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カテゴリー「そ」の20件の記事

2017年5月 5日

存在の耐えられない軽さ(1988)

Orionmgm

- The Unbearable Lightness of Being -

自分達の自由を制限される側になったら、その憤懣は計り知れない。でも脅迫や迫害も怖い。当事者でない人間は無関心であったり、あたらず騒がずの態度に留まることが多く、自由人は社会的に排除されやすい。

プラハの春の時代を背景に、プレイボーイの脳外科医と妻、愛人らが経験する人間模様を描いた作品。DVDで鑑賞。3時間近い大作。・・・その長さこそ耐えられない! おそらく120分程度に短縮できるし、そのほうが多くの人が見やすかっただろう。

今となっては、プラハの春は過ぎ去った過去。若い人の興味の対象外のはずだ。解放され、そして分離してしまったチェコスロバキアの今日からすると、あの失敗は、ほんのちょっとした先駆けにすぎなかったのかも知れない。

プラハの春やチェコへの軍事介入を直接描くと、殺伐とした話になる。自由な考えの人間を描いて背景を強調するのは、ちょうど「ドクトル・ジバコ」と同じ手法だ。この作品も、意図がちゃんと反映されていた。

有名な俳優がたくさん出演していた。この作品の原作が有名だったから、将来性のある俳優が集まったのか、あるいは逆に、この作品で印象深かった俳優がスターになったのか、その両方かも知れない。

作品の存在は知らなかったが、タイトルは知っていた。小説が有名だったからだろう。でも、意味不明の邦訳ではないか?「耐え難い軽さ」だけでも充分じゃなかろうか?

ダニエル・デイ=ルイスが主人公を演じていたが、プレイボーイの雰囲気は全く感じられなかった。それに、年齢を経て変化する様子も全く感じられない。上手い演技だと納得することができない。でも、本当の色男は意外にあんな感じの、浮き世離れした人間なのかも知れない。

ジュリエット・ピノシュは若々しくて美しいが、こちらもヒロインの個性を非常に上手く表現できていたかどうか分からない。ときどき不必要に笑い出しているように感じた。演技より、演出に問題があったような気がするのだが、よく分からない。

長さと演出方法に問題があり、せっかくの題材が、その魅力を十分に発揮できていない気がする。家族で観れる映画ではないし、もっと色気に重点を置くなど、何かの戦略があったほうが良いと思う。乱痴気騒ぎを繰り返していた自由人が、虐げられた惨めな境遇に陥る流れが劇的なほうが良い。

ソ連軍が侵攻してくる予感は、映画でも語られていた。そんな時代には、大っぴらに政権を批判したりするのは賢くない。身に迫る危険を重視すべきだった。今の日本のように自由な環境は滅多にないはず。国内か国外か分からないが、激しい弾圧をやらかす勢力がきっとやってくるはずだ。

侵攻する際には、ソ連側も相当な時間をかけて慎重に検討したらしい。単純な怒りや、メンツ、力の誇示などが目的ではなく、抵抗に対して対策を講じ、入念に調査し、人員を確保し、やむなく武力で管理すべきと判断したんだろう。あちらからすると、本当に仕方なくやったことではないか?

西側が反発しても、軍事介入まではできないと考えたはずだ。その認識は正しかった。チェコ側は西側との連携が足りていなかった。西側も、積極的に支援して全面戦争に突入するのは愚策と考えたのだろう。数年前にクリミアを併合した時も、ロシアは同じように状況を分析して行動したのではなかろうか?

でも、周辺の国を管理し続けるのは、財政や人員、国力の無駄遣いには違いない。結果的に、それでソ連は崩壊したと思う。クリミアはどう影響するのだろうか?なんとか持ちこたえているようだが、今後はどうなるのだろうか?

 

2017年4月 5日

ソフィーの選択(1982)

Sophies_choice

- Universal -

ポーランド移民のソフィーと知り合った主人公は、ソフィーの恋人と3人で友情を育む。しかし、ソフィー達は深刻な秘密を持っていた・・・

・・・DVDで鑑賞。題名や、メリル・ストリープが主演女優賞を取ったことを知っていたが、作品は観ていなかった。82年当時の劇場主は暇だったはずだから、この作品はあまり興行成績が良くなくて、地方では上映期間が短かったか、ほとんど上映されずに観れなかった可能性が高い。

全くもって楽しくない作品。情操教育目的に子供に見せるのも、お勧めはできない。子供にとっては辛いだけの鑑賞になりそうに思う。ユダヤ系かポーランド系の人以外では、この作品は興味の対象外かも知れない。恋人といっしょに、こんな作品を観ていたら、恋愛に関するセンスを疑いたくなるだろう。

2時間半の映画だが、もっと短くできそうな印象を受けた。メリル・ストリープが微妙に表情を変えるシーンは、彼女の心情をよく表現してはいたものの、さすがに冗長な印象も受けた。一瞬の変化などを写して、印象的になるように工夫し、時間を短くすることもできたように思う。

ストーリーも小説向きで、映画としては複雑すぎたかも知れない。小説の場合は、主人公、ヒロイン、その恋人の3人がそれぞれ問題を抱え、互いに干渉し合って何かの事件が起こることは必要だが、映画の場合はセリフの量に限界があるから、雰囲気だけ表現して曖昧にせざるをえないと思う。たとえばヒロインの恋人がナチの資料を集める部分は、おそらく必要ない話ではなかったか?

メリル・ストリープもそうだが、ケビン・クラインも、ピーター・マクニコルも素晴らしい演技を見せていた。舞台などで活躍していた彼らは、この種の役柄には向いている。少し大げさな演技をする傾向があるからだ。精神を患った人間は、大仰な動作で感情を表現する時がある。その際に、舞台俳優のような動きは、ちょうど役柄に合う。

ケビン・クラインは特に雰囲気が良い。才能と狂気が同時に感じられた。でも、ひょっとしてだが、急に泣き出したりしたら、もっと彼の心情が分かりやすかったのではないだろうか?才能にあふれた幼少期を経た精神病患者は、周囲の人々に怒るとともに、きっと運命を悲しいと感じるはずだ。病気や障害は、基本的に悲しい感情を生むものだから。

ソフィーの選択が語られるシーンは、少し唐突な印象を受けた。おそらく文章の段階では問題なかった設定が、映画にする際に時間の都合上、不自然さを生んでしまったのでは?映画化の際には時間などを入念に検討して、無理がないようにすべきだったと思う。どの作品も、きっとそうしている。焦点を際立たせるためには、他のことは省略したほうが良い。最大の悲劇を隠して、最後に明らかになるほうが、映画としての流れは良くなったはず。

ポーランド人がアウシュビッツに送られたとは知らなかった。大量虐殺されたくらいだから、収容された者もいたかも知れないが、収容所はユダヤ人専用と思っていた。ドイツ側に収容で何か得るものがあったのだろうか?無駄な収容は、敵意を育てるし予算も必要。レジスタンスや政治犯以外は、放っておいた方が良いとは考えなかったのだろうか?

