映画評

  • 当劇場は劇場主のための映画館です。訪問者を期待しておりません。内容の客観性、正確性は保障できません。でも、真摯な批評を目指します。

劇場主

  • 乙女座 AB型 どの占いでも最悪の運勢 内科クリニックやってます。

Conflict of Interest

  • 特にありません。

おことわり

  • 当劇場は誹謗中傷を目的としておりません。もし権利を侵害されたと感じられた方は、申し訳ありませんが管理会社や公的機関に御相談ください。

カテゴリー「け」の17件の記事

2014年6月24日

ゲッタウェイ(1972)

Warnerbros

- 不良について -

刑務所から仮釈放を得るためにギャングの計画に乗った主人公。しかし、計画は最初から仕組まれたもので、仲間から殺される段取りだった。主人公は逃避行を強いられる・・・

・・・DVDで鑑賞。学生時代、非常に有名になった作品だが、当時は観れなかった。ゲッタウェイとは、そのまま逃避行の意味らしい。オールロケらしき映像で、リアルな雰囲気がよく出ていた。スタジオ撮影をどこかで使っていたら、噓くさい雰囲気になっていたかも知れない。

この作品は出来が良いんだが、家族で楽しむ映画ではないと思う。小さな子供には全く向かない。一般的な意味での正義など何にも気にしない悪党が活躍する映画だから、教育委員会から苦情が出ていたかもしれない。でも、恋人と観るには最高の映画。

懐かしいスティーブ・マックイーンが主演。アリ・マッグローがヒロイン役で、「ある愛の詩」とは全く違った役柄を上手く演じていて好感を持った。

この作品は予算の数十倍くらいの興行収入があったらしいが、確かに完成度の高さを感じた。リアルでクール、それでいて主人公に同情してしまう。ウォルター・ヒルやサム・ペキンパーといった有名映画人が作った作品で、センスの良さを感じる。本当に映画らしい映画。

マックイーンの存在感も当然ながら素晴らしい。スターという言葉のイメージ通り。たぶん昔からあるクールなハードボイルド映画の演技と共通するスタイルで演じていたと思うが、彼独特の実在感が他の役者とは違った味を作品にもたらしている。彼以外の役者が演じることをイメージできないほど。

不良・・・この言葉自体が古いが、そのイメージが漂う。タフで、ルールに従順ではないが、独自の美意識に基づいて行動する。親しい人は大事にするが、敵にはハードボイルド的な反発。言葉のイメージは、映画が関与して作られたのかも。

今、この役を演じるに相応しい俳優は誰だろうか?アレック・ボールドウィンがリメイク版に出ていたらしいが、まさかとしか思えない。ブラッド・ピットやトム・クルーズ、レオ様などもクールな役柄をいろいろ演じているが、作品の味わいは損なわれるように思う。デンゼル・ワシントンなら何かやってくれそうだが、やはりマックイーンしかない。

原作があるらしい。でもラストの持って行きかたは脚本独自の結果になっているそうだ。もし老人を殺して逃げていたら、それはそれでリアルにはなるが、後味が悪くなる。仲良くサンキューと別れてもつまらない。どんなエピソードに持っていくか、よく考えてあった。

真の犯罪者だったら、逃避行を完成させるために老人は必ず殺さないといけない。お人好しの能天気な人物なら、そのまま和やかに別れ、そして墓穴を掘る。また、真の犯罪者か真にクールな男なら、自分の顔を知った子供やカバン泥棒は生かしてはおかない。どこまでクールにするのか、そこが‘不良’に対するイメージを決める。

ただの犯罪者は、おそらく自己防衛以外のことを考える余裕がないと想像。つまらない殺人、裏切りを犯し、我々からは理解できない被害妄想的な言い訳をする。優れた不良は、一定の抑制が効いた言動をとる。殺しは最小限、危険を怖れずに敵に立ち向かう、トラブルは避けようと努力はする。一定の支持者を得る傾向がある。そこが違いか?

ただし、実際には理想としてそうかなということ。実際には、ほとんどの不良が単なるイジメ屋や独りよがりの我がままな人物になってしまうのが現実ではないか?イメージとして、犯罪者達の理想が不良であっても、現実はただの犯罪者となると思う。警察側のイメージ戦略によって、そう思えるだけの場合もあるだろうが。

不良には度胸が必要だろう。敵が銃を持って構えている場所に赴き、生き残れる確率は高くない。特に最近の場合は銃の性能が凄いから、数十メートル離れた場所からでもスナイパーに待ち構えられたら、正確に撃ち抜かれてしまう。映画のようにはいかないから、逃げるしかないのが現実。不良になりきるのも難しい。

逃避行の間の二人が、互いの裏切りに対して納得がいかない状況がセリフでよく理解できた。二人の関係が一定していない点が非常に素晴らしい。すぐ喧嘩したり、仲直りしたり、単純なストーリーだったら、話が浅くなってしまう。あえて会話をせずに、不満げな表情で無言のまま互いを睨むシーンが何度かあった。あれは自然だった。セリフ合戦に溺れてリアルさを失うことを避けていたのだろう。

少し長たらしい印象を受けるシーンもあった。カバンを奪った男を追うシーンは、もう少し切り詰めてもよかったのではないか?メインの話ではなく、エピソードのひとつに過ぎないのだから。

 

 

 

2014年4月13日

現金に手を出すな(1954)

- 成果に手を出すな -

老境にさしかかったギャング。引退を前の大仕事に成功したが、新興ギャングがブツの横取りを計画。相棒を拉致される。人質を引渡し、金を奪い返せるのか?

