映画評

  •  若い人達の映画評は、「やっほーい、見ちゃった!(^□^)゛にゃはは(^□^)゛(^o^)」(゚ω゚)イイヨゥ! のような具合で、おじさんにはさっぱり理解できません。年寄り向けのサイトがあればと考えました。

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カテゴリー「あ」の33件の記事

2009年7月26日

アウェイ・フロム・ハー(2006)

- 演技か復讐か? - 

監督 サラ・ポーリー 主演 ジュリー・クリスティ

ある夫婦の物語。かって夫は不倫で妻を苦しめた過去がある。そんな生活を断ち切って、田舎で暮らして20年。ところが妻に認知症の症状が出始める。徐々に症状が進行し施設に入所することになるが、妻は入所者に恋をしてしまう。「もしかして妻は自分の不倫に対しての復讐をしているのか?」男は考える・・・

・・・静かな作品。雪の中で夫婦が見詰め合うシーンや、スキーのシーンなどは特に静か過ぎるくらいに感じた。若い人は退屈してしまうかも知れない。でも、恋人といっしょに見るのには悪くない作品だと思う。楽しい作品ではないが、深く考えるきっかけにはなる。家族で観るのには少々問題があるかもしれない。子供には向かない。

テーマは夫婦の間の心の傷、愛情と認知症など。夫は妻のためを思って妻が恋した男性を施設に戻そうとするが、結果的にまた不倫をしているので、やはり生来の女たらしなんだろう。相手の女性が望んでいたとしても、さすがに道義的な問題を感じる。でも、私はそんなことだから不倫する勇気もないのよ・・・

主人公は目立たない風貌の俳優だった。何度か別な作品で見ているはずだが、記憶にない。対するジュリー・クリスティは、なんといっても私の世代には「ドクトル・ジバコ」のヒロイン役が懐かしい。相変わらず美しいが、リアルな演技もたいしたもんだ。車の中で過去の不倫に対する怒りをぶちまけるシーンは、激しすぎず、おとなしすぎないところが良かった。怒鳴ったりしたら演技くさくなる。

認知症の患者さんはたくさん見てきたが、いろんな症状が出るので、こんなケースもありえないわけではない。通常は症状が進行して、しばらくすると新しい恋人も忘れてしまうので問題が大きくならないで済むことが多いはずだが、中途半端なまだら状の認知障害の場合はやっかいだろう。

実際に似たような患者さんにあったことがある。とにかく病棟で落ち着かなくて困るのだが、噂ではご主人の浮気でだいぶ苦しめられた過去があったそうだと友人から教えてもらった。演技か本当に錯乱しているのか、私には判らなかった。半々かなと、その時は考えたが・・・

自分の家内が同じような状況になったら、どうするだろうか?

さすがに妻のために恋の相手を連れてきたりはできない。そこまで人が良くはない。情けないけど、人の眼を気にして隠そうとするに違いない。了見が狭いと言われても、「あはは、あいつ老人に寝取られたんだって。」と言われるとカッコ悪いのは確か。本人達が好きなら好きにさせてあげればいいのに。

普通は本人達に判らないように部屋を遠ざけるか、外泊をさせて自然に他のことに注意が行くようにする場合が多いのではないか? 私は怒るだろうか?たぶん、無理やり引き離すのは可哀相だから穏便に、気取られないように処理することを希望するだろう。

自分がたくさん不倫をして困らせた過去があるなら、罪滅ぼしに妻には自由にさせてあげようという気になるかも知れない。自由にさせるのも愛情なのかも知れないが、認知症の人の場合は、自由にさせると何をするか判らないので、たぶん恋の邪魔をするのが一般的か?

 

 

2009年7月 8日

アイアンマン(2008)

- コンセプト成功 - 

主演 ロバート・ダウニー・Jr 

軍需産業の社長にして有能な技術者、発明家でもある男が主人公。自分の会社の武器を派手に宣伝したまでは良かったが、テロリストに誘拐されてしまう。テロリストの要求は、彼らのために武器を作ること。でも彼は自分を武装することに成功する。この武器{アイアンマン」で彼はテロリスト達を攻撃していたが、やがて彼は敵の黒幕を知ることになる・・・

・・・この作品は出来が良かった。全体的なまとまりがあって他のアメコミ映画化作品よりも完成された感じがした。スパーダーマンや最近のバットマンシリーズと同じく、どのようなスタイルで映画化するのかのコンセプトがしっかりしていたのだろう。脚本家は複数いるようだから、皆で討議して練りに練った作品なのだろう。

普通なら、とんでもない存在の「ハンコック」のような奇想天外な発想の作品にかなうはずがない。今の時代に空をやっとこさ飛ぶヒーローなどギャグでしかありえないのだが、徐々にバージョンアップしていく様子は結構真実味が沸いてくる効果があった。途中の試作品もそうだが、出来上がったアイアンマンは結構ダサい。せめて仮面くらいはもっとカッコよくできないかと思えるが、原作との兼ね合いがあるのかもしれない。

原作は結構マニアックな漫画らしい。ストーリーとしては、そのまま映画に使うのは無理な展開と思える。それを適切な判断でテーマを絞って映画化したように思える。

単純明快なストーリーにまとめた点は良かった。主人公のロバート・ダウニーJrは、本来ならヒーロー物に合うとは思えない性格俳優である。このキャスティングのセンスが素晴らしかった。普通なら思いつかない。彼が主人公を演じたおかげで、適度におかしく、適度に同情し、そして喝采を贈れるようになったと思う。もっと二枚目やもっと三枚目では、なかなか成功しなかったかも。

例えば、シュワルゼネッガーが現役だったら彼が演じていた可能性もあるが、話しが全然違ってきただろう。もうパワー全開で敵を倒しまくり、素手でも武器でも何でも使いまくって一方的な話になってしまう。一時的にピンチに陥っても、どうせありえない逆転をするんだろうねと我々もなめてしまう。「すっきりしたけど、内容はなかったねえ~」という、いつもの感想に落ち着いていたのではないか。

完全なギャグ狙いの俳優でもおかしくなる。誰も死なないようなストーリーにしないと笑いは取りにくい。笑って良いのか判らないような映画は必ず失敗するだろう。だから意外な性格俳優のほうが結果が良かったのだろう。

グゥイネス・パルトロウの扱いが気になった。彼女がこれくらいの扱いでよく納得できたものだ。脇役と言って良いほどの扱いではないか。今後シリーズ化されるなら、そしてラブロマンスに重点を置くならば分かるから、何か契約で決めてあるのかも知れない。

ジェフ・ブリッジズが懐かしい。トロンの頃は若い演技派の代表選手だった。今は随分貫禄が出て、見るからに悪役の雰囲気が漂う。役割をきっちり演じきっていた。あまりに上手すぎて迫力がありすぎ、意外性を狙うなら彼以外の役者のほうが良かったかもしれない。

この作品は子供が見れる程度に設定してある。でも大人が見ても子供の頃のような楽しみ方ができるように工夫されている。恋人と見ても何とか楽しめる。つまり万人受けを期待して成功しているような印象。

実際に人間が武装して空を飛んだりしたら、着地の時の衝撃は相当激しいものになると思う。人間は2~3メートルの高さから落ちても死ぬ時は死ぬ。アイアンマンが着地に失敗したら、即骨折~脱臼するだろう。飛びながら急回転したら、すぐにムチウチ、加速度で意識消失するかも。生身の人間では限界がある。

 

 

2009年6月12日

アニー( 1982  )