彼らがどんな思考によって周辺の民族を迫害したのか、その当時の人々の感覚が分からない。もしかすると人種差別、ユダヤ人排斥は、一種の‘産業’の側面があったのかも知れない。ユダヤ人の資産を没収できれば、金の流れを生む。排斥という事業に予算を投入すれば、そのための人員に給与を払えるから、雇用対策にもなる。軍事行動も、同じような理屈で投資~雇用対策の面はあったと思う。当時は事業を作ることが必要だった。事業は、税収を上げる効果もある。

もちろん、そんなことを堂々と言うバカはいない。だからこそ、そうだった可能性がある。恐慌後の経済的低迷から逃れるために、人種や政治体制を題材に新たな攻撃=新事業を立ち上げ、予算を集めて金を動かし、大きな流れを作ろうという意識は、互いの国にあったのでは?政権を維持し、政治の中心にいたいなら、事業の案を出し、金を流れさせないといけない。ドイツ以外の国々も、ドイツや日本が何かやってくれると、流れができて助かる。怖い話だが、その疑いはある。

犠牲者の事を心配していたら金が回らないから、不景気のままである。不景気は耐えがたい。景気が悪い間にライバル国は経済圏を使って発展し、将来の自国の立場が悪くなる。そうなると指導部の人気は落ちて、政権を維持するのが難しくなる。だから何か事業を起こさないといけない。国民の目の色が変わるような事業がぜひとも欲しい。

そういった殖産の意欲、政治行動の果てが、侵略や迫害になっていたのではと、なんとなくだが思う。そして今後も、形は変わっても基本はそうなるのではないか?

 

 

 

2016年12月 4日

それでも、やっぱりパパが好き(2015)

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- 希望 -

躁鬱病の父親を持つ姉妹は、父の病気のせいで貧困状態の中、一大決心した母と離れ、父と暮らすことになる・・・

・・・DVDで鑑賞。監督のマヤ・フォーブスの実体験が元になった作品という。悲劇的な家族の物語を、ユーモラスに描いている。アメリカ東海岸を舞台にした同様の物語はたくさん観てきたが、この作品は凄く高級な印象を受ける。ウッディ・アレン映画のような過剰な演出でなかったからかも知れない。実体験の力だろうか。

主演はマーク・ラファロ。現代の名優の一人で、最高の演技者かも知れない。SF映画からシリアスなドラマまで、幅広く出演し、いずれも有名な作品が多い。

今回の躁鬱病の演技はどうだったろうか?日本人の患者さんと比べると、言語関係に障害がなく、流ちょうな話しぶりが少し違っていた。劇場主が接する鬱病の人は、言葉によどみが多い。言い直し、要領を得ない説明のために、話が長くなる。多少の脚色が、この主人公にはあったかもしれない。

しかし、躁鬱病患者にも色々いるだろう。特に躁状態の時は滑舌は絶好調で、話さなくても良いことをスラスラと言う人がいるのかも知れない。今までの劇場主が会った経験では、口は早いが、とちるような間違いが多い印象。でも、たまたまかも知れない。

ほとんどの患者さんは、自分の病状を呪い、怒ったり泣いたりを繰り返しているような気がする。病状を理解できる人ほど辛いだろう。この主人公は、怒ってバーに繰り出したりしていたが、泥酔はしていなかった様子。完全なアル中でもなかったようだ。劇場主の周囲では、アル中の鬱病患者が多いような気がするが、主人公は自制の効いた患者だったのかも。

それにしても、監督は少女時代に随分と凄い体験をしてきたものだ。驚くべき環境。親が精神病の場合は、大きなハンデになって、学業はもちろん生活の基本さえも支障が大きくなり、自分の能力を伸ばすことに難儀する場合が多いと思う。この作品を観ると、実際にそうなる危険性は充分にあったように思う。

結果的にそうならなかったのは、母親が一大決心して大学に戻り、職を得たからと思う。大きな賭だった。収入を得ることとともに、誇りも生まれる。映画ではサラリと描いていたが、実際には悩み、口論し、挫折しそうになりながらの行動だったのではなかろうか?結果は本当に良かったが、かなりの綱渡りだったとも思う。卒業に失敗したり、就職が思い通りにならないなど、せっかくの努力が無駄になる可能性もあっただろう。

また、一定額の生活資金が与えられていたことも幸運だった。完全な生活保護家庭だったら、さすがに私立の学校を目指す気にはなれなかったかも。

もし自分の親が明らかな精神異常者だったら、どのような感覚を覚えるだろうか?「自分も同じようになるのかな?」「このまま一生貧乏暮らしかなあ?」「親たちは離婚するのかも」そんな不安感で胸が張り裂けそうになったのでは?考えなくても良いことを、子供はついつい考えてしまうもの。

日本の場合は、障害者家庭の子供の多くは、残念ながらおそらく貧困に苦しむことになる。ただでさえ貧困家庭が増えているのに、病気のせいで仕事ができない親を持ったら、よほどな資産がないかぎり、未来のかなりを閉ざされる。塾に行かなくても独力で何ごともできる子なら良いが、そんな子ばかりではない。

たとえばの話、生活費を親が酒やパチンコに使ってしまうような家庭では、将来への夢をどんな風に持つのだろうか?努力次第で、自分は成功できると信じられるだろうか?凄く能力がある子なら、ハンデを乗り越えられるだろうけど、「自分には難しいかなあ?」と、不安に感じる子も多いだろう。子供時代に自分の未来を予見できるのは、普通の場合は難しい。

この作品は、そんな子供にも勇気を与える内容と思う。希望と、子供の成長を感じさせるラストだった。ただ、学校の教材として使える作品とは少し違うとも思える。基本は大人が鑑賞する映画ではなかろうか?恋人と真面目に静かに鑑賞するのは良いことだと思う。でも、楽しい映画ではないので、直ぐに飽きてしまうカップルも多いだろう。

 

 

2016年9月14日

訴訟(1991)

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- 計算屋 -

ジーン・ハックマン主演の法廷劇。DVDで鑑賞。娘役で懐かしいエリザベス・マストラントニオが出演しており、両者は法廷で争う間柄になっていた。

良いテーマだったと思う。原作小説があったのかは知らないが、脚本が良かったのは間違いない。モデルとなった実際の事件はあったらしい。その法廷の記録を見れば、そのまま映画に使える記述もあっただろう。ただ「訴訟」というタイトルは、劇場主は感心できなかった。もちろん訴訟がメインの映画だが、結局は意味不明に近いタイトルではないか?

