映画評

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カテゴリー「ち」の28件の記事

2017年2月 5日

超高速!参勤交代(2014)

Shochiku


- 自然な流れ -

福島の田舎大名家に、突然江戸城参内の命令が来る。しかし、藩の財政は厳しく、江戸に行く時間もない。家中は頭をひねって策を講じるが・・・・

・・・DVDで鑑賞。この作品は第二作が作られたと聞く。ということは、第一作は面白かったのだろうと考え、借りた次第。

主演の佐々木蔵之介は、適役だったと思う。昔、NHKの朝のドラマで映画スターを演じていたが、それと同様の偉そうなキャラクターで良かったから、演じやすかったに違いない。大スターの威厳は感じないが、殿様役には向く俳優。

西村雅彦が家老の役だったが、ガニマタを強調しすぎて、少しわざとらしい印象を受けた。キャスティングの問題か、演出の問題か、古い喜劇映画の演技のような印象。少しオーバーすぎただけかもしれないが・・・

深田恭子が遊女役だったが、彼女もいつの間にかベテランの域に達している。若々しさはなくなったが、この作品に限って言えば、若すぎると変な気もするし、あまり本職の遊女めいていないイメージがある彼女が最適だったように思う。

忍術者を演じた伊原剛志は、演技していることが明確に分かってしまう俳優のように思う。よく有名な映画に出てくるが、彼はこんな役には向かないように思う。

家族皆で楽しめる作品ではないように思った。企画として、子供も大爆笑できるような話ではない。ギャグもあるにはあるが、古めかしいセンスのギャグと言えるかも。

それに感動作になる可能性が最初からない企画だと思う。でも全体を通しての流れが自然で、敵はとことん憎らしく、味方は苦しい思いをしていながら結構ドジで、おかしい姿になるように演出され、マイナー企画を佳作に仕上げる技術を感じた。

 

 

2016年11月 4日

チェーン・リアクション(1996)

20cfox

- エネルギー問題 -

シカゴ大学で新しいエネルギー開発に成功した主人公。しかし、謎の組織によって実験室は爆破され、主人公が犯人としてFBIに追われることになる・・・

・・・懐かしい映画。9月20日、衛星放送で鑑賞。たしか前回も衛星放送で観た記憶がある。20年前の作品だが人気があるのか、まだあまり古くなっていない気がする。この作品では血まみれ死体は出てこない。殺しのシーンも表現は大人しく、子供でもかろうじて鑑賞させられそうな印象。家族で楽しめるレベルの、娯楽の条件を守っているようだ。

キアヌ・リーブスは当時のSF映画の常連で、ヒーロー役を代表する役者だった。彼の場合、腕力で一気に事を決するタイプでなく、弱いし脅迫されながら徐々に劣勢を挽回し、最後に勝利するのがパターン。今回もそんな役どころで、キャスティング的にも最適だった。

ただし、いつも思うのだが、彼は走るのが苦手なようで、この作品で何度も逃走している際に、どう見ても捕まらないとおかしいほど動きが遅く、足取りも鈍い。アクションシーンでの迫力には欠けていると思う。もしかすると、もっと動きが良い、華奢なタイプの恐怖感が表情に上手く出るタイプの役者のほうが良かったかも。そんな役者には、今でも需要があるのではないか?

ヒロインはレイチェル・ワイズだったが、個性が生きていない気がする。この作品ではラブ・シーンがほとんどない。ヒロインとしての活躍は、補助的に敵を殴ることぐらい。やや演出不足ではなかったろうか?監督が、彼女にあまり興味がなかったのかも知れない。

ダーク・ヒーロー、もしくは敵役としてモーガン・フリーマンが活躍していた。彼の存在が、この作品では一番大事だったと思う。全くの悪人、自己の利益しか考えず、膨大な資産を有し、権力欲をも満たしている、そんな敵でなかったことが、作品のレベルを上げていたように思う。彼がラストで施設のドアのロックを外すか否かで、主人公達の運命は決まることになる。そこを、もっと強調して描くこともできたのではないだろうかと、少し残念に思えた。あまりにサラリとした表現だった。

エネルギー、特に石油の問題は大きい。いまだに石油価格の変動によって、世界的に財政や政策全般への影響が起こる。サウジでさえも国家予算の余裕が失われつつあると報道されているし、ソ連が北方領土交渉を匂わせるのも、石油からの収入が減ったことが影響しているはず。石油以外のエネルギー源は、はたして出てくるのだろうか?

作品の中でも語られていたが、もし新しい発電技術が開発されたら、株価には大変動が起こるだろう。あおりを喰らって倒産する企業、急成長する企業が入り乱れ、殺し合いや自殺、戦争だって起こる可能性はある。でも、気候への影響を考えると、やはり地下資源を燃やす今の方法は、やがては減らさないといけないだろう。

日本では、藻を使って油を作る研究が進んでいる。コストを下げれば、おそらく実用も可能のはず。もし石油に近い価格になりそうになったら、石油関係の権利者は黙って観ているだろうか?おそらく米国政府を動かし、日本政府に開発予算削減を要求するだろう。断れば、他の分野の貿易を制限してくるはず。その間に、自国で藻を増やす努力をすることも確実。

そんな交渉、圧力、懸命な開発の努力、営業努力が展開され、もしかすると本当にエネルギー革命が起こるのかも知れない。新たな秩序が生まれるだろう。資源大国の力は相対的に低下し、石油をめぐる戦争は減る。原発を減らせるかも知れない。

中東に欧米が関わる理由が減る。すると、イスラエルの危険が増してくるかも知れない。それが火種になる可能性もある。またはイスラム諸国の存在価値が下がり、国力も低下してイスラエルとの共存を目指さざるをえなくなる可能性もある。戦う余裕さえなくなるか、もしくは民衆の力が増して、クーデターによって宗教的過激派が力を増すか、いろんな道が考えられる。

