映画評

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カテゴリー「か」の20件の記事

2009年8月24日

ガタカ(1997)

- 爽快感が欲しい -

主演 イーサン・ホーク ユマ・サーマン

優秀な遺伝子を持つ人間が優先される未来社会の話。宇宙飛行士になるためには、優秀な遺伝子を持っていないといけない。心臓病などの遺伝子を持つ主人公は、身障者となったエリートと共謀してエリートになりすまし、飛行会社「ガタカ」に入る。しかし、彼に疑いを持った上司が殺されたため警察が捜査を開始し、彼の身辺が洗われることとなった・・・

・・・作品の全体にわたって緊迫感が維持され、ほどよいサスペンスと感じた。でも好みが分かれるかもしれない。

アクションシーンがあるわけではない。宇宙飛行士の話なのに宇宙の映像も全くない。ほとんどは人間ドラマだけで終わりなので、CGを期待する人には全くの期待倒れ。もしかして予算をケチったのか?と、勘ぐりたくなる。

でも、犯罪者のドラマとしては盛り上がっている。役者の力と演出の仕方、舞台となる会社の妙に整然とした感じなどが上手くマッチしているようだ。無駄な舞台はなく、会社の内部が2-3箇所、自宅が一箇所、ロケが道路と店が2-3件、海が一箇所くらいの最小限で撮影できたように思える。

ユマ・サーマンの役柄は、いつもの彼女とは異なる。彼女でなくても良かったかもしれない。もっとクールで知的な美人のほうが向いていたかもしれない。イーサン・ホークは存在感があった。しかし、野心家ならトム・クルーズのほうが向いていたかも。出演料がおりあわなかったのか?

ジュード・ローの表情が相変わらず素晴らしい。車椅子の動かし方も練習したのか、非常に動きが自然だった。

この作品は興行的には惨敗したらしい。やはりCGがなくて、お色気シーンも今ひとつとなれば、宣伝しにくい点があったからか。ドラマ部分は素晴らしかったと思うが、やはり現代はそれだけでは・・・。家族で観るのには少々暗すぎる雰囲気。恋人といっしょに観ても、後味が良いかどうか?やはり爽快感を客に与えるような表現なり、ストーリーが欲しかった。

将来も遺伝子操作で子供を選ぶようにはならないと思うが、特定の遺伝性疾患については羊水で早期に判断しようという動きは始まっている。倫理的な面では仕方ないのかも知れない。たまたま大きな病気がない子供に恵まれたので深刻さが解らないのだが、障害のある子供を育てるのは大変なことだ。

映画のテーマでもあるが、優秀な遺伝子を持った人間だけが職業につけるような社会はあって欲しくない。社会のやる気、発展を阻害すると思う。せいぜいバレリーナやバスケットボールの選手くらいならいいかも。

2009年8月14日

仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー(2009)

- ショックでした -

ディケイドは記憶を失っている。断片的な記憶をたどって行き着いた洋館で、彼は妹と遭遇する。そこで知った話では、様々なライダーの世界があるが、各々が滅びる運命にあるという。唯一の解決策は、最強のライダーを選ぶことだという。そこでディケイドは様々なライダー達と戦うことを決心するが、実はこの戦いには思わぬ落とし穴が隠されていた・・・

・・・この映画は観たくなかった。できればトランスフォーマーにしようと私は主張したのだが、下の子供二人が頑固にこれを観ると言って聞かなかったので仕方なく観た。

映画がやっと終わって、やれやれ早く帰るぞと廊下を歩いていたら、高校生らしき男子が3人連れで出てきて、「いやあ、ライダー達が集合して並んだだけで、この映画を観た意味があったね。」「うん、うん。」と話していた。これにはショックを受けた。

さらに息子がトイレで聞いた会話はもっと凄い。「仮面ライダーと総理大臣が戦ったら、一発で勝負が決まるよね。」 ありえない発想だ。

さすがに高校生にもなって仮面ライダーはないだろう。もっと人生のことや、せめて女性のことを話題に盛り上がって欲しかった。あんなやつらがいたんじゃ日本に未来はない。エロ本でも読め。

仮面ライダーは我々より後の世代には懐かしいヒーローだろう。私の感覚では気持ち悪い顔ですぐ消えてなくなる運命だろうと感じたが、意外にもライダーが26人も生まれるくらい息の長いシリーズになってしまった。

今のライダーは声が甲高く、藤岡弘とはタイプが異なる。またアクションも、カードゲームと連動している関係でカード無しでは何も出来ないように変化してしまって、随分と様変わりした。撮影技術は進化し、今回の作品の爆発のスケールは半端ではない。

ライダーが今後どのような形態で生き残るのか解らないが、私はライダー映画は絶対に観たくない。ポケモンもそうだ。

この作品は子供だけで観るといい。中学生以上は止めて欲しい。もちろん恋人といっしょに見ることはまずい。法律で禁じるべきだ。筋もちょっとひねりすぎたように感じた。子供が希望を持てるような展開にしないと、やはり大ヒットは望めない。子供映画だとバカにしないで、感動を狙うべきだと私は思う。

気のせいかも知れないが、戦って得るものを実感できないような番組が結構多い。これは昨今の日本の将来展望を暗示しているのか?せめて子供には未来に希望を持たせる内容にすべきでは?

 

 

2009年6月30日

風と共に去りぬ(1939)

- 豹変は良くない -

アトランタ近郊の農園主の娘スカーレット・オハラの物語。南北戦争、結婚、出産、家族の不幸、恋愛など多くの事象を乗り越え、生き抜く女性讃歌といったところか?名作のひとつに必ず出てくる作品。当時の超大作。

この作品はアメリカ国内では最高の売り上げを上げた映画らしい。スターウォーズなどとは金銭の価値が違うので金額では比較できないが、観客動員数ではこの作品のほうが上らしい。原作がベストセラーで、いかにもアメリカらしいテーマと描き方がヒットにつながったのだろう。もはや伝説的な数々のエピソードが製作現場で繰り広げられたらしい。

1939年製作というところが日本の映画人にとっては大きなポイントだった。この作品を戦前に上海かどこかで見た人は、こんな映画を作る国と戦争するなんて正気じゃないと思ったという話は有名だ。経済の活力、娯楽産業のパワーの差がいかにあったかということであろう。豪華な娯楽を楽しんで幸せを感じることができる、それは大事な要素だ。

この作品は自分にはピンと来ない。原作を一度読んだような気がするが、本来は「戦争と平和」のアメリカ版といった感じではないか?ちょっとオリジナリティには欠けるストーリーのような気がする。ヒロイン像は多少新しいと思うが。

純粋な文芸作品とは言いがたいし、演出や演技がそんなに凄いのかも、よくわからない。豪華で、スケールが大きいことは間違いないが、今の映画はもっと凄い予算をかけていると思う。あくまで当時のレベルで凄かったということではないか?ただ人物の描き方が素晴らしいとは思う。極端な描き方だが、キャラクターを明確に整理できている。

主人公に感情移入はできない。わがままで意地っ張りと思う。だが、女性らしい感性を持っていると思う。女心が判らないと日ごろののしられている私だからピンと来ないだけか?それに、メロドラマを好きな女性は多いが、メロドラマのストーリーをたくましく生き抜くヒロインがいれば、それはかっこ良く写るだろう。

ヒーローのレット・バトラーはアメリカ的なヒーローだった。ヨーロッパの王子様とは違う。結構な放蕩息子で、アウトローである。あれくらいないと激動の時代は生き残れないのである。安定を志向していたら置いてけぼりを喰らうだけではすまず、合法的に蹴散らされてしまう厳しいアメリカ社会である。

日本ではアウトロー的人物は、貞淑でしっかりした奥さんを志向する傾向がある。家をしっかり守ってもらうから安心して仕事をできるし、さらなる放蕩ができるのである。自分と同じような性格の女といっしょになったら気が休まらないことを本能的に感じ取るのだ。レット君は少し考えが足りなかったのかもしれない。映画でも結局失敗していたのではないか?

もしヒロインが意地を張らない性格だったら、そして人との心の結びつきを重視する生き方をしていたら、何度も結婚はしていないだろう。戦争で精神的に参って、実家の再建などできないかもしれない。自由奔放でなかったら、きっとレット・バトラーは興味を示さなかっただろう。いろんな人物と知り合って、いろんな経験をできたことは良いことだ。

演じていたビビアン・リーは本当の女優だった。美しく、腰の部分は折れそうに細い。最後はアパートで寂しく死んでいったそうだが、だから不幸な人生とは言えない。女優らしい。スカーレットと重なる個性を持っていたのかも知れない。

スカーレットは今でもかっこいい女性なんだろうか?今ならもっと学があって、切れ者タイプのほうが理想に近いのでは?ファッションにうるさい物書き、デザイナー、コーディネータータイプのキャリアウーマンなどが理想像ではないか?

