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カテゴリー「さ」の57件の記事

2018年11月27日

the four GAFA/世界を破壊した四騎士(2018)

-スコット・ギャロウェイ著・東洋経済新報社-

 

グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの4大企業の功績、害、今後の展望などを解説した書籍。読みごたえがあった。著者は大学教授であるが、いっぽうで起業家でもあるという。そんな人物は日本ではあまりいないだろう。起業家は、壮絶に仕事をこなしていかないと、直ぐに誰かにおいやられるものだ。 


インターネットが始まった頃、劇場主はまだパソコンも持っていなかった。しかし、その当時でも既にネット社会の予感は世にあふれていた。荒野に掘立小屋を建てて、そこを起点にネットで世界と商売する・・・そんなCMもあった。実際に当時は多くの若者がネット事業に参入し、一攫千金を夢見て戦っていたはずだ。今日の成功者は、いちはやく参入して画期的な商売の形態を作ることに成功したか、それを買い取った連中が多い。  


何が勝敗を決したのかは分からないが、ちょっとしたセンスの良さ、素早い決断、あるいは資金やタイミングなどか? 勝った場合は資金が集まって、さらに巨大な勝負に挑めるという、倍々ゲームで今日の地位を確立しているのだろう。 微妙な差が、やがて大きな違いになって大富豪を生むことになったように思う。   


しかし、さすがに過剰な寡占状態が目立つようになってきた。GAFAが税金を少ししか払っていない点も問題視されるようになり、最近はイギリスのように、新たな課税をする地域もあるらしい。当然のことだろう。4強がいつまでも支配を続けることはできない。今後さらに寡占が進んだり、誰かに取って代わられたり、きっとすると思う。   


NTTは大きなチャンスを持っていた。何といっても日本で通信といえばNTTだった。資金も豊富、人材だって豊富なはずだ。しかし日本のネット社会の中でもNTTは圧倒的な存在になっていない。大きいし確実な仕事ぶりだが、グローバル企業の中に割り込むほどではないと思う。元国営のクセが災いしたのかもしれない。  


また本には書かれていないが、米国発かどうかが、グローバル活動の際には大きな違いとなると思う。米国人の著者には、そこらが重要視されていなかったかも知れない。米国企業は、根本的には米軍の力を基にしている。GAFAの情報は、米国政府にも利用されているはずだ。他国との通商交渉によって米企業の権利は守られ、進出する際には米国発であったほうが圧倒的に有利で、敵の企業に政府から圧力をかけることも容易に想像できる。企業だけの力で今日を築いたとは言えない。 


でもネット関連企業に国力を集中させて良いのだろうか? 金の動きが大きくても、GAFAは軍事力とは直接の関係が薄い。旧来型の戦いの際に問題となったのは、重工業の生産力、人口、武器の優秀さと量だったと思う。通信も大事、資金が集まることも大事だが、国力とは少し違う力である。つまり、より重工業力がある国から発生したネット企業は、軍事力を背景にした通商交渉によって、GAFAを駆逐することも可能であろう。


GAFAに対しては、規制を考える人が増えつつある。個人情報を良いように使い、商品を売りつけようと広告を選んでくるから気味が悪い。個人情報の使い方を厳格にした企業が現れば、その姿勢に賛同した利用者が増え、GAFAを駆逐するかも知れない。


米国と米国発の企業は、技術の優位さを確保し、製造は後進国に移譲する手で豊かになった。米国の一般民を犠牲にして、巨大な資本を集めて一気に成長する・・・アップルは完全にそんな企業だ。日本のユニクロもそうだし、遅ればせながらソニーなどもそうやって利益を確保している。技術の優位性は、はたして保てるだろうか?中国企業だってバカじゃない。徐々に斬新なアイディアを出してくるだろう。その時、GAFAに資金が集まるはずはない。

2018年4月16日

『サルの惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』(2017)

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- 20C.Fox etc. -

 

人間に圧迫されたサル軍団は兵隊達に襲われ、家族や仲間の多くを失う。そして兵士たちの砦を作る作業を強制される。「なぜ砦を作るのだろうか?」サル達は不思議に思う。そしてサルの指導者シーザーは仲間たちを救うことができるだろうか?・・・DVDで鑑賞。   

 

よくできた話だった。シリーズ最高傑作かも知れない。人間たちが完全な悪役かと思いきや、ウイルスによって滅びていくことを自覚し、生き延びるために成すべき行動をしていることも充分に描かれ、ただの殺戮者としていなかった点が成功だったと思う。

 

まるで本物の戦争のシチュエーションに似ている。犠牲者が発生することによって互いの勢力の間には憎悪が深まり、抜き差しならぬ関係になることが多い。でも、相手には相手なりの理屈があり、何かの理想に燃えていたり、建設的な意見を持っていることも多い。ちょっとした意見の相違で、良い方向性は無視され、殺し殺される関係になる、その仕組みがいかにもありそうで、分かりやすかった。主人公シーザーが個人的な恨みをどんな形で晴らすことができるかはラスト近くで明らかになるが、かなり高尚なレベルの迷いがシーザー君に発生していたようだ。 

 

今回の敵役はそういった流れの関係で素晴らしかった。純粋に残酷なだけの殺し屋になっていなかった点が良い。キャラクター設定、話の流れの検討が十分になされていたと思う。くだらないSFに過ぎない話なんだが、実社会の問題点を的確に再現していたし、そして出エジプト記をも表現したかのような展開によって、なんだか感動作になっていた。  

 

技術面も素晴らしかった。サルたちの個性が分かるようなメイク、CGによる感情表現のレベルが高い。簡単なCG作業だけでなく、表現をスムーズに変化させるソフトを開発し、時間と金をかけて作業しているんだろう。 

 

