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カテゴリー「け」の5件の記事

2018年11月 2日

ゲティ家の身代金(2017)

All_the_money_in_the_world                      

- Tristar -                             


富豪ポール・ゲッティの孫が誘拐された。犯人達は巨額の身代金を要求するが、ゲッティは支払いを拒否する。困窮した母親は、賭けに出る・・・DVDで鑑賞。ストーリーは実話に基づいているという。 


富豪を演じていたのはクリストファー・プラマー。息の長い俳優で、悪役もよくやっている。適役だった。でも、この役は当初はケヴィン・スペイシーが演じるはずだったらしい。確かにスペイシーなら、憎たらしいが魅力もある悪役を演じてくれそうな気はする。     


母親役のミシェル・ウイリアムスは主演なのに、残念ながら悪役のプラマーが目立つ作品なので、非常に印象に残るとは感じなかった。作品の性質上、仕方ないことだ。でも、好演だったと思う。ラストで立場が変わってタフな剛腕ぶりでも見せると、もっと面白くなったかもしれないが・・・。  


この作品の中心は、当然ながら富豪のゲッティ氏になる。彼が身代金を渋ったことで、話として非常に面白くなった。誘拐された当人の孫は、結局はちゃんと育たずに自殺に近い死に方であったそうだから、祖父ゲッティ氏の判断は間違っていなかった可能性もある。もし孫氏が生き方を変えて、財閥を仕切るほどの人物になれていたら、祖父は永遠に糾弾される運命だったはずだが、少なくとも仕事をこなすようにはならなかったらしい。            


この事件を見ると、誘拐事件というのは本当に考え方が難しいと、あらためて思う。孫のひとりに身代金を払ったら、他の孫たちが危険な立場になるというのは正論ではある。ただし、だから誘拐された孫に金を払わず、そのまま殺させて良いとは言えない。孫の命は救うべきである。  


いっぽうで肝心の孫氏がちゃんとした生活をしておらず、一族のお荷物に近い存在で、誘拐されたのも自業自得と言える状況だったら、どう考えるべきか? 特に自分で狂言誘拐の話をするくらいの人物に、多額の金を費やして良いものか? その支払いによって、他の孫たちを危険にさらしてよいのか? その点は簡単には答えられない。  


また、祖父が身代金に困るような金銭的状態でない点も、まず考えないといけない。はした金に近い金のことで、けちる意味はほとんどないはずだ。金に対する考え方が、一般人とは全く違うようだが、それが褒められたものだったのか、おおいに疑問に感じた。だから劇場主は金持ちになれないのだろう。    


選択肢がいろいろあった中で、ゲッティ家の面々がとった道は、どう評価してよいのか分からないが、興味をそそる話であったことは間違いない。  







2018年7月 9日

ケインとアベル(1979)

Photo

- ジェフリー・アーチャー著 -      

 

ポーランドで孤児として生まれたアベルと、ケイン家の跡取りとして銀行家の家系に生まれたケイン。彼らは成長し、やがて対決する運命にあった・・・新潮文庫の文庫本を購入。   


なぜ買ったのかは覚えていないが、作者のアーチャー氏の名前は有名だし、小説らしい小説を読みたかった関係で、たまたま見かけた本を直ぐ買いたくなったのだろう。カズオ・イシグロの作品を読んだ後、文学にやっと目覚めた。それまでは小説を楽しむという感覚がなかったのだが、ここにきて変わっている。    


この作品は映画にはなっていないらしいが、テレビドラマ化はされているそうだ。ただし観たことはない。たしかに大型のTVシリーズとして作るには、良い材料になりそうに思う。様々な人物たちの愛憎が渦巻くからだ。 ポーランドの分割やロシア革命など、激しく動いた時代を舞台にした点もドラマ的だった。   


カインとアベルではなく、ケインとアベルとしたのは、一種のシャレなのかも知れない。対立や不幸な結末を予想させるから、設定には便利と考えたのだろう。彼らが兄弟だったわけではないし、聖書のような殺し合いにまでは発展していなかった。ケインに神様からの印が付いたりするわけでもない。でも、少しそれを連想させるためだろうか、軽い奇形は生まれつきあり、カインの神の刻印を意識していたに違いない。抜き差しならぬ対立は、物語を面白くしていた。いかにもテレビに向く設定だった。    


