映画評

  • 当劇場は劇場主のための映画館です。訪問者を期待しておりません。内容の客観性、正確性は保障できません。でも、真摯な批評を目指します。

劇場主


Conflict of Interest

  • 特にありません。

おことわり

  • 当劇場は誹謗中傷を目的としておりません。もし権利を侵害されたと感じられた方は、申し訳ありませんが管理会社や公的機関に御相談ください。

カテゴリー「た」の65件の記事

2019年8月10日

対韓輸出規制問題(2019)

- 規制? -

韓国に対する輸出規制が、大きな波紋を生んでいる。ネットの情報では、韓国の反応は激しく、まるで劇場のように見える。なので、ここで論じてみたい。

規制が始まったのは、韓国の裁判所が徴用工裁判で、日本企業への賠償を命じたことに影響されていると思う。でも公式には韓国が日本からの輸入品を中国や北朝鮮などに渡しているという点を問題視しているようだ。そしてファーウェイにも、日本製の材料が転売されているらしいので、今回の決定には米国からの要請があったのかもしれない。

それ以外にも、日本の哨戒機にレーダーを照射した事件、北朝鮮に対する瀬取りの疑惑、慰安婦像など韓国の対応には多くの問題があり、政府間の信頼関係がなくなったことも影響したと報道されている。両国の安全、景気のためには、良い関係を維持することが望まれるはずなのに、あえて危険で、しかも儲からない方向に向かっている。阿呆らしい選択だ。真の敵の存在、取り組むべき課題を忘れている。

文政権の姿勢は、選挙を有利にすることを第一に考え、過剰に対立を煽っているだけのように見える。韓国の国民感情は理解できるし、急に今の方針が変わるとは思えないので、日本側がやれることは少ないだろう。日本が何か取引できることがあるのだろうか? 日韓の条約の順守を求め続け、政権が変わるのを待つしかないように思う。でも、そうやって問題が長期化している間に情勢が悪化したら、双方が互いに悪化の責任をめぐって、さらに非難し合うことにもなりかねない。 

政府の対応の順序として、まず韓国をホワイト国から外す決定を先にしてはいけなかったのだろうか? 先に半導体関係の材料への規制を公表すると、意図が明確に出過ぎてしまう。順番が逆ではなかったか? アジアでは韓国だけがホワイト国だったらしいので、外しても構わないと思う。中国、タイやインドネシア、ベトナムなども大事な通商相手国だが、それでもホワイト国扱いはしていない。選定は日本政府の権利と言える。規制という言葉を日本側から使う必要もない。「輸出の審査を厳格化するだけで、輸出を止めることは考えていない。」と、繰り返し発言して、一方的な敵対行為をしてはいないと演出するスマートさが足りていなかったかも知れない。

規制という言葉を使わないよう、報道機関を'規制'しても良かった。

韓国国民の多くは、感情は別として、日本と対立して経済的なダメージを喰らうことは望んでいないと思う。でも、政府は弱腰になれない。日本側に譲歩すれば、国辱ものの行為になり、選挙の時には決定的な傷になる。日本政府は明確に敵対意識を表する必要はないが、やはり譲歩したら右翼連中から激しい反発を喰らい、選挙の際の応援に響いてくると思う。どうやったら折り合いがつくのか、今の時点では全く分からない。  

怖いのは、誰か英雄気取りの人物が暴走してテロ行為をやらかしたり、自衛隊と韓国軍の間で偶発的な事故が発生した場合、大規模な衝突に発展しないかどうかという点。まさかとは思うが、とっさのことに予想外の反応をしてしまう可能性はある。批判を恐れるあまり、過剰に勇ましい言動をとって、それがまた新たな感情的反発を生じて衝突を大きくする、そんな悪循環もありうる。相互に訪れる旅行者は多いので、誰かが怪我でもしたら、大きな騒動になるだろう。意図的に騒ぎを起こそうとする動きだって、考えられる。

