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カテゴリー「あ」の122件の記事

2017年12月25日

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う(2015)

Demolition

 

- Phantom Film -

ジェイク・ギレンホール主演のラブストーリー。と、言っても純愛映画ではなく、感情が虚ろな男の再生を中心に描いたストーリー。タイトルのデモリションは、主人公が家具や家電製品をバラバラにしたくなる衝動を差したらしい。DVDで鑑賞。

あまり前評判を聞いたり読んだりしたことのない作品。でもギレンホールが主演する映画には、あまり外れがないだろう。そんな理由で鑑賞する気になった。

 

この作品には原作があるのだろうか?調べていないので分からないのだが、誰かの体験が話の元になっているような気がする。家族を亡くすと、普通なら茫然自失とするか、細かい段取りで頭がいっぱいになって動転してしまう人が多いはずだ。でも葬式から納骨に至るまで冷静にこなす人もたまにいる。連れ合いの葬式でも、自分の仕事の一環のように感情を大げさに出さないまま、クールな態度でやれる人の話もよく聞く。たまには笑顔さえ見せ、軽いジョークを飛ばせる人もいるくらいだ。 そんなクールな自分に気づいたとき、この作品のアイディアが生まれたのではないかと、勝手な想像をしてしまった。  

 

主人公に深くかかわることになる女性をナオミ・ワッツが演じていた。母子家庭だが、本人はマリファナ中毒、しかも息子は性的マイノリティという設定で、さすがに話が難しくなるように無理して作られた話のように感じる。  いかにも小説家が考えそうな匂いがするではないか。 原作がないなら、きっと誰か脚本家が小説タッチに考えた話だろう。   

 

主人公が物を分解する衝動がどこから発生しのか、完全には理解できなかった。義父がセリフで「分解して考えろ。」みたいなセリフを吐くシーンが一回だけあったが、それが追想場面であったせいで印象付けが足りなかったのか、衝動的行動をとる主人公の感覚を理解するのは難しいように感じた。 何かを分解し、何かを発見する喜びを、もう少し時間をかけて描けば分かりやすかったに違いない。 

 

もしかすると、この作品の主人公はコメディアンのほうが良かったのではないだろうか?狂った行動をとる場合、ユーモラスに演じてくれたほうが、後の悲しさが惹き立つと思う。 バカそうな男が、ショックで頭の調子を変にして、トンチンカンな行動をとるという演出にしたほうが、観客受けは良かったろう。チャップリン映画のイメージだ。ギレンホールでは、それが難しい。 そこが、残念な結果につながったのではないか?  また、ぜひとも主人公には男性の友人が欲しい。話をリアルな方向、実生活をイメージさせる方向にしたいなら、彼を心配してくれる常識に満ちた同性の人物がいたほうが良いはずだ。   

 

発達障害がある人間は、肉親の死においても、独特の感じ方をするのではないかと思う。ちょうど、この主人公のように仕事に関しては非常に有能で、立派な社会人であったとしても、人間関係に関しては心の底からの愛情、友情を形成できない場合はあると思う。劇場主も、自分にそんな傾向がないか気になる。

 

親の死の数年前に、お迎えが確実に来そうだと感じた時の劇場主は、親の前で泣いてしまった。親の死に方を予想できたからだ。でも、いざ本当に死んだときは、「覚悟の通りだ、悲惨な時間が短くて済んだ」という安堵感のほうが大きく、泣き崩れるほどの強い悲しみは感じなかった。予想の時のほうが悲しく、実際は安心~納得に近い。ごく自然に、無理なく「覚悟の通りだ、さあ為すべきことをやらねば」と、思った。クールすぎたかもしれない。あるいは、単に諦めていたからだけかもしれない。 でも、もしかすると感情に欠ける部分があったのかもしれないと、少し気になる。

肉親の死に際しては、自分が成すべきこと、話す内容から所作に至るまで、改めてどうすべきか再考してしまい、頭の整理がつかない時間がある。それが普通だろう。 それを練習していくのが運命なんだと思う。

 

 

2017年12月16日

アメリカンドリームの終わり(2017)

- ディスカバー・トゥエンティワン -

 

ノーム・チョムスキー作の政治評論。似たようなタイトルの本は多い。彼は雑誌などで繰り返し政治の話を述べていたから、劇場主は彼が言語学者だと認識していなかった。もしかすると一度くらいは著者紹介の欄で彼の本職について読んでいたのかも知れないが、記憶は不確かなまま。思い込みで、彼は純粋な政治学の専門家だろうと思っていた。

 

経済学・・・まったく素人の領域。しかし、倫理に関して考えていくと、経済学を抜きにしてはいられない。富の偏りは良くないという認識は、倫理に直結する。共産主義や資本主義、イスラム教の戒律との間で対立が起こる時に、多くの場合は富の偏在をどう分析したかに応じて、その理屈の微妙な違いが過剰な対立に結びついているような、そんな感覚を持っている。狙いは同じでも、解決法が違うだけだと・・・

 

この本の主題は、米国の政治は一貫して民衆の権利を侵害し、力を阻害しようとしてきたということ。民主主義のチャンピオンのイメージがある米国が、まさか・・・、そんな感覚の人がどうしても多いはずだが、この本の内容は間違いではないはず。確かに計画的に民衆の権利を抑え、企業や支配的な人達を優遇してきた歴史があると思う。ただ、さすがに少し誇張もあるかも。民衆の側の権利が確保された時期がないわけではない。権利の要求と圧迫のせめぎあいがあるというだけだろう。

 

公民権運動や性的マイノリティの権利は大きく報道されていた。でも、それらに注目が集まる中で、気づかぬうちに中間層以下の経済的な立場への関心が薄れ、気がつけば抜き差しならぬことになっていたのかも知れない。計画的にそうしたわけじゃなく、利害関係と力関係、そして米国独特の法体系や歴史がそうさせたのだろうと思う。少しずつ、ほんの少しずつ、資産家の権利が確保されて来たようだ。

 

米国の場合はイメージ戦略=大規模キャンペーンの力が強く反映されると思う。感覚が似かよった集団が大規模に作られている。それによって、イメージとしては民主主義のためと訴えつつ正反対の行為を行い、それでも裁判で負けない勢力のパワーが、他の地域より維持されやすい。計画的な宣伝が大衆のイメージを作りやすく、世論操作しやすいのだ。歴史ある国ではちょっと難しい。日本は、米国の影響が強いので、イメージ戦略に弱い点は似ている。

 

立法や裁判に関わるシステムが、そんなえげつない姿勢を助長してきたし、それが基本的なルールとなって、他国にさえ影響してきたように感じる。法律のルールが今日の結果を生んだのだろう。裁判所の力が強いので、裁判に勝ちさえすれば、強欲を抑えつける仕組みがなくなり、悪行もビジネスとして認められ、誰も手出しできなくなる。その結果が積もり積もったらどうなるか、それを我々は見ているのではないか?

 

歴史上の強国は、常にそうやってきたのかもしれない。征服はしなくても、そうするぞと圧力をかけ、相手側から譲歩を引き出すのは難しくない。劇場主がビジネスマンなら、ビジネスの一環としてきっとそうする。それによって富をつかみ、名声を得て、市民たちから大いに感謝されることも期待できる。ますます劇場主は有力者になるが、気の毒な現地人のことは気にする必要はない。ビジネスなのだから。そんな感覚ではないだろうか? 

 

こんな流れは、例えばアフリカの小国の誰かが考えついても実現されることはない。米国独特のものだろう。米国では、このような仕組みは成功体験として支持され続けている。覇権国の一時的な大成功の例、それがアメリカンドリームなのかもしれない。

米国や米国人の利益を追求した場合は、かなり強引に法的には保護されている。企業集団、生産者集団の要求によって、米国政府は他国と交渉し、権利を確立してきた。過去に、そのような欲求を持った人たちがたくさんいたのだろう。権利の追及を可能にしたことで、アメリカンドリームの数々が可能になったが、それらは力を持つ国の法の強引な規定による流れかも知れない。

 

ただの流れに過ぎない・・・そんな印象はある。米国人が弱者をさげすみ、いつも悪意を皆持っているわけではなく、ほとんどの市民は善意に満ちているのだろうが、ちょっとした論理の方向性、イメージ戦略の影響で極端な利益偏重が許され、大多数の市民は一部のビジネスマンの悪行に気づいていないのでは?と思う。

 

アメリカンドリームと我々が思っていたものは幻想のようなもので、国が発展する中で一時的に出没する奇跡のようなものかも知れない。どの国でも発展の途中は熱病のように富を目指すものだ。多くの夢のような成功が達成される。他の地域が大きな力を持てば、きっと夢の場所は変わるのだ。それが自然の流れで、アメリカンドリームだけが特別じゃない。英国の貴族社会だって、数々の成功体験を持って確固たる立場を持っていたのである。中国の富裕層もすさまじい資産を形成している。今はチャイナドリームのほうが勢いがある。それだけのことか?

 

でも、さすがに資産に関しての問題点が浮き彫りになったことで、世界的に金持ち優遇を制限する具体策が望まれるだろう。多国籍企業への課税が始まろうとしている。企業側だって何かやってくるだろうが、世界中の経済が極めて好調で、庶民の収入も伸びないかぎり不満は解消されない。政策の修正は必要のはずだ。きっと、このままじゃ済まないと思う。どう転ぶかが分からない。

 

 

 

 

2017年10月29日

「安倍は保守」とは言ってはいけない(2017)

 

- 橘玲著、文藝春秋(2017) -

 

文芸春秋を読んでいたら、作家の橘玲氏の政治評が掲載されていて、興味深い内容だと感じた。元々は早稲田の学者が何かの研究をした結論らしい。自民党政権の政策が、リベラル化しているという内容だった。確かにそんな気がする。民主党が訴えていた内容が、いつの間にか自民党の政策になっていることが最近多い。

 

橘氏の書かれた本では、「言ってはいけない」を読んだことがある。独特なまとめ方をしているが、間違った内容とは思えない。氏はもともと経済問題を中心に、いろんな形の作品を出しているようだ。今回の文章は、より鋭い内容で、説得力のある文章だった。ただし、タイトルの言い回しは、少し妙な気もする。

 

サイコパスらしき人物との交渉を何度か経験したが、彼らは他人の意見を自分の発想だと言い出すことにこだわりがない。こちらが何か意見を言うと激しく反論し、とんでもない!大間違いだ!などと言っているが、次に会った時には「俺は前からそう考えていたんだ!」と、また激しく訴える。「ええ~?そう来るか!」と、こちらが怯むのを期待しているかのようだ。

 

おそらく彼らの頭の中では、こちらの意見を検討し、自分が有利になる案だと判断できれば、それを学んだ自分を肯定的に認識しているのではないかと思う。意味を理解できたら、元々知っていた気になり、自分の発想のような気になる。意地を張って反対し続けると、やがて不利な結果に終わるので横取りするが、横取りの自覚は乏しく、とにかく自分の有利な方向に持っていくほうが良い、そんな感覚らしい。

 

総理の個性がそうなのかは分からないが、現政権はそんな態度のようだ。でも間違ってはいない。政治家は、常に自分の有利な方向を目指すべきだ。そうしないと選挙で負ける。節操がないと言えばそうだが、こちらとしては法案は通りやすい勢力から提出してもらったほうが都合が良い。民主党から提出すると、おそらく政府がつぶしてしまう。ここは与党から提案されたほうが良い。そもそも民主党は瓦解してしまったようなので、余計にそう言える。ただし、政府案は骨抜き法案に変わっていくだろうけど・・・

リベラルだった労働運動は、一定の既得権を生んでしまった。劇場主もそう感じる。かっては大まじめで命がけだったと思える労使交渉も、長い年月繰り返されると、慣例でどの程度融通するか決まってきやすい。要求する際の人間関係、流れ自体が既得権益化してしまう。そして、保守化してしまうという流れはある。団体交渉は、さながら舞台劇みたいな雰囲気で、茶番のようだ。結論の落としどころが最初から決まっている。

 

政治的な概念も、文化人類学的な原則からは逃れられない。理論に基づいて権利を主張した斬新かつ清廉な意見も、慣れや人間関係、そして活動家自身の年齢的変化によって、パターン化した意見に変わっていくものだ。運動家だって自分を守りたい。それは成熟、老練化ととらえることもできる。活動家が、老練な保守的人物になることは仕方ないのだろう。交渉を繰り返していくと、敵から影響を受けるものだ。   

 

いっぽう、リベラル活動家達と交渉している保守勢力も、世間からの印象が気になるのだろう、強面路線を続けてはいない。こちらも懐柔と譲歩によって世論の人気を得て、敵に力を与えないように、折り合いをつけることに慣れる。それを恥じらいもなくやらないと、隙を生じるから仕方ないと感じているのでは?馴れ合いと出し抜く意図、それらの結果がパターン化したように思える。

選挙に勝たないといけないので、客受けする内容を公約に盛る必要があり、一度失敗したことで、そこを決して忘れないようにしている。本来は投資家に有利な政策を基本として、印象を操作する手段の数々を、おそらく専門家達と相談しながら練っているのではなかろうか?米国の大統領選がまさにそうだから、参考にしないはずはない。安倍政権の戦略は本当に優れている。

 

憲法改正を目指す人間が、グローバリズムの片棒を担いで格差を助長しつつ格差是正を訴え、本音は隠してリベラルな政策を盗み、財政を悪化させつつ若者世代の支持を得る・・・おそらく、完全に自己矛盾しているはずだ。皆は勘違いしてしまっているのだろう。臆面もなく訴えると、大きな矛盾に気づかれないままやれる。サイコパス連中が、そんな技術を持っていた。あれを技術というべきか?彼らは異常で、認識障害を持っているようにも思えたが・・・?

 

 

 

 

2017年10月 8日

アラビアの女王 愛と宿命の日々(2015)

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- Atlas Distribution,  GAGA.etc -

イギリスの学者にして諜報員的役割だったガートルード・ベル女史の伝記物語。DVDで鑑賞。

「アラビアのロレンス」を意識したのか、高尚で叙事詩的な作り方の作品。誇り高い雰囲気を随所に漂わせ、古い名作映画のような高級な感じがする。その分、現代風の軽いノリのようなものはない。若い観客は、きっとソッポを向いたのではなかろうか?

ニコール・キッドマンは50才近いはずで、ヒロインを演じるには無理があったと思う。でも照明や化粧などを工夫したのか、充分に美しく、気品の漂う女優ぶりだった。古い時代の名女優、大スターの雰囲気が感じられ、名演だったと思う。彼女は、古いタイプの女優のようだ。

演出が、少しテンポに欠けるような気がした。特にヒロインと、ジェームズ・フランコ演じる外交武官?とのデートシーンは、冗長ではなかったろうか?会話が多すぎ、濡れ場になっていない印象を受けた。印象をよくするためには、ロマンチックだが時間は短めにすべきだったと思う。

領事を演じたダミアン・ルイスがまた良い味を出していた。この人は役人を演じさせると抜群に雰囲気が良いようだ。恋愛専門の役者やアクションスターなどにはならないと思うが、この役には向いていた。

しかし、ベル女史がいかに優れた学者、官僚だったとしても、今日の中東の混乱を招いた英国政府の一員だったとして考えたら、やはり罪はあると思う。ベル女史の意見が通らなかった点も多かったろうが、責任は免れ得ない。

英国が、どのように考えるべきだったのか分からない。どう対処しても、アラビア半島は常に部族対立、宗派対立を繰り返し、殺し合っていたのかも知れない。関与しようとしまいと、何も大きくは変わらなかった可能性はある。

シリア、ヨルダン、イラクなどに分割したことや、その国境線の決め方などは、展望を開きにくい悪いタネをまいてしまったように思う。ISの誕生にも、英国の政策は関わっている。呪われて然るべきかも知れない。

そんな政策に関与した女史を描く場合は、違った描き方もあったのではないか?恋愛に重点を置いたのは、正しかったのかどうか?

 

 

2017年9月 8日

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場(2015)

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- Entertainment One -

イギリス出身のテロリストを狙う英国軍。ついに居所を突き止めたが、攻撃するには民間人の犠牲が問題となる。司令官達の間で緊迫したやりとりが続く・・・

・・・・DVDで鑑賞。緊迫感が素晴らしかった。緊迫するように、上手い盛り上げ方をしているなあと感心。さらに何か求めるとしたら、もう少しユーモアのあるやりとりがあれば良かったかも知れない。

登場したカメラ型の鳥、虫型のドローンはすごかった。あんなのが飛び回ったら、情報を隠すのは難しい。本当にあそこまで性能が上がっているかどうかは分からないが、かなり現実的なメカになっているのだろう。

英国と米国、現地部隊との間で、細かい連携がなされていることに驚いた。実際にはどうだろうか?通信は傍受される可能性も高いし、時差や機器の性能の問題もあり、それに描かれていたように、担当者が不在で連絡ができないことも多いはずだから、もっと限られた人だけで事を進めているのではないだろうか?映画のように話し合っていたら、作戦は上手くいかないだろう。

米軍が主体の場合は、おそらくもっと簡単だ。CIAと軍の上層部はモニターを見ているかも知れないが、議員やホワイトハウスの高官は指示する場所にはいないと思う。妙な政治的判断をされたら、作戦は失敗する。ゴーのサインが出たら、よほどな支障がないかぎり作戦は遂行されるはずだ。

作品が問題としているのは、「ドローン・オブ・ウォー」とほぼ同じ問題。上空からの爆撃でテロリストを狙う時、関係のない民間人、特に少年少女が犠牲になる。法的にどう処理されるのか、犠牲をどうやって避けるべきか、そこが人道的に大きな問題になる。

以前だったら、地上部隊が包囲するか、あるいはヘリがミサイルをぶち込んで、民間人ごと殺戮しても仕方なしという考え方だった。犠牲を避ける方法がないから、仕方ないというわけだ。攻撃方法が進化し、米英軍の犠牲が極端に減った現在では、危険を冒さずに敵を攻撃できるようになり、人道面に注目が集まるようになってしまった。

ドローン攻撃をどう考えるべきか、さっぱり分からない。欧米でも法律が追いついていないのかも知れない。戦争状態になった地域と、民間人が平穏に暮らす地域で、攻撃のあり方は違って当然だろう。民間人が暮らす地域では、いかに高性能で周辺の害が少ない武器でも、使うことは望ましくない。でも、それが法律化されると、テロリストは必ず民間人の中に潜り込む。

潜り込むことは民間人を人質に取ることであり、旧来の軍法ではそもそもが違法行為、軍法の対象外の連中といった理屈があった。正式な軍人ではなく、凶悪な殺人者であるから、残虐な方法で殺しても軍事法廷では裁かれないといった論調。でも、ほとんどがそんな戦場になったら、旧来の軍法を持ち出しても通用しないように感じる。

たぶん、国連で何か決まっていくのではないだろうか?有力国の都合に応じて、「何年度版のソフトによって犠牲が50%以下と判定されたケースでは、攻撃は許される!」「何年版ソフトによってテロリストの可能性70%以上と判定された人間は殺して良い!」といった、冷酷この上ない内容にならざるを得ないということだろう。

NATO諸国の首脳が参加したSNSで、「殺す?殺さない?」のタグに対し、「殺せ!」→「イイネ!」の支持が何件集まったら許可・・・ああ、考えただけでも怖ろしい話。

2017年7月16日

アメリカン・レポーター(2016)

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- Universal -

アフガニスタンで現地取材をする女性レポーターの行動を、原作者の実体験を元に描いた物語。いちおう、コメディ仕立てになっているが、かなりシリアスなドラマタッチ。DVDで鑑賞。日本では劇場公開されなかったかも知れないが、優れた作品と思う。

原題は「ウイスキー・タンゴ・フォックストロット」。意味はいろいろ考えられるが、要するに酩酊状態に陥ることが多い主人公の生活を表したタイトルだろうか?タンゴを踊っていたようには見えなかったのだけれど・・・

ヒロインを演じた女優ティナ・フェイは主にテレビ界のスターらしく、多才な方らしい。映画の出演は多くはない。でも今回の演技は、役柄も良かったのだろうが、非常に味があって好感を持った。ヒロインに共感できた。

ヒロインの特徴は、多少の色気、品が良すぎない、感覚は鋭く、仕事はちゃんとこなす、生活は破綻寸前、そんなところだろうか?一歩間違えればアル中のだらしない女、行かず後家のしようもないアバズレに陥りかねない、そのギリギリで粘っている、そんな感じ。そこを上手く描いていた。

表現の問題もあるから、この作品は家族で一緒に鑑賞できるようなものではないだろう。基本は大人限定の作品。ただ、この作品は同性、異性関係なく、大勢で鑑賞しても気まずくなりにくい印象を受ける。品がないけど、許せるのは、展開が良かったからか?

この作品は、驚いたことにアフガニスタン周辺で撮影されたのではなく、米国の基地などを利用し、大がかりなセットを作って撮影したのだそうだ。そこまでやる必要があったのか、ちょっと理解に苦しむのだが、その甲斐はあって実にリアルな町並みが再現されており、予算の凄さに感じ入る。

さて戦地に関して最近思うのだが、今日の技術をもってすれば、戦地のレポーターという仕事は、もうすぐ無理になるのではないだろうか?

たとえば、今のカメラには人の顔を自動認識し、焦点を合わせる機能が標準装備だ。少し進化させれば、髭を生やしたイスラム戦士のみを認識することも可能だろう。あるいは戦車に限定して反応することや、エンジン音を識別する機能を併用できれば、敵の兵器ばかりを特定できる。目の色、肌の色など、条件を変えることも可能かも知れない。礼拝の動作を認識されたら、きっと殺人の効率は非常に良くなる。

敵と認識できる人間が一人なら、費用を最小限にするため小型の毒針を射出。サリンなどを使えば、一台のドローンで数百人の敵を殺せる。多数の敵なら誘導ミサイル攻撃など、機械に自動で判断させたら、さらに効率よく殺害できる。人間の判断と違い、まよいなく瞬時に対応できるだろう。怖ろしいシステムが出来上がる。

自動運転の技術は、自動攻撃の技術に進化できるだろう。車は衝突回避が目標だが、戦場なら逆で良い。逃げ惑う敵を効率よく探して、切り刻むことだってできると思う。どの順番で殺したら、より効率的か的確に判断し、敵味方が入り乱れる戦場で、敵を正確に識別して殺しまくる機械も生まれそうに思う。

ドローンは、購入整備に戦闘機ほどの予算を要しない。テロリスト側だって多数そろえることは可能だろう。数十万個のドローンを飛ばし、上手く設定して上空から侵入者を狙ったら、相手の対応はかなり難しくなるかも知れない。

制空権という言葉の意味も、変わってくるかも知れない。敵の戦闘機を認識し、自爆して破壊する機能が開発されたら、もう上空を飛ぶのは難しくなる。ヘリの攻撃は、今の段階でもかなり排除できると思う。ミサイルを発射した途端、多数のドローンが集合して破壊するようなら、自国内で爆破されてしまう。よって核ミサイルは発射することが危険となり、核抑止ができるかも。

そんな戦場では、生身の人間は動くことも顔を上げることもできない。顔を隠し、認証を隠し、言葉は小声に限定しないといけない。「アラーの神よ・・・・」などと発言できない。レポートなんてとんでもない行為。大きな声でレポートしていたら、どこかからドローン攻撃されてしまう。付けひげや、現地人ふうの所作を真似る演技力が大事になる。

 

 

2017年6月19日

ある戦争(2015)

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- Nordisk Film -

アフガニスタンで警戒にあたっていたデンマーク軍部隊が、急に攻撃を受ける。なんとか生き延びた隊長だったが、その結果戦争犯罪で告発される・・・・

・・・・DVDで鑑賞。優れた小品と思った。夫と離れて母国に暮らす母子の様子がリアルで、妻や夫の心情が分かりやすく表現されていた点が特に優れている。子役は、もしかすると親役の本当の子かも知れない。表情がとても自然で、演技のにおいが全くしなかった。戦場の様子もリアルだった。単調な警戒警備、突然襲ってくる爆発の恐怖、仲間を失う悲しみ、敵意に満ちた住民の視線、善意が徒労に終わる空しさなど、その表現が的確だった。

全くと言って良いほど笑いの要素がない。それに負傷した兵士の様子が無残だったので、小さな子供に鑑賞させるのは気がひける。家族を描いた作品とは言え、この映画は家族で楽しむタイプの作品ではない。娯楽の性格が乏しいので、おそらくは小さな映画館で、芸術作品を好む落ち着いた年輩の方々といっしょに、静かに鑑賞するのが本来のスタイルではないか?

軍の裁判というものは、この作品に描かれたようなものなのだろうか?攻撃する際の根拠は確かに確認するのが望ましいと思うが、敵を確認しようとすると部隊を全滅させる危険性が高い場合も要求されるべきか、そこは難しい。攻撃を野放しにすると住民の虐殺を助長するだろうが、実際の戦場で敵を確認するのは簡単じゃないだろうから、攻撃の是非の判定も簡単ではない。

自衛隊の規則がどうなっているのか気になった。そもそも自衛隊は現実に存在し、役立っているのに法的には微妙な立場。そのため隊の規定は、理論的に矛盾したものも多いかも知れない。実際の戦場で使い物にならない規則があれば、隊員は生き残るために違法行為をやらざるを得ない。日本に限らず、現実から遊離した法律がEUの中にあって、その弊害で困っている人がいるのだろう。この作品も、実際の兵士が出演しているそうだから、現場の不満がアイディアの元になったのかも知れない。

海外に派遣されていた自衛隊員は、今までは幸い誰も殺されてはいないようだが、おそらく衝突に巻き込まれるのも時間の問題だろう。規定により何もやりようがなく、ただ殺されましたという実情が明らかになった時、世論はどう反応するだろうか?

(加計学園問題に関連して)

もし何者かが侵略をふっかけてきたら、総理は明日にでも自衛隊に出撃を命じないといけない。極論で言えば、その時に総理の友人達だけ避難させ、一般人を見殺しにしても仕方なしか?まさかの話だが、全員を助けられない場合、万が一の時の想像をめぐらせると、そこが気になる。加計問題は、そういった国防の大問題とは違う・・・・たぶんそうだ。でも疑念は沸く。それが自然な流れだ。総理の友人だけではなく、例えば自民党の関係者だけならどうか?

おそらく、権力者に有利な選択がなされたらしいことは皆が感じたはずなので、そんなものなのかという認識は残る。そして、それならば自衛隊員だって自分の都合を優先したくなってくるのではないか?国のトップの腐敗を許したら、モラルは崩壊する。下々はやりたい放題になっても不思議ではない。だからこそ、厳しすぎるくらいのモラルが、権力者には要求されるべきと思う。つまり、違った問題ではないはずだ。

総理の関与具合は、これを書いている時点では分かっていない。分からないで済ませようとしていると言うべきか?政府は徹底調査に消極的だと報道されている。なんて傲慢な態度だろうかとは思うが、確かにこれは政治の主題と離れた問題だ。大事な国会論議が、証拠を出すか出さないかの議論で費やされ、時間と場が無駄になるのもいけない。これは与党の首脳が言う通りだろう。小さな問題と、言えなくもない。

それでも常識として、個人的関係が認可に影響するのは許されない。友情と収賄は、区別するのが難しい。疑わしいことは避けるのが伝統的な考え方だ。官邸に不公正な利益誘導の疑いがあれば、とうぜん国会として証拠を探すべきだし、内閣の側は妙に隠し立てしない、そもそも疑われる事はしないこと、第三者に判断させることも望まれる。国会は責務を果たしていないし、潔くもない。

友人を優遇するのも心情的には理解できるが、官邸の立場を考えると甘え、認識不足と言われても仕方ない。もちろん収賄の具体的証拠はないだろう。総理自身は何も指示せず、副大臣などを介して意向を伝えたはずだ。殿様のような手法だろう。事件としての立件はできないだろうが、総理への敬意は、かなり損なわれた。人格面を評価するのは、もはや難しい。彼が何か崇高な事を述べても、信用はできない。

いっぽうで、官邸と役人の権力闘争の面からも考えないといけない。

現政権の功績は、景気回復のお膳立てをしたことと、官僚支配の弊害を打破し、政治家主導で行政を推進しようとしたことにあると思う。内閣人事局が役人の人事を握ったから、古い体質に風穴が空いた。「岩盤規制の打破」という文句は、なかなか格好良い。つい最近まで役人の都合が最優先され、国の発展が阻害された感があった。もし総理が失脚し、官僚の人事権が元に戻るようなことがあれば、万事の停滞は覚悟しないといけない。経済的なチャンスも狭まるだろうから、投資だって減るだろう。景気は悪化するはずだ。

総理のスキャンダルが表に出てくるのは、官僚から情報が漏れているせいだ。今回は特に、文科省が逆襲した形になる。親玉を失脚させようと、まるで時代劇で老中を追い落とそうとする連中のように暗躍していると思う。我々は、彼らの怪情報に踊らされている。この問題の本質はモラルの問題ではなく、単純な権力争いなのかも知れない。総理失格などと攻撃すると、それは役人達の思うつぼ。でも、役人の天下りや岩盤規制も望ましくない。どう考えるべきだろうか?よく分からない。

あらためて感じたが、政治家や役人にモラルを期待するのは難しい。だから優れた規則で縛るしかない。結構な歴史があるくせに大事な規則ができていないことが、我が国の大きな欠点。そして良い規則を作ることに国民の多くが無関心で、政治は役人に任せるものと思っている。そこが最大の欠陥だろう。

問題点が判明 → 対策作り、これはセットである。それができないことは無能の証で、対策決定こそが議員の仕事なのだという認識が希薄のようだ。斡旋、口利きが仕事と思っていて、そればかり期待するからだろう。モラルがないことが共通認識だから、議員と選挙民と役所が互いに忖度しあって、互いの利益を求めてしまう構造だ。

役人の人事権をどうすべきか全く分からないが、内閣に集中させると今回のような忖度事例が発生するから、権限を裁判所に移すか、あるいは国から独立した機関に移動、分散させることが望ましいのかも知れない。権限を1年ごとに移すのも面白いかも知れない。とにかく、権力が集中しないような上手いルールが必要だ・・・・・が、それが認識できていない。

他の業界でやられているように、利益相反の公表、あらゆる文書の完全な保存など、基本的な対策を地道に義務化することも望ましい。でも、これにも反対意見のほうが多いだろう。明文化は難しい。選挙民だって、国のことより自分の仕事のほうが大事だから、政府のモラルハザードは気にならない。都議選はともかく、おそらく国勢選挙結果は大きくは変わらない。よって問題点は改善されない。

何かもっと驚くべき事態の変化がないかぎり、証拠はありませんでした、騒いで面白がって、でも政局に影響なしで終わるだろう。そして我々の心がいっそう荒む。問題に対して対策をとることが期待できなくなり、モラルなど吹き飛び、希望が失われ、自分のことだけ考えたくなる。隊員達もそうだろう。その結果どうなるか、考えないのだろうか?

 

 

 

2017年4月23日

アルジェの戦い(1966)

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- Casbah  Films - 

レストランで優雅に食事を楽しむ市民・・・・しかし、突然の爆発で多数の犠牲者が出る。無差別テロだ。犯人は現地のテロ組織。組織に対抗するため、フランスから空挺部隊が派遣される・・・

・・・・アルジェリア独立前のフランス軍とテロ組織の戦いを中心に描いた作品。カンヌ映画祭や、日本のキネマ旬報などの映画賞を独占した作品。強烈な映画だ。「シェルブールの雨傘」を観ていて、そういえばギィ君はアルジェリアに行ったのだと思いだしたのでDVDで鑑賞。

臨場感にあふれている。ドキュメンタリー映像のようだが、記録映像を使わないで、全て映画のために再現したそうだ。でも、実際の事件を写しているとしか思えないリアルな映像。おそらく、アルジェリア政府の援助、市民の無償の協力があって初めて成功した企画だろう。

大勢の人達が映像の中で真剣な表情を保ち、エキストラと思しき人達も演技臭くない表情を見せ、ちゃんとリアルな映像を作ることに参画している。俳優達ばかりでは、街の雰囲気の再現は難しい。エキストラこそが、この作品で最も重要な出演者だったと思う。

独立運動の記憶がないと、こういった企画は成立しにくい。いわば、この映画も独立運動のひとつだったと言える。

フランス軍の大佐も、テロ組織側も、使命に忠実な存在として描かれており、視点が素晴らしい。素晴らしい・・・・ということは、反発されやすいということも意味する。公平な見方をすると、その理想主義が鼻について、激しい攻撃を受けるのが必定だ。昨今の炎上騒ぎをみると想像がつく。この作品も、フランス側からは批判されたらしい。

独立が善なのか?考え方はいろいろある。欧州の支配から脱出しても、ただ封建政治や貧困を生む国が多い。それに政治的に独立しても、輸出しなきゃ金は得られない。貿易にともなって、経済面では支配を受ける。アラブの春の経過をみてみると、革命は混乱を生んだだけのような気もする。でも、だから支配下にいるままで良いはずもない。民衆の意志に従うべきとしても、結果は単純な成功につながらない。

独立後が一番難しいのだ・・・・と、映画の中でも指導者が言っていた。その通りだろう。経済をどう運営するか、その結果次第では大失敗に終わることもある。

アフリカ側とヨーロッパ側の関係がそもそも複雑で、互いに侵攻を繰り返してきた歴史があり、どちらが正義、どちらが悪者と決めつけるのも難しい。今は主にシリア難民とイスラム過激派のテロが問題だが、60年前までは一方的な欧州側の支配こそ最悪の権利侵害。数百年前はイスラム海賊こそ最悪。二千年前はローマ軍が最悪だったろうか?

描かれていたフランス軍も勇敢で優秀だった。彼らなりの価値観に基づき、任務を遂行していた。しかし、残酷な拷問もやったようだし、結果的には敗北し、徒労に終わり、意義の低い行為だったのかも知れない。劇場主がフランス軍の兵士だったとして、進んで命を賭けられるだろうか?強制されないと、普通の人なら無理だろう。愛国心だけでは嫌になる。

テロ組織側も、命を賭けた意味がどの程度あったのか疑問。第一に、無差別テロが許容されるべきとは思えない。そして、独立後の治安を守るためには、おそらく欧米の手先を排除するために、強権的な政権が必要になる。実際に多くの発展途上国がそうなっていた。そうなると、勇敢な行為も優れた政治的判断も、実質ただの権力闘争の様相を呈してくる。

昔からそうだったのだろう。解放や政権交代の後にも、圧政と貧困が待っているのだ。

 

 

2017年2月13日

ある終焉(2016)

Chronic


- 無理解 -

DVDで鑑賞。監督はミシェル(マイケル)・フランコというメキシコの方で、36歳だそうだ。

絵になるシーンが多く、画像の作り方に関するレベルの高いセンスを感じた。しかし、シーンの転換は全般に唐突で、つながりを考えていなかったように思った。センスはあるが、完成度、余裕や技術の面で改善点がありそう。

主人公は看護師のようだが、介護を本業にしており、終末期の患者のケアを、ほとんどマンツーマンでやっている。いちおう交代要員はいるようで、訪問看護ステーション的な事務所を介して派遣されたようだが、主人公の場合は患者との関係が非常に深くなり、家族を上回るほどの信頼を得ている。

日本の訪問看護は、数人の看護師が交代で回り、かなりは事務的に仕事しているような印象を受ける。熱心な方も多いのだが、彼らにも家庭生活があり、泊まり込むなどは滅多にしないはず。それに終末期の患者にのめり込む仕事ぶりでは、やがて精神的に保たなくなる。もっとドライな関係に留まるほうが続くと思う。

原題の「CHRONIC」は、慢性疾患の意味だろうか?