でも、小説を読んで思ったのだが、アベルとケインの個性は必ずしも際立って感じられるとは言えないようだ。二人とも似たような個性の、有能な事業家、銀行家という印象。たとえばケインは冷徹、非人間的な個性かというと、極めて人間的な面も多い。それなりに悲しい経験も続いているので、裕福なお坊ちゃんではない。アベルのほうは明らかに過酷な運命をたどっているが、途中から急に幸運に恵まれて、少々出来過ぎの人生のようにも感じる。   


ケインが特に執念深いとか、手段を選ばないとかいった強烈さも感じられない。普通、思いがけない成功をおさめた人間は寛大になる傾向がある。ありえないほど出世したケインのような人物が、恩人の敵とはいえ、アベルの破滅を狙うだろうか? 設定を変えたほうが良かっただろう。    


アベルが復讐を心に決めるまでの経緯は、解説はされていたものの、唐突にそうなったように感じた。何度かの経緯が必要だったのだろう。翻訳された文章のせいかもしれないが、ストーリーだけをとっても、必然性が表現できていたとは感じない。本格小説ならば、もっと違った表現があったのではないかと思う。    


必然性を感じさせるためには、おそらくアベルを認めたテキサスの富豪は、アベルがまだ社会の底辺にいる頃に出合い、家族ぐるみで彼を支援してくれた大恩人であり、娘とも良い仲でなければならない。結婚を前提にしていたのが銀行のせいで破談になり、恩人家族は全員破滅といった極端な設定が必要だと思う。殺意を覚えるほどの対立が、この作品では設定しきれていなかったと思う。    


米国の銀行の頭取は、遺言などで決まるものなのだろうか? 資産家一族が代々銀行を運営するという話は、欧米では珍しくなくても日本では考えにくい。日本でも取締役会に親子で参加する家族はいるだろうが、遺言に従って急に外部の人間を連れて来ても、役員の了承を得るなどまずありえないだろう。いかな欧米の話とは言え、劇的な展開にしようとして無理をしたのではないか? アーチャー氏は有名作家だが、本当の小説家ではなく政治家、事業家が本業だと思う。特異な経験で本を売ったが、細かい設定に関しては、本職ではない印象を受けた。




2014年6月24日

ゲッタウェイ(1972)

Warnerbros

- 不良について -

刑務所から仮釈放を得るためにギャングの計画に乗った主人公。しかし、計画は最初から仕組まれたもので、仲間から殺される段取りだった。主人公は逃避行を強いられる・・・

・・・DVDで鑑賞。学生時代、非常に有名になった作品だが、当時は観れなかった。ゲッタウェイとは、そのまま逃避行の意味らしい。オールロケらしき映像で、リアルな雰囲気がよく出ていた。スタジオ撮影をどこかで使っていたら、噓くさい雰囲気になっていたかも知れない。

この作品は出来が良いんだが、家族で楽しむ映画ではないと思う。小さな子供には全く向かない。一般的な意味での正義など何にも気にしない悪党が活躍する映画だから、教育委員会から苦情が出ていたかもしれない。でも、恋人と観るには最高の映画。

懐かしいスティーブ・マックイーンが主演。アリ・マッグローがヒロイン役で、「ある愛の詩」とは全く違った役柄を上手く演じていて好感を持った。

この作品は予算の数十倍くらいの興行収入があったらしいが、確かに完成度の高さを感じた。リアルでクール、それでいて主人公に同情してしまう。ウォルター・ヒルやサム・ペキンパーといった有名映画人が作った作品で、センスの良さを感じる。本当に映画らしい映画。

マックイーンの存在感も当然ながら素晴らしい。スターという言葉のイメージ通り。たぶん昔からあるクールなハードボイルド映画の演技と共通するスタイルで演じていたと思うが、彼独特の実在感が他の役者とは違った味を作品にもたらしている。彼以外の役者が演じることをイメージできないほど。

