映画評

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カテゴリー「う」の36件の記事

2018年9月 9日

嘘だらけの日独近現代史(2018)

Photo_2          

 

- 扶桑社・倉山満著 -                

 

著者の倉山氏は、次世代の党のアドバイザー的な活動をしている方らしい。本業がよく分からないが、学者や外交官ではない様子。コメンテイター、言論活動や番組制作などを通じて帝国憲法擁護の立場で活動している人らしい。     

 

この本の語り口は明解である。異論がありそうで曖昧な内容も断定的に書かれており、簡潔明瞭で非常に分かりやすいと感じた。しかし、そのため客観性や信頼度の点には難があると思う。そして言葉の調子も軽い。テレビで話す場合には許されるかも知れないが、文章にする場合には一定の重さが欲しいと劇場主は思う。       

 

歴史上のことには人命を損なった事件、戦争や虐殺などの悲惨な事象が必ず含まれており、自然と記述の仕方は重々しくなるはずである。殺し合いをともなう事件、事象をギャグ扱いするかのような感覚は、いかにも軽い考え方を感じる。そして、戦前戦中の人物には遺族が必ずいる。よく知りもしないでバカ呼ばわりするのは、配慮に欠けると思う。     

 

この本の文章のような感覚で物事を語る人物では、書いた内容も信頼できないのではと、疑問が湧く。政党にアドバイスして大丈夫だろうか? ただし、この本には真実も多く語られていると思う。我々世代は、戦後の米国の宣伝に忠実な内容で教育されてきた。民主的な社会をもたらしてくれた米国に、感謝の気持ちを持っている。しかし、我々は米国の都合によってそのように教育されただけであって、旧日本軍の行動にも一定の根拠はあったはずだ。旧日本軍にも正しい行為が、なかったはずはない。ドイツの行動にも、胡散臭いものは感じる。この本のような視点も必要だろう。     

 

もしかすると著者は、テレビ討論会向きの人物なのかも知れない。テレビ討論でよく見かける出演者は声が大きく、口調が早くて激しい。しかも論敵の発言を途中で遮り、相手に最後まで話させない傾向がある。昔ながらの、静かに正論を語る学者タイプの出演者では視聴者受けを期待できないから、自然と激しい口調の人間が集まりやすいのだろうか?       

 

出演するからには、「・・・と思われる」、「・・・の可能性が高い」といった表現は好ましくない。およそそうである場合には「そうである!違うと言うのか!」と勢いよく断言する必要がある。視聴者に向ける印象、訴えるための表現方法、一種の演技のようなもので、それを徹底しきれた人が番組で生き残れる。内容が正しいかどうか、正確かどうかは関係なく、討論型の話し合いの場合には、ディベートの約束が全体を支配する構造になるのだと思う。      

 

そこで思ったのだが、もしかしての話だが、旧日本軍や戦前の政府内部での話し合いがディベート型で成されていたら、当然ながら勢いの良い討論になっただろう。冷静な話し合いは困難だ。正確な分析、クールな計画作成は、ディベート型の話し合いではできっこない。 「相手は日本の数十倍の戦力を持っており、まともに戦うことは避けるべきと思われる」・・・「思われるとは曖昧な表現!勝つ可能性がないと言うのか!わが軍に力がないと言うのか!」・・・「可能性がないわけではない。しのいでいる間に情勢が変わり、講和に持ち込むこともできるかも知れない」・・・「曖昧だ。だが結局お前も認めた。勝つ可能性は十分にあるじゃないか!」そんな会話も充分にありうる。子供の口喧嘩のパターンであり、大事な会議では絶対にやってはならない話の進め方。    

 

良い結果を期待する場合は、視聴者受けを期待するのではない、退屈で慎重な思考過程が必要だと思う。重々しくなるべきだ。

 

 

2018年7月15日

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(2017)

Shaft


- SHAFT -   


夏休みのある日、転校していく少女なずなをめぐって、友情と恋との狭間で、典道青年は揺れ動くことになる・・・DVDで鑑賞。   


この作品は劇場でも公開されていたそうだが、まるきり意識したことはなく、小説のオリジナル映画化版として初めてアニメ化されたものと思っていた。ところが調べてみたら、最初はテレビシリーズのひとつとして奥菜恵主演で放送されていたそうだ。「世にも奇妙な・・・」シリーズの後継番組らしい。娯楽番組は全くと言ってよいほど見ないので、この有名な作品のことも知らなかった。     

アニメ版の主題歌は知っている。「打ち上げ花火」は、よくかかった曲だから、この作品とコラボしているらしいことも聞いていた。若い人には通じるものがありそうな曲と思う。でも劇場主には、もっと静かでセンチな曲のほうが印象に残りそうに思える。曲調と作品とは、必ずしも調子が一致していない。


この作品はSFに該当するようだが、中心は青年の迷い、恋心と友情のドラマで、純愛ものと言えるのかも知れない。「君の名は。」に通じるものがある。人物の表情は区別がつかないほどだ。似たようなアニメ技術で作られ、人物の動作も似ている。この作品は、もし自分が違う行動をとっていたらという点に着目し、様々な物語が展開するという仕組みで、その設定は元々のドラマ版の設定をなぞっているようだ。   


花火や灯台をめぐる美しい映像は見どころのひとつになっている。女学生のお色気も魅力のひとつだろう。そういえば若い頃の奥菜恵は非常に色気があった。ただの美少女ではなく、お色気がある大人びた雰囲気が、この役には求められる。番組は見なかったが、奥菜の雰囲気がこのアニメ版にも残っているかも知れない。この少女役の声は、広瀬すずが担当していたそうだ。本当に良い声で、またまた広瀬かよと呆れながらも、たしかに適役だなと思った。実写版が再度作られるとしたら、今ならそのまま広瀬が担当するだろう。