- 健全 -

アニーは民間の孤児院に入所している女の子。ある日、富豪の使いが訪ねてくる。孤児の一人を富豪の家に招待しようというのだ。富豪や彼の秘書達と仲良くなったアニーだったが、彼女の出生には秘密があった。それを悪用しようとする人物達が現れ、彼女の身にも危険が迫る・・・

有名な舞台の映画化作品。なぜか監督はジョン・ヒューストン。これが理解できない。彼はミュージカル専門ではないはず。おそらく振り付けなどは専門の振付師にまかせればいい、ドラマの部分だけの管理を期待されて契約したのか?確かに、他の映画と違って踊りの素晴らしさで売る作品ではない。楽しい歌、愉快なキャラクター、物語の盛り上がりを楽しむ作品である。彼で正解だったかも。

この作品は公開当時は相当な評判だったように記憶しているが、主に子供の教育がらみの紹介が多かったのか、健全さが鼻につく面も感じた。舞台では愛くるしい子役のオーディションがあって、アントニオ猪木の娘さんも選ばれたと記憶する。

私にはピンと来ない作品。最初にアニーを気に入る秘書が、なぜ彼女を気に入るのかがはっきり分からなかった。何かのエピソードが非常に効果的に重なれば、園長が他の子供を推薦しててもアニーに固執することが理解できるが、単に折檻部屋から顔を出したくらいで気に入るなんて不自然だ。

そこはセリフではなく、歌か踊りで表現すべきだ。調子につられて、ついついアニーを選んでしまうほうが自然であろう。舞台版では、このへんはどうなっていたのだろうか?

Ani

もっとも重要なキャラクターは、憎めない悪役のキャロル・バーネット(上)だと思う。孤児達を預かるのは良いが、結構虐待監禁しているし、小金を溜め込んでいるキャラクター。オリバー・ツイストのスリの親玉に共通するが、完全に嫌われる悪役では話が固くなっていけないのだ。わざわざ魅力を出すために酒をこっそり飲んでいるわけである。

ティム・カリーも、変態宇宙人役を演じた「ロッキー・ホラー・ショー」とは随分と違った役柄で出演していた。

舞台では1977年に初演されているから、比較的新しい。何度も繰り返し舞台化されて、いろんな国でロングランされているらしいのは、親子で見るには良いという特徴があるからだと思う。テーマが健全である。とにかく希望を持てということだ。スラムで育った子供達は、この作品をどんな目で見るのだろうか?

家族でみるには良い映画。恋人と見てはいけないのでは?もしかすると、相手によってはまずいと思う。

2009年3月18日

アメリカン・ピーチパイ(2006)

- 助平が勘違いする -

アマンダ・バインズは女子サッカーチームの有力選手。ところが部は廃部になってしまい、男子チームへの参加も拒否される。その関係で恋人とも仲たがいした彼女は、対抗する高校のサッカー部に兄の身代わりになって潜入し、男子としてサッカー部に入部することに成功する。

ルームメイトはイケメンのチャニング・テイタム君。彼の恋の手伝いをするうちに、バインズはテイタム君を好きになってしまう。

サッカーのほうも上達し、レギュラーになって対抗戦に出場することになるが、両親や社交界、クラスメイトのカワイコちゃん達を交えた状況が複雑に絡まり、試合中に正体がばれそうになる・・・

ヘアスプレーで主人公の友人役だったアマンダ・バインズが主演。

二級品の青春ラブコメディといえばそうだったが、一級に近い出来上がりだった。主演のバインズは、おそらく子役のキャリアが長い女優だろう。完全にはまったパターンの演技で、それが安心して見れる効果を出していた。芸術かぶれした演技派だと、逆に安心できないのだ。

話も考えてみればよくできていた。お互いの意図が複雑に絡んで、とうとう正体が暴露されそうになるストーリーが完全にできあがっていた。なかなか無理な話になることが多いものだが、この映画は完成度が高かった。

校長役と彼女の正体を暴く学生のキャラクター設定には少々問題があったかもしれない。あの学生は非常に面白いキャラクターを演じることができたはずなので、敵役としてもっとメインを張ると良かったのに、出番が少なかった。

脇役の美容師も、通常なら完全なオカマを演じると思うが、いたってノーマルでつまらなかった。なよなよした美容師が、「いいか、男を演じる時にはこうするのよ。」って、思い切り男らしくすると面白い。志村けんを紹介してあげたかった。

観ていて楽しかった。この作品は家族で観ることができると思う。ちょっとエッチなシーンもないではないが、許せる範囲ではないか?あまり下品ではない。恋人と軽い映画を観て笑いたい時には、ほんとに完璧な映画。

おそらく青春映画を年中作っている集団が、伝統の技で作ったんだろう。

タイトルもよく考えてあった。何かスケベな話で女子更衣室が頻回に出てくる話かなと想像するバカな男が借りたくなるようなタイトルだ。何を隠そう、私はその口だった。でも面白かったので、「チェッ覗きシーンがなくてつまんない。」とは思わなかった。(少ししか)

 

2009年2月26日

アース(2007)

- 冷え性との戦い -

これはドキュメンタリー作品であった。BBCが製作したらしい。

視点は北極圏の白熊を眺めて始まる。そこから北極の南何十キロ、何百キロ、何千キロと、徐々に赤道に向かって移動する。その途中に出てくる自然環境、植物、動物の珍しい映像が続く。

主な登場者は、北極グマの親子、アフリカ象の親子、クジラの母子。彼らは命を賭けて旅をする。脇役的なのはチーター、ライオン、鳥の数々。

エンジェル滝、砂漠、さらにおそらく日本だと思うが、桜やもみじが色を変える様を年間の映像の早送りで写してくれる。

こんな奇跡のような変化が地球に現れたのは、地軸がほんの少し曲がっているからだって・・・確かに地軸というのは惑星によって随分異なるものらしい。

天王星だったと思うが、完全に横倒しのまま公転している惑星がある。もし地球がそうだったら、仮に空気があってもいっぽうの極は完全な熱帯のまま、他方は常に夜で寒いままになる。植物などが育たない地域が非常に広がることになる。確かに自転の傾きは生命にとっては重要な要素だ。

よく宇宙に地球のような惑星はどれくらい存在するかと問う本があるが、その確率は本当に低いだろう。ゼロではないが、それこそ天文学的に低い確率に違いない。一個の恒星に対して、数億~数兆分の一以下だろう。恒星からの距離と自転の傾きは必須に近い条件だ。しかも、宇宙線をさえぎる磁場がないとDNAが持たない。惑星の内部に磁場を生じさせるマントルの流れもないといけない。

この作品は、映画というかテレビ特集のDVD化という作品らしい。BBCが製作した非常に真面目な作品。でも、彼ら独特のユーモア感覚のあるシーンも多いので、家族で見ても面白いのではないか?恋人と観るのもオススメなんだが、相手次第ではバカにされる。

滅多にないような珍しい視点からの映像が美しい。例えばイグアスやエンジェル滝の上を飛びながら、真下の滝を眺めるシーン。これまでにはなかった視点である。鳥が視界の一面に広がって飛ぶシーンも美しい。飛び立たせるなどの何かの演出を使ったのかもしれないが、生命の迫力のようなものを感じることができる。テーマは地球温暖化の防止がひとつであった。

私の診療所のスタッフは冷え性だ。私が暑がりなんで、暖房の温度を下げると、こっそりまた上げる。

「暖房をすると君達はいいかも知れないが、北極の熊が死んでいくんだぜ。」と注意するのだが、「白熊の一匹二匹より自分のほうが大事です。」と言う。ごもっとも。それが正直なところだろう。憐れな白熊君は、こうしてまた犠牲になったのだ・・・