エネルギーへの不安が減ると、金属や何か他の資源が石油に代わって相対的な価値を高め、あらたな戦争原因が発生しそうな気もする。石油の心配がなくなれば、中国はより高圧的な態度に出ることも可能になる。人類のための努力が、意外な展開で逆に紛争の原因になるなら、新エネルギーの管理はよく考え、充分に計画的にやらないといけないはず。

燃料の心配がない、よっしゃあ軍艦をたくさん作って世界制覇しよう!といった無茶な考えを、旧日本軍の生き残りみたいな連中がやらないと良いが、主人公はそのへんを全く気にしていなかったようだ・・・

 

 

2016年10月 5日

チャッピー(2015)

Sony_columbia


- 斬新? -

ヨハネスブルグに導入された警察ロボットの一体が主人公。彼を改良した技師と、ライバルの技師、犯罪者達が彼をめぐってバトルを繰り広げる・・・

・・・・DVDで鑑賞。「第9地区」のブロムカンプ監督が、同じような発想、同じような画像技術で作った作品。なぜかメジャーな興業はされなかったようで、宣伝を見た記憶はなかった。ビデオ専用のような扱いだったのだろう。でも、駄作とは思えなかった。

新しいアイディアがなかったとは感じる。ストーリーは過去のSF映画に何度も使われたパターンで、しかし「ロボコップ」ほどの悲壮感、皮肉はないし、「リアル・スティール」のような明快さもない。何かの工夫が足りなかったと思う。

ストーリーテラーを変える手はあったかも知れない。犯罪者に物語を語らせると、もっとアクの強い魅力ある作品になったかも知れない。倫理上の問題は発生するだろうけど。

会社内部でのライバル争い、犯罪者同士の争いなど、途中がかなり複雑な展開だった点は良かったと思う。ただ、ヒュー・ジャックマンがライバル技術者を演じていたが、彼ではなく、一発で嫌悪感を感じられるような俳優のほうが、あの役には向いていたと思う。あの人物のキャラクター、彼のキャスティングが、この作品の一番の間違いではなかったかと思った。

作品の色づけにも問題あり。「第9地区」のようなゲテモノ、アングラの雰囲気が薄れ、ウリになる個性に欠けている。SONY、コロンビアが作った映画だから、毒に満ちた作品には最初からできなかったのかも知れない。この作品は興業的には一応のヒットをしたようだから、路線としては成功だったのかも知れないが、直ぐに消えてしまうような個性しかない点は、少し残念に思う。

人の意識とは?という問題が、あまりに軽く扱われていたように感じた。意識は、おそらく脳細胞のネットワーク、神経伝達物質の分泌の状況、伝達の活動性や活動パターンによって作られていると思う。短時間でネットワークの状態を再現することは、電子回路の能力から考えて無理があるだろう。

ただし、おおまかに似せて再現することは可能かも知れない。感情を、そのまま人間のようなものとして記録することは難しいとしても、感情が大きく働いた時に代表する特徴を細かく分析し、その組み合わせを様々に構築すれば、かなりの種類で表情や身振りとして表現できるかも知れない。

人間本人が自覚していないような感情、表面上は忘れたような深在性の感情、古い記憶や情動に関係するような深い感覚は、表面の感情とどのように干渉させたら良いのか分からないが、これも近似させることはできるだろう。深い情動部分の回路と、新らしい情報処理の回路を干渉させることができれば、人間の脳に近づく。

機械だから、人間とは違った反応をやってしまうと思う。しかしおそらく人間だって、思わず妙な事をやったり、余計なことを口走って、瞬時にしまったあ~と思う間違いを犯すことは多いから、それを記憶し、その後は少し修正していく作業を繰り返せば、失敗の記憶も含めた感情表現も可能になるはず。

今後、本当に作られるであろう人工知能は、おそらく最初から完全に人間くさい機能には至らないはず。それで充分と思う。何回かの技術的、理論的なブレイクスルーを経て、運転だけはミスしない、あるいはフロント業務が上手いといったロボットができてくると思う。

 

 

 

2016年3月31日

チャイルド44 森に消えた子供たち(2015)

Summitlionzgate


- ユーモア不足  -

ソ連時代の猟奇的殺人事件をめぐり、担当する捜査官とその妻達が経験する試練、そして当時のソ連社会を描いた作品。

DVDで鑑賞。興行的には惨敗した作品らしい。確かに舞台が旧ソ連で、しかも陽気な活劇が全くなく、陰惨で執拗な対決ばかりが続く映画に、多くの観客は耐えてはくれないだろう。

この作品は、その面で最初から限界があった。

原作小説があって、日本でもかなり評判だったらしい。小説を読まない劇場主はさっぱり気にかけていなかったのだが、本屋大賞か何かの賞を取ったそうだ。確かに、この作品の構成力、ストーリーや設定の重さは、レベルの高い原作を想像させる。

最後まで緊迫感を感じながら観ることができた。武器も旧式、派手なアクションで空を飛んだりもないのに、主人公夫婦が体験する恐怖が上手く表現できていたし、二人の間の感情も実感のある、切実なものだと思えた。

ただし、そんな面については万人受けする魅力にはなりえない。若い観客は実感したことがない感情だろうし、旧ソ連の秘密警察は興味の対象外だろうから、基本として若者には受けない作品と思える。子供も同様だろう、。したがって、家族で楽しめる映画では全くない。

もし可能なら、少しユーモアが感じられるシーンがあっても良かったかも。いかに厳しい管理社会だったとしても、そこに住む人々はそれなりの楽しみを見いだし、ジョークだって言っていたはず。ちょっとした笑いを挿入することで、観客の気分をほぐすことだってできるだろうし、怖いシーンがかえって怖くなる効果もあるだろう。

旧ソ連の社会は、想像するに過ぎないのだが、おそらく監視の厳重な管理社会だったと思う。民主的な曖昧さを除かないと社会が不安定化するという理由で、強力な弾圧、強権的な意志決定が日常茶飯事だったように思う。もちろん、これは米国側の宣伝によるイメージだけの、おおいなる勘違いの可能性もあるけど。