ラストは尻切れトンボになっていなかったろうか?起承転結の転と結が少し肩すかしのように、インパクトに欠ける話だったように感じられた。途中の段階での、青年のウジウジした感情や少女の境遇に関してはよく描けていたと思うので、結末をどうするかが重要だったのだろう。 少し完成度を落としてしまったかもしれない。印象深くしないと、繰り返し見たいと思う観客がいなくなる。


作品の中での青年たちの会話は自然なものに思えた。今の子供たちは、おそらくテレビドラマに影響された話し方をしている。流行に流されて、早いスピードで話し方が変わるのは、テレビ独特の影響だろう。言葉によって、思考パターンも影響されてしまうように思う。それが良い方向、すなわち現実を的確に把握するのに有利であれば好ましい表現だ。単純化され、なんでも「ざけんじゃねーよ」「マジだせえ」で評価するクセがつくと、微妙な評価ができないまま成長し、正しい判断ができなくなって失敗したり、表現力が高い人達に相手にされなくなるかもしれない。


深く考えるためには、それなりの言葉が必要だ。「ざけんなよ」だけじゃ、理屈をめぐらせることは難しい。


 

2018年1月16日

ウィラード(1971)

Willard

- Bing Crosby pro. -

 

気弱な青年ウィラードは父の会社を乗っ取られ、鬱屈した生活を送っていた。彼はネズミを飼うようになり、ネズミを使った復讐を始める・・・・

 

DVDで鑑賞。雑誌で紹介されたのを読んで興味を持ち、あらすじは知っていたのだが、今まで鑑賞してこなかった作品。TUTAYAの紹介コーナーに置いてなければ、たぶん観ることはなかったろう。古いタイプのSFサスペンス映画というところだろうか。

 

懐かしいアーネスト・ボーグナインが出演していた。いかにも役柄に合致したふてぶてしい悪役ぶりで、素晴らしい存在感を示していた。本人はちゃんと自分は仕事をしており、人生も楽しんでいるといった表情をしていて、悪意を前面に出した安直な悪役ぶりでなかったことが効果的だった。あんな人物は、実際にもそこらじゅうにいるからリアルだった。

 

この作品では、母親役や親切なおばさん役も悪役に相当していた。特に母親の役割は大事だったと思う。主人公を愛しているが、同時に依存してもいて、主人公にとっては重荷以外の何物でもない。細かいことで小言を言う姿は、素晴らしい悪役ぶりだった。ヒロイン役も懐かしい。ソンドラ・ロック嬢だ。

 

今の作品と比べると、CGの迫力がない分だけ訴えかけるほどの恐怖感は感じられない。ネズミが襲ってくるシーンは大事だと思うのだが、ぬいぐるみを投げつけているだけらしいのが分かってしまい、興ざめする。当時の客は、あれで満足していたのだろうか?さすがに幼稚な表現だと思うが・・・

 

おそらく70年代でも、手書きのグラフィック技術はあったはずだから、たくさんのネズミが黒い影になって人を襲うシーンは作れたはずだ。予算の関係かも知れないが、気味の悪さは絶対に必要な作品だから、もう少し頑張ってほしかった。

 

この作品は、企画としては非常にまとまっていると思う。ネズミが人を襲うアイディアは良かった。他の動物では大きすぎたり小さすぎたり、可愛らしすぎたりして妙になる。復讐に走る流れも分かりやすかったし、結末も予想される自然な流れだった。

 

 

 

2017年9月26日

疑わしき戦い(2016)

In_dubious_battle

- AMBI -

大恐慌後のカリフォルニアを舞台に、季節労働者と地主達の戦いを描いた作品。DVDで鑑賞。

スタインベックの原作は1936年に発行されたらしい。この作品は怒りの葡萄と似たようなテーマを扱っていて、その先駆けになっているかも知れない。怒りの葡萄よりも、共産主義の扱いが大きく、もしかするとスタインベック自身も、共産主義シンパだったのかも知れないが、なんとなくそんなシンパシーの存在を感じる内容。

’疑わしき’という意味がよく分からない。鮮やかでない、いかがわしく際どく、眉をひそめたくなるいという意味のほうが近いのかも知れない。何かを否定的に捉えているはずだが、それが共産主義者なのか、戦っている双方なのか、はっきりしない。

ジェームズ・フランコ演じた運動家は、仲間であるエド・ハリスらを利用してでも、大義のための戦いを有利に進めようとしていた。完全無欠の理想主義者ではなかったから、彼の戦い方はいかがわしい。日本の過激派ほどではないと思うが、政治運動家には、冷酷な人間も多かったようだ。劇中でセレーナ・ゴメス演じる娘が、彼をそのように評価していた。

ロバート・デュバル演じた地主側の戦い方も酷かった。暴力、政治力を駆使して、目的を達しようとする戦いぶりは、明らかに非人道的で、まさにいかがわしい戦いぶりだった。おそらく、地主側が最もいかがわしかったが、彼ら双方の戦いそのものが、激しさ故に、眉をひそめたくなるものになったのではないか?

