映画評

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カテゴリー「お」の23件の記事

2009年12月14日

踊るマハラジャ★NYに行く(2002)

- ヘザー・グレアム路線 -

主演 ヘザー・グレアム

インドでダンス講師をしていた主人公は、ハリウッドスターを夢見てNYへやってくる。そこで得た仕事はポルノ映画の相手役。しかし、女優のシャローナと話すうちに、彼女のセックス哲学に影響されて、いつの間にかセックスのグルとして有名になってしまう。しかし彼はシャローナには純真な気持ちを持っていた・・・

・・・製作スタッフにはインド人がいるようなので、たぶんインド向けの作品だと思う。主演のヘザー・グレアムはオースティン・パワーズで見て知っていたので、おそらくエッチなおバカ映画だろうと期待して観たが、およそは当たっていた。この作品は彼女のために作ったような、もろの路線だった。オースティン・パワーズよりは多少マトモな話だったかも知れない。

ヘザー・グレアムは顔がかわいらしくてスタイルは抜群で、この種のエッチな映画にはうってつけの女優だが、結構演技力もありそうである。本格的なラブストーリーでもやっていけそうな気がする。今回の役どころは、エッチな会話とポーズをとりながら主人公に講義をする際に、主人公がいかにムラムラしているかを表現できるかにあった。その点で、主人公にはちょっと不満を感じた。

この作品では主人公は徹底的にひどい目に会わないと笑えない。生真面目に努力するんだが、運が悪くて次々に災難に会う様がおかしいのである。ヒロインを好きで、すぐにも抱きたいんだが、あちらにはそんな気が全くなくて悶々とするというシーンが長い程おかしいのに・・・

インドの映画は面白い。変な集合ダンス場面がふんだんにある。そのダンスがどことなく妖しい。目つきが妖しいし、クネクネとする。あれに慣れないといけない。

インドがどんどん経済発展してくると、きっとスターがインドから出てくるようになるだろう。昔のインド映画の俳優は非常に美しかった。髪や眉毛などが濃いので、表情が映えるからであろう。ただし、意味不明のシーンも多くて、冗長な感じを受けた。

この映画はアメリカンスタイルだったので、テンポは良い。登場人物のキャラクター設定には疑問もあったが、暇つぶしに観るのには向いている。ただし、子供には見せたくない。子供たち側は凄く喜びそうな気はするが。

 

 

2009年9月10日

オーストラリア(2008)

- 驚きの映画 -

主演 ニコール・キッドマン ヒュー・ジャックマン

戦争の直前、イギリスから美しい婦人がオーストラリア内陸の牧場にやってくる。帰ってこない夫を追ってきたのだが、夫は現地で殺されていた。婦人は牧場に残る決心をするが、ライバルの牧場から妨害を受ける。頼りになるのは、ならず者のヒュー・ジャックマン、それとアボリジニの少年。婦人は様々な敵、困難と戦い抜いていく・・・

・・・・違和感を感じた。「風とともに去りぬ」風の叙事詩を期待していたのだが、CGを使って部分的には漫画風とも言えるような雰囲気にしていた。同じ監督の「ムーラン・ルージュ」では違和感がない演出だが、この映画のテーマにはふさわしくない。地球儀を持ち出して解説してはいけない。観客を子ども扱いしたいなら別だが。

良かった点はアボリジニの少年を肯定的に描いていたこと。ヒュー・ジャックマンの生き方に対して、「お前は空っぽだ。」とアボリジニが批判するシーンなど。

最悪だったのはニコール・キッドマンをキャスティングしたこと、もしくは彼女のキャラクター設定。彼女こそ、スカーレット・オハラ以上にタフでクールな女性を演じられる女優だと思う。彼女に合わせて、作品のテーマを変えてもよかったのでは。彼女なら、敵も味方も日本軍も、アボリジニもコックもカウボーイもまとめて皆殺しにして、ひとり大地にたたずむことができそうだ。

牛を追って砂漠を旅するのは命がけの仕事だが、彼女には悲壮感が感じられなかった。残酷な現実、厳しい環境に対して人間が感じる感情をそのまま表現すれば、この作品の質も随分違ったのではないかと思うが、彼女のキャラクターは、そんな旧式の叙情性とは違ったものなのか?