今でも、強権的な政治体制の国は多い。現ロシヤも、中国大陸の某大国もそうだろう。強い権力を用いることで、急速な経済発展や社会の安定を維持できる点は疑いない。しかし、官僚的な社会体制の弊害が必ずついてくる。この作品は、その点を見事に描いていたと思う。

 

 

2015年11月21日

チャーリー・モルデカイ(2015)

Lionsgatekadokawa

- 古め -

詐欺師のモルデカイ氏は莫大な借金を抱え、破産目前。彼にイギリス政府から、絵画の探索の依頼が来る。破産回避と一攫千金を目標に行動する主人公は、暗黒街の連中から狙われる・・・・

・・・・とぼけた個性の主人公をジョニー・デップが演じていた。キャラクターはジャック・スパロー船長と共通する部分も多く、イカサマに近いけど異能を発揮して問題を解決できる面もあるという独特の個性が上手く出ていた。

この役が全くのダメ男ではいけない。嘘つきや犯罪者であっても構わないが、何かに優秀で他に代えがたい能力があることが必要。彼の場合は美術に関する能力がそれで、キャラクター設定は良かった。

今回はグィネス・パルトローが主人公の妻役として共演しており、彼女のほうもなかなかのクセモノという設定で、こちらもキャラクターとして面白かった。彼女は、ただの美人秘書にしてくのはもったいないし、歌えるカウンセラーにしても・・・・歌が上手くない。この役は、女優らしい魅力が感じられた。

ユアン・マクレガーも良い役柄だった。主人公の恋のライバルであり、マヌケな道化師の役割も演じつつ、仕事上の依頼人、兼上司と言える立場で、設定として素晴らしい役柄。育ちが良さそうなユアン君は、この役に最適だった。

でも、この作品は作り方が古い印象を受けた。個性のある人物達が登場して、豪華な美術品を争い、ギャング達を出し抜いて最後に勝つ、その間に恋も進展する・・・・そんなおしゃれな映画は、以前なら安定した観客動員が見込めた。でも、今はちょっと時代が違う。

今だと、派手なアクションがないと動員が少ない傾向がある。そのため、トム・クルーズ氏などは老体に鞭うって、飛行機にへばりついたりしている。美人女優や妙な表情だけで客を得ようというのは、もはや難しい時代になったのだ。怖いけど笑えるような、危険だが変なアクションシーンが欲しかった。

やはり敵役は本当に怖ろしい、残虐な人物であった方が良い。その表現方法が問題で、今回は拷問が趣味のロシア人という設定だったようだが、表現が難しい。実際の拷問を見せてしまうと、観客の多くが耐えられない。全く見せないと、今日風の表現ではなくなって、映画の魅力も損なう。

おそらく、殺される人間がたくさん出て、主人公達も危険になるが、むごたらしい死体ではなく、死んでいるところを発見するといった方法で表現するべきではなかったか?難しいところだけど。

おそらく、この作品は子供には受けそうにない。恋人と観る映画としては、全く駄目とは思えないけど、おおいに推奨ともいかない。微妙な印象を残してしまう、そのような印象。少なくとも、今風の興奮は得られない作品と思う。

ひょっとして、年配の人には意外に良い印象を残す作品かも。適度にユーモアがあって、出来の良い古典風映画とも言えるはず

 

 

2015年5月19日

小さいおうち(2014)

Shochiku

- 経済論理 -

戦前の東京郊外、奉公に出ていた女中は、雇い主の家庭と家族同然の関係。ある日、主人の会社の新人社員が訪問してくる・・・

・・・DVDで鑑賞。この作品は日本アカデミー賞を取っているそうだ。それほどの名作かというと多少の疑問も感じるが、まとまった小作品で、出来栄えが良かったのは間違いない。細やかな心情や、戦前戦中の市井の人の姿をよく描けていたのかもしれない。

直接表現は排除された作品で、微妙な演出によって登場人物の感情が浮かび上がるように、芸術的というか、繊細な表現が多かった。

そんな演出の代表は、女中が雇い主である家の奥様を引き止めた時。奥様が急にその意見に従って部屋に戻り、手紙を書き始めるシーン。普通の芝居ならいったんは口論になるか、無視して出かけようという動作、迷いが出てきそうだ。本当に急に部屋に戻っていた。あれは奥様の性格をよく表していた。

強情な女性が、何かの拍子で急に素直に人の意見に従うことがある。多くは、ほんの些細な気分の変化、自分の頭の中での論理の結論によるものだろう。そんな時、自分が言い込められたように相手から目されるのが嫌で、全くの無表情でプイと向きを変えることが多い。表情を隠すわけだ。子供によく見られる反応。強情な大人にも多い(我が家にもいらっしゃる)。

あのシーンは、それを再現していた。もしかして山田監督は、我が家をごらんになったのか?

主人公を演じていた黒木華という女優さんは、これまで全く知らなかったが、この作品で女優賞を取った。助演ではなく、主演女優賞の対象と思う。個性が役柄に上手く合致しており、田舎育ちらしい雰囲気や、ちょっとした動作のタイミングなどが自然で、その人物が何を感じて行動しているのか、誰にもよく分かるように演じていた。若くて体力があるのも理由だろうが、動きのタイミングが素晴らしい。妙に表情による演技にこだわらず、役柄を理解して運動神経を使って表現できる稀有の存在かも。

松たか子も素晴らしかった。彼女は気性の激しい女性の役柄が多い。目鼻立ちから考えても、そんな役柄が合うだろう。若奥様役が似合う年齢になったので、こんな役がしばらくは続くかも。

若い社員役は、できればもっとイケメン俳優のほうが良くなかったろうか?松たか子が可哀そうだ・・・・と、言うと悪いけど。若者は凄い演技派である必要はないと思う。見た目の魅力、セクシーな感じがあれば良い。言葉少なでも振る舞いが美しい男優のほうが、印象が強く残ったのではないかと思う。