この作品は法廷の部分より、娘と父親が相対する家族のシーンが長い。そこが大事だった。法廷劇だけじゃあ、ただ駆け引きを描く底の浅い作品になってしまう。できれば、人間関係に比重を持たせたい。正義感の主人公も完全な人間じゃない。それが成功していたと思う。

でも、そこが理由で退屈に感じる人も、おそらくは増えてしまう結果になったのではないか?勝つか破滅するかという緊迫感には乏しい。ドラマ部門に感心が薄い観客は、ワクワクするような鮮やかな逆転劇がない、つまらない作品、静か過ぎる映画と評するかも知れない。大声で怒鳴り合ったほうが法廷劇らしい。

したがって、これは基本として子供向きの映画ではない。家族で楽しむべく、DVD鑑賞を始めると、子供は何か別なことを始めようかなと、そわそわし出すだろう。ゲームのほうが面白いモンとなる。

弁護士が知りえた情報を、敵側の弁護団にもらし、それで審議で不利な立場になったとすると、法的な問題があると思う。弁護士という立場によって得た秘密は、漏らしたら法律に違反すると思う。今回の娘弁護士は、犯罪行為をはたらいたことになるのでは?

ただし、訴えようがないなら良い。訴えられても証拠がないならなんとかなるかも知れない。情報を漏らしたという証拠・・・・少なくとも物証はないだろう。それなら、敵側も訴訟を諦めるかも。復讐のために訴訟を起こされる可能性はあるが、巨額の賠償金を得られるかどうか、その金額とリスクを計算しないといけないことになる。

訴訟にかかる費用と、回収整備にかかる費用を比べ、あえて訴訟を選ぶという選択は、子供の頃に聞いたことがある。この種の製品の場合は、その計算は昔からやられていたのだろう。それが面に出たのが、作品に使われた自動車の不良箇所のケースで、 実話が題材になったと言える。

今はどうか知らないが、ひところの運送業界にもそれに近い理屈を聞くことがあった。事故を起こしてどこかの家に突っ込んでも、何も保障しない。訴訟になる場合の費用と、賠償額などを計算して、訴えたきゃ訴えろという態度で被害者の泣き寝入りを狙う、そんな対処が実際にあった。計算屋のやることは怖ろしい。賠償額が大きいと、さすがに会社はあんなことはできないはず。額を小さくしすぎた裁判所の判断ミスが原因だろう。

三菱自動車が最近も燃費の偽装で騒がれた。あれはどういう計算だったのだろうか?実際に試験する手間、新たに燃費を向上させる研究開発費、売り上げの向上による利益、それらを計算し、併せて自分の出世への影響を考えると、偽装した方が良い場合もありうる。

たまたま日産と提携していたために、バレたのは予想外だったかも知れない。つまり計算が外れたということ。あるいは、日産に吸収されないと立ちゆかないから、いっそのこと暴露してもらう・・・無茶な執行部に腹を立てて、思い切り偽装して自爆する・・・・そんな怖ろしい計画を誰かが考えていたら、それも一つの計算だろう。

 

 

2016年2月 9日

ゾンビランド(2009)

Columbia

- 一級品 -

ゾンビがはびこるアメリカで、青年とゾンビハンター、詐欺師姉妹が旅をする物語。DVDで鑑賞。

これは間違いなく傑作と思った。内容はくだらないホラー・コメディだが、有名な俳優が出演していることで、他のゾンビ映画とは最初から違うと思う。どういった経緯で制作が進んだんだろうか?明らかに面白くなると皆が考えて、資金が次々と舞い込んだのだろうか?

登場人物の個性がちゃんと描かれていて、脚本の基本が実にしっかりしていると感じた。それに意表をつく意味で、ビル・マーレイ本人の登場も有効だった。コメディ路線のゾンビ映画は多くなってきたが、ただ恐怖を描くだけよりヒネッた魅力が出るようで、人気の高い映画が多い。立派なひとつのジャンルになっている。

「ショーン・オブ・ザ・デッド」「ウォーム・ボディーズ」もそうだった。ギャグや恋愛感情が恐怖映画の中で語られるなんて、ちょっと前は考えてもいなかったが、リアルなゾンビ達が暴れるだけの作品より、印象が残るのは間違いない。単純なホラー映画では、よほどな工夫がない限り限界が来ていると思う。

主人公に相当するのはジェシー・アイゼンバーグだったが、個性で言えばウディ・ハレルソンやエマ・ストーン嬢のほうが目立っていた。ゾンビ達を倒すのに、わざわざバットを持ち出したりする点がおかしいし、習慣的に人を騙す点も笑える。

エマ・ストーン嬢は目玉が大きく、小ずるいワルの雰囲気にぴったりだった。日本では、あんな個性の女優はあんまりいないように思う。いるんだろうが、映画の中で充分に生かせていない気がする。悲劇が演じられる演技力と、ニヤリと笑う喜劇の演技の両方が演じられないといけないから、女優も限られてくるものだろう。

ちょうど西部劇で出てくるヒネた個性のガンマンを思わせる。悪行を平気ではたらき、主人公も苦しめられるが、意外なところで協力してくれる善玉的な部分もある、そんな個性。もっと色気が目立っていたら、さらにおかしかったかもしれない。色気が目立つ悪女役はたくさんいるから、その典型で演じても良かったかも。