「怒りの葡萄」は、家族愛が大きなテーマになっていて、その分だけ物語は叙情的で印象深い。家族と別れざるをえない主人公の境遇は、彼が殺人者であっても同情を得るに足りるものだった。この映画の戦いは、リアルな分だけ救いようがない。

当時、巨大農園を運営していた連中は、おそらく事業を多角的に展開し、今も形を変えて生き残っているはずだ。法律が変わるまでには、資産家側の権利を主張するのが当然である。権利保護の観点からは、資産家側は支持されるべきで、そこを強調することで強硬手段を使って戦えたのだろう。

おそらく当時だって季節労働者側に立つ新聞もあったのではないかと思うが、政治力を使って内容を変えさせたり、記者に圧力をかけるなど、きっとやっていたのではないか?今ならネットの力を使って、あっという間に抑圧事例は証拠をつかまれ、社会問題化される。当時、弱者側が権利を主張するのは難しかったろう。

ましてや、黒人やインディアン達の権利となると、いまだに酷いものらしいから、想像がつく。現職大統領が人種差別を容認するかのような態度をとるなんて信じがたいが、選んだ国民も明らかにそんな心情を持つ連中が多く、あまりに酷いと思う。

さて、現代で最も大きな対立は、北朝鮮と米国の間の対立よりも、おそらくグローバリズムと民主主義だろうと思う。もちろん北朝鮮問題を無視して良いとは言わないし、実際に日本が戦場になる可能性だってあるから、大きな問題ではあるのだが、資産偏在のほうがより奥深く、重篤だと思う。おそらく、この作品の隠れたテーマには、それがあると思う。

資産の偏在は貧困問題、失業問題、そして税収不足の問題を生んでいる。資本がグローバルに動くこと自体は悪くはないと思うが、税金問題が絡むと、完全にモラルの問題になる。手にした金を持って、金持ちだけ豊かな場所に移られたら、残った者が貧困から抜け出せない。資産家の自由だと言ってられない。そこが問題と分かっているのに、協調して対応できていない。この作品と同じような、不平等でモラルに欠ける状態が起こっている。

うまく法律を作るべきである。暴力、実力で争うのは‘dubius’だ。法律の成立だけで事態は快方にむかうから、当面はそれで良い。醜い争いに熱中しても、それだけでは意味はない。それが、隠されたテーマのような気がする。

 

 

2017年7月22日

WE ARE YOUR FRIENDS ウィー・アー・ユア・フレンズ(2015)

We_are_your_friends

- Warner Bros.etc. -

ザック・エフロン主演の青春映画。DJを中心として様々な業種に手を出し、成功を目指す主人公の話。DVDで鑑賞。

センスが新しい作品だった。監督はマックス・ジョセフ、原案はリチャード・シルバーマンという方々だったが、いずれも知らない人達。もしかすると、DJ業界~MTV業界の出身かも知れない。音楽的なセンスを感じた。

主人公は主にDJとしての成功を目指している。そこに恋の出会い、仲間とのつるみ、妖しい業界の会社員としての仕事、麻薬取引、そしてパーティー三昧の夜などがからんで、かなりハードな日常を過ごしている。普通の若者というより、犯罪者に近い底辺の存在。日本でなら、完全に半グレだ。

ただ、この作品では、そんな彼らに対して好意的なとらえ方をしている。それは金銭的な成功を夢見ているから、という理由のように見受ける。たとえ犯罪であっても、成功することを夢見るのは悪いことではない、それに近い描き方だった。劇場主の感覚とは合わないが、米国人の普通の感覚はそんなものかも知れない。

この作品を、子供に見せて良いとは思えない。犯罪者を讃えるに近い描き方をしているし、あくまで映画的に面白い人物として極端な描き方をしているだけだが、それに子供が妙な影響を受けて、半グレを気取ったりしたら大変だ。でも、恋人とみる作品としてはかなり良いセン、行っていると思う。恋愛に関しては純愛に近い態度を主人公はとっていたから。ふたりの仲に関して、悪い影響があるようには感じなかった。

主人公の仲間を演じていた俳優達が、非常に良い味を出していた。目立ちすぎず、脇役としての立場を保ちつつ、妙に演技くさい仕草をとらず、カメラを気にしないかのように自然に動いている点が素晴らしかった。

この作品は、興業的には成功していないようだ。成功を描いた作品なのに、金銭面で失敗とは残念だ。もともとメジャー作品ではないようだし、物語として大きなエポックがあるわけではないから、当然の結果かも知れない。描き方も、ラリッたことを表現した妙なシーンや、文字を大きく出したり、少し統一性に欠けていた。

ストーリーは、改善の余地があったと思う。亡くなってしまう仲間は、仲間の中でも無二の親友である必要があったと感じた。あるいは、明らかに主人公が責任を感じざるを得ないような要素が必要。主人公が悩みを相談されて、自分の都合で無視したなど。そんな設定なら、ドラマ性が高まると思う。過去のドラマではたいていそんな流れだった。仲間の死で、主人公がどん底の心理状態に陥るのが通常の流れ。

それに、無理して大金を得て、急転直下の大失敗を犯すといったスリルはなかった。物語として大人しすぎたと思う。大成功の後の大失敗、あるいは逆の急展開は、観ている側には面白いはず。原則に従って、大きな展開の変化があれば単純に面白くなったのではないか?

DJ・・・・かってのラジオDJのイメージと、昨今の人気DJは全く違う。世界を股にかけ、億単位の報酬を得るDJスターもいるらしい。ダンスミュージックのあり方が変わって、昔のように歌詞が優れているかより、チューニングなどの技術が重要視されるように、いつのまにかなっている。

試しに有名DJのCDを聴いてみても、劇場主にはさっぱり魅力が分からない。固定観念のせいかも知れないが、歌手のオリジナルの楽曲とは、訴えかける力が違う。おそらく実際のクラブなどで、音響と視覚、それに踊りが揃わないと、本来の意味が出てこないタイプのものだろう。基本は単調な音楽なんだから。

それに健康的な印象を受けない。空気悪そうな場所で、低所得者が憂さを晴らし、一部の人間が不当な利益を得る・・・・そんなグローバリズムの吹きだまりをイメージしてしまう。「這い上がれるかな?」という主人公の訴えかけは、吹きだまり状況を的確に表していないだろうか?