同じく、私の家族も電燈やエアコンを付けっぱなしにして他の部屋で過ごすのが好きだ。私が一人の時は室温が0度くらいまでは暖房をつけないが、彼らは20度くらいでもつけっぱなしにしている。言っても理解の仕方が違うようだ。これじゃあ、温室効果ガスは減るはずがない。

石油がなくなったら少しは我慢するだろうか? 自分の生活が永続可能なものかを考えることは、できない人にはできないのだ。私は白熊のために、今日も戦って(電気を消しまくって)いる。

2009年1月12日

相棒(2008)

- 際立つキャラと設定の良さ -

連続殺人事件が起こる。映画の冒頭で、町並みを写していたカメラで、テレビ塔に何かがぶら下がっているのが解る。人間だ。

殺されたのは、テレビでコメンテーターとして活躍していた男。現場には不可解な略語が残されていた。犯人を捜す刑事達だったが、捜査が特捜部になるのか都警察になるのか、例によって縄張り争いが起こる。

そんな中、窓際族?の水谷豊刑事は、この事件に隠された過去の人質殺害事件と、チェスのコマを使った謎解きに気が付く。独自の捜査で犯人の狙いに気が付いた水谷達だったが、かえって閉じ込められて爆弾の餌食になりそう・・・。

・・・最近、テロを題材にした作品が多い。当然である。あの同時多発テロは強烈な印象を与えた事件だった。その後も、自爆テロによって様々な事件が起こるたびに、テロへの恐怖を再認識している現状だが、テロリストによる誘拐も怖い。日本においても誘拐によって時々ボランティアの人々が死の危機に瀕する。カメラマンが殺害された事件もあった。

結局は、やられっぱなしに終わることが多い。政府としては退去勧告を出したら責任から逃れられるという姿勢らしく、事件にあった邦人は、この映画のように「わがままで現地に残ったバカな人」と認識される傾向はある。ただ、私が政府の担当者だったら、やはり勧告しかできない。勧告しても本人の意志で残る人を無理やり連れてくることなどできるわけがない。もちろん情報操作して、被害者を罪人みたいに報道させるのは非道すぎるが、マスコミがどのように報道するかは、政府の人間が関知してはいけない事柄である。場合によっては、この映画のようなこともおこるかも知れない。

この映画のヒットした理由は、①題材が時期を得ていたこと、②チェスのコマの動きを使うアイディア、③テレビでも人気があるシリーズだったこと、そもそも相棒二人のキャラクター構成が面白いことなどであろうか。

水谷豊は、バンパイアの少年役から熱中時代の先生まで、際立って個性的なキャラクター、独特の話し方で人気があった。最近も、この刑事役は当たり役である。話し方からしておかしい。やはり性格俳優は独特の話し方をしないといけないらしい。田中邦衛は、若い頃からおかしな話方をしていたが、あれを編み出さなければ、おそらくは役者として食って行くことは難しかっただろう。水谷も凄い個性だ。

しかし、このシリーズが終わったら、彼はいったいどんな役をやるのだろうか?今のところ、自分には想像もつかない。

相棒役の寺脇は、この役柄にはちょっと年を取りすぎつつあるが、体力自慢の刑事役として、表情のはっきりした解り易い人間として、適役である。本来は結構ニヒルな二枚目役などもやれるのだが、最近はこの役にはまっているようだ。

誰も気がつかないうちから、犯人のトリック、謎かけに気がつく聡明さと、不気味なほどに独特の個性を持つ主人公が活躍するので、話が面白い。さらに今回は、ストーリーに悲しいエピソードが含まれていたので、重みがあった。テレビは見ないので、次回の劇場版に期待している。

 

 

2009年1月 8日

アーサーとミニモイの不思議な国(2006)

- 続編にも期待 -

アメリカの農村で暮らすアーサーには祖父がいたが、数年前に行方不明になったままだった。アーサーは祖父の書物を読んで、秘密の国への行き方を発見する。

その国は、アーサーの庭の地下にあった。小人に変身したアーサーは、小人の王国の王女と王子とともに、魔法使いMの王国へと向かう。途中で囚われていた祖父との再会を果たす。

Mによって小人の王国は危機に瀕していた。アーサー達も、濁流に飲み込まれてしまう運命。アーサーの頭脳でMに対抗することができるだろうか?

・・・登場人物の影が細かく表現され、立体的で細かい映像の美しさ、複雑さに感銘を受ける。微妙な笑顔の表現が、これからのCG映画のできの如何を示すと思うが、かなりのハイレベル。

非常に手の込んだ作品。ミニチュア模型もかなり大がかりに作ったらしいし、モームページを見ても、手間隙かけた様子が解る。ホームページ自体が凝っている。右端のつるべを移動させないと読めない作りになっていた。

原作はガルシア夫妻が構想を練ったものに、リュック・ベッソンが色付けをしたと解説されていた。最近の冒険物語の流行で、監督たちにも野心が芽生えたのかも知れない。

オリジナルな点は、少年が特殊な機械で小さくなって、庭の中にある小人の王国に行く時の仕組みであろうが、これは良いアイディアだった。あまりに簡単な方法では興ざめしてしまうので、この点は大事。この作品は、この点で満足できる出来になっていた。

小人の王国の王女は、あんまり美しい姫ではなかったが、これもよく計算されていたのかも知れない。一種のキモカワイサ的な要素がないと、小さい子供には受けないことが懸念されるから、デザイナー達が様々な意見を寄せて作ったのだろう。

キャラクターとしては、男性的で勇敢、口も悪いが色っぽいところもあるという典型的なアクションヒロイン。受けるための王道を行く感じ。

いっぽうのヒーローは、腕力がない、しかし頭脳と勇気を振り絞って、愛する姫のために騎士のごとく戦うという、これまた少年冒険物語の典型。

こういった物語で必ずボケ役が必要だが、今回は王子がその役目。できれば、完全な笑われ役専門、役立たずだったのが思いもかけない重要な役割を果たす、もしくは彼自身が成長する、あるいは犠牲となって皆を救う、などのはっきりした位置づけがあったほうが良かった。少し印象が薄い。

ワクワクの度合いについては、ロード・オブ・ザ・リングやハリー・ポッターの初回ほどの驚きはないと感じたので、研究不足と言えるか?壮大さでは最初から敵わないので、登場人物をいかに魅力的にするかが大事だったと思う。盛り上げ役のボケ係が非常に魅力的だったり、主人公がもっと苦難を乗り越え、精神的に厳しい状況からの脱出に成功していたら、話が感動的になったかもしれない。

同じような映画のシュレックシリーズでは、ドンキー役がもっと目立っていた。全体にも、ギャグのオンパレード、醜さ~美しさという普遍的なテーマもあった。子供達だけでも涙を期待できるようなストーリーにできなかったものか?そんなディズニーチックな狙いは、フランス流にはダサいのか?