今回は特に動物園出身のサルの個性が素晴らしかった。彼は典型的な勇者の個性ではなかったが、観客の笑いを誘う役割を担当し、重苦しいシーンの中でかすかな笑いの要素をもたらし、いかにも実在しそうなお調子者キャラクターを担当していた。この話の後に、また続編が作られるのだろうか?可能だとは思うが、これ以上の進展があると、かなり荒唐無稽な方向に移らざるを得ない気がする。この作品でいったん終了が良くないかと思う。

 

 

 

2018年1月28日

サイドウェイ(2004)

Sideways

 

- Fox Serchlight20'th fox -

 

独身最後の旅行に出かけた二人組の男。主人公はワインとゴルフ三昧を予定していたが、相棒は違う考えを持っていた・・・1月23日、衛星放送で鑑賞。

 

サイドウェイというのは「寄り道」といった意味だろうか?そうだとすると、少しタイトルで損しているように思う。ワインを連想するタイトルが良いと思うのだが、どうだろうか?「ワイン&ゴルフ」じゃだめだろうか?

 

主演のポール・ジアマッティと共演者たちの演技、演出のセンスや全体の雰囲気、そしてワインに関する映像などが素晴らしく、出来の良い映画だった。万事にセンスが良かった。原作があるそうで、そのセンスも良かったのかも知れない。ワインに関しては、一朝一夕で知識を得るのは難しいので、原作に書かれていたのではないだろうか?

 

もし、この作品がワインのウンチクなしで進められていたら、たぶん味わいが損なわれていたに違いないと確信する。薄っぺらな喜劇に終わっていただろう。観客の注意がストーリーと関係のないワインの話に向かうのは良くないような気がするのだが、ワインには豊かな生活、幸せなどに通じるものがあり、他の話題とは影響がずいぶん違う。

 

ワインを語る主人公は一定の知識を有する人間で、ある程度は人生の楽しみ方を知っている人物と考えることができるから、共感しやすいという効果を生んでいるようだ。他の趣味より作品に良い反応をもたらしている。また、ワイン通は通常ならハイソな人物をイメージさせる。作家のタマゴで、しかも母親から金をくすねるような人物が、妙にワインだけ詳しいというのは妙だ。主人公のピント外れの認識をもイメージさせる。

 

米国には独特の哀愁路線というべき、悲哀に満ちた男性映画がある。欧州の悲喜劇ほどの重々しさはなくて、基本が笑いを狙っていることが明白で、ドジか気弱な個性の持ち主がやることなすこと全て裏目に出るパターンと決まっている。主人公は小柄で太っちょ、小説家志望というのも典型的なパターン。そして、今回主役のポール・ジアマッティが、まさにはまり役の個性の持ち主だった。漫才師で言うと、ツッコミの側の個性で、「爆笑問題」の田中君などに通じると思う。怒った口調が笑いを誘うようだ。

 

カリフォルニアワインは日本でも飲むことができる。でも劇場主が知っているのは大手のカルロ・ロッシくらいだ。カルロ・ロッシは白も赤も味が確保されている。非常に売れているから工場で大量生産されているのだろうが、日本の高いワインを飲むのがバカらしくなるほどの出来栄えだ。

たまに新しいカリフォルニアワインを試してみるが、苦みがきつすぎたりして理解できないものもある。はずれがないのはドイツのリースニングワインのほうで、苦みを楽しむタイプのワインは慣れが必要なのかも知れない。

 

ニガウリなど、独特の苦みも慣れれば美味しさになる。ダラの芽やシソの葉、ウドなどの野草にも苦みがあるものが多い。でも懐かしさや、クールダウンさせる独特のサポニン的作用があるらしいので、味わいとなる。ワインの苦みも、慣れれば味わいとなるのかもしれない。

 

ワイナリーを旅してまわるなど、時間的に考えられない。資金的にも、そんな余裕はない。人吉市の焼酎蔵まわりならできるかもしれないが、それすらやっていない。飲んだ後、どうやって移動するか考えてしまう。それに毎日の仕事をこなすのに精いっぱいだ。なんて窮屈な人生なんだろうか。

 

 

 

 

2017年8月 6日

さらば愛しき女よ(1975)

Ua

- U.A. -

ロバート・ミッチャム主演のハードボイルド映画。何度か映画化されていたそうで、リメイク作品。DVDの棚の中で特集してあったので鑑賞。

雰囲気は悪くない映画だった。今の映画のように気味の悪い殺しのシーンが繰り返されたり、カンフーアクションの応酬で観客を楽しませる趣向ではない。その点で古いと言えばそうなるが、落ち着いているといえばそうとも言える。いにしえのハードボイルド映画も、たまには悪くないと思う。

ただし普通の場合は、この作品は若い観客には受けないだろう。退屈するはずだ。子供にも同様。昔の作品を興味を持って観るという特殊な状況以外は、おおむね年代を選ぶ作品と思う。ディマジオの活躍を話題にしても、今の観客には分からない。カーアクションがないと、映画ではないと思っている連中だっているかも知れない。

主演のロバート・ミッチャムは、タフガイと情けない男を演じ分けられる俳優。「帰らざる河」などはタフガイ、「エル・ドラド」などは酔っ払い。いずれもサマになるから、役者として使うには便利だが、イメージとしては観客の混乱を生みやすい欠点にもなったはず。超一流のスターと言えないのは、そのへんに理由があるのかも知れない。

この作品では、眠たげで退屈そうな目をしたタフガイを演じていた。タフガイは、目を細めるものと決まっているようだ。ブルース・ウィリスだってそうだし。でも、一般人が真似るとおかしなことになる。眠いのか?と、怒られるだけだろう。

病院の医局でも微妙に目を細める連中がいた。医局でタフガイを気取ってどうするつもりかは知らないが、虚勢を張っていないと医者の世界でもなめられてしまうからだろうか?

