの女優がこの役を演じていたら、おそらく演技過剰になってしまい、観客の一定割合はシラケてしまうと思う。そこらのお母さんのような風貌の彼女が懸命に生きる姿には、大半の日本人が共感する。リアリティの面で、彼女は実に素晴らしい。

聾唖者と深く関わったことはないが、診察にやってくる人たちは声の抑揚に独特のものがある。高峰の声質は、それを見事に再現していた。おそらく実際の会話を見て聞いて、練習していたのだろうが、それを実に自然にやっていた。オーバーになりすぎていなかった。

演出も非常にリアルに徹していたと思う。子役のセリフは如何ともしがたいとしても、しかられてゴロゴロとカーテンの陰に隠れたりする仕草は、実際の子供を見ていないと思いつかないもの。言うことを聞かない態度、おねだりの時のセリフ、おそらく自分の子供達の様子からヒントを得ていたのだろう。

所々に、絵になるシーンを作った部分はあった。二人が会話する最初の日、電車が行きかう中での会話は、普通の人との間なら聞こえなくて不可能だが、手話の二人なら関係ない。そして会話は幼稚な内容ながらもプロポーズであり、幸せな内容。良いシーンだった。

別れを切り出した妻と、彼女を探した夫が電車の二つの車輌の間で会話するシーンも、手話が中心。あれも心温まる内容だった。ひょっとしてと思ったのだが、小林桂樹ではなく、二枚目の俳優が夫役だったら、この作品はとてつもないラブストーリーになっていなかったろうか?あの二つのシーンを観ていて、そんな印象を受けた。この作品は、もしかすると意外に最悪のミスキャスティングをしてしまったのかも。

この作品は、観客に勇気を与えると思う。特に同時代を過ごした方達にとっては、涙を誘う映画だろう。

どん底に近い境遇の人たちが、懸命に耐えて幸せをつかもうとする姿を見ていると、自分の境遇がいかに恵まれているか、そして間違った価値観に捉われているかに気づく。彼らを軽んじている自分の態度を反省する。自分も彼らを見習って耐えられるはずと勇気をもらう。健全さが目立つ作品。

ロケ地も相当よく選んでいたようだ。どう観ても終戦時としか思えないバラック街は、リアル過ぎる。まだ再開発前の場所を探したのか?大がかりなセットを作ったのか?

今の子供には、残念ながら受けない作品だろう。画質に難があるし話が暗すぎる・・・そんな理由で、よほどの演出をしないかぎり、このストーリーは受け入れられない。韓国ドラマ風に作り直せば、かなり感動を生むと思うのだが・・・そして彼氏彼女のうち、彼女の方には受けそう。

ハンデを抱えていても、貧しくとも美しく、それなりに幸せに生きていけると信じたい。ただし、大いなる不幸は問答無用で襲ってくるもの。ハゲタカのような20世紀型資本論者や、過激派、侵略者達には通用しない考え方であるのも間違いない。

そこまでいかなくても、世間の無視や過激な対抗心、野心、支配欲に満ちた悪意の人間は多い。とことん不幸に耐える覚悟がないと、騙され脅され盗まれる現実に立ち向かえない。

2015年3月17日

南極物語(1983)

Touhoukadokawa

- 情操教育映画 -

昭和基地の隊員達に、退去命令が下る。犬達は鎖につながれたまま置き去りとなる。それが許せなかった主人公らは、再び基地を目指す。その間犬達は・・・

・・・DVDで鑑賞。宣伝が懐かしい。雑誌などのメディアを総動員して、大がかりな宣伝をやっていた。薬師丸ひろ子と間違いそうな顔の荻野目慶子が同じような役目を果たしていた。おそらく偶然ではなく、薬師丸をイメージしていたに違いない。宣伝のスタイルも角川映画とそっくりだった。

実話が元になっているらしい。犬達を連れて行けないと分かった時点でクサリを外さなかった理由がよく判らない。普通の感覚の人間なら、エサをばら撒き、鎖は外し、幸運にかけて解き放とうと考えるように思うのだが、何か規則に縛られたか、もしくは冷酷な隊員がたまたま命じたのか?