不良・・・この言葉自体が古いが、そのイメージが漂う。タフで、ルールに従順ではないが、独自の美意識に基づいて行動する。親しい人は大事にするが、敵にはハードボイルド的な反発。言葉のイメージは、映画が関与して作られたのかも。

今、この役を演じるに相応しい俳優は誰だろうか?アレック・ボールドウィンがリメイク版に出ていたらしいが、まさかとしか思えない。ブラッド・ピットやトム・クルーズ、レオ様などもクールな役柄をいろいろ演じているが、作品の味わいは損なわれるように思う。デンゼル・ワシントンなら何かやってくれそうだが、やはりマックイーンしかない。

原作があるらしい。でもラストの持って行きかたは脚本独自の結果になっているそうだ。もし老人を殺して逃げていたら、それはそれでリアルにはなるが、後味が悪くなる。仲良くサンキューと別れてもつまらない。どんなエピソードに持っていくか、よく考えてあった。

真の犯罪者だったら、逃避行を完成させるために老人は必ず殺さないといけない。お人好しの能天気な人物なら、そのまま和やかに別れ、そして墓穴を掘る。また、真の犯罪者か真にクールな男なら、自分の顔を知った子供やカバン泥棒は生かしてはおかない。どこまでクールにするのか、そこが‘不良’に対するイメージを決める。

ただの犯罪者は、おそらく自己防衛以外のことを考える余裕がないと想像。つまらない殺人、裏切りを犯し、我々からは理解できない被害妄想的な言い訳をする。優れた不良は、一定の抑制が効いた言動をとる。殺しは最小限、危険を怖れずに敵に立ち向かう、トラブルは避けようと努力はする。一定の支持者を得る傾向がある。そこが違いか?

ただし、実際には理想としてそうかなということ。実際には、ほとんどの不良が単なるイジメ屋や独りよがりの我がままな人物になってしまうのが現実ではないか?イメージとして、犯罪者達の理想が不良であっても、現実はただの犯罪者となると思う。警察側のイメージ戦略によって、そう思えるだけの場合もあるだろうが。

不良には度胸が必要だろう。敵が銃を持って構えている場所に赴き、生き残れる確率は高くない。特に最近の場合は銃の性能が凄いから、数十メートル離れた場所からでもスナイパーに待ち構えられたら、正確に撃ち抜かれてしまう。映画のようにはいかないから、逃げるしかないのが現実。不良になりきるのも難しい。

逃避行の間の二人が、互いの裏切りに対して納得がいかない状況がセリフでよく理解できた。二人の関係が一定していない点が非常に素晴らしい。すぐ喧嘩したり、仲直りしたり、単純なストーリーだったら、話が浅くなってしまう。あえて会話をせずに、不満げな表情で無言のまま互いを睨むシーンが何度かあった。あれは自然だった。セリフ合戦に溺れてリアルさを失うことを避けていたのだろう。

少し長たらしい印象を受けるシーンもあった。カバンを奪った男を追うシーンは、もう少し切り詰めてもよかったのではないか?メインの話ではなく、エピソードのひとつに過ぎないのだから。

 

 

 

2014年4月13日

現金に手を出すな(1954)

- 成果に手を出すな -

老境にさしかかったギャング。引退を前の大仕事に成功したが、新興ギャングがブツの横取りを計画。相棒を拉致される。人質を引渡し、金を奪い返せるのか?

・・・1954年製のギャング映画。有名な作品だが、初めて鑑賞。こいつは確かに傑作だと感じた。後の東映映画のような、人情とバイオレンスが入り混じった独特の雰囲気を持っている。主人公達の演技は渋すぎて、今の若い人には芝居くさいと思われるかもしれないが、雰囲気は良い。

DVDの画質は驚くほど良かった。リマスタリングの技術が進んでいるからだろう。高性能の画質調整をできるようになってる。作品も、よいものを作りたいと考えていることがよく判るような作り方。

子供には向かない作品だが、こんな作品はマセガキにはたまらない魅力を持つ。ギャング団に入会を希望するわけではなくても、秘め事めいた作戦を共にやった仲間は、友情~腐れ縁~迷惑な感情のような複雑な心理が発生する。それを裏切るクールさが良いか、もしくは情に流される方がよいかと問われると、普通なら情を選ぶ。子供ながらに、仲間を裏切るのは辛いのだ。