どんな会社でも出世競争、名誉をかけての競争はある。競争においては、タフガイ同士の虚勢の張り合いと同じだろう。冷静さを失って目を見開くのは、タフでないことを意味し、最初から立場が悪くなる。それを経験的に怖れるから、目を細めるのだろうか?勝手な解釈だが・・・・

解釈はどうあれ、目を細めることを厭わない連中は多いので、その中で目を細めない人間は、標的にされやすくなる。医局内で目を細め合うより、病院全体の競争に勝とうよ、内部での競争に熱中するのは恥ずかしいよ・・・・といったクールな意見には、つばをかけられるのがオチだ。

タフガイは、今でも生き残っているのである。

 

 

2017年1月21日

サウスポー(2015)

Southpaw

- 名優共演 -

ボクシングのチャンピオンの話。妻の死をきっかけに家庭は破綻し、娘と離ればなれになる。娘を取り戻すため、彼は再起を目指すが・・・・

・・・・DVDで鑑賞。ジェイク・ギレンホール主演のボクシング映画。ギレンホールは、おそらく相当なトレーニングを積んでいたようで、今までボクシングヒーローものに登場した役者達より数段に動きが良く、実際のボクサーの雰囲気が出ていた。

ギレンホールは狂気が感じられるほど演技が派手な役者だし、今回はメイクも良かったのか、不良大人の雰囲気が上手く出ていた。これ以上、主役に向きそうな俳優を見つけるのは難しいだろう。

ヒロイン役には、お嬢様の雰囲気しか感じなかった。育ちに問題がありそうなキャラクターでも良かったような気がする。男勝りの強気の女性で、頭の回転が悪い旦那に替わって仕事を手配するような、そんなキャラクター設定ではなかったのだろうか?

復活のカギとなるトレーナー役はフォレスト・ウィテカーで、こちらはボクシングの動きが全くできていなかった。スポーツものの作品の場合は、演技以前に、専門家らしい動きが大事と思う。リアルな動きができなければ、本職のトレーナーを呼んできたほうが良いと思う。広いアメリカだから、演技できる本物のボクサーはきっといる。

この作品は中国系のプロダクションも制作に関わっていたようで、金は相当かけられた様子。試合のシーンの観客数は、相当なものだったと思う。でも細かい点で、少しチグハグな部分も気になった。そのせいで、せっかくの名優、名監督達が共演したのに、名作にまでは成りきれていない印象を受けた。

①例えば主人公が勝てなかったら、どうだったろうか?惜しいところで判定に持ち込まれて、理不尽な判定で負けたら、話としてどうだったか?ちょうどロッキーの第一作のように。もっと良い話になったと思うが、どんなもんだろう。

②試合後に娘が控え室にやってきたが、その時主人公は汗が引いており、傷もかなり良くなっていた。短時間で治癒するのはアベンジャーズ並の能力者であるということか?おそらく、撮影日が離れていて、傷の具合を合わせることができなかっただけだろう。

③サウスポーに切り替える場面が、映像では明確に表現できていなかったと思う。タイミングも、もう少し前のラウンドが良い。最終ラウンドまでもつれ込むのは、ドラマティックな演出ではあるものの、やはり少し漫画チックになってしまう。展開に関して、詰めが甘いのでは?

でも、全体的にまとまった作品。ちゃんと敵役もいたし、戦いはリアルで、物語は盛り上がっていた。恋人や家族と鑑賞するのにも耐えられそうなレベルだと思った。

ボクサーのトレーニングは想像を絶する厳しさだろう。普通のスポーツなら、練習の後にはたっぷりカロリーを摂れるが、ボクシングでは減量が厳しい。しかも試合では死の恐怖に耐えないといけない。よほどのやる気、動機が必要だろう。普通はファイトマネー、家族愛、などがそれになるんだろうが、劇場主の根性では無理。動機が同じようにあっても、トレーニングは続かないだろう。

劇場主にもファイティングスピリットがないわけではない。稀に喧嘩腰になって、怒鳴ったりすることもある。運転中がほとんどだ。いつも対向車に譲ってばかりいるから、あまりに図々しい車に腹を立てる発作が必ずある。だが、本格的に他人と殴り合ったことはないから、自分の戦いのキャリアへの誇りはない。悪い先輩からは一方的に殴られていただけだ。

もし誇りがあれば、自分が過去に戦って勝ってきたのだから、戦いで事を決しようと反射的に行動するのではなかろうか?つまり、喧嘩っ早くなり、車を降りて殴り合いに持ち込もうとするかも知れない。でも、いにしえの時代と違って、今日では殴る=負けに相当する。殴らせたほうが勝つように出来ている。

この映画の主人公は、だから出かける時は、用心棒ではなく、自分を羽交い締めにして動けなく出来るように、対自分用ボディガードを配置しておくべきだった。自分は感情面の制御ができないんだと悟った時点で、暴走を食い止める役を設けておけば、この作品のようなドラマに発展するまでもなく、・・・・いつまでも家族は幸せに暮らしましたとさ・・・となったかも知れない。

 

 

2016年11月10日

サピエンス全史 (2016)

- 文明の構造と人類の幸福  -

イスラエルの学者、ユバル・ノア・ハラリ氏の著書。宗教や国籍、政治的主義によらない自由な視点で、人類の歴史を見直した内容。シニカルな表現、クールな分析が目立つ。文章は、とても読みやすい、内容も簡単とは言えない。一部は難解な表現もあると思う。

内容は、かなりの部分が他の学者達の本にも書かれていたように感じた。著しく独自性のある内容は少ないだろう。劇場主の観点だって似たようなものだ。空想めいた分析なら、劇場主にもできる。だが、なかなか通史を書こうとは思えない。人類の歴史全体を通して見直そう、再評価しようという努力、その姿勢に感服する。学者が時間をかけて調べ、宗教的な視点を考え直し、国家主義的価値基準の残像を取り除かないとできないこと。普通の人間では難しい仕事だろう。