・・・1954年製のギャング映画。有名な作品だが、初めて鑑賞。こいつは確かに傑作だと感じた。後の東映映画のような、人情とバイオレンスが入り混じった独特の雰囲気を持っている。主人公達の演技は渋すぎて、今の若い人には芝居くさいと思われるかもしれないが、雰囲気は良い。

DVDの画質は驚くほど良かった。リマスタリングの技術が進んでいるからだろう。高性能の画質調整をできるようになってる。作品も、よいものを作りたいと考えていることがよく判るような作り方。

子供には向かない作品だが、こんな作品はマセガキにはたまらない魅力を持つ。ギャング団に入会を希望するわけではなくても、秘め事めいた作戦を共にやった仲間は、友情~腐れ縁~迷惑な感情のような複雑な心理が発生する。それを裏切るクールさが良いか、もしくは情に流される方がよいかと問われると、普通なら情を選ぶ。子供ながらに、仲間を裏切るのは辛いのだ。

最近のヤクザ映画と違って、最初から殺し合いが始まるわけではなく、とぼけた風貌の相棒とレストランやバーのような店をうろつき、女達と付き合ったり会話を楽しんだり、あんまり仕事らしいことはせずに過ごす時間が長い。

実際のヨタ者がどんな風に時間を過ごしているのかは知らないのだが、想像するに大金をつかんだら、後は小まめに働く気はしないと思う。実際も始終だべりながら、店店を回ってあーでもない、こうでもないと話してるのでは?

その会話が実は、この作品では非常に役立っている。主人公らの結びつきや、互いの考え方などが理解できるように、古典的な手法で描かれているようで、基本に忠実に演劇をやっていることは間違いない。

仕事しろよ!と言いたくなるような主人公の生活ぶりだが、好感を持ってしまう。仲間を思っていることは分かるし、ただの殺し屋ではなく、尊敬らしきものを集めていること、ユーモアも分かる人物と理解できる。悪人かも知れないが、好人物であることは分かる。

今の映画だと、犯罪者の二人組みが登場すれば、片方は変人で考えの足りない人物か、もしくは完全な異常者であることが多い。タランティーノ監督の作品で、監督自身が演じるような極端な異常者が代表で、そうでないと客に受けないと思っているようだ。でも、本来はそうと限らない。この作品を観ると、そう思う。

それに、今のドラマではあっさり殺しをやってしまっていることが多い。無表情、無感動のまま、あっさり殺す、それがクールな現代風犯罪者と見るのが流行のようだ。仲間のために、あるいは復讐に燃えて・・・という表情は流行らない。逆に、古い映画のほうが新鮮に写る気がするのは、私だけだろうか?

ラスト近くの銃撃のシーンが興味深い。実際の戦いの場合、車を運転しながら銃を撃つのは相当難しく、滅茶苦茶な乱射戦になると思う。当時の車だと、おそらくクッションやハンドリングの性能に限界があったろうから、激しく揺れる車の中で、どこを撃っているのか分からないくらい、酷い戦いになっただろう。

私が敵のギャングなら、ダイナマイトを複数投げつけて、後は用意した鉄板か何かに隠れて逃げることを考えるだろうか?爆弾一発だけじゃ、生き残る相手が必ずいる。追って来られない状態にする必要があるから、もう少し工夫すると思う。この当時のギャングは勇敢だったのか?

4月9日の午後、テレビでは小保方研究員が記者会見をやっていた。注目を集めるSTAP細胞捏造の疑惑に対して、自説を主張するためだったらしい。真相は分からないが、明確に自分は実験に成功したと述べる態度は勇ましい。心労は相当なものだったろうが、少し前に辞任した渡辺党首よりも立派な態度だったと思う。

もし彼女の言う通りなら、彼女を陥れる意志が誰かに働き、個人的にか組織的にか分からないが、彼女の成果を破壊し、名誉を失墜させ、何かを得るか何かを守ろうと、さながら敵のギャングらのごとく、周到な準備をして行動していることになる。ネット上での攻撃は下品だが、同僚らは雑誌に手記まで発表して自分の擁護に走っているようだ。

事実がどうかはともかく、潔くない。この作品の場合は、主人公のために命を張ってくれたギャングがいた。同僚らはギャングにも劣る態度だ。もちろん女性だから、若いからと擁護する必要はない。決着が着くまで、自分は自分の責任の取り方を考え、覚悟を決めておくだけで良い。それまでは自分に与えられた仕事をこなし、結果は甘んじて受け入れるべき。

共著とは、自分の著名に責任を持つことである。もし間違いなら、吟味しなかった責任はある。騙されたとしても、責任は全うしないといけない。事の真相は、再現実験が成功するか否かにかかっている。他の施設が成果を妬む、または横取りしようと画策しているだけの可能性だってあるのだから。手記を発表して逃げようなんて、人としても研究者としても許されない態度。

科学者なら、批判する場合は実験を試みて、不可能だと確認することが望ましい。何も試みずに批判した後、もし小保方氏が正しかったと分かれば、責任をとって引退する覚悟は必要。理研の上層部や、山梨に移った研究者なども、総ざらえで責任をとるべき。

会見は断片しか見なかったが、疑問点は多かった。実験する場合は、記憶違いや見逃しを避けるため、私がやっていたようなマイナーな実験でも、年間で数冊はノートが必要になる。何時に何を入れた、何回転で沈殿させた、何時間培養した、何分遅れた、何に失敗したなど書くだけでも直ぐ数ページは要る。4-5冊しかないとは驚く。実験の態度に問題があったとは言える。

成功したのが200回とは驚いた。200回も成功を確かめる方法とは何だろうか?そこを聞かないといけないのだが、記者達は科学実験の経験がなかったのか?STAP細胞であるという確認は、おそらく複数の蛋白を検出し、分化を証明しないといけないが、それには相当な時間がかかる。200回も実施できるはずはない。

したがって、何か証明方法を勘違いして成功を誤認したか、あるいは誇張したり作為的に述べた可能性が高いことになる。幼弱な細胞を作製したのが200回であっても、その総てがSTAP細胞とは限らない。‘成功’という言葉を使う表現の正確さに問題があった。~を検出できた、~が発現した、成功と思えるのが200回といった表現のほうが正確では?