日本軍が、あれほど大規模に爆撃できたのか?当時の戦力では、停泊中の軍艦を沈めるのが関の山で、民間の施設を爆破するほどの火力は持っていなかったような気がするが、私の思い過ごしかもしれない。広大な大地の国の街並みに爆弾を落とすなんて、どんな戦略的必要性があったのかも判らない。

- (9月10日16:30)訂正。検索できた範囲では、主に港湾内の連合軍が攻撃対象だったように記載されているが、飛行場や兵舎などにも攻撃があったはずなので、街中にも被害が出た可能性は高い -

アボリジニの描き方には驚いた。

妖しげなポーズで神秘性を表すのは悪いことではないが、彼らの本質を尊敬して描いていたのか判らない。ただ、怪しげなだけではいけない。彼らが尊ぶものをテーマにしろとは言わないが、敬意を表すべきである。

歴史的に考えれば、ほとんどの期間は一方的にアボリジニは殺され、収容所に入れられていたはずである。教会でさえ布教の一環として白豪主義の片棒を担いでいたのが事実だと思う。この作品のように好意的な人物達が皆無とは言わないが、極めて少数派であったはずである。嘘くさい内容を堂々と演出できるのは、戦争当時のハリウッド映画のようだ。

本当なら、悪業の数々を正直に見せるべきだ。銃の練習でアボリジニを殺す、気の向くままレイプや人狩りをする様を描いてから、それに反発する少数派の主人公達を描くべきだ。日本兵がアボリジニを殺すなんて、あったかも知れないが、大量殺戮者の子孫が堂々と描けることではない。もちろん我々も殺戮者の子孫なんだが、描き方がひどい。日本兵だけが悪人になってる。

いくら何でも、その辺に無理があるので、戦時中ならともかく、この作品は人には勧められない。子供にはいいかもしれないが、恋人といっしょに見るのは厳しい。まったくアーパーな若者なら感動することもできるかもしれないが、普通は無理だろう。おそらくオーストラリアでも笑われたのではないか?この映画は、アーパーな人以外には勧められない。

映像は非常に美しかった。カメラマンの腕も良かったのだろう。アメリカ西部のモニュメントバレーそっくりの風景や、あきれるほど広い砂漠など、風景を見るだけでも充分に意味がありそうだった。

あんなに広い大地をみたら、原住民を殺して放牧をしないと損する気持ちになるのだろうか?殺しても、どうせ誰も見てないという感覚が生まれるのかも知れない。

 

2009年5月24日

オール・ザット・ジャズ(1979)

- 所詮は楽屋受け? -

振付師、監督として名声を極めた主人公だったが、家庭はめちゃくちゃ。妻とは激しいやり取りの後、離婚した。娘がいるが約束をすっぽかす。現在の恋人は愛してくれているのに、他の女に手を出してしまい、どうやら仲は終わりそうな気配。やりたい放題の彼のせいだと自覚している。

仕事も順調ではない。編集が伸びている映画は完成のめどが立たないので、スタッフが激しくせっついてくる。舞台の音楽は気に入らないし、新しいアイディアは出てこない。好みのダンスはスタッフに評判が悪い。おまけに心臓病の発作が襲ってくる。彼は自分の死を意識する。彼の中では、死の現実とショービジネスの世界が渾然一体となる。

監督のボブ・フォッシーは60歳くらいで亡くなっている。病名は分からないが、もしかすると本当に心臓病かも知れない。派手な人生だったらしいが、芸術家なら悪くはないと思う。一般の店の店主などが同じことをやったら、バカな放蕩人生と言われるが、大勢の人を楽しませた才能があれば、神様も許してくれるかも。

この映画では狭心症の発作を起こす主人公が描かれていたが、なかなかリアルだった。患者さんはテレビドラマの役者のように目をむいて苦しむことを普通はしない。顔色が悪くなって脂汗をかくか、もしくは安静にしようと自分で抑えるために急におとなしくなる人が多く、意外に表情はおとなしい。苦悶様の表情を多少は浮べる程度が多い。

「コーラスライン」に出演していたカップルのダンサー役の娘がニコール・フォッシーで、娘らしい。確かによく似ていた。踊りは特別上手いとは言えなかった様に思ったが、本職のダンサーらしい。この映画のメイキングシーンに出てくるフォッシー氏は老人で、かっての踊りは想像できないが、振り付けと踊りの能力は別物らしい。

この映画は自己中心的な主人公を肯定的に描いている。ほとんど自己陶酔とも言える。芸術家は他のことにはルーズになる傾向があるようで、派手な恋愛遍歴、わがままな仕事ぶりをする輩が多い。映画監督には特にそんな人物が多いのかも知れない。こだわって他の意見を押しのけないと、凡庸な作品になりがちだから仕方ないのかも。どうせ描くなら、思い切りわがままなまま描いたほうが好感を得やすい。

この作品の構成は独特だ。効果的かどうかは分からない。ジェシカ・ラングは美しい悪魔、もしくは死の女神、女性のイメージの化身を表しているようだが、今なら絶対にCGでぼんやりと写すべきキャラクターだ。彼女の描き方が上手いとは思えない。回想場面、現在のレッスン、編集中の映画の中でコメディアンが話す死への段階、それらが整理されてはいたものの、ちょっと展開が忙しい感じは受けた。

通常なら、主人公が現実とショーの区別がつかなくなった状態を、「1950年、ニューヨーク・・・」などと時間の解説を加えた回想シーンで描くべきだと思うが、そうすると単純すぎて面白くないと考えたのか?カンヌ映画祭では評価が高かったようだが、一般的に有効な構成と言えるかどうか?