誤った価値判断、根拠の薄い信用の形成、そんなものが人類の歴史に大きく関わっていたことは、半ば常識ではあったものの、この本ほど端的にそれを語った著作はないのでは?語る人間にもよるのかも知れない。語る人間が勘違いしていると思われたら、もう誰も読んではくれない。信頼されるための条件が必要。イスラエルの学者なら可能性あり。でも日本人の言葉は負け犬の遠吠えに聞こえてしまう。人類通史は書けないと、日本の知識人は感じているだろう。書くだけ無駄。内容のレベルにかかわらず、勝っている集団だけが説得力ある文章を書ける、そんな傾向はある。

多くの点で劇場主は作者と同感だったが、劇場主だって勘違いは多い。日本の国家の利益、国民の利益を他より優先して考える傾向がある。つまり、日本の強欲によってなされたことは仕方ないこと、日本に向けられた強欲は許しがたい、そんな感情がついつい起こる。国家単位の思想から抜けていない。考える時くらいは、国家的史観から抜け出したいものだ。

似たような文明批評家のジャレド・ダイアモンド氏も、宗教や主義的なプロパガンダを除外して批評する姿勢があって、この本と視点が似ていた。より考察の範囲を広げ、歴史全体を通じる一貫性を見いだす方向性が少し違う。しかしジャレド氏のほうが、本の内容の点では本当の学者らしいようにも思える。

学問的でないと感じた部分は、たとえばユバル氏によれば、農耕が始まったことで生活レベルが下がったように書いてあったが、これは強調しすぎだろう。通常は農耕によって食料が安定的に確保できる可能性が高まり、少なくとも平均摂取カロリーは増えたと考えられる。貯蔵された農産物が、それを可能にしたはず。相対的に炭水化物に偏った食事になったかも知れないが、人口を養える可能性が出たことで、狩猟時代より良い面が多かったと思う。狩猟ばかりでは人類は繁栄しない。バランスも大事だが、よりカロリーが大事。

狩猟時代は、食生活で雑多な物を食べられたというより、そうせざるをえなかったと考えられる。食べられる物で食いつないでいただけで、安定的に食料を確保できたかどうかは怪しい。おそらく季節変動を受けやすかったはずだし、カロリー不足による様々な弊害、狩猟中の事故も多かったに違いない。農業革命は、良い面が多い。それが普通の認識だ。農耕民族だからそう思うのかも知れないが。

ただし、勘違いを強調して考えてみる姿勢には賛同したい。劇場主だけじゃなく、過去の歴史家の多くは視点が偏っていた。古代の歴史を追っている時、英雄礼賛に偏った分析がなされる傾向があった。古代ローマの歴史が、その代表。効率の良い軍事組織があったからというのが、ローマが栄えた理由という理屈。でも例えばポエニ戦争の当時、ローマ周辺の都市がハンニバルになびかなかったのは、ローマのほうをより信頼したからだろうが、その信頼は、勘違いであった可能性がある。勘違いが力の元だったかも知れない。

認識や精神面のことを、実感として、あたかも当時の人々のように共感して感じるまでの解説は今までなかった。この本でも、そこに到達しきれていないかも知れない。だが、当時の人々はなんらかの勘違いをして、過剰な信頼の下に団結したり、無謀な勇ましさで戦っていたのだろう・・・そんな視点も理解のためには必要。

勘違いという表現は、古来の人々への敬意に欠ける言葉かも知れない。独特な認識の方向性とでも言い直すべきか?間違ったかどうかなど、誰にも判断できるものではない。かっての帝国主義の時代に、国粋主義者が命をかけて信じた価値観は、結果的には間違っていて無意味で有害だったかも知れない。でも、だから彼らを非難すべきものではないように思う。

この本は優れた本と思う。しかし、歴史的な価値が生じる書物だろうか?たとえば‘国富論’は意味が大きい本だろうが、それは本が資本主義的手法の根拠になり、それによって利益を得る人が多数いたからだろう。この本の視点は、利益を生むだろうか?むしろ無視して強欲に身をゆだねたほうが得しないか?いかに内容が正しかろうと、利益につながらないと、ただの分析に終わる。

教養として読むには良い本。でも問題点としては、世の中に錯覚、勘違いが蔓延しているという、まさにその点。たとえば、いざ宗教的過激派と論争になったら、この本は宗教裁判にかけられそうな内容。うかつに本を支持すると言わないほうが身のためだ。国家主義者、資本主義者、あらゆる人達から集中攻撃を浴び、いっぽうで支持者達はほんのりと支持してくれるだけ、誰も狂信的にこの本を支援してくれない、だって狂信するなと書いてる・・・そんな運命の本でもある。

また実社会では、凝り固まった主義を持つ人のほうが成功しやすい。条件反射的な対応ができるし、無駄に悩まないからだ。有名な人間は、多くの場合が勘違いに満ちていないだろうか?一般に、支配的な人々は、この本を心から支持してはくれないはず。彼らの利益に反する内容だから。しかし、非支配勢力の間では支持を得ることができる。キリスト教がローマ帝国内に拡がったように、弾圧は被るだろうけど拡がりうる。今は昔と違って無記名の投票というシステムがある。票を集めることによって主流派にだってなりうる。

ただし、社会の潮流がこの本の認識によるようになったとして、それで社会が上手く運営されるとは限らない。資本主義は幻想じみたシステムだろうが、それで金が流れて経済が回っているし、国も宗教も、それなりの役割は果たしている。役人は一般に勘違いが多い連中だが、役人なしで自治体は運営できない。それに、株式会社の全部が間違った存在だといえど、営業停止というわけにもいかないのではないか?会社が存続するのなら、勘違いは生き残る。そうなると、この本の価値も限定的にならないだろうか?