何かの手続上の問題、意思疎通の問題が生じていたのかも知れない。基地側は当然犬も連れて帰るはずと思っており、船側は犬のことなど意識にない、直ぐに出発しないと人間が漂流することになるという心配と、犬への処置をどのタイミングでやるかの連携など、指揮系統にチグハグな点があったのかも。

犬に限らず、人間に対しても‘取り残し’的な酷い仕打ちはよくある。問題点は充分に分かっていても、自分がババをひくのが嫌で口に出せない、または無視したりする場合も多い。基地問題や原発問題の根底には、きっと意識に目隠しするかのような反応が関係している。古くは満州引揚の例でもそうだろう。勇ましい軍人達も、撤退する時は自分が大事になる。

犬達はアザラシの糞を食べていたようだと、研究者が語っていた。魚が元なんで、最も効率の良い食材だったに違いない。アザラシは滅多に陸上に上がって来ないだろうから、襲って食べるのは無理。少なくとも主食にはなりえない。糞や死骸をもっぱら狙うのが正解だろう。ただし、それでは映画にならない。

この作品は、今でも子供といっしょに鑑賞できると思う。情操教育的にも良さそうな作品。恋人と観るのも悪くはないと思う。

渡瀬恒彦が意外なほど存在感たっぷり。彼の目が全く笑っていない点が、この映画の役柄に合致していたように感じた。高倉健も笑顔は少なかったが、怒ったような目をする渡瀬のほうが迫力があったと思う。声も素晴らしい。本当の人物にしか思えないほどの好演だった。最近はドラマでボンヤリした刑事役などをやっているらしいが、勿体ない。

考えてみると、この役は悪役俳優が演じると良かった。主人公と対立しながら、でも犬のことは誰より考える。そんなキャラクターなら最高だった。

高倉健は、本来のキャラクターとは少し違う役だったように感じる。極端に言えば、彼の役は必要ない。渡瀬だけで充分で、高倉の良さがあまり感じられなかった。渡瀬に喰われていた印象。この作品はかなりフィクションで作られているから、いっそ全くフィクションの高倉健的人物を設けて、そんな役を演じさせたら良かったかも。

懐かしい夏目雅子。この作品では添え物的な役割だった。役柄に合っていたかも疑問。若すぎるし、可愛らしすぎると思う。もっと年配の落ち着いた印象の女優が、傷ついた夫を慰めようとするほうが良くなかったろうか?若くて可愛らしい夏目の風貌では、渡瀬の苦しみの深刻さを表現する際には良くないように思う。

夏目は渡瀬を祭りに誘っていたが、自分が行きたい様子ではなく、明らかに慰めるために誘っているのが分かるほうが良かった。そのへんの心情が分かりやすいのは、もっと可愛くない女優だろう。

音楽はとても素晴らしい。「炎のランナー」よりも出来が良いかもしれないとさえ思う。ヴァンゲリスは当時人気絶頂だった。その後どうしているのだろうか?

最近はシンセサイザーをメインにした音楽家は流行らない。‘イマージュ’シリーズなどを聞いていると、ちゃんと活動している音楽家は多いはずなんだが、映画では普通のオーケストラの曲が多用されるように戻ってしまった印象。流行り廃り、慣れと飽きの問題か?

ラストシーン。遠くに犬が見えて、人間達のほうに向かってくる場面。もっと工夫した撮影、編集法があったのではと思った。盛り上げ方が足りない。もっと叙情的にできたはず。

それに現実の場合、犬達が野生化していないか不安に感じないとおかしい。犬達も、現れた人間が元の人間か、凶暴な敵か判断したいと思うのでは?犬達が襲ってこないか?といったセリフが欲しかった。それが杞憂と分かって抱き合うなら、もっと喜びが大きいと思う。

例えば事前に話し合っておく。「犬達が生き残っていたとして、野生化してないかな?」「我々に襲いかかってくるかもしれないね。」そして犬を発見して、不安げに眺める。緊張が走る。やがて声に反応して走ってくる。自分達を覚えてくれていた!そうなると絶対に嬉しい。不安の後の喜びだから。

 

 

2014年7月 6日

ナポレオン・ダイナマイト(2004)