展開がめまぐるしかった関係で、ショーの合間に息切れのような中だるみを感じた。最後のショーも、ラストを飾る出来栄えだったとは思えない。芸術的な衣装を着ていて、表現のレベルとしては高かったかもしれないが、一般の客は踊りが美しく、楽しいか悲しいかはっきりしていたほうが有難い。ミュージカルである。シュールすぎると面白みが下がる。

この映画の時代のダンスは古くなってしまったが、今の黒人のダンスより美しいと思う。振り付けのレベルが高いことを示している。バレエの比重が大きいと美しくなる。特に愛人役のアン・ラインキングは、「アニー」の事実上のヒロイン役でもあったが、踊りのレベルが高かった。

2009年4月26日

おくりびと(2008)

- センスの良さ -

木本演じる主人公は、失業したため故郷の山形に帰ってくる。そこで就職したのは納棺師という職業。最初は嫌悪感すら覚えた主人公だったが、徐々に仕事の意味を理解するようになり、彼の仕事ぶりを見た周囲の人達の認識も変えていくストーリー。生き方、死に方、親子の関係に関して、視点を見直させる作品。

佳作である。でも、この作品がアカデミー賞の外国映画賞を取ったと聞いて、正直ちょっと意外だった。確かにいい作品であることは誰が観てもわかるが、他にも優れた作品はいっぱいある。おそらく賞を取れたのは、偶然もあったのではないか?

この作品の製作にあたっては、主演のモッ君が原案を持っていろんなプロダクションに掛け合ったものの、なかなか動いてくれなかったらしい。こんな話はハリウッドでは良く聞くが、日本の映画では埋もれてしまって我々にはあまり伝わってこない。映画会社としても、「シコ踏んじゃった。」の役者の話には真剣に聞けない状況があったのではないかと想像するが、作品を見た後の今ではモッ君を見直さざるをえない。でも、今回の成功は今後の彼の活動を制限する結果になるかもしれない。

この作品はデキが非常に良い。家族で、恋人といっしょにでも堪能できる。雰囲気もいいし、適度に笑いと涙がある。

良かった点は、まず音楽である。チェロの曲の選択が良かったし、演奏はおそらくかなり本当にやっているのではないかと思うが、うそっぽさがない。さらに山形の風景もいい。ストーリーをいかに彩るかについて、よく考えてあった。

背中に光が当たって、役者のシルエットに、少しだけ表情が読み取れるくらいの光を当てたシーンが多かったが、これも効果的だった。役者の優しさを表現し、なごむような雰囲気を光で演出することができた。

笑いの部分もあったが、その節度が良かった。爆笑を狙っていたら、全体のレベルを落としてしまう。よく日本映画が陥りやすい落とし穴だが、映画でしか活躍しない喜劇俳優が、ここぞとばかりにオーバーな芸を披露してしまって、浅草演芸のような雰囲気になってしまうことがあるが、この作品ではモッ君以外の人が笑われるシーンは少ない。それが幸いした。

モッ君が風呂で石鹸を落とすシーンがあったが、あれは一回だけでよかった。笑いは必要だったかも知れないが、2回も落とす必要はない。

筋はすぐに解ってしまう。それは、ちゃんとストーリーの前置きがしてあることを意味するので、悪いことではない。ちょっと意外だったのは、最初に出てくる遺体が特殊な状況だったことくらいか?あのシーンが必要だったのか解らない。普通なら途中でいろんな遺体に遭うシーンで使われるべきだが・・・最初のシーンの場合は、ただただ厳粛で、緊張した美しい所作を見せるだけで良かったような気もした。

妻役の広末については、私は少し不満があった。もっと適役だと思える女優さんはたくさんいると思う。かわいい必要は全くないので、演技力重視でキャスティングしても結果に悪影響はなかったと思う。

納棺師という職業があることは、この映画で初めて知った。職業柄、葬儀屋さんには良くお世話になるが、こちらが葬儀屋だと思っていた人の中に、実は納棺師がいたのかもしれない。

葬儀屋に対して、私達はあまり良いイメージを持っていない。特に最近は大きな葬祭会場を営む商売人というイメージがあるので、もろに人の不幸を商売にする、アクドイ連中という印象が強い。実際に葬儀屋ばかりが景気に関係なく繁盛するような社会はおかしい、何かそんな感じがする。

病院で亡くなった人を送り出す時に、「この医者、また人を殺したのかよ。」と言っているかのような目つきの葬儀屋に会うと、「ち、違う、俺のせいじゃない。この患者は俺の腕に関係なく死んだんだ!」と言い訳するわけにもいかないので、顔をそむけていた。葬儀屋は人に疎まれる仕事で、映画のように感謝されることは滅多にないのでは?