主演のティム・ロスは、この作品の制作者を兼ねているそうだ。ホームページによれば、監督の実体験が元になって、この企画が考えられたそうだが、ティム・ロスが制作にからんだ理由は分からない。

介護の現場の汚い部分もリアルに演出されていた。病人と介護者との関係についても、ひとつの理想型を表現したと言えるかも知れない。少なくとも、ひとつのプランを提起していたと思う。自分が介護されるなら、事務的な態度より家族的なほうを希望したい。それに問題がないとは思わないが、ドライすぎるのも嫌だ。

ただし、この作品の場合と同じく訴訟沙汰を覚悟しないと、心のこもった深い介護はできないのかも知れない。医療の分野でもそう感じることがある。劇場主は常に良かれと思って行動しているのだが、丁寧すぎる説明を家族は疎ましく思っていたと、後で看護師から聞くこともある。つまり難解になりすぎたということか?説明の時には当方の心情を気にして反論しないだけで、実は反感を感じていたりすることは多いものらしい。

理解を得られないことも非常に多い。昔、まだ傷の治療法が古かった頃、ガーゼに肉が着くので治癒を遅らす、交換はかえって良くないと言ったら、もめたこともある。外科の院長に呼び出しを喰らって、酷く怒られた。問答無用で交換せよという。昔の医者が考えたように感染が怖いのは確かだが、今は通用しない考え方だった。テーピングやラッピングの技術も、世間に知れ渡る前にやったら、変人扱いされてしまった。介護に関しても、様々な誤解、偏見に満ちた習慣がある。新しい考え方は徐々に浸透していくものだから、皆に理解されることは、難しいのかも知れない。

安楽死の問題も描かれていた。回復不能で苦痛にあえぐ人達に、ただ耐えろというのは酷な話だが、通常そんな人達は苦しみながら死んでいき、発言することができなかった。死者に人権なし→死にそうな人にも人権なし、生きてる自分らの都合が大事・・・のような観念がある。これは否定できない。死にゆく人に同情したために、自分が反感や訴訟を喰らうのが嫌なのだ。大半の医療人、多くの家族がそうだった。

ラストシーンは驚いた展開だった。でも、あれで意味があったかどうか、劇場主には理解できない。むしろ反感を持った患者家族に殺されたり、訴訟で敗訴になるなど、悲劇を際立たせるような流れのほうが良かったのではないかと感じた。

 

 

 

2017年1月15日

アイ アム ア ヒーロー(2015)

Toho


- 後味は良し -

漫画アシスタントの主人公は、仕事も恋愛もまったく上手く行かない情けない状況。ある日、彼は自分の同棲相手や職場の人間から突然襲われ、街中に病気が蔓延していることに気づき、逃走を開始する。

漫画の映画化作品らしい。ゾンビ映画、それも日本製となると、おそらく映像技術に限界があろうから、学生映画の延長線程度のマニアックな作品だろうか?と思ったが、予告編を観たら意外に期待できそうだったのでDVDで鑑賞してみた。技術的には素晴らしいレベルだったと思う。

良かった点の第一は、ゾンビ達の動きが海外のゾンビ映画と少し違い、関節をくねらせる気味の悪いものだった点。あれは、もしかするとお化け映画の動作を転用したのかも知れない。動きに関しては、本家のハリウッド映画を越えたと感じた。

ゾンビ達が無残にやられるシーンも相当によくできていた。ショットガンで爆発的に頭が飛び散るシーンは、過去の日本映画だとはっきりとは描けない。R15指定にして、観客を絞ってでないと無理だから、制作サイドからの圧力がかかりやすい。無難なおとなしい表現になって、そのせいで迫力を失うという悪弊があった。この作品は、そこを避けた点で出来は良い。

ゾンビ達が生前の記憶にしたがって行動していた点がおかしい。あの設定は話が進むのにも役立っていたし、面白さを増した点でも正解だった。原作のアイディアらしい。

主演の大泉洋は非常に役柄と合っていたと思う。彼を意識して漫画を書いていたのかと思えるほど、情けなく頼りない雰囲気が出ていた。今回は喜劇的な部分はほとんどない役柄だったが、充分に演じきれていた。

長澤まさみと有村架純がヒロイン役だった。彼女らの個性と役柄が合致していたようには感じなかったが、こちらも充分に演じていたのではなかろうか?

残念ながら、この作品は小さい子供には全くよろしくない。やはり残虐路線でゾンビ達は無残にやられるし、描き方がリアルで、かなり気持ち悪い。恋人と観れるレベルに、少し表現を落とすこともできたと思うのだが、そうするとつまらなかった過去の路線に陥ってしまう。

R15映画にする選択を選ぶのは、勇気が要ったのでは?あるいは作者の希望、事前の読者調査、そういった内容を考えて、R15しかないと考えたのだろうか?技術レベルの向上と併せて、作品は一段抜けた高い出来映えになったと思う。気味悪いけど、後味は悪くない。

 

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