だまし、騙され、脅し合い、銃を突きつけ合う関係から、徐々に仲間意識が芽生えて共闘する流れが良い。いかにギャグやアクションが凄くても、話の流れが基本的に友情や愛情をはぐくむものでないと、後味が良くない。殺伐とした世間から離れて、せめて映画では根底にある信頼関係を味わいたいもの。特にホラー映画でこそ、救いが欲しい。

ちょっとしたシーンにも、ギャグのような会話が色々出てきて、しかも人種を問わずに笑えそうに思えた。強いて言えば小さな子供には向かない内容の会話もあったと思うが、中学生以上なら、おそらく万国共通で受けそうに思えた。アメリカ専用の映画ではないと思う。ホラー映画は、結構世界中で需要があるようだ。

昨今流行の、画面に文章が立体的に表示される表現も、こんな作品の場合は効果的。おかしいテロップを表示させたら、それだけで笑いが増える。

ゾンビ相手のルールの設定も非常におかしかった。もちろん他の映画でも、何かのルールを話すのは良く使われる手法だが、この作品の場合は表現の方法と、他の設定との相性が抜群に良かった。

おそらくCGも相当使われている。遊園地の乗り物で吹っ飛ばされたり、地面に落ちたりするシーンも高度な処理がされていたはず。二級品の低予算ホラー作品では、さすがにあんな演出は無理だろう。雰囲気は二級品に真似ているものの、立派な一級品だと思う。

 

 

2014年11月30日

それでも夜は明ける(2013)

Fox

- 日本でリメイクは? -  

1850年ごろの原作小説を発掘し、映画化してアカデミー賞を取った作品。DVDで鑑賞。

最も印象的な演技をしていたのは、悪役のマイケル・ファスベンダー。農場経営者で、敬虔なクリスチャンとも言えるのだが、奴隷制度には疑念を持っていない。常に体罰を伴う酷い虐待を繰り返している。夫婦関係にも人間的なものが失われている。そんな人物像をリアルに演じていて、役の表現が優れていた。

悪役を憎々しげに演じるのは難しくないと思うのだが、実際に生活してそうなレベルまで実在感を出すのは難しい。黒人たちの踊りを眺めながら酔っ払っている表情、夫婦の諍いの際のセリフ、そんな直接虐待していない時間にも演出を凝らしている点が素晴らしかった。

景色がまた美しい。酷い話を続けながら、背景となる風景は非常に美しく叙情的ですらある。その対照も印象的だった。よく出来た作品。でも、子供には向かない。残虐なシーンも多かったので。それに恋人と観るテーマの作品とも言えないように思う。

主人公の俳優は最近何度か観たが、今回特に印象が強かったとは思えない。過去にも酷い目にあう上手い黒人役者は多数いたし、それに比べると体格が良すぎたのか?何かの魅力~迫力に欠けていた印象。あまりリアルに演じると、観てて耐えられないという配慮があったのだろうか?

アカデミー賞の選考には一定の傾向があるように思う。定期的に人種差別関係の作品が賞を取る。選考委員のメンツの関係か、娯楽中心ではレベルを下げるといった怖れか分からないが、明らかな傾向。この作品も、もしかしたら最初から賞を意識して製作されたかも。

監督が黒人のマックウィーンであることも大事な要素。ただし、監督は米国人ではないので、おそらく先祖は米国流の奴隷ではないと思う。スパイク・リーなどに監督をさせたら、話がやっかいになるという印象も受ける。いまだに後遺症は強いと想像する。

奴隷制度は今も続く話。ボコハラムなる組織は、今も女学生をさらって奴隷化しているそうだ。イスラム経の組織の中には想像を超える行動をとるものがある。イスラム経が奴隷を奨励しているとは思えないが、確かに中世から長い歴史を持っていることも確か。敬虔な宗徒が奴隷制度に違和感を抱かない理由は、筆者には理解し難い。

かっての奴隷貿易も、今の感覚では理解が難しい。異宗教の人間は正当に扱わなくても良いといった理屈が働いたのだろうが、そこから発展して権利書があれば自由に人を売れるといった感覚になったのだろう。人権意識のあるなし、人種に対する感覚によっては、知的な人でも疑問を感じない場合はあるのだろう。

あるいは疑問を感じても、自分を守る必要から、何も行動できないという側面もあると思う。農場主はちゃんと書類を持って奴隷を購入し、権利があるのだから、それを剥奪するのは難しい。批判しても立場が弱い。地域の産業が奴隷にって成り立っているなら、地域全体の利害と対立してしまう。リンチに遭うことが予想されるから、何も言えない。

昔はこの手の良心的な作品をよく観たものだったが、最近は子供映画のほうが優先で、芸術や政治、告発めいた作品は滅多に観ない。今回はさすがにアカデミー賞の重みを重視して、こんな楽しくなさそうな作品でも観てみたいと考えた。やはり受賞は大事だ。

若い頃に悲劇的な作品をよく観たのは、自虐的歴史観の影響があったと思う。朝日新聞を読みすぎたわけではないが、戦前戦中に、日本軍や移住者達の中には現地の人達に酷い行為を働いた人は多かったはずという意識が根底にあり、先輩の成したことを反省しなきゃといったニュアンスで、義務として観るべしと思っていた。

かっては学校でもそう言われていたのでは?「人に害を成しておいて知らんぷりするやつは最低だ!」・・・おそらく、今のテレビ討論会に登場する論客たちは、戦後の学校教諭たちからは叱られるかも。今の先生達は、いったいどんな話をしているのだろうか?「戦時中の日本の非人道的行為は、証明できていないから気にするな。」と言う?