この映画の視点はいい。死者との別れの場において、化粧を施した顔に家族がキスマークを残して笑うなど、日本人の死者への感情を表わしていて面白い。悲しみだけ、荘厳なだけの葬式は味気ない。感謝と愛情を込めた葬儀が本来望ましいと思う。外国の映画の審査員にも新鮮に写ったことだろう。

でも、私が最近参列した葬儀や通夜は、いずれも祭儀場のルールにしたがって粛々と進められるだけで、味もそっけもないものばかりだった。私が育った田舎の葬式は、ほとんど宴会に近かった。さすがにバカ騒ぎをする人は白い眼で見られたが、完全に酔っ払う人はいたし、結構笑い声があった。

子供達はジュースをもらうのでお祭りと勘違いしている面があったし、こっそり死体の顔を覗いたり、いいのかなあ?と思いながらも、死体の横で死人ごっこをして遊んでいた。あのような葬式は、死や家族、自分の生き方に関しての認識を形成するのに意味がある。葬儀社が万事を取り仕切るのは、私は精神的に良くはないと思う。

よほどの大政治家でないかぎり、葬式は家族による密葬が望ましいのではないか?

2009年3月 8日

オールド・ルーキー(2002)

- 不安と自信の表現に難あり -

主人公は少年時代から野球が好きだったが、父親の転勤の都合で満足な環境を得ることができず、プロ野球も肩の故障で断念せざるを得なかった。その後、高校の教員をしながら野球部のコーチをしている。ある年、部員との約束でマイナーリーグに入団することになるが、生活のことを考えるとマイナーでの生活は厳しい。このまま夢を追うべきか悩む主人公・・・

・・・ふと思い出して観賞。この作品は実話に基づいているそうだ。公開当時は結構評判になった記憶がある。でも今はほとんど忘れ去られた感じがする。いい作品だが、やや二級の感じがする作品である。たしかに大作ではない。

「フィールド・オブ・ドリームズ」は素晴らしい作品だった。親子の対立、野球への思い、家族への思いなどを夢あふれるストーリーで叙情的に描いていた。私も随分泣いてしまった。この作品も題材は似ているが、描き方が違う。

最初に尼さんが登場して砂漠に花をまくシーンがあるが、アイディアは素晴らしいものの、描き方がちょっといただけなかった。あれがスロー映像で風の音を消して音樂のみを流すような手法で、いかにも夢とも現実ともつかないような雰囲気になるように作られていたら、物語も夢のような雰囲気になったかもしれないのだが・・・

今考えると、ケビン・コスナーの演技も臭かった。この映画の主人公も同じような表情をしてみせるが、もっと自然で無表情な演技、いやらしい面もあるような描き方のほうが良かったのかなと、今回は感じた。この作品の主人公のほうがさらにクサイ関係で、そのへんのアラが見えてしまったのだろうか。でも、この作品は家族や恋人といっしょに観るには悪くない作品だと思う。適度に真面目で少し娯楽性もあり、夢と家族愛などの要素がそろっていて、雰囲気が良い作品だから。

野球への思いは、我々日本人と彼らでは随分違うようだ。我々の場合は、甲子園というひとつの頂点がある。純粋な野球道を追及させる修行場のようなイメージがある。ずば抜けた選手はプロ野球選手になるが、プロは半分やくざな世界のイメージで、実際に暴力団などとのつながりもあるようだ。長嶋や王のようなヒーローもいるが、彼らは特別だ。金髪かパンチパーマ、引退後は居酒屋でもやるのか?といったイメージ。

最近は随分変わってきたが、変わった理由はメジャーを意識することが普通になって、その年棒やスタイルが影響してきたからだろう。服装や態度に至るまで真似が浸透してきて、最近の選手たちは本当にクレバーな人生設計をしているように見受けられる。メジャー選手は、ステイタスが高いのであろう。それなりの努力も求められているらしい。メジャーとの交流が盛んになって、両国の意識のズレはなくなりつつあるが、単純にまとめれば、野球に求めるものは、日本は精神性が最優先で、アメリカはビジネスチャンスが最優先といったところか?

アメリカンフットボールやバスケットなどの人気も日本とは段違いに違うので、野球中心の日本とはこれまた違う部分もあるだろうが、高い報酬は夢のレベルを高める効果がある。野心を持ち、能力もある人物が夢を求めて集まる効果を生む。そしてメジャーに上がった選手には独特なプライドも発生する。それを物語の基線にすると夢の度合いが強くなる。サクセスストーリーの盛り上がりが期待できる。それに家族愛がからめば、これはもう作る前から観客に受けることは間違いない。

ただ、クサくなってはいけない。端々と描くのがコツのようだ。自分が速い球を投げていることに気がつかないなどはプロとしてありえない。研ぎ澄まされた感覚を持てないようではメジャーは無理だ。きっと自分でも自信があったからこそ挑戦する気になったはずである。正直に描くべきだ。自信と不安で悩む主人公が何度も妻とケンカするほうが自然だ。欲求が強くなってトライせざるを得ないからこそ、トライしたのであろう。その辺の切実さを表現できていなかった。