主人公のフレディ・ハイモア君は素晴らしい顔をしている。若い頃のイーサン・ホークに似ている。既に子役ナンバーワンの座にいると思うが、ちゃんと演技しているし、表情がオーバーすぎない点などは立派。

 

 

2008年11月30日

アンジェラの灰(1999)

Photo_2 - 貧困にも対応策はある -

怖ろしいくらいの貧困家庭の話。

恐慌時代の生活苦から、故郷のアイルランドに逆戻りした家族は、同じように厳しい生活苦の中であえぐことになる。

生活苦の理由のひとつは、父親がIRAのメンバーだったために北アイルランドに帰れないこと。妻の実家からすれば、父親は裏切り者のプロテスタントの仲間で、やっかいもの。さらに父親独特の性格でプライドばかりが高く、アル中であること。

これだけ揃えば、マトモな生活などできるはずがない。

アンジェラは恥も外聞もなく、教会の慈善事業や配給などに頼ってでも子供達を育てるべく奔走する。住まいを確保するために、従兄弟と寝ることも辞さない。

主人公の少年は、独特の宗教的、文化的環境の中で成長し、石炭運びや電報配達人、借金の督促状作りなどの仕事をしながら、アメリカに渡る夢を持つようになる。彼の素質を認めてくれた先生は生徒に対して、「イギリスに支配された現況では活路はない。アメリカに渡れ!」と勧める。

思わぬ偶然のために、彼は金を手にすることになり、念願がかなうことになるが・・・。

後年、彼はアメリカで教職につき、故郷から弟や母親を呼び寄せた。母親のアンジェラが亡くなって、彼は遺灰を故郷に持ちかえることから、このタイトルは付けられた。

原作はピューリッツア賞を受けたヒット作らしい。

全く小説を読まないので知らなかったが、日本のファンがサイトを立ち上げて、そのサイトが調べた情報で監督がロケ地を探したと言うエピソードもあるらしい。

この作品は、子供には向かないと思う。大人でないと意味がない。恋人といっしょに観ても、あんまり盛り上らないのではないか?そんな気がする。

同じアイルランドを舞台にした「麦の穂をゆらす風」と同じような時代背景だが、視点が全く異なり、子供の生活が中心の話。そのため懐かしさのようなものを感じる。

母親役の女優は、たぶん役作りのために相当ダイエットしたのではないか?メイキャップかも知れないが、額に青筋が立っていた。

不必要に泣き叫ぶこともなく、抑え気味の演技で雰囲気が非常に出ていた。たまにヒステリックになるものの、ほとんどは静かにタバコをふかしているのがリアルで面白い。

ヒステリックな場面が多いと演技には迫力は出るが、自然さが失せる。ぼんやりできるのは素晴らしい。

父親役は、この映画では最も難しい役柄だと思う。

嫌悪感を抱かせるなら、ヒゲづらの下品な俳優が演じればよいが、この作品では優しさとだらしなさ、哀愁が混在しないといけないので、やはりあのような演じ方しかないのだろう。いかにも役者役者した俳優だった。

ほとんどの場面は名演だったが、路上で吐く場面は下手くそだった。本人の精神的混乱が解説できたら、もっと良かったかも知れない。

家族が住まう地域は湿気が多い。画面でも、ほとんどの日に雨が降っている。その中を、傘もささずに少年達は行き交う。靴がない子も珍しくない。家の一階が水浸しの日が多ければ、いくら何でも家が持たないので誇張もあると思うが、不衛生なのは確かだろう。

私の故郷の村にも極貧家庭はあったが、トイレが匂わない工夫をなんとかやっていたし、湿気対策のために金をかけずに小ざかしいほどの工夫をやっていた。

この家族の家は実に不衛生。

我が家も貧乏だったが、さすがにトイレ代わりにバケツにおしっこするようなことは汚いという感覚はあった。日本の貧乏家庭は、文化の違いもあるのだろうが、衛生面では勝っていたような気もする。

私は子供時代に飢えた経験はない。大学時代に飲みすぎて食費がなくなったことは、しょっちゅうあったが・・・。

貧困の中で酒におぼれる父親は、だらしない甲斐性のない人物だが、映画では愛すべき対象として描かれていた。子供としては、面白い話をしてくれるだけでも無条件に愛しい存在なのである。主人公の視点が、映画に反映されていたのだろう。

おそらく原作でも、悲惨な生活の原因となった父親の行状を、ユーモアたっぷりに描いていたのではないか?

私より上の世代では貧困が当たり前だった。したがって、この映画の貧困ぶりを懐かしく感じる世代の人も多いだろう。たいていの人に聞くと、つましく苦しい時代だったはずなのに夢はあったし、家族が連帯感を持っていた幸せを感じていたと言う。

私より少し後の世代では、逆に豊富な商品に囲まれた中流~上流家庭が普通になってしまった。世代間ギャップがある。

ところが最近は子供の同級生にも、給食費を払わない家庭が結構いるらしい。意外にも、いつの間にか貧困は過去の話ではなくなっていた。

フリーターでやっと生活を続ける人も多いし、田舎に職場はなく、農業漁業では食べていくのも難しい。そんな状況では生活の工夫にも限界がある。ましてやパチンコ通いやアル中などの問題を抱える親がいれば、映画の再来のような子供もありえる。

ホームセンターに行くと大きなボトルで安酒が売ってある。たぶん、極貧のアル中にとっては有難い商品だろう。逆に社会にとっては、あんなアル中様ご用達の商品は有害ではないか?酒の値段が高くて買えないようにしたほうがいい。

自分には変なプライドがあるので、あの安酒は買いたくない。

そう言えばアル中の患者で、病棟にあの酒を隠していた男がいたなあ。強制退院になったけど、肝硬変で亡くなったと聞いた。やっぱり・・・。

子供にやる気がないとしたらやむを得ないが、向学心旺盛な子だったら社会全体が助ける制度が必要だ。

もしかすると金持ちの夢が、それによって多少そがれても、やはり進学だけは可能にしないといけない。子供に夢がなければ、社会全体の未来がない。

フリーターの若者も奨学金で大学などに行けないことはないんだが、大学を出ても就職が厳しい状況では、確かに希望を持って進学を目差すのは難しい。でも、可能性だけは必要だ。

今の状況は、日本が目差した経済の構造が時代にそぐわなくなっているためだろう。原材料価格が上がりすぎて、付加価値を高めた製品で儲けようにも無理が来る。中国の安価な製品に客を取られてしまうなど、状況の変化は確かにある。

田舎でも食べていけるような産業構造にするのは簡単なことではないが、政策次第で何とでもなるはず・・・。

 

 

2008年11月16日

アパッチ砦(1951)

- 無駄な死? -

アパッチ砦にヘンリー・フォンダとシャーリー・テンプルの父娘がやってくる。フォンダは砦の司令官になるのだが、南北戦争で評価されなくて飛ばされたというのが実情らしい。

砦には実戦経験豊富なジョン・ウェインがいる。その他にもかって南軍だった兵士もおり、アパッチ族とも個人的に話せる間柄である。馴れ合いの雰囲気が漂う面は否定できない。フォンダは、規律を求めて古参の幹部と摩擦を起こす。

砦の若い士官に好意を持ったシャーリー・テンプルだったが、インディアンの来襲で危険になった中でデートしたために、フォンダは娘と仕官との交際を禁止する。しかし、砦の長老や妻連中の計らいで、こっそりダンスしたりはできる。

繰り返し攻撃してくるインディアンに、フォンダ達は相対することになる。彼らの言い分は、アメリカ政府から居留地に派遣されている商人によって酒などが部族内に出回り、文化や精神が衰退している。したがって、誇り高い彼らは居留地には戻れないという内容で、どう考えても尤もな話。

商人を調べると、銃や酒を売り込んで確かに悪影響を与えている。

ジョン・ウェイン達は同情するが、フォンダはアメリカ政府の意思である「インディアンは居留地に留まること!」を強硬に求める。交渉断裂。インディアンはフォンダ達を待ち伏せ、包囲する・・・・。

・・・・この映画は、娯楽作品と言えるだろうか?結構シリアスな内容だと思える。今の若い人や子供達は、この作品を観て楽しいと感じるはずはない。恋人や家族で観る映画ではないと思う。