ただし、あんな吊るし上げ状態で正確な表現は期待しにくいので、会見の内容でもって事の是非を論じることは適切ではない。再現性に期待して、経過を見るしかない。その間に、ギャング団ならぬ某国のベンチャー企業が、STAP技術の特許をがっぽり取得していたりして・・・成果を横取りするな!と言っても遅い、なんてことはないだろうか。

 

2013年1月25日

ケープ・フィアー(1991)

- スペクタクル? -

ある弁護士のもとに、かって弁護を担当した人物がやってきた。彼は獄中で法律を勉強し、自分が充分な弁護を受けていなかったと考えたらしい。弁護士に対する男の復讐が始まる・・・

テーマは何だったんだろうか?究極のサイコキラーの表現?ヒチコック・スタイルの踏襲? 法律家のモラルへの警鐘?とにかく、復讐する男を演じたロバート・デ・ニーロには鬼気迫る迫力があった。作品の狙いや意味はよく解らないのだが・・・

監督がスコセッシとなると、「タクシー・ドライバー」と同じコンビ.。当時から15年も経っているのに、デ・ニーロは充分に若く、またまた役のためにトレーニングをしたんだろうと想像。贅肉がない体を冒頭で見せていた。昨今はさすがに贅肉だらけになってしまったので、役柄にも影響しているように思う。

裸のシーンは、効果的な映像だったのだろうか?いかにトレーニングしようとも、大男に棒で殴られたら簡単に反撃できるはずはない。贅肉も打撃に対する緩衝材になるから、殴られ強いのは太った人間のはずである。今回は知的な戦いに絞るべきではなかったろうか?襲おうと計画したけど、相手はちゃんと見張りを用意していて通報され、警察の邪魔が入って襲撃は最初から失敗し、弁護士先生が窮地に陥るといった流れが望ましい。

用意周到に戦うなら、デ・ニーロ氏はまずボディガードを雇うべきだったかもしれない。それなら、万が一の攻撃にも安全性が増す。彼はなぜそうしなかったのだろうか?いかに体力があっても、武器を持った複数の人間に襲われたら無事で済むはずがなく、そうすると復讐も果たせないはず。

彼が弁護士を体力まかせに襲ったりしなかったのは正解だった。暴力沙汰を起こせば、有利なのは弁護士側のほう。知的に、法的に葬る陰険な戦いが効果的である。もちろん、相手が法律家なんで、簡単にはいかないだろうが。

ラストはスペクタクル映画風であったが、スタジオで撮影していることが感じられる映像で、少し興ざめしてしまった。大変な風雨の表現を充分にやっていても、それまでの流れとは趣きが違うせいか、嘘っぽく感じられた。これは私だけだろうか?

この作品はリメイクだそうだが、脚本の権利上の問題がない限り、襲ってくる敵は暗がりのどこかに潜み、なかなか正体を現さず、しつこく恐怖を味わわせるだけで姿を見せないほうが良かった。サスペンスは必要だが、スペクタクルは必要ないはず。客は、最後のような映像を期待したとは思えない。

この作品での流れは、実際にも起こり得ることなんだろうか?弁護士が自分のクライアントの弁護の手を抜くなどは滅多にはない話だと思うのだが、凶悪犯の場合はないとも言い切れない。他者には解りにくい手段で、こっそり非積極的な弁護をするといった方法でならあるはず。実際に、法律に詳しくない素人の犯罪者は、不当に扱われたことがないとは言い切れない。だから、ありえる話。

刑務所で法律を学ぶことは、おそらくアメリカの刑務所なら可能ではないか?かなり自由が利くらしいし、時間はたっぷりあるはず。でも自分の捜査資料や裁判記録を自由に見ることもできるのかは知らない。内部の記録を開示させる場合には、おそらく日本の場合は担当した弁護士の許可がいるようなシステムではないか?本当は、弁護士の不正行為の可能性も考えて、例外なく開示させるべきとは思うがどうだろう?復讐が増えるので、無理だろうか?この点については解らない。

医者の場合、カルテの開示は、ほとんど義務である。患者の中には「治療に失敗したらお前を殺す。」と本当に言ってくる人間がいるが、こちらが一人の場合は非常に怖い。白衣姿のまま誰かに襲われたら、逃げるのも難しいだろう。経験はないのだが、復讐に来られたら戦えない。

知り合いの先生が襲われたことがあった。診察室でいきなり刃物を突きたてられて、意味も解らないまま刺されたそうだ。実際には、その犯人は別の先生を襲うつもりだったがいなかったので、その先生を代わりに襲ったという信じられない不運。私は今のところ、運が良いだけかもしれない。

マーチン・バルサム、ロバート・ミッチャム、グレゴリー・ペックらの大御所俳優が出演していた。もしかすると、この作品はリメイクなので、旧作と縁があったのかもしれない・・・と思ったら、旧作「恐怖の岬」に彼らは出演していたようだ。それぞれの役柄は知らないが。

 

 

2012年10月 9日

刑事マルティン・ベック(1976)

- ユーモアとリアルさ -

入院中の警官が惨殺された。捜査すると、この警官は違法捜査を繰り返した残忍な人物と判明。ベックを中心とした捜査が進む中、白昼の銃撃事件が発生する・・・

・・・・マルティン・ベック・シリーズは、いろんな形で映画化されており、「マシンガン・パニック」などのように外国映画になったものもあるので、そっちのほうでは知ってはいた。この作品はスウェ-デン国内の作品らしいが、存在を全く知らなかった。DVD版で鑑賞。

主演していたのはコメディアンだそうだが、確かにニヒルではなく、かっこよくもなく、体格の良すぎる老刑事、現場で犯人逮捕に向かうには不向きという印象の俳優。主役らしい役柄に合致していたようには思えない。

ただし、小説を読んでないのでよく判らない。もともとマルティン刑事は、着実だがスピード感に欠けた捜査をする人物で、部下が早くから容疑者に気づいて繰り返し言っているのに、なかなか気がつかない凡庸な面があるキャラクターなのかも知れない。それなら、スマートな切れ者タイプの役者は合わない。

ごく普通の警部が、警察内部の日常を演じながら捜査し、必ずしもよい結果を出さない、そんなヒネたストーリーは、意外性もあるので受けるのだろうか?そう言えば、倒れた警部の傷口から吹き出す血は、ドロドロしていて非常にリアルだった。良いところも悪いところも真に迫ることが、このシリーズのウリなのかも。