フェス・・・その意味もかなり変化している。30年前だと、ジャズやフォークを中心としたバンドの音楽を聴くのが主流で、ノリが良い曲なら踊ったりする、そんなスタイルだったが、今はパソコンで作った曲で踊るのが主流。舞台で場を仕切るアーチストは、センスは良いかも知れないがオタク化しており、芸の面で言えば退化したと感じる。このスタイルは飽きられて、今後また変化していくと予想する。

 

 

2017年7月19日

ウルヴァリン:SAMURAI(2013)

The_wolverine_2

- 20th Century Fox -

X-MENシリーズの中で、日本を舞台にした珍しい趣向のスピンオフ作品。平成29年6月、テレビで鑑賞。原作のアメコミもあるらしいので、映画限定の企画ではないようだ。劇場公開されていたのかどうか、記憶にない。

日本映画の影響が強く感じられた。忍者達も登場するし、雪の中で戦いが繰り広げられるのは、わざわざ忍者の活動の舞台にふさわしい設定だったのだろう。野獣のような怪物との戦いは荒野が似合う。超能力ミュータントとの戦いは建造物がないと物を飛ばせないので盛り上がらない。舞台設定は、基本に則っていた。

でも、内容はほとんどなかったと思う。日本が舞台になって、忍者やヤクザ達が敵となり、鎧が登場してくることが大事で、ドラマ部門、原爆の被害や友情、愛情に関しては二の次ではなかったか?設定が安易な二級品の臭いがした。

末っ子といっしょに鑑賞したのだが、子供もそれほど熱中して観ていなかったようだ。新幹線の上で戦うアクションシーンには興味がわいたらしいが、ドラマの部分は他のことをして観ていなかった。全体として、シーンの半分以下しか観ていなかったのでは?そんな映画だと、劇場主も思う。

日本を舞台にしたハリウッド作品のほとんどは、荒唐無稽なものだ。もはや今日の日本の状況は、欧米の多くの人が知っているだろうから、わざわざエキゾチックな描き方をする必要はないような気がするのだが、普通に描いては能がないと思っているのだろうか?

ウルヴァリンの個性は素晴らしい。強すぎない点が良い。シリーズ第一作では、巨漢の怪人から投げ飛ばされ殴られ、ほとんどやられっぱなしだった。あれが例えば圧倒的に強かったりしたら、苦しそうな表情を浮かべても嘘くさく感じられただろう。弱々しさが共感につながり、主人公としての存在感に役立っていた。

その点は、この作品でも生かされていて、ウルヴァリン君はたびたび攻撃され、自慢の治癒能力も損なわれ、何度も危機に陥っていた。不死身のまま、ただ勝ち続けていたら、キャラクターの底が浅くなりすぎて、つまらなくなるばかりだったろう。

ヒロインは二人いたことになるかも知れない。財閥の後継者となる娘と、その義理の妹。恋愛感情が漂うのは財閥後継者のほうだが、モデルのTAO嬢は、日本人の感覚では令嬢の雰囲気がしないし、体型は素晴らしいが演技力は疑問の方で、この作品の相手役として相応しかったか分からない。義理の妹の存在も、そもそも必要だったかすら分からない。

海外の人達には違って見えるのかも知れない。ぜひともモデル体型の美女がヒロインにならないと、主人公が助けようという感情が生まれないと感じるのか?

劇場主が、この作品のストーリーから考えるヒロイン像は、意志が強そうで声に迫力があり、いかにも周囲の人達をリードしていけそうな凜々しい印象を持つことが望ましいと思う。声量が大事だし、目の力も必要。体型は準日本風でも構わないと思う。和服で隠せば良い。そのうえで英語力があれば良い。きっといたと思うのだが・・・・

結局、ウルヴァリン君は壮大なワナにはまってしまっていた。その仕掛けが明かされるシーンには、妙なドリルが登場して面白かったのだが、あれで能力を奪われそうだと観客も納得できる方法ではなかった。あんな面倒くさいことをしないで、捕らえた時点で力を奪ったほうが早いはず。漫画的すぎる一連の流れは、映画的にはいかがなものかと思えた。

 

 

2015年12月30日

右傾化する日本政治(2015)

- 岩波書店 -

最近の政局の大きな流れを独自の視点で解説した本。著者は中野晃一氏。上智大学の研究者らしい。観点は独特と感じたが、歯切れが良く、明快な解説。保守派の歴代の重鎮達も一刀両断でけなされているから、なんというか、かっこいい感じ。

著者の視点としては、民主党や、旧さきがけ勢力を支持する立場のように思える。敵は自民党と、特にその中で新自由主義に則った昨今の主流派らしい。少し感情がこもりすぎたようにも思える、その記述には、学術的な評価を超えた個人的な意見が入り、客観性には少し疑問を感じた。

そもそも、日本の政界が右傾化しているかどうかだが、右傾化ではないと言い張る人も多いに違いない。全体が偏った時は、まともな判定はできないものだし、今の保守派は劇場の役者のように声高に反論する傾向があって、中心が右か左かの議論など成立しないだろう。劇場主は過度に右傾化していると思う。ただし、この種の判定を論理的にやることは難しい。

