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カテゴリー「そ」の16件の記事

2020年4月19日

ゾンビランド:ダブルタップ(2019)

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- SONY -

前作で仲間になった男女4人組。ゾンビを相手に戦い、生き延びて来たが、新種のゾンビが登場し、ふたたび窮地に陥る・・・DVDで鑑賞。  

SONY、コロンビア映画は、こんな作品も作るのかと、すこし呆れた。冒頭の戦いのシーンは実に激しい。相手はゾンビとはいえ、銃撃、めった切り、流血のオンパレード。血の飛び散り具合も実にリアルで、ゾンビたちに同情しそうになって来るほどだった。ひどく残酷なシーンだった。

ラスト近くではゾンビたちを車で轢き殺すシーンもあったが、これも非常に残虐。 ただ、あそこで中途半端な戦い方ではいけない。残酷さに徹する必要はあったろう。なんといってもゾンビ映画だ。グロテスクでないと、普通の映画になってしまい、観客の興味を惹くことはできない。徹底的にやったのは正解だ。

劇場主がスタッフなら、激しいだけじゃなく、さらに笑える工夫も加えていたかもしれない。同じ頭を撃ち抜くにしても、いちいちパターンを変える工夫をして、必要もない妙なスタイルで撃つとか、歌でも歌いながら撃つ、ゾンビが必要以上に無様な格好になるとか、ダンスまがいの変わった動きをしながら撃つなど、残虐で笑えるシュールな表現をしたいと思う。 この作品はただのゾンビ映画ではなく、笑いの要素が大きいのだから、そうすべきだったろう。  

主演俳優は、いずれも人気のあるスター達で、この作品には似つかわしくないと思うが、そこがまたおかしい。4人組の個性の設定も素晴らしかった。仲良しどうしでは面白くない。各自が独善的で、協調性も品もなく、荒々しい。全員がまともな感性ではなく、会話も皮肉たっぷりで話が通ぜず、B級映画のように恰好つけた派手な身振りで、妙な会話を延々と繰り広げる、そのパターンは第一作を踏襲しているようだ。 

さらに今回は個性が似た二人組や、頭のおかしい娘も登場させて、会話のおかしさもパターンを変えようとしていた。一種の股旅物、珍道中のロードムービー路線と言える。妙な建物や、歴史上の重要建築物の中で騒ぎをおかし、口喧嘩や大失敗を繰り返しながら旅を続けるのは、観客を飽きさせにくい設定である。その点では基本に忠実に作られていたと言える。歴代大統領や有名人を題材に笑うのも、お約束のギャグだ。

逆に、お約束に従っていたという面から言うと、少しセンス的に古いのかもしれない。意表をつく工夫が必要だった。

 

 

 

2019年2月17日

空飛ぶタイヤ(2018)

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- 松竹 -               


運送業を営む会社と、トラックを製造する大企業、銀行などが、ある事故を契機に戦う物語。DVDで鑑賞。   


主演は長瀬智也。ジャニーズタレントである彼も、すでに40歳だそうだ。りっぱなオジサンになってしまった。でも、そのおかげで、この役に違和感を感じない。自然な演技ができていた。長瀬は歌声が少しハイトーンすぎて、TOKIOのボーカルには向かない印象もあったが、目の迫力は感じる。今後もっと活躍しそうな気がしてきた。時代劇、大河ドラマ、そして悪役に向くと思う。  


演出がオーバー過ぎなかったので、実在感が感じられたのかもしれない。監督は本木克英氏で、超高速参勤交代を監督した人だ。そのせいか、出演俳優たちも重なっていた。原作は池井戸潤。よく出来た物語だった。悪役も良かった。岸部一徳が憎たらしいセリフを吐きながら、いかにも企業の重役が考えそうな理屈をこねる姿が素晴らしい。この作品で最も魅力的な個性だったかも知れない。  


個人的にはもう一人、主人公の友人か兄弟で、銀行かトラックの製造に関わる人間が欲しかったと考える。会社と主人公との関係で悩み、敵対したり助け合ったり、最後には企業によって葬られ、哀れな最期をとげるような人物がいたほうが良い。それで主人公の怒りが爆発する・・・そんな流れは時代劇に似すぎるとも言えるが、この作品のようなテーマの場合は、望ましい設定ではないか?  