でも、駄作ではない。シリアスな中にも、懐かしさ、ユーモアなどの香りが散りばめられた高級品だと言える。

‘詩情あふれる’とは、ジョン・フォード監督作品を評する言葉だが、この作品も登場人物の心情や誇りが伝わってくる作品であった。

この作品では、ヘンリー・フォンダの役どころが面白かった。頑ななまでに自分のやり方を貫く司令官であり、明らかに戦術的にマズイことをやってしまっているが、彼の描き方は「バカで身勝手な上司」という視点ではない。誇りを忘れない男として褒めている。

こんな描き方は、あまりに叙情的で、日本的ですらある。アメリカでは異質な心情のような気がするが、意外にもこの作品は大ヒットしたらしい。ヘンリー・フォンダに同情したのではないかも知れないが・・。

フォンダの役は、ある意味では悪役である。頑なすぎる上官、戦闘下手、人間性も?という役柄。でも、考えてみると、彼の役には結構こんな役柄が多かった。OK牧場や12人の怒れる男達では、たまたま良い方向に結果したからヒーローになれたが、「ワーロック」では嫌われていた。セリフの中で「次第に皆さんは私の強さが嫌いになる。」みたいなことを言っていたが、変った個性である。

とにかく、彼の役柄のような隊長がいると、敵は戦わざるを得ない。仮に勝ったとしても、「フォンダ司令官の仇をうとう!」と、死をプロパガンダに利用されて後輩達が攻めてくる。非常に始末に困る相手になる。そうやって、アメリカは進出してきたのだ。

したがって、戦い方を知っているベテラン隊長より、アメリカ軍全体にしてみれば効果的な司令官と言える。それを、この映画は表現している。

映画のポスターで見る主役扱いは、ジョン・ウェインだった。上官にも平気で反論する有能な中間管理職として描かれていて、戦いにおいてもヘンリー・フォンダよりずっと頼りになっていた。タフで頼りになる美味しい役柄だった。

しかし、彼の戦い方は優れすぎていて、インディアンの考え方にも通じすぎている。彼らに同情するので、インディアンを追い込むことにはならない。軍としては、フォンダが必要だった。

物語は、短編小説から題材を取ったらしい。このような手法は、山本周五郎作品を題材に話をふくらませて映画を作るのに似ているが、小説よりも説明時間が限られている映画の場合は、大河小説より短編を使ったほうが作りやすい。

無駄をはぶき、視覚効果やウケ狙いで演出を追加するのに短編のほうが便利という理由によるのだろう。

原作は間違った戦術により起こった悲劇を描いた小品と言える。しかし、その悲劇の中に紛れもないヒロイズム、誇りに満ちた魂があり、後悔ばかりの失敗ではないという意識が伝わってくる。

もちろん正しい戦術を用いて犠牲は最小限にすべきで、部下が惨めに死んでいいわけではないが、口汚くののしられるような失敗ではないとは思う。ちょうど太平洋戦争で亡くなった兵士達への我々の感情に近い。

間違った戦略を上層部がとっていることは解っているとしても、軍の規律に従って戦わざるをえない。そんな想いの兵士には同情を禁じえない。このような鬱屈した思いは、古来から敗戦の兵には繰り返されたことだろうが、肉親がそのような目に会うと、特にそうだ。

フォンダは勇敢だったし、合衆国軍の司令官の一人として誇りを持っていたが、賢い上官ではなかった。ただし、あのような司令官でないと、インディアンの制圧にはつながらなかっただろう。言い分を聞かない強硬すぎる人がいたほうが、軍全体の利益になる。

しかし、「インディアンみたいな野蛮人相手の約束は破っても構わない!」というくだりはひどい。

インディアン側の意見こそ正当なものであった。それを最近の契約の仕方から考察してみたい。

合衆国側の意見では、居留地に入ることを契約したから、そこを出るのは違法であるという。しかし、それによって自分達の文化や精神まで失う契約はしていない。合衆国には説明義務がある。

契約者を保護する規定がない契約は破棄できるようにするのが近年の考え方である。つまり、契約によって起こる不利益をちゃんと説明したことの記録、同意書がなければ、契約成立とは証明できない。

また、インディアンの土地において発生した事件は、インディアンのルールに基づいて裁かれるのが望ましい。合衆国の存在によって被る害について説明義務を果たした記録がなければ、合衆国の存在は無効である。

よって判決。アメリカは、その存在に根拠がないので、解散すべし。

ついでに最近の医療事故の場合の処理を検証する。

手術同意書というのがある。説明した後で、「・・・・のように、予測不能な副作用がありえますが、手術しないと生命の危険が高いので手術を勧めます。納得いただけたら、サインしてください。」「よく解りました。サインします。」と、書いてもらうのだが、術後に、「いーや、私は説明は聞かなかった。」と言って、大抵は無効になる。

起こりえる危険性を全て説明しきれていなければ、敗訴になる。患者さんが万にひとつの副作用で亡くなったら、「説明義務があったのに、していなかった」と断定される。

ところが、そんな副作用を家族が理解できるまで説明していると数年はかかるのが現実である。その間に患者の大半は死んでるだろう。つまり説明義務があるという法律は現実に即していない。「どの程度まで」という規定を明記しないと、法律と言えないのだ。

その規定は後日役人が通達してくるはずだが、ご存知のように現実離れしていて根拠もない、なぜか役人は責任が生じないが、業者には有利という内容が多い。

絶対に決め方がおかしい。通達する際の規則、法律を作る場合に規定する内容のルールなどがないから要領を得ないのだろう。

話が飛んだようだが・・・

シャーリー・テンプルは実にかわいらしいが、この時代は既に存在意義を失った子役だったはずである。観客に好印象を与えずにはおられないキャラクターの持ち主だが、しばらくすると映画界を引退してしまうので、最後に近い出演作らしい。歌手のYUIに似ている。

ラスト近くで、インディアン達がジョン・ウェインを前にして旗を地面に刺して去っていくシーンがあったが、砂埃が立ち込める中で旗が残り、その旗を記念に残すシーンが続くのはシャレた演出だった。

砂煙が彼らの迫力と勢いを、無理のない自然な形で表わしていた。そのような展開の良さが随所にあった。

監督の構想や、編集者のセンスが伺える。でも子供には向かない作品であろう。

 

 

2008年11月 6日

アラモ(1960)

- 駄作じゃないよ - 

テキサスのアラモ町には、教会の跡があった。メキシコからの独立を目差したアメリカ系住民は、独立を宣言し、アラモ地方の部隊は教会を要塞化する方針を立てる。

この地方の有力者は、ナイフ使いのリチャード・ウィドマークであるが、砦の司令官を務めるトラビスとは仲が悪い。決闘騒ぎを起こす。

かっての上院議員で、冒険家としても有名なジョン・ウェイン演じるデビー・クロケットも加勢にやってくる。独立を支持する気持ちが強いからだが、最初は砦に立てこもって玉砕するつもりはない。抵抗しようというのが狙いだ。

メキシコ軍がやってくる。大きな大砲を撃ち込まれてしまうが、特攻隊を結成して大砲の破壊に成功する。しかし敵の本隊が到着し、味方の兵士の犠牲が多いことから、婦女子を脱出させ、砦をいったん明け渡して、後方へ退こうかと考える。

今まで方針をめぐっては、隊長とウィドマークがことごとく対立していたが、決死の覚悟のトラビス隊長の姿勢にうたれた兵士達は、ついに玉砕覚悟で最後まで砦に立てこもることを決意する・・・・。

テキサス州がメキシコからアメリカに編入する時代の一大エポックを、思い入れたっぷりに描いた作品。アラモを忘れるな!の合言葉を生んで、この後のアメリカ軍のスローガンになった事件である。いわば、パールハーバーの先輩だ。

この作品は、西部劇の大スター、ジョン・ウェインが自らの財産を投入して製作したうえ、監督と主演も兼ねた大作らしい。今回、初めてDVDで鑑賞したが、聞いていた作品の評価は低かったものの、私は結構よくできていると感じた。

メキシコ軍の扱いは正当だった。正当すぎた。暴力集団ではなく、ちゃんと紳士的に行動し、勇敢に描かれていた。でも、作品の盛り上がりを考えれば、多少史実に反しても悪政や圧政を表現するために、何か悪事を描いても良かったのでは?