でも少なくとも過去には、女性達の支持を受けていたと考えられる。

あんなのが喝采を浴びたら困る。精神的な落ち着きを願うなら、あんな生き方は邪道で、家族にとって迷惑だ。たぶん不安を抱え、精神安定剤やカウンセリングを必要とする。あれが大勢だと社会的なロスが大きい。子供達の世話で一生を終えることになっても、安定した生き方は悪くないと思う。皆がそうではだめで、誰かがスカーレットのように活躍しないといけないが、あくまで例外でないと困る。

近年の家庭が安定を欠くのは、スカーレットの影響なのかも知れない。自信家で意志が強く、負けん気の塊のような人なら、彼女のように生きるべきだ。でもカウンセリングの予約も覚悟しないといけないし、できればこれから結婚しようという相手には自分がスカーレットであることを明確にして欲しい。

今は商品の説明がないと消費者保護法に引っかかる。家庭的そうな顔をして結婚後に豹変するのも犯罪的行為だ。きちんと説明する義務がある。スカーレット型女性にとっての結婚はステップに過ぎないと最初から考えておいたほうがいいが、それならそうで、こちらにも覚悟がある。説明責任はある。

例えばサッチャー元英首相の恋人になったら、彼女が妻として家庭に留まることを強制してはいけない。明らかに社会的な能力がある人を家庭内に押し込めてはもったいない。能力がなくても、女性自身が仕事を強く望むなら、やはり本人の意志に従うべきである。ただし、その場合は家族の生活に何の支障もないこと、もしくは最初から自分が将来家庭に留まらないことを明確に意思表示することが条件であるが。

安定志向の女性なら、社会に進出して活躍するのは止めたほうがいい。それが偉いとか愚かとかは言えない。個性と向き不向きの問題だと思う。女性の権利と、能力と、社会的義務、パートナーが望むもの、それらのバランスを間違えると不幸を生む。家庭内で意見の相違を生むのは、多くの場合はこの分析の相違が原因だ。

結婚後に豹変してはいけない。騙されるほうが悪いのよって言ってしまえばそれまでだが、結果的には騙した本人も良い思いはしないことが多い。やはり騙さないことは重要だ。スカーレットは最初から「スカーレット型」だったので詐欺罪には問われないだろう。彼女らしい生き方で、さっそうとしていた。

 

 

2009年5月12日

華麗なるギャツビー(1974)

- レオさまが演じたら? -

ニューヨーク郊外のロングアイランドのお屋敷で、今夜も派手なパーティーが開かれている。屋敷の主人は謎の富豪ジェイ・ギャツビー。あるものは彼はロシア皇帝の子孫と言い、あるものはヤミ酒成金と言う。でも、そんなことはどうでもいい。楽しく飲んで騒げるのなら、と皆が思っている。

屋敷の隣家の証券マンであるニックは、ある日ギャッツビーに招待される。ギャッツビーは、どうやら従妹のデイジーに会いたいらしい。さっそく彼女と引き合わせたのだが、なんだか彼らには過去のいきさつがあったようだ・・・

・・・華麗なる、と邦題を付けたのは正解だった。原題ではグレート・ギャツビーとなっているから、ちょっと意味合いが違うように思う。映像の具合からすると、華麗なるのほうが悲しく、美しい響きがある。

富に対する思い、特にそれが恋と関係している時は、何かせつなく感じさせる。

漠然とだが、リッチ=もてるという常識がある。金儲けをしようと頑張る人間は、基本的にはもてたいという欲求が根底にあることが多いと思う。その相手が不特定多数の異性なら、ただの助平な欲にまみれた人間の所業ということになるが、特定の人の気を引くために命がけで金を儲けるなんてのは、感動を生む設定だ。純愛物語になる。

それが裏では人殺しや違法行為を働いていた場合、そして罪が暴かれて没落していく場合、それはすぐ物語になる。華やかなパーティーや、シャレたダンス、ジャズなどが彩りを添えれば、もうヒットは間違いなし!そんな安易な狙いで製作された作品だろうが、狙い通りに素晴らしく仕上がっていた。

終わりと中盤で流れる曲も良かった。ストーリーとミスマッチな能天気な歌詞の曲で、時代も合っている曲だ。この選択はシャレている。当時の気分を表わして、この上ない曲だと思う。音楽担当のハリー・コニック・Jrのセンスだろうか?

壊れかけた眼鏡の看板が出てきて、これが作品の中でシーンが変わるたびに使われている。神の目のような見透かした目で、神秘的な印象を出すのに効果的である。現代では神の目も看板のようにカスタマイズされているようだ。これも雰囲気を上げる効果があった。

主演はロバート・レッドフォード。当時の大スターだった。ヒロインのミア・ファローは、ローズマリーの赤ちゃんのほうが有名で、この作品では中心的に描かれてないようだが、なかなかの名演だったと思う。役柄としては身勝手で気まぐれで、好かれるような役ではないんだが、実に自然に演じている。この女性の描き方が、この作品のデキに直結していたと思う。

存在するだけで皆が注目するような、かわいいと誰もが思える大スター、もしくは肉感的な女優が演じてくれたら、その女優はイメージを損なうかも知れないが、映画の魅力はもっと上がったかもしれないと思う。「彼女のような悪女には、純真な男が騙されてしまうんだよなあ。」と感じることが自然にできるからだ。でも、その半面で安易なラブストーリーになってしまう危険性も高い。

シャロン・ストーンのように計算していることが見える本当に冷たい女ではなく、議論すれば簡単に負けてしまいそうな、弱々しく頼りなさそうな艶めかしい悪女、女性特有の愚かさを持つが、かわいらしい感じのする女優がいいと思うんだが・・

実社会での多くの女性は、きっと一生懸命生きているんだと思う。倫理的な生き方に囚われては、自分の人生が光を失ってしまう、もっと人生を伸びやかに、楽しく、または充実して生きたい。そう願うのは間違った考え方ではない。時には人を裏切り、傷つける結果となっても、悪気はそんなにない。自分の望みに忠実なだけである。

誰か一筋に賭ける一本気な愛はイヤだわ、無理な生き方はできないわ、遠慮ばっかりの生き方は息が詰まるわ、金持ちの女は貧乏人とは恋をできないのよ、というのも間違いではない。それくらいないとダメだ。

もし恋に忠実に生きていくなら、ひょっとすると刑務所にいっしょに入らないといけないことになる。そうなら、ちょいと打算を働かせてもいけないことはないじゃん、自分から苦しい道に進むのはおバカよ、ってな考え方。そんな生き方に関して、少なくとも他人にとやかく言われる筋合いはない。

この作品、極端に言えば主演はレッドフォードでなくても良かった。今なら、おそらくはトム・クルーズやディカプリオが好んでやりたがるような役である。ディカプリオのほうが、いかにもアクドイことを影でやっているように見せることができるかもしれない。レッドフォードも何度か顔役のような口ぶりを見せたが、やはりハンサムすぎて迫力に欠けていたと思う。

でも彼の演じ方、演出の仕方は、いかにも謎めいた人物像を上手く演じきり、しだいに過去のいきさつが解って、観客が同情したくなるような悲しく、せつない思いをも表現できて、さすがに魅力的だった。彼はみんなに好かれる稀有なスターだった。

ブルース・ダーンも実に上手かった。俗物の表現が素晴らしかった。彼はいつも恋人を取られる役柄が多いような気がする。「帰郷」でも、確かそうだった。さらにカレン・ブラックも凄かった。ちょっとオーバーすぎると思ったが。

そもそも原作が味わいのある、小説らしい小説だった。1回流し読みしただけであまり覚えていないが、ラストは銃撃で終わっていたような気もするので、もしかすると映画とは少し違っていたかも知れない。ギャツビーの父親がやってくるシーンは原作にあったかどうか記憶が定かでない。あったとしても、ほんの少しの記述で短かかったのでは?

父親のシーンは良かった。どんな子供だったか、将来の夢は何で、どんな努力をしようと考えていたか、などを話されると実に悲しい。映画用の脚本か原作にあったか解らないが、このシーンを付けたのは正解だった。

映画全体が、好景気の時代のアメリカの繁栄を再現しているので、美しく懐かしいような、華やかな雰囲気に満ちている。ロケで使ったのは実際の邸宅らしいが、豪華で空虚な感じが漂っている。ダンスする人達の影が幕に映るシーンなども絵になる。繁栄した時代こそ、悲しい物語が映えるのだ。

今の映画と比べると、この作品は大人しい。セックスシーンもない。家族で観賞することを前提に作られているためか?でも、不倫やらランチキ騒ぎやら出てくるので、子供向きとは言えないようだ。恋人といっしょにみるなら、これは素晴らしいのではないか?女性がどんな感想を持つのかは気になるが。「うーん。やっぱ私も打算的にいかなきゃ。」なんて、思わなきゃいいが・・・

カメラワークが気になった。自然でないことが時々あった。カメラの性能のせいか?テレビのようなアップの仕方の場面も何度かあった。特にカレン・ブラックがパーティーでしゃべる場面は、もう少し引いたほうが画になったと私は思う。でも、ほとんどのシーンは美しく、映画らしい魅力に満ちている。これはオススメの映画だ。

さらに感動モノの、涙を誘う物語にしようとするなら、どうすべきだったろうか?

おそらく原作同様に、主人公はヒロインの身代わりとして罪を被らなければならない。ヒロインが、それを知らないか、さっさか逃げていったら現実的で、結構まとまったのではないかと思う。主人公の正体が明らかになって、破滅するきっかけをヒロインが作ってしまう、そんなストーリーでも良かったような気がする。

主人公が殺されてしまうシーンは必要ない。「あれ?主人公はどうしたの?」と、隣人が訪れると、彼の父親が主人公が殺されるまでを説明してくれる、破滅としか言いようのない、みじめな死に方。懸命に生きた主人公の哀れな最後・・・そんな展開なら涙なしでは観れないだろう。

原作でも主人公はプールで撃たれて、回りながら沈んでいったと書かれていたように思うが、それを映像化する必要はなかった。映像化したことで、芸術的な工夫のしようがなくなる。なんで間接的に表現しようとしなかったのか・・・

 

2009年4月10日

カクテル(1988)

- 野心の表現が上手い -

トム・クルーズ演じる若者は軍隊生活を終えて、都会でのし上がろうと野心満々。でも、就職できたのはバーテンダーの仕事のみ。ところが、先輩のバーテンダーは普通じゃない。野心と独特の哲学を持ち、あらよっと踊りながらのカクテル作りを披露する。

彼に習って修行したらノリノリの二人の店は大評判になり、いっきに金持ちか?と思いきや、女のことで仲違いして、あわれトム様はビーチで寂しくバーテン業を営むことに。そこで出会ったエリザベス・シュー嬢と恋に落ちるが、そこに例のバーテンダーが金持ちとなって現れる・・・