最近のヤクザ映画と違って、最初から殺し合いが始まるわけではなく、とぼけた風貌の相棒とレストランやバーのような店をうろつき、女達と付き合ったり会話を楽しんだり、あんまり仕事らしいことはせずに過ごす時間が長い。

実際のヨタ者がどんな風に時間を過ごしているのかは知らないのだが、想像するに大金をつかんだら、後は小まめに働く気はしないと思う。実際も始終だべりながら、店店を回ってあーでもない、こうでもないと話してるのでは?

その会話が実は、この作品では非常に役立っている。主人公らの結びつきや、互いの考え方などが理解できるように、古典的な手法で描かれているようで、基本に忠実に演劇をやっていることは間違いない。

仕事しろよ!と言いたくなるような主人公の生活ぶりだが、好感を持ってしまう。仲間を思っていることは分かるし、ただの殺し屋ではなく、尊敬らしきものを集めていること、ユーモアも分かる人物と理解できる。悪人かも知れないが、好人物であることは分かる。

今の映画だと、犯罪者の二人組みが登場すれば、片方は変人で考えの足りない人物か、もしくは完全な異常者であることが多い。タランティーノ監督の作品で、監督自身が演じるような極端な異常者が代表で、そうでないと客に受けないと思っているようだ。でも、本来はそうと限らない。この作品を観ると、そう思う。

それに、今のドラマではあっさり殺しをやってしまっていることが多い。無表情、無感動のまま、あっさり殺す、それがクールな現代風犯罪者と見るのが流行のようだ。仲間のために、あるいは復讐に燃えて・・・という表情は流行らない。逆に、古い映画のほうが新鮮に写る気がするのは、私だけだろうか?

ラスト近くの銃撃のシーンが興味深い。実際の戦いの場合、車を運転しながら銃を撃つのは相当難しく、滅茶苦茶な乱射戦になると思う。当時の車だと、おそらくクッションやハンドリングの性能に限界があったろうから、激しく揺れる車の中で、どこを撃っているのか分からないくらい、酷い戦いになっただろう。

私が敵のギャングなら、ダイナマイトを複数投げつけて、後は用意した鉄板か何かに隠れて逃げることを考えるだろうか?爆弾一発だけじゃ、生き残る相手が必ずいる。追って来られない状態にする必要があるから、もう少し工夫すると思う。この当時のギャングは勇敢だったのか?

4月9日の午後、テレビでは小保方研究員が記者会見をやっていた。注目を集めるSTAP細胞捏造の疑惑に対して、自説を主張するためだったらしい。真相は分からないが、明確に自分は実験に成功したと述べる態度は勇ましい。心労は相当なものだったろうが、少し前に辞任した渡辺党首よりも立派な態度だったと思う。

もし彼女の言う通りなら、彼女を陥れる意志が誰かに働き、個人的にか組織的にか分からないが、彼女の成果を破壊し、名誉を失墜させ、何かを得るか何かを守ろうと、さながら敵のギャングらのごとく、周到な準備をして行動していることになる。ネット上での攻撃は下品だが、同僚らは雑誌に手記まで発表して自分の擁護に走っているようだ。

事実がどうかはともかく、潔くない。この作品の場合は、主人公のために命を張ってくれたギャングがいた。同僚らはギャングにも劣る態度だ。もちろん女性だから、若いからと擁護する必要はない。決着が着くまで、自分は自分の責任の取り方を考え、覚悟を決めておくだけで良い。それまでは自分に与えられた仕事をこなし、結果は甘んじて受け入れるべき。

共著とは、自分の著名に責任を持つことである。もし間違いなら、吟味しなかった責任はある。騙されたとしても、責任は全うしないといけない。事の真相は、再現実験が成功するか否かにかかっている。他の施設が成果を妬む、または横取りしようと画策しているだけの可能性だってあるのだから。手記を発表して逃げようなんて、人としても研究者としても許されない態度。