同僚を演じていた警官が良かった。さえない表情で、睡眠不足になりながら、しかもかなり嫌われながら着実に捜査を続け、主人公よりも早く真相に近づいている。二人の会話がおかしい。

捜査中なのに緊迫感に欠けたシーンが延々と続く。犯人を監視しながら、主婦がクッキーを勧めたり、ギャグに近い場面も多い。荒っぽい警官が悪役になるのかなと想像していたら、後半は急に銃撃戦が始まり、しかも結構リアルで、安っぽいアクション映画よりもずっと迫力があった。この急展開には驚いた。

ハリウッド映画とは違う流派に属しているようだ。ハリウッド製の最近の刑事ものは、カンフーアクションが得意な警官が無茶苦茶やって、犯人も一般人も皆殺しにして大爆発なども必ずある。70年代だって、バズーガなどを持ち出して敵をふっ飛ばしていた。この作品は、それに比べれば大人しく、全体的に静かだ。

静かだから、論理を展開する推理小説ものの話になるかと思えば、そうではない。独特のユーモアが漂う、ゆったりした展開。良いのか悪いのか判らない。

おそらく、子供達には受けないだろう。静か過ぎて退屈してしまうはず。恋人と観る映画としても、はたして盛り上がるかどうか、何か感じるものがあるかどうか、よく判らない。別な作り方があったような気がする。

ストックホルムの町か地方都市か、何となく田舎町のような飾り気のない街並みが独特。捜査で立ち寄る家も、ほとんど空き家かなと思えるほど古く、よくハリウッド映画で見るアメリカのスラム街とは違った雰囲気。

70年代のスウェーデンは、あんなものだったのだろうか?イメージとしては、絵葉書のような風景が拡がり、ホテルか家か判らないような瀟洒な邸宅が立ち並び、福祉が行き届いて皆が大人しく暮らしているような感じがするのだが、そう言えばノルウェーでは激しい銃乱射事件があった。福祉が進んでも、治安が安定するとは限らないようだ。

移民や景気問題など、どこでも共通の問題はあって、犯罪も、取り締まる側の行き過ぎも、実際にないはずはない。

警察の室内の調度品は、なんとなく質素。アメリカの警察はごった返していて、映画で写される部屋はたいてい広い。タバコとコーヒーの匂い、犯人達と警官の汗臭い臭いまで見えそうな印象。実際の警察署にも、国や地域による違いがあるのだろうか?

逮捕や救出に向かう手法が、素人くさい印象も受けた。

あの太った警部を、細い紐で吊り下げていたが、無理ではないかと思えた。ヒモが体に食い込みすぎて、それでかえって容態が悪化する可能性も高い。

立てこもり犯罪が起こったら、催涙弾を撃ちまくって動きを止め、遠距離からの狙撃に徹するのが基本ではないだろうか?犯人のそばに忍び寄るなら、同時に別な方向からも行かないと危ないと分かっているはず。

今のアメリカ軍の技術レベルなら、はるか彼方からレーザー誘導の小型ミサイルに催涙弾や閃光弾、粘着物質や強化ゴム弾など、なんでもお好みの物を積んで爆発させることもできるだろう。そばに寄って、わざわざ標的になるのはアホらしい。道具で圧倒したほうが良い。

おそらく現実には、数方向から狙撃するのが最も成功率が高そう。どこかからか犯人が見えるだろうし、下からの催涙弾か煙などでの燻し出しと組み合わせれば、犯人は出てくると期待できる。したがって、これからの犯人はガスマスクと酸素ボンベくらいは用意したほうがいいことになる。

ただし、警察側の計画が失敗し、要領を得ない具合は実にリアルだった。ハードボイルド刑事が格好つけてセリフを言うと、やはりリアルな方向からは外れる。実際の作戦も、あんなものかも知れない。

2012年2月20日

下山の思想(2011)

- 下山仲間ゲットだぜい! -

日本社会は戦後の高度成長やバブルを経て今は下り坂の時期にある。その時期にふさわしい考え方を持ち、誇りを持って進もうといった内容の話。五木寛之氏の随想集。映画にはなっていない。そのままでは映画になりえないだろう。

押し寄せる文献に埋もれてしまって滅多に普通の本を読まないが、天下のNHKが特集していたので読む気になった。一般教養がない自分だから、たまには随筆なんか良いのでは?と思った。本屋さんではメインの場所に置いてはなかったので、たぶんベストセラーとは言えないのでは?

五木氏の小説は映画が評判になった時期に読んだことがある。明治の文豪達とは作風が違い、物語の深みや意味合いで楽しむ教科書的文芸とは一線を画している印象。今風というか流行作家であり、時流から外れることはない印象。外見も気にしておられるのだろう、絵になる作家。

この随筆を読んで初めて知ったのだが、氏は引揚げ者で苦労して学び、社会人として放送業界から作家に転進するという、苦労人でありながら言わば作家界のスターで派手な存在。いっぽうで、流行作家でありながら仏教の歴史にも詳しい相当なインテリのようだ。

イメージとして軽薄な流行作家に近いものと誤解していたが、考え方は少なくとも出身の放送業界や、財界、政界の人間とは全く違うらしい。一種のポーズかも知れないが、フランスの学生運動についても、感じるものがあった様子。

そもそも悲劇を経験した慎重さが根底にある印象。根っから明るく底抜けに楽しむなどという軽さがない、そんな個性のような気がする。もともと多少は下り坂が好き、衰退期の感傷に意義を見出すタイプの人間ではないか?衰退することが大好きとまでは言えないだろうが、衰退期の過ごし方にすんなり納得できる、それだけの諦観を人生の初めから経験済みなのかも。

私も下山志向の人間。人生の最初の頃からいきなり下山をイメージしていた。氏ほど苦労したことはないが、それはもう、えっらく暗いのである。ああ下山仲間が見つかって嬉しい・・・・