 

2016年10月 8日

ザ・ファン(1996)

Columbia

- リアルさに難 -

ジャイアンツファンの主人公は、スター選手ボビーに特別な期待を持っていた。彼が不振に陥ったことと、自分が解雇されたこと、子供と接近禁止になったことが重なり、彼は行動に出る・・・・

・・・・8月21日、衛星放送で鑑賞。トニー・スコットが監督していたが、あまり評判が良い作品という印象はなく、ビデオでも観たことがなかった作品。鑑賞してみて、確かに非常に優れた作品とは感じなかった。間延びしたようなシーンもないわけではなかった。

この作品は子供には向かない。味わいのようなものがないし、陰湿な印象を受けるシーンが多い。恋人と見るために、こんな映画は選べない。基本は同性の友人と観るか、一人で暇な時に見る作品だろう。

デ・ニーロがセールスを頑張っているシーンは良かった。懸命に怒りを抑えようとしている様子が、笑顔と焦った表情を交互に繰り返すことで分かりやすかった。

セールスマンはイライラしていることが多いようで、自分のところにも宣伝に来ていて急に怒鳴り出したり、皮肉を言い出したりする人がいて驚く。売り込もうとした相手を脅すなんて、商売の基本から外れるが、我慢できないのだろう。

家庭の状況が複雑になっていることも、設定として非常に良かった。離婚して子供をめぐって喧嘩する夫婦は、映画でよく出てくる。主人公が元の夫であることが多く、仕事もうまくいっていないのが約束事のようによく見られる。子供と別れて暮らすのは、耐えがたい苦痛だから、共感を生みやすい設定である。

ただし、この作品の後半は、共感を得る方向ではなかった。おそらく、主人公が人間くさく悩み続けていなかったことが、その最大の理由ではないだろうか?仮に犯罪行為をやらかすとしても、良心がとがめて悩んでいるなら、観客も主人公に同情する余地がある。それをしないと、作品自体に嫌悪感を抱かれてしまうから、この点は譲れない条件。そこが失敗していた。

主人公がどれだけ酷い犯罪行為をはたらくとしても、自分自身が恐怖におののき、自分の行為を嫌悪し、泣き顔や苦悶の表情を見せることなどが必要だったと劇場主は思う。完全に理性的に犯罪を犯すなら、最初からクールにやってれば良かったはず。

サウナで大腿部を刺すシーンがあった。大腿部を刺された場合、普通なら刺された部分を押さえれば、かなりの時間は血圧を維持できる。痛みはひどいだろうが、ドアに向かって片足で逃げようとするくらいはできるように思う。少なくとも、逃げようとしないのは不自然な印象。意識を失うのも早すぎる。大動脈の外傷なみの早さではなかったか?

公共の場所であるサウナ室で殺人を犯した場合、普通なら見つからないで立ち去ることを優先すると思う。わざわざ皮膚の一部を採って、証拠になりそうなものを持ち歩いたりしないことが多いだろう。密室での犯行なら別だが、誰かが部屋に入ってこないか気になる場所では、立ち去ることが第一だろう。

実際に、こんな境遇になった人物がどんな風に考え、どう行動するかを、なるべくリアルに描いたほうが良い。リアルな中に、個性も盛り込めたら最高だと思う。でも、この作品では中間ぐらいでリアルさが損なわれていたように思う。

スポーツには熱狂的なファンが多い。その中には、敵となるチームやエラーした選手を狙うような狂人が混じっているかも知れない。2016年のオリンピックで大活躍した選手達は、人気の度合いを高めたことだろうから、妙な行動をとる人物が、彼らに接近してこないとも限らない。

選手が何かコメントしたら、高い注目度ゆえに急に反発してくる連中もいるだろう。名を知られたら、コメントは控えるようにすべきと思う。

 

 

2016年9月29日

ザ・ガンマン(2015)

The_gunman


- 交流の結果 -

コンゴで大臣暗殺を実行した主人公。恋人と別れ、身を隠してボランティア活動をしていたが、命を狙われる。自分が狙われる理由を探るため、彼はかっての仲間を訪問するが・・・・

・・・DVDで鑑賞。この作品は、主に欧州系の会社が作っていたのだろうか、ハリウッドとは少し違う雰囲気の作品で、監督も「96時間」シリーズの人らしい。アクションシーンがよく似ている。主人公のキャラクターも似ていたのでは?

設定が素晴らしかった。コンゴの地下資源を狙う多国籍企業が、傭兵隊を組織して現地で邪魔者を消す。いかにもありそうな話で、話のリアルさを生んでいた。そして仲間同士が裏切り合い、殺し合うという常道的なストーリー展開、加えて闘牛場を舞台にしたラストシーンなど、王道に則った設定が効果的だった。香港映画のような流れだ。

主役がショーン・ペンだったのが良かったのかどうか、分からなかった。ジェイソン・ステイサムだと、活劇調の二級品のイメージが直ぐ確定されてしまう。アクションは派手になるだろうが、荒唐無稽な路線になり、この作品のイメージが変わる。過去を引きずる悲しさが出せる俳優が望ましい。誰が最適だったろうか?

あらためて思ったが、理想的なアクションスターがいない気がする。ステイサム調も良いのだが、さすがに飽きがきてしまった。影があって、たくましくて、でもマッチョ過ぎないで動きが良い。ダニエル・クレイグは良い俳優だが、007になってしまうとイメージが固定する。アクションスターの旬の時期は、直ぐに過ぎ去ってしまうものらしい。

今回の脇役、バビエル・バルデムやマーク・ライランスは素晴らしかった。今はちょうど彼らのキャリア、実力が生きていることや、元々の役柄も良かったのだろう。それぞれ違った個性、違った立場ながら、主人公を苦しめる嫌らしさが充分に発揮されていた。バルデムは殺される役が多い気がするのだが、絶望しながら死んでいく様子が、いかにもラテン系の役者の感じ。舞台がかっている。

この作品は殺し合いのシーンが多いので、小さい子には向かないと思う。小学生後半くらいからなら、結構楽しめる内容かも知れないし、ストーリー展開が分かりやすいから、子供でも理解できるように思う。恋人と楽しむ時間のためには、悪くないはず。恋愛感情に関しては、純粋な作品だから。