女中は、奥様のために大事なところで邪魔をしたのだが、その際の心情が一番の問題で、美しくもあり、また疑問も残るところ。女中は、奥様を人として愛していたと思う。家族を守るのと同じ感情で、奥様の邪魔をしないといけないと考えたのは間違いない。

でも、その他の感情がなかったか?その点を疑わせる演出だった。例えば、ボーイッシュな友人が女中の心情を察する点から考えて、ホモセクシャルな愛情が全くなかったかは微妙。さらに、若い男を廻る妬みのような感情が、女中嬢に全くなかったかも微妙。

その微妙さを、微妙なままに描けていたのが、この作品の素晴らしいところと思う。

原作があるらしい。戦前や戦時中の一般庶民の感覚について、どのように書かれているのか気になる。一般の人には当面の景気がどうかのほうが気になり、長い戦争になって物資が不足し、自分達の命に関係してくるなど、思いもよらなかったのかもしれない。日本が大陸に進出(侵入)したことは、大陸側の人々にとっては災難のはずなのに、良いこと、当然のこととしか感じられなかったのかも。

したがって、この作品の表現は、他の国からは非難されてしかるべきと思う。市民の正直な感覚で描かれているかもしれないが、配慮が足りないという見方はできる。反省の色が見あたらない、自分達を犠牲者のように描いているといった批判は覚悟すべき。

いっぽうで、物騒な国際情勢、経済情勢と関係なく、この作品で描かれた世界は本当に小さく、優しさと愛情、心配や細やかな配慮に満ち溢れ、美しいものだった。不倫話でさえ、当人には大きな問題でも、当時の日本の情況を思えば些細なこと。生活の一頁のようなもの。普通の人の感覚は、きっとそうだろう。戦争で悲惨な結果が来るなど、毎日考えても仕方ないのだから。

南北戦争当時のスカーレット嬢は、戦争のことより自分の恋のほうが大事だった。女子のかなりの人は、そんなものかもしれない。この作品は、慎ましい日本版スカーレットを描いているようにも思える。・・・・でも、だいぶキャラクター違う、特にレッド・バトラー役が。

実際に当時の庶民感覚はどうだったのだろうか?モボ、モガの時代から、どんなに変遷したら軍国主義に納得できるのか、理解は難しい。たぶん、納得なんてしてなかったはず。

当時は、特に戦時体制になってからは、自由に物を書いたりするのは難しかったはずなので、本音は不明。想像くらいしかできない。戦後の引揚者に聞いたかぎりでは、皆が軍国主義だったとは思えない。彼らの言葉を信じれば、現地の人たちと仲良く隔てなく接していた人も多かったらしい。

今でも似たようなものかも。ヘイトスピーチをやる人間もいれば、差別意識の全くない人、婚姻関係に発展する人も珍しくないから。

作品の中で、会社の人間が日中戦争について語る場面があった。自分達の仕事を考えると、大陸は良い市場で商売が大きくなるから、進出には大賛成、軍部にも応援、外交交渉は生ぬるいといった勇ましい態度になるだろう。当時はどこの国もそうだったし、今だって多くの国が実態はそのまま。

しかし、そんな人でも、目の前で野蛮な行為や差別が行われていれば、好意的には感じないと思う。利益がかかっていたから、侵略も商売の一環、当然の権利と考えたのでは?自分は野蛮で悪辣なことはしていないと。

あのシーンで侵略を勇ましいと評していた人たちは、悪人ではなく市井の一般人で、当時なりのイノベーションを目指した事業家、税金もちゃんと払う良き市民、そして良き家庭人でもあったと思う。

たぶん規模は違うが、欧米の資産家達も同様に、中国市場を日本が奪うのは許せない、自分達こそ覇者となるべき権利がある、日本は良い商売の相手だったが市場を渡すわけにはいかない。不景気を打破するためにも戦争は必要・・・そんな思惑があったかも。

結局、中国市場は共産圏に取られたから、米国投資家にとっての大戦は空前の大失策だったかもしれないけど、当面の景気対策としては最高だった。それに、日本と中国が合体して欧米資本の手が届かない社会が巨大になったら、それは彼らにとって最悪。禁輸措置を徹底して、日本を潰すしかない。

ビジネスだから権利を主張する。自由な貿易を阻害するな・・・という感覚は、自然な流れとして非道な行為につながるのが現実。ただし、それがないと景気も技術も沈滞し、社会が発展しない。大いに主張して利権を確保した勢力が、結局は生き残っているのが現実。野心がないと人は頑張らない。欧米諸国が人道主義に徹していたら、世界は中世のままだろう。

大きな流れの中で、良き市民も侵略に加担し、結果的には極悪非道の一巻を担う。これは残念だが現実で、誰かが止めることは難しい。やってる本人達には、自分の行為の意味が解りようがないから。大陸に進出した企業家、移住者達に文句を言っても、わけが解らなかっただろう。したがって、今後も同様のことは起こると思える。

筆者がもし戦前の日本に育ち、何かの事業をやってたら、大陸への進出をどう考えただろうか。現地の人が困るから反対? 