もはや安倍総理の退陣、文政権の終了が、双方にとって好都合かも知れないと思えてきた。それで事態が好転したら、安倍総理に感謝しないといけない。首脳が代わる機会に、事態の打開を探る動きはきっとあると思う。アベノミクスは成功していないし、外交でも成果が限られているので、退陣こそが最も良い仕事になるという、そんな大皮肉の結果も考えられる。

 

 

 

2019年5月30日

誰が世界を支配しているのか?(2018)

Who-rules-the-world_2

- 双葉社 -

MITの伝説的な学者であるノーム・チョムスキー氏の著書を購読。今作も独特のチョムスキー節だ。氏が共産主義者だったのかは分からないが、そうであっても不思議ではないと思う。いずれにせよ米国の中では極めて左寄りな政治思想を持つ人物で、トランプ政権とは真っ向反対の主張をしている。だが客観的に見れば、チョムスキー氏が自由に発言できるのは、米国人だからだ。中国で同じような発言をすれば、すぐ逮捕される。米国の恩恵の元に文句を言えている現状を、氏はひとこと述べておくべきだろう。 

イラク戦争の開戦の時に思ったが、米国民はプロパガンダに乗って簡単に、そして理不尽なほど攻撃的になるようだが、チョムスキー氏は明らかに異質。かなり批判的で悲観的だ。でも、米国においても彼の考え方を支持する一定の層はあるはずで、だからこそ著作がベストセラーにもなれるわけだから、米国の思想は幅が広い。富や宗教など、望むものが多彩だからだろう。その幅の広さ、自由度は評価すべきと思う。ただ、自由度が過剰になると、富と権力の独占も自由ということになり、種々の問題が発生する。要するに、それが問題なんだろう。  

この本の主張のメインは、米国の金融界や巨額の資産家たちが、政治を動かして世界を支配しているということ。2017年の著書「アメリカンドリームの終わり」と共通する内容。誰がという個々の人間ではなく、パワーを持つ社会的エリート達の要求の力関係で、それが確保される方向で、全ては決まっているという主張のようである。その点に関しては、劇場主も同感であるというか、世界の常識だ。米国の右派の人だってそう思っているに違いない。チョムスキー氏に限らず、1%の超資産家を攻撃する学者や若者は多く、ウォールストリートでデモを行ったりしたから、相当数の人間が同じような認識を持ったはずだ。

デモは2011年だったから、もう8年も前になる。人手不足の昨今だから、今の若者は忘れているかも知れない。景気さえよくなれば、人はあまり過激なことはしたがらないものだが、さすがに当時の就職難には頭に来た人が多かったようだ。あの時の考え方は、この本の主張とかぶっている。過剰な資産の集中が金融機関~投資家に向けて起こり、米国の政界はその意向を尊重せざるを得ないし、そうしてまた資産の集中が加速する。トマ・ピケティ理論とも同様だ。自由に金儲けをさせたら、国民のことを気にするはずがない。

加えて、生産現場が中国に大々的に移転したので、米国の労働者階級に回る仕事がなくなってしまった点も大きい。中国の市場開放は急激に起こり、与えた影響は欧米の労働者を直撃した。急激でなかったら、それほど反感を買うこともなく、労働者たちも個別に対処できただろうが、一気に情勢が変わると、職探しで苦労することになる。職探しを劇場主はしたことがないのだが、想像するだけでも、それは辛いものだろう。だから中国の市場開放が明らかになったら、変化のスピードを緩和する法律を新たに作るべきだった。会社の自由にさせたら、必ず問題が起こる。EUと米国の企業間でライバル意識が働いて、互いに進出を競い、抜け駆けをしようとして、結果的に自国民にしわ寄せが来た形ではないだろうか? 