私が変わっていたと思うのは、青年期に今日の国の状況を予想し、どうするべきかなどと、起きてもいない将来のことを気にした点である。大真面目に悩んでしまった。成長期に、しかも景気がよい時代に、このままでは未来はないと絶望するなど絶対におかしい。

個人がどんなに頑張っても、独りよがりの予想に皆が納得することがあろうはずがない。特に上り坂のときに、「この社会の命運は決まった・・・」ってな調子で絶望めいた予言をするのはアホである。将来を全く気にしないのもアホウだが、対処できないのに対処しようとする私も見事にアホウだ。

自分の周囲には優秀な人間が多かった。下り坂の社会のイメージを持っている人間など全くいない印象。人生に絶望した私は、わけのわからない変人にしか見えなかったはず。

明治維新を例にとると、その前にたくさんの志士達が、「このままではいかんぜよ。」と叫んでいたにも関わらず、大きな動きになるまでには随分と時間を経ているようだ。多数の人が”確かにいかん”という認識に立つまでには、相当なタイムラグがある。

「そのようなことを口走ると、お上の目に留まって打ち首か切腹じゃぞ!」と言われた人物が多数いたはず。「そうかも知れんが、今はお上に従おう。」という賢い人も多かったろう。徐々に認識が統一され、激しい主導権争いを経て多数派になれば、今度は意味が解らない人までなびいてくる。そして維新が始まったのでは?

認識の仕方は様々で、その人なりに分析して整理、情報が更新されるので、認識に至る経路や時間までは一様じゃない。おそらく本の中で氏が度々気にしていたように、被災者の心情を、自分が被災者だったらとして考える人間は、地域全体の下り坂を直ぐイメージしてしまう。しかし、自分のこととしてイメージしない人間は、当面は他人事として考える。それが自然だろう。

もちろん、他人事と考えても救助や援助はするし、より献身的だったりはするが、過度に情緒的になったりはせず、ちゃんと自分の仕事はこなした上で必要と思えることをやるかどうか、その姿勢が微妙に異なる。思いやりがないとか悪いわけではなく、たぶん冷静なのだ。

どうも上から目線になってしまうが、大きく外れてはいないはず。情緒豊かで、他人を深く思いやれるから偉いとは限らない。冷静に状況を観察し、自分の仕事をこなすのも大事なこと。

情動・・・脳の基底の部分、辺縁系のどこかで情報が直ちに深い処理がなされるか、繰り返しの情報でゆっくり始まるか、処理の仕方は様々あっても、日常生活では困らない。あんまり感情的にならないほうが、素早い処理には有利。

他人事ととるかどうかの違いが大事かどうかは解らない。でも、このような分析に対して「何を下らないことを・・・」といった感情を抱くなら、それは怖ろしい誤謬につながる。有能だが結果的に破滅を招く人は、この種の意味を理解できないようだ。自分の成功意欲などの情動のほうを優先してしまうから。

例えばの話が、めいっぱいの被災者援助をして、復興が一段落したら現地に進出して商店街を駆逐してしまう、巨大な資本の流れを作って、それに反する小さな経済の存在を事実上許さない、そんな行為は心情的には納得できない。

進出した企業や誘致した人は、おそらく「被災地に職場を提供した。」などと理由付けをするだろう。確かに何かの投資がないと、いつまでたっても復興できない。打算づくだろうと、進出してくるものは受け入れないと仕方ない。感傷に浸っていても物事は進まない。結局は害と効果を天秤にかけて、慎重に判断するしかない。

巨大公共事業や大型店舗の出店には、必ずそんな天秤が必要。天秤の使い方にはセンスが要る。そう言うと、私こそ正しい判断ができると言ってるように聞こえるだろうが、私は地域の首長になって判断できるほどの器ではない。人徳が足りないから、選ばれることもない。ただ、多くの人に支持されるから判断が正しい人とは限らない。

正しいことを言う人間は、ほとんどの場合嫌われる。正確であればあるほど、悪い部分もある。そんな話を好む人などいるわけない。出世した役人や政治家は、だから多くの場合は予測能力に欠けていても当然。

福島に原発を誘致したのも、似たような構図だったはず。資本を投入し、金を回さないと町は衰退するばかり、原発をどこかに作らないと電力不足で国の経済ももたない、危険性ばかり気にしていては何も解決できない。一定の事態を想定した上で、進出、資本投入こそ正しい道と判定したのだろう。結果は最悪だったが、まるきり間違った考え方ではない。

ただし、私なら福島のような形での誘致に賛成はできない。怖くなって反対に回るだろう。万が一の事故に対する対処法はそのうち考える、大きな津波は来ないと考える、外部電力が失われるとは考えない、そのような想定に基づくことには、とても耐えられない。役場勤めでも、電力会社勤務でも辞表を書くしかない。

今日なら、なるほど辞表も解るよねと感じる人もいるかもしれないが、ほんの数年前だったらバカと思われたはず。お前はバカか、辞めちゃダメよ、中に残って批判しなさい、理想論では喰っていけないわよ、アンタの辺縁系は狂ってない?ってな感じ。

貢献したはずが、とんでもない重荷を地域にもたらす、その失敗は頭の中で何を正当化し、何を拒否するかの判断の結果。自分を地域の当人達と一体に感じることができるか、心情をどの程度からませるか、そこに決定的な判断ミスの要因があったと思う。おそらくドライになりすぎたか、妙なところで感情的になりすぎるといった、誤謬の連鎖にはまったのでは?

国や県、町の役人や、電力会社、日立、東芝などは地域を発展させた。皆が優れた能力を持ち、暗い予想に捕らわれることなく、自分達の仕事をこなし、成功意欲を満たし、実際に貢献は多大であった。でも、与えた害も底知れぬものだった。

後だしジャンケンになってしまうが、でも私は30年以上前に原発事故の時の会社や政府のコメントを、話す表情や目線、口調から使う用語に至るまで予想していた。つまり、彼らにどんな感情が沸き、どのような言い訳になって出てくるか、どんな人間かの分析は、おそらく正しかったということだろう。

ただ、それに自信がなかった。何も証明する材料がなかったのだから。

五木氏の年代なら、私よりずっと早く正確に予想できたのではないのか?原発に限らず、経済や広く国民の意識の病態、それに衰退、つまり下山のことを。一般の人に受けないから、今まで書けなかっただけなのか?