Foxparamount

- バス男 -

主人公はアイダホの高校生で、特技がない男。彼はメキシコ人の友人を得て、生徒会長選挙を手伝うことになる・・・

・・・何のとりえのない高校生役を演じた主演のジョン・ヘダーの表情がおかしかった。話す時に目をそらしたり目を閉じたまま話したり、まともに見ようとしない点が素晴らしい。よく表現していたなと感心した。

対人表現に何かの障害やトラウマがあると、まともに目を見るのが難しくなる。うっかり入った店の客を見ると、明らかに‘その筋’の連中がひしめいていた時などは、私も急に障害が発生する。まともに目を見ていたら、因縁を吹っかけられるから仕方ない。警察官が来ると、なぜか視線を外してしまう。あれも、何かのトラウマがあるからかもしれない。

それを普通の人間に対してやってしまうのは妙だが、もちろん相手が悪意を持つ悪辣なクラスメートの場合は、自然な反応と言えるかも知れない。いじめっ子に理性を求めても無駄である。真に病的なヤツも多いから、基本的に目を合わせてはいけない。怖れや自分を守りたいという感情がそうさせるのかもしれない。彼の場合、特に素晴らしいのは時々イジメに反発して戦うこと。戦った後は直ぐに逃げ出してしまう点も笑える。

また、主人公は妙な嘘をついている。誇大妄想的な、強がった大嘘を恥ずかしげもなく話す。普通はそれがイジメの要因になるし、自分でも情けなくなって止めると思うが、極端に追い込まれるとクセになるのかもしれない。そんな主人公が存在しうることに驚いた。およそヒーローの枠を外れた存在なのに。

この作品の原題はナポレオン・ダイナマイトだそうだ。なんという凄い名前。ふざけたタイトルだが、キャラクターにばっちり合っていた。ジャレド・ヘスという人が監督らしいが、全く知らない。この作品はオリジナルのアイディアなのか?そのへんもよく分からない。バス男という邦題は、当時の電車男を真似たようだが、冴えない点だけは似ていたものの、営業に役立ったかどうかは分からない。

アンチヒーローを描く伝統のようなものがあるようだ。日本の場合は、孤高の殺し屋が代表で、米国の場合は同様のクールかつタフな路線と、変態やオタクの類も多い。この作品の主人公は後者だろうが、本当に情けないヤツだった。

主人公の会話のテンポがおかしい。ノリの良い会話が出来ない点は、作品のノリをもおかしくしてしまう危険性があると思うのだが、この作品の場合は主人公らのキャラクターの多くがおかしいので、独特の味になっていて違和感がない。ただし、この作品以外でこのようなテンポの会話をやられると、興味を維持できないと思う。この作品限定のおかしさだろう。

漫談の業界にも、テンポのずれた男がつっこまれるタイプの芸人コンビがいる。最初はおかしいが、同じ路線だと飽きてしまう。基本的に会話はテンポ良く進まないと、こちらにイライラ感が生じやすい。この作品は会話だけじゃなく、微妙なエピソードが散りばめられていたので、奇跡的に興が冷めなかった。

兄貴役のキャラクター、叔父さん役も素晴らしかった。特に叔父さんは、過去のスポーツの失敗が未だに尾を引いているという、ありそうな個性を強調している点が見事。一種の悪役のようなもので、存在感が素晴らしい。しかも、ラストで彼にも何か良い話が舞い込んできそうな予兆をみせていて、とことん不幸に終わらせなかった点にも感心した。

ただし、その点も繰り返し使いうるパターンではないかも。残念だが、こんなリズムに欠けて大人しい風変わりな作品は、そう何度も作れない。企画が通って作品化されたことすら奇跡的だと思う。

この作品では血まみれになるほどの暴力のシーンもない。映画では珍しいのでは?普通はブザマさを強調するために、主人公は鼻血を出したり、足を引きづったりするパターンが多い。それで悲しい印象を得てしまうこともある。そこを避けている点が良いのか悪いのか分からないが、結果的に子供も観れる作品になっているようだ。きっと恋人といっしょに観ても笑えるのでは?