問題は今後の展開だが、米国の支配が直ぐ変わるとは考えにくい。中国やインドが経済発展しても、資源や伝統の力などを考えると、そうそう覇権は移らないだろう。むしろ、各国のエリートが米国に移住し、一体化する可能性のほうが高い。労働者層の権利が高まるかどうかは、金融業に何かのダメージがあるかどうかにかかって来る。資産の集中を防ぐ何かの法律が成立するかどうか、資産税が上がるかどうか、戦争があるかどうかなど、カギとなる要因はたくさんありそうだ。

日本では金融業界の今後は暗いと予想されている。米国でもそうならないとは限らない。投資家達の力も景気に左右されるはずで、戦争で景気を上げようとするキャンペーンがあれば、逆に反戦の動きもあるだろうし、米国の大統領選の動向にも左右されるはずで、予想できない。米国は日本に対して経済的譲歩を要求し続けるのは確実。それは昔からの伝統で、手段を選ばないのも確実だろう。 中国はもちろん、イランにも強引な要求をしているが、力で圧力をかけて待つ姿勢を見ると、日本の過去を思い起こさせる。 

 

 

 

2019年2月21日

ダマスカス(2018)

Damaskus_time


DAMASCUS TIME -       


イラン空軍に所属する主人公は、父親とともにパルミュラの救援に向かう。しかし、ISの罠によって捕虜になってしまう・・・DVDで鑑賞。   


等身大の主人公が体験する恐怖を、リアルに描いていた。娯楽作品であっても、奇抜な活躍をするわけではない。恐怖に震える様子がちゃんと描かれている。 イランの映画だという。イランは禁輸措置によって経済的には打撃を被っていると言うが、ちゃんと娯楽映画を作れるのだと知った。  


イスラム圏の中での殺し合いの作品は初めて観たかもしれない。アラビアのロレンスでもトルコとアラビア人達の戦いはあったが、互いの間で会話らしい会話はなかった。最近の米国製の戦争映画でも、中東地域はよく出て来るが、米兵とイスラム圏の人達の間に会話はほとんどない。今作の特徴は、互いの言葉が通じ合い、その考えていることが表現されていた点だと思う。   


テロリスト側の論理もちゃんと表現する必要はあるだろう。今までの作品では、「アラーは偉大なり!」などと叫びだすだけの、話にならない人物としてのアラブ人は多数いたが、論理的な部分がおろそかだった。言葉が通じないからだろう。たいていは話が終わらないうちに、米軍のヒーロー達から殺される運命にあり、米軍側も理解という概念がない状況が疑われた。何故に彼らがああも激しい行動をとるのか、その点の分析があまりにも浅すぎた。  


ドローンを飛ばし、自分たちの作戦を映像に撮って世界に発信する、互いの連絡にもタブレット端末は必需品・・・そんな手法は、現代の戦争では当たり前なのだろうか? ドローンは敵の把握には最適だと思う。既に使われているはずだ。でも通信手段はどうだろうか? 戦場の場合は中継塔はないだろうが、通信圏外にならないのだろうか? 衛星やドローンを使わないと、通信不良になるはずだが、どうなっているのだろう? あちらは土地が広大なので、衛星の回線を使うことが常識なのかも知れないが・・・  


イスラム圏の国から見て、ISのような過激派がどのように見えるのか、その点に興味がある。逆に、ISの兵士たちから見て、一般のイスラム教徒はどう見えるのか? かってISが支配した地域では、激しいテロ行為によって大勢の住民が殺されたと聞くが、どんな理屈でISの兵士はそんなことをやれたのだろうか? 宗教的な理屈はなく、単純に兵士の命令を聞かせるためだろうか?  兵士にも厳しい命令が下っており、上官からの指示に従うために、大勢を殺してでも言うことを聞かせる必要を感じたのか?   