コンゴを含めたアフリカ諸国で、どのように経済が回っているのか、実態はよく知らない。フランス語圏においては、人道支援がフランス中心に様々行われるいっぽうで、フランスも含めた欧米系の資本が、資源の管理権をがっちり握り、現地の意志が制限されていそうな気はする。おそらく昔のように露骨な形ではなく、‘資金提供’‘合弁会社’‘技術支援’の形態でだろうとは思うけど。

資本主義に対する理解、現地ならではの生き方、宗教的な考え方の違い、人種の違い、そんな様々な要因が、互いの認識の違いを生じて、大きな対立につながるのだろうと想像する。人道支援が支援にならない場合もあり、経済協力が悪魔的支配でしかない場合も、考え方によっては起こりうる。

もし現地政府の方針が変わったらどうするか、そのへんが大きな問題になる。海外資本をこころよく思わない人達が、選挙で票を集めるかも知れない。内戦の多くは、民族対立とともに、欧米の資本に対しての態度が関わりそうに思える。海外から資金が舞い込んで経済が活発になると、豊かになって喜ぶ勢力と、よき伝統を失って怒る勢力が必ず出てくる。争いの元だ。

人道支援に関しては、この作品でも描かれていたように、武装した人間との境界が曖昧な連中も参加していると想像される。現地で安全に活動するためには武装が必要だから、ボディガードを雇うのも当然という理屈だが、結果的に暴力を助長する側面もある。強いボディーガードは、倒すためにより強力な武装を必要とし、転じて激しい戦闘を輸出した面がないとは言えない。

ただし、もし劇場主がフランス企業の社員であったら、現地の資源をほっぽり出して撤退することは考えられない。自分達が出て行っても、他の企業がそこを奪い去るだけだろう。民族派の閣僚が、自分の会社に損害を与える決定を出そうとすれば、彼のスキャンダルを公表して失脚を狙うだろう。ガンマンを探しにかかるかは分からないが、自分が探せなくても、任せろという同僚は必ずいるだろう。企業精神は、そんなものだ。企業精神と現地の都合が合致しないことはありうる。

もし劇場主が国境なき医師団で活動していたら、目の前の病人をほったらかしにして、現地から撤退するなど考えられない。ボディガードを雇い、なんとか活動を維持し、できるだけ住民を救いたいと願うだろう。もしかするとボディガードは殺し屋さんかも知れないが、自分の使命を続けるためには目をつぶるのでは?支援者の都合も、現地に都合よろしくない場合はあるということになる。

こんなことはいけないから、支援も経済進出も全て撤退し、関与すること自体を止める、そんな考え方もそろそろ出ている。要するに認識の隔たりは如何ともし難いので、壁を作ろうという動き。特に近年はイスラム圏からテロを輸入していることに気がついて、交流の負の側面を認知できたから、壁を築くのが正解と思い出したようだ。直ぐ移民シャットアウトまでにはならないだろうが、受け入れは減っていくのでは?

それに時々思うのだが、人道支援が完璧になされ、乳児死亡率も欧米並みに減り、経済が発展し内戦も全くなくなったら、アフリカの人口は怖ろしいスピードで増えるはずだ。増えた人口をどう維持するか、食料や雇用、社会保障をどう維持するか、しっかりした目処が立っているはずはない。どのように、どこまで支援すべきか、その答えがさっぱり分からない。

かといって、もし仮に欧米が撤退したら、そのぶん中国やロシアが進出するだけだろう。そうなると、売り上げを奪われる欧米企業が何も行動しないはずはないし、そもそも現地からも支援の要請が止まるようなことは考えにくい。良い面も悪い面も含め、今のような‘交流’は今後も続くだろう。問題を全く生じない交流はありえないが、仕方ないだろう。

 

 

2016年1月22日

叫びとささやき(1972)

Towa

- 死生観 -

重病で死期が近い女を、姉と妹、家政婦が看病している。それぞれが自分の思惑や感情によって、接し方も異なる。そして、死の時がやってきた・・・

・・・・DVDで鑑賞。この作品は、ベルイマン監督の作品シリーズとして一ヶ所に置いてあったので気がついた。他と混じっていたら、気づかなかったかも知れない。派手さが感じられない作品。

当時は、こんな映画に人気があったのかと、感じ入る。どう考えても面白い作品ではなく、観ていて辛くなるような重々しい映画。テーマは崇高で、描き方は非常に手が込んでいるとは思うものの、テンポや雰囲気に関してはちょっと今の時代には通用しないような印象。

女達それぞれの感情、家族の間で深く隠されてきた諍いなどが、人の死に際して明らかになるのを描いているように思う。静かに鑑賞して、観終わった後で静かに感想をまとめる・・・そんなタイプの映画だから、テーマから考えても、子供、恋人と鑑賞する映画ではないだろう。

女に献身的に仕えてくれる家政婦は、自分の子供が小さい時に亡くなって、おそらく代替え的な感情で、女を自分の娘のように感じて接していると思われる。だっこして乳を与えそうにするポーズが、それを意味している。無条件の愛情を示しているのが、実の家族ではないのは、たぶん監督が強調したかった点だろう。そして、娘を亡くすような過去がなければ、献身的看病は難しいのか・・・・そうとることもできよう。

肉親である姉と妹は、独善的だったり、自己中心的だったり、あるいは温かい肌の接触が嫌いだったりして、女に絶対的な愛情を持っているわけではないようだ。女自身も、幼少時に自分が阻害されたような記憶があり、姉妹達に敵愾心のような感情を持っていたように描かれていた。

でも、描き方には少し違和感を感じた。アップの画像から、その人物に焦点をあてて解説するかのようなシーンは、作品全体の流れを遮る面もある。時間通り経過の中で、それぞれの内面を台詞や独語で表現したほうが、自然でもあり、物語としての流れに抑揚が効く効果もあると思う。芸術に懲りすぎて、ドラマかドキュメンタリーか分からないようになってしまっている。

奥に秘めた感情を表現するためだろう、亡くなった女が復活してしまう非現実的なシーンがある。気味悪がって相手にすることを拒否する姉妹の姿が、本心を表していると考える。より現実的に描くなら、うわごとの形で姉たちを非難すると良かったかも。本音の戦いが、より明瞭になるから。

分からなかったのは、こういった点を強調したければ、亡くなる前に表面上は優しそうに接する姿を写し、裏で暴言を吐いたりさせてから、亡くなった後にゴロッと変わった浅ましい姿を見せるのが定番と思う。なぜ、そうしなかったのだろうか?もっと曖昧に描いて、高級感を出したかったのだろうか?