アイダホというと、見渡す限り広大なポテト畑が広がっていそうなイメージがあるのだが、この作品の舞台は直ぐ背景に岩山があったり、砂漠に近い荒野が見える。アイダホも広くて、風景にも色々あるだろうが、あんな場所でバス通学を小学生といっしょにやれる主人公は、本当にダサくて格好悪い。まるで若い頃のさえない自分を見るようだ。

自分の高校時代も酷かった。さえない上に偏屈で攻撃的な態度、焦りや自信のなさが表れた態度で、モテる要素が全くない、ひどい状態だった。主人公も極めてダサいが、私よりは行動的。あのダサイ状態で、クラスの女子に声をかけるとは!その勇気~もしくは勘違いには敬意を表したい。私は女の子を誘ったりできなかった。何か偏った考え、諦め、思い込みのせいだと思う。今思えば良い娘がいっぱいいたのに、残念なこと。

2013年10月19日

渚にて(1959)

Uamgm

- どうして自滅? -

核戦争が起こり、北半球は放射能汚染で全滅。オーストラリアに寄航した米軍潜水艦の艦長は、現地の女性と親密になる。しかし汚染は徐々に南半球にも押し寄せてくる・・・・

・・・有名な作品。私が生まれる前に、こんな映画が作られていたとは驚く。当時は核戦争の危機感が今よりも強く、単なる娯楽では済まない深刻なイメージが皆にあったに違いない。全体的に暗い雰囲気で盛り上げにこだわっていないので、娯楽の面ではあまり魅力がない。

ラブロマンスはある。でも、ヒロインのエヴァ・ガードナーは、控えめに言っても瑞々しいとは言えない。美人でスタイルも良いのだが、化粧も相当なもので、途中で顔を拭いてもらうシーンでは、なぜ化粧がどっぷりタオルに付いてこないのか不思議に思えて、せっかくのラブシーンに集中できない状況に陥ったほど。

ある程度はリアルな話。オーストラリアを核攻撃するのはよほどの事情がないと考えられないから、最後に生き残るのは南半球の国かも知れない。さらに考えれば南極の基地は、まさか攻撃されないだろうし、海流や気流も比較的独立しているから、食料を溜め込んで南極に向かうべきなのかも知れない。うまくいけば、雨や風で汚染のレベルが下がり、なんとか生きていけるかもしれない。そうなったら、戻って来れる。

爆弾が数千発使われ放射能を多数の人が浴びても、直ぐに死に絶えるほど大量に浴びない人も多いはずで、ゆっくり白血病などで苦しみつつ、中には乗り越える人もいるはず。北半球すべてを壊滅させるほどの放射性物質は、よほどのことがないと作れない。だから、直ぐに連絡がとれなくなるのはおかしい。苦しみつつも生きている人はいるだろう。多額の治療費、医薬品が必要なので、医療保険制度を維持できればと言う条件はつくだろうが。

子供が楽しめる映画ではない。リマスタリングされているのか、画質はそれほど悪くないし、古めかしい大仰な演技が目立つわけでもなく、演出方法も新しいのだが、楽しめないことは間違いない。恋人と選んで観る映画とも思えない。懐かしんで観るだけだろう。

フレッド・アステアが科学者の役をやっていた。その一方でカーレースにも出場するという随分と極端な役柄だったが、とぼけたような風貌が効果的だったのか、なかなか良い味を出していた。彼がキャスティングされたのは、元々製作スタッフと仲が良かったからか?

彼が酔っ払いながら述べるセリフは、この作品の主題に近い。どうしてバカな戦争などを始めたのか、どうして人類は失敗したのか?それが問題。今も核戦争の危機は去っていない。朝鮮半島や中国の情勢次第では、いきなり発生するかもしれない。幸いまだ起こってはいないが、核保有国は増えているから、やがて起こると考えるのが自然。おそらく局地的な使用とは思うが・・・

それはさておき、原発に関して・・・

10月12日には、刈谷崎原発周辺で避難訓練があったと報道されていた。福島の原発事故後で、風向きに注意しながらの訓練だったらしいが、風向きに配慮されたのは初めてと言うから驚いた。今まで何を考えて訓練していたのか?もしくは訓練自体が不安感を煽るのでしないといった判断がなされたのか?