ISの組織を維持するためには、兵士も住人も恐怖でしばり、資金を集めて国家のような体制を維持しないといけなかったはずだ。宗教のため、組織のためという観念が残虐行為も正当化するのは、古来から続いてきたこと。それを利用して、国家が大きくなり、戦い方が激しく、軍隊は強固になった。その問題点を指摘するのは、おそらく古来から繰り返されてきたことだろうが、難しいのだろう。頑迷さの度合いが、正しさとなる傾向があるのだから。    


 


 

2018年10月18日

大砂塵(1954)

Johnny_guitar

- Republic Pic. - Johnny Guitar               


町外れに鉄道の駅が計画されている。それを見込んで酒場を作った女と、町の住民が激しく諍うところに、ギターを抱えた男がやってきた・・・・DVDで鑑賞。    


おそらく、この作品もツタヤの特集コーナーに並んでいなかったら、まったく気づかないままだったと思う。主題曲は有名で何度も聞いたことがあったが、作品についは知らなかった。鑑賞してみて思ったが、かなりは理解不能の作品で、凝ったストーリー、長いセリフの時間帯が気になった。名作とは言えないが、迷作と言える印象。            


優れた点も感じた。利権を狙う野心家と旧来の住人との諍いは、いつの時代にも起こりうる問題で、リアルな設定と思った。また、女同士の争いが町の人々を巻き込んで、殺し合いに発展する流れも映画的で面白かった。      


敵役を演じていたマーセデス・マッケンブリッジという女優さんは大演説をぶちかまして、まるで米国の政治家のようだった。扇動者は、似たような話し方になるものらしい。主役のスターリング・ヘイドンは、それに対してあまり魅力的に感じなかった。演技も特に上手い印象がなく、動きも遅そうで、あれでは撃ち合いでは負けると思う。           


悪役のアーネスト・ボーグナインは明らかに図抜けて素晴らしい。存在感は彼のボスよりも断然あったし、彼なりの考え方に納得ができた。素晴らしい悪役がいたので、もっと彼との対決をメインに持ってきたら良かったと思う。    


ヒロインのジョーン・クロフォードも激しい演技ではあったが、ヒーローに対しての心にしみるような強い愛情は感じなかったので、この作品を恋愛ものと考えると失敗していたはずだ。ガンファイトものとしても、それほど激しい銃撃戦がなかった関係で、魅力は今一つではないか? 何をウリにしたかと言えば、音楽や仲間割れ、裏切りや嘘でリンチが始まる社会問題など、西部劇には珍しいストーリーだろうか?     


捕まった青年に司法取引を申し出て騙すシーンがあった。相手は犯罪者だから、嘘をついて証言を得ても良いという意思決定の流れは、実際にも起こりそうだ。米国人の考え方をよく示している。人種が違えば、当然のようにやられていただろう。インディアン達や旧日本軍とのやりとりでも、おそらく同じような手法は使われたはず。  


戦後の日本企業との訴訟でも、やはり同様だったはず。訴訟にならなくても、様々な交渉において、見事な裏切り、嘘に満ちたやりとりが成されたに違いない。戦前の外務省も、戦後の政治家たちも酷い目に遭ってきたと思う。この作品では民主的な形をとった判断で、結果としてヒロインは財産と商売の手段を失い、冤罪によって生命の危機に陥った。恐ろしい話である。






2018年8月13日

民王(2013)

Tamiou

 

- 文芸春秋社・文庫版 -   

 

総理大臣になったばかりの武藤は、自分の人格が息子と入れ替わっていることに気づく。国会答弁や党内外の調整に四苦八苦しながら、隠された陰謀を暴こうと努力するが・・・・  初版は2010年らしい。2013年に刊行された文庫本を購読。   


この作品はテレビドラマ化されていた。予告を見た記憶があるが、放送は見なかった。物語の性格上、役者たちの演技がオーバーになりそうな予感がしたので、敬遠してしまった。   


国会答弁で漢字を誤読していたのは、明らかに麻生元総理の実際の話だが、「未曾有」の読み違えは、そのまま作品の中に登場している。麻生氏に断ったのかどうか気になった。事実とはいえ、本に載せるのはマナー的にどうか? そして酩酊して記者会見に臨んだのは、中川元代議士の話だろうが、彼は自殺してしまっており、そもそも笑える話かどうか疑問である。モラルの観点から、そして遺族の心情を考えた時に、書くべきだったか微妙な印象は受けた。ただし、自殺したからといって同情して酩酊会見の話題だけ描かないのも不自然。   