自虐的な感覚が要らないとは思えない。人道に関するセンスは望ましい。もちろん極端な自虐歴史観も良くないが、自分の権利も主張しつつ、失敗や悪行への反省や人への同情も、本来は望ましい。それができる状況ならばだが。

そのバランスが難しい。世の中では、こちらの反省につけ入る連中が大半だから、敵を見て態度を考えないといけない。反省して良い関係を築ける相手には反省、反省や譲り合いの精神がない、ただ攻撃しかしてこない相手には、残念だが防御するしかない。また、相手を見て判断したつもりが、性質の悪い相手に情報を漏らされたり、思わぬ裏切りに遭うことも多い。全てを把握することは無理。

自虐意識がある人は、排斥を受ける傾向がある。緊張関係が基本である国同士の関係は当然そうだが、身近な個人と個人の関係も、要するに容赦ない人間のほうが優位に立てるせいで、攻撃が基本になる。皆自分がかわいいので、ネタになるとふむと攻撃はエスカレートし、情け容赦ないものになる。そういった緊張関係の中で普通に生きていける人は、基本は攻撃か無視、裏切りをすることが習慣になっているはず。

逆に言うと、自然と人から愛される人間、いいヤツは、失敗や悪行に対して無反省で無関心、能天気で利にはさとい、そんな傾向があるとは言えないか?人を眉ひとつ動かさずに殺すが、後輩や少年達には優しい、そんな兄貴は最高にカッコ良く感じる。弱みを見せないためには、理性や道義的な面にこだわってはいけない。

いわゆる良いヤツが「俺達って罪人だよな。」なんて言うのは似合わない。まずい話題の時は口をつぐみ、攻撃する時は何も考えずに容赦なく行動、単純だから颯爽としている、そんなヤツに好感を持つのは筆者も同じ。自虐人間に頼り甲斐は感じない。正しいか間違いかに関係なく、単純さが望まれることは多い。

もちろん、自制を保ちつつ包容力に長けた有能な人物はいる。真に尊敬に値すると思える方も少なくない。それに対して、例えばテレビ討論で目立つような人物は、過剰に自己防衛と他者攻撃に走った、かなり特殊な人間だと思う。彼らは怖れられるが、真に尊敬を受ける人とは敬意の持たれ方が違う。怖れられるだけに近い。テレビの場合は演出もあるだろうが、

米国の場合は万事余裕があって、しかも独特な歴史があるから、自虐的な作品も作れる。おそらく、戦勝国でなかったら、こんな作品を作るのは難しい。そして日本では、この種の映画を作れる状況にはないように思う。戦前戦中の炭鉱などでは酷い虐待が行われていたはずだが、そんなことは無視していかないと、この社会から排斥される傾向が強いからだ。

そんな意識は、原発への態度にも関係してくる。反対意見の表明で立場を危うくする危険性を感じて、逃げてしまうのだろう。筆者は原発事故の経過を予測できたが、そんな‘正しい’認識は、一般社会からは要求されない。事故があったことすら忘れることが推奨されているかのようだ。それが可能なのは、誰でも犠牲者のことより、自分の立場が大事だからだろう。

 

 

2014年7月 9日

そして父になる(2013)

Gaga

- ミッションを続ける? -

主人公は、子供が取り違えられていた事実を知る。裁判を経て、子供の交換が試みられる。主人公は子供に、新しい家庭で暮らすミッションを与える・・・

・・・DVDで鑑賞。劇場で観るべきだったかもしれないが、しんみりした映画を劇場で観ると、他人の眼が気になって充分に楽しめないような予感がしたので遠慮した。DVDを観た感想としては、大泣きするメロドラマのような作風は避けてあるので、劇場のほうが向いていた印象。

DVDの映像は画質が良くなかった。音も聞きづらい時があり、カメラや音響器材の性能は大手の作品には及ばないかも。

是枝裕和監督らのオリジナル作品らしい。どうして子供の取り違えをテーマにしようと考えたのか、そのへんの理由は知らない。自身の子育て体験などがアイディアにつながったのだろうか?古くから繰り返されてきたテーマなんで、今更どう描くのか難しいと思うが、上手く作れていた。

一昨年だったか、取り違えがイスラエルとパレスチナの家庭で起こったらという映画もあった。それなら最初からドラマになるし、映画的な設定だと誰でも思う。この作品は違っていた。作品として成立させたのは、腕が良かったからと思う。

普通の商業的映画とは少し違った作り方に好感を持った。メロドラマ路線に流れず、演出過剰にならないように、それでいて人の感情の描写にこだわる真摯な態度が素晴らしい。例えば法廷においても、激しい対立のシーンはなく、真相が淡々と語られるのを呆然と聞くだけというのは盛り上げを無視した流れだが、法廷闘争に比重を置かなかったのは結果的には良い雰囲気につながったようだ。

でも、ちゃんと商業的にも成り立つように良い役者を集め、絵になるシーンを作ってあった。本当にこだわった芸術映画のスタッフが作った場合は、おそらく予算が集まらないので、配役も限られる。過去に監督が何度か賞を得て有名だったことなど、条件が整ってできた作品なんだろう。解りやすさにも気を配っていたようで、芸術にこだわりすぎていない点も素晴らしい。

この作品は家族で観ることができると思う。子供でも泣けるだろう。純粋なメロドラマほどくどくないので、恋人と観ても悪くないかも。ただし、恋を中心に描いた作品ではないので、互いの感情への意味合いを考えてからのほうが良いかも知れないけど。口論になる可能性もある。「私なら子供は直ぐ交換するわ!」「まさか、ずっと育ててきたんだぜ?」といった意見の対立はあるかも。

最も印象に残ったのは、ラスト近くで子供が道に飛び出し、ヒョコヒョコと歩くのを主人公が追う場面。あの歩き方は元々なのか、何か演出があったのか分からないが、可哀相な子供の境遇を表していた。あの少年の目線も良かった。親達の顔をじっと見つめるようにしていたようだ。あのシーンのおかげで、この作品の印象は強く残ることになった。

福山雅治は、元々がぶっきらぼうな話し方をするので、エリートの雰囲気に合致していた。大泣きするシーンがない点も彼に合っていて良かったが、子供が自分をこっそり撮影していたことを知るシーンは、野生的な顔の俳優だと演技が過剰になってしまって映画の質を損なう気がする。福山が最適だった。本職の役者だと芝居くさくなったろう。

尾野真千子が演じた妻の役は、少し演出をやっても良かったような気がした。「私が悪いと言いたいんでしょ!」と怒る女性は、非常にしつこく敵意に満ちていることが多いのである。なぜ詳しいかと言うと、年中そう言われているからである。家内が皿も鍋も洗わないで数日ほっぽらかしにしているから私が洗っていると、急に起きてきた家内が「 」内のセリフを述べるのであるが、尾野嬢には家内のような呪いの表情が出せていなかった。ミスキャストかもしれない。家内のほうが向いていたろう。