メキシコ軍が迫ってくるシーン、砦に突撃してついに壁を破られるシーンは、非常に迫力があった。敵に負けるシーンなので、勝利の盛り上がりはないのだが、非常にリアルで、撮影やエキストラの統制は大変だったろうなと思う。

ジョン・ウェインが喋りすぎなのが気になった。彼の思い入れのせいだろうが、作品の質を落とす結果になっていた。男は、あんまりしゃべってはいけないのだ。しゃべらないで、別の人間に説明させればいいのだ。特に政治的な話をクドクドしてはいけない。

つまり脚本や、視点に問題があったような気がする。史実に忠実に行くか、娯楽に徹するか、芸術に走るか、大悲劇として描くか、乾いた作風にするか、そのへんの詰めができていなかったと思う。

愛国心に直結するエピソードなので、思い入れが強すぎて冷静な判断が難しかったのかも知れない。できれば死を覚悟して抵抗する民衆を描くことに専念し、余計なものは除くべきだったと思う。

この作品の宣伝では、アカデミー賞を狙って「愛国者はこの作品に一票を!」といったキャンペーンをはったために、かえって反発を食ってしまったらしい。私が宣伝担当でもやってしまいそうだが、反応の予想は難しい。思い入れは、こんなことにも影響してしまうのかも知れない。

ジョン・フォード監督も撮影現場に現われて、いくつかのシーンを指揮したらしい。テーマが大きいので、無視はできなかったのか、個人的な友情か、作品の運命を心配したのか、でしゃばりかは解らない。

この作品は、家族や恋人と観ても、面白くはないと思う。でも退屈しのぎにはなる。各々のシーンは結構よくできている上質の作品だと思う。全体としての商品価値に問題があっただけだ。

メキシコにしてみれば、勝手に入植したアメリカ系の暴徒が、勝手に独立を宣言してるのを黙って認めるわけにはいかない。どんどん侵食して、カリフォルニアまで取られそうな暴力集団は、たたいておくべきだというのが当然の考え方だ。

さらには、インディアン達にとっては、勝手に侵入してきて人口を増やし、あたかも自分達の土地であるかのように戦争しまくるメキシコとアメリカの双方が侵略者である。アラモがどうなろうと、殺し屋集団の仲間割れ場所を気にする必要はない。

でもってアメリカ人にとっては、圧政をしくメキシコは我慢がならない悪徳集団で、権利をもぎ取るためには独立するしかないと考えたのだろう。どうせメキシコだって、インディオを殺して国を作ったんだから、正当性なんてない。だから俺らの権利を縛ることはできないぜい、ってな感覚か?

どっちの意見が正しいか解らないが、独立や革命の際の興奮、歓喜は映画の題材にはもってこいだ。「サパタ」「パンチョビラ」「大海賊」なども、なんとなくワクワクする。

 

2008年10月10日

アフリカの女王(1951)

- 象狩りの影響なし -

第一次世界大戦の頃のアフリカ、コンゴ近く。

宣教のために奥地に来ていたイギリス人の宣教師と、その妹キャサリン・ヘップバーンは、ドイツ軍に襲われる。村も教会も破壊され、ショックで兄の宣教師は死んでしまう。彼はもともと肥満体で、メタボリック症候群だったからか?

妹は村にやってきた蒸気船の船長ハンフリー・ボガートに助けられて難を逃れるが、船に乗っている爆薬やボンベを見て、兄の復讐のためにドイツ軍艦を攻撃することを思いつく。

しかし、そのためには激流を越えて、ドイツ軍の銃撃にも耐えて、しかも河口のデルタ地帯の湿地を乗り越え、さらに軍艦に体当たりを成功させないといけない。ほとんど無謀な計画。

でも、ブサイクな行き遅れのガリガリ妹(劇中の表現をかりれば)の熱意に負けた船長は、仕方なく出発する。

激流、滝、ドイツ軍からの銃撃、船の故障、ヒルの攻撃にも耐えて、デルタ地帯に行ったは良いが、広大なアシの平原の中から脱出できない。船長は熱を出してダウンしてしまう。

やっとの思いで戦艦への攻撃兵器をこしらえ、いざユニオン・ジャックをはためかせて攻撃だ!でも無事に戦艦を撃沈できるか?・・・・・

良き時代の雰囲気を保ち、単純明快なのに様々な試練が待ち受ける冒険物語。ハッピーエンドが痛快で、全編ユーモアとロマンにあふれ、勇気と根性にも感動できる、かっての娯楽の王道を行くような作品。

水浴シーンではチラと足は見せていたが、おっぱいポロリもなく、爆風で兵隊が吹っ飛ぶこともなく、さすがに表現法は50年前。

激流も、今の映画のレベルで言えば、全然迫力が足りない。スタジオで水をかぶりながら撮影してると解る色彩の違いが背景と人物にあるので、興ざめする客もいるかも知れない。

深い人間洞察があるわけではない。キャラクターは皆が単純で、テレビドラマ並みのパターン化されたもの。大人しいスペクタクルである。

ではあっても、この作品を飲んだくれの監督と主人公が作ったとは信じられない。

この作品の撮影現場を描いた「ホワイト・ハンター・ブラック・ハート」では、監督は象狩りに熱中して撮影準備をおろそかにする人物として描かれていた。全くの誇張ではなかったらしい。

キャサリン・ヘップバーンが非常に美しく見えた。実際、彼女はブスではないのだが、映画の画面で器量が悪い行き遅れの・・・うんねんを兄からも言われるのが可笑しい。

でも気になったのは、川で体を洗うのは良いが、下着のままで川に入れば、あの川の見た目の印象では、鼻が曲がるほど臭くなるのではないか?川は微生物が多いので、少し乾くとすぐ臭うはず。

すると二人は、怖ろしく臭い同士で抱き合ったことになる。そう考えると、あんまりロマンティックではなかったのだ。我々日本人のような繊細な民族には耐えられない、野獣の交尾のようなラブシーンが展開されたと想像する。

イギリス人的な話し方、仕草をユーモアと皮肉を交えて演じている様子だったが、好感を持てた。

ハンフリー・ボガートは、本来の顔に合った悪役的な表情でアル中の船長を演じていたが、細かい表情で笑わせてくれた。ギャグ的な表情は、いわばテレビタレントの喜劇のようなパターンだったが、彼のようなコワモテのスターが演じると可笑しかったろう。

配役も、演出も編集も適切で、象狩りにかまけた影響や、飲んだくれの演出の影響がどこにあるのか解らない出来栄え。

この作品は、今でも通用すると思う。家族も、恋人も、きっと楽しんでくれる。もちろん、手に汗握ることはない。爆笑もない。エッチシーンもない。主役の男優も、ゴリラの親戚みたいに下品。でも、それでいいのでは?

 

 

2008年9月24日

アラバマ物語(1962)

- 視点が良かった -

アラバマ物語の作者は、カポーティーの友人として映画「カポーティー」でも登場しているネル女史であることを、あの映画を観て初めて知った。彼女の父が、この映画の主人公の弁護士のモデルということか?