国の生き残りを最優先に考える立場から言えば、東アジア諸国を刺激することに意味はないので、常に激しい言動は避けるべきだし、明らかな右傾化は好ましくないと思う。正しいことを言っているとしても、言うべきではない場合がある。そこを間違えている人が多いように思う。劇場型の政治家、評論家が増えたことは、弊害が大きい。

よくテレビ番組で評論家達が他の国をけなしている。あれは記録に残るし、他国で放映されたりもするだろう。日本人はこんなことを考えているのかと、悪用や誤解をされる可能性もある。節度を守り、情報の悪用はさせない、そんな公的立場の人に近い配慮が望まれる。公的な立場の人もひどい人はひどいが・・・・

あのような節度のない評論が可能になったということは、本当は単に劇場化にすぎないかもしれないが、およそは右傾化したとも言える。あとさき考えずに言いたいことを言うのは、基本的に国の行く末に興味がないこと、それよりも自分の立場を高め、権力に組み入り、利益を得ようという考えが強い、そして幼稚では?と疑わざるを得ない。そんな人物が増えた状態は、偏った状態であろう。

日本に限らないかも知れないが、仲間内でトップにつきたい場合は、このように言わないといけない。「俺たちには誇りがある。他の連中には負けない。あいつらを負かして、いい思いをしようぜ!」そう言わないと、内部の支持を得られない。まさか、「あいつらも優れたヤツだよ・・・」などと言ったら、気分が盛り上がらない。仮にそれが正解でも、支持してはくれない。

しかし、やがてトップに立って、相手側にそのままの内容を言ったら、喧嘩を売っているに他ならない。言葉も言い方も変える必要が当然ある。特に、今のように記録が完璧に残ってしまう時代は、トップに立つ前から用心が必要だ。敵の連中の分析にあたって、過激思想の持ち主、取り引き不能のアホウと目されたら、敵も備えて緊張のレベルを上げてしまいかねない。

・・・・実際、そんなエスカレートが原因で過去の戦争は起こってきたのかも。発言には謙虚さ、慎重さが必要。

右傾化が進んでも、国民に害が及ばなければ構わない。でも結果が出ていない段階で、そこの判断は難しい。昭和の初期に軍国化が進んだ時は、結局は最悪の結果になったわけだが、その途上では国民の側は沈黙し、従順に軍部に従った。積極的に支援した者も多かった。反論を許さない状況がゆっくり出来上がったからだろう。

当時は先進国が帝国主義だったし、その競争の中で国のあり方は軍国主義しかないという感覚が、広く国民のコンセンサスを得ていたはず。当時だったら、その理屈は完全な間違いではない。実は財閥の利益が大半を占めるとしても、それを国民の利益と勘違いし、選挙権がない人達も軍を支持したに違いない。その結果がどうなるか、分からなかったのだと思う。

特定機密保護法は、治安維持法や戦時中の情報統制と共通する効能がある。本来は全く違う法律だが、現場のレベルでは同じことも多いだろう。情報の隠匿に法的根拠が生じ、情報を探る民間人を排除したり、情報操作が隠されやすい。戦前の状況に近づけたことは否定できない。

自衛隊の派遣関連法も、軍隊派遣の法律と実質変わらない。日本側が違うと言っても、派遣される相手国にとっては全く同じ。したがって、かっての時代へと逆行したことは、相手国にしてみれば明白。当然、日本は彼らが抗戦する相手と覚悟するはず。楽観して「まさか戦前に戻ったりはしないさ。」と保守派を支持している人達が、やがて自分たちの甘さに気づく事態が懸念される。過去を振り返れば、そう考えるのが妥当。

右傾化する必要があるかどうかだが、劇場主は否定的に思う。日本にとって、いかなる理由があろうと周辺で軍艦が敵を狙う状態は最悪。通商で生きている国だから、通商が滞ること自体が命取り。右傾化は、緊張の引き金になる点で望ましくないのが国家の基本的な立場である。国土が広大な国とは違う。政府や評論家がどう考えようと、その点は間違いない。

実際に日本が攻撃され、支配される危険性も確かにあるとは思うが、そうすると相手国は多くの場合、財政的に破綻する可能性が高まる。日本を管理しつつ、諸外国の非難を浴び続けるのは得策ではないから、占領はよほどのことがない限りやらない。利益を度外視した国だけが攻めてくるのだろう。他国への敵意を強調するのは、本来は過剰なこと。

おそらく軍事力に余裕が出た国が、何かの理由で日本を支配する必要が出て、しかも米軍が動けないという滅多にない事情が生じた時なら行動も可能だ。原発にミサイルを撃ち込むぞと脅迫してくるパターンが最も考えられる。最小の攻撃で最大の脅迫効果が期待できる攻撃パターンだからだ。だが、敵国の軍事力と占領の必要性と米軍の不関与が揃うことは、普通は考えにくい。

紛争となれば相手国も通商が激減し、得るものと言えば資源のない島国。水はきれいだが、時々地震や火山爆発が起こる。占領の維持には金と労力が凄くかかる。そんな国を支配しても、自分らが財政破綻したらアホくさいと考えるのが普通。商売を考える必要のない国が敵となると困るが、現実的に危機が迫っているとは感じない。

もちろん備えは必要で、哨戒を怠ってはならないし、明らかな恣意行為は素早く非難しないといけない。でも右傾化は必要ない。大事なのは法律の不備を是正すること。我が国のスキをつかれて短期間で軍事侵攻されない装備と法体系を持ち、あとは低姿勢でも良いから通商で発展を目指す、その路線が基本と考える。最近の法改正は、方向性がおかしい。間違っても一部の政党や、政府高官、自衛官などが国民の権利を侵害しないようにしないといけない。