福島の原発で爆発が起こったという報道を見た後、私は数分後には現地の風向きを確認した。そんな反応はおかしいだろうか?天気図では、ちょっと曖昧な構図で、どちら向きでもありえるような印象。気象庁のサイトで風向きを見ると、幸い海側に向いていた。そこで少し安心して、たぶん最小限の汚染で済むだろうと思った。その後大きく風向きが変ったらしいけど。

事故が起こったら風向きに注意すべきであることは、常識で解るように思うのだが、その認識は一般的ではなかった。私の周囲で当時風向きを話題にした人は誰もいなかった。テレビの報道でもそうだ。うっかり報道してパニックになるのを避けたかったからか?気象庁に何かの規制がかかったのか?

以下のような意見が、過去には主流を占めていたように思う。

①原発は、電力確保のためには必須であり、多少の危険があっても増やすべき。 ②原発は精密に管理されており、大事故は実際には起こらない。  ③避難訓練は、住民に不安感を与えるのでやるべきではない   ④いかなる事故が起こってもシミュレーション通り直ぐ対応できる。 ⑤原発反対派は過激派に近いイメージがあり、排斥すべし  ⑥原発の害よりも、補助金による地域振興が大事  

いずれも常識的な判断と考えられ、完全なる間違いとは言えない。一定の支持は、今でも受ける意見だと思う。かなりは業界の広報活動の影響も大きかったはずで、洗脳されてしまっていた面はあったろう。広報活動しないのは努力不足とも言える。信じた国民か、騙した官僚や業界が悪いのか?良い悪いの話とも言えないけど。

集落単位で農作業をやっている時代には、協調、指示に従う従順さが大事だった。村社会で生き残るためには、妙なことを指摘してはいけない。また、商店街のなかで生き残るためには景気の良い宣伝は必要で、ある程度は嘘も方便。でも、そんな感覚で原発を扱ってもらっては社会全体の失敗や破滅につながる。地震対策や安全保障も同様。江戸時代の村や商店街の感覚で生きている人間が多い我が国は、重大な問題に対処するのが苦手だ。

かく言う自分自身も、事故が起こったらと真剣に考えたことはなかった。でも起こるはずとは思っていた。起こり方も、その後今までの経過も予想通りだったから、大きく考え違いをしていたんじゃないだろう。電力会社や政府の人達は、私以上に事態を把握していたはずだが、ただ失敗に向かってしまったようだ。自分達の‘店の売り上げ’的なものが気になるからだろう。

論点が外れるが、原発にとって最も確率の高い危険要因はテロだと思う。どこかがテロ攻撃をするとしたら、原発が最も効果的な対象。たぶん、既に近隣の国々は日本の攻略のために何をすべきかは検討しているだろう。何個か攻撃し、残りの攻撃をエサに交渉してくるに違いない。だから、攻撃されても対処できることが、原発の存在の条件だと考えた。でも、そんな意見を他の人から聞いたことはない。

正しい議論の進め方は、まずテロ対策から始めるべきだと思うが、それは極端だと思う人のほうが多いのが現状。もし正しい論理に従えば、地震や津波に備えて何をすべきかは自明のこと。福島第一原発の場合は、明らかに備えがなかったので、早急に廃炉なり作り変えなりすべきと、私が役人だったら思ったろう。図面など必要なく、見た目だけで解るレベルの危険さだから。

さらに実際に事故が起こり、爆発があったら何ができるかも、一定の判断力があれば決まってくる。住民は、風上にとりあえず向かわせるべき。風向きは、今の時代はスマホで解る。子供を優先せざるをえない。老人を後にしたことで非難されるのは確実だが、仕方ない。それに、事前の訓練に従ってという条件は必要。パニック、大渋滞は必発だから、少なくとも専門家だけは知っている計画くらいは必要だった。

前述の①~⑥は、常識的と言えばそう。これと違った意見を持っていたら、この種のことは話題にしにくい。「何言ってんの、こいつ」と思われるから、時代劇的な感覚の中では話もできない。人の思考過程は、理屈の積み重ね方でいかようにもなりうる。非常に優秀な人でも、理屈の運び方を間違え、ちょっとした勘違いを起こすことは多い。実際にも勘違いに満ちていたはずだ。