あの時期、たしかに政治家たちの言動に呆れることが続いていた。スキャンダルや人気の低下で、内閣が短命に終わっていて、今の安倍総理のような長期政権が誕生しそうには、とても思えなかった。 個々人の能力に関しては、一般の会社員のレベルよりずっと下なのであろうと、各々のエピソードで感じてしまった。会社であれをやったら、即クビにされても仕方ない。クビにならないで済むということが、なにか制度上の問題を感じさせる。優秀な人が選ばれない仕組みができているということだ。 


他にも能力を疑う話は多かった。大臣になると、自分の専門外のことを理解しないといけないし、それも短い期間で学習する必要があり、誰にでもできることではないと思うが、それにしても一般常識の範囲で妙な事例は多かった。   


中川氏は学業優秀だったらしいが、たぶん鬱病でアル中だったのではないかと想像する。職務に従事できる状態ではなかったのだろう。親も自殺しており、地盤の利害などもあって代議士にならざるを得なかったはずで、もともとが真面目過ぎて議員には向いていなかったのかもしれない。  


地盤がものを言う選挙制度、二世議員を選ぶ民意のレベル、それを可能にしている法律、それら全てに欠陥があるのだろう。おそらく、収賄や選挙違反を含め、職務に関わる不正が明らかになった時、代議士はもちろん、事務所に登録された人間、親族に至るまで、全て被選挙権を奪うくらいの法律が必要だ。そうしないと、頭だけ代えた団体が利権を狙い続ける。国政にとって何が必要かには、あまり興味がない人間が選ばれ続ける結果になる。そうならないはずがない。そんな制度で良いはずがない。後援会組織は、代議士と運命を共にしてもらって良いと思う。それで憲法にひっかかる面はないと思うし、憲法上の問題があるなら、まず憲法のその部分の条項を変えないと国が危ない。  


 


 



2018年3月17日

ダンケルク(2017)

Dunkirk

- Warner Bros. -

 

ダンケルクからの撤退を、一兵士、戦闘機パイロット、民間船の乗組員などの視点から描いた作品。クリストファー・ノーラン監督作品。DVDで鑑賞。

 

ドラマとしては、あまり劇的なものは感じなかった。ほとんどの時間は沈没か爆弾の恐怖におびえる兵士の表情が描かれるだけで、際立つ英雄に相当する人物は少なく、過去の戦争映画のような活劇的な盛り上がりは考えていなかったようだ。

 

しかし、疑似体験の意味では非常に高度な作品。実際の戦場で英雄を目指す兵士は滅多にいるものではないはずで、どう生き残るか、敵から逃れるかしか考えられないことがほとんどのはず。銃弾が飛び交う中では、目立つのは危ない。そこを的確に描けていた点では優れていたと思う。  

 

特に船が沈没していく様子に、とても迫力が感じられた。過去の映画だと、血まみれ死体はたくさん出て来るが、船はゆっくり沈んで、英雄たちが何かを語る時間がたっぷりあった。演出過剰だと感じることが実際にほとんど。演出を排除すると、芸術性や訴えかける力が損なわれるという観念が主流だったのだろう。  

 

でも船内にいたら、あっという間に水が入ってきて、その勢いに抵抗する間もなく、外に逃れることが叶わないまま、悲惨な最期をとげる人が多いはず。船内で水が満ちていく時の恐怖は、この作品では強調されていた。ヒーローがさっさか逃れる作品は、もう嘘くさいと考えたのだろう。

 

スピルバーグ監督の作品でさえもそうだった。上陸作戦はリアルに描かれていても、ヒーローは信じがたいほどの活躍ぶりだったし、ゆっくり盛り上がりそうなセリフを述べていた。そこを排除するのは、勇気の要ることだろう。何を言いたいのか分からない作品だと、コケにされても仕方なくなりかねない冒険だった。  

 

冒険は成功したのかどうか、ちょっと微妙な印象。疑似体験をさせるなら、主人公は明確に一人に定め、他の人物はあくまで脇役、主人公と関わるだけに留めたほうが良かったと思う。たとえば戦闘機パイロットは主人公の兵士の兄か友人でないかぎり、顔を出す必要さえない。視点を複雑にして戦争の全体像に迫る方向と、疑似体験の方向は、相いれないものではなかろうか?  