ただし問題は、多くの人が宣伝に乗せられやすく、目の前の景気や失業率で頭が一杯になって見通しを誤ってきた伝統があり、楽観できないということ。過去の歴史を見る限り、宣伝さえ失敗しなければ、財界の利益=国益なんだと、簡単に勘違いさせることができるもののようだ。正しい意見を、つまらない意見と評価してきた伝統がある。

 

 

2015年10月 4日

ウォルト・ディズニーの約束(2013)

Disney

- 違和感の原因解明 -

メリー・ポピンズの映画化のために、原作者トラバースと交渉中のディズニープロだったが、トラバースは気難しい人物で、ナンクセを次々とつけて、企画成立は難しくなってくる・・・

・・・DVDで鑑賞。メリー・ポピンズは、結局は映画化されたことは皆が知っている。したがって、この作品はラストでどんでん返しがあって、原作者が了解してくれることと、途中は嫌がらせのような問答が繰り広げられる、そんなパターンのコメディだろうと直ぐに想像される。概ね、その通りの流れだった。

ただし、キャストは一流どころが多く、家族や作品にこめた想いなど、人物の深い部分へのこだわりが感じられ、全くのナンセンスギャグ、ドタバタコメディよりもずっと高尚な、まさにディズニー的ホームドラマの雰囲気、伝統が感じられた。健全な精神を感じる。でも、その伝統のために、よりいっそうの深さには欠けていたと思う。

原作者の父親はアイルランド出身で、なぜかオーストラリアで銀行員になったそうだが、アル中と結核?のために不幸な最後を迎えたことが、作者のトラウマになっていた・・・・そのへんの描き方は秀逸。最初から種明かししてしまうと、作者に同情することは難しいから、陽気に遊んでくれた時代のことや、父親が何かヘマして家族が心配するシーンなど、不幸なドラマを細かく挿入して、作者の心情が分かるように工夫していたようだ。

ただし、少々回りくどく、構成が複雑になりすぎた面もあったと思う。過去にさかのぼって、なぜ原作者が頑固に人物設定に関して譲歩しないのか、その点を理解しやすいような、ナレーションなり技巧的な工夫があったのではないか?スタッフの誰かが調べて、トラバースの言動を解説していくような構図なら分かり易い。

・・・・と言っても、原作を読んだことがないので、何にこだわり、何が映画と原作で違うのかが分からない。この作品のアイディアは、もしかすると録音テープの通りに激しい論争を繰り広げ、スタッフらが辟易した伝説のようなものを誰かから聞いて、そこから脚本にできるのでは?という着想が生まれたのかもしれない。でも録音くらい、大きなプロジェクトであった当時の映画製作では珍しくなかったのでは?とも思うが・・・

エマ・トンプソンの演技は、劇場主にはわざとらしく、オーバー気味に思えた。もう少し穏やかに、しかし陰険な雰囲気のほうが、テープの声のイメージに近いように思う。トンプソンは表情が目立ちすぎ、声も大きすぎる印象を受けた。会話のタイミングをずらし、クールな態度でスタッフを困らせる慇懃無礼でいやらしいオールドミス的な演技が望ましいと思った。

ひょっとすると、ミスキャストだったかも知れない。劇場主のイメージでは、年齢的に無理はあるとしても、バネッサ・レッドグレイヴなどが似合う印象。メリル・ストリープも似合う。エマ嬢は表情が分かり易い分だけ、怒りの表現などが軽くなるイメージがある。頑固さに観客が共感できるよう、人懐こそうな目線が望ましかった。

トム・ハンクスの演技は、ディズニーに似ていただろうか?メーキャップや、古めかしい身振り手振りで、あの雰囲気を再現できたようにも思えた。

メリー・ポピンズの傘の柄は印象的なアイテムだった。伯母さんが持ってくるカバン、そこから物を取り出す様子など、一種のオマージュになっていてファンには喜ばれる工夫が色々あった。そのへんも、手馴れたディズニースタイルの伝統が生きているからできることなのだろう。

そう言えば、映画のメリー・ポピンズは、我が家の子供達には全く受けなかった。劇場主が観ても、独特の暗さを感じる。画質がぼやけて、証明や色彩がやや暗めであることも関係したかも知れないが、もう少し派手でコントラストの効いた色彩に変えて、曲調も楽しいものばかりにしていたら、悲劇さえ喜劇的に描けていたように思う。少し悲しい雰囲気に偏った印象がある。

スタジオで撮影したと思われる町並みのシーンは、照明の関係か、あるいは作品の中で言われていたように色彩を制限されたせいか、暗い印象を受けた。ロンドンの物語だから、雲がかかって薄暗いほうが自然かも知れないが、楽しい映画で暗い画面は基本的に妙な印象。曇っていても明るくするくらいは可能と思う。

あれが本当に原作者のせいだったら、映画化は失敗だったのかも知れない。言っては悪いが、原作者の没後に企画することに成功していたら、随分と違った映画ができていたかも。

元々映画は無理にミュージカルにしてしまった失敗企画かも知れないし、作者の意向とすり合わせた結果、原作が持っていたクールさを失い、いっぽうで陽気な部分まで暗くなって、全体のバランスが合わなくなってしまったのかもしれない。

ディック・バン・ダイクやジュリー・アンドリュースの個人的魅力と、曲のレベルの高さによって名作と言われるほど成功はしたが、ちょっとした違和感は残ってしまったのではないかと思う。

 

 

2015年7月18日

WOOD JOB!~神去なあなあ日常~(2014) 