役人が危険性に気づいていても、自分らから廃炉の指示を出すより、原発業界の専門家に従おうと考えるだろう。きっと江戸時代の藩士の多くのように、大勢の意見に抗って失脚するより、保身を考えたのだろう。自分の出世や天下り先の確保を優先したほうが利口だし、それが直ちに罪とは言えない。東京電力内部の出世競争でも、似たような事情があったはず。廃炉など言えば、間違いなく失脚する。

今、日本の学界の臨床研究は信頼度が地に落ちている。ノバルティス社の件のせいだ。改善を目指す動きも多少ある。政府や電力会社でも、利害関係を排除して決議できる規則があれば、この種の失敗の危険性は下がる。いっぽう、旧来の決議の仕方の場合は、出世などの切実な利害が絡む関係で、仕事に熱が入るという利点がある。計画や実行が早くなる。これを使い分けられたら、非常に賢い。

でも使い分けできてなかった。利害が絡む人達で方針が決められる欠点と、それをチェックする機構の必要性を意識できていなかった。選挙制度や役所の人事のあり方に根深い欠陥があるから、機構改革はなかなか無理だろうが、例えば政府が何かの委員会を作る場合に、誰を委員にするか、組織の体制として偏りはないかなどにチェックを入れる外部の承認を、法で義務化してはどうだろうか?臨床研究の倫理委員会のような仕組みだ。原発や国防など、大きな問題に限定してもいいから。

そうしないと自滅する。破滅を避けるためには、それくらいは考えてもいい。

 

 

2013年9月13日

何がジェーンに起こったか?(1962)

Warner

- 役者魂に脱帽 -

子役アイドルだった妹、有名女優だった姉。二人は屋敷にこもって生活していたが、互いに激しい憎悪をつのらせていく・・・

・・・・DVDで鑑賞。古典となった有名な作品だが、ビデオ屋に並ぶことがなかったので始めて鑑賞。画質は良くなく、リマスタリングはたぶんされていなかった様子。でも、最後のほうで浜辺で撮影されたシーンは鮮明だったので、たぶんもともとの照明が暗かったのでは?不気味で暗い屋敷の様子を表現すべく、暗めに撮影していた関係か。

サスペンスタッチの作品で、ヒチコック映画の雰囲気に近い。たぶん意識していたのではないだろうか?原作があるそうだが、大女優が共演した映画のほうが断然有名と思う。特にベティ・デイヴィスの怪演は、彼女でないとできない怖いものだった。

隣家の母子が、場違いなシーンで「あの女、殺してやりたい。」などといった会話を交わすのは、後の伏線となるように怖い雰囲気を出したかったからだろう。ピアノを弾くために屋敷を訪れる男は肥満体で可愛らしい顔つき。ユーモアが自然に感じられるが、あんな滑稽な人物がヒチコック映画では必ずのようにいる。そんな点も、よく似ていた。

非常に迫力があって完成度が高い映画だと思うが、この作品は子供には絶対に良くない影響を与えそう。恋人と喜んでこんな作品を観る姿も想像できない。映画好き、サスペンスやホラーものが好きな人のための作品と思う。

ヒチコック映画もそうだが、こんな気味の悪い作品が商品としてちゃんと成り立つ欧米の映画・演劇界の趣向は、どうも理解できない。日本の殺人ものや怪談の類も一定のジャンルとなってはいたようだが、欧米の殺し方と日本の殺し方にはセンスに違いがあるように思う。肉を扱うセンスの違いだろうか?

日本のドラマなんかでは、姉妹で恋人を奪い合い、仕事も取り合い、とことん泥仕合を演じるストーリーが多いような気がする。肉体的な苦痛を与えるのは、恋愛が絡まないと真実味に乏しい。あちらは、恋愛ぬきでもやれるのか。

古い日本映画では、少なくとも倒れた相手を引きずって運ぶシーンはないように思う。もう少し曖昧な間接的な表現で、残忍な行為も表現してしまうのが演出法として評価された。昨今では日本でも直接の暴力シーンが珍しくないが、いまだに美的センスとしては少し程度を下げた印象になってしまう。あちらでは直接表現のほうが本流なのか?