 

BBC制作のダンケルク作品も変わった作り方をしていた。それでも、あれは旧来のヒーローが多数いる設定の作品だったようだが、分かりやすさの面では、このノーラン監督作品よりは完成されていた。

 

2018年3月 2日

ダンケルク史上最大の撤退作戦・奇跡の10日間(2004)

Bbc

 

- BBC -

 

第二次大戦初期、ダンケルクから奇跡的な脱出を遂げた英軍の作戦を描いたテレビドラマ。BBCの作品に外れはない。どこかの国の放送局とは違うので鑑賞。DVD版だったが、3部作になっており、全体では3時間近くだろうか、非常に長かった。

 

変わった作り方をしていて、実在の兵士の話を参考に、演じている役者たちがインタビューに答えながらドラマを演じていた。手法としてはリアルさを損なった面があると思う。インタビューは余計で、兵士の独り言などを使っても全く問題なかったと思う。

 

俳優たちの多くは知らない人だった。ガンバーバッジだけは有名だが、彼が主役というわけではなかった。群像劇という形式で、各地で活躍した兵士たちの個々の活動をリアルに描こうとしていたようだ。

 

作戦は有名だから何度も聞いていたが、一致団結してスムーズに行われたようなイメージを持っていた。霧に助けられて、ドイツ軍が気づかないうちにさっさと全員が逃げおおせた、出し抜かれたドイツ側が歯ぎしり・・・そんなイメージ。ノルマンディ上陸作戦より派手さが足りない。

 

でも作品で描かれていたように、英国政府の内部や連合軍の首脳との間で激しい論争があり、きわどい成功だったというのが事実かも知れない。すでに戦いは始まっており、まさか本当に講和を画策していたとは信じがたいが、考える人がいてもおかしくはない。第一次世界大戦で数十万単位の兵士を失った記憶が強かったろうから、戦争を継続するなんて非常識だという感覚はあったと思う。英国は立ち直っておらず、予算も全然足りなかったはずだ。

結果的チャーチルは英雄になったが、もし彼を支持する閣僚が少なく、世論も講和ムードが大勢を占めていたとすると、好戦的過ぎる人物として排斥され、失脚していたかも知れない。予算がないぞ!そんな意見もありうる。かなり微妙な場面があった可能性はある。そもそも電撃戦をやられてしまわないように、準備できていなかった点は失策だろう。

 

本当にドイツとの交渉は厳しいものになり、英国軍は再建できず、ドイツに従属する運命だったのだろうか?米軍が存在する以上、まさかドイツ軍が英国本土を占領し、英国を戦争から排除してしまうところまでは持っていけないだろう。和平交渉は可能だったかもしれない。兵士を失わないなら、捲土重来は可能と考えることもできた。

 

でも万が一、ドイツ軍が先回りして海岸を支配していたら、そもそも救出は全く不可能だったと思う。制空権がカギだった。英空軍がドイツ空軍の活動を抑えて自由にさせなかったから作戦が可能だった。30万人以上の人間を移動させるのは、何の妨害のない平和な今日でも大変な話。おそらく一般人たちが相手でも大混乱に陥り、長期化してしまうと思う。

 

満州からの引き上げの話を何度か聞いたが、英軍と比べて旧日本軍は誇りや作戦能力、意志や意識の面でずいぶんと差を感じる。攻めている時は優れていても、撤退の時は作戦慣れのようなものが必要で、一瞬にして何が必要か考え、適切な対処をとるという基本ができていなかったように思う。もちろん、現地を侵略していたことが最悪なんだが。