Tbs

- 山の神とTPP -

大学進学に失敗した主人公は、林業研修を紹介したパンフレットの美女に一目惚れして、研修に参加。虐待のような修行を経て、神去村に居候するが・・・

・・・DVDで鑑賞。この作品はDVDの人気が非常に高く、長いこと総て借りられている状態だった。たぶん、若い人達に人気があったのだろう。筆者(劇場主)は、それこそ神去村よりもっと山に囲まれた地域が故郷だから、林業や村の維持に興味があっての鑑賞。

良くできた作品だった。話の流れが単純で、妙なえげつなさ、深刻さが出ないセンスの良いコメディながら、ちゃんと訴えるテーマのようなものはある。人気が高いのも分かる気がした。

原作の小説~漫画?があるらしい。撮影場所になった田舎に関係のある方が書いた本らしく、作者は実際の作業を見たことがあったかもしれない。

主人公の染谷将太は非常に素晴らしい個性の持ち主で、最近はさまざまな映画に出ている。女性的な顔立ちで、頼りない体型、若者を代表しそうな軽い雰囲気が良い。

ちょっと前だったら、こんな役は濱田岳や吉岡秀隆の守備範囲だった。ドジを繰り返し、皆からバカにされるイジラレキャラは、常に需要がある。濱田との違いは、顔立ちが美しいこと、体が少し細いことだろうか。年齢的にも、濱田では無理が感じられる。

ヒロインは長澤まさみ。今回の彼女は少し存在感が薄い感じ。キャラクターに合っていない面があったのかも。もう少し野性味のある女優の方がイメージ的には良かったかも知れない。ヒロインの魅力を出したければ、彼女もドジだったり、もう少し違う役割があったりしたほうが良い。例えば、コワモテの姉御風のドスを効かせていた女が、酔っ払って失態を演じるなど、彼女も笑いの対象にできる何かがあると良かった。

先輩を演じていた伊藤英明は、昨今は肉体派の上官役が定番になってしまった。海猿の効果らしい。本当の教官たちは、おそらく非常に丁寧で親切に違いない。まだまだ山仕事に人生を賭けてくれる人は少ないから、怒鳴ったり殴ったりはできないと思う。

5月の連休中に出雲大社を訪ねた。

出雲半島の地形は独特。平野から突然神社の裏山がそびえ立ち、おそらく縄文期は海だったろう平野から見ると、ちょうど空の世界に至りそうな角度で稜線が延びている。あの角度は、祖母山を岩戸の町から眺めた時とそっくり。宮島の厳島神社から裏山を観る時とも、よく似ている。

あの角度で山を見ていると、神聖な存在を感じてしまう。山は基本的に人間より大きな存在で、なんらかの威圧感を感じさせるし、昔は実際に事故で命を奪われることが多かったはずだから、畏敬の念は自然と生まれてきたに違いない。神の存在を感じる。

不思議に思うのだが、アルプスの山々を眺めた時は、あんな感覚が浮かばなかった。ヨーロッパの山の方がずっと高いし、壮大なはずだが、理由がよく分からない。ただ美しいなあとか、険しいなあといった驚きは感じても、神がいそうだという感情が浮かばないのはなぜ?

たぶん、そこに住む人が全く違う感覚で、違う神をイメージしているだろうという認識が関係していたように思う。スイスの山の前で、日本式の鳥居を建てるのはおかしい。日本の山の場合は、村人が筆者と同じ感覚を持ち、そこで神に祈りながら生活しているという認識がある。山だけじゃなく、そこの人間も、神聖なる雰囲気に関与すると思う。

若い男性が好んだ作品であるということは、主人公に等身大の自分を意識できたからではないか?林業で食っていけるなら、自分もやってみようかという意識が多少はあるに違いない。都会で派遣業者に登録していても未来は開けない、それくらいなら田舎に行きたい、それは普通の考え方だ。

田舎のほうに受け入れる力さえあれば、互いの需要はあるはず。それには木材価格が一定のレベルにあること、付加価値を付けて商品としてなりたつ物を出荷できることなどが条件になる。自分の山を持っていなくても、労働力として木々の世話をして生活ができるなら、そのやりがいは素晴らしいものだろう。

山の神には、ぜひ若者に力を与えて欲しい。

TPPが成立してしまったら、基本的に木材価格は低水準から回復するはずがないと思える。木材チップを燃料にするにしても、集製材で高層建築に参入するにしても、よほど運送や管理を合理化しない限り、価格で太刀打ちできないはず。

おそらく、林業を主業にしつつ、空いた田畑を無償で貸して農業収入がある仕組み、独自の融資制度などが決め手になるに違いない。そんな制度が、果たしてTPPで許容されるのか分からないけど。

 

 

 

2014年9月28日

ウソツキは結婚のはじまり(2011)

- 嘘と言えば、某新聞社 -

アダム・サンドラーとジェニファー・アニストン主演のラブコメ。「サボテンの花」のリメイクらしい。他にモデルのブルックリン・デッカー嬢とニコール・キッドマンが出演していた。

鼻がやたら大きな主人公のギャグは、主人公がユダヤ系であることと、サボテンの花のウォルター・マッソーの鼻にかけたギャグではないかと思う。

この作品には優れた点がたくさんあったと思う。①セリフはかなり下品だが、エログロに偏るシーンはない。あくまで言葉だけのジョークに止めていて、家族でも鑑賞が可能。②グラマーなデッカー嬢に注目が集まるシーンを設けていたが、健康的な色気に留めていた。③楽曲にいちいち手を入れて、オリジナルと違ったバージョンを使っていたが、そのセンスが良かった。④ニコール・キッドマンが見事な役割を果たしていたこと。