この作品は、何度も衛星映画劇場などで放映されている。よっぽどの人気作品なんだろう。独特の雰囲気がある。全体にゆっくりと話が進行し、ギラギラした訴えかけ方はされていない。あんまり淡々としているので、退屈する人も多いんじゃないかと思えるくらいである。

語り部が子供であることも、この作風と関係しているのかも知れない。子供の説明は回りくどくて時間がかかるが、ちょうどあんな感じに何となくほほえましくなるような、ゆったりとした映画であった。

原題の、「To kill a ~」は、おそらく「~鳥を殺すことは・・」という意味であって、「~を殺すために」ではないはず。弱者である鳥を殺すことは銃を持っていれば簡単だが、だからといって安易にやって良いということではない。「~することは良くない、~することは賢明ではない。」という文章が後に続くニュアンスであろう。

原題にある「まねしつぐみ」「ものまね鳥」とは、どんなイメージを持たれる鳥なのか知らない。映画の流れから想像するに、他の鳥を真似てうるさく鳴くけれど実害はなく、なんとなく真似ばっかりして頭の悪い価値の低い生き物という感覚なか?それなら、「殺さないで」という少女の訴えも解る。

害鳥~または狙った獲物を撃ったたつもりで、撃ち落した獲物を見てみたら、声真似した無害無益な鳥だったということがないようにしろという意味だけかも知れない。つまり正義を貫こうと狙って、かえって無実の人を迫害してはならないというテーマになる。それなら、より話に合致する。

黒人や精神薄弱者を法律で裁こうとすると、ほとんど屁理屈に近いような理由で有罪判決が出される。少なくとも当時はそうだったらしい。この映画でも、哀れな黒人がそうだった。法律だからと、杓子定規な手続きを踏むことを優先すると害が出る。それなら、勇敢な行動で子供を救った精神薄弱者の殺人には目をつぶるべきではないか?そんな話の流れであった。

ただし、それををどんなふうに訴えるかが難しい。

そのままセリフで迫力つけて話すと、なぜか反感を買うのが現実である。さらに言えば、アメリカではマネシツグミも、他の鳥も人間も含めて簡単に殺すような怖ろしい人物が少なくない。そんなヤツラの中で、殺さないで!と言っても、ものも言わずに撃たれるくらいが関の山である。

子供の視点で話を語ることで、そんな直接表現をかわす効果もあった。主人公の弁護士が声高々と正義を訴える感動的なストーリーだったら、きっと「ケッ、ヒーローぶりやがって。」と、反感を買うだけだったが、この作品は子供が語ったために名作になってしまった。

子供の頃、近所に精神薄弱者がいた。中には性質の悪いいたずらをする子もいたが、自分は4~5歳年下で体力的に敵わないので、興味半分、恐怖半分で付き合っていた。お菓子やジュースを分け合ったり、冗談を言って笑わせたりして、相手が喜んでくれると誇らしいような気持ちになった。

誰の影響か知らないが、社会的弱者への接し方を指導されていたのだろう。今考えると、たまたま危害を加えてくるような相手でなくてよかったと思うが・・・。もしも小さな子に性犯罪でもやるような男だったら、今の私は迫害してしまいそうである。

この作品のロバート・デュバルが演じた精神薄弱者は、実にリアルであった。変に声を出さず、暗闇の中からこちらを眺めている生活の仕方などが、子供から見た視点で「そう言えば、知らない家をのぞくときは、あんな感じだったよな~」と、懐かしく思えた。

グレゴリー・ペックの演技は、あんまり必要もなかった。セリフを棒読みしていたとしても、それが人柄として感じられる。

それにしても作品中の黒人青年は、気の毒な結果であった。

裁判のやり取りを見れば、青年の言っていることが真実であることは明白だが、もし陪審員が全員一致で無罪などと言おうものなら、町の人々に殺されかねない。それくらいなら、いっそ黒人の青年に死んでもらおうという思惑が働いたのかも知れない。陪審員制度も考えれば考えるほど怖い。

黒人青年にとってはひどく不幸な話だったが、最後に子供が救われたこと、親子で互いの健全な精神を実感できたことなどで、ラストは救いがあった。

家族で見れる作品だと思う。でも、思い入れたっぷりに前宣伝してから、さらに時々解説をしてやりながら親子いっしょに観る時間がないと、子供達はきっと退屈する。恋人と見るのは、たぶん悪くはないと思うが、相手にもよる。

間違って何かを殺しても、「あら、やっちまったい。まあ、間違いだからいいか。」と、気にならないような相手だったら、作品の意図が伝わることは期待できない。

 

2008年8月20日

A.I(2001)

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- 残酷かつ非常に美しい -

未来のある家庭で・・・

子供が難病のために回復の見込みがない夫婦が、心の慰めになればと、子供の代わりになる愛らしいロボットを購入する。ロボットは試作品?で「愛」をインプットされていて、まるで人間と同じように感じ、考える能力を持っている。例えば、人が物を食べているのを見て、自分も真似して食べて故障したりする。

ところが、夫婦の子供が奇跡的に回復する。子供とロボットは兄弟のように仲良く生活できる・・・と思いきや、親の愛情を奪い合って感情的に対立し、事件を引き起こしてしまう。

母親は、ロボットを家から出す決心をする。何かルールがあって、返すと処分されるらしい。壊されるくらいなら、いっそ逃がしてやろうと、車で子供を遠い森に連れて行って、さよならと言おうとするが、やっぱり可哀そう。どうする?

そして、少年ロボットはジュード・ロウ演じるホスト型ロボットなどと出会いながら、見世物小屋などを旅する。たどり着いた先で、美しい物語を映し出すものを発見する。さて、彼の運命は?

スケールが大きな映画だった。普通なら話が終わってしまいそうなところから、意外にも続編?が始まるという壮大な設定であった。子供が観た場合に、どう反応するか解らない。変に影響される子供もいるかも知れない。この作品は子供向きではないと思う。

愛をインプットされるから、タイトルが「あい」→AI→A.I.となったのは冗談で、アーティフィシャル・インテリジェンスの略字らしい。

主人公を演じていたのは、シックスセンスにも出演していた俳優で、困ったような顔がとても上手かった。母親によって森の中に置いてけぼりにされるシーンは非常に悲しく、捨て子と親双方の辛さを表現した、素晴らしいシーンであった。

もし実際に優れたこども型ロボットが作られるようになったら、どうなるだろう?

映画のように、きっと家族と同様に扱われることになるだろう。やはり子供がいてくれると心がなごむ。そして、そんな家庭に本当の子供がいたら、やはり事故が皆無ということはありえない。兄弟の間で葛藤もある。即刻、子供型ロボットは廃棄すべきだろう。

ペットだってそうだ。獣はしょせん獣なので、いろんな病気を持ってくる。ハムスターにかまれただけでショック死する子もいるし、猫からもらった寄生虫で失明する子もいる。ノミ、ダニの類も多い。心なごむ反面、害も覚悟しないといけない。

母親役も良かったが、共演のジュード・ロウが素晴らしかった。無表情な演技と、よくできたメーキャップによってユーモラスで存在感のあるキャラクターを演じていた。

ロボットの材質に工夫がされたとしても、普通可動性の高い素材では、そんなに長く持つとは考えられない。多少の変性がないとおかしい。また、海の中では大量の堆積物が降り積もるはずであるから、氷の中に閉じ込められるということは考えにくい。当然、土の中であるべきだ。

したがって、おそらく体表の物質が変性して、錆びる部分が錆びた状態で発見されるのが正しい。記憶媒体に相当する部分が、どのようになっているかは解らないが、たぶん金属部分が溶解して解読は難しい状態のはずである。

第二部は第一部の付けたし、後日談程度であったが、考えさせられた。

全体の時間配分を考えると、普通ならもっと短い時間で終わってよさそうな気がするが、スピルバーグやキューブリックのような大家の考えることは違うようで、こっちが中心かと思えるほど長い時間をかけていた。

あの展開だと、作品のラストシーンをどうするかが非常に難しい。見てる途中で、「どうやって終わるつもりだろう?」と、気にしながら見ていた。できれば作品を感涙で終わらせたいと、私は考えるからである。

悲しいストーリーであったので、きっとラストも感涙を期待してると思っていたが、さてどうだったろうか?