科学者なら、批判する場合は実験を試みて、不可能だと確認することが望ましい。何も試みずに批判した後、もし小保方氏が正しかったと分かれば、責任をとって引退する覚悟は必要。理研の上層部や、山梨に移った研究者なども、総ざらえで責任をとるべき。

会見は断片しか見なかったが、疑問点は多かった。実験する場合は、記憶違いや見逃しを避けるため、私がやっていたようなマイナーな実験でも、年間で数冊はノートが必要になる。何時に何を入れた、何回転で沈殿させた、何時間培養した、何分遅れた、何に失敗したなど書くだけでも直ぐ数ページは要る。4-5冊しかないとは驚く。実験の態度に問題があったとは言える。

成功したのが200回とは驚いた。200回も成功を確かめる方法とは何だろうか?そこを聞かないといけないのだが、記者達は科学実験の経験がなかったのか?STAP細胞であるという確認は、おそらく複数の蛋白を検出し、分化を証明しないといけないが、それには相当な時間がかかる。200回も実施できるはずはない。

したがって、何か証明方法を勘違いして成功を誤認したか、あるいは誇張したり作為的に述べた可能性が高いことになる。幼弱な細胞を作製したのが200回であっても、その総てがSTAP細胞とは限らない。‘成功’という言葉を使う表現の正確さに問題があった。~を検出できた、~が発現した、成功と思えるのが200回といった表現のほうが正確では?

ただし、あんな吊るし上げ状態で正確な表現は期待しにくいので、会見の内容でもって事の是非を論じることは適切ではない。再現性に期待して、経過を見るしかない。その間に、ギャング団ならぬ某国のベンチャー企業が、STAP技術の特許をがっぽり取得していたりして・・・成果を横取りするな!と言っても遅い、なんてことはないだろうか。

 

2011年7月26日

ゲゲゲの女房(2010)

- 差別化に感心 - 

ゲゲゲの女房は水木しげる夫人の回想録を原作にしていること、朝の連続ドラマでやっていたことは知っていたが、テレビでは見なかった。貧乏を描いていたらしいが、テレビの画面で朝からなまなましい話はやりにくいのではないかと思っていた。

たぶん、ユーモアを交えて希望的な描き方をしたのでは?健康的なヒロインをわざわざ選んであった。

この作品では役者は全く違っていたらしい。ヒロインは、私の感覚では宮沢りえが最適のような気がした。初めから不幸の臭いがすることと、そのなかで華やかな部分が残るイメージがあるから。

いっぽう、夫役の宮藤は非常に雰囲気が出ていた。のん気そうな笑い声がいい。

監督は、もともとは役者をやっていた人物らしいが、個人的には演出の意図が解りにくく、ロケーションの選択にも疑問あり、納得というわけにはいかなかった。風景に新しい建物が写っていて、時代考証からもやや問題が感じられるなど、細かい点が気になった。予算が足りなかったのか?

送電線の鉄塔は当時もあったとは思うが、画面に登場させる必要はないはずだし、雰囲気にはそぐわない。実際よりも田舎に見せて描いたほうがいいはず。ドヤ街のような、混沌とした汚い街並みを探すべきではなかったか?

近所のうるさいおばさん連中、胡散臭い人物達を次々と登場させる手もあったはず。同居人や編集者達だけでは生活感が不足する。尻切れトンボの終わり方だったように感じたが、もっと暖かい雰囲気で終わることもできたのでは?

ドラマの中で妖怪達やマンガの画像が登場していたが、使われ方に疑問があった。もっと異形を際立たせるか、人間が全く認識できていない様子を強調しないと、解らない人にはさっぱり解らないままになると思った。

妖怪は、すべてマンガにしても良かったのでは?妖怪達が踊るシーンは学芸会レベル。金を払って観るようなものにはなっていなかったと思う。出来上がりをイメージして企画すべきだった。

切り口を大きく変えて、テレビとは全く違った脚本を狙うべきだったと思う。テレビと同じ内容なら、ヒットは期待できない。いっそマンガが中心で、鬼太郎達の中に実写の人間のドラマが挿入されるようなシュールな話にしても良かったのでは?どうせ大ヒットしないなら、印象に残る外し方のほうが良い。

主人公ふたりのドラマに文句はない。テレビ版よりもリアルではなかったかと想像する。ヒロインの吹石は今までお嬢様役などが多くて印象が薄かったが、今回の演技には役者魂のようなものを感じた。

水木夫婦は昭和36年に結婚し、売れ出したのは4~5年後らしく、その間の貧乏ぶりは激しかったようだ。当時なら貧乏人は珍しくはなかったものの、40歳を過ぎての下積み生活は耐えがたかったのでは?