おそらく否だ。「俺は現地の人を虐げず、従業員に雇って給与を与え、現地の発展に寄与する。だから進出は是である。」と、考えるのではないか?資金を投入してしまえば、「工場進出は契約で認められた権利で、邪魔するのはテロリスト。」 → 「住民が反対運動を起こすのは、テロ行為だ。」となるだろう。筆者の人格のいかんは、あまり役に立たない。

今後、日本もそうだが、どこかの国同士が経済的な理由で対立し、権利の調停が上手く行かなくなったら、かってのような狂乱が起こらないとも限らない。日本にその意志があろうとなかろうと、自国の苦境を脱するために仕掛けてくる勢力があってもおかしくない。

かっての帝国主義やブロック経済は、ビジネス追求の結果、自然に生まれたものではないかと思う。正しいという意味ではなく、成り行きのままだとそうなるという意味でだが。今日だと、帝国主義的な行動は民族の権利を侵す悪徳と考えられるが、自由な商売、契約の遵守、投資と利益の回収といった理屈を追求すると、武力を背景にした支配被支配の関係にたどり着きやすい。国際条約で調停できれば良いが、争いになるのも珍しいことではないから。

資産の過剰な集中についても同じかも。危機を乗り越え、資産を増やし続けるのは一定の規模があって、リスクに耐えられる巨大資産家、巨大企業だけ。自然な流れで、資産はピケティ流に集中しやすい。 自由な投資、規制緩和、課税から逃れる海外流出などによって、国内は予算不足、沈滞が基調になり、貧困層が結婚もできないとしても、それが自由な経済活動の帰結。

でも、おそらく自由なままではいけないのだろう。流れは、法や条約、税金で調整しないといけない。調整が悪いことのようにいう論調は、もともとありえない。こんな状況だから、アベノミクスの理屈はやはり20年くらい遅れているのかも。

 

 

2015年5月10日

小さな恋のメロディ(1971)

Herald

- 少女の運命 -

公立学校に通うダニエル君とメロディ嬢は恋仲になり、大人達の反対を押し切って結婚しようとするが・・・

・・・4月5日、衛星放送で鑑賞。とても懐かしい作品。筆者(劇場主)は、公開時の小学生時代は観れなかった。18歳頃、リバイバルで始めて鑑賞したはず。

この作品は日本では猛烈なヒットになったが、なぜかイギリスでは受けなかったという。セリフに問題があったか、演技力のせいで本国の人にはリアルな感じが出なかったのかもしれない。日本人に外人の演技力はあまり関係ないから、可愛らしさと設定、音楽が良ければ受ける。この作品は、それらが抜群に優れていた。

そう言えば、ビージーズの人気が出たのは日本のほうが早い傾向があったらしい。ビートルズよりメロディアスで優しい雰囲気にこだわった部分が、叙情的な曲を好む日本人には受けたのだろう。この作品の音楽は本当に優しい。

曲調や声と映画のテーマが一致していて、それだけで雰囲気が良い作品になることは確実。加えての部分は色々あったが、普通のドラマのレベルで充分だったと思う。例えば学校の先生達の仕草や口調。気どった雰囲気、その保守性がユーモラスに出ればシニカルな笑いが期待できる。やりすぎると嫌悪感が出るからテレビドラマ的なレベルで留めるべき。そのへんは充分に心得ていたようだ。

ダニエル君の母親役、メロディ嬢の家族達の演技も単純明快、完全にテレビドラマのよう。日本人としては分かりやすくて好感を持てる。舞台俳優のような演技をされたら、親達にも同情してしまって、観ていて楽しめなくなる可能性がある。彼らは全て違う世代の人間、もしくは違う動物のようなものとして描かれるべきだった。

ダニエル君役のマーク・レスターは可愛らしい少年。見た目が大事だった。彼の出演が作品の成否を決めるほどの存在感だった。寂しそうな表情が素晴らしいし、根性が悪そうなイメージが全く湧かない稀有のキャラクター。大人になってからは全くのように魅力がなくなったそうだが、やはり子役の多くの運命通り。

メロディ嬢役のトレイシー・ハイドには色気を感じる。少女でも妙に色っぽい娘がいるが、この役には確かに色気が必要だったかもしれない。仮に優等生的なイメージのエマ・ワトソン嬢がもし演じていても、リアルなイメージにはつながらなかったのでは?優等生で賢いエマ嬢が結婚に同意するとは考えにくい。もちろん、ブサイクな少女でも無理。一目ぼれが当然と思える色気が必要。

大人になってからのトレイシー嬢は、美人ではあっても、かなりの肥満体だったと記憶する。30年前くらいまでは映画雑誌で見かけていた。彼女も、子役専門の俳優だったようだ。

悪友役のジャック・ワイルドの顔は素晴らしかった。いかにもイタズラしそうで、先生には常に怒られそうで、観るだけで笑ってしまう。筆者の育った田舎にも、あんな子はいた。

ストーリーは非常に簡単で、途中は学校生活の描写、友人達との遊び、遊園地や海岸でのデートなどのシーンが雰囲気を出していた。学校生活の様子は日本とそれほど変わらないが、多少野蛮な印象も受ける。

もしかすると、ストーリーはもっといじったほうが良かったのかも知れない。先生達との攻防での形勢の変化があったほうが、少年達の結びつきを強調したのではないか? 説教されてダニエル君がへこたれたり、反撃するために友人達と計画を練るなど、戦いのシーンを長くすると盛り上がりが違ったかもしれない。

メロドラマにする手もあったと思う。より心に残る結末が生まれたかも。二人がいろいろ工夫し、努力もしたが、結局は引越しなどで別れることになるようだと、ラストは涙なしでは見られなくなる。営業面を考えると、そうすべきだったかもしれない。

そもそも結婚しようという話だけで、どう盛り上がるのか?普通に考えると、企画としてはインパクトに欠ける。ただの幼稚なお伽噺、テレビドラマ的な企画に過ぎないと考えるのが正しい。作品のレベルを上げ、劇場公開に耐えうる設定にしたいなら、本来はもっと工夫が必要だった。たまたまヒットしただけでは?

この作品を我が家の子供たちに見せてみたが、意外に反応に乏しかった。筆者が見た時とは時代が違って、子供の感覚にも変化があったようだ。それとも単に子供たちの個性の違いかも知れない。あるいは音楽の違いか?今の子供にすれば、懐メロをBGMにした映画に魅力を感じるのは難しいかも。

当時は過度の競争、紛争にしらけた、‘優しい時代’だった。古い観念への疑問も吹き出ていて、ナンセンスな規定に反発することに意義があった時代。今はかなり復古調で教育された子がおおかろうから、世相が違う。したがって、見かたも違うのか?