さらに、真実味を出すためには役者の体力も大事である。フォームがそれらしく、球が速くないと迫力が出ない。プロの球を普通の高校生が簡単にキャッチできるのもおかしい。バッターもそうだが、キャッチャーも玉が怖くて、やっと捕るくらいのはずである。テニスボールか何かを使ってでも、スゴさを表現するべきだった。体力のある役者は他にもいたと思う。丁寧に作れば、本当に良い題材だったと思うのだが・・・

2008年10月14日

OK牧場の血斗(1957)

- マカロニ風 -

OK牧場の決闘を、個性派の男っぽいスター中心に描いた作品。

保安官をやっていたワイアット・アープが悪人を追って近くの町にやってきた。この町の保安官は引退間際で、悪人の手引きをするような人物。

ワイアットは酒場でリンチに合いそうだった殺し屋ドク・ホリデイを助け、彼の友情を勝ち取った様子。ただし、ドクはヒネた人物なので、手を取り合って感謝するというような表現方法は取らない。一歩間違えれば、敵側に回りそうな危うさがある。

犯罪者達を追って野宿していたワイアットとドクは、逆に寝込みを襲われる。しかし、ドクの凄腕で危機を脱する。

ワイアットの兄弟からの連絡で、今度はクラントン一味が牛泥棒をしているらしいことを知る。盗んだ牛の処分を禁じたことで、ついに一味とワイアットの兄弟は対決することになる。弟の一人が夜襲に遭って殺されてしまう。復讐に燃えるワイアットは、街外れのOK牧場に向かう・・・。

与太者

実際のドク・ホリデイは、どんな人物だったのだろうか?どうも完全な与太者のような気がする。ワイアット・アープが運良く長生きしたので、手柄話が伝説となってヒーロー扱いになっているが、実は単なる殺し屋だったのかも知れない。

ワイアット・アープも非常に怪しい。たまたま上手く引退できて長生きできたことと、映画監督などと交流があったので、自分の伝説を相当に美化して描いてもらうことに成功しただけかも知れない。

保安官を演じた俳優は多いが、最近印象に残っているのは、「許されざるもの」の悪役、ジーン・ハックマンである。非常にズル賢く、抜け目がない。そして腕利きの早撃ちガンマンを、騙すような手段を用いて、いちおう合法的にリンチにかける。あくどさを持ちながら合法的存在であるというキャラクターを、迫力を持って演じていた。

あれが実像ではないかと考える。この映画の中では無抵抗の者を殺したり、誰かとケンカして暴れたりはしていないが、記録を読んでみるとワイアットらは結構いろんな所を追い出されている。法を遵守し続けた人物とは、ちょっと考えにくい。映画の主人公は、随分と脚色が加わっていたのではないかと思う。

映画ではワイアットの弟が殺されて決闘になるストーリーだったが、実際には決闘の後で仕返しに殺されたらしい。つまり、復讐に燃えて戦ったわけではなく、日頃のにらみ合いのカタをつけるためにヤクザ同士が殺し合いを演じたのが、決闘の真相であると言えるかも知れない。

スター級の魅力

しかし、主演の二人のスターは、本当にスター級の、あふれんばかりの魅力だった。この時代の映画はスター中心なので、いかにもカッコづけた現実離れした演出がされる関係で、非常にカッコいい。

決闘の主人公はワイアット・アープであろうが、この作品で最も魅力的だったのはドク・ホリデイのほうであったと感じた。酒びたりの結核持ちで、ポーカーゲームに熱中し、何かあればすぐ人殺し、時々ニヤリと笑いながらジョークを飛ばす。でも、友人のためには危険を顧みず戦いに挑むという魅力的なキャラクターであった。

バート・ランカスターにも存在感はあり、この作品では主役だが、真面目人間すぎて、ドク・ホリデイに比べれば魅力に欠ける。光ったのは、役柄から言っても断然カーク・ダグラスのほうだった。

銃を構えたカーボーイ達を前にしても、ビビったりすることなく決然と立ちはだかる。もし私が実際に銃を構えられたら、敵より先に撃たないと不安である。気取っていても始まらないと思うが、そんな小心者とは全く違う自信あふれた態度のカッコいいこと。憧れる。

でも私は憧れるばかりで、実際に危険な目にあったら、さっさか逃げ出すか、先に乱射するだろう・・。今のイラクやアフガニスタンあたりで、ゲリラを前にした米軍兵士が映画と同じことをやったりしたら、返事もないままに撃ち殺されるだろう。ビビるのも大事だと私は考える。