私が子供の頃の記憶は、幸いにして自分が愛され、期待されて成長したというものである。もし親の言葉の端にでも、「この子は本当は欲しくなかった。」「この子には才能がない。期待できない。」「兄弟はかわいいが、この子は好きになれない。」などという感情が垣間見れたら、きっと悪夢のような子供時代になるだろう。

結果として、なにかしら精神面に不安定さを持つ原因になると考える。

自分が捨てられた~もしくは面倒見るのに親は嫌気がさしていたという感覚は、どんなものだろうか?辛い部分にはベールをかぶせるように、必死にやさしくされた時間だけを思い出して、精神的な安定を図ろうとするだろうか?捨てられる感覚には耐えられないと思う。

熊本市の慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」には、いまも月に数人の子供が入れられているそうだが、赤ちゃんの場合は死んでしまう危険性を減らすために、ぜひ病院に持ってきて欲しい。

ただし、その後の精神面のフォローは非常に難しいだろう。頭の整理がつく子なら乗り越えることも可能であろうが、何か理解の仕方に障害があれば、「どうせオイラは捨てられた子なんだ。」というひがみ根性が働くかもしれない。

もし自分に余裕ができたら、ぜひ子供を預かって育ててみたいが、自分の子供ですら満足に育てていないところを考えると、育児能力が不足している。やはり無理だろう。

人類が滅亡した後に、知的生命体かロボットが人類の記録を研究するという展開は、よくマンガで使われる題材だった。しかし、この映画ほど美しい映像で表現力を持つ作品はなかったと思う。

悲しく、残酷な展開だったが、映像は非常に美しかった。

2008年7月12日

アイ・アム・レジェンド(2007)

- アイ・ロボットとセットで見て -

この映画は、年末公開作品としては記録的なヒットをとばしたそうな。理解できないが・・。

冒頭のシーンは、どうやって撮影したのか知らないが、誰もいないニューヨークの町を撮影してあって、素晴らしい迫力があった。おそらくはセットも大がかりに作り、草などはCGで合成したりする技術によるのだろうが、人がいない町をシカの群が走り回るのは、ある意味では気味の悪いシーンだった。

このシーンの映像が見事だった関係で、話に引き込まれる効果があったように感じた。途中から出てくるウイルス感染して凶暴になった人間達は、明らかに真実味がないCGの産物だったので、せめて舞台の真実味が必要だった。

それにしても感染者はひどかった。動きがちょうどアイ・ロボットのロボット達と同じだったが、ウイル・スミスが両方とも主演しているからって、同じ動きはマズイ。実写を多用したほうがよかったのではないか?もちろんバイオハザードのようなゾンビ姿を真似てしまったら最悪だが、ちょっと弱々しく悲しげな感染者だったら、かえって迫力が出たのではないか?

観客の対象をどこに置こうと考えていたのだろうか?

子供だろうか?それならヒーローは大活躍して助かる結末が必要である。基本的に子供に悲劇は合わない。

若い恋人達が観る映画として作ったのだろうか?少なくとも恋が結末に関係するストーリーではなかったが・・。おそらく一回見れば充分で、長く話題にのぼることは期待できないだろう。

家族を対象にしていたのだろうか?家族の愛情は作品の基調にあった。どうやら家族はヘリが墜落して死んでしまったようだったが、はっきり悲劇の場面を見せない配慮をしてあって、確かに考えてはあったようだが、実際に家庭のビデオでこの作品を見たいと考えるだろうか?

気味の悪いシーンが多ければ、小さい子供のことを考えて見せない親が多いと考えるが。

最近の映画に共通する技術の素晴らしさ、アイディアの豊かさと、幼稚な部分、アイディア倒れに近い部分を感じる。せっかくの作品を、使い捨ての一時の話題作だと諦めて作っているのか?単なるゲームくらいの感覚なのか?

うがった見方をすれば、人がいなくなって静まりかえったニューヨークの町を撮りたいというアイディアがあって、そのためだけに作品を作ったのではないか?ドラマは単なる添え物?水道や電気がある、なんでだ?自家発電に自家浄水機能?犬が風呂に入るほどなんて、いったいどうやって可能なのだ?真実味を狙っているのか、いないのか?

路線を全く変えて、もし感染者が肉を欲しがる自分の運命を呪い、泣きながら人を襲っていたら、どうなっただろうか?きっと感染することの悲劇をもっと表現できていたと思う。小さい子供は見れない作品になってしまうが、バイオハザードシリーズだって多少は似たようなものだ。受けないとも限らない。

この作品の路線でも、多くの親は子供にこの作品を見せたくはないと判断する可能性が高いくらいなので、中途半端な路線を狙わず、いっそ子供を対象から外して見るべきではなかったかと思う。もしくは完全に子供向きにすべきだった。

ヒーローは最後に感染者の親玉にワクチンを接種する、「ギャー、ウギャー」と七転八倒して苦しむ親玉。そして次のシーンでは感染者の表情が人間らしくなって、こうして人類は救われた・・なんてストーリーでもいい。

もちろん家族は生きていないといけない。どこかの町の砦の中で、今にもゾンビに食われそうなところを、ヒーローが登場してクスリをばら撒くと、あら不思議!いきなりゾンビが普通の人間に戻る。家族と再会した父親は固く抱きしめてラスト。

途中でゾンビのダンスシーンがあったら、もっといいかも。

とにかくヒットしたらしいので、この企画は成功であり、私の提案は間違いということになる。でも理解できない。

2008年7月 8日

あの頃ペニーレインと(2000)

- かえすがえすも残念 -

いい映画だった。音楽も良かった。懐かしいロックの時代の雰囲気がよく出ていた。

主人公は、あまりにも幼い顔すぎて、役柄にはちょっとあわないような気がしたし、ペニーレイン役の女の子も、何かちょっとした魅力(色気?)が不足していたような気がしたが、ストーリーが優れていたので、充分に楽しめた。

ロックスター達は、今は完全に過去の遺物になってしまった感がある。かってはグルーピー達を引き連れたスターが、マリファナやアルコールにまみれて、様々な伝説を打ち立てたものだった。

ベイ・シティ・ローラーズは、ちょっと毛並みの良い印象の、健康的なグループだったが、追っかけの日本人達は確かグループのメンバーと何人か結婚してしまったと記憶している。イギリスまで行くことができるのは、相当に裕福でないと難しいだろう。

この映画の中でペニー・レインは、「自分はグルービーではなく、サポーターである。純粋に音楽を愛し、支援しているのだ。」と言い張っていたが、傍から見れば完全なグルーピーである。うまく男をゲットできなければ、‘負け組み’になる。

ギタリストの奥さんは‘勝ち組’であったが、露骨にペニー・レインに敵意を表していた。当然である。いったん勝ったかに見えたものの、