結果的に協力者になるのはディーン・フジオカと高橋一生演じる銀行マンで、両者とも人気の細身の俳優。ちょっと良い役過ぎた印象もある。会社を裏切る場合は、激しい緊張でビビりまくりながらの行為になる事が多いと思う。淡々とし過ぎていたようだ。そんな奴は滅多にいないだろう。  


この作品のアイディアの元になったのは、おそらく三菱グループのリコール隠し問題だろう。タイヤが飛ぶというのは、実際にタイヤが脱落した事件があったそうなので、明らかにそれを連想させる。 ネット情報を読むと、あの事件の賠償額は、意外に低かったと書かれていて驚く。会社がかけていた保険で賠償はされているので、あらたな賠償は必要ないという判断なのだろうか?リコール隠しは犯罪であり、それをも保険がカバーしているとは思えない。過失のない不慮の事故の場合は保険で支払えても、犯罪の場合は別の賠償責任が生じると思う。結果が殺人に相当しても、責任がないのか? そのへんの法的理論が妙なのではないか?   


その他に気になったのは、大企業のパソコンを廃棄する場合、HDDがそのまま業者に渡されるのだろうかという点。消去はするだろうが、そのままだとデータを戻すことはできるはずなので、普通はそのまま廃棄するとは考えにくい。専門業者に依頼し、会社内で完全にデータを消すか、あるいはHDDを取り出して物理的に壊すだろう。したがって、この作品のような情報漏洩は、普通は考えにくい。誰かが意図的にコピーして保管しない限り、記録が入手できないことのほうが多いと思う。会社のパソコンに情報があろうとも、それは捏造データのコピーだと言い張ることもできる。パソコン内のデータが、フェイクでないという証明は難しいだろう。   

 

 

 


2019年1月28日

創価学会(2018)

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- 毎日新聞出版 -      

 

ジャーナリストである田原総一郎氏が、長年の関わりから得た経験を織り交ぜながら創価学会を論じた書籍。本劇場では創価学会のことはさておき、一般の宗教団体に関して、この本を参考に論じてみたい。 

 

創価学会が元々は塾から始まったということは知らなかった。創始者が教育者だったことは、池田大作氏の文章で読んだことがあったが、塾からスタートしていたというのは驚き。    

 

①税金面の問題 

宗教法人は税金面で優遇されているそうだ。詳細は分からないが、他の一般法人とはかなり違うと聞く。優遇される理由もよく知らないのだが、敷地や社屋を維持させるために認められたのだろうか? 金満体質の宗教法人も多いと聞く。でも収入が多い法人には、それなりの課税も必要ではないか? 優遇が過ぎれば、組織がどんどん巨大化していくはずであるし、財政難のこの時代に、宗教法人だけ優遇されるのは不自然。良かれと思って作られた税制制度が、今は弊害を生んでいるように思う。    

 

②政教分離 

政教分離とは難しい考え方だ。戦前の日本神道への対処から導入されたものだと思う。仮にガチガチのネオナチが政権をとった場合、ナチスの理論にしたがって行政が進んでも違憲ではないはずだが、それは「ナチス的宗教法人」が国を支配するに等しい。宗教と政治信条は、判別が難しい。

そして宗教の理屈は、それを政治に反映させて良いかどうか難しい問題である。いかに主張が正しくてもそうだ。

宗教法人が選挙の手助けをした候補は、実質的に法人からの独立は困難。その候補者が当選して閣僚になった場合は、行政府の長に宗教法人の影響下の人物が就任することになる。・・・これは問題と考える。その閣僚が宗教を強制しないなら合憲とは言えない。なぜなら政治的判断とは微妙なものになるのが常であり、そこに宗教法人からの要請(指示)が影響していないと断言することはできないからだ。

仮にオウム真理教が政権を狙う場合を想定すると分かりやすい。彼らの支持率が高まって、その政党が第一党になった場合、教祖の指示が政策に影響しないと断言できるか?そんなはずはない、彼らが教祖の意志は影響しないと言っても欺瞞だと劇場主は考える。他の宗教法人に対しても同様に考えるべきだ。

教団の違法性が明らかになって警察が介入しない限り、それを阻止できない点で、現行制度は欠陥を抱えている。強大な宗教法人を想定せずに法整備されたのだろう。宗教色のない現実的な政策をとり続けないと、外部との戦いに負けるのが歴史からの教訓である。 宗教法人より、国を守ることを基本にすべきと考える。どう対処すべきかは明らかだ。    

 

③組織の体質 

宗教には本来が理屈を超えた点が多く、宗教団体も理屈抜きの体質を持ちやすい。民主主義と宗教とは関係ないので、教団内部で意思決定が民主的にされる必要はない。たとえば教祖が過剰に崇拝され、万事が恣意的に扱われる場合、パワハラや忖度、圧力などの諸問題が発生しやすい。その団体が政治力を持った時は、それが社会全体に影響する。「組織が勝利した結果だ。」では済まない問題になる。

それを避けるために、あらゆる宗教団体は、政治から超越した組織であるべきと考える。 それも国の生き残りのためである。宗教法人の体質に影響されずに、リアルな政策をとり続ける必要があるという理由による。     

 

④組織の論理 

キリスト教は素晴らしい宗教だと思うが、おそらく過去に人を殺す理由となった最大の要因はキリスト教である。十字軍による侵略、近代における奴隷制度にも教会が深く関わっている。諸問題の根源と言ってよいほどだ。

宗教や共産主義など、体系立って強固なシステムが作られると、それを維持し発展させることが大きな目標になり、教義を逸脱してでも組織の論理が幅を利かすことが多い。組織内部の権力争いや、嫉妬、忖度などは必ず起こる。

異教徒を殺しても、それが神の教え通りと考えられるようになるのは、明らかに教義からの逸脱だと思う。経典には人を殺すなと書かれているはずだ。教義の正しさが実際の行動に反映されない現実を鑑みると、信仰こそ人類史上最悪最強の要素となる。しかし、それは宗教団体の組織的な論理がそうさせただけのことが多い。      

 

⑤信仰の必要性 

いっぽうで、信仰なしで人が生きていくのは、なかなか難しい。劇場主自身、先祖の霊や国を守る神に毎日祈っている。家族や自分、国を守り給えと祈らないでいると、不安に苛まれそうだ。信仰によって苦境をぬける人は多い。信仰に助けられた人は、宗教団体を守るために悪行も厭わない場合があるのではないか? そんな感情が、法や理性を忘れる理由になっているように思う。強い信仰心を持つ人から、その宗教を奪うことは人道的ではない。  

 

日本は米国と違って、宗教が先に立って建国されてはいない。おそらく宗教を離れた立場で、現実的な政策をとることも可能だと思う。国家の生き残りを目指し、政策面で工夫すべきだ。

現行法の欠陥が宗教法人の性質を作ることにも関わっていると思う。税制と選挙関係の法は、改善が望まれる。    

 

 

2018年9月15日

それでも、日本人は「戦争」を選んだ(2009)

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- 加藤陽子、新潮文庫 -                 

 

高校の歴史研究会で行った特別授業を編集した本。2009年は朝日出版社から本が出て、その後新書として2016年に新潮社から発売されたものを購読。   


著者は加藤陽子という教授。この教授を、たまにテレビで見かけることがあるが、派手に討論するタイプではなく、静かに話すタイプなので、討論会の常連のいい加減な論客ではなく、本物の研究者と感じていた。この本の内容も至極まともなもので、自分の思い込みだけで書いたものではなく、一定の裏付けのある内容と感じる。   


説得力のある本だった。構成、企画がもともと良かったのだろう。高校生に向かって話す場合は、大学生や一般人とは違う。最新の知見だが曖昧といった話では、高校生相手ではマズイ。受験前の人間には、一定の証明が成された事しか話すべきではないという常識がある。その常識にしたがって、この本は最新ではないが、正確な内容だろうという安心感、信頼感を生んでいる。派手な断言口調で人気を得るタイプの論客もいれば、学術にこだわるタイプがいてもいい。そんな本こそ読みたい。できればテレビ討論会も、事実に忠実な高いレベルの議論になれば良いのだが・・・・   


国民の中に、戦争への道を好ましく思った人達が多かったことは間違いないと思う。年寄りたちと話していて、そんな臭いは感じることが多かった。誰でも自国の軍隊が負けるより勝つ方を好むし、勇ましく進出していくほうが、撤退するよりも嬉しい。それは単純な感情だ。それだけで、一定程度の割合で戦争を支持する人はいる。  


三国干渉は、普通の感覚なら許し難い横暴と感じたはずで、これも単純な感覚で、やがては復讐すべきという感情につながったことだろう。日露戦争当時と第二次大戦当時では兵士のモラルが違っていたというのも、復讐心が影響していたかもしれない。人は復讐となると理性を失い、残虐になるものだ。三国干渉をやられた時点で、その後の経緯は、ある程度決まっていたのかもしれない。  


復讐心に捉われずに冷静な頭で勝てるかどうか、進むか引くか、待つか勝負するかを正しく判断できるか、あるいは考えの足りない人間が指導者になるか、そこは運がかなり影響しているように思う。 三国干渉をやられても、しぶとく時を待つことは可能だった。でも流れに抗えなかった。 同じように今後、ポピュリズムの流れに乗って、派手な扇動者が政権を担ったら、同じことを繰り返す羽目になるかもしれない。既にそうなっているのかもしれない。理性には、あまり期待できないように思う。   


歴史に関しての証明は非常に難しい。つい近年のことであっても、問題の当事者を詰問した時には、「記憶にない・・・自分は命令に従っただけ、責任はない、悪い意図はない。」など、言い逃れをしようとする人が多い。劇場主が彼らの立場であってもそうだろう。当然の話である。おそらく、歴史上の人物でも過去の失敗について聞かれた場合や、自分が著作で当時のことを述べるような時には、同じようなレトリックが使われやすいのではないか?  


したがって、誰が何を述べていようとも、基本は嘘で固められた内容かも知れない。手紙だから正直に述べるだろうとか、近親者に対しての言葉だから本心だろうというような思い込みは良くない。親しい人にこそ、好かれたいあまりに嘘をついている可能性はある。歴史上の事象を理解するためには、二重三重の裏付けがあることが望ましい。裏付けの難しいものは、すべて「その可能性がある。」「と、思われる。」という表現をすべきだ。テレビの論客の多くは、それがウリでもあるのだろうが、単純すぎる人が多い印象を受ける。  


 

 

 


2017年9月11日

ソルジャー(1998)

Soldier

- Warner Bros -

8月6日、衛星放送で鑑賞。監督はポール・アンダーソン氏で、氏は後にバオオハザードシリーズを監督しているから、SF映画の専門家のようだ。昔の大監督のように、様々な分野を扱うより、専門分野を持ったほうが良いのかも知れない。

98年頃、この作品の宣伝を見聞きした記憶がない。つまり評判にはならなかったのだろうか?鑑賞した後、この作品を家族に勧めたいという気は起こらなかったから、そんな作品なんだろう。

主人公の敵となる優れた兵士がいた。ターザン役を演じていた俳優だ。体力は確かにありそうだった。でも、この作品の性格を考えると、もっと大柄で悪そうな顔をしているか、または細身で鋭そうな俳優のほうが良かったかも知れない。敵はずるく、強力なほうがよいはずだ。

そして本当の敵である新ソルジャー部隊の隊長には、もっと毒々しい、性格異常を疑うような個性が欲しかった。主人公らを執拗に排斥し、何度も酷い目に遭わせるような異常者のほうが、最終的に勝利できたときの喜びが深まるはずだ。

主人公は特殊な教育を受けた兵士という設定だった。そのため表情に乏しく、好き嫌い、辛い悲しいといった感情を持たないということになる。そこで主役のカート・ラッセルは無表情を貫いていた。

でも物語の人物としては途中で表情豊かになるか、人間的に成長しないと魅力に欠けるだろう。カート・ラッセルは最後まで表情の変化に乏しかったので、魅力を得ることに失敗していたように思う。

ヒロインはSF映画で何度か観た記憶のある女優さんだったが、こちらは知的な表情のあるモデル体型の女性で、存在感は充分だった。でも、ラブシーンらしきものは結局なかったので、せっかくの魅力が色気につながっておらず、無駄に終わってしまったように思えた。清く美しい映画を狙ってどうするのか疑問。

この作品は興業的にオオコケだったらしい。なんとなく当然のような気がする。大がかりなセットを組んでいたようだから、もっと設定を入念に検討し、客受けするように作るべきだった。

 

 

2017年5月 5日

存在の耐えられない軽さ(1988)

Orionmgm

- The Unbearable Lightness of Being -

自分達の自由を制限される側になったら、その憤懣は計り知れない。でも脅迫や迫害も怖い。当事者でない人間は無関心であったり、あたらず騒がずの態度に留まることが多く、自由人は社会的に排除されやすい。

プラハの春の時代を背景に、プレイボーイの脳外科医と妻、愛人らが経験する人間模様を描いた作品。DVDで鑑賞。3時間近い大作。・・・その長さこそ耐えられない! おそらく120分程度に短縮できるし、そのほうが多くの人が見やすかっただろう。

今となっては、プラハの春は過ぎ去った過去。若い人の興味の対象外のはずだ。解放され、そして分離してしまったチェコスロバキアの今日からすると、あの失敗は、ほんのちょっとした先駆けにすぎなかったのかも知れない。

プラハの春やチェコへの軍事介入を直接描くと、殺伐とした話になる。自由な考えの人間を描いて背景を強調するのは、ちょうど「ドクトル・ジバコ」と同じ手法だ。この作品も、意図がちゃんと反映されていた。

有名な俳優がたくさん出演していた。この作品の原作が有名だったから、将来性のある俳優が集まったのか、あるいは逆に、この作品で印象深かった俳優がスターになったのか、その両方かも知れない。

作品の存在は知らなかったが、タイトルは知っていた。小説が有名だったからだろう。でも、意味不明の邦訳ではないか?「耐え難い軽さ」だけでも充分じゃなかろうか?

ダニエル・デイ=ルイスが主人公を演じていたが、プレイボーイの雰囲気は全く感じられなかった。それに、年齢を経て変化する様子も全く感じられない。上手い演技だと納得することができない。でも、本当の色男は意外にあんな感じの、浮き世離れした人間なのかも知れない。

ジュリエット・ピノシュは若々しくて美しいが、こちらもヒロインの個性を非常に上手く表現できていたかどうか分からない。ときどき不必要に笑い出しているように感じた。演技より、演出に問題があったような気がするのだが、よく分からない。

長さと演出方法に問題があり、せっかくの題材が、その魅力を十分に発揮できていない気がする。家族で観れる映画ではないし、もっと色気に重点を置くなど、何かの戦略があったほうが良いと思う。乱痴気騒ぎを繰り返していた自由人が、虐げられた惨めな境遇に陥る流れが劇的なほうが良い。

ソ連軍が侵攻してくる予感は、映画でも語られていた。そんな時代には、大っぴらに政権を批判したりするのは賢くない。身に迫る危険を重視すべきだった。今の日本のように自由な環境は滅多にないはず。国内か国外か分からないが、激しい弾圧をやらかす勢力がきっとやってくるはずだ。

侵攻する際には、ソ連側も相当な時間をかけて慎重に検討したらしい。単純な怒りや、メンツ、力の誇示などが目的ではなく、抵抗に対して対策を講じ、入念に調査し、人員を確保し、やむなく武力で管理すべきと判断したんだろう。あちらからすると、本当に仕方なくやったことではないか?

西側が反発しても、軍事介入まではできないと考えたはずだ。その認識は正しかった。チェコ側は西側との連携が足りていなかった。西側も、積極的に支援して全面戦争に突入するのは愚策と考えたのだろう。数年前にクリミアを併合した時も、ロシアは同じように状況を分析して行動したのではなかろうか?

でも、周辺の国を管理し続けるのは、財政や人員、国力の無駄遣いには違いない。結果的に、それでソ連は崩壊したと思う。クリミアはどう影響するのだろうか?なんとか持ちこたえているようだが、今後はどうなるのだろうか?

 

2017年4月 5日

ソフィーの選択(1982)

Sophies_choice

- Universal -

ポーランド移民のソフィーと知り合った主人公は、ソフィーの恋人と3人で友情を育む。しかし、ソフィー達は深刻な秘密を持っていた・・・

・・・DVDで鑑賞。題名や、メリル・ストリープが主演女優賞を取ったことを知っていたが、作品は観ていなかった。82年当時の劇場主は暇だったはずだから、この作品はあまり興行成績が良くなくて、地方では上映期間が短かったか、ほとんど上映されずに観れなかった可能性が高い。

全くもって楽しくない作品。情操教育目的に子供に見せるのも、お勧めはできない。子供にとっては辛いだけの鑑賞になりそうに思う。ユダヤ系かポーランド系の人以外では、この作品は興味の対象外かも知れない。恋人といっしょに、こんな作品を観ていたら、恋愛に関するセンスを疑いたくなるだろう。

2時間半の映画だが、もっと短くできそうな印象を受けた。メリル・ストリープが微妙に表情を変えるシーンは、彼女の心情をよく表現してはいたものの、さすがに冗長な印象も受けた。一瞬の変化などを写して、印象的になるように工夫し、時間を短くすることもできたように思う。

ストーリーも小説向きで、映画としては複雑すぎたかも知れない。小説の場合は、主人公、ヒロイン、その恋人の3人がそれぞれ問題を抱え、互いに干渉し合って何かの事件が起こることは必要だが、映画の場合はセリフの量に限界があるから、雰囲気だけ表現して曖昧にせざるをえないと思う。たとえばヒロインの恋人がナチの資料を集める部分は、おそらく必要ない話ではなかったか?

メリル・ストリープもそうだが、ケビン・クラインも、ピーター・マクニコルも素晴らしい演技を見せていた。舞台などで活躍していた彼らは、この種の役柄には向いている。少し大げさな演技をする傾向があるからだ。精神を患った人間は、大仰な動作で感情を表現する時がある。その際に、舞台俳優のような動きは、ちょうど役柄に合う。

ケビン・クラインは特に雰囲気が良い。才能と狂気が同時に感じられた。でも、ひょっとしてだが、急に泣き出したりしたら、もっと彼の心情が分かりやすかったのではないだろうか?才能にあふれた幼少期を経た精神病患者は、周囲の人々に怒るとともに、きっと運命を悲しいと感じるはずだ。病気や障害は、基本的に悲しい感情を生むものだから。

ソフィーの選択が語られるシーンは、少し唐突な印象を受けた。おそらく文章の段階では問題なかった設定が、映画にする際に時間の都合上、不自然さを生んでしまったのでは?映画化の際には時間などを入念に検討して、無理がないようにすべきだったと思う。どの作品も、きっとそうしている。焦点を際立たせるためには、他のことは省略したほうが良い。最大の悲劇を隠して、最後に明らかになるほうが、映画としての流れは良くなったはず。

ポーランド人がアウシュビッツに送られたとは知らなかった。大量虐殺されたくらいだから、収容された者もいたかも知れないが、収容所はユダヤ人専用と思っていた。ドイツ側に収容で何か得るものがあったのだろうか?無駄な収容は、敵意を育てるし予算も必要。レジスタンスや政治犯以外は、放っておいた方が良いとは考えなかったのだろうか?

彼らがどんな思考によって周辺の民族を迫害したのか、その当時の人々の感覚が分からない。もしかすると人種差別、ユダヤ人排斥は、一種の‘産業’の側面があったのかも知れない。ユダヤ人の資産を没収できれば、金の流れを生む。排斥という事業に予算を投入すれば、そのための人員に給与を払えるから、雇用対策にもなる。軍事行動も、同じような理屈で投資~雇用対策の面はあったと思う。当時は事業を作ることが必要だった。事業は、税収を上げる効果もある。

もちろん、そんなことを堂々と言うバカはいない。だからこそ、そうだった可能性がある。恐慌後の経済的低迷から逃れるために、人種や政治体制を題材に新たな攻撃=新事業を立ち上げ、予算を集めて金を動かし、大きな流れを作ろうという意識は、互いの国にあったのでは?政権を維持し、政治の中心にいたいなら、事業の案を出し、金を流れさせないといけない。ドイツ以外の国々も、ドイツや日本が何かやってくれると、流れができて助かる。怖い話だが、その疑いはある。

犠牲者の事を心配していたら金が回らないから、不景気のままである。不景気は耐えがたい。景気が悪い間にライバル国は経済圏を使って発展し、将来の自国の立場が悪くなる。そうなると指導部の人気は落ちて、政権を維持するのが難しくなる。だから何か事業を起こさないといけない。国民の目の色が変わるような事業がぜひとも欲しい。

そういった殖産の意欲、政治行動の果てが、侵略や迫害になっていたのではと、なんとなくだが思う。そして今後も、形は変わっても基本はそうなるのではないか?

 

 

 

2016年12月 4日

それでも、やっぱりパパが好き(2015)

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- 希望 -

躁鬱病の父親を持つ姉妹は、父の病気のせいで貧困状態の中、一大決心した母と離れ、父と暮らすことになる・・・

・・・DVDで鑑賞。監督のマヤ・フォーブスの実体験が元になった作品という。悲劇的な家族の物語を、ユーモラスに描いている。アメリカ東海岸を舞台にした同様の物語はたくさん観てきたが、この作品は凄く高級な印象を受ける。ウッディ・アレン映画のような過剰な演出でなかったからかも知れない。実体験の力だろうか。

主演はマーク・ラファロ。現代の名優の一人で、最高の演技者かも知れない。SF映画からシリアスなドラマまで、幅広く出演し、いずれも有名な作品が多い。

今回の躁鬱病の演技はどうだったろうか?日本人の患者さんと比べると、言語関係に障害がなく、流ちょうな話しぶりが少し違っていた。劇場主が接する鬱病の人は、言葉によどみが多い。言い直し、要領を得ない説明のために、話が長くなる。多少の脚色が、この主人公にはあったかもしれない。

しかし、躁鬱病患者にも色々いるだろう。特に躁状態の時は滑舌は絶好調で、話さなくても良いことをスラスラと言う人がいるのかも知れない。今までの劇場主が会った経験では、口は早いが、とちるような間違いが多い印象。でも、たまたまかも知れない。

ほとんどの患者さんは、自分の病状を呪い、怒ったり泣いたりを繰り返しているような気がする。病状を理解できる人ほど辛いだろう。この主人公は、怒ってバーに繰り出したりしていたが、泥酔はしていなかった様子。完全なアル中でもなかったようだ。劇場主の周囲では、アル中の鬱病患者が多いような気がするが、主人公は自制の効いた患者だったのかも。

それにしても、監督は少女時代に随分と凄い体験をしてきたものだ。驚くべき環境。親が精神病の場合は、大きなハンデになって、学業はもちろん生活の基本さえも支障が大きくなり、自分の能力を伸ばすことに難儀する場合が多いと思う。この作品を観ると、実際にそうなる危険性は充分にあったように思う。

結果的にそうならなかったのは、母親が一大決心して大学に戻り、職を得たからと思う。大きな賭だった。収入を得ることとともに、誇りも生まれる。映画ではサラリと描いていたが、実際には悩み、口論し、挫折しそうになりながらの行動だったのではなかろうか?結果は本当に良かったが、かなりの綱渡りだったとも思う。卒業に失敗したり、就職が思い通りにならないなど、せっかくの努力が無駄になる可能性もあっただろう。

また、一定額の生活資金が与えられていたことも幸運だった。完全な生活保護家庭だったら、さすがに私立の学校を目指す気にはなれなかったかも。

もし自分の親が明らかな精神異常者だったら、どのような感覚を覚えるだろうか?「自分も同じようになるのかな?」「このまま一生貧乏暮らしかなあ?」「親たちは離婚するのかも」そんな不安感で胸が張り裂けそうになったのでは?考えなくても良いことを、子供はついつい考えてしまうもの。

日本の場合は、障害者家庭の子供の多くは、残念ながらおそらく貧困に苦しむことになる。ただでさえ貧困家庭が増えているのに、病気のせいで仕事ができない親を持ったら、よほどな資産がないかぎり、未来のかなりを閉ざされる。塾に行かなくても独力で何ごともできる子なら良いが、そんな子ばかりではない。

たとえばの話、生活費を親が酒やパチンコに使ってしまうような家庭では、将来への夢をどんな風に持つのだろうか?努力次第で、自分は成功できると信じられるだろうか?凄く能力がある子なら、ハンデを乗り越えられるだろうけど、「自分には難しいかなあ?」と、不安に感じる子も多いだろう。子供時代に自分の未来を予見できるのは、普通の場合は難しい。

この作品は、そんな子供にも勇気を与える内容と思う。希望と、子供の成長を感じさせるラストだった。ただ、学校の教材として使える作品とは少し違うとも思える。基本は大人が鑑賞する映画ではなかろうか?恋人と真面目に静かに鑑賞するのは良いことだと思う。でも、楽しい映画ではないので、直ぐに飽きてしまうカップルも多いだろう。

 

 

2016年9月14日

訴訟(1991)

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- 計算屋 -

ジーン・ハックマン主演の法廷劇。DVDで鑑賞。娘役で懐かしいエリザベス・マストラントニオが出演しており、両者は法廷で争う間柄になっていた。

良いテーマだったと思う。原作小説があったのかは知らないが、脚本が良かったのは間違いない。モデルとなった実際の事件はあったらしい。その法廷の記録を見れば、そのまま映画に使える記述もあっただろう。ただ「訴訟」というタイトルは、劇場主は感心できなかった。もちろん訴訟がメインの映画だが、結局は意味不明に近いタイトルではないか?

この作品は法廷の部分より、娘と父親が相対する家族のシーンが長い。そこが大事だった。法廷劇だけじゃあ、ただ駆け引きを描く底の浅い作品になってしまう。できれば、人間関係に比重を持たせたい。正義感の主人公も完全な人間じゃない。それが成功していたと思う。

でも、そこが理由で退屈に感じる人も、おそらくは増えてしまう結果になったのではないか?勝つか破滅するかという緊迫感には乏しい。ドラマ部門に感心が薄い観客は、ワクワクするような鮮やかな逆転劇がない、つまらない作品、静か過ぎる映画と評するかも知れない。大声で怒鳴り合ったほうが法廷劇らしい。

したがって、これは基本として子供向きの映画ではない。家族で楽しむべく、DVD鑑賞を始めると、子供は何か別なことを始めようかなと、そわそわし出すだろう。ゲームのほうが面白いモンとなる。

弁護士が知りえた情報を、敵側の弁護団にもらし、それで審議で不利な立場になったとすると、法的な問題があると思う。弁護士という立場によって得た秘密は、漏らしたら法律に違反すると思う。今回の娘弁護士は、犯罪行為をはたらいたことになるのでは?

ただし、訴えようがないなら良い。訴えられても証拠がないならなんとかなるかも知れない。情報を漏らしたという証拠・・・・少なくとも物証はないだろう。それなら、敵側も訴訟を諦めるかも。復讐のために訴訟を起こされる可能性はあるが、巨額の賠償金を得られるかどうか、その金額とリスクを計算しないといけないことになる。

訴訟にかかる費用と、回収整備にかかる費用を比べ、あえて訴訟を選ぶという選択は、子供の頃に聞いたことがある。この種の製品の場合は、その計算は昔からやられていたのだろう。それが面に出たのが、作品に使われた自動車の不良箇所のケースで、 実話が題材になったと言える。

今はどうか知らないが、ひところの運送業界にもそれに近い理屈を聞くことがあった。事故を起こしてどこかの家に突っ込んでも、何も保障しない。訴訟になる場合の費用と、賠償額などを計算して、訴えたきゃ訴えろという態度で被害者の泣き寝入りを狙う、そんな対処が実際にあった。計算屋のやることは怖ろしい。賠償額が大きいと、さすがに会社はあんなことはできないはず。額を小さくしすぎた裁判所の判断ミスが原因だろう。

三菱自動車が最近も燃費の偽装で騒がれた。あれはどういう計算だったのだろうか?実際に試験する手間、新たに燃費を向上させる研究開発費、売り上げの向上による利益、それらを計算し、併せて自分の出世への影響を考えると、偽装した方が良い場合もありうる。

たまたま日産と提携していたために、バレたのは予想外だったかも知れない。つまり計算が外れたということ。あるいは、日産に吸収されないと立ちゆかないから、いっそのこと暴露してもらう・・・無茶な執行部に腹を立てて、思い切り偽装して自爆する・・・・そんな怖ろしい計画を誰かが考えていたら、それも一つの計算だろう。

 

 

2016年2月 9日

ゾンビランド(2009)

Columbia

- 一級品 -

ゾンビがはびこるアメリカで、青年とゾンビハンター、詐欺師姉妹が旅をする物語。DVDで鑑賞。

これは間違いなく傑作と思った。内容はくだらないホラー・コメディだが、有名な俳優が出演していることで、他のゾンビ映画とは最初から違うと思う。どういった経緯で制作が進んだんだろうか?明らかに面白くなると皆が考えて、資金が次々と舞い込んだのだろうか?

登場人物の個性がちゃんと描かれていて、脚本の基本が実にしっかりしていると感じた。それに意表をつく意味で、ビル・マーレイ本人の登場も有効だった。コメディ路線のゾンビ映画は多くなってきたが、ただ恐怖を描くだけよりヒネッた魅力が出るようで、人気の高い映画が多い。立派なひとつのジャンルになっている。

「ショーン・オブ・ザ・デッド」「ウォーム・ボディーズ」もそうだった。ギャグや恋愛感情が恐怖映画の中で語られるなんて、ちょっと前は考えてもいなかったが、リアルなゾンビ達が暴れるだけの作品より、印象が残るのは間違いない。単純なホラー映画では、よほどな工夫がない限り限界が来ていると思う。

主人公に相当するのはジェシー・アイゼンバーグだったが、個性で言えばウディ・ハレルソンやエマ・ストーン嬢のほうが目立っていた。ゾンビ達を倒すのに、わざわざバットを持ち出したりする点がおかしいし、習慣的に人を騙す点も笑える。

エマ・ストーン嬢は目玉が大きく、小ずるいワルの雰囲気にぴったりだった。日本では、あんな個性の女優はあんまりいないように思う。いるんだろうが、映画の中で充分に生かせていない気がする。悲劇が演じられる演技力と、ニヤリと笑う喜劇の演技の両方が演じられないといけないから、女優も限られてくるものだろう。

ちょうど西部劇で出てくるヒネた個性のガンマンを思わせる。悪行を平気ではたらき、主人公も苦しめられるが、意外なところで協力してくれる善玉的な部分もある、そんな個性。もっと色気が目立っていたら、さらにおかしかったかもしれない。色気が目立つ悪女役はたくさんいるから、その典型で演じても良かったかも。

だまし、騙され、脅し合い、銃を突きつけ合う関係から、徐々に仲間意識が芽生えて共闘する流れが良い。いかにギャグやアクションが凄くても、話の流れが基本的に友情や愛情をはぐくむものでないと、後味が良くない。殺伐とした世間から離れて、せめて映画では根底にある信頼関係を味わいたいもの。特にホラー映画でこそ、救いが欲しい。

ちょっとしたシーンにも、ギャグのような会話が色々出てきて、しかも人種を問わずに笑えそうに思えた。強いて言えば小さな子供には向かない内容の会話もあったと思うが、中学生以上なら、おそらく万国共通で受けそうに思えた。アメリカ専用の映画ではないと思う。ホラー映画は、結構世界中で需要があるようだ。

昨今流行の、画面に文章が立体的に表示される表現も、こんな作品の場合は効果的。おかしいテロップを表示させたら、それだけで笑いが増える。

ゾンビ相手のルールの設定も非常におかしかった。もちろん他の映画でも、何かのルールを話すのは良く使われる手法だが、この作品の場合は表現の方法と、他の設定との相性が抜群に良かった。

おそらくCGも相当使われている。遊園地の乗り物で吹っ飛ばされたり、地面に落ちたりするシーンも高度な処理がされていたはず。二級品の低予算ホラー作品では、さすがにあんな演出は無理だろう。雰囲気は二級品に真似ているものの、立派な一級品だと思う。

 

 

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