荒野の決闘

この映画の11年前に、ヘンリー・フォンダ主演で荒野の決闘が作られている。また、この他にも主役が別な作品も2種類ほど見たことがある。

ひとつは完全にワイアットが悪役で、「あいつら卑怯にもショットガンなんか持ってきてやがる。」と、クラントン家側から文句を言われていたが、そのへんの不平等は戦いの宣告前に言っておかないといけない。アメリカ人は、素手の決闘にロケット弾を持ってきても平気な人種なんで、軍隊を連れて来なかったことだけでも感謝すべきだった。

「荒野の決闘」と「OK牧場の決斗」の違いは、スターの演出の仕方か、背景の扱い方か、叙情性と娯楽性の比重の違いか、いろんな要素があると思うが、娯楽に徹したという面からは、この作品のほうが簡潔な印象を受けた。

ワイアットが死ぬか死なないか、ふてぶてしいかどうかも随分違う。作品の中のワイアットの比重が違えば、いろんなパターンの作品が作られそうだ。

ラストでワイアットと分かれるドクが、葉巻をくわえながらポーカーをやってるのがニヒルでカッコいい。マカロニウエスタンで使われそうなキャラだ。

 

 

2008年10月 4日

黄金(1948)

- なぞの多い映画 -

メキシコのある町に流れ着いたハンフリー・ボガートは、金がなくなってお恵みをねだる状況。偶然知り合った若者と、鉱山に詳しい老人といっしょに、一攫千金を狙ってシエラマドレ山地の奥深く、誰も知らない金の鉱脈を探すことになる。

山に入ると、老人のほうが健脚で、ボガートと若者はフラフラ状態。しかも山の知識、金の知識に関しても老人頼り。

ついに金を見つける。三人は協力して砂金を集め、数万ドル分を集めることに成功する。しかし、金が目の前にあると猜疑心が芽生える。互いに金を隠し、銃を持って互いを看視するようになる。

分け前を狙って、また一人の流れ者がやってくる。加えて銃を狙った山賊まで登場し、撃ち合いになる。からくも敵が去ってくれるが、犠牲者が出る。

若者と老人は犠牲者の家族に金を送ろうと話す人の良いところもある。いっぽう、ボガートは完全に人が変わって独語を話し、スキあらば独り占めしようかと考え出す。

インディオの子供を助けたことから老人は足止めをくらう。老人の分も含めて、残りの二人で金を町に持っていくことになるが、意見の食い違いから、ついに二人は対決することになる・・。

ジョン・ヒューストン監督の作品

いくつかの疑問がある。

その1:なぜハンフリー・ボガード(正しくはボガートらしい)は、この映画に出演したのか?   その2:ボガート以外の人物の描き方   その3:金は回収できたのでは?

その1について 

ボガートは、本来なら悪役顔である。恋を語るような顔つきではない。なんでクールな2枚目役を続けられたのか、さっぱり解らない。この映画の役は、彼の声や顔つきにピッタリで、はまり役だと思う。だから、なんで恋の相手として映画に出ていたかのほうが不思議と言ったほうが正解かも。

ギャングの後ろ盾でもあったのか?

この作品は「カサブランカ」の6年後、彼は公開時に49歳だったことになる。私に近い年齢の割には、元気である。ラストでは埃だらけのブザマな姿をさらしているが、大スターなのに平気なようだ。たぶんアカデミー賞を狙ってたからか?

その2について

この映画の中の、ウォルター・ヒューストン老人と若者の性格はキレイすぎないか?実際にはボガートと同様に金に目がくらんで殺し合いをしてしまうほうが、より現実的ではないか?

金を他の人間に預けて、老人がゆっくりハンモックで眠るのは可笑しくないか?私なら不安になって、ソワソワする。

この設定では、二人の強欲者が互いに相手を騙し合い、殺しあって最後には無欲のじいさんが独り占めという結末もありえた。そうなると途中の二人の騙しあいが面白くなるが、この時代の映画では陰惨な光景はご法度なので、悪人は少数でないといけなかったのか?

主人公のキャラクターは強烈であった。もう一人のヒューストン爺さんも、いい人すぎたが存在感があった。しかし、若者は今述べたように不自然。子供の頃に何かエピソードがあって、悪人になりきれないという説明が必要だった。

その3について

風が吹いても、金は重いので飛ばないで残るのではないか?少なくとも高純度の砂金が、そこらに散らばっているはずだから、時間をかけて集めればいいのでは?

変なことをやっているのを見られると警察に捕まるからか?そのへんの感覚が解らなかった。

1927年になぜかドイツにて?原作は作られている。作者がドイツ語と英語のバイリンガルだったからか?シエラマドレの宝というタイトルの原作も結構ヒットしたらしい。邦題の「黄金」は、良いコピーであるが、誰が考えたのか?糸井重里のご先祖か?

とにかく、ストーリーの展開は自然で、基本的にはシンプル、しかしエピソードには起伏があって、次々と難問が襲い、思いのままにならないところが実によくできていた。この話は最初から映画用に作られたのだろうか?