とにかく、下山仲間の存在を感じられたことは嬉しいことだ。でも、今は破綻や危機を論じると売れる時代。実は氏といえど長らく成功神話を信じていたのかもしれないし、機を見て宗旨替えしただけかもしれない。ずっと共に歩き、導いてくれるかは解らない。

どう導くか・・・それをコメントしてはいけない。周囲の理解を超えることを言っても無駄で、危険。作家にとっては命取り。ちなみに仏教の教えに従うなんてことはありえない。仏教国は、欲と野心溢るる国に侵略されるのが運命である。国単位に限らず、村単位でも少人数のグループでも同じ。五木氏のポーズにすぎないのでは?

うがった見方だが、やや現実離れした理想論を述べたほうがカッコイイという、受け狙いのような気がする。本に書く場合は、そうでなきゃ仕方ない。売れなければ、書く意味もなくなる。

下山と言っても、あくまでイメージの世界の話で、一本調子に降りるわけではないはず。かなりの昇りもある。楽しいこともあるだろう。そう悲しむことではない。大勢の人間の判断ミスの結果、すう勢としては下り坂になっているが、個人では大成功を上げる人もいるだろう。

2011年7月26日

ゲゲゲの女房(2010)

- 差別化に感心 - 

ゲゲゲの女房は水木しげる夫人の回想録を原作にしていること、朝の連続ドラマでやっていたことは知っていたが、テレビでは見なかった。貧乏を描いていたらしいが、テレビの画面で朝からなまなましい話はやりにくいのではないかと思っていた。

たぶん、ユーモアを交えて希望的な描き方をしたのでは?健康的なヒロインをわざわざ選んであった。

この作品では役者は全く違っていたらしい。ヒロインは、私の感覚では宮沢りえが最適のような気がした。初めから不幸の臭いがすることと、そのなかで華やかな部分が残るイメージがあるから。

いっぽう、夫役の宮藤は非常に雰囲気が出ていた。のん気そうな笑い声がいい。

監督は、もともとは役者をやっていた人物らしいが、個人的には演出の意図が解りにくく、ロケーションの選択にも疑問あり、納得というわけにはいかなかった。風景に新しい建物が写っていて、時代考証からもやや問題が感じられるなど、細かい点が気になった。予算が足りなかったのか?

送電線の鉄塔は当時もあったとは思うが、画面に登場させる必要はないはずだし、雰囲気にはそぐわない。実際よりも田舎に見せて描いたほうがいいはず。ドヤ街のような、混沌とした汚い街並みを探すべきではなかったか?

近所のうるさいおばさん連中、胡散臭い人物達を次々と登場させる手もあったはず。同居人や編集者達だけでは生活感が不足する。尻切れトンボの終わり方だったように感じたが、もっと暖かい雰囲気で終わることもできたのでは?

ドラマの中で妖怪達やマンガの画像が登場していたが、使われ方に疑問があった。もっと異形を際立たせるか、人間が全く認識できていない様子を強調しないと、解らない人にはさっぱり解らないままになると思った。

妖怪は、すべてマンガにしても良かったのでは?妖怪達が踊るシーンは学芸会レベル。金を払って観るようなものにはなっていなかったと思う。出来上がりをイメージして企画すべきだった。

切り口を大きく変えて、テレビとは全く違った脚本を狙うべきだったと思う。テレビと同じ内容なら、ヒットは期待できない。いっそマンガが中心で、鬼太郎達の中に実写の人間のドラマが挿入されるようなシュールな話にしても良かったのでは?どうせ大ヒットしないなら、印象に残る外し方のほうが良い。

主人公ふたりのドラマに文句はない。テレビ版よりもリアルではなかったかと想像する。ヒロインの吹石は今までお嬢様役などが多くて印象が薄かったが、今回の演技には役者魂のようなものを感じた。

水木夫婦は昭和36年に結婚し、売れ出したのは4~5年後らしく、その間の貧乏ぶりは激しかったようだ。当時なら貧乏人は珍しくはなかったものの、40歳を過ぎての下積み生活は耐えがたかったのでは?

当時、貸しマンガ屋は既に衰退期に入ってたらしいが、私が育ったのは田舎だったんで、貸し漫画屋の体験はない。そもそも本屋がなかった。雑誌を売る文房具屋が一軒あっただけ。

一冊いくらで借りていたのか?10~50円くらい?今ならDVDも旧作100円が普通。ついに常時50円にする店も出てきた。マンガに金を出そうとするなら、古本屋で買って、直ぐにまた売ったほうが簡単。

はたして当時、作者にはいかほどの報酬があったのだろうか?マンガ雑誌に読者を奪われたら、貸しマンガ業界は成立しえない。子供のお小遣いの金額が、貸しマンガ業界の命運を握っていた。

興味を持って「ビビビの貧乏時代」という水木氏のマンガを読んでみたが、相変わらずクセのある絵で、テンポなど気にしていない作風。慣れないと読むのが嫌になるような作品だった。子供の頃もとうとう慣れなくて、鬼太郎ものはよほど暇でないかぎり読まなかった。

90年代ころは、鬼太郎のブームは下火だったように思う。長男はほとんど興味を示さなかった。いつの頃からか再アニメ化されて、今や我が家の末っ子が大ファンでいつもビデオを借りたがる。アニメの雰囲気も随分と変わって、鬼太郎も多少かっこよくなっている。

他に妖怪ものを専門にする作者が大勢いたら大変だったろう。いたはずだが、差別化に成功している。

手塚治虫の「どろろ」や、藤子不二夫の「怪物君」などのほうが一時的には人気があったが、息の長さからは鬼太郎に軍配が上がる。気味の悪い作風を守ったからか?作者の寿命も関係しているのかも。