それに、非現実的な復活シーンを描く場合は、現代ではリアルさが出にくい。古い城などを使って、ハムレットみたいな気味の悪い演出をするのが常道。この作品の時代での復活劇は、ちょっと無理があった。

女が日記の中で姉妹らといっしょの散歩を回想したシーンが美しい。よく整備された公園(広大な庭かもしれない)を、着飾った女達が歩くシーンは、幸せを感じさせる。それも一面だと思う。笑顔と、満足感、幸福感のあふれる時、そして喧嘩や悪口、そんな諸々の場面を、やがて死がすべて覆ってゆくものだろう。

劇場主は最近、同級生達と死生観について話した。卒業後30年で集まったのだが、多くは部長や副院長クラス、数割が開業しており、勤務医達もそろそろ民間に移ろうかと話していた。

人の死に関わる分野を避けたという皮膚科医がいれば、ターミナルケア中心の在宅医療専門に進んだ人間もいる。感覚の違いがあって、ちょっとした口論になっていた。劇場主も、職場や立場によって次第に感じ方が変わってきたように思った。

救急担当だった時代は、蘇生成功率が妙に高くて、なんだか自分が人の命を決めて良い人物、神様にでもなったかのような感覚を持っていた。でも蘇生させて、かえって不幸を作ってしまう経験が増えると、少し引いた形で現場に望むように変化した。

子供の急変や、若い人で死が確実という例に遭遇すると、さすがに感情がこもってしまい、説明をしながら泣いてしまったり、なかなかク-ルではいれなかったが、その後長く精神的に引きずるまではなく、仕事をこなせていた。それが徐々にだが、感情が先に走る場面も出てきた。

同僚の中には、例えば胃瘻に関して積極的で、何も問題のない優れた行為だと推奨する人間がいた。あんなものを自分に入れられたら、どう思うんだよ!と、私は嫌悪感を感じたが、そう言っていた人間は出世し、教授になってしまった。そんな考えでないと、偉くなれないのか?だったら、偉くなんかならなくていいかもしれない。

勤務医時代の後半は、基本はもちろん無条件に救命を優先し、自分で判断できない場合は家族の顔色を見ながら対応するような、曖昧な態度になっていた。家族との死生観の違いを明確にすることは避けたいと思っていた。とことん語り合うと、人生観の違いがもろに出てしまう。身勝手な人間は多いものだが、人が死ぬ場合にそれを批判することは難しい。特に嫌なのが、無条件に延命治療を望む家族が大半だったことだ。

医者になる前から、自分は患者や家族にとって最善の選択を提供したいと考えていた。その点は一貫しているが、提供したい内容が変わってきた。そして、自分が担当している寝たきり患者に対して、もしかすると何もしないほうが本人は幸せかもねと思えることが増えると、そのままの仕事を続けていくのは嫌になってくる。死生観と現実の診療内容の違いが、自分の道に関係している。

 

 

2015年2月15日

細雪(1983)

Touhou

- 小津調 -

大阪の旧名家の4人姉妹。3女の見合いの失敗と4女の恋愛事件、かっての栄華、衰退する現状、互いの諍いや仲直り、のしかかる軍国体制などが描かれた物語。

2月10日、BS放送で鑑賞。過去に3回の映画化、数々のTVドラマ化があったそうだが、鑑賞したのは今回が始めて。細やかな心情の描写がよく出来ていた。ただし女心はよく分からないので、よく出来ていた気がすると言うべきかも。またいっぽうでドラマというのは全てそうだとは思うが、やや退屈になる遅いテンポは、人によっては好き嫌いがあるかもしれない。

着物を並べて陳列するシーンや、花見のシーン、雨の中の風景など、美しいシーンが多かった。惜しむらくは、もっと高性能のカメラで撮影できていたら、もっと味わいが感じられたろうにと思う。ノスタルジックな基調、独特の哀愁、美意識が素晴らしかった。

子供には受けない映画と思う。女の子にはどうか分からないが、少年には解読不能な世界感がある。恋人と観る映画としても、最適とは思えない。BGMは新たに作るべきではなかったろうか?クラシックの名曲には少し違和感を覚えた。

岸恵子51歳、佐久間良子44歳、吉永小百合38歳、古手川祐子24歳の頃の作品。年齢を考えると、大物女優達はさすがに実年齢が高すぎる印象もある。文芸作品、大作の場合はよく年齢が高めになってしまうが、個人的には有難くない。ピチピチした肉感的魅力、化粧ぬきの色気も必要ではないか?ポルノ路線にまでする必要はないが、この作品には目立った濡れ場もないので、実生活を描く作品として特殊であることは間違いない。

原作ではどうだったろう?やや変態趣味の気配が漂う作品だから、濡れ場は多いのでは?読んでないから分からないけど、作者には女装趣味や、何かのフェチ趣味がなかったろうか?感覚的にオカマ趣味のような、女性より女性らしい感覚の鋭さが感じられるような気がしてならない。

谷崎の家族が題材になっているらしいので、描写が細かい印象。モデルがいるといないとでは、表現に違いが出るのは仕方ないだろうが、それにしても細かい。書かれた本人達はどう思ったろうか?