途中で出てくる列車強盗団の首領も面白かった。愉快な話しっぷり、そのくせ抜け目がないところは結構な存在感。若者の後を追って、金の分け前にあずかろうとするチョイ役もしぶとそうな感じがあって、話を盛り上げていた。

この映画では、殺人のシーンはきちんと隠されていた。何か規制があったのか?同じ時代に、インディアン達はどんどん撃ち殺されるシーンがあったはずなのに、これは差別ではないか?

ゴールドラッシュは昔のことと思っていたら、南米では今も新しく発見される鉱山があるそうで、昔ながらの山男達が一攫千金をねらって集まってくると報道されていた。自分も「金が出た!」と聞いたら、ちょっと休暇を取って行きたいような気もする。

だが、暑い中で作業するのは嫌いなので、軟弱な山師にしかなれない。砂金取りは、きっと欲に目がくらんで無茶なことをやれる男達でないと無理だろう。私は自分の健康を優先するから金持ちにはなれないんだな。

でも実際に砂の中から金が出てきたら、たぶん眼の色が変るだろう。正気を保てるか自信がない。銃を持っていたら、何をするか解らない。

 

 

2008年6月 8日

大いなる遺産(1998)

- 複雑な展開だった -

思っていたよりもずっと複雑なストーリーで、いろんな登場人物があった。

出だしの時点では、脱獄犯のロバート・デ・ニーロ、姉と、その恋人。そして狂った富豪の女、その姪っ子の少女。中間では姉と脱獄犯は消えて、きっと女の子と主人公の恋物語が進展し、おそらくは見事にだまされて主人公が取り残される展開になるのではないかと予想された。

おおむね当たっていたが、この作品はちょっと意外な展開もあって、話が二転三転した。小説ならよくある展開だったが、映画的にはどうか?冗長な印象になってしまわないかと思う。恋愛が中心の物語は、激しい抵抗をはねのけて結ばれるか、極めて不幸な結果に終わるかの、いずれかを基本にしたほうがいい。乗り越える垣根の大きさで盛り上る度合いが決まると思う。

登場人物達の演技は、どれも満足のいくものだったと思う。デ・ニーロの怖い顔は、いかにも本当の脱獄犯もかくあろうかというものだったし、狂った富豪も適度に狂っていたと思う。

グィネス・パルトロウは、やはり非常に美しく魅力的だった。しかし、私には彼女は小悪魔的な印象は受けないので、この役柄とあっていたかどうか解らない。水を飲んでいる主人公にキスをしてくるような積極性、衝動性、いたずらっぽい魅力を持っているようには見えない。

しかし、モデル的なスレンダーボディで、主人公をじらすかのように現れては消える悩ましい存在を演じて、非常に魅力的だった。

しかし、私なら「こんな美人が自分を誘惑するのはおかしい。絶対に裏がある。」と考えて、慎重になるだろう。大いなる財産でもできたら、ちょっと若い女の子でもはべらせてみたいかな?とは思うが、知り合いのドクターが淫行で捕まって、しばらく営業停止をくらったのを知ってるので、君子危うきに近寄らずと、ご遠慮申し上げるだろう。

この主人公は勇敢(無謀?)だった。自信過剰か?

主人公のイーサン・ホークは適役だった。この映画はパルトロウのための映画なので、主人公役はしっかりしてないといけない。彼のまなざしには、「今を生きる」の頃の純真な少年が、そのまま大きくなったような純粋さを感じることができる。「トレーニング・デイ」では、内にタフな精神力をかかえた人物を演じていたが、この作品のほうがキャラクター的にはマッチしていた。

大いなる遺産というのはディケンズ原作の小説だそうだが、全く知らない。多額の~巨額の遺産という意味合いのタイトルだが、映画用に代えてもいいような気がした。

女の名前を取って「エステラ」、または屋敷の名前をとって「~邸物語」だったらどうだろうか?

昔も映画化されているらしいが、そちらは観たことはない。小説ではもっと話が込み入って、いろんな登場人物が出てくるのだろうが、それを映画用にかなり整理している印象。

この整理の仕方は適切だったと思う。ラストに盛り上るような演出があれば、もっと後味が良かったような気もするが・・。

 

2008年4月20日

黄金の七人(1965)

Photo

- 泥棒映画の基本  -

黄金の7人といっても、主役は教授役とお色気女優で、後の5人はついでという感じだった。このため、大人数に役割が分担されて、それぞれのキャラクターで笑うという趣向の映画ではなく、主演二人の頭脳戦というか、やりとりが話の中心になり、話が分散しないという意味では良かった。

ヒロインの悪助役は色っぽく、ファッションにも凝っていて、観客を楽しませようという意図は解ったが、私の感覚では他のスパイ物やなんかで出てくる色気で敵をたぶらかせるボンドガール風お姉ちゃんよりも、田舎っぽいような印象を受けた。