目玉おやじ、ねずみ男のキャラクターが素晴らしかった。特にずるくて憎めないねずみ男には感服する。あれは海外でも通用するだろう。

水木氏は、とことんこだわって差別化に成功したが、その途中では一般受けする子供マンガへの道などの選択肢もあったはず。結果的には転向しなくて良かったようだが、極貧の中で子供を抱えた状態で、なかなかできることではない。

貸し本用漫画家の多くは家業に見切りをつけて、会社員などになったのではないか?今、老健施設などを回診すると、いろんな仕事を転々とした経歴が書かれたカルテを見る事がある。「へえー、この方が昔は〇×をやってたんですか!」と驚くが、戦争や様々なブーム、経済的な状況の変化の中では、当然。

思い出しても、写真現像屋、ビデオレンタル屋、ディスコ、出版業、駄菓子屋、ボーリング場、スキー場、アイススケート場、映画館など、景気や営業形態が激変している。新しい業種に飛びついて成功した人もいれば、脱落~吸収合併、撤退なども多い。

ディスコで黒服をやっていた男など、今はどうしているのか?当時は気取っていたが・・・映画館も、今やマルチスクリーンでないと生き残れない。映画が好きで技師になった人も多かったはずだが、商売替えが必要になったろう。好きだから選んだ道とはいっても、仕事が全くなければ如何ともしがたい。

業種を変える際には勇気が要る。医学部→勤務医→小規模開業という生ぬるいルートしか知らない私には想像もできない想いがあったろう。

ヒロインは大柄の女性らしい。患者さんで高齢者のわりに大柄の女性を何人か見るが、穏やかな人が多い気がする。大柄で気性も激しいと結婚できない。実家に帰っても居場所はない。耐えるしかないから耐えられたのかも知れない。

失礼ながら水木氏も、他に乗り換える器用さ、勇気がなかっただけかもしれない。あの画力では、ヒーロー物を描いても無理がある。石森章太郎にはなれない。まあ、結果=終わり良ければ全て良し。

 

 

2010年12月24日

ケンタッキー・フライド・ムービー(1977)

- 健全? -

ジョン・ランディス監督によるナンセンス映画。コマーシャルの断片のようなシーンと、テレビ番組、カンフー映画のパロディなど、色んな内容がバラバラに挿入されている。

本当にナンセンスなんだが、どれも役者達は真剣に演じていて面白い。おそらくテレビタレント達が演じていて、唯一の例外はドナルド・サザーランドか?ポルノ映画の女優かと思える女性達は、おしげもなくオッパイをさらけだしているが、色っぽいシーンではなく、ギャグばっかり。

ギャグのセンスは多少古い。でも、比較的健全ではないか?エロ・グロはちょっと・・・という、本質的に大人しい性格が見える。ナンセンスコメディで首がちょん切られるような激しさは基本にはない。あの時代は人を傷つけるのは御法度という、ラブ&ピースの時代の名残りがあったんで、今のギャグのような攻撃性がないようだ。

この映画の企画がどのように進んだのか、映画紹介雑誌で読んだ記憶があるが、よく覚えていない。ウィキペディアによればランディス監督は最初から企画に関与したわけではなく、監督を依頼されただけだったそうだが、我々が監督の存在を知ったのは、この映画によってだった。

学生達にアイディアを募ってまとめたような印象だが、劇団を作っていたアングラ役者達の企画らしい。この連中は、その後もナンセンス、パロディ映画を作り続けていて、どれも安定したヒットをしているから、筋金入りのパロディ映画野郎と言える・・・

とにかく、低予算で結構なヒット作になって評判になった。学生時代は結局観れなかったが、名前だけは知っていた。日本のテレビ番組にも多大な影響があったような気がする。

Photo

理解不能な作り方をしている。一番解らないのは、燃えよドラゴンのパロディ映画部分が非常に長く、かなりの部分を占めているのだが、それが本当に唐突に始まり、唐突に終わることだ。構成、バランスなどクソッ食らえと言わんばかり。そこが良いのかも知れないが・・・

鉄板~シリーズが、この作品の後継作に相当するようだが、あれも色んな映画テレビなどのパロディを適当につないで作っている。全体の流れを無視しないと気がすまないのか?難しい構成を検討すること自体がナンセンスと思っているのかも。

古いコメディでは、盛り上がるシーンのために段取りというか、手順を踏んで徐々におかしくなるような構成をしていた。バラバラのままで映画にするというのは、ある意味では斬新。

ポルノまがいのシーンも、何となく健康的でいやらしくないので、子供も観れなくもないような印象。ただし、あんまり積極的に見てほしくはない。やはり、独身の男女、カップルが観るべき映画だ。家族でこれを楽しむ光景など想像したくない。

2010年6月13日

劇場版XXX HOLiC 真夏ノ夜ノ夢(2005)

- 好き嫌いがあるかも -

主人公は特異な体質で、モノノケ達が好んでまとわり付く傾向がある。彼は霊能力者の女性と共に、ある屋敷に招待される。そこでは様々なコレクター達が集まり、コレクションの完成のために、屋敷で行われるオークションを待つが・・・

・・・衛星劇場で鑑賞。原作~マンガなどは全く知らないが、途中のギャグや戦いのシーンが面白くて印象に残った。

主人公のキャラクターも結構おかしい。彼に同行する無表情な青年も、主人公を召使のごとく扱う女霊媒師もサディスティックで怪しい魅力がある。昔のパタリロ的な感じで、シュールで気持ち悪い中に、ギャグを織り込んだ独特の世界を作っているようだ。気味の悪い中でのギャグは、変におかしさが増幅される効果がある。

どこかで見たことがあるような雰囲気。カードキャプターさくらの原作者達が作っているからか。

娘といっしょにカードキャプターのシリーズは結構見た。魔物が登場する時の映像は、今回の作品とも多少は似ていたが、本作はCGをかなり導入してあり、それが建物の中の整った映像表現には効果的だった。

この種のCGは、ここ十年くらいで日本のアニメに頻繁に使われるようになってきた。プロダクションに外注しているのだろう。視線が機械的に変化するので最初は新鮮な感じを受けたが、慣れてしまうと味気ないようにも思える。好き嫌いの問題かもしれないが・・・

妙なバケモノたちが主人公を振り回して崖から落とそうとするシーンには笑ってしまった。漫才のキャラクターを再現した内容なので、たぶん作者たちは漫才やコントが好きなのだろう。

この作品は子供には受けるかもしれない。家族で観ても良いのでは?ただし、理由は解らないが我が家の子供達に限れば、あんまり面白いとは感じなかったようだ。オカルト的な雰囲気が嫌いだったからか?漫才に詳しくないからか?