 

 

 

 

 

2018年1月13日

たかが世界の終わり(2016)

Its_only_the_end_of_the_world

 

- Entertainment One etc. -

 

自分の死を家族に告げるために家を訪ねた主人公。しかし、家族を前にすると話を切り出せない。家族の間にギクシャクした空気が流れる・・・・DVDで鑑賞。

監督と原作はグザヴィエ・ドランという方で、フランスの有名な俳優がごっそり出演したか?と思えるほど豪華な出演者が演技合戦をやっていた。特に強い印象を受けたのは母親役。子供達から敬意をはらってもらっていなかったが、それに対抗できている点がよく表現されていた。

 

遠近を強調した映像、小津安次郎ばりのアップを使った会話のシーンが印象的だった。でも、失敗作では?という印象も強い。アイディアは良かったはずだが、少しテンポに問題があって、観客が観ていて耐えられなくなる間合いではなかったかと思う。

 

しっくりいっていない家族の関係はよく分かった。表現が良かったからだろう。主人公が家出同様に都会に出て以後が疎遠であること、性的な問題により理解されていないことが大きな原因らしいが、残った家族の間でも諍いが多い元々の家風のようなものが、妙な雰囲気からよく分かった。実際にも、あんな感じになるのかもしれない。

 

でも、それでストーリーが転ぶ流れ、帰結に至るまでの必然の経過は表現できていないと思う。観客が、「ああ、こんな家族関係なら、こんな結末になるだろうね。それでも、こんな家族は好きだなあ。」と納得できないと、満足感に浸れないはずだ。

 

深刻な内容の話であるから、基本はアップテンポなほうが、鑑賞に堪えやすいという点では好ましい。基本は喜劇タッチであるべきだ。それに時々テンポを遅くして涙を誘ったり、時々笑える話を持ち込むといった調子の変化は必要だろう。気まずい家族の雰囲気を延々と演じられると、観客も気まずいというものだ。

 

家族の関係とは、なんと難しいものだろうか。許されるなら、人は自由に人生の選択ができるべきで、何を選んでも批判されないほうが良いのだが、私の父も兄の生き方を激しく、しかも執拗に批判していた。兄夫婦もしまいには腹を立てて絶縁状態になってしまったが、わが家があんな風になるとは子供の頃は考えていなかった。仲が良く、希望に満ちているような感覚だったから。

 

おそらく成長していくに従って、親の希望と子供の現実の違いが明らかになり、憤懣が募って悪い関係がどんどん重症化していくのだろう。劇場主自身も子供に大きな期待を持っていたが、障害が明らかになってからは無理なことは言えないと悟った。でも障害が軽かったら、もっと腹が立っていただろう。どうしてできないんだ!などと怒っていたに違いない。

 

子供を誇れないことは悲しいが、もちろん世界の終わりを意味するほどのことではない。子供だってなんとか生きていけるだろう。常に尊敬されながら雄々しくとはいかなくても、それなりには生きていけると信じる。諦めというのだろうか、自分ができることやるべきことには限りがあるように思う。

 

 

 

2018年1月 7日

太陽にかける橋/ペーパー・タイガー(1975)

Paper_tiger

 

- NBCuni -

 

第二次大戦の英雄が日本領事の子供の家庭教師として採用された。しかし、彼は子供とともに反政府グループに誘拐されてしまう・・・・12月3日、衛星放送で鑑賞。

 

主演はデビッド・ニーブン。当時の彼は65歳。相手役として三船敏郎が大使を演じていたが、アクションを演じるわけではなく、ただ素振りを一瞬やるだけの、あんまり活躍しない相手役だった。東洋のスターを使ったことに意味があり、特に三船独特の迫力を求めていたわけではないように感じた。

 

撮影の舞台となったのはシンガポールか香港かどこかで、特定の国ではなく東南アジアの架空の国を想定しているようだ。大臣が白人で、やたら外人が多い妙な国だった。カンフーアクションも少し出てくるし、一応はカーチェイスも少しあるのだが、迫力の点ではまったくいただけなかった。

 

演出の方法にもおおいに疑問を感じた。古いテレビドラマのような適当な演出だと感じる。十分に計算して、時間やタイミングを練った様子がなく、スタントマンや俳優たちの体力に任せて撮影されたのではないだろうか?そのかわり、俳優たちの動きは機敏だった。

 

良い話だった。戦争の英雄が実はそうではなく、嘘とホラ話に満ちた虚言癖の人物という設定が良い。そんな人物が必要に迫られて本物の勇気を出さざるを得ない・・・そんな物語はたくさん見てきた。この作品も、全体の流れは悪くないと思う。ちょっとした演出のセンスが、何か足りないような気はしたが・・・。  

 

太陽に・・・という邦題は、戦場にかける橋にひっかけ、東洋の日出る国に親近感を示す意味合いがあったのかもしれない。張り子のトラのままでも良くなかったろうか?

 

少年役はなかなか利発そうで、役柄にあったキャスティングをしていた。しかし、残念ながら演出がテレビタッチなので、「チャコちゃん、ケンちゃん」レベルの演技になっている印象。子供が自分の恐ろしい運命に恐れおののくような不安げな表情を見せたほうが、作品全体のイメージとしては良くなったと思う。ヒーローものとは違った味わいが望まれたはずだ。

 

 

 

2017年10月11日

タンゴ・レッスン(1997)

Adventure_pic

- Tango,Sally Potter -

次回作の構想を練る監督は、タンゴのダンサーに弟子入りし、ダンスを扱った映画作りを目指すが、互いの関係は・・・・という流れの話。

この作品は私小説的な作り方をしたらしく、監督自身の体験と、創作された部分と、実際のダンス、本物のダンサーが演技もするし、演出もするという、実験的かつ芸術的な方向性のようだ。

監督自身のダンスは確かに上手かった。完全な素人の動きではなく、ちゃんとバレーなどの素養がありそうな美しい動きをしていた。でも、本職のダンサーほどの体力、動きの切れ、優雅さは感じられなかった。ダンスは、やはり本職に任せるべきではなかったろうか?ダンス映画は、基本としてはダンスを見るために客は来るので、圧倒的な踊りが必要と思う。

監督の演技も悪くなかった。悩みや怒りを上手く表現し、気持ちを分かりやすい。でも若々しくないし、見た目だけで観客を惹き付けるような魅力は感じられなかった。仮に踊りが下手でも、スタイルだけ素晴らしければ、男性客は怒らない。監督は、見た目で損をしていた。

相手役は本物のダンサーだそうだが、テレビで見る本職のダンサーは、もっと動きが速いように感じた。世界大会の映像を見ると、もっと体の細いダンサーが、目にも止まらぬステップを披露している。今回の相手役は優雅に踊っていたが、体格や素早さをウリにしたダンサーではないようだ。その点、ちょっと不満に思えた。

ラスト近くで、ヒロインを交えて4人のダンサーが踊るシーンは、非常に優雅で味があった。二人で川べりを踊るシーンも美しい。踊りを美しく撮影するセンスが素晴らしかった。そのいっぽうで、突然主人公が歌い出すシーンは、中途半端なミュージカルのようでチグハグな印象を受けた。途中で調子が変わるのは、学生映画のようなノリに思える。

この作品は、女性用の映画だろうと思う。芸術映画を好む男性でも、おそらくヒロインが替わらないなら作品に対する評価は低めになる。ヒロインが本職のダンサーか、本職の女優なら男性からも評価される。ストーリーも、あえてヒロインを映画監督に設定する必要などない。

基本として、私小説は小説だから許されると思う。映画では好ましくない。チャップリンやウディ・アレンはよく自作自演しているが、ダンスをウリにしたりはしていない。ダンスを見せる際は、多少上手い程度ではダメなんだ。圧倒的な巧さが必要なのだ。

 

 

より以前の記事一覧