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カテゴリー「か」の40件の記事

2020年8月10日

家族を想うとき(2019)

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- ケン・ローチ監督 -

配送業者として契約した主人公は、過剰な労働環境、増える借金、家族への負担によって破滅の道をたどる・・・・DVDで鑑賞。前作の「私はダニエル・ブレイク」と同じようなテーマで、社会的弱者の置かれた状況を、ユーモアと心温まるエピソードを交えながらも、大いなる悲劇として描いていた。

独特のタッチを感じる。場面と場面のつながりに、時々違和感を感じることもあり、編集作業に関しては完璧ではなかったかもしれない。  俳優なのか、エキストラなのか分からない人々が多数出演していた。ロケ地の地元の人かも知れない。日本人のエキストラと違って、演技臭く感じない点に驚く。  

主演の父親役は本職の俳優だそうだが、メジャーな役者ではないようだ。息子役や娘役は完全にオーディションで選ばれた人達らしい。そんな役者たちが集まって素晴らしい作品を作るのだから、監督やスタッフの力量には感服せざるをえない。  

貧困に満ちた今日の社会は、改革を必要としていると感じる。この作品の家族は、おそらくリーマンショックであろう金融危機の影響で自宅を失い、アパートで暮らしていると思われる。リーマンショックでもコロナショックでも、ローンの維持を困難にし得る変化は、いつの時代も必ずのように襲って来るものだ。人の一生で、困難が一度もないという幸運は、滅多にあるものじゃない。

経済交流の規模が大きくなったことで、収益の規模も大きくなって豊かさが得られる一方、危機の破壊力も巨大になっている。 金の動きが大きいと、県や国の資金力で問題を解決するのは困難。財政的に国民全部を支援することは難しいはずだ。そんなグローバルすぎる経済活動の弊害を、この作品は感じさせる。

ただし、貧困は昔からあったものでもある。以前の日本だと、多数の小作農家や小規模事業者が、生き延びるために必死で働いていた。映画の家族よりも多くの労力をかけて、さらに貧しく、地をはいずり回るように働いていたはず。私達は、彼らのおかげで今は豊かな生活を送れている。ただ、今後どうかは分からない。

生産、製造の場所に関しては、国外が中心になりそうである。新規に農業を始めて懸命に働いても、経営が成り立つ保証はない。映画のような配達員にはなれるかも知れないが、高給は期待できそうにない。グローバルに激しく動く時流に乗り、極端な大金持ちになる人もいると思うが、やった仕事に見合う収入が得られない人のほうが多いだろう。

それを可能とする規定が強固に出来上がって、多数の人がただ搾取される状況が予想される。それは大まかに言って、規制緩和の弊害と考える。社会的中間層を減らし、極端な金持ちに収益を集め、大多数の貧者には過剰な労働を強いる、その仕組みを規制緩和が正当化してしまっている。 

規制緩和は難しい。発展を阻害する無駄を省略する意図が、結果的に搾取の固定化につながるなんて、小泉元総理や竹中氏、あの時代に彼らを支持した人達には予想できなかったんじゃないかと思う。壮大なる不幸を呼んだことを、本人達はどう思っているのだろうか?

 

2020年8月 4日

画家とモデル(1955)

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- Paramount -

画家と作家の二人組が、同じアパートに住む女性ペアと仲良くなる。しかし画家が描いた作品に書かれた数式が注目され、組織に狙われることになる・・・DVDで鑑賞。

この時代は、まだアポロ計画が発表される前のはず。でも、ただのロマンティック・コメディが宇宙開発の話になってしまうという流れは、この当時すでに宇宙に関する認識が一般人レベルに達し、興味を持たれていたからこそできたのだろう。具体的な計画はないとしても、将来はきっと宇宙ステーションができるという、皆の期待はあったのではないか? 

最初は学者たちが、そんな構想を述べていたのだろう。 同年に同じパラマウント映画は、「宇宙征服」という真面目なSF映画を作っているらしい。ギャグ映画にも、新しい設定が欲しいから、宇宙開発の話が持ち込まれたのではないか? 