パタリロやカードキャプターさくらが好きな人には確実に受ける。オカルトもの、占いなどが好きな人もいけるかも。嫌いな人はいたく失望するような、そんな作風。

完成度は高いと思うが・・・

2010年3月24日

消されたヘッドライン(2009)

- なかなかの出来栄え -

新聞記者が主人公。友人の議員に疑惑が起こる。女性スタッフと不倫関係にあったらしい。議員と奥さんは激しいスキャンダルに参ってしまう。しかし、別な殺人事件を探っていた主人公は、不倫疑惑と殺人事件の意外な接点に気がつく。思いがけない大きな陰謀が隠されていることを証明すべく、主人公達は活動するが、身の危険が迫ってきた・・・

・・・まずベン・アフレックの演技に好感を持った。微妙な表情しか解らないのだが、何かを隠してる人物の感情の変化を特に難しくないように演じていたのではないかと思う。主演のラッセル・クロウは迫力さえあれば良いと思うが、この議員の役割は大事だった。ある程度よい男でないと愛人を作ることが不自然になるし、正義感に燃えていることや、苦しい立場などを巧く表現できていた。

もうひとり、新米の女性記者を演じたレイチェル・マクアダムスも重要だった。こちらも真摯な態度で仕事に打ち込んでいることが非常に解りやすかった。日本の加藤ローサとよく似た清潔感ある表情だった。でも問題を感じた。それは作品のテーマやコンセプトによるもので、彼女の演技力の問題ではないのだが。

作品の主題は巨大企業が倫理に反する行為をやることへの告発であって欲しい。その場合は主人公は苦しみ、ひどい立場になりながらも最後には勝利することが望ましい。同僚である女性記者は、主人公に協力しながら、時には裏切り、反発することが望ましい。場合によっては死ぬことも効果的だ。

自分の野心、純粋な仕事への態度、そのようなものは必要であり、巨悪に対して弱いことも必要だった。しかし、この女性記者の立場がどれくらいの重要かによって、作品のヒットの具合が変わってくる。もし重要に扱い、例えば主人公とロマンスでも芽生えるような関係だったら、もっとスターでなければならなかった。例えばスカーレット・ヨハンソンのような女優である。それなら作品はもっとヒットする。

今回のマクアダムスは巧く演じていたし適役だったが、好感を持たれても大ヒットにはつながらないキャストだったと思う。演技力より、キャラクターが大事ではなかったか?もっと色気がある女優で、ラブシーンくらいは見せて欲しいと個人的に感じた。

作品自体もテーマを絞るべきだったと思う。巨悪が汚い手段で主人公を窮地に追いやろうと画策することや、敵の親玉などが登場して、解りやすい対立の構図が浮かぶほうが良かった。複雑にストーリーを組んだことで、かえって戦いがぼやけてしまったかもしれない。

演出は巧みで、緊張感を維持できた。この種のサスペンスは嘘くさくて過剰な演出が気になることが多いが、この作品の場合は適切な感じだった。展開の切り替わりの速さが的確な感じがした。なかなかの出来栄えだと思う。

陳腐な趣向だが、もっと主人公が苦しみ、人間的弱みを見せるべきではなかったか?そうするとメロドラマ風になってしまう危険性も高いが、ヒットにはつながる。それにタイトルも文学的なセンスが感じられたほうがいいと思う。原作はイギリスのテレビ番組だったそうだが、そこではどのように描かれていたのか興味を持った。

 

2009年8月10日

劇場版ポケットモンスター・ダイヤモンド&パール アルセウス 超克の時空へ(2009)

- シリーズ最高傑作 -

サトシは今年も学校に行かず、ポケモンと旅をする少年。いったいいつになったら勉強を始めるつもりだ! 夏休みだからといって油断してはいけない。

とにかく、彼らがある村の遺跡を旅していた時、突然にわかに一天かき曇り、ポケモンというより怪獣と言ったほうがいい連中が戦いを始めた。原因は、アルセウスというポケモンの親玉が復活して異次元空間同士がぶつかったためらしい。復活したアルセウスには他のポケモンでは歯が立たない。アルセウスは自分の力を人間に貸してあげたのに返さないことを怒っているらしい。彼らは時を司るポケモンの力で過去のいきさつを探り、事態の収拾を図ろうとする・・・・

・・・ポケモン映画を見始めてはや10年以上。

ポケモンシリーズは見ていて辛い。意味が(わから)ない、興味がわかない、子供の世話のためだけのために大枚払って苦行に耐えなければならないのは、修行僧のような気分になる。・・・のが通常だった。でも、この作品は結構面白かった。

裏切り、陰謀、伝説の要素があって、昔どこかで見た怪獣映画を思い出させるような、懐かしさを感じた。こんな怪獣映画はなかったか?時をさかのぼって、積年の恨みを解消する冒険。これはタイムトラベルの冒険と、歴史絵巻や叙事詩的なファンタジーと、怪獣退治のアクションとを織り込んだ壮大な物語になる条件を満たしているし、実際によくできたストーリーだった。

悪役がちょっと頼りなかったことや、恋愛の要素がなかったのは勿体なかったかもしれない。でも、今まででは最高の出来ではなかったかと思う。

この作品は子供には向く。色気がついた人間には向かない。いつものポケモン映画は小学生低学年までが対象だが、この作品は高学年でも面白いかも。まさか恋人といっしょにこの作品を見ようというやつはいないと思うが、意外に面白く感じるかも知れない。

その他のカテゴリー

| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |