映画評

  •  若い人達の映画評は、「やっほーい、見ちゃった!(^□^)゛にゃはは(^□^)゛(^o^)」(゚ω゚)イイヨゥ! のような具合で、おじさんにはさっぱり理解できません。年寄り向けのサイトがあればと考えました。

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カテゴリー「く」の14件の記事

2009年11月20日

グラン・トリノ(2008)

主演 クリント・イーストウッド

- 明らかに西部劇 -

朝鮮戦争の英雄にしてフォード工場の労働者、今は年金生活の老人が主人公。彼の家の隣に少数民族モン族の一家が引っ越してくる。その家には男の子が一人。大人しい性格で、不良集団ともめているところを主人公が助けた関係で親密になる。良い感情を持っていなかった主人公が、なぜか彼に男の生き方を講義し、仕事まで世話してやる。しかし、不良集団が仕返しをしてきた。主人公は彼らと対決する決心をする・・・

・・・これは傑作であった。涙をボロボロ流す感動巨編ではないが、余韻に浸れる作品。いろんな要素を兼ね備えた脚本の勝利だったと思う。小さい子供には向かないが、恋人と観るのにも悪くはない作品。レベルが高く、内容が高尚だから、デートの相手に不快感を与える心配はないと思う。

クリント・イーストウッドは、年齢的には老健施設に入っていてもおかしくないはずなのだが、節制しているのか、身のこなしや演技の際の表情などは全くぶれていない。クレバーな感じ。ただし、演技は臭すぎる。もっと自然に演じれば、さらに味わいが出ると思う。イーストウッド以外の俳優でも、迫力がある悪役俳優なら、この役は務まったはず。

イーストウッド演じる老人のキャラクター設定が素晴らしかった。頑固で偏屈、家族とも上手くやっていけない状況が実に自然に、ユーモラスに表現されていた。小道具としてお約束の犬も効果的だった。

この映画の脚本を書いた人達は、実際に工場で働いた経験があるそうだ。北米の自動車工場地帯の町には、この映画と同様の風景があると思う。フォードの工場は閉鎖され、トヨタの販売員になって生活するなんて話もありそうだ。車の作り方の戦略、商売のあり方、経営形態の問題などがあって、今のアメリカ車は競争力を失っている。誇りも傷つけられたことだろう。

車を作り、それを所有することと、ディーラーやトレーダーとしてリッチになって所有することでは、感覚的に違う。生産の喜び、誇りは、マネーゲームのような仕事では味わえないものだ。その辺の感情は日本人だけの特売ではない。歴史があれば、車作りにも同様の感情は発生すると思う。

民族の変化にも感情が揺れると思う。かって自動車工場で働いていた白人の仲間が徐々に黒人に変わり、やがて東洋人が多くなる。団地のように整然と並んでいた家が、徐々に古びていく。観ている老人達には複雑な感情が生まれることだろう。その感情を解説して絵になるのは老人である。若々しい人が自分の心情を話しても絵にならない。叙情性が生まれるのは、老人の想いが語られたからだ。

東洋人にも色々ある。普通の中国人は世界中にあふれているが、モン族という少数民族の場合は、特にベトナム戦争が絡んでいるので独特な存在だ。彼らに着目したのは、おそらく脚本家の実体験が何か関係しているのではないか?中国人では物語にはならない。沖縄の人達なら話になりうる。少数民族であることが大事だった。

人種差別的な言葉を吐いていた主人公が、いつの間にか異民族の少年に愛情を感じるようになるストーリー展開が素晴らしく自然だった。自分の家族に相手にされていないことが条件だったのかも知れない。家族の間が親密で心が通っているなら、異民族など入り込むスキはないと思う。少年側も情けない状況であることが必要な条件だった。

抜群の設定によって、美しい物語が生まれた。最後には対決のクライマックスまで用意され、まさに西部劇の伝統に従って忠実に構成されていることに気がつく。主演がイ-ストウッドだったから自然にそうなったのかも知れないが。

単なる対決の映画ではなく、人々を守るために主人公が悪と一人で戦うまでの手順、感情、いきさつがきっちり解説されていた。素晴らしいデキだった。

 

2009年9月24日

グッドフェローズ(1990)

- リアルすぎ -

監督 マーティン・スコセッシ

マフィアの一員となるのを子供の頃から望んでいた男が主人公。20歳くらいで既に一端の構成員になり、泥棒、殺人、脅迫などの悪事に加担していく。気の短い同僚のトミー、非情な兄貴分のジミー、慎重なボスのポーリーらとともに、暗黒街でのしていく。大きなヤマがやってくる。空港の貨物を強奪し、数百万ドルを得る。しかし、口封じのために仲間が次々処分される。ついに同僚のトミーが殺され、兄貴分のジミーからは最後通牒を受ける。麻薬局からマークされた彼は決断を迫られる・・・

・・・実話らしい。現金強奪事件の関係者を次々殺されて証人を失った検察側が、主人公を麻薬取引で逮捕して追い込み、主犯のジミー・バークを挙げた事件を題材にしているらしい。この主人公は現在も存命中と書かれている。

飛行機の荷物を強奪するなんて信じ難い。航空会社も信頼に関わるから、さすがに真剣になるだろう。国家間の事件に相当しそうな場合は、普通なら手を出さないのではないか?もっと小さな犯罪に徹したほうが利口だと思う。

怖ろしい話で、実話なんで当たり前だがが迫力がありすぎた。ギャング映画を楽しめるのは、いかにもありそうなフィクションであるからだと思う。実話の場合は、ちょっと生々しすぎる。おまけに激しい乱暴や殺人のシーンがまた生々しいので、楽しめる範囲を超えていた。

味わいのようなものは感じられない。話はリアルであったが、家族の結びつきや愛情の面を強調していなかったので、ゴッドファーザーのような映画とは趣が違う。スコセッシ監督の作品は執拗な暴力が強調されることが多く、個人的にはセンスがいいようには思えない。

この作品を家族で観れるとは思えない。恋人といっしょに見ようと考えるのも、ちょっと理解できない。したがって興行的に失敗したはずだと思っていたら、意外にヒットしたらしい。やはり野獣のような連中が多いアメリカでは、これくらいの残虐さは普通なんだろうか? 題材が有名だったからか?

映画のBGMが気になった。ロックがよく使われていたが、かってないことではなかったか?古いイタリヤ音楽風の悲しいメロディが流れるのが普通のマフィア映画だが、この作品は新しいギャングを描いているので彼らの趣味に合わせたのかも知れない。私はミスマッチだと感じた。

主人公を演じたレイ・リオッタは大変な役者である。身の危険が迫ってあせった特に見せる表情や、絶望感を示す演技には迫真のものがあった。最近では「ビー・ムービー」になぜか出演していた。おそらく彼をCMに使った蜂蜜があるか、もしくは彼が出資した蜂蜜の会社があるのだろうか?ただのジョークだろうか?蜂蜜と悪役は合わないような気がするが・・・

ロバート・デ・ニーロも実に素晴らしい。若い頃だったら彼が主人公を演じたかったに違いない。80年代のまだ痩せていた時期には、彼には凄みがあった。屈折した感情はこの作品では見せていなかったが、本来はただの殺し屋を演じるよりも、主人公のように悩む姿が合っていたはずだ。近年の彼は太ってしまって、ちょっと可笑しい役が似合うようになってしまった。

ボスを演じた役者はあんまり有名ではないと思うが、「イルカの日」の記者役だった。用心深い古いマフィアの雰囲気がよく出ていた。本当のワルは捕まらないように慎重にやるもんだ。解説によればボスは天寿を全うしたらしい。さすがと言うべきか。

派手な生活をして危ない橋を渡る連中は、儲ける時も凄いが危なくなると簡単に消されてしまいやすい。憧れで入るものではないと、この作品では上手く解説してくれているようだ。ことに最近はヤクザ業界も渡世が大変らしい。近所の事務所は閉鎖されて売りに出ていた。さすがに暴力団事務所後に入居するのは敬遠したいが・・・

 

 

 

2009年6月20日

クライマーズ・ハイ(2008)

- 臨場感ある -

日航機墜落事件を中心として、新聞社編集部の現場における内部の対立、苦闘する社員の姿、それぞれの思惑などを描いた作品。本当の記者だった原作者による同名本の映画化。

なかなか見ごたえのある作品。おそらく映画監督の手腕よりも、原作のよさが決め手になっているのではないかと思うが、映画の臨場感も素晴らしい。特に事故の一報が新聞社に入った後、現場が緊張してザワザワと皆がそれぞれの仕事に向かい、てんで勝手に怒鳴ったりして「ハイ」な状態になった時の描写がいい。

新聞記者に限らず、仕事に燃えている時の職場は一種の興奮状態に陥るので、冷静な意見が通らない。警察、消防、スポーツの試合、救急外来などは、常にそんな状況にあると思う。

事件がらみの時に会う警察はひどかった。我々からすると、あの横暴な態度はなんだ!と怒りたくなるが、彼らにしてみれば事件を片付けるのに集中してハイになっている時に変に冷静な意見をはかれると、邪魔としか思えない。私だって、患者さんが生きるか死ぬかの時に、「書類の訂正印お願いします。」などと言われたら、「出直してこい!」と怒鳴りたくなる。

映画の主題の切り取り方が問題。

現場の中での葛藤を中心にするなら、観ていて疲れる作品になるだろうが、私はそんなストーリーのほうが好きだ。友人役の高島の件などはカットしてもいいと思うくらいだ。

現場内の葛藤、嫉妬、ライバル意識、協力、そして家族の犠牲、子供との和解などに絞って作ると良かったのでは?ごたごたになってる間に他の会社に出し抜かれていく失敗を記録しても面白い。社長の人格については、主題とはあんまり関係ない。

冷静な判断は必要だ。ハイになって自分の意見を押し通そうとして、かえって会社をおかしくする連中は多い。旧日本軍の中枢部もそうだったのでは?

現場からの連絡に民家の電話が頼りなんて、あの当時でもありえない。他社と勝負にならない。墜落現場に向かうのに白いシャツ姿なんて本当か?現場でキャンプする格好の山岳部チームを決めておけば、どんな地域でも半日で行ける。

劇中に消防隊員が言っていたが、危機管理能力さえあれば、夜中に出発して現場に早く到達し、もっと多くの人を救うこともできたはずだ。判断力のない警察、消防の上層部によって死んだ人もいたと思う。でも、きっとその時、その場の上層部はハイになっていて、冷静な判断はできないのだ。

「今出発したら、準備不足で隊員が遭難するかもしれないじゃないか!(そしたら自分の責任だ)。」「場所を間違って捜索したら、無駄足になる。」「政府と相談してやらないと、後で責任を問われる。」理由はつければつけられる。英断を期待するのは難しい。

いっぽう、事故原因に関する記事に、ちょっとでも憶測が入ったら大混乱を生む。これはスクープを狙うべき対象ではない。通常、事故原因は特定できないが意見を集約して報告するという形になる。確定は難しい。そんなことにスクープを狙うのは危険だ。

あのような事件の時に、主人公が自宅に帰っているのは気になった。1-2ヶ月は会社に泊まりこむものだと思っていた。もちろん病院に見舞いなどにも行けない。そう思っていたが、意外に記者という仕事の忙しさにはムラがあって、暇な時間も多いのかもしれない。

 

 

2009年2月 2日

クローバー・フィールド(2008)

‐ 手持ちカメラの効果 - 

今夜は主人公の旅立ちを記念して、仲間が集まってパーティーが開催されている。最近まで付き合っていた彼女には、結婚を言い出せないままでいるうち、とうとう喧嘩別れをしてしまっている。彼女も顔を出す。でも、別な男と交際を始めているようだ。

主人公の兄は弟の門出を心から祝ってくれている。少々頭の悪そうな友人に、このパーティーの記録をするためにビデオ撮影を頼む。でも、このカメラマンは、自分の好みの女の子の記録に注意が行ってしまっている。女の子は別に主人公とは付き合いもなく、ただパーティーがあるから来ただけのようだったが・・・。

そんな時、激しい揺れが町を襲う。どこかで爆発音が響く。停電になる。一体何が起こったのか?

屋上に上がった一同は驚く。何かとんでもないことが起こっている。爆弾テロか?とにかく避難しないとヤバそうだってなわけで、皆は道に下りてくる。すると巨大なものが飛んでくる。大きな銅像の頭・・自由の女神だ!ギョっとする一同。あわてて避難を開始するが、主人公は別れた彼女が気になる。どうやら動けないらしい。

危険な地域に入るのは怖ろしいが、彼女を救えるのは自分しかいない。主人公は危険地域に戻り、仲間は彼を追う。彼らが体験したものは、想像もできなかった怖ろしい生物との戦いであった・・・・・・

・・・・・手持ちカメラを主体にした作品は昔もあった。しかし、この作品ほど上手く臨場感を出せた作品を観た記憶はない。この作品は手持ちのカメラの特性を上手く使った傑作だと思う。

手持ちの画像は、やや見にくいから、バケモノの映像をこれだけで見せていると、おそらく作り物であることがはっきりしてしまい、不興を買う結果になるだろう。でも、やっと見えるくらいに登場を制限したことで、鮮やかでないことがかえって不気味さを盛り上げる良い効果を生んでいた。

登場人物達は、そんなに有名な役者ではなかったが、充分な演技をやっていた。どの人物に、どんな役割を与えるかを念を入れて作っていたことが解った。そのために逆算して、パニックが起こる以前の人物の感情を色々と説明されていた。したがって、我々はなぜ登場人物が危険を犯して恋人を救いに行くのか、なぜカメラを持ちながら走っているのかを理解できる仕組みになっていた。

でも、どうしても無理はあった。

いくらなんでも身の危険を犯しながらカメラを抱えて逃げるのはおかしいし、本当に走りながらビデオを撮ると、手の動きで何が何だか解らなくなるはずだが、そこまでリアルにできない。

自由の女神の構造がどうなっているのかは知らないが、大きな建築物に打撃を加えた場合は、バラバラになって原型を止めない状態になってしまうはずであり、自由の女神の頭部であることなど解らないのが普通だと思う。きれいに頭が飛んでくるなんておかしい。

瀕死の状態だったはずの女の子が、結構元気になって走って逃げるのもおかしい。数人で運んで、引きずっているうちに皆が襲われてしまうというのが自然だったのではないか?ヘリに乗り込む必要はあったのか?

最後までバケモノの全体が見えないほうが良くはなかったか?我々のほとんどは、巨大なものに襲われたら、下から見上げることしかできない。ほんの一部を見ながら、ただ逃げ惑うことしかできないはずである。その視点を貫いても良かったと思う。その視点が、この作品の特徴なのだから。

この作品は、家族で観るのはどうか?小さい子供には向かないと思う。何か悪い夢を見そうだ。友人や恋人と観るのはオススメ。きっと満足する。

 

2008年12月31日

蜘蛛巣城(1957)

- 控えめな演出は -

「北の館」の主が謀反を起こした。蜘蛛巣城にこもる城主は篭城を覚悟するが、三船敏郎と千秋実の活躍によって謀反側は撃退される。城主は喜んで二人をさっそく城に招待する。

ところが二人が城に向かおうとすると森の中で魔物に出会い、不思議な予言をされる。ひとつは三船敏郎が城主になること。もうひとつは千秋実の子供が後代の城主になること。二人には意味が解らない。

予言どおりに褒章を受けた二人だったが、予言の内容が今の城主に伝わると謀反を疑われて殺される。それで不安になった三船と奥方は、先手を打って城主と千秋実を殺してしまう。

ところが、良心の呵責のためか、千秋実の亡霊が見えるやら、手に血が付いて洗っても落ちない気がするやら、次第に夫婦の心がおかしくなってくる。

さて、三船敏郎の運命は・・・?

この作品は見どころ満載の、しかも芸術性と娯楽性を兼ね備えた傑作だと思う。テレビで鑑賞。黒澤作品の中でも結構人気が高いらしく、中学時代の先生が興奮気味に感動したと話してくれたことを覚えている。

話が複雑になりすぎていない点がいい。全く知らない人でも、なんとなく筋は読める。それくらいに話の基本は単純なほうがいいと思う。

主人公の内面を詳しく表現しようとしすぎると、我々には理解できない部分が出てくるが、この主人公は解りやすい。その反面、明らかにオーバーな演出なので、表情やメーキャップばかり見ていると笑ってしまう。若い観客には、もう耐えられない喜劇的な作品になっているかも知れない。

題材はマクベス。後年のリア王を題材にした「乱」と似ている。舞台も戦国時代、争う相手が仲間や肉親の違いはあるが、怨念と猜疑心がテーマになっていることは同じ。したがって、黒澤監督もワンパターンにはまったと言われても仕方ない。

三船が自分の感情を必死に隠そうとする様子が観客に解るような演出だったら、どうなっていただろうか?普通、武将なら心の動揺を悟られまいと、何か無理をしているのが普通ではないか?弱みがある人は、逆に無理して強がる傾向がある。

その手の演出は、黒澤監督の趣味ではなかったのだろう。酔いどれ天使でも強がる主人公は、やはりオーバーな演出だった。

テレビの衛星映画劇場で鑑賞したが、音声が聞き取りにくい点が気になった。デジタル処理してあったのか?

先代の館主が殺された部屋の壁についた血のり、あれは実に気味が悪かった。「いくら洗っても血が取れない」と、あらかじめ説明されているものだから、どんな模様かと思えば、実に気色の悪い夢に出そうな模様だった。

城の建物、門、部屋の衝立、飾りなどの小道具は、実に計算された重厚な感じが出て見事だった。しかし、山の中腹に城があるのは不自然。後から攻められれば、どうすんだ?

感心するというか、あきれるのはラストに弓矢が飛んでくるシーンだが、間違って矢が目にでも当たれば失明の危険がある撮影だった様子。弓矢の名手にいっせいに打ってもらったようだが、今なら許可されないのでは?

リハーサルでも危険を伴う。三船はどんな気持ちで演じていたのだろうか?

でも、その分の迫力はあった。最近の「ヒーロー」や「300」でも弓矢がたくさん飛んでくるシーンはあったが、CGでは迫力の表現がちょっと難しい。

しかし、安全性を優先して弓の的を集めすぎたのは間違いだ。矢がバラけるように工夫すると、もっと良かった。危ないけど。

メーキャップは、この作品に限ればオーバーでも構わないと思うが、監督の後期の作品では画像の解像度が上がっているので、少しドギツサを抑える必要があったはず。最近のブルーレイ、ハイビジョン時代は特にそうだ。描いたような眉毛は、すぐ不自然に見える。

能の所作や登場の仕方を取り入れてあったので、芸術的な感じはしたが、せっかちな人には無駄に長いシーンと感じられる可能性もある。芸術的な色づけは、ほんの少し、ワンシーンだけという控えめな態度が望ましいのでは?

 

2008年7月20日

グッド・シェパード(2006)

001 - よき羊飼いの運命  -

ロバーット・デ・ニーロ監督による、CIA長官をモデルにしたスパイ映画。といっても激しい銃撃戦や007もどきの活躍があるわけではなく、主人公の諜報部員の家族の問題が話の中心になっていた。主演は若手の演技派代表格のマット・デイモン。奥さん役はセクシー女優ナンバーワンだったアンジェリーナ・ジョリー。デ・ニーロ監督も、大物役人の役で出演している。

聖書には様々な「よき羊飼い」が例えられているが、キリスト教徒でない自分には欧米の人達のようなイメージができない。

よき羊飼いは、まず羊のために自らの命をおとすことができる。さらに柵を乗り越えて牧場に入ろうとはせず、門から入る(柵を乗り越えるのは泥棒である)。そして、99匹の羊より一匹の羊の命を救うという例えに代表されるキリスト教精神の深い部分など、様々なイメージが混在したタイトルではないかと思う。

でも国家への忠誠心(神との契約にも似ている)のために、いかにKGBの手先とは言え、花嫁を飛行機から突き落としていいのか? 一人のキリスト教徒のために、99匹のイスラム教徒を殺していいのか?。

羊飼いも、のんびり羊だけを見てればいいわけではなく、大変難しいのである。ブロークバック・マウンテンでも難しかった。うっかりしていると、オカマをほられるのである。

自分の息子から情報が漏れていたことを知り、しかも、それをネタに敵の情報機関の手先になることを求められたら・・・、ちょうど神との契約を試されたアブラハムのような心境であろう。自分の子を生贄にするのか?このへんも、キリスト教徒と‘異教徒’の私とでは感じ方が違うだろう。

この作品は、子供には全く向かない。恋人とならいいかも知れないが、将来の自分達の結婚生活の現実を思いやると、あんまり有り難くないストーリーであり、観た後に沈黙してしまうかも知れないのでオススメではない。家族で見るのも、何か不幸な気持ちになるので良くない。

この作品はゴッドファーザーに近い重厚な雰囲気があるが、家族愛の重要度が違う関係で、観た後の印象は全然違う。同じようにアメリカを愛し、命がけでギリギリの戦いをしたのだが、その評価は映画の評価と同様、高いとは言えなかったようだ。映画の興行成績も良くはなかったみたいである。家族を中心に描くように、重点を変えていたら違った結果になったろうに。

主演のマット・デイモンは年齢が解りにくいメイキャップで、最初からずっと同じ格好をしていたみたいだが、せめて白髪くらいは調整して年齢の表現をして欲しかった。逆に、アンジェリーナ・ジョリーは、この作品になぜ出演したのか解らないくらいの役柄だったが、奔放な娘時代からシワが増えて冷め切った中年まで、非常に上手く演じ分けていた。

製作者の中にはコッポラも入っていたが、監督はロバート・デ・ニーロがやっていた。演出法に特別な問題はなかったと思うが、際立って優れたものもなかったような気がした。マット・デイモンに観客が同情してくれないとヒットはありえないし、作品の印象が高くなることもありえない。したがって、いかに冷静沈着であっても、隠れて恐怖感や苦渋の表情を見せないといけない。その点が、不充分であったと思う。

作品の雰囲気は重厚で、高級な感じが漂っていた。ラストで勝利する形にできれば、達成感が感じられたと思う。アメリカを影ながら守っている情報局員に、少しくらいはエールを送ってもいいと思う。

ただし、農園にバッタを撒き散らしたりするのはヒドイ。

日本の政界への働きかけも強力で、いまだに首相を長くやれるのはアメリカが敵視しない人間だけという状況が続いている。反アメリカを打ち出そうもんなら、何かのスキャンダルが暴露されるか、反対派が急に勢いをつける歴史が続いている。彼ら情報機関の努力のたまものだろう。

今後はロシアともそうだが、中国の情報機関とも戦わなければならないだろう。だが、中国も何でもありの国なので、恐ろしい事件が起こるような気がする。おかしなことが起こった時は、かならず諜報機関が暗躍していると考えても間違いではないかも知れない。

そういえば小沢民主党代表が、突然自民との連立を提案したことがあったが、明らかに常軌を逸していた。なぜか長期間権力を維持できる大物記者が仲介したらしいが、要するにアメリカとしては日本の政党がアメリカ寄りで連携して欲しいので、諜報機関員が働きかけたと考えるべきだろう。

なぜか田中角栄の娘や後継者の小沢をアメリカは敵視しているようだが、民主党が政権を取っても反アメリカに急展開するはずはなく、詳しい事情が解らない。彼らのファイルに、「小沢=×印。反アメリカ的人物。政権から追い出すべき。」と、誤記されただけかも知れない。

2008年7月14日

クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ 金矛(キンポコ)の勇者(2008)

- 新しい協力者像  -

子供を連れて行く映画の中で最も期待できるのは名探偵コナンである。ストーリーがしっかりしていて、謎解きを子供といっしょに楽しむこともできる。ドラえもんは、ちょっとおかしな路線に走って行きつつあるので、もう見たくない。デジモンに至っては、見るのが苦痛である。そしてクレヨンしんチャンは・・・。

クレヨンしんチャンの絵は実に幼稚であるが、キャラクターは素晴らしいと思う。主人公はもちろん、風間君をはじめとする仲間、両親、チョコビ、ブリブリざえもん、アクション仮面などの存在は、自分の子供時代にもふざけて仮想しあったレベルの、もはや普遍性さえ感じるくらいである。登場するだけで笑える。

今回のスト-リーは、異次元空間の争いが人間界に持ち込まれ、その際にカギとなる武器を、なぜか主人公が手にするという設定であった。敵役は強いのだが、どこか抜けている、かっこ悪く趣味が悪いというのも、いつものパターン。途中で歌いだすシーンもあった。これもいつも通り。

いつもは父親と母親もヤケクソになって悪者と戦うが、今回はあのヤケの表情が出なかった。いつもの下品なシーンも少なかった。家族の団結が、このシリーズの映画化における共通した特徴だったのだが、趣向を若干変えていた。

代わりに仲間となっていっしょに戦うのは、男性的な少女であった。しかし、彼女とも強烈な友情が芽生えたわけではなく、あっさりサヨナラを言っていた。何かが違ってきている。少女のほうも、自分の務めを果たした後は、別れに際して涙ぐんだりしない。自分の世界に帰ることに、ためらいもない。

子供の成功に力を尽くしてくれる塾の講師たちも似たようなものか?

もちろん勤めを果たすために最大限の助力はする。自分の能力(システマチックな学習法など)と知識(受験に関する情報)などを提供し、成果をあげる。しかし、やがて子供は違う世界で生きていくのである。自分は自分の職務を果たし、子供は子供の世界で生きていく。情よりシステム。あっさりサヨナラだ。なにか、そんな人間関係の変化を反映しているのか?

自分は何かにつけて考えすぎ、分析してしまうクセがある。漫画映画を見ながら当世の教育問題を考えて何すんだろう?

とにかく、家族でいっしょにではなかったが、この世界の危機を乗り越えるための冒険物語は壮大でシュールな魅力があった。末の子(3才)は、音楽が流れると踊りながら見ていた。まだ子供といっしょに見れる。あんまり楽しくはなかったが・・。

2008年7月10日

クジラの島の少女(2002)

Photo - 夢あふれる作品  - 

最近、故郷の村に帰ると、活気が失せているのに愕然とすることがある。

田舎の場合は、工場が誘致されたりしないかぎりは産業がない。昔は農林業で食べていけたが、今は農産物の価値が変っているので採算が取れない。どんなに精魂込めて米を作っても赤字になるような状況である。いきおい、村を出て都会で就職するしかない。若者はいなくなり、年寄りだけが残る。

家を継いだ同級生達は、たいてい生きるのに精一杯である。子供を学校に行かせる資金をどうするか?などと、頭の痛い悩みを抱えている。それは昔も同じだったはずだが、希望のなさは全然違う。将来、自分の子供に後を継いで欲しいとは到底言えない。ますます将来が厳しいとしか考えられないからだ。

私の知っている先輩達で村の商店を継いだ人達は、離婚率50%以上に達している。それだけ経済的に厳しいということだろう。人口がどんどん減るから、商売の工夫もしようがない。

村の基幹産業は役場、などというのは異常である。でも、最も安定した職場であり、銀行が融資話を持ってくるのも役所関係ばっかりというのが現実である。目先の公共事業にかまけて、村の将来の展望をできなかった住民や、そもそも住民の努力でどうにもならない状況に追い込んだ国の政策のツケが出ているように思う。

農林水産物輸入を自由化すれば、こうなることは当然である。一世代で対応できないほどの激しい経済的変化が起これば、当然破産や休業が頻発し、地域の経済ばかりか文化も破壊され、やがては村そのものがなくなる。

それは決して良いことではないと思う。産物を自由に輸出する権利は一見すると正当なもののように思えるが、‘自由な輸出≒集落の破壊’であることを無視している。文化や精神風土を破壊する権利があるとは思えない。

この映画のマオリ族の場合は、加えて侵略された歴史がからんでいるから、さらに深刻である。もちろん、絶えず迫害され、銃で追い立てられているわけではないが、イギリスからやってきた違う人種が国を形成して行き、自分達は小さなコロニーの中で細々と生活するしかないのは、希望にあふれる状態ではない。

独自の精神風土と生活基盤が失われる集落、少数民族の悲哀が根底にあって、抜け出せない状態の中、ロマンあふれる物語が展開された。傑作だと思う。

商業的に、どれくらい成功したのかは知らない。

大人しい描き方をしていたので、子供が観ても退屈するだろう。大ヒットする映画は、決まって子供も大人もスペクタクルで感動できる作品が多いので、そもそもこの作品のような静かな感動を狙う路線では、大のつくヒットは難しい。でも、それでいいと思う。恋人と観るのはいいかも知れない。特に女性は喜んでくれるのでは?

クジラによせる独特の想い、父と子の断絶、互いの愛情、アイデンティティなどを叙情的に表現できていた。スタッフにマオリ人が多かったからこそできたことだろう。演技は感動するほど上手いとは思えなかったが、本物のマオリ人たちが演じたことで、やはり本物を感じることができた。

加えて、少女の精神的な成長、それに伴う不安感なども織り込まれて、色気がでる直前の、あの時期の不思議な魅力が相乗効果を生んでいた。

沖縄あたりの漁村を舞台に、同じような物語はできるかも知れないが、同様のテーマの日本の映画は無理に喜劇にすることが多く、この映画のような雰囲気が出せない。客にこびすぎる感じが、かえって客をシラケさせてしまう。

我々に夢を見せることができた点で、この作品はよい雰囲気を出せたのだろう。

 

2008年6月30日

クレイマー・クレイマー(1979)

Photo - 法廷戦術と家族-

原題ではクレイマー対クレイマー、すなわちクレイマー夫と、その元婦人の対決というタイトルだったと思う。この映画には本当に泣かされた。特に子役のジャスティン君が涙腺を刺激してくれた。傑作だと思う。

翌年のアカデミー賞を取ったのもうなずける。

監督のロバート・ベントンは職人のような仕事をする印象がある。全体の色彩が、薄明るい、温かみをもった感じに統一されていたことや、ギターを中心とした音楽も悲しい雰囲気をかもしだして、テーマによく合っていた。テーマをうまく表現するための全体の構成がしっかりしていた感じがする。

主演の一人のダスティン・ホフマンは、当時すでにハゲていたはずなので、おそらくかつらをかぶって演じていたのだろうが、若いお父さん役で、猪突猛進にキャリヤを重ねてきたビジネスマンの雰囲気を出していた。

小柄な人ほど負けん気が強くて仕事にも人一倍頑張る印象があるが、そんな人は不必要に愛想が良かったり、何かにつけてケンカ腰で口論を挑んでくる傾向がある。夫婦の間でも、相手の言うことを全く聞かないといった現象が良く起こる。仕事でやり手、夫婦関係も円満、近所付き合いも良好という人は少ないだろう。

そんなお父さんと、元来はキャリア志向の奥さんとでは、当然ながら感覚のズレが生じる。家庭を守って欲しい夫と、このまま埋もれていくのは嫌な奥さんとで衝突するとどうなるか・・・?

子育てをしなければならなくなったダスティン・ホフマンの生活が面白かった。ユーモラスなエピソードと、悲しい現実を織り交ぜた場面が、この映画の魅力を高めていた。

槙原範之の歌に似たようなのがあった。食事の用意が間に合わなくて、「これでも食べてな。」と、自分の分の食事をあげたら、お腹がグーと鳴って子供と笑いあったといった歌詞だったが、悲しさと暖かみがごっちゃになるイメージが湧いてくる。この映画も、あれと同じような雰囲気だった。

法廷でのシーンもリアルだった。法律用語で親子や夫婦関係を規定し、結論を出そうとすると、実に無味乾燥な争いになる。法律で家族を語ること自体が間違っている。もちろん不当に迫害されたら、権利は保護しないといけないが、結局はお互いの幸せを願って最善の策を講じればいいと思う。権利の主張を最優先すべきではない。

家族の問題を法廷闘争に持ち込むのは得策ではない。法廷での戦術によって攻撃されたダスティン・ホフマンが、「そんなことは問題ではないんだ!」と叫ぶシーンが印象的だった。法律用語の応酬、闘争のための戦術などは、結局意味がないことを差していたと思う。

子供のヘンリー君は、その後どうなったろうか?大人になってからの作品を見たことはないので、少なくとも映画俳優としては大成しなかったようだ。これも離婚のトラウマのためか?離婚が影響して心に傷を負って、グレてるんじゃないだろうか?今頃は、彼自身もトラウマによって離婚しているかも知れない。~んなわけはないか。

 

 

2008年3月13日

黒いオルフェ(1959)

- 芸術かぶれ -

黒いオルフェは有名な作品で、カンヌ映画祭でグランプリをとっている事は知っていた。もう20年以上前になるが、映画評を読んでいて、いつか観てみたいと思っていたが、今回正月休みを使って、やっと見ることができた。

印象に残る作品だった。

特に前半部分で祭りの前に、既にあちこちで踊りの集団が勝手に踊っている中を、登場人物達が歩く場面は素晴らしかった。昼の女王役の女優は特に表情も踊りも迫力があって、いかにも激しい気性をしていることが伝わった。

主演の女優のほうは、田舎から出てきたことが解るような顔とスタイルで、これも役柄に実に合っていたと思う。主役のオルフェイス役の男優は、私には今ひとつ色男ではない、そんなにモテる男には見えないような印象だった。

話は有名な古典から取ってきたそうだが、繰り返し劇に使われているらしい。いかにも演劇に採用されそうな話である。芸術家達は、たぶん自分に酔いながら、この作品を演じたいと考えるのだろう。

あまりに芸術臭いと、私は感じた。

もっと当時のアメリカ映画風にくだけて作られたら、今でも面白い作品になっていたのじゃないかと感がえる。たぶんウエストサイド・ストーリーみたいな感じになっていたのだろうか? もちろん今でも、このフランス映画は鑑賞に耐えうる作品だが、芸術に偏りすぎて娯楽作品とは言えないような気がする。

場面のつなぎ方が気になった。例えば同時期の日本映画では、場面をぶつ切りするような作品は2流の監督でしか見られないが、この作品は簡単にぶつ切りしたような乱暴なつなぎ方をしてる。もしかするとこの映画の監督は舞台の演出家が本業で、映画の編集は苦手なのかも知れない。表現の仕方に気が入ってしまって、編集のことまで考えが回っていないのではないか?

主人公が恋人の遺体を捜して呪術集団の集会に入りこむ場面は、おそらく死後の世界に迷い込むことをイメージしていたようだが、主人公の不安感を表現することにこだわりすぎて、繰り返しアップの表情を撮っていたが、演出の方法としては観客を退屈させる危険があって、マズイと思った。なんとか主人公の顔を映さないで表現する方法はなかったのだろうか?

そんな細かいことを除けば、この作品のアイディアは実に素晴らしい。リオのカーニバルを舞台にして、貧民達の中での恋物語を作ったらどうなるか? 激しい踊りの中で男女の愛憎劇が繰り広げられたらどうなるか? 作品が作られた後の今となっては、他に作りようがないくらいの素晴らしい舞台であったと思える。

祭りを舞台に愛憎劇を作れば、必ず凄い迫力が出る。日本の祭りを舞台にしても作れそうだ。祭りの前の興奮がストーリーの興奮と連動するので、非常に盛り上ること受けあいだ。

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