リリー・フランキー演じた相手側の父親は、期待通りだと思うが良きオヤジの雰囲気が充分に出ていた。真木よう子の奥さんも、いかにもという雰囲気。彼らも出しゃばりすぎないで良いバランスを保っていたので、全体の雰囲気を保てていた。そもそも彼らを選んできた時点で、上手く演じてくれることが約束されていたかのような印象を持った。

さて映画の結果であるが、元の家庭に子供が戻るべきか、やはり血縁優先で強制的にやるべきか、私には分からない。映画のように子供達の反応に従うというのは、確かに自然なことかもしれないが、その選択が後々どのような結果になるかというと、予測は簡単ではない。

子供が徐々に自立し、親と感情的対立が生じた時には、いかに育ててくれたと言っても赤の他人のことを思いやれるとは限らない。子供の感性が充分かどうかが、事を決するだろう。感性が充分なら、実の親でも育ての親でも思いやれると信じる。情緒的な何かに欠けていたなら、どちらの家庭でも前途多難だろう。

そのような情緒の成長は、家庭環境だけで育つものではない気がする。私は子育てには失敗続きで、発達障害の子供ばかり育ててしまったから大きなことは言えないが、小さい頃から一度も親に従うことがないほどの子供は、環境がどうであろうと育てるのは難しい。

我が子達はショッピングセンターに行く度に迷子になる。どのような行動をとるのか隠れて観察したことがあった。親のほうを少し気にする様子が感じられる子と、完全に忘れてしまって興味の趣くまま、飽きるまで放浪する子と、明らかな違いを感じた。

放っておいて、自分で親を探すようになれれば訓練になるかとも思ったが、自分の興味外が気にならなさ過ぎる子の場合は、そんな生易しい子育て法は通用しない印象。他人の手も普通に握るし、別の家族に平気で付いて行きかねないレベルでは、危険なことはできない。

キャッチボールやサッカーなどに誘っても最初から嫌がって、とうとうやらない子、自分から誘いに来る子、おだてに乗って自分だけでも何かしようとする子、同じようには育てられない。精一杯思いやったつもりでも、親の感情を感じるレベルでない子もいる。情緒が育つには、下地が必要。

私自身は親や周囲の状況を気にしすぎていた。人ごみで親から離れたりは絶対にしない。迷子にならないのは良いことだが、あるはずもない危険を神経質に考えていた記憶がある。親が心配することを怖れていた。自分がはぐれる怖さより、親の視野から外れて迷惑をかけたくないと、恐怖のような過剰な意識があった。

親に嫌われたくない、心配をかけたくない意識は甘えの一種だったかもしれないが、今思えばかなり病的で、逆に親は心配したかもしれない。

私が子供だったら、育ての親も実の親も、あまり関係なく同じように接していたと思う。自分の気持ちより、親の気持ちを心配してしまうから。どちらの親にも、おそらく同じように愛情を持てたのではないか?真の愛情か、親に自分を認めて欲しいという欲求か分からないが、人を悲しませても自我を通したいとは考えなかったろう。

私が主人公なら、話が出来る年代の子供の場合は、どちらの家庭で暮らすか子供に選ばせてあげたいと考える。でも、それは一般的なやり方かどうか分からない。子供によると思う。家族のキャラクターにもよるかも。子供がどれだけ傷ついても血縁を優先する家族も多いと思う。

去年ごろだったか、劣悪な家庭に間違って引き取られた男性が、病院を訴えた裁判の判決があった。確か勝訴していたと思う。判決をどう下すか、裁判官達も困ったかも知れない。劣悪な環境でも努力によって抜け出せたのではないか・・・そんな判決もありえたと思う。良き人生を歩めたと仮定することができる場合は、その権利を損なった責任は請求しうるというのが法律の認識らしいが、そんな仮定の話を論じるのはおかしいという考え方もあるだろう。

別な見方もある。子供の成長のためには何か困難なことが必要。仲良く暮らすだけでは、能力的な面で将来が厳しい。忍耐や工夫をすることによって、戦いに耐えうる精神力がつく傾向はあると思う。子供の自立を目指す主人公のような親がいないかぎり、子供は能力の欠けた人間になるかもしれない。親子の心の結びつきも大事だが、競争できる人材の育成には、それなりの教育法も必要。

少なくとも努力に価値を感じる姿勢は必要。「努力したくてもできない人間もいるのよ。」というセリフがあったが、追い込まない程度に努力を促すのを基本としないと、人としての成長を阻害する。自然に意欲を持って頑張ることを期待するのが理想だが、安易な考えとも言える。

ひょっとすると、主人公に二人とも引き取らせるのが最も良い結果を生んだ可能性だってある。今日が競争社会であるという現実も、忘れてはいけない。人道を無視した強制、あくなき成功への妄信がなければ、問答無用の敵にやられてしまう。努力を偏重するくらいで、やっと生きていけるのなら、偏った養育はむしろ正しい。

 

 

 

2014年7月 3日

ソルジャー・ブルー(1970)

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- 抑止力 -

インディアンと暮らしていた女性と、同僚を殺された兵士が旅する物語。インディアンや武器商人と戦い、傷を負いながら砦を目指す二人だったが、砦はインディアンへの攻撃を計画中だった・・・

ラストの襲撃シーンは少年の頭を撃ち抜き、首が飛び、手足を切られ、血まみれのリンチシーンとなり、タランティーノ映画のゲテモノ趣味のような場面が続く。実際に起こった襲撃事件の記録に合わせて撮影されていたそうだ。とても子供に見せる作品ではなくなってしまっている。恋人と観るのも止めた方がいい。

この作品は劇場で一般公開されたのだろうか?たぶん、R指定は必要だと思う。日本の場合だと、芸術作品を公開するマイナー劇場か、もしくはポルノ映画館くらいしか場所がなかったということにならないか?

でも、途中までは良い雰囲気。ヒロインとヒーロー氏のキャラクターに好感を持てる。ロードムービーと虐殺の悲劇。つまり二つの物語をくっつけたような、妙な構成になっている。作品の内容の一貫性から言えば、最悪の作り方。ヒロインの実在感に疑問があるし、テーマが分散し、何を訴えたいのか分からなくなって違和感を感じる人も多かったのでは?