タイトルが秀逸。これは、欧米の文学の素養がないと付けにくい言い方。〇〇物語、〇〇姉妹といった普通のタイトルでは興味を惹きにくいから、効果的だ。さて、ジェーンに何が起こったろうか?・・・と考えて、私は勘違いしてしまった。

ストーリー通りに話が進み、姉が殺されそうになり、そして私が想像したのは狂った姉のアップが写るシーン。つまり、姉は一生不遇のまま、妹の大成功を妬みつつ現実の世界から逸脱し、空想の世界に生きるようになって亡くなる、つまり映画全体が姉の空想を描いていた!と深読みしてしまったのだ。

深読みで失敗するのが私のクセ。もっと普通に考えなきゃと思う。本当のストーリーは、随分違っていた。

この作品で傑作なのは、妹が姉の口ぶりを真似て電話するシーン。声色を上手につかって、姉の真似をする姿が笑えたが、同時に迫力も凄くて気味も悪かった。二回ほど、電話の相手をかえてやっていた。見どころだと思う。

話の中心は、そのような役柄もあって妹を演じたベティ・デイヴィスだった。姉役はジョーン・クロフォードで互いにライバル意識が強かったはずで、よく共演に同意したものだと驚くが、たぶんギャラやプロ意識が我慢させたんだろうと想像。

ジョーンの演技も高いレベルで、特に弱ってから声が充分出せない状況は非常にリアルだった。無駄な演技をしていない。控えめであることが、かえってオーバーなデイヴィスを大根役者みたいに見せる効果がある。そこまで狙っていたのかも。何といっても、女優同士の対抗心は強いはずだから。

54歳と58歳の女性にしては、二人のメイクは怖すぎる。私のクリニックに来られる58歳の女性達は、厚化粧の必要はない。ましてや昨今のテレビに出てくる美魔女と比べたら親子ほどの違いがある。役のためとは言え、あえて醜いメーキャップをしていたのでは?もしそうなら、その点でも二人とも凄いプロ意識を持つ女優だったとなる。

日本の女優でも、あえて醜く怖いメーキャップ、ひどく荒んだ役柄、良いとこがないような悪女役をあえて選ぶ人がいる。おそらく役に徹することでの評価のほうが、彼女らの満足感をくすぐるのだろう。役柄を拡げるという戦略的目的もあったかも。

兄弟で特技を持っている場合、時に立場が逆転することはある。最近の芸能人だと、石田ゆり子姉妹、岩崎宏美姉妹、熊谷真美姉妹など、どちらかが先に有名になり、急に仕事が増えたり減ったり、互いの人気度が激変する様を見る。兄弟同士のライバル意識は、おそらく激しいのではないか?一般人から見れば、その変化が面白いのだが。

人気と活動の方向性はいろいろ。結婚や出産を契機に引退する人もいるだろうし、キャラクター的に若い頃に人気が出る場合と、齢をとらないと人気が出ない場合も、持っている雰囲気によって違いがあるのでは?

兄弟姉妹に限らない。立場の変遷は多い。そもそもこの作品の女優だった二人も、若い頃は結構ひどい目にあっているそうだ。ダンサーから這い上がったジョーン嬢は、おそらく大人になって始めて演技を見てもらえる立場になったと思う。表情がはっきりした意志の強そうな顔が、おそらく若い時期には生きていなかったのだろう。もっと若々しいギャル達が先に目立つから。

ベティ・デイヴィスがいかに美人で名演できようとも、グラマーで大柄の女優達と並んだら、目立ち方で遅れをとる。怖い顔をしようとも、チビで迫力に欠ける印象しか受けなかったかも。演技を期待されて始めて演技力が生きてくる。

可愛らしさで売っていた子役から、青春スターに脱皮し、大人のタレントとしても一流という人もいるにはいるが、運と才能、ガッツと友人が必要だ。エリザベス・テーラーは、その稀なほうと言えるだろうが、それでも波乱万丈の人生だった。

芸で身を立てる人生は、そもそも成功が稀で、しかも持続が難しい厳しい世界ということなんだろう。タレントの自宅拝見番組を見ると、大スターでなくても豪邸に済んでる人が多いが、凋落すれば激しい変化もあるだろう。一般の会社勤めより幸せかという点に関しても、あんまりそう思えないようなことを見聞きする。夢はある世界だけど。