製作がイタリアで、ヨーロッパの中心であるパリからすると田舎と言えば田舎なので、多少野暮ったかったのか、さすがに古くなったので、当時は目を見張るほどのファッションも色あせてしまったからなのか?ブリジッド・バルドーやボンドガールは、今見ても色っぽいから、やはり何かが違ったのだろう。

ヒロインに色気のある女優、そして頭脳すぐれた悪党、黄金かダイヤの価値がとんでもない、奇想天外な盗み方、そういった泥棒映画の定石をちゃんと踏襲して、観客サービスをしてる作品だと思う。基本に忠実。

ストーリーは二転三転して面白かった。アイディアは素晴らしい。しかし、地下の水道管は、通常なら送水をスムーズにするために、高圧ではないのかと思うが、それなら中に入ろうと穴を開けた途端、とんでもない水圧で皆が吹き飛んでしまうのではないか?

現在の高性能の通信機でも、銀行の中と外との通信は必ずしも安定してくれないのではないか?画像を送信されても、ちょっとしたことで何が映っているのか解らないようなことも多いはず。したがって、外と内でタイミングを合わせて爆破するなど、非常に難しいことになるだろう。

そんな細かいことを除けば、充分楽しめた。金塊を奪うまでのシーンは結構楽しい。

古きイタリアのアイディアあふれる作品。田舎っぽくて、古めかしくて、今時の作品のようなドギツイシーンもなくて、なんだか安心する作品。家族で見れると思う。

2008年4月 8日

オール・ザ・キングスメン(2006)

- 意外性を出してほしい  -

まず作品の着想が良かったと思う。実話に基づいているそうだが、いかにもありそうな政界の暗闇の部分に、いかにもありそうな幼馴染の男女の物語を組み合わせて、よくできたストーリーだった。役者達も一流ぞろいで、それぞれのキャラクターにあった人を選んであり、プロデューサーの力と役者達の意気込みが感じられた。

この作品は家族で観るのは、あまり感心できない。恋人とならOKだと思うが、好んで選ぶべき内容ではなく、観ても楽しくなることは全く期待できない。一人で小説を読む代わりに観るなら良い映画だと思う。

この作品は意外なほど話題にならなかった。なんとなく’いかにも’過ぎて、出だしの時点でストーリーが読めてしまう点が良くなかったのかも知れない。どんでん返しが何度かあると、謎解きの面白さが加わってくるのだが、展開から意外性は期待できなかった。そのへんに問題があったのかも知れない。

もしくはリメイク作品であることで、やはり新鮮な印象が望めなかったということだけが問題なのかもしれない。

もうひとつ、ショーン・ペンの演説の迫力がカギだったようにも思う。演説のよさだけで聴衆を魅了するのは非常に難しいが、カメラワークなどの演出で迫力を上手く出せれば、人気が高くなることを表現できて、観客の興奮度も上がるはずである。祭りの会場での演説は非常に大事な場面であったが、ドキュメンタリータッチの演出ができていなかった。

演説は迫力があった。しかし、彼を操ろうと担ぎ出した男の反応は不自然だった。観衆の前で自分のわるだくみを暴かれた人間は、あんな態度を取るとは思えない。憤慨して、「とんでもない濡れ衣だ」「誤解だ」「冗談か?」などと、ごまかそうと必死の形相になると思う。最初は抵抗していたが、すんなり収まっていたのはおかしい。

アカめいた労働者の動きに上流階級が恐怖するエピソードを加えると、対決の姿勢が明らかになって単純明快に訴えることができたのかも知れない。

配役は良かったと思う。オールスター映画の感があるくらい、皆はまっていた。ジュード・ロウは、育ちの良さそうな青年の物腰がうまく演じられていた。 ケイト・ウインスレットは、セックスがらみの愛憎を非常にうまく演じていた。アンソニー・ホプキンスは、登場した時点で「ははーん、きっと過去に何かあったに違いない。」と想像されてしまうという欠点があるが、いつものようにソツのない演技だった。

もうひとり、「リトル・チルドレン」で変質者役をやっていた俳優が、今回はボディガード役として登場していたが、これも気味の悪い感じがうまく出ていた。

ショーン・ペンは、無名時代にはマドンナの恋人として名前だけは知っているくらいの存在だったが、マドンナの見立てた通り、その後は大きな映画に次々出演して芸域を拡げている。ただし大仰で、いかにもマフィア臭い。静かに演じることができるような感じはしない。今回の役は、したたかな政治家に変身するところは巧かったが、納得のいく変化ではなかった。

ジュード・ロウが、なぜケイト・ウインスレットと結ばれなかったのか、なぜショーン・ペンが変身したのかを、ポイントを押えて説明できていたら、この作品は感動を生むことができたのではないかと思う。やけ酒の後で人格が変るなんて、おかしい。彼の妻とのやり取りも当然あるはずである。

おそらく、脚本の段階で問題があったのではないか?

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