当時、貸しマンガ屋は既に衰退期に入ってたらしいが、私が育ったのは田舎だったんで、貸し漫画屋の体験はない。そもそも本屋がなかった。雑誌を売る文房具屋が一軒あっただけ。

一冊いくらで借りていたのか?10~50円くらい?今ならDVDも旧作100円が普通。ついに常時50円にする店も出てきた。マンガに金を出そうとするなら、古本屋で買って、直ぐにまた売ったほうが簡単。

はたして当時、作者にはいかほどの報酬があったのだろうか?マンガ雑誌に読者を奪われたら、貸しマンガ業界は成立しえない。子供のお小遣いの金額が、貸しマンガ業界の命運を握っていた。

興味を持って「ビビビの貧乏時代」という水木氏のマンガを読んでみたが、相変わらずクセのある絵で、テンポなど気にしていない作風。慣れないと読むのが嫌になるような作品だった。子供の頃もとうとう慣れなくて、鬼太郎ものはよほど暇でないかぎり読まなかった。

90年代ころは、鬼太郎のブームは下火だったように思う。長男はほとんど興味を示さなかった。いつの頃からか再アニメ化されて、今や我が家の末っ子が大ファンでいつもビデオを借りたがる。アニメの雰囲気も随分と変わって、鬼太郎も多少かっこよくなっている。

他に妖怪ものを専門にする作者が大勢いたら大変だったろう。いたはずだが、差別化に成功している。

手塚治虫の「どろろ」や、藤子不二夫の「怪物君」などのほうが一時的には人気があったが、息の長さからは鬼太郎に軍配が上がる。気味の悪い作風を守ったからか?作者の寿命も関係しているのかも。

目玉おやじ、ねずみ男のキャラクターが素晴らしかった。特にずるくて憎めないねずみ男には感服する。あれは海外でも通用するだろう。

水木氏は、とことんこだわって差別化に成功したが、その途中では一般受けする子供マンガへの道などの選択肢もあったはず。結果的には転向しなくて良かったようだが、極貧の中で子供を抱えた状態で、なかなかできることではない。

貸し本用漫画家の多くは家業に見切りをつけて、会社員などになったのではないか?今、老健施設などを回診すると、いろんな仕事を転々とした経歴が書かれたカルテを見る事がある。「へえー、この方が昔は〇×をやってたんですか!」と驚くが、戦争や様々なブーム、経済的な状況の変化の中では、当然。

思い出しても、写真現像屋、ビデオレンタル屋、ディスコ、出版業、駄菓子屋、ボーリング場、スキー場、アイススケート場、映画館など、景気や営業形態が激変している。新しい業種に飛びついて成功した人もいれば、脱落~吸収合併、撤退なども多い。

ディスコで黒服をやっていた男など、今はどうしているのか?当時は気取っていたが・・・映画館も、今やマルチスクリーンでないと生き残れない。映画が好きで技師になった人も多かったはずだが、商売替えが必要になったろう。好きだから選んだ道とはいっても、仕事が全くなければ如何ともしがたい。

業種を変える際には勇気が要る。医学部→勤務医→小規模開業という生ぬるいルートしか知らない私には想像もできない想いがあったろう。

ヒロインは大柄の女性らしい。患者さんで高齢者のわりに大柄の女性を何人か見るが、穏やかな人が多い気がする。大柄で気性も激しいと結婚できない。実家に帰っても居場所はない。耐えるしかないから耐えられたのかも知れない。

失礼ながら水木氏も、他に乗り換える器用さ、勇気がなかっただけかもしれない。あの画力では、ヒーロー物を描いても無理がある。石森章太郎にはなれない。まあ、結果=終わり良ければ全て良し。

 

 

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