ヒロインのキャンディス・バーゲンが非常に魅力的。荒野にたたずむ姿は美しい。キャサリン・ヘップバーンを意識していたのかもしれない。野生に生きる強さ、ドライな感性、ガサツな態度は、当時のイケイケガール~ウーマンリブ?~フリーセックス?~ミニスカート~ホットパンツスタイル・・・・といった流行の感覚が取り入れられているような気がする。

当時の彼女の写真を見ていて、顔の側面などに相当な毛が生えていて、あちらの美女は毛深いなあと驚いた記憶がある。でも、その後出会った欧米の女性達は普通の人間並みの毛深さで、あれはキャンディス嬢独特のホルモンの作用によっていたのかもしれない。あるいは自然にまかせて手入れしない女性は、あんなものなのか?

キャンディス・バーゲンは、一時代を築いた感のある女優だった。生き方が独特で、ただの美人女優達とは一線を画した、当時独特のツッパリの雰囲気がある。メロドラマやSF映画に次々と出演するタイプではなく、そのまま大スターになる路線は選ばなかったようだが、それで良かったのかどうか、他の選択は本当になかったのか、そこらは分からない。

相手役の兵士のキャラクターは、もしかすると失敗だったかもしれない。兵隊らしい真面目な人間で、兵士の義務を果たすことしか考えていなかった人間のほうが、その後にインディアンの真の姿、軍隊の矛盾点に気づく流れから考えると好都合。従って、兵士役は無骨で屈強な男のほうが良い。

実際の虐殺では、まず兵士を殺して安心してから、逃げる婦女子を暴行することが多いのではないかと思う。この作品では戦いながら同時にリンチをやらかしていたが、生き残った連中に攻撃されるのが怖いので、殺戮が先、リンチは後ではないか?

いずれにせよ、兵士が凄惨なことをやっているのを、上官が黙って許可するのは余程のこと。もしかすると殺気立つ軍曹クラスの反発を怖れて上官が虐殺を制止できない、あるいは敵側に裏切り行為があって感情的報復といった流れがあったのでは?それがないと、部隊の規律にひっかかる部分が出て、いずれ裁判になることは誰でも判っていただろう。

この事件は1860年頃に起こったそうだが、意外なほど新しいので驚く。当然、彼らはメキシコやフィリピン、ハワイでも同様の行為をやっていただろうし、その後は沖縄でも同様、町に無差別爆撃をしても気にならなかったと思う。日本軍も同様。そんな彼らが歴史の偶然か、ともに行動する機会が増えそうな気配。7月1日に、集団的自衛権に関する憲法解釈の変更を閣議決定したので。

憲法解釈の変更を、裁判所以外の機構で行うことが憲法で許されているのか知らない。内容もそうだが、閣議決定すること自体が、既に憲法違反のようにも思える。内閣法制局が何か案を示すのは構わないと思うし、それに従って立法化できれば、いちおうは法律が成立したことになるが、いずれにせよ最終判断は裁判所。

だから閣議決定は必要なかった気がする。与党が合意し、自民党から法案が提出され内閣法制局が問題なしと表明し、国会審議を経れば、通常の法にしたがった行為だろうから、内容はともかく立憲主義には反しない。内閣が目立ちたがっただけ?あるいは、米国に向かってのアピールの目的か?内閣が米国の指示通りに働いていることを示し、延命と次の交渉での優遇を願えるから。

内閣、特に総理が何か口走ると、海外からの反発を生む理由にはなる。経緯が不自然だし、法的な問題もあるし、敵側はまた対策を練って、新たな段階に踏み入れるための理由にしてくるかも。(例)「日本は我が国の脅威をでっち上げ、敵意をむき出して対立を煽ってきたので、やむなく我々は我々の権利を主張するために、軍艦を平和的に派遣した。それに対して日本軍は・・・」といった論調で。

このままでの選挙では、自民と公明の票が減ることは間違いない。どの程度かが問題で、景気が猛烈に良ければ多少で済むだろうが、景気が良くないなら怖ろしい展開がありうる。内閣の暴走より景気が優先されること自体が、国民の意識のレベルを表していると思うが、現実はそうだろう。

法の整備は確かに必要。敵が扇動的に動きたい場合に、日本側の法律から結果がどうなるかを明示することは、少しは抑止力になる。ただし、戦争を避ける力はさほどないと思う。無用なトラブルを減らす効果だけが期待できる。本当に敵が攻撃する時は、映画のように白旗も無視され、インディアンらのごとく攻められる。

現実には法律も人道も無視してシベリヤに抑留されるし、満州や朝鮮で虐殺されたりもした。無差別爆撃も普通に行われた。「これで百年は安全。」などと安易なことを言うべきではない。重大なことをやっているという自覚が足りないのでは。

 

 

 

2013年10月31日

続・荒野の用心棒(1966)

- B級佳作 -

流れ者ジャンゴは娼婦マリアを助け、町にやってくる。町を支配するジャクソン一味とメキシコのゲリラ達と対峙したジャンゴは、金の強奪を計画するが・・・

・・・マカロニウエスタンの作品。韓国製のDVDをホームセンターで発見し、購入。韓国製のためか、日本語訳が丁寧語すぎておかしい。殺し合いの場面でも、「殺してしまいます。」のような言葉使いで、明らかに変だ。翻訳者の修練不足だろう。

画像は鑑賞に耐えられるレベルだった。でも、大きな画面で観るとドットの大きさが気になった。画像のデジタル化にも様々な処理方法があるのだろうが、このDVDは初期のソフトを使っていたのだろうか?

そもそも買ってみようと思ったのは、タランティーノ監督作品「ジャンゴ」を観たからだ。オリジナル版がどうなっているのか気になり、比較でもしてみようかと思った。ただし、「「ジャンゴ」の題材は、別な作品らしい。この作品の原題もジャンゴであり、荒野の用心棒は日本での営業のためにつけたものだろう。確かに日本の「用心棒」はおおいに参考にされているようだ。

この作品はかなり面白かった。B級映画の傑作といった印象。ジャンゴのキャラクターが良かったし、敵の首領のジャクソンもしぶとくて存在感があった。ジャンゴの印象は相当残ったようで、いろんな作品にジャンゴという名前が出てくる。大成功のキャラクターだった。襲撃、銃の乱射、殴り合い、裏切り、形勢逆転など、盛り上げに必要なプロットも確実にこなされていたようだ。

でも子供が観る映画ではないと思う。子供が最も観たがるのも確かだが。恋人と観る映画としては、当時なら良かっただろうが、今では古めかしい点で勧められない。オリジナルの黒澤版「用心棒」もそうだろう。リマスタリングを大々的にやらないと観るのも辛いし、芝居がやはり古めかしい。

ストーリー展開は、タランティーノ版と共通する部分も多かった。妻を救おうとする点は、もしかすると同じフランコ・ネロが主演した別の作品から採ったのかもしれない。この作品のジャンゴのほうが、よりクールだったとは思う。タランティーノ版の主人公では、続編を期待できない。

政府軍の陣地を襲撃するシーンは良くできていた。あのシーンでは、札束をも袋に入れていたような気がしたが、後で倉庫にしまったのは金の小石のみ。札束はどうなったのか?ちょっと疑問に思った。私が何か見逃してしまったかも。

それに金の小石なら、簡単に持てる重さではないだろう。人間一人が担いで逃げることは困難では?細かい指摘だが。

独特のいい加減さ、演出過剰な面は他にも認められる。ジャンゴが機関銃を手にしたら、銃を持った連中はちりじりに逃げてしまうに違いない。映画のようにたくさんの人間が黙って撃たれるはずはない。横に回ってジャンゴのほうがやられるだろう。

棺おけを引きずって遠い道を行けば、棺おけが壊れてしまうはず。地面にこすれる部分から擦り切れていくはず。棺おけを持つガンマンは良いキャラクターだったが、何か荷車のようなものに積むべきだ。頭悪いのか?

ラストシーンも上手く行き過ぎではないか?いちいち問題視しては映画を楽しめないが、演出のための演出が多すぎると思う。この時代の後にニューシネマの時代が来たのも解る気がする。

ヒロインは美しい女優だった。マカロニウエスタンの女優は、本場の女優より美しく、表情もキリッとしていることが多い気がする。インディアン系の女優もセミヌードを披露する役割を果たしていた。娼婦仲間の他の女優達も、それぞれの役割をきっちりはたし、演劇のレベルを感じた。

そして、主人公を演じたフランコ・ネロは圧倒的な存在感。顔の作りとメーキャップが良かった。三船敏郎も素晴らしかったが、ネロも凄い。クリント・イーストウッドやジュリアーノ・ジェンマよりも迫力を感じる。

 

2013年1月10日

そんな彼なら捨てちゃえば?(2009)

Ewline

- なかなかドラマチック -

複数の男女がオムニバス風に関係し、互いにくっついたり離れたり、色恋沙汰を繰り広げる話。くだらないだろうと思って鑑賞しないでいたが、知人のビデオ屋さんが移転新装オープンしたので、挨拶代わりに鑑賞。

・・・・ところが意外に面白くて、結構ドラマティックな場面もあり、出来が良かった。よく知っている人気俳優たちが共演しているから、登場人物に存在感があったからか、または本当に脚本や演出が良かったからか解らないのだが、この手のラブコメによくある浮ついた馬鹿騒ぎが少なく、ドラマはちゃんとドラマになっていて好感を持った。

登場人物の個性の表現が良かったのか?

もてない女史を演じていたジニファー・グッドウィン(ジェニファーではないようだ)が、可愛らしい仕草やふられっぷりがおかしく、実在感があった。もう少しオーバーな表情の女優さんだと、名演をやってしまって大泣きしたり、暴れたりしそうだが、それを避けていたセンスが誰かにあったのだろう。

「ああ、私ふられちゃったみたい。」と感じる時の表情は、不安感を隠そうとした一見冷静そうな、でも悲劇を予感した雰囲気が出ていて、それでいて観客には過度に悲しく感じさせず、秀逸だった。相当上手く演じないと、バランスを保つのは難しいだろう。

スタッフは「セックス&ザ・シティ」の人達らしいので、ラブコメのプロとも言える。一段高いレベルで作品を作っていたようだ。

ベン・アフレックの役は少し中心から外れた印象を受けた。わずかだが、実在感にも欠けていたかもしれない。スタッフは女性を描くことにかけてはプロだが、男性側はワンパターンなのかも。

ドリュー・バリモアの周囲にはホモセクシャルな連中ばかりというのは、完全にコメディの要素のために作られた設定。彼女は製作にも関わっているようなので、ラブコメの面でオイシイ役を得ていたのか?でも目立つ役ではなかった。

これに対し、スカーレット・ヨハンソン嬢は作品の中心にいた。少々グラマー度が過ぎる印象も受けたが、最もセクシーで、色気の面では最高に役立っていた。歌も歌っていたようだ。でも、セクシーガールが必ずしも良い男をゲットできるとは限らないのが世の不思議。彼女のような女史は、結構多い。

売り時を間違えてしまうのだろうか?つまり、見るからに生命力にあふれる旬の時期には力量をもてあまし、余計な冒険に使ってしまう。その時は、まあ次の男を虜にすればいいのよくらいに思っていると、自分より若いピチピチガールに獲物をかっさらわれてしまう。

読みと策略、自らの限界を知る自制心、まるで野球選手が球団と交渉するかのごとく、ただの魅力以外の能力が要求されるのであろうか?野球バカは、安い給料で頑張り過ぎて故障し、そのうちポイされてしまう。セクシーガール達には、そうなって欲しくない。

いつ相手を代える・・・トレード、大リーグ挑戦、ポスティングシステムの利用、その他諸々、考えることは多い。にこやかにそれを進めるのは大変なこと。そのためには、野球選手の代理人に相当する交渉人がいたほうが良い。

映画の中では恋愛哲学を持つバーテンダーなどが、ちょうど良い相談相手だ。同性の友人が、相手男性の事情を調べる役を果たしてくれるのも大事なこと。仲人なんかも、本当はずけずけと相手の事情を尋ね、言いにくいことも「言いにくいことですけど・・」などと言いながらズケズケ言って、双方を騙す役割をやっていたと思う。

どんな交渉人を味方につけるかが、自分の人生設計に深く関わっているのである。ヨハンソン嬢は、交渉人らしき人物を持たなかった。あれでは失敗も当然だ。ちなみに家内は私と交渉する前に、私の上司に私の素行を確認していたらしい。裏切られないように、安全パイとして相対したと後に教えてもらった。鋭いリサーチによって、今や彼女は毎日昼寝三昧の生活を手に入れたのである。

 

 

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