70年代、まだ学生同士の男女交際は派手にはできなかった。ほんのわずか前のことだが、戦前の‘席を同じうせず’の世代が親だった当時のこと、おおっぴらに歩くのは勇気が必要だった。戦後育ちの世代が親になるのは80年代以降。そこに大きな違いがある。親が許さないと、子供も遠慮する。

「自分も異性と交際したい。それが当然の時代だ。そうなるだろう。」70年代の日本人の小学生は、おそらく誰でもそう感じていたのでは?だからこそ、切実な夢を描いた作品に喝采を送ったのでは?わずかな時代の違いが、自由な交際に対する認識に大きな違いを生んでいて、それで筆者と子供達との感覚にも違いがあるのかも。

先日、同級生だった女性が自殺してしまった。亡くなるまで知らなかったが、ウツ病を長く患っていたらしい。

学生時代は部活などでも目立ち、ボーイッシュで颯爽とした美少女だった。うつ病を発症しそうなイメージとは正反対の存在。冗談も通じるし、経済的に苦しむ状況でもなく、家族にも恵まれていたはず。うつ病は生活状況に関係なく発症するものだろうが、それにしても彼女が発症とは予想外。

彼女の若い頃の目の輝きや肌の張りを思い出す。何かで暴れていて服が大きくはだけ、筆者の目の前でオッパイが出そうになったことがある。彼女は目をひんむいて、あわてて胸を隠したが、すべすべしてそうな肌、大きな目、その後の恥ずかしそうな表情を覚えている。

その後、一度だけデートしたが特別な関係にはならなかった。あんな生命力に満ちた少女が、最近はどんな姿だったのか、全く知らない。知らないほうがいいと思っていた。おそらく、彼女のほうもそうだったのでは?

‘若葉の頃’の女学生は、できればそのままのイメージでいて欲しい。同性のクラスメートなら、互いの齢の取り具合をからかいあうこともできるが、女性にはできない。

 

 

2015年2月 3日

チョコレートドーナッツ(2012)

Bittersend

- 弱者への視線 -

ゲイのカップルが、ダウン症の少年を引き取って暮らそうとする。しかし周囲は認めず、法廷闘争となる。カップルは厳しい世間の目と戦うが・・・

・・・DVDで鑑賞。原題はAny day now・・・日本語のほうが断然良い。   

見ごたえのあるドラマだった。ダウン症の俳優が素晴らしい演技をしていると雑誌で読んでいて知っていたが、確かに稀有な存在だったと思う。彼が見せる笑顔は実に素晴らしいものだった。

主役はアラン・カミングで、筆者には怪人を演じた個性派俳優の印象が強いが、最近はドラマで法律家役としても何度か見た。日本だと市村正親に似た役者向きの眼力のある俳優で、どうやら実際にも映画と同じような活動をしているらしいから、役柄と個性が一致して、存在感には凄いものがあった。

カミングは、歌唱力も素晴らしかった。曲の選択もセンスが良い。この作品自体をミュージカルにすることだって出来たかもしれないが、実話に基づく脚本があったらしいので、あんまり大きく変更することはできなかったかも。

ゲイであることを理由に職業上の不利益を被るなど、権利を侵害されることは、道義的には許されない。でも、よほど珍しい一部の地域を除き、おそらく現実には暴力的な扱いも含めて、激しい排斥を受けるに違いない。命さえ保障できないだろう。

日本でも、白眼視は覚悟しないといけない。‘良識’ある態度をとる一般の人間の多くも、おそらく無視、非協力を基本とした態度をとる。積極的に助ける行動はとられない。ゲイに優しいことは、自分もゲイではないかと疑われる危険性がある。そもそも道義的であることにこだわることは自分の立場を弱く見せ、場合によっては排斥される側に回されることを意味する。それが怖い人は、無視するしかない。

宗教面で格段の重しがかかる米国でも、その点は同じと思う。法や宗教のルールに則って障害者を援助するなら許されるが、同情して何か独特の行動をとる場合は、犯罪と同じようになることが、この作品でよく分かった。実話に基づくらしいから、この作品の流れは本当にあったことなのかもしれない。そして、当然の帰結を迎えたわけだろう。

作品の中で法律家が見せた判断が正しかったのか、そのへんが問題。法律に基づいて判断し、結果はともかく適正であろうと努めた・・・そんな言い訳がなされるだろうが、空しい。引き取り手に関しては、ゲイであるなしよりも、虐待者になりうる性格の持ち主か、その人格が問題。親が過剰に厳しいだけでも、子供は白雪姫のような境遇になってしまう。性的趣味より人格と育て方が大事。

世間にゲイのカップルは多いと思うのだが、彼らが障害者の子供を本当によく管理できるのか、何か妙な教育上良くないことを躾けないか、自分達の性的嗜好をおしつけないか、気になるのは確か。彼らの家庭での教育振りを、彼らが話す言葉や態度だけで評価することは難しいから、判断の責任を問われるのが怖い。

警察や司法関係者として危惧すべきは、引き取り手に隠された意図があって、少年が後に被害者にならないかと言う点。そこを重視すると、よほどな確信がない限り、ゲイのカップルを信頼することは難しい。後で責任を問われるのは怖いので、公的な施設に丸投げしたいのが本音だろう。

精薄者施設ではいけないのか?施設は、それほどまで少年にとって良くないのかと考えることもできる。拘禁されたり虐待されることがあるのか?実態によっては、施設だけは避けたいと願う心情も理解できることになる。でも、そんな事実がなさそうなら、やはり施設が順当と考え(逃げ)てしまうだろう。

子供が高度の障害者であるなら、引き取り手の多少の性的な異常は問題にならないだろうという意見があるかもしれないが、それも差別的見解。例えば、可愛らしい男児がゲイのカップルに養育されたら、幼児への性的虐待を生まないかと想像すべきではある。よく障害者施設でレイプ事件があるというから、弱者の引き取り先に関しては十分な確認は必要だろう。