この映画は雰囲気が派手で、やたら照明も明るい。当時の映画の雰囲気を感じる。1950年代のアメリカは凄い経済成長期にあったはずだ。 公民権運動やベトナム戦争の影響が出る前の時代。そういえば作品の中に、黒人の出演者を見かけなかった。パーティーの給仕にいたるまで、全く見ない。興行面を考えてのことだろうが、その点も時代を表している。

この作品の当時、底抜けコンビは大人気だったというが、翌年にはコンビを解消している。すごい数の映画を短期間で作っているのは、それだけ人気があって、必ず受けると会社が考えていたからと思う。でも年間で2~3作も同じような役柄を演じていれば、たいていの人は嫌になる。ディーン・マーティンにとっては、自分のキャリアのことを考えて、そろそろ本格俳優への道を探るのも当然だったかも知れない。いつかはコンビの人気も下がるはずだから。 

ジェリー・ルイスの外見と芸風は、ジム・キャリーと似ている。きっとジム・キャリーは、ジェリーの影響を受けているはずだ。かなりしつこいジェリー・ルイスの芸風も、伝統的なスラップスティック芸の一種だと思う。今では彼のオーバーで派手過ぎるスタイルは流行らないが、芸の完成度の高さは明らか。彼の個性を生かせば映画はヒットすると、スタッフの皆も感じていたことだろう。  

この作品にはディーン・マーティンとジェリー・ルイスのほかに、のちのスターのシャーリー・マクレーンも出演している。マクレーンはデビューしたてだったようだが、既に大事な役を演じている。会社が彼女の将来性を見込んで、入れ込んでいたからだろう。ロマンチック・コメディに合いそうな個性を感じる。

いっぽう、セクシー女優のアニタ・エクバーグ嬢もモデル役で出演しているが、あまりセリフがなく、ただ美貌とスタイルの良さを買われているだけのようだ。他にも大変な美人モデルがたくさん出演している。でもスターになったのはマクレーンだけのようで、女優というのは本当に厳しい世界であると思う。

 

 

2020年5月17日

Girl/ガール(2018)

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- ルーカス・ドン監督作品 -

バレリーナを目指す主人公はトランスジェンダー。厳しい練習と、性転換治療、自分を見る周囲の目に苦しむ・・・・DVDで鑑賞。 

この作品はカンヌ映画祭で賞を取っている。夢を実現しようと努力するヒロインの姿は、多くの人の共感を得るものだと思う。主役は、実際には既に有望株として知られる男性ダンサーらしい。体型は非常に美しく、中性的で、女性役にもそれほど違和感がなかった。

でも背筋に関しては、女性では滅多にないくらい発達しており、その点だけは、あえて見せる必要がなかったのではないかと感じた。それに、やはり女性のダンサーが演じたほうが、より可憐で薄幸な少女の雰囲気が出て、善き効果が得られたかもしれないと思う。

また、恋愛に関するエピソードの扱いが小さめだった。男性との交際では、現実には多くの障害があると思う。それにもっと比重を持たせると、より心に染み入る物語になったのではないだろうか?相手や本人の戸惑いは、性をめぐる認識のありかたが難しく、現実にも大きな問題だと思う。 

音楽の使い方にも疑問を感じた。前半部分では、美しいダンスを見せるシーンでも、音楽がほとんど流れない。せっかくの美しい踊りのシーンなら、ヒロインの希望を表現し、美しさを強調するためにも、もっとBGM的な音楽を流すべきだと思った。シーン同士の連携というか、編集の仕方にも問題があったかも知れない。シーンごとにブツ切りのような繋げ方だった。 

この作品には、トランスジェンダーの方達から多数の批判が寄せられているという。おそらく、彼らからすると微妙な感覚の違いがあるに違いない。しかし、実際にトランスジェンダーの感覚通り忠実に描くとしたら、シスジェンダーの理解を越えた描き方になる可能性もある。何を言いたいのか、理解できないかもしれない。

いっぽうが素晴らしい表現だと感銘できるような表現は、他のほうにとっては「理解不能で異常な表現」かも知れない。芸術的に描くほど、受け入れられ難い一種の陶酔に近い出来上がりになるだろう。両者にとって素晴らしい表現は、なかなか難しい。あくまで作品として成立することを優先するなら、シスジェンダーの作り手が、それなりの感覚で作品を作るのも仕方ないかなと思う。

ホルモン治療を受ける場合、将来の癌の発生率に注意し、納得しておく必要があるようだ。乳癌家系の人の場合、女性ホルモンの投与は癌の発生の可能性を上げると思われる。子供の頃に、将来の癌のことを説明されてもピンと来ないかもしれない。後になって、本当に癌が発生した時に、理解できなかった自分の判断を悔やむことになるのだろうか? 

劇場主の身近にトランスジェンダーの方はいない。おそらく、隠されていて気づかないでいるだけではないかと思う。劇場主のように魅力的な男には、男女を問わず惚れてしまう人も多いはずだが、打ち明けられないだけだろうか・・・というのは全くの冗談だが、心の奥の想いを話すという行為は、誰でも怖さを感じざるを得ないものだ。

特に、性的マイノリティーの個性を持つ方達は、身の危険や迫害を覚悟しないといけないから、強い緊張を要することになるだろう。激しい攻撃が待っているかも知れない。劇中でも、学生仲間の女子たちから性器を見せるように強要されていた。あれは、男性仲間でも同様だろう。暴行される危険性も高い。命を失いかねない暴行や、人としての誇りを損なう可能性・・・それを考えると、同情を禁じ得ない。

そんな恐怖に耐えて生きて行かないといけないなんて、なんと辛いことだろう。でも、自分の心と体のバランスが取れない状態を続けるのは、これまた耐えがたいことだろう。自分が何者で、何を求め、今後どう生きていきたいのか、実際にどう生きて行けるのかイメージできて、悩まずにおれたら、それだけでも幸せだろうに。

 

2020年5月13日

感染症パニックを防げ(2014)

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- 岩田健太郎著・光文社新書 -

この書は、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)が流行する前に書かれた本である。当然、今のコロナウイルスについては書かれていない。世界中で流行している今回の感染症は、マスクやトイレットペーパーの買占めや、医療関係者の家族にいわれなき暴言が浴びせられるなど、パニックにともなう事象が発生してしまった。

ネット上でも様々な炎上事例が発生しているのは、皆の神経が敏感になっているせいではないか?感染しても死亡率1%以下のウイルスに対し、この世の終わりのような対応をするのは、さすがにやり過ぎではないかと思う。冷静になるべきだ。パニックやヒステリーのほうが、ウイルスより怖い。

まあ、タレントの岡村隆史の風俗嬢に関する発言は、時期に関係なくマズい内容ではあったが・・・・ 

日本国内においては、パニックといっても軽いものだった。今回はたまたまSARSほどの致死率がなかったからだろう。罹ったら終わりというような病原体だったら、さすがに買占め、暴動、移住などの騒ぎに発展するかも知れない。今回は、まだ運が良いほうだった。

この本は優れた解説書だが、今回の流行には効果を発揮できなかったようだ。命に関わりうる、経験したことのない病原体が身近なところに迫っている場合、恐怖を感じるなと言っても無理だ。ほとんどの人は、理性を失って過剰反応に出てしまう。良い書物があっても、力には限界がある。

しかし、もし多くの人が理性的に判断し、集団が暴走しないように歯止めの役割を演じてくれれば、全体がおかしな方向に走るのを止めることができるかも知れない。このような本か、あるいは今回の流行で人々が経験し、学んだことが、次の危機に役立つかもしれない。 

集団の暴走を止めるのは、本に書かれているような様々な原則に基づけば、可能ではないかと思う。ただ、どれだけ正論を述べても、パニックに陥った人から攻撃を受けたり、様々な勘違いによって正しい意見が無視され、人々が右往左往したりするのは避けられないとも思う。速やかにクールダウンさせるのは、容易なことじゃない。  

今回のCOVID-19の扱いにおいて、岩田氏がクルーズ船に関してネット上で公開した内容は、もしかするとクールダウンとは逆の作用を働かせてしまったのではないかと感じた。船の中で、感染領域と清潔領域が分かれていない、専門家がおらずに対応がなってない、そのような内容だったと思うが、いかに指摘が正しかろうと、ネット上で発信しての反応を考えると、非常に危険な行為であったように思う。

もちろん、船に乗客を留めたことで感染者も健常者もいっしょくたになり、管理できない状態になったのは本当だが、船内にどうして留めざるを得ないのか、政府から誰が来て管理をしているか、法的な責任がどの部門にあるのかなど、確認を要する点は多い。いきなりネットで批判するのは正しくない。岩田氏は、あそこを管理している部署に訴えかけるべきだったと思う。

日本国内の流行は、沈静化しつつある。福岡県は連休頃から急に新規患者が減った。福岡が減ると、熊本も減る。どうやら、劇場主が当初予想した通りの流行具合で、いったんは落ち着いてくれそうだ。感染力と病原性、致死率や症状については、当初の予測通りだ。

でも劇場主は、世間の雰囲気を予想できなかった。学校が長期間休校になり、子供たちが自宅学習するなんて! 市町村単位、クラスや学校単位じゃない全国的な休校は、予想していなかった。今でも、本当に必要だったのか分からない。行楽地が、これほど全国的に閑散とするなんて! 広大な地域をロックダウンするなど、経済的な理由でできないはずと思っていた。

欧米で患者数が多いことも考えなかった。東アジアが中心だろうと、普通なら考えたはずだ。何か途中でウイルスの性格が変異したからかもしれないが、ひょっとすると未だ知らない理由が隠れているのかも知れない。

対応のまずさが、事態を悪化させた面もあるかも知れない。5月8日になって、相談センターの基準の「37.5度以上の体温」が除かれることが決まったのだが、一定程度インフルエンザの患者を診たことがある人なら、熱はあてにならないことがあると、容易に想像できたはず。熱に関する表現の仕方には、神経を使うべきだ。

「いいや、何か基準がないといけないから、熱も基準にすべきだ!」と強硬に主張する委員がいたのだろうが、基準が独り歩きする危険性には思い当たらなかったのか? 相談を受ける人が、「ふーん、あなたは熱がないから、コロナ感染じゃないです。」と思ってしまったら失敗だ。そんな判断によって、亡くなった人は多数いるはず。

今後、ウイルスが変異してまた流行が始まると困るが、コロナウイルスはそんなに簡単に変異するタイプのウイルスなのだろうか? もしそうなら、インフルエンザのように過去にも大きな流行を起こしていそうな気がする。そうではないところから考え、コロナウイルスは毎年のように変異はしないと予想する。

SARSからMERS、COVID-19への変化は、8~10年かかったと思う。弱毒型への変異もあったろうが、今懸念されているように、すぐ来る「第二波」は、過剰な不安の産物ではないか? もちろん10年毎でも、こんなのに来られたら困るが、楽観し過ぎだろうか。

 

 

 

 

2020年3月26日

ガラスの城の約束(2017)

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- Gil Netter Pro. -

人気のコラムニストの自伝著書の映画化。自由な生き方の両親に育てられた主人公ら家族の物語。DVDで鑑賞。 ヒロインらの家族の特殊な生き方に興味を持った。  

父親の個性が独特だった。化学的な知識には満ちていたようだが、生真面目に仕事をこなす人物ではなく、夢見がちで現実の状況を把握できないまま生きていたようだ。発達障害に相当するのかも知れない。

そんな人物に育てられた子供たちは経済的には不幸だが、精神的には良い影響があったとも考えられる。父親をあてにすることができないので、独特な強さ、克己心を持つこともできたと思うし、兄弟の間の強い絆を培う結果にもなっていたようだ。ある意味で、幼少時の逆境が子供達を育ててくれた面はあったのだろう。

母親の生き方も興味深い。子供たちのことを思って、夫に反発して離婚する・・・それが通常の対応ではないかと思うが、その選択をしていなかったのが、結果として良かったかどうか? 明解な解答はないような気もするのだが、この家庭に限っては正解だったのかも知れない。

父親が単なるアル中の失業者、暴力男だったら、おそらく別れたほうが良い。父親に人間的魅力があるかどうか、子供に暴力を振るうかどうか、そんな事柄が大事なのではないかと思う。離婚で子供の心が傷つく面と、そのままの家庭で子供の心が破綻する危険性、それらを総合して判断しないといけない。  

実際にどれくらいの家庭が、主人公のような育ち方をしているのか知らないが、一風変わった家庭というのは、どこの国にもあるはずだ。子供を小学校に行かせていない親は、日本でも珍しくないと聞く。経済的な理由も多いだろうし、親の生き方や考え方の破綻が原因の場合もあるだろう。考え方というのは、人によって千差万別、本当に信じられないようなものもあることだろう。

主人公の兄弟たちは、姉も弟もまっとうな家庭を築いていたようだから、いかに親が妙な人物であったとしても、子供までおかしくなるとは限らない。劇場主の身の回りでも、異常な親から本当にしっかりした子供が育ったり、あるいは逆だったり、様々な例がある。子供が学校で教育を受けるなら、学校で学ぶ内容と、自分たちの家庭のありかたとの違いに気づくこともできる。周囲の子どもたちとの違いにも気づいて、自分の生き方を修正しようという感覚も生まれやすい。学校に行けるかどうかは大きな影響力がある。  

よく宗教団体に閉じ込められた子供の話を聞く。この場合は学校で学ぶ機会がないため、修正されずに純粋培養された妙な感性が生まれてしまうと想像する。考えてみれば、昔の寺社や武家集団などでは、子供たちは皆が偏った育ち方をしていたはずなので、むしろ現代のような公教育で育つほうが、歴史の中では例外的なはずだ。

 

 

2020年3月11日

カレーの世界史(2020)

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- 井上武久著・SBビジュアル新書 - 

カレーの博物館があるそうで、そこの元館長である著者が書いた本。劇場主もカレー好きなので興味を持って購読。映画とは関係ない内容。でも、カレーは脳に何かの反応を引き起こす料理だ。語らずにはおれない。そして、おそらくカレーをテーマにした映画を作れば、必ず一定の支持を受けると思う。

「カレーライスをいちから作る」「聖者たちの食卓」といった映画もあるそうだ。教育映画だと思う。もっと他に、娯楽作品だってできるかも知れない。なので、この劇場でも述べてみたい。 

(カレーと劇場主の歴史)  カレーライスには思い出がつまっている。子供の頃、カレーは一番の御馳走だった。小学校に行く前からそうだった。カレーが出る日は、まず匂いだけで興奮していた。兄弟で争うように食べるのだが、別に争う必要はないのである。腹がいっぱいになって苦しくなり、動くのも苦痛になるほどだったことをよく覚えている。普通の皿で、こぼれるくらいについで3杯は確実に食べていただろう。

たまに、同じ匂いでカレー風味の野菜炒めが出てくる日もあった。野菜炒めでもマズくはないのだが、子供のテンションは一気に下がる。肉の代わりに魚肉ソーセージやチクワなどが入っていると、匂いで騙され、期待して損したような気がしたものだ。味はそう変わらないから、何かイメージの違いだろう。  

あんなに反応していたのは何故だろうか?単純に考えると、中毒になる物質がスパイスの何かに入っていたのではないかと疑われる。香辛料クミンの匂いだろうか?カレーの成分には、脳に及ぼす中毒めいた作用があるのかもしれない。

(小学校とカレー)  学校給食でカレーが出ると、劇場主以外の子どもたちも嬉しそうな顔をしていた。カレーを特に嫌っている子供がいた記憶はない。小学4年生の夏、臨海教室で、太平洋に近い小学校を借りて、海水浴を体験した。夕食は当然だがカレーライスだった。大きな釜を使って大量の料理を父兄が作ってくれて、ガッツくところを見せられないので、やや遠慮気味に食べた記憶がある。

昼食時に何かの集まりがあると、ほとんどの場合はカレーが出されていた。でも、カレーが一般的なメニューになったのは、そんなに昔ではなかったようだ。おそらく、劇場主の親たちの世代は、そんなにカレーに親しんでいない。固形ルーができたのは戦後らしい。缶入りのルーは、おそらく家庭用のものは安くなかったはずだ。 仮に親世代に合宿があったとしても、握り飯と漬物、味噌汁がメニューだったのではないか?だからカレーに対する感覚は、世代によって違うだろう。我が家の子どもたちは、カレーに興奮している様子がない。 

(高校~大学)  高校時代は、テストで好成績をおさめたら、近所の食堂でカツカレーを食べると心に決めていた。その当時900円だったか、高校生には高級すぎる値段だったのだが、たまに思い切って注文していた。達成感をまじえた、特殊な喜びがあった。

大学時代は、地下一階の汚い学生食堂によく行っていた。ときどきだが、カレーの中に金属の破片などが入っている怖い食堂でもあったのだが、我慢せざるをえなかった。値段の割にボリュームだけはあったと記憶する。昔懐かしいタイプのカレーだった。でも毎日カレーでは飽きる。ハヤシライスと普通のランチ、そしてカレーの三品目を交代させながら食べていた。

(卒業後)   卒業してからは健康のことも考え出して、外食でカレーを頼む機会は減った。南熊本の「ニューデリー」などの店も、いつのまにかなくなり、わざわざ店を選んで食べることはなくなった。ニューデリーのカレーは印象深い。スープカレーに近い作り方で、コクのある辛さだったので、当時は珍しい味と感じていた。お客さんも多かったはずなんだが、なくなって残念だ。 カレー屋は経営が難しいのか、よく消えていく。

(自家製カレー)   今は家で食べる時もカロリーを気にして、量を制限している。稀にだが、自分でカレーを作ることもある。具材を油で炒めたほうが美味しいと聞くのだが、面倒なのでただ煮てしまう。ワインやバター、昆布やローリエなど、いろいろ味の工夫はできるとしても、加減が分からないのでトライしない。

ジャワカレー等のルーを使い、微調整はフレーク状のものを使っている。本格的な印象を出そうという時には、ガラムマサラかシシトウを刻んで入れているが、細かい調整はできない。シシトウはエスニックな風味が出せるが、やり過ぎると刺激が強くなりすぎる。家族には、あんまり受けが良くない。

まろやかさは、単純に牛乳で調節したほうが良いような気がする。辛すぎたと分かったら、牛乳を足している。豆類を入れて健康的なものができないかと試してみたが、子供達には非常に不評だった。

(スパイス)  スパイスの工夫をすべきかどうか、いつも悩む。時間に制限があるので、あまり凝ったことはできないから、大失敗が怖くて思いきれない。なので、究極のカレーは今後も作れそうにない。それに40歳ころからか、スパイスに対する汗の反応が激しくなってしまった。自律神経失調ではないかと思う。頭部や顔だけだが、辛い物を食べると激しく汗が出る。人前ではとても見苦しいから、そんなに食べることはできない。 

カレーに使うスパイスは、その多くがインド原産らしいのだが、各々の作用がどんなものなのか気になっている。おそらく多くのものは効能よりも味だけを頼りに、古来より選ばれて来たのではないだろうか? この本によれば効能はヴェーダに書いてあるそうだが、後付けではないのか? 

(今後)  もともとインドにコショウはあったが、唐辛子はなかったらしい。すると、古い時代のインドのカレーは、今とは違う味だったに違いない。単に「煮物」と言ったほうが良いくらいの、コショウ臭い料理だったはず。すこしずつ、世界各地の香辛料の味を混ぜて、今の時点で今の味になっているだけと考えたほうが良さそうだ。今後のカレーは、また違ったものになるだろう。 

いなば社製の、缶詰に入ったタイ風カレーも何度か食べてみたことがある。味に工夫をしてあって、どぎつくなり過ぎないように調整されているようだ。東南アジア風のカレーは、ここ20年くらいで急に一般的になった。熊本市内で食べられるものも、パキスタン風、セイロン風と、種類はどんどん増えている。日本発のカツカレーが、今はイギリスで定番のメニューらしい。カレーは、今後も世界中で影響し合い、進化を続けるに違いない。

でも、劇場主が多くのカレーを試すのは難しそうだ。汗をかく問題もあるし、外食は衛生面が怖い。何が入っているのか、基本的によく分からないので、あまり珍しいカレーを試す気になれない。

 

2020年2月14日

かえるくん、東京を救う(1999)

- 村上春樹・著 -

主人公の家に「カエル君」が訪れる。地震を起こす魔物と戦うために、主人公に手伝ってほしいと言う。意味を理解できない主人公だったが、協力することになる・・・単行本「神の子どもたちはみな踊る」の一編を購読。この作品も阪神淡路大震災に関わる作品で、1999年に雑誌に掲載されたものだそうだ。

95年の震災から先日で25年も経ってしまった。地震後に神戸の街中を歩いたら、コンクリートの地盤が波を打ってバラバラに割れており、神戸市民病院の高い建物にもたくさんの亀裂が入っていて、その破壊力を体感できた。海岸近くの町、特に埋立地はどうしても地震には弱いといった感想を持った。

あの地震の光景を見たので、自分の家には不必要なくらいの対策をとった。間取りはおかしくなり、建築屋さんたちは呆れていたが、1階と2階の構造を無理に合致させ、筋交いだらけの頑丈な作りにした。まさか内陸の熊本市で被災するとは思わなかったので、無駄なことをしたなあと感じてはいたが、平成28年の地震で大きな被害が出なかったのは、阪神の教訓のおかげだろう。木造二階建てくらいまでの建物なら、地震だけで完全に倒壊することは避けられそうだ。  

怪奇な存在が登場し、頼りなさそうな主人公が他の登場人物や魔物たちに翻弄されている。その特徴は、他の村上作品と共通する。翻弄される主人公は、地震などの大きな災害、凶悪な事件によって打ちひしがれたり、不安になったりする我々一般人を象徴してもいるのだろう。

主人公が明確な目的意識を持ち、確たる哲学を持ち、強い意志の力を持っていたら、物語になりにくい。せいぜい、マンガのヒーローものが成立するくらいだ。 小説の場合は何をしていればよいのか、自分でも分かっていない、あるいは仕事はしてるものの、ぜんぜん満足できていない、そんな悩める人物のほうが、読者が共感できる個性だと思う。 

しかし、現実の社会はもう少ししっかりした人物じゃないと、生きていけない。しっかりしていなくても、過剰な自信を持っていたり、強がって虚勢を張ったり、そんな無理した生き方のほうが、より現実的かも知れない。主人公に家庭がある話も、たまには欲しいように思う。  

ちゃんと家庭を持ち、子供もいる主人公だったほうが、より作品のレベルを上げることができると思う。村上作品では、ごく普通の人物が主人公になっていないことが多い点で、何か足りていない部分を感じる。 次回作では会社務めの、ごく普通の人物が主人公であってくれたらと思う。魔物を現実社会でどう登場させるか、描き方は難しくなるかもしれないが、村上君ならできると思う。

 

2019年8月14日

風の歌を聴け(1979)

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-村上春樹・講談社文庫 -

文庫本で購読。村上春樹、最初の長編小説らしい。ハードボイルド小説の日本版、あるいはハードボイルド映画の文学表現といった趣の描き方。映像が見えるような気がする作品で、観たことはないのだが、実際に映画化されたらしい。なので、この劇場で評価しても良いだろう。

クールな人間たちが、洒落たジョークや皮肉を語り合い、男女が気取った会話を交わす、イカシタ・・・という表現はもう流行らないが、そんな小説だ。でも文学的な価値、意味合いはよく理解できない。何か比喩的な意味があるのかも分からないストーリー。おそらく、いかに洒落た雰囲気を表現するかに重点があって、社会の問題点を突くとか、普遍的な男女の問題を論じるとか、重いテーマは一切ないだろうと思うのだが、よくは分からなかった。若者らしい無鉄砲で不安定な考え方は、うまく表現されていたように思う。 

ハードボイルド小説は、何度か読んだことがある。たいていは映画化された作品の原作だ。夜の都会のバーか探偵事務所に主人公が独りでいると、突然謎めいた美女が何か相談をしてくる・・・そこで主人公はドギマギしたりしない。劇場主なら、おそらく声がハイトーンになって、多少どもりながら、言わないほうが良かったと後で後悔することになるセリフを吐くに違いないのだが、ハードボイルドな男は低い声で短く、クールに返答しないといけないらしいのである。少し仲良くなったら、シビれるような愛の表現も欠かせない。そこいらが、まったく真似できそうにない。  

主人公の友人がイタリア車を飲酒運転で壊してしまうシーンがあった。国産車ではいけないし、ベンツでもダメだ。ベンツで事故ったら、それは成金の失敗に過ぎず、クールじゃない。飲酒運転は無謀で、当時としても確実に違法で、若気の至りでは済まない所業だが、ハードボイルドな人間は、違法かどうかを気にするより、何事にも動じないでいられるかが大事なようだ。

現実にそんな生き方をしたら、重大事故で後遺症に苦しむか、軽率で尊大な人物と思われて社会的制裁を受け、酷い目に遭うかも知れない。たいていの人間は、少なくとも下っ端の間はヘコヘコと、情けない生き方をするものだ(そんな生き方に怒りを覚えつつだが)。できればスリルをクールに処理したい・・・だからだろうか、時々チキンレースで事故ったような痕跡を、峠道などで見かける。阿蘇の外輪山の一部には、まともなガードレールが残っていないところが何か所もあるが、あれは夜中にハードボイルドな運転を試みた連中の仕業だろう。

彼らは単なる暴走趣味で、意味をはき違えただけのように劇場主は思うが、本人たちは自分をクールな冒険家と思っているかもしれない。 そもそも都会のバー以外で、どのような場所にハードボイルドの面々は存在するのか? まさかカラオケで歌ったりはしてないだろう。たぶん峠道でもない。 毎日バーにいたら、肺癌か肝硬変になってしまう。健康に注意するハードボイルドな田舎人は存在しうるのだろうか? なんだか笑いの対象にしかならないような気もする。現代のハードボイルド的あり方が、劇場主には掴めていない。

それに、ハードボイルドな医者をイメージすると、患者が殺されそうな気がするので、そんな方向を目指してはいけないとも思う。生き方が違うのだ。

 

 

2019年7月17日

かがみの孤城(2017)

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-辻村深月著 ポプラ社-

登校拒否の少女が鏡を通して出合った子供たちは、それぞれが問題を抱える学生だった・・・書籍を購読。

これは間違いなく映画化~ドラマ化されるであろう小説。実際にはそんな情報をまだ聞いていないが、おそらく権利関係が調整できたら、きっとそうなる。アニメだろうか? 実写化されたら、ヒロインは、また広瀬すずだろうか? さすがに年齢的に無理もある。たまには他の女優でも良いような気がするが・・・・ 広瀬と勝手に決めつけても仕方ない。ヒロインが誰に決まるにせよ、この劇場でも取り上げてみるべきと考えた。 

本屋大賞を取った作品。非常に面白く、テーマもプロットもよく出来ていた。少女らしい感性、女学生が体験しそうなエピソードなど、実社会を反映した部分が非常にリアルだった。そして少年少女の間で生まれる連帯感、友情の話は非常に美しい物語を生んでいた。そして子供たちの希望につながる物語だった。

友人関係に悩む学生は多いと思う。これは彼らを勇気づける作品だから、もっと多くの人に読んで欲しい。でもパラレルワールドらしき鏡の部屋の設定については、もう少し工夫が必要だったかも知れない。 

たとえば今の時代は流行の変化が早い。少し時代が違っただけでも、日常の会話は随分変わるものだと思う。テレビに影響された流行の言葉使いは、流行りすたりが激しい。「マジ」「メッチャ」といった言い回しは、そんなに昔から使われていたわけではない。流行歌やアイドルの話題になれば、歴然と年代の違いが出る。言い回しが違う人との会話は、調子が狂ってしまうものだ。普通の会話だけでも、「お前はいつの時代の人なんだ?」と、ギャップに気がつくのが自然だ。 

店の流行りすたりも激しい。人気があって、よく利用していたミスター・ドーナッツなどの店舗も、不採算や経営形態の変化などで、すぐに閉店、別な店に変わったりする。どこに何の店があるかどうかは、時の違いをすぐ連想させる。その点に気づかないのは、よほど変わった感性を持つ人間だけだ。だから無理に時間の要素を織り込む必要はなかったと思う。

そもそも人間の顔形、声の質などは、中学生の頃と大人になってからとでまったく変わるものではない。小学校時代から会ってなかった人に偶然遭遇した時、見たことある人のような気がするのが普通だ。整形でもしない限り、何か気づくものはあるだろう。そこも考えるなら、違うストーリーがあっても良かったのではないか? 細かい点だが、その点の調整で完成度が上がると思う。 

 

2019年6月 3日

華氏119(2018)

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- Michael Moore -

マイケル・ムーア監督がアメリカの政治制度を論じたドキュメンタリー映画。DVDで鑑賞。説得力があった。過去の作品よりユーモアは減り、迫力は増していた。迫力の理由は、銃規制を訴えた高校生たちの活動や、ミシガンの町フリントで起こった水道の水質問題が詳細に描かれていたためだろう。描き方が良かった。編集、構成が素晴らしい。

銃業界から金をもらわないと誓うように迫る高校生に対し、有力政治家がまともに答えられないシーンは、現状を鮮やかに写している。政治家に幻滅せざるを得ない、その現実がよく理解できた。水道水をめぐる問題も強烈に描かれている。ひどい話だ。鉛の血中濃度のデータをいじって虚偽の報告をさせたという証言があったが、本当なら完全に犯罪だ。

どうしてそんな行為をとったかは不明だが、おそらく正確な報告をすると予算の関係で水道事業自体が成り立たないという危惧からではないか? 担当者たちは、進行中の計画を続けることを優先したに違いない。だが不思議な点がいくつもある。州知事は、水道の水質問題をどの時点で知ったのだろうか? 民間活力の導入で市の経営を再生することを狙い、結果として汚染を引き起こしたのが真相と思えるが、衛生問題が疑われたら、普通なら対処は保健所や水道局が自動的にするのでは? いちいち知事の判断を仰ぐ時間的余裕はない。そうでないとしたら、その仕組みに問題があり、知事は諸悪の根源と言い切れないのかも知れない。  

財政が厳しい市が、なぜ新たな水路を建設しようとしたのか? そこも不思議だ。湖の水の権利より建設費のほうが安いとは考えにくいので、公共事業によって地元の仕事を増やすケインズ経済学的意図が働いたのかもしれない。それにともなって、業者と何か取引があったのかもしれないし、そこは確認しづらい。 

市の担当者は、なぜ偽装という危険を冒したのだろうか? 普通に考えれば、ことが露見しないはずはない。その時に、自分の刑務所行きは確実と分からなかったのだろうか? 明らかに損する仕事であり、不可解だ。日本の役所ならともかく、米国で隠ぺいはありえないと思っていた。勘違いだったようだ。恐ろしい力が働き、真相が隠される仕組みが浸透しているようだ。 

また、オバマ政権が問題の解決を図ったらしいのだが、水道水を飲むパフォーマンスをしようと誰が考えたのか? 問題が解決した後なら効果的だと思う。しかし、害は未解決のはずだ。救うためには、犯罪者達に裁きを下し、補償の目途を立てる必要がある。解決した後なら、パフォーマンスもできる。そうでない時には、別な表現をすべきだ。明らかに間違った対応をとった。
フリント市の市街地で軍事演習をしたというのも分からない。他の町で例があるのだろうか? もし、その演習の許可と引き換えに、水道問題に国の介入を認めたりしたなら、話のつじつまは合うかも知れない。末期的なほど酷い取引だが。 

トランプ政権も酷いようだが、民主党の運営も非民主的というムーア監督の訴えは、非常に説得力があった。構造的な問題があるのだろう。すさまじい力を持つ勢力が互いに争い、力で権力を奪い合ってきた歴史が米国を作ってきた。理想主義の入り込む隙は大きくない。民主主義は、昔から常に危機に瀕してきたのだろうが、今もそうだ。おそらく、サンダース議員が大統領になっても、体制の欠陥はそのまま残ると思う。欠陥が根深く、構造的だからだ。日本よりはマシと思うが、矛盾に満ちた米国政治は、誰か新しい政治的ヒーローが待望される状態。ただし、その彼が独裁者になる可能性も確かにありそうだ。

 

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