そんなわけで筆者個人にとって、この作品は良い出来栄えと感じた。日本で公開されてヒットしたかどうかは知らないが、少なくとも全国的に広く興行されたはずはない。アダム・サンドラーは日本では評価されにくい俳優だし、基本的に大人しいラブコメだから、大ヒットは期待できないはず。ただ、だからと言って悪い作品ではないと思う。

派手なギャグで大爆笑を期待できる作品ではないのは確かだが、手の込んだ作り方をしようという意気込みのようなものは感じる。音楽が特にそうだ。キャスティングも、けっして二流ではない俳優が多い。心に残る名作にはなれていないとしても、DVDで鑑賞するには悪くない作品。そんな印象。

キッドマンが実に素晴らしかった。気どって何かにつけて自慢する虚栄心たっぷりの様子や、妙な対抗意識でヒロインと張り合う役割で、盛り上げに徹していて感心した。彼女のような目立つ女優でないとやれない役割だったとは思うが、なかなかキャスティングに同意し難いものではないかと思う。せっかくの汚れ役なら、できれば感動作で名演をやりたいと考える女優が多いはず。コメディで性格の悪い脇役をやる根性が素晴らしい。

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画像のブルックリン・デッカー嬢、主人公が一目ぼれする女性役だが、彼女も悪くなかったと思う。彼女はスタイル抜群だが、顔はちょっとイジワルそうで個性的。ラブコメの敵役や、アクション映画の女傑として最高の存在のような気がする。今よりもっと活躍するかも。

ひょっとして、この役を本当に可愛らしく、純真なイメージの女優が演じたらどうだったろうかと考えた。お色気はそこそこで良いから、とにかく可愛らしい感じの女優。すると、作品のイメージが非常に変った気もする。

アダム・サンドラーに関しては、相変わらずよく理解できない。ギャグもいろいろやってはいたが、日本のコメディアン達ほどオーバーではなく、爆笑するにはちょっと解りにくい微妙さを感じる。ジム・キャリーやエディ・マーフィーのような単純さがないので、日本人には解りにくい。

彼を補助する役目の、さらに見栄えのしない俳優が出ていたのは、言いかえれば彼だけではギャグが足りないと判断された証拠かも知れない。だから、もしかするとサンドラーを主演にするんじゃなく、トム・クルーズやブラッド・ピット(無理か?)のようなスター俳優を主役にして、似合わないギャグをさせたほうが良かったかも。

・・・嘘というと、最近は某新聞社が集中攻撃を浴びている。慰安婦報道や、原発事故の際の避難に関して虚偽の報道があったようだが、詳細は知らない。真相を知りようがない気がするので読んでいない。原発事故に関しては、もしかすると吉田所長が仲間をかばって証言した可能性もあり、真相は分からない。証言とはそんなもの。証言が真実と考えるほうがおかしい。

右翼系の論者が激しく新聞社を攻撃し、新聞社OBが言い訳を強いられる番組も見た。吊るし上げ的な番組構成は理解不能。もちろん、某新聞社の責任は非常に重く、もはや取り返しのつかない悪影響を国全体に与えてしまったかも知れないのだが、それでも討論となれば常に対等の立場を維持しないといけない。大勢の糾弾者に少数のOBが答えるような番組は、最初から公正さを破棄している。

某新聞社には確かに問題があったと思う。体質が古いのかも。もともと、日清戦争時代の戦意高揚など、戦争への協力、戦意を煽る報道で随一の新聞になった歴史があり、戦後はその反動で極めて自虐的歴史観に偏りすぎた印象は受ける。戦前の反省から、新聞社内部で著しい左翼方向への偏向が起こり、社内派閥のようなレベルでの争いから、それが長期間維持されてしまったのかもしれない。つまり中立や右翼、体制礼賛を許さない気風のようなものが過剰にあったのでは?

いっぽうで残念ながら原発は事故を起こし、新聞社など比較にならないほどの最低最悪の事業所である。吉田所長がいかに立派な方であっても、その点に変わりはない。いかなる批判をも甘んじて受けなければならない。だから、この状況に乗じて徹底的に攻撃する、確証がない情報でも報道して構わない・・・そんな感情が、某新聞の側にあったのかも知れない。想像に過ぎないのだが。

新聞社の場合、ある程度は仕方ないこととも思う。明らかに偏った新聞も多いし、読者が内容に疑問を感じるなら他の新聞に変えれば良いので、特色を出すこと自体は悪くない。虚偽を訂正しないこと、著しく偏向し極端に読者を扇動することがない、それらは必要だが、常に間違わない報道機関はない。外国の一流新聞社だって、虚偽報道は珍しくないのだから。

虚偽が確実になった場合、言い訳は許されない。新聞社の場合は、そこらの噂話とはレベルの違う責任を伴う。慰安婦報道は検証作業なしにスクープされたことが大きな間違いだったようだが、長期間にわたって訂正されなかった理由、今回の訂正に至る検証作業の内容など、隠匿しているというイメージが湧かないような徹底さが足りていない。まるで昔の医療事故の隠匿のようだ。真摯な態度、リクスマネジメントといった観念が、まだないように感じた。

ただし、個人的には右翼に偏らない報道、政府を攻撃する勢力が残ってほしいと思う。虚偽の情報は困るが、政府の好む形で報道する新聞社が大勢を占めたら、権力のチェックが疎かになり、またまた暴走を生んでしまう。対抗勢力、抵抗勢力は残っていないといけない。不充分とは言え報道を訂正し、損害を与えた人に法で定められた賠償をしたら、新聞社としては責任をとったと言える。

・・・・が、今回の損害の賠償額だが、いったいいくら?そもそも誰が訴える?誰に賠償?

 

 

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