・・・「カクテル」は、トム・クルーズがスターダムにのし上がった頃の作品だった。「トップガン」と同じく、野心満々のキャラクターを演じていた。まだ若々しい彼が、のし上がろうとして挫折する姿には真の迫力みたいなものがあった。

野心が災いして、何かの失敗をする、敵を作ってしまう、挫折する、そんな展開は、作品の違いがあってもトムさまの一貫した流れであった。そんな役をやらせたら、トム・クルーズ以上に上手く演じる俳優はいなかった。華やかさからの転落、それに彼の自信過剰な表情が良くあっていた。

「ココモ」の曲も素晴らしかった。久しぶりのビーチボーイズのヒット作だったはずだ。南の島の楽園で、楽しい音楽を聞きながらのんびりしてみたい欲求は常にある。でも、実際には映画でしかそんな気分になれないんだなあ。

友人達と沖縄旅行をしたことがあったが、あれは私の人生のピークだった。あの時は酒を飲もうと思っても、そんなに飲めないと思った。暑いビーチでカクテルを飲むのは、私はあんまり好かない。酔っ払うと余計に暑くなって苦しくなるし、二日酔いになりやすく、せっかく海に来ているのにグッタリしてしまうのだ。

カクテルを少したしなんで、水着の美女を探すべきだったのだ。もったいないことをした。酒を中心にして、水着美女を肴にしようと考えたのが大きな間違いだった。今頃気がついた。

カクテルを作る際にビンを放り投げるのはなかなか上手かった。相当練習したんだろう。「コヨーテ・アグリー」でも同じようなパフォーマンスがあったが、あれのオリジナルはどこかの店なんだろう。見ていて楽しくなるが、実際に目の前でやられると怖いかも。

若い頃、ちょうどバブルの頃だが、ステーキ屋に行ったら胡椒などをポンポン放り投げるパフォーマンスをやっている店だったが、店員がまだ慣れていなかったので先輩のドクターにビンを投げつけてしまった。危ないところだった。

この映画のちょっと前か、カクテル作りにはまったことがある。家にいろんな酒のボトルを購入して、シェイカーまで用意して作ったが、書いてある通りにやっても吐き気がするような作品しかできなかったりして、結局は中途半端に止めてしまった。なかなか本だけでは上手くいかないもんだ。酒のブランドなども大事なのかも知れない。

で、映画のほうだが、この作品は踊りながらカクテルを作るシーンと、ビーチの美しい光景以外は、あんまりデキが良くなかった。トム様の野心は感じられたから、彼の演技は良かったと思うが、ストーリーに盛り上がりに欠ける感じを受けた。結局は、カクテル作りのシーンを撮るために無理に作ったからかも知れない。

今となっては、トム・クルーズの野心を記録した作品として、意味があるとも思える。彼は一時代を作った。

飲食業でのし上がろうとする人は多いが、なかなか競争が激しく難しいようだ。きれいな店を作れば数千万の借金を背負わなければならないが、一皿数百円の品々でそれを返済していくのは、気が遠くなりそうな作業だ。大評判になる→ チェーン店化する →多業種に挑戦するといった流れを全てクリアしていかなければならないが、挫折するほうが圧倒的に多いようだ。

病院もそうだ。20年位前までは、大きく借金してきれいな病院を建てれば、患者も集まってどんどん事業展開できた。老健施設を併設、関連病院を作るなど、成功した例はとても多かった。よほど無茶なことをしない限り、右肩上がりで成長できる神話があった。

でも、今は違う。基本的に市場を小さくしようというのが政府の方針なので、能力があっても銀行が融資してくれないし、長期間の事業の見通しが本人もできないようになっている。私としては、今までが良すぎただけのような気もするが。

私にも野心はあるが、大病院を建てて金持ちになる夢ではない。時代遅れのシステムを利用して社会資本の無駄使いをしていては、いかに大きな病院を建てても、いかに儲けてもむなしい。古き良き時代の夢物語の延長に過ぎないと思う。

野心の足りない負け犬の遠吠えにも聞こえるが・・・

 

2009年3月16日

カッコーの巣の上で(1975)

- 束縛が嫌いな男の行く末  -

刑務所の労役がイヤになったジャック・ニコルソンは、持ち前のあくどさで自分を精神病患者として偽り、病院に入院して逃げることを思いつく。やってきたのは、厳しい看護師長が君臨する病院。

くだらないカンファレンスを邪魔し、他の患者を煽動してテレビ観賞を要求するやら、脱走を企てるやら、実際に船で出かけてしまうやら、メチャクチャな行動。しかし看護師長はなぜか彼を治療することを求める。

彼女らが認めない限り、ニコルソンは病院から出られない!怖ろしい状況に気がついたニコルソンは、いよいよ脱走を試みるが、前祝いにパーティーを,企画する・・・

・・・NHK衛星映画劇場で久しぶりに観た。最初に観た頃は、主演のジャック・ニコルソンしか知らなかったが、改めて見てみると驚いた。その後に個性派として名をはせた名優達が大勢そろっていて、さながら演技派大集合の様相であった。

狂人たちの一人で、完全に顔からしておかしい(失礼)大柄の男はビンセント・スキャベリで、「ゴースト」で列車の中をさまよう幽霊役だった俳優だ。大げさな態度で眼をむいて騒ぐ男は、バック・トゥ・ザ・フューチャーの博士役で有名なクリストファー・ロイドである。ダニー・デ・ヴィートは、この映画がデビュー作らしい。まだ若々しく、アクの強さやおかしさは出していないが、改めて見ると非常に印象的だ。

この作品は、マイケル・ダグラスがプロデューサーをやったことでも有名だ。なんで自分で主演しなかったのか?当時は俳優としてはニコルソンのほうが圧倒的に有名だったので、ネームバリューを重視したのか?それに主役の個性を考えると、ニコルソンが無難と考えたのか?その辺の事情は何かで読んだ記憶があるが、忘れてしまった。

カッコーの巣の上とは、精神病院を意味するらしい。確かパンフレットに書かれていた記憶がある。

この作品の意義は、抑圧された社会の状況を精神病院に例え、精神的な開放を訴えたことではないかと思う。75年と言えば、もうあちらは完全に開放されたと私は感じいたが、伝統的な抑圧はあるはずなので、不条理に憤ることは、当時のアメリカでも多かったはずである。

ニコルソンは無茶な人物ではあっても、自分の自由と権利を重んじ、人の権利を踏みにじることは特に求めていない。おそらく人種差別もしない。よほど人間的な人物と写る。要するに束縛が嫌いなだけだ。そのような人物の存在の意味が、この作品の主題と言えるのではないか?子供時代の私はそう感じた。今でもそのように思う。

キング牧師の運動やベトナム戦争の影響が大きいと思うが、解放が叫ばれた時代がしばらく続いた後、90年代には完全に束縛のし直しのような時代もあった。私の世代は、この作品に影響されてしまったので束縛が嫌いである。病的なほどに。

とにかく、ニコルソンの迫力は大変なものだ。演技しているのか、地なのか解らないような気がするほど乗っている。イージー・ライダーでも存在感があったが、あれはまだ演技の臭いがあった。この作品では本当におかしな人格を持っているのかと疑いたくなる。

彼が演じたような破滅型キャラクターの人物は、意味は違っても異常と言えるんだろう。スポーツや賭け事などがいかに得意でも、物事の認識、理解の仕方がおかしい人物は多い。個性的というより、やはりおかしいと言ったほうがよい。

熱演によって、この作品は単なる社会派に止まらず、立派な娯楽作品にもなってしまった感がある。賞を取って、結構有名になった関係もあるだろう。家族で楽しむ種類の作品ではないと思うが、ある程度大人になった家族なら、皆で見るのもそんなに悪くはないように思う。恋人と観るのはそれほど勧められないが、ダメではないか?

この作品の看護師に代表されるスタッフの有り様は、いかにも非人間的である。もちろん立派に自分の職務に励んでいることは疑いないし、使命感に燃えているのも事実だが、必ずしも手放しでは褒められない。

看護師長がニコルソンを退院させないと言うのは、病院だから許されると考える人も多いかも知れないが、本来精神病でないと判断される人は、精神科の治療規則の適応ではないので、スタッフ会議で拘束されるべき対象ではない。

看護師の意見がまかり通ることはおかしい。日本とアメリカでは看護師の権利が違うので一概には言えないが、医師が「彼は精神科疾患ではない」と言えば、実はおかしいとしても即、退所すべきである。病院の管轄外の人間のはず。その判断が正しいかどうかは関係なく、権限の問題である。経験豊かな看護師が何を言っても、権限がないはず。

もし権限があるなら、はっきり権限を明示するべきである。アメリカではそうなのかも知れない。日本では、権限を明示しないままの施設が多い。病院を作るからには、管理するための権限、義務を明示しないといけないという発想がない。

したがって越権行為がまかり通ることが多い。例えば病棟の入退院管理は医者では無理なので、看護師やマネージャーが担当することになるが、看護師が忙しい時期には明らかにベッドが空いていても急患の受け入れを断られていた。

確かに入院があれば看護師は時間外労働を強いられるから、労働規則を慢性的に破るような行為は違法とも言える。慢性的に看護婦の過剰な労働を強いているのが日本の現況なので、その上さらなる献身を強いられると、看護師としては耐え難い状況になるるのは確かだ。

そうなんだが、共に働こうという意欲が感じられなかったことも事実である。いつの間にか、「当然医者の申し出は断っていいのよ。」という慣習になって、患者さんにはすまないけど・・という感覚は失われていた。中には無理しても医者の申し出に付き合おうという看護師もいるのだが、そうすると他の看護師から反感を買ってしまう。そんな風に私には感じられた。

労組が強かった職場では、きっとこのようなことは他でも当然起こっているはずである。単純に権限と義務を細かく規定していれば、このような問題は少なくなるはずなのに、とにかく我らの社会はルール作りの発想がおかしいのだ。