最初と最後に、小津安二郎タッチの対面して交互に話すシーンがあり、オマージュにもなっていた様子。小津調は古いから、ノスタルジックな雰囲気を出す効果も感じられた。

石坂浩二が良い味を出していた。彼は婿養子のはずだが、次女の夫なのに婿養子として妻の姓を名乗るのは、私の感覚では変。大阪方面では複数の婿を迎えるのが普通のことなのだろうか?妻の姉妹たちに振り回される姿や、ちょっとした浮気心、理容師に本音を打ち明ける際の言葉など、実在感が感じられる役柄だった。温和な雰囲気の石坂には良く合う役だった。谷崎本人の分身でもあったろう。

同じく旧家の坊ちゃんらしい勘当される人物も、上品で生活力のなさそうな態度、声質や言葉使いが素晴らしかった。マヌケな人間の存在はドラマでは非常に大事と思う。マヌケが自分では自分を粋だと思っているように演じると、実在感が出る。さらりと、楽しそうに演じていた点が良かった。本業は落語家のはず。でも、本職の役者達よりも存在価値があったように思う。

伊丹十三が懐かしい。この後、彼は監督として急に脚光を浴びるのだが、当時は妙な声の個性派俳優、どちらかと言えば悪役のイメージがあった。この養子役も、演技よりも彼の生い立ちがあるからこそ成り立つ上品さが味につながっていたように思う。

旧名家の人間は、必要のない場面で過去の栄光、誇りを口にすることが多い。これは旧家出身でない自分の僻みかも知れないが、何か誇るものがないと人は自信を持つのが難しく、人と相対するのも辛くなるものらしい。圧倒的に優位でなくとも、一定の立ち位置があることが大事なんだろう。弱い立場では不安で仕方ないという心情が発生しやすいから。

その態度が上手く演じられていた。女中やかっての出入りの人間に対する態度や、家族内部でも入り婿の立場と本家、分家の立場など、細かい感覚の表現が実に上手くできていた。今日では意味を失いつつある観念で、くだらないといえばそうだが、そんなものにしがみつかないと誇りを損なう感情は、形を変えながら続くものと思う。

誇りを大事にするいっぽうで、実利に問題が生じた時は頭を整理し、バランスを熟考する・・・姉妹の判断には必ずそんな一面があった。心情ばかり言っていたら、姉妹はまず破産していたはず。店を整理したからこそ、今の生活があるじゃないか・・・長兄の言葉は正論で、だからこそ悔しい・・・そんな葛藤、バランスの判断が、ドラマの根幹と言えるかも。ドライに実利ばかり考えていたら、ドラマにはならない。

もし可能なら、極端にドライな人物を悪役として登場させて欲しかった。原作にいないのだろうか?悪役は必要。ロシア文学なら必ず登場するだろう、金儲けに徹し、成功した人物が。そんな人物が3女の見合いの相手として付きまとうなど、よくあるパターン。家族の浮世離れを悪役君の言葉が強調してくれるから、普通は必須のキャラクターのはずなのに。

産業構造が変われば、名家の没落、新興財閥の形成などは必ず起こる。ずっと繁栄を続ける家は珍しい。大阪あたりだと、大きな店が潰れては現れ、常に新陳代謝が起こっていたのだろう。商家→デパート→郊外のスーパー→最近では巨大なショッピングセンターも過当競争に入って業績がよろしくないそうだから→コンビニ+ネット通販へと、どんどん主流が移る。

熊本の県民百貨店も閉店になる。子供の頃恐竜展を見に行って、入場待ちのためにビルを一周し、数時間待たされたのが懐かしい。建物にスペース的な余裕があって、階段コーナーなど、個人的には鶴屋よりも豪華そうなイメージがあったが、ブランド的に鶴屋を凌駕するには至らなかった。ブランドイメージというのは難しい。高い物ばかり並べていたら買える人がいなくなる。安売りしたら、価格競争に埋没して利益を失ってしまいかねない。戦略を間違わないように、次の時代を察知して立ち回る必要があった。

百貨店の閉店は、旧大店の閉店ほど心に響くものではないと思う。でも、そこに勤めていた人達にとっては大事件。一消費者として、ダイエーや寿屋の閉店は非常に困った。あんな店があれば良いといまだに思う。今の店には国産で、綿が適度に混じっている品が少なく、ブランド品を探さないといけないので面倒。

SONYやシャープなどもどうなるのか気になる。まさかソフトバンクは大丈夫だろうか?借金は凄いはず。ただ、あの会社は仮に破綻したとしても、かっての大店のような哀愁を伴わない気もする。ソフトバンクは虚業ではないが、ネット会社のイメージが強いから。

農協はどうなるのか?7日頃の折衝の結果、農協の全中が権限縮小することになった。全中という組織の意味すら知らなかった私だが、今回の動きを見ていると、アメリカの意志がもろに反映されたと確信できた。政府のほうでは各地の農協が自由に活動するために必要などと説明していたが、明らかに詭弁。菅官房長官の話し方は、自分で言うのも嫌そうで、嘘は嫌いだ!といった雰囲気が感じられた。TPPの条件として、おそらくそれより前からも、農産物交渉、保険業への参入問題で、農協を無力化する必要があると米国が考えたのだろう。

主役は米国の保険業界だろうと思うのだが、たとえば逆に日本の農協が米国に進出することは難しいのだろうか?農協のような団体の商品、郵便貯金や郵便保険、日本型健康保険制度などは、輸出できるような気がする。米国の会社のようにハゲタカ的な強欲さがないので、収益の面では劣勢だろうが、格差に苦しむ米国の場合、日本型の貯金、保険制度は支持される可能性はあると思う。TPPの逆利用で、世界に進出できるのでは?

成功したら、米国の業界が黙って見ているはずはないが・・・

 

 

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