それらの点を考え、筆者は子供がよほど嫌がらない限り、一般的には施設への入所が原則と考える。ただし、子供が希望している場合は、たとえゲイカップルであっても、その人格面に問題がない限り、情状を考慮すべき。もちろん後のフォローは必須になるだろう。虐待や妙な性的行為が疑われたら、直ちに離さないといけない。

特に今回のように母親が養育の適正を欠く場合は、過去の判例に従うのは安易すぎる。母親の権利を不適切なレベルまで重視するのは危険で、母性を過剰に高く評価してよいとは限らない。麻薬は母性を凌駕する支配力を持つから麻薬なのである。司法の最後の判断は、結局は間違いだった。

筆者には気味悪く思えるゲイの世界だが、脳のちょっとした違いから起こってくる感覚の違いがあるだけだろう。人格には関係ないはず。幼児への性的な固執があるなら、ゲイか否かに関係なく養育者には不適だが、ゲイにその傾向が強いのだろうか?よく分からない。

米国では色々な法律面の規定が進んでいるらしいが、日本の場合はよほど大きな問題が起こらない限り、法的に規定することはなさそう。例えば養子縁組に関してどうなっているのか、何か古い規定にすがって判例を重ねているだけではという危惧を覚える。日本のゲイの情況については、どうもよく分からない。

 

 

2014年1月 2日

チャップリンの黄金狂時代(1925)

Uartists

- 喜劇から昇華する -

ゴールドラッシュに湧くアラスカに、浮浪者チャップリンが現れた。ドジを繰り返して凶悪犯や大男、恋敵などと騒動を起こす物語・・・

・・・DVDで鑑賞。DVDの前には淀川長治氏の解説もついていた。これも今となっては非常に懐かしい。淀川氏は相変わらず要領を得ない、繰り返しがやたら多い話で、こんな話しっぷりでよくテレビに出られたなと感心する。解りにくさと妙な調子が、逆に個性になった例だろう。

正月に家族で観る映画は何が良いかなあ?と考えていたら、ハタと目が止まったので久しぶりに全編を見てみた。記憶していたとは別に様々なシーンがあり、意外に長かった。

クマが主人公の後ろを歩いているのに気がつかないシーンや、靴を料理して食べるシーン、空腹のあまり人がニワトリに見えてしまうシーン、小屋が崖に引っかかって落ちそうなシーンなど、有名なものは覚えていたが、酒場のシーンなどは記憶に残っていなかった。

この作品は非常に古くさいのに、我が家の子供達にも受ける。古典的なギャグ、古めかしい画質、サイレント映画であるにもかかわらず、万人に受ける要素を持っているようだ。さらに20年後、百年後にはどのように感じるのだろうか?とにかく、今年の正月には、家族でこれを観ようと思う。

この作品にも恋物語がある。主人公が一方的に片思いし、ヒロインは好意は持ってくれるのは同じだが、恋愛感情が希薄なのは、他の作品とは少し違っている点。他の作品では、恋は成就するが貧乏だったり、極めて不幸な想いをしていたりするから、ただの喜劇からは完全に逸脱している。この作品は、まだ喜劇と断言できる。

「街の灯」は1931年、「モダンタイムズ」は36年、「独裁者」は40年、「殺人狂時代」は47年、「ライムライト」は52年。だから、いかなチャップリンとて、悲しい喜劇にまで作風を昇華するに至っていない、その前段階にあったのかも。

年越しパーティーのシーン。女性客の中の少なからぬ人数が、ホタルの光を聞きながら泣いている。それまでのシーンからは妙に感じる。そう言えば、同じようなシーンの「フォレスト・ガンプ」の中で、‘隊長’がフォレストや今後のことを考えて真剣な表情を浮かべていた。喜劇が格調高いものを生もうとする際には、ホタルの光は良い道具なんだろう。

その前のチャップリンは、一人寂しくテーブルに座って客が来ないことを知るが、そのシーンも全く笑えない。誰でも彼が気の毒になる。そんなシーンがないと、観客は主人公に好感を抱いてはくれないだろうし、一段レベルアップする印象づけも難しい。笑えないシーンの使い方が、喜劇にとっては重要なんだろう。

あれが、喜劇から昇華する瞬間だったのか?

この作品のヒロインは、リアルな存在だったとも言える。浮浪者に恋をするようでは、さすがにアラスカの寒空では生きていけない。金を持たない間は、ただの好意で済ませるのが正しい判断。ラストで始めてキスしたのは適切。そして、きっとドジ男とは離婚して、多額の生活費を手に入れるのが最高に正しい。

チャップリンのことだ、きっと他の女に目移りするに違いない。私がヒロインの父親だったら、彼女の行動には満点を贈りたい。私が主人公側の立場だったら、慰謝料目当てで態度を決められては困るわけだが、そこは立場の問題であり、仕方ない。

この作品のアイディアを作品化する際には、どんな風に考えたのだろうか?「雪山を撮影しても面白くないのでは?」「厳しい世界を舞台にしたら、笑えない客も多いのでは?」「飢えや寒さを観客は笑うか?」・・・そんな疑問は当然出てきたろう。下手すれば、チャップリンのキャリアも終わりでは?そんな疑念すら起こりうる。

チャップリンの人気の度合い、もともと貧困が売りになったキャラクターであること、そんな面から企画として通用するかもと、話が進んだのだろうか?有無をも言わせぬほど、当時の彼には発言力があったのも確かだろうが。

当時は特撮の技術が限られていたはずなんで、人間が鳥の姿になったシーンでは、かなりの観客が理解できなかったのではないかと思った。今でこそ約束事として当然の技法だが、「なぜ鳥がいきなり出てくるんだ!」と憤慨する人だっていたのでは?