話は代わるが、精神科疾患の患者の管理には本当に苦労する。救急隊から連絡があった時点で気持ちがなえる。きっと今夜は眠れないだろうと覚悟を決めないといけない。

もちろん、こちらは精神科のかかりつけ病院に連絡を取ってくださいと言うが、連絡が取れなかったり病室がなかったり、内科疾患が疑われるから・・・などと色んな理由をつけられて、何とか病院に押し付けてしまおうという意図がありあり。頑として断るのが利口なんだが、いつも断れるわけではない。

そして患者さんが来院。案の定ワーワー騒いで、こちらの言うことには全く了解しない。内科の病気は主な治療の対象ではない場合でも、帰れないというもっともな理由があると入院するしかない。家族は怒る。「なんで苦しんでいる病人を入院させないんだ!」外来看護婦は怒る。「こんな患者を入院させたら、病棟は仕事できません。」

実際にそうだ。見回りしている間に患者が暴れたり、いなくなったりするに決まっている。そうなったら責任問題だ。管理なんかできるわけがないのに、責任だけはある。「条件として、家族の付き添いをお願いします。」とお願いしても、「いえ、それは無理です。親が病気で看る人がいないので。そんな無理を要求するんですか?」などと逆に怒ってくる。そして上手に帰られる。

行方不明になった例は数知れず。看護婦とケンカになってしまうが、他に受け入れが不可能なら受け入れざるを得ない。看護婦も怒って、患者さんが何か訴える度に医者を呼ぶ。「おなかが痛いと言ってます。痒いと言ってます。便秘だと言ってます。とにかく医者に来いと言ってます。」病棟に行くと、さっさと自分の仕事を済ませようとして、その場を医者に任せたがる。処置をして外来に戻ると、またすぐ電話して、とにかくベッドサイドに呼ぶ。

鎮静剤の指示を出していても看護師は「怖いので、先生がしてください。」と言うか、または無視することがある。要するに抵抗、復讐みたいなものだ。入院を許可した人間を絶対に眠らせないぞという考えを持つ職員もいるのだ。仕方ないので、大量の鎮静剤を投与して、呼吸が止まらないか確認するために結局はベッドのそばに張り付くことになる。「肺炎なのに、呼吸抑制はできないよなあー」と考えつつ・・・

実際に何かが起こったら、直ちに訴訟が待っている。

私が知っているだけで、暴れていた患者さんが急変してなくなった例が3件ある。幸い自分の患者ではなかったが、際どいところだった。無理にCTなどを検査をして救った例も5~6人いる。スタスタ歩いていた患者が足を骨折していたこともあった。痛みを全く訴えていなかった。

でも、こんな方法はおかしい。精神科の管理が必要な患者をどうするかのシステムができていないまま、ただ救急をやらせるのは無理なのだ。個々人の努力で解決させるやり方は、もう時代遅れだ。そうしないと、スタッフが耐え切れなくなる。

アメリカの精神病院には、作品を見る限りシステムがあるように見受けられる。犯罪者がどういう状態だったら退院できるか、どうやって決めるかなどの規定がしっかりしているようだ。日本には規定がない。ただしアメリカでも運営は会議の結論で変わってくるし、押しの強いボス的な人物が強く患者の入院継続を要求したら、簡単に退院させることはできなくなり、映画のようなことも実際に起きているのかもしれない。

日本の場合は、退院に関して話し合いなどするのだろうか?事務的に処理されるような気がする。精神病院といえども、おそらくは医療費削減目的でベッドの余裕はないと思えるので、多少の異常は無視してどんどん刑務所に返そうとするのではないか?哀れな患者は、もくろみが露呈する前にムショに戻らないといけなくなる確率が高い。

電気ショックの場面があったが、あれで人間をおかしくできるのか解らない。研修時代にショック療法に立ち合ったことはあるが、しばらく意識を失っていた患者さんは、やがてゆっくりと元の状態に戻ることが多いと聞いた。実習では自分から希望する患者さんもいると解説された。自分で患者さんにやったことはないので詳しくないのだが、電圧の調節などで後遺症を残すことも可能なのかも知れない。

ただし、どれだけ暴れて手が付けられない患者でも、意図して脳に障害を残す行爲は、明らかに違法である。拘束はできても、頭の内部に何かをすることは許されない。さすがに日本の現場でも告発を受けるのではないか?

日本では薬物による認知症は多いように見受ける。

近所の専門家達も、やたら薬が好きな人が多く、処方された内容にビックリする。精神科医の評判は、要するに患者が暴れないことが第一なので、薬による沈静を最優先する傾向がある。このため必要以上におとなしくなり、結果的に認知症の進行を早めたことが疑われる症例は多い。

学会誌を読んでも、やはり向精神薬を飲んだ群は、認知症が進む傾向はあるようだ。だから沈静してはいけないなどとは言えない。暴れて事件でも起こされたらかなわないので、やむをえない場合も多い。でも、やりすぎを疑う例も多い。

最小限の沈静で観察するには、相当な勇気と予測能力が必要であろう。

2008年12月26日

影武者(1980)

- グレート・エキストラ -

武田信玄は常に影武者をしつらえて、万が一の自体に備えていた。今日も、ある男を候補として連れてくるが、この男は罪人で、磔の刑にされる寸前で助けられたのであった。

いくらなんでも罪人を代役にするのは問題だと思われたが、とりあえず信玄の真似の訓練はさせることにした。

ある日、狙撃によって思いがけず信玄は急死してしまう。やむを得ず、罪人が代役になる。しかし、息子の勝頼は面白くない。重臣の協議で軍団の方針が決められるからだ。

信玄の生死を信長や家康側のスパイが探りを入れてくる。尻尾を出さないようにしないと、軍団の崩壊を生む。家臣達は様々な偽装工作をする。

いっぽうの罪人も苦労する。家中の者に代役であることを悟られないように、その場その場を冷や汗かきつつ、からくもしのぐ。問題は、信玄にしかなつかなかった馬に乗ること。ある日、彼は問題の馬に乗るが・・・・。

長篠の合戦をクライマックスにした戦国時代の武田信玄の軍団のアガキを描いたとも言える作品。合戦の迫力は素晴らしかった。でも、編集は私達の感覚では冗長に写るような、ちょっと感覚的に違う出来栄えだった。

この映画を観て感動できたかと問われると、全くと言ってよいほどだった。カンヌ映画祭でグランプリを取ったらしいから、オタク的な良さはあったかも知れない。

声が聞き取りにくくて、何か技術的な補正が必要と思えた。

駄作ではないと感じたが、ちょうど「地獄の黙示録」と同じ轍を踏んだような印象を受ける。

アイディアは抜群。

影武者を題材にすることだけでも話が面白くなることは請けあいだった。うまく真似を続けること、疑われて苦労することなども、観客を沸かせる材料になる。

黒澤軍団得意のセットで、能のような足運びをさせる心理劇と、これまた得意の騎馬隊の突撃を描けば、傑作が誕生するはずである。

画面の構図や、視覚効果、演技の細々したところまで神経が行き渡り、レベルの高い作品だったことは疑いない。でも、テーマというか、結局は何を言いたかったのかが理解できなかった。影武者が陥りそうな試練の面白さはあったが・・・。

「七人の侍」は単純なテーマである農民讃歌、友情や尊敬、計画力、行動力、指導力、達成感などに強い感動を生む要素があった。「天国と地獄」「蜘蛛巣城」なども、テーマは様々であったにもかかわらず、説得力があった。でも、この映画のテーマは何だ?

基本的には失敗した計画、没落する様を描いているので、もともと爽快感は得にくい。家臣と協力していく中で友情が芽生えたわけでもない。愛の要素もない。その点で、後味の良さは期待できない。

武田信玄のスローガンの風林火山は敬意を表するに値すると思う。確か、もとは中国の何かの文章だったような気がするが、軍団の旗印に使うなんて素晴らしいアイディアだ。

信玄に主人公が感動してもおかしくはないが、順を追って理解するに至るわけではない。この描き方では信玄への讃歌がテーマではないと思うし、ましてや風林火山が普遍的なテーマではないだろう。あくまで戦いの方針である。

楯代わりになって死んでいく小姓連中を見て、影武者も動かない覚悟を決めるシーンもあったが、そんな自己犠牲的な精神を訴えても仕方ない。もし、その点を強調したいなら、撃たれても立ち続ける小姓達をはっきり見せるべきであった。あまりにも暗い中での合戦シーンだったので、本当はリアルなんだろうが、理解できなかった。

なんで友情や信頼感、感謝をテーマに持ってこなかったのか? 死せる信玄が、生ける信長を騙し通す痛快さがあっても良かったのでは?

単に私の頭のせいで完全に理解しきれていないだけか?

長篠の合戦の図にも、違和感があった。普通、あんな野原で騎馬隊を動かすなら、柵のない側~背面の攻撃に機動力を生かして突撃するだろう。柵に向かっても無駄に決まっている。裏から攻撃できないような仕掛けが必要だ。あの場面は、「ロード・オブ・ザ・リング」の合戦よりも真実味が薄かった。

しかし、その中で特筆すべきは、エキストラの表情、演技であった。厳しく注意もされたのだろうが、笑い顔を浮かべている者がいなかった。あれだけ大勢を動かしながら統率が取れていたのは、信玄軍団なみであった。

エキストラ衆の努力に敬意を表したい。

合戦があってしばらくしてからの死体のはずなのに、真っ赤な血が付いているのはおかしくないか?すぐフィブリンが析出し、表面が酸化して黒~茶色がかってくるはずである。気味の悪さを表現するために、あえて真っ赤にしたのか?茶色と赤を混ぜるとリアルだと思うが・・・。

諏訪湖に信玄を沈めるシーンの煙幕の位置もおかしかった。もっと近くの位置にもモヤがかからないと、「あー、これは煙幕以外の何者でもない」と感じる。なんであんなシーンにOKを出したのか?

主人公の罪人が悪夢にうなされて変な世界をさまようシーンは、監督得意の現代アート調の景色の中で撮影されていたが、私なら一回で終わらせない。短時間で2~3回繰り返し、次第に精神が擦り切れていくか、もしくは覚悟を決める展開にしたい。

根津甚八は、侍の格好をすると貧相にしか見えない。「乱」でも配役は失敗だったのでは?

仲代達也は、身振り表情で見事に演じ分ける本当の演技力を持っていると思う。役者になるために生まれてきたような顔立ち、声、能力を持つ。もし、この映画が当初の予定の勝新太郎が主演のままで撮影されていたら、いったいどうなったろう?

勝の迫力は、彼が若い頃の方が断然あった。白髪が増え太ってしまうと、無茶をやる男の表現は難しくなり、ずんぐりした格好で動けない男だけのよう感覚に陥った。したがって、仲代で良かったと私は思う。勝新のファンはどう思っただろうか?

おそらくファンには若い頃の勝のイメージがあるので、ちょっとした仕草で笑ったりしてくれるが、外人などの勝を知らない観客は、彼の若い頃の迫力が連想できないので、「何?このデブ?」くらいにしか感じてくれなかったかも。

この作品も、一般の人には勧められない。面白くないからだ。黒澤映画のファンだけが、この作品を見る意味がある。

2008年8月16日

カラー・パープル(1985)

- 生活保護制度の意義 -

草原の中で二人の少女が走るシーンが印象的だった。輝く草の中に、ぼんやりと二人の姿が見える。キャッキャッと、いかにも無邪気な少女二人が、手を合わせる遊び(何ていったっけ?)なんかやってる風景は、のどかで幸せに満ちている。その後の二人の運命を知ると、よけいに美しいシーンだった。

この映画は、家族でいっしょに観れる作品ではない。子供には向かないと思う。恋人と観るのはどうだろうか?後の印象が良いとは言い切れないような気がする。一人で、もしくは同性の人と見るのがオススメ。

ストーリーは、凄まじいほどの悲劇だった。花嫁にいきなり石を投げつけるような家庭で、どうやって生活できるのだろうか?黒人であり、しかも女であることの辛さを、いろんな女性が演じていた。それぞれの苦難が、救いあるラストシーンにつながっていた。物語として、最高の出来だと思う。

カラー・パープルと題した理由が自分にはよく解らない。姉妹の服が紫だから?セリフか小説の文章に鍵があるのだろうが、見逃してしまった。

ウーピー・ゴールドバーグは本来は喜劇役者であるが、こんな映画でひどい目に会うと存在感がある。さすがに笑えないほどの非道な境遇なのだが、彼女の場合は見ていて耐えられる。もし、美人女優が同じ役をやっていたらシリアスになりすぎて様相が変ってしまうだろう。 

ブスなら不幸になって良いというわけではなく、彼女なら耐えられそうな気がするのである。ブスであることは大変な不幸なので、忍耐力があるだろうと思えるのか?私には偏見があるらしい。

ダニー・グローバーが悪役で登場していた。妻を虐待することしか知らないような無茶なキャラクターだったが、姉妹の妹を誘惑しようと精一杯の笑顔を浮かべながら付きまとうシーンは素晴らしかった。実に存在感があった。ラストでも、姉妹の影になってはいたが、しっかり畠で仕事をしていた。絵になるシーンであった。

彼の父親役も傑作で、子供にロクなことを教えていない。ヨタヨタしながら、結構元気に長生きしているのが不思議である。面白いキャラクターだった。親子ともども、ひどすぎて魅力的である。

ジャズ歌手役の女は、主人公の友人であり、自立するためのお手本として登場したのだろう。映画では特に歌声で雰囲気を盛り上げる役割も果たしていた。歌いながら、主人公に感謝の意思表示をすると、ウーピーがニヤッと笑う表情が、いかにも美しくない点が良かった。

程度の差こそあれ、女性は長らく虐げられることが多かった。特に昔の大家族の場合は、家事をするだけで日が暮れるだけの人生を過ごして終わる人が多かった。一生、自分が生まれた村から出たことがないまま死んだお婆ちゃんが町内にいたが、それを聞いて、呆れながら笑ってしまった。

それでも子供達が立派に成長して活躍してくれれば、達成感もあるだろう。一生家事をするだけで終わっても、そんな人生も構わないかなと自分は思う。世界中を旅したとしても、家族に恵まれなければ、どこかむなしい。

なれるなら、一世を風靡するアーチスト、アイドルになるのも悪くはない。そのために結婚できない人達も結構多いが、それはそれで意味のある人生なのだろう。高倉健や、ヨン様、グレタ・ガルポもそうだったか?

もし、自分の夫や妻から、ただの家政婦、ただの収入源としか見てもらえなければ、それは不幸である。今日のような豊かで安定した時代では、そんな風に感じたら直ぐ離婚したくなる。辛いことに我慢しなくても、なんとか生活していけるから、簡単に離婚する。

やはり夫婦関係を維持するためには信頼感、共通の目的意識、自分が頼られている実感、共感するものが必要なのである。

私の場合は、家内は私をよい金ズルと思っているから、離婚はしない様子である。彼女は損得勘定だけで、そう判断しているフシがある。私は家事もこなすし、子供の面倒も見るので、便利な存在なのであろう。

離婚する際の費用は、意外に少なかった。こちらが悪くても、慰謝料の金額は数百万円で済むらしい。それなら、家内にバカみたいな散財をされるよりは無駄が少ない。節約のことを考えるなら離婚したほうがいいのだが、世間体を考えるとしたくない。そこを利用されているようである。

主人公も、夫とはさっさと縁を切って自活できれば良かった。しかし、それは皆の援助がないとできない。もし当時の彼女に生活保護制度があれば、あんなに苦労はしなくて良かったのに。

最低限でも生活できるという安心感は大きい。暴力沙汰に日夜耐える恐怖よりは、不自由があっても生活保護のほうが絶対にいい。監獄のような境遇の人を救うためにも、保護制度は維持されないといけない。私も保護してほしいような心境だが、収入があるでしょって、断られるだろう。

ただし、保護受給者には私よりずっと身なりの良い、高級車に乗った者もたくさんいた。ヤクザが開き直って保護を受けていたようである。どうやるのか知らないが、収入をごまかして制度を悪用していた様子。おそらく市役所の担当者も、断りきれなかったのだろう。

 

 

2008年8月10日

カンフー・パンダ(2007)

329522view006_2 - 感動を破棄?    -

ある街で・・・

この街には武道を修行する寺院があった。そこではトラやヘビなどの格闘エキスパートが日々鍛錬し、伝説の勇者を目差している。勇者に選ばれれば、武道の秘法を記した書物を見ることが許されるのだ。

街のラーメン屋の跡継ぎのパンダはカンフーの大ファンだが、肥満体のヤワな男で、カンフースターの夢を見るだけ。毎日ラーメン屋の修行に不承不承いそしんでいる。

寺院の長のカメ仙人?が予言をする。かって寺院のナンバーワンだったヒョウが街を襲いにやってくると。さっそく寺では、それに対抗すべく、伝説の勇者を選ぶ発表会が行われる。それを見たいパンダが、皆の前に転がり落ちてしまい、勇者に認定されてしまう。

寺のスタッフは、どう見てもだらしないパンダに冷たく当たるが、パンダが食べ物に目がないということに気がついた師匠の工夫によってトレーニングが進む。

そしてとうとう、問題のヒョウがやってくる。パンダとの戦いは・・?

全てにおいてソツがなく、完成度の高い作品。家族で観に行ったが、全員が満足していた。金を払って劇場に行っても、それだけの価値が十分にあると思った。

細かい疑問点がないわけではない。カンフーを扱った過去の作品では、もうちょっとクサイストーリー、つまり若者の成長や鍛錬を描いたものが多かったが、今回の作品には厳しい修行の場面が少なかった。わずか数日で強豪を相手に戦えるほどの能力が身につくはずはないので、この作品が本当におちゃらけの物語に過ぎない、いわば価値を自ら下げることを覚悟して作られたということになる。

もちろんパンダは精神的に成長していたようだが、マスターと言われるほどの成長にはほど遠かった。

教育面の価値を犠牲にしても、話の面白さやノリを大事にしたのは、正解だったかも知れない。何でもかんでも成長、努力、忍耐の物語では観客も飽きてしまう。単に面白いだけでも、いいかも知れない。

でも、この作品は使い捨ての映画になりそうな気もする。トイ・ストーリーには友情があった。ファインディング・ニモには親子の愛情があった。マンガだけども強い感動の要素があった。しかし、この作品は心に残らないと思う。感動の要素を破棄しているのだから・・・。

愛嬌のあるパンダを主役にしたことは良かった。例えば、出演者全員がブタだけなどという設定も可能だが、せっかくなので動物達の個性も生かせるようにしたのは、見た目の面白さにつながっていた。

敵役の戦い方も素晴らしかった。牢獄から抜け出す時の映像は、後になって考えると、この映画のハイライトシーンだった。とんでもない力の表現が素晴らしかった。いっぽうでパンダとの戦いは、もっと乱闘が激しくても良かったかもしれない。やや拍子抜けした。

でも、この映画の性格を考えると、それも適切な判断だったのかも。傷つきながら根性で勝利をおさめる戦いは必要なかったのかもしれない。そう考えると、この作品の完成度は本当に凄いものだったのだろう。

日本版の声優達の声も良かった。トイ・ストーリーの唐沢は非常に素晴らしかったが、この作品のタレント達も悪くない。

しかし・・・

敵のヒョウさんは、あの後いったいどうなったのか?血みどろの肉片バラバラだったら・・・

 

2008年1月28日

007カジノロワイヤル(2006)

- 精悍になったねボンド君  -

ついにニューボンド君を観ることができました。新しいボンド役は、ダニエル・クレイブという俳優で、ロジャー・ムーアやピアース・ブロスナンより精悍な感じがしました。皆さんはどう感じられるでしょうか?

かなり長時間走るシーンがありましたが、スタントなしでこなせてるようで、体力的には申し分ないようでした。ショーン・コネリーよりは小柄ではないかと思いましたが、共演者の体格が解らないので、実際のところは知りません。パッと見の印象として、筋肉質で中背の好男子でした。でも胸毛がないじゃあーりませんか!

胸毛はバカになりません。オースティン・パワーズでも大事に扱われていたことは記憶に新しいでしょう。いわゆる「モジョ」に直結する問題です。子供の頃の私が、胸毛がないと女にもてないと勘違いしたくらいの強烈なイメージがあります。スパイは必ず胸毛を付けなければなりません。もう固定観念ができてしまっているので仕方ありません。次回までにアートネイチャーあたりの協賛を得て、ちゃんと手を打って欲しいと思います。

今回のボンド君は、いきなり激しい乱闘をやっていました。結構な乱闘で、相手も強いらしく、ボンド君も殴られて血を出していました。昔のボンドはなぜか全然血を出していませんでした。子供の頃は、きっとレベルが違う格闘能力を持ってるのだと思っていましたが、単に現実離れしていたからに過ぎないでしょう。今のほうがずっと現実的です。

でも、夢のように強くてもいいような気がします。気味の悪い悪役達を、奇想天外なアイディアで簡単かつスマートに処理すると、我々はスカッとするわけです。血みどろの乱闘を見たければ、ゾンビ映画でも見たほうがいいわけで、そのへんのセンスにちょっと問題があったように感じました。

拷問のシーンも、最近はリアルさを訴える作品が多いのですが、007の観客はスカッとするほうを好むような気がしますので、表現方法に独特の抑えが必要ではなかったかと思いました。

オープニングから続く映像は非常に凝ってました。007シリーズは、いつもシルエットを巧く使って凝っていますが、今回のは最高かも知れません。トランプが大事な要素になることと、次々死人が出てくること、鮮やかな格闘があること、バンバン銃を撃ちまくることなどが予想されるように、うまくつないでありました。

相手役のボンドガールですが、最初の人妻役は色っぽい人でしたが、私が子供の頃のボンドガールより細身で、やっぱり最近の流行が出ているのかも知れません。目の前で見れば、きっと凄いスタイルのいい人なんでしょうが、画面で観るときにはオッパイがブルンブルンと揺れるような女性を期待してしまいます。

私がオッパイ好きの変態だとかいう理由ではなく、インプットされた過去のボンドガールのイメージによるものでしょう。モデルタイプより、出る所は出てるほうが、この映画向きだと思います。なぜかいつも海岸かプールサイドから水着姿でポタポタと水滴を落としながらウッフ~ンと登場するのが常でした。いつも揺れるオッパイだけで私はシビレてました。

2番目の財務省の資金調達係(ヒロイン)のエバ・グリーンは、いっそう私のイメージと違いました。アメリカのテレビ女優には、もっと色っぽくて妖しそうな雰囲気の人がたくさんいると思います。妖艶な感じがもっと強ければ、話として面白くなったと思います。

ポーカーゲームはひとつの山場でした。非常に巧く展開していたと思います。もちろん我々はボンドの勝利を確信しているわけですが、劣勢なので、どう展開するのかワクワクしました。

でも、この後の展開が鮮やかとは言い難かったように思います。謎が解けてすっきりするのではなく、まどろっこしい展開になっていなかったでしょうか?悪役が別な黒幕に殺されなくても良かったと思います。さらに黒幕を出す必要はなく、ヒロインをさらわれて追跡する流れのほうが観客の共感を得ることができたはずです。展開が複雑だから良いとは限りません。

なにはともあれ、ボンド役は悪くなかったと思いました。望むらくは、セクシーさとクールさとワイルドさがごっちゃになったような雰囲気と、アートネイチャーの胸毛があったほうが良かったとは思います。体格も、もっと大きいほうがいいでしょう。でも、そんな俳優いるかな?

2007年12月12日

カポーティ(2005)

ー 重すぎる! ー

映画には、いろんな楽しみ方があると思う。CGで誰も見たことのないない映像を楽しむ作品、激しいアクションでスカッとする作品、美しい愛情や友情を描く感涙ものの作品、腹を抱えて笑うおばか作品、もうやめてーの恐怖を描くスリラーなど、様々なジャンルごとに、それぞれの楽しみ方がある。

さて、この作品の楽しみ方は、どれに相当するのか? 考えてみたが、これらとは違ったジャンルだと思える。小説の世界にはあるのだけど、映画では興行的に成立しにくい分野の、オタク的な作品と言えるようなジャンル。本ならば少数の客でも経営的に成立するが、映画では予算の規模が大きいので、やはり興行的に成功しないと作りにくい。

作品全体が異様に重い雰囲気。殺人や死刑のシーンも非常にリアルで、ほとんど省略なく描かれていたので、目を背けたくなる人もいるかも知れない。一般的な意味での娯楽という領域からは完全に外れて、芸術的な表現、怖いもの見たさ、そのようなものを目指しているような気がする。

きっと評論家の受けは非常に良かったのではないか?

とにかく、この作品は家族や恋人と観るのは止めたほうが良い。こんな作品を勧めて、あんた何考えてんの?と言われるかも知れない。

そう言っても、作品が駄作なのではない。非常によくできていると感心する。演出も、ストーリー展開も良く、主演のフィリップ・シーモア・ホフマン、助演のクリフトン・コリンズJrらの演技も的確で、レベルの高い作品だと思う。普通の意味で面白くないだけ。

解らなかったのは、主人公が精神的ダメージを受けていく様子を、行動などでわかり易く表現してはいなかったので、カポーティーが創作できないほどになる理由が伝わってこなかった点。言葉でしか表現していない感じがした。この後、彼はアル中になったそうですから事実と異なるかもしれないが、この時点で酒を飲んで暴れるシーンでもあってもいいのではないかと考える。

主演のフィリップ・シーモア・ホフマンは、「MI3」ではデブの犯罪者役で、ちょっと迫力不足のような印象だったが、この作品での演技は鬼気迫るもの。

実際のカポーティーがどんな人だったのかは知らないが、絶対にマトモではなかったでしょう。そういえば、「ティファニーで朝食を」の富豪役の男性が、カポーティーのようなルックスだったので笑ってしまったが、まさか本人ではないでしょうね?あれはパロディだったのかも知れません。

作家というのは、想像するに難しい職業で、ウソばっかり書くようでも精神的にもたないと思うが、対象に友情や罪悪感なんぞを感じていたら、内面をえぐるような表現ができなくなるはず。本当にプロとして長くやっていくためには、客観視して、感情にのめりこまない’冷血’さが必要だと思う。

作品の中で、「ボクはウソは基本的に書かないよ。」とカポーティーが言ってましたが、まさに長続きしない理由を言っていたような気がする。表現のためなら、何事も厭わない冷血と熱情が要求されるのでしょう。

2007年11月25日

喝采(1954)

- 喫煙マナーの改善を -

有名な作品ですが、ずっと観そこなっていました。DVDを借りて観てみたら、出来の良さに驚きました。真面目な映画人達が、丹精込めて作ったような良質なものを感じました。ラストシーンが象徴しているかも知れません。遠景で撮影された街角に、顔は見えないけど観客には誰か解る二人の影が寄り添うというシーンでしたが、奇をてらわず、かといって雰囲気を悪くしないように気を配ったことがよく解りました。

途中で様々な喫煙のシーンがありました。もしかしてタバコの会社がスポンサーだったのかも知れません。吸殻を道端にポイッと捨ててました。当時は当たり前だったのでしょうか?今なら公共精神のないバカモノであることを表わす仕草ですが・・。

グレース・ケリーがアカデミー賞を取った作品だそうですが、私にはビング・クロスビーのほうが賞にふさわしいような気がしました。なんといっても、アル中の惨めな姿を観客の前にさらして、しかも彼のいつものような朗らかさとは正反対のキャラクターを演じているわけですから、彼こそアカデミーものの演技だったと思います。ちょっとアップが多すぎてオーバーだったかも知れませんが、演技自体も真にせまるものだったと思います。

オリジナルのタイトルは「田舎の娘」という味気ないものでしたが、日本の映画会社の誰かが「喝采」に変えたようです。このタイトルも良い雰囲気につながりました。

グレイス・ケリーは後半に美しく演出されますが、最初は眼鏡をはめて意識的にダサい姿を見せていました。ラストのドレス姿が目立つように演出したに違いありません。眼鏡が必要だったのかは解りませんが、衣装の変化は適切でした。

アル中や、うつ病の表現の仕方が、非常に優れていたと思います。かってのアメリカでは、主人公のような病的な男には、ウイリアム・ホールデンがセリフで言っていたような健全な精神論の’自己の努力で対処を促す’という姿勢が主流でした。できないやつは、ダメなヤツなんだからガッツを出せという感じです。日本でもそうだったと思います。当時の考え方が正確に表現されていたようです。

今は、もう少し治療法が進歩していますから、手順を追って頭を整理してもらうことができます。また、薬物で急場を乗り越えることも大事です。とりあえず自殺をしないでさえもらえれば、多くの場合は回復するので、ガッツ出せよの精神論で済ませてはいけません。この映画では献身的な愛情の必要性も評価されていました。

息子の死のような強烈なことには、普通の神経なら参ってしまうはずです。私の知人でも二人ほど、参ってしまった人がいます。私も、そうなったら耐えられるか解りません。これは時代に関係ない強力な病原でしょう。憂鬱状態になると、おそらくは脳の中の分泌物質が変化します。車で言えばギア比(モード)が変ってしまうような感じでしょうか?神経の作動の仕方が変りますから、ガッツを出せと言われても、車が2速で高速道路に出るようなおかしなことになります。

この映画の主人公が危機を乗り越える場面は、DVD版を観る限りはサラッとしか描かれていませんでした。ベッドに入った主人公が、外で自分を降板させようとするプロデューサーと味方の演出家の口論を聞いて目を見開くだけでした。実際に乗り越えるためには、この程度のことでは回復しません。

病的な状態の人には、献身的な家族の愛情は望まれます。回復に向かう前に一定の安定期間が必要で、そのためには愛情がないと耐え切れないからです。自殺されたら、治療もへったくれもありません。ただ、愛情だけでは治療にならないようです。脳のギアを変えるのは、多くの場合は、なんらかの成功です。

例えば観客の拍手、試験の成績、自分を認める誰かの言葉、客観的な評価などが脳のモードを変えます。愛情による安定、そしてタイミングを見計らってのモード設定が、回復の王道だろうと思います。励ましのタイミングが問題です。早すぎると、モードが違うまま高速道路に出てみようとします。駐車場でハンドル操作から復習して、次は一本道、そして交差点などと、段階をおって運転に成功させなければなりません。

必死の主人公が涙を流して演技し、それが観客の拍手を得て、主人公の回復につながるというのが感動を生む展開でしたが、それでは話がクサくなると考えて避けていたのかも知れません。ビング・クロスビーが目立ちすぎて、グレース・ケリーのアカデミー賞が危うくなります。もしくは、DVD用の編集の段階で省略されたのかも知れません。

とにかく、この作品の場合は回復が簡単すぎた感じはしました。

2007年7月 1日

カリギュラ

- なんか凄い作品  -

「カリギュラ」は、芸術をはみ出した結構激しいポルノ映画でした。昔、ペントハウスの映画紹介で読んだ記憶があります。いつか観たいなと思っていましたが、ビデオ屋さんの棚の隅っこのほうにありましたので借りてみました。歴史超大作かと私は勘違いしていましたが、ポルノ映画でした。しかも、陰惨でアブノーマルな物語でした。でもアダルトコーナーには置いてありません。微妙な範疇に入る作品です。

もちろん家族で観るなど、とんでもありません。恋人と観るのもやめたほうが無難です。同じポルノでも、陰惨でない作品なら良い効果があるかもしれませんが、この作品では変態扱いしかされないでしょう。

皇太子のカリギュラは、運良く皇帝から殺されずに成長することができましたが、弟のほうが皇帝の受けが良いので、取り巻き連中が近衛兵を使ってカリギュラが皇帝になるように工作しました。カリギュラは妹と近親相姦関係にありましたが、妹が熱病で死んでしまうと、いよいよおかしくなってしまいます。

カリギュラのお父さんは、確かゲルマニクスという長島監督のようなスターで、いっぽうの老ティベリウス皇帝は有能だけど人気がなかったために、ちょうどカリギュラは一茂のような感じで不当に注目されてしまった存在のようです。うけを狙いすぎて、派手なことをやって人気を維持しようとしたと言われています。

この作品では、もともと皇帝の屋敷の奥では妖しい男女がうごめく世界があったように描かれていますが、気味の悪いシーンでした。同じポルノを見るなら、やはり日活のほうがより洗練?されていたと思います。そういえば、今はロマンポルノはどうなっているのでしょうか?もしかすると無修正DVDに押されて作られていないのでしょうか?

とにかく、退廃も極まったかのような異常な世界が展開されてしまいます。実際のカリギュラも、本当に妹を溺愛していたらしいと本で読んだことがありますが、どの程度かは知りません。妹が先に死んだために、妹を神として扱うように命じたらしく、本当に近親相姦をしていたのかもしれません。他にも妹がいたらしいのですが、この作品では省略されているようです。

筋があるようなないような物語が結構長く展開されて、結局は暗殺されてしまいます。少なくとも主人公は有名な俳優だし、セットも結構お金をかけて作ってありましたので、もう少し工夫すれば歴史物としても、ポルノとしても傑作になったかもしれませんが、いろんな点で傑作になり損ねたようです。テンポを早くするだけでも面白くなるような気がします。

2007年5月13日

かもめ食堂

Photo_23 -  ムーミンの続編 -

不思議な魅力に満ちた作品でした。雑誌の映画紹介で知って、いつか見たいなと思っていましたが、やっとDVDを借りることができました。残念ながら、私の借りたものは結構映像が飛んでしまって少し興ざめしてしまいましたが、雰囲気は分りました。

設定が奇抜というか、よく考え付いたなと感心しました。原作を読んでいませんが、誰かモデルがいるのでしょうか? 雑誌の文では、映画のために書き下ろした全くのフィクションのように書いてありましたが。 ちなみに、最近はフィンランドのロケ地近辺に、日本人観光客むけの食堂ができていると聞きました。

日本人の3人の登場人物は非常に雰囲気が良く、それぞれの個性とよく合致していたと思います。「やっぱり猫が好き」から発想が出ているようなキャラクターですが、少しひねってあったようでした。それに対して、フィンランド人の演技は少し不自然だったように感じました。現地の人の感情が伝われば、凄い名作になったような気がしますので、少し残念です。

作品の中で、お互いに「なぜ、店を作ったの?」「なぜ、フィンランドに来たの?」と互いに質問しますが、3人とも激しいパッションに基づいていないのが笑えました。どうも私などは何をするにしても理由や根拠を深刻に考えすぎて、いつもケンケンしていますが、なんとなくフィンランドに魅かれ、なんとなくやってきたというのは憧れる行動です。

こういう行動は、陰では’行き遅れ’と言われる女性達にしかできないような気がします、と言ったら怒られますが、そう言われるほど我々の社会はシガラミが多くて、少なくとも私は彼女達のような行動は真似できません。おとぎ話のような物語です。やはり、ムーミンの国でないと成立しない話でした。

そう言えば、留学生にのり巻きを出したところ、「お前らはこんな’藻’を食べて食中毒にならないのか」と言われたことがありました。 確かに、言われてみればボルボックスの親戚のようなものを我々は食べて平気でおりますが、慣れないヨーロッパ人が映画のように食べてくれるのか、私には分りません。

2007年1月 8日

帰らざる河

- 酒場の歌姫はキラキラ -

酒場の娘マリリンには恋人がいます。酒場ではお色気満点の歌を歌い、客はおとなしく歌を聴いています。エッチな行為で大騒ぎになりません。喝采を浴びていますが、彼女の夢は早く足を洗って恋人と家庭を持つことです。この恋人は危ないことで金を儲けたようで、追っ手から逃げるために筏を作り、逃げていく途中でロバート ミッチャムと彼の小さい子供の家に行きます。

ところが恋人は親切なミッチャムから銃と馬を奪い、これに怒ったマリリンを残して恋人だけが川の下流の町に行ってしまいます。町でリッチな生活ができそうです。そこで、残されたマリリンとミッチャム達は筏を使って川を下り、町へ行こうとします。ところが途中は激流を越えなければなりませんし、追っ手やインディアンが命をねらってきます。

危険な川下りの最初は、恋人を懲らしめようとするミッチャムとマリリンは敵味方ですが、当然ながらお約束の恋が芽生えます。でも、無骨なミッチャムにはうまく表現ができないようです。町に着いた一行は、恋人と相対します。さて、恋人との決着や如何に。

決着の後、マリリンはまたも酒場で歌を歌っています。歌っていますが、どこか悲しげです。私達にも何となく彼女の気持ちが分ります。そこに突然ミッチャムが現われ、強制誘拐的行為で彼女を連れ去ります。でも彼女は歌の世界には未練がないようです。その証拠にハイヒールなんかいらないわと、捨てていくラストシーンがありました。いや~、かっこいい終わり方だこと。

この映画を子供にも見せてみましたが、そこそこ楽しんでくれました。作品の色彩が懐かしい感じがしますが、今とカメラやフィルムが違うせいかもしれません。

いつも疑問に思うのですが、例えば「エデンの東」のタイトルバックの海の映像は異様に色鮮やかで、鮮やか過ぎると思えるほどです。ビスコンティの映画の室内調度品もキラキラと輝いて、重厚感に満ちていました。そして、この作品の酒場のシーンも照明がキラキラして、露光オーバーでちょっと色がにじんで見えるほどの明るい色彩でした。それがテレビの色彩と比べて鮮やかで、いかにも映画って娯楽だな~、豪華だな~という何か幸せな感じがしたものです。

ところが最近の映画では、このようなキラキラした映像をあまり見かけません。もしかするとカメラやフィルムの性能がよくなって、絞りが効いた繊細な表現ができるために、露光オーバーになることが少ないのかな? などと素人判断をしていますが、本当はどうなのでしょうか?映画は基本的に夢を与えてくれるものですから、多少キラキラしてまぶしい方が良いような気がします。

その酒場のシーンで、客達が紳士的に歌を聞いているのが不自然に感じました。普通、飲んだくれの中にお色気のある歌手が入っていったら、触ろうとするすけべな客と大騒ぎになりそうなものです。よほど怖い用心棒がいないかぎり、大乱闘にならないとおかしいと思いました。

急流を下るシーンは、今ならどんな撮影をするのでしょうか? 少なくともスタジオで撮影中にスタッフが役者に水をかけるような方法は取らないと思います。さすがに興ざめしてしまいそうです。

ロバート ミッチャムはタフな感じが良く出て、いい役者でした。モンローの歌もスタイルも表情も非常に魅力的でした。いっぽう、モンローの恋人役は少し印象が薄く、もっと極悪の雰囲気を出してキャラクターを際立たせても良かったのではないかと思いました。

娯楽映画としては、スリルもお色気も適度で、しかもグロテスクなところはなく、キラキラして幸せな気分になれる、ほとんど古典的な作品だと思います。

2006年11月25日

火刑台上のジャンヌ

- 実験的すぎる -

主演 イングリッド バーグマン

この作品は、見ないほうが良いと思います。実験的すぎると思います。製作者の意図もよく分りません。通常の手法ではなく、劇の映像にモンタージュのように主人公の映像が加わるような手法を取っています。実際の演劇がヨーロッパ各国で何回か上演されたのを記録したそうですが、オラトリオの場面は私達が見てもちっとも面白くありません。欧米人は、こんなのが趣味なんでしょうか?

演劇かぶれの人なら感動するのかもしれませんが、普通の人には何を表現しようとしているのか分りません。そもそも演劇は、演劇人のためにあるのではないので、一般的な感性で分らなければ話にならないと思います。バーグマンは、オーバーアクションをしすぎる傾向と、芸術かぶれして道を踏み外す傾向があると思います。

この作品は見ないほうが良いでしょう。

2006年11月22日

カサブランカ

- 偶然の傑作か? -

主演 ハンフリー ボガード、イングリッド バーグマン

この映画は批評されつくした感じがしますが、今の子供はかっての批評ほど感動してはくれないようです。試しに見せてみましたが、すぐ見るのを止めて漫画を見だしました。最初の部分の演出方法が古いからかもしれません。今の恋人達の感覚もどうか分りませんが、ビデオを借りようと思う人は、おそらく映画が好きで古くても良い物は良いと考えられる人だと思いますので、当然ながらレビューを見る限りは評価が高いことになりますが、最初からあえては選択しない人も含めると、意外に評価は下がってきているかも知れません。

演出方法は、必ずしも上手いとは言えないように思います。場面の連続性などに荒っぽさを感じます。戦時に製作されている映画を見ると、似たような演出方法の作品が多いようです。ハンフリー ボガードがもともと泣いたり叫んだりする俳優ではないので、渋さが分らない人には「何?このゴリラみたいな人」と映るかも知れません。でも、ボガードの個性とたまたまマッチしているので、不要なことは言わせずに観客が推測してくれるのを待つ方法で、かえって魅力的に写っています。

もし仮にゲーリー クーパーやケーリー グラントなどの別な俳優が主演していたら、作品のイメージは相当変っていただろうと思います。他の俳優では、ロマンスを描く時にはサマになると思いますが、酒場のボスにはちょっと品が良すぎるような気がします。しかし、パリからやってきて、いきなり店を開いて結構すぐ繁盛するのは設定としては無理があるような気もしますが、かの国では普通なのでしょうか?

バーグマンは、いわば不倫した新妻なのですが、この映画では別に問題視はされていません。普通ならドロドロした修羅場になりそうなところですが、さすが大人の映画でした。基本的に、美しい人は何をしてもいいのでせう。微妙な目線などの表現が感情をよく現していると思います。表現を重視する女優なので、涙目で二人の男を交互に見るような演技には自信があったのだと思います。それがこの映画では採用されているので、魅力的でした。彼女以外の女優だと、これまた雰囲気が変っていたでしょう。

ほかにも私の気づかない部分に偶然うまくいったところがあるような気がします。そして、その結果として傑作は出来上がったという印象です。

2006年11月20日

ガス燈(1944)

-主演 イングリッド バーグマン、シャルル ボワイエ -

この作品は1944年製作で映像は古く暗くなってますが、ちょうど暗さを出すことがねらいの作品なので、それに関しては問題ないと思います。音がちょっと聞き辛いことがあり少し気になりました。仕方ないと思いますが。

激しい殺人などのシーンがありませんので、子供も見てよいと思いますガ、テーマとしては良くないかも知れません。恋人や、友人などと見ても良いと思いますが、テンポが昔風なので気に入らない人もいるかもしれません。もともとが舞台用の話ですし、全体的に静かな恐怖を描いていますので、アクションがほとんどありませんし、スピード感で緊迫する今風の場面を期待してはガッカリしてしまいます。

あらすじはいたって簡単で、映画のほとんどのシーンは何かの小さな事件が起こるごとに若い妻の不安感が高まるのを描いています。最後の場面は種明かし的ですが、ボワイエの迫力のためか、「あ~あ」とガッカリするような感じは私にはありませんでした。他の人は違った感想を持たれるかもしれません。

タイトルもしゃれています。「~の恐怖」「~物語」といったタイトルでは、ちょっといただけない感じで、「ガス燈」を聞いてしまうと他のタイトルは思いつきません。

ガス燈が急に暗くなることが映画のカギになっていますが、ガス燈を見たことがない私には全く思いつかないアイディアです。でも説明されると、すぐ理解できます。昔はあんなもので明かりを照らしていたとは驚きです。日本の家屋では考えられません。

まだ家が空き家の状態のうちに、殺人犯が忍び込んで充分探さなかったのはなぜかということが映画では詳しく説明されていなかったように思います。また、長期間探していたはずなのに部屋の中がそのように見えず、ボワイエの探し方も乱暴すぎるのが不自然でした。はるばる国境を越えて殺人者がヒロインを追っているのにお金には困っていないのか等、設定には不自然なところもありますが、細かい点は気にする必要もないと思います。

シャルル ボワイエには、すごい迫力がありました。居るだけで場面が緊迫するような俳優だと思います。バーグマンよりも存在感がありました。この作品の出来を決定していたようです。他の俳優と何が違うのか考えてみましたが、声、眼、眉毛?などの微妙な動かし方と、もともとの造作の特徴によるのかも知れません。感じは随分ちがいますが、今だとジャン レノも存在感があります。眼力は両者に共通しているような気がします。

バーグマンの演技もすばらしいと思いました。徐々に自分の正気が信じられなくなっていくのが実にうまく表現できていました。彼女は舞台出身ですから、勝手に演技させると観客を意識しすぎるような気がしますが、この作品では抑制が効いているために内なる不安感が私達にも分る演技でした。監督の指示が良かったのかも知れません。大仰になっていたら、白けてしまっていたでしょう。

2006年10月26日

ガープの世界

- おかしくて悲劇的な魅力 -

この作品は、子供には好ましくありません。セックスに関しての表現内容を誤解されやすいからです。恋人と見るのは、たぶん構わないだろうと思いますし、異性に対するに限らない人間愛について考えてみる機会になるかもしれません。映像や音楽の雰囲気は暖かいのですが、内容は結構ドギツく、倒錯した部分もありますから、理解力のある人と見たほうが良いでしょう。

不思議な話です。 グレン クローズ演じる独立心?の強い女性が瀕死の男を選んで子供を作ります。 生まれた子供ガ-プをロビン ウイリアムスが演じています。成長したガープは、小説家になりますが、いっぽうで母親はガープのことを本にして評判になり、女性団体の教祖のような存在になってしまいます。この団体の関係者と、ガープの家族で物語が展開されますが、全体におかしくて悲劇的です。「ガープ!」と指差して叫ぶ女の子が大きな存在なのですが、話の中ではたまにしか出てきません。

設定のアイディアが良いと思います。 極めて特殊な出生から来る運命のようなものが全体の流れになっています。世間の人達からすると迫害の対象となりやすい性不一致の大男、レイプ被害者、不倫した妻などにも同情に満ちた視点が注がれていますが、おそらく一般人の目はこの映画の中で示されるように残酷でしょう。多少変っていても不幸でも、常に人間愛に基づいて対したいものです。無理解によっては悲劇しか生まれないと、この作品は言っているようです。

この作品のロビン ウイリアムスは、自分の運命に当惑しながらも生きる男の雰囲気をよく出しています。結構役柄が幅広い役者で、全くの喜劇にもシリアスなドラマにも出演していますが、ほとんどハズレがない人です。母親役のグレン クローズも、怖い女を中心に、コメディからシリアスものまで、やはり幅広く演じてくれます。

「ガープ!」と指差して悪さをする女の子は、いったい普段は何をやってるのか疑問に思います(家事手伝いってやつ?)が、無理解で暴力的な人達を象徴しているのかも知れません。きっと彼女の頭の中では、自分を無視するガープは許しがたい存在なのでしょう。でも、だからといって悪さをして良いのでしょうか?

2006年9月27日

隠し砦の三悪人

監督 黒澤 明 主演 三船 敏郎

 DVDで見ました。黒澤映画の良い面が見られる優れた作品だと思います。

 陰惨なシーンはほとんどないので、子供が見てもいいと思います。恋人とでも楽しめるかと思いますが、なんと言っても古い映画ですから声も聞き取りにくいことがありますし画質も良くないので、途中で嫌になるかも知れません。相当時間があるときに、静かな部屋で音量を上げて見れば良いと思います。

 武将が農民2人とだましだまされながら、何とかお姫様を守ろうとする物語ですが、農民2人のやり取りが漫才か落語みたいです。ギャグのセンスは数十年前のものですから誰でも全部笑えるとは限りませんが、当時は相当おもしろかったはずです。

 黒澤監督の映画は、どんどん大作になって、晩年のころの作品では娯楽を離れて芸術の域に入りすぎてくる印象があります。この作品も完成度が高くて、もちろん芸術作品と言えるでしょうが、農民2人のマヌケぶりが楽しさをキープさせているような気がします。

 印象的なシーンがたくさんありますが、三船敏郎が山から姿を現すがすぐ見えなって農民が不安がるシーン、相手方武将との決闘シーン、裏切り御免のシーンそれとラストの農民の会話などはよく出来てるなあと思います。構想、脚本、演出などを練りに練って作っているはずですが、さすがと感心します。次々と待ち受ける困難も、よく考えてあると思います。

 難点を挙げれば、お姫様役のまゆ毛のメーキャップは、もうちょっと普通にできなかったのかなと思います。スタッフに教養のありすぎる人が多いため、歌舞伎や能などのセンスでメーキャップをするからかもしれませんが、さすがに笑ってしまいます。 映画自体の時間も長すぎるような気がします。娯楽作品ですから、原則は短くすべきではと感じました。それと、音をデジタル処理してもらえると助かるかなと思います。

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