最近、ドリフターズのギャグを集めた番組を見ていて、改めて思ったが、加藤茶や志村けんの動作は完全にチャップリンを真似ている。たぶん浅草芸人の多くは、チャップリンに憧れて道に入ったはず。似てくるのが自然だったんだろう。そんな気がした。

ギャグやコントの完成度が高いが、総てチャップリンのオリジナルアイディアなのかは疑問に思う。若い頃の芸人時代には、周囲にたくさんのアイディアがあふれ、楽屋芸のようなものが常に身近にあったはずで、模倣や微妙なバージョンの変化で自分の売りにしたのでは?芸の世界を見る限り、そんな風に思う。

United_artists

特徴となった服装に関しても、似たような衣装の芸人が全くいなかったはずはない。たぶん、芸をする中で彼がつけた衣装に、皆が爆笑したか、もしくはキャラクターとして目立つ方法を、彼が鋭く思いついたかによって生まれたのでは?

30年前くらいに彼の自伝を読んだことがある。衣装についても何か書いてあったが、その記載を信用する必要はないと思う。芸人時代のことだから、その解説も芸のひとつのようなものと理解する。

チャップリンの場合に感心するのは、非常に受けたギャグを、他の映画で使う傾向がないこと。転び方や、殴り方殴られ方などは約束のようにパターン化されているが、大事なギャグは一回きりにしているように思う。私が観た範囲では、そうだ。素晴らしいギャグを大事に使うことは確かに必要。次々とギャグをひねり出すセンスがないと、できないことでもあるけど。

靴を料理するシーンが、観客にどう写ると考えたのだろうか?食べ方が非常にマナーを守った点は、厳しい状況を考えると笑える。気持ち悪い物を食べるシーンで、酷すぎる状態を逆に笑う妙にシニカルな感情が多くの人に浮かぶだろうと確信できていたのだろうか?

おそらく他の俳優の場合は、同じギャグをやっても同じようには受けない。例えば、いっしょに出てきた大男がどんな演技をしても、汚い物を食べるなあといった嫌悪感くらいしか浮かばないのでは?酷い目に遭うと観客からおかしく感じられる俳優は、喜劇俳優になれる。たぶん、二枚目やスタイルの良い俳優より、小柄でお調子者のイメージの強い俳優が望まれる。どう受けるかを、よく知っていたのだろう。

 

 

 

2012年6月27日

チャンプ(1979)

Mgm

- 名画劇場向き -

ボクシングチャンピオンだった通称”チャンプ”は、子供と馬の世話をしつつ生活していた。しかし、そこに別れた妻が現れる・・・

・・・「リアル・スティール」で思い出して鑑賞。断片的な記憶しかなかったが、この作品なかなか映画らしい美しい作品だった。名画となることを期待して作られた品という印象。「リアル・スティール」は違う。評判になるし、観客動員数はずっと多いかも知れないが、名画といった性格の作品ではない。意図が違う。

冒頭の乗馬のシーン、上流社会らしき人達が楽しげに乗馬を楽しんでる姿は、朝日の中で大変に美しい。物語は、ほとんどは下層に属する人間の話であるのだが、映画的に仕上げるためには冒頭は美しいほうが良い。そんな原則に忠実だった。

主人公がスキップしている様は、あんまり軽やかではない。当時も感じたのだが、ボクサーらしくないボクサー役だった。体力的に、この俳優なら本当にボクシングができるかもといったリアリティが欲しい。ウィル・スミスなら可だろうが、ジョン・ヴォイトでは違和感を覚悟しないといけない。

この主人公のような人物は、現実にもいたのだろうか?

競馬関係者や馬の飼育に関わる業界は、かなり閉ざされた社会のような気がする。日本の場合は、親戚も業種は違っても競馬界や競輪選手関係で生きている傾向があるが、あちらではどうなんだろうか?馬の世話を嫌ってボクサーを目指す人間がいるのだろうか?

イメージとして、ボクサー = 都会でバイト生活をしながらトレーニング。親戚は工場労働者や暗黒街の住人。黒人がほとんどで、多少はヒスパニック系もいる、そんな感じがする。競馬業界の人間は大きな勝負ができるチャンスがあるから、ボクサーを目指すという話には、ちょっと疑問めいたものを感じた。

でも馬主や騎手と違って、世話係にチャンスは限られているのかもしれない。内情を知らないので解らない。

私が知り合えた人間に、競馬関係者はいない。荒尾競馬場の医務室に待機させられることは何度かあったが、部屋からは外がよく見えなくて、どの馬が勝っているのか全く解らなかった。観客席からでないと、結果は解らない。正直言って、そこらじゅうが臭くて、あんまり馬に乗りたいとも感じなかった。馬といっしょに生活することも考えられなかった。

でも、何かの理由で馬の世話が仕事になったら、きっと楽しいだろう。馬は生き物の中では最も世話のしがいがある。特に競争馬の場合は、大きな賞金=収入をもたらしてくれる存在であり、勝利という目に見える成果が仕事への誇り、喜びにつながると想像する。給料は安いかもしれないが。

この作品は名画と言えると思う。カギとなるのは、子役がいかに可愛らしく、観客の同情をひいてくれるかだが、この作品の場合は際立って可愛らしく、演技の質も高かった。本当に笑い、泣いているとしか見えないリアリティがあった。演じていたリッキー・シュローダー君は、大人になってからは普通の俳優になったに過ぎないらしいが、そんなものだろう。

私の末っ子は、今がちょうどシュローダー君に近い時期で、だからかシュローダー君が何かするたびに涙が出てしまった。子役として、最も優れた役者だったと思う。

ジョン・ヴォイトの演技は、意外に印象に残らなかった。名演だったとは思うのだが、リアリティに欠けた印象。どちらかというと、母親役のフェイ・ダナウェイのほうがリアルだった。いつもはクールな悪女役が多かったが、愛情を表現する上手さを感じた。

意外なほどにボクシングシーンが短い。ドラマがほとんど。もともとボクシングの上手さは期待できないし、そもそも殴りあいで盛り上げるのには限界がある。「ロッキー」は珍しく長い戦いを売りにした作品だったが、本当に珍しいと思う。しぶとさを表現することが必要だったら、もっと長く、しかも上手く殴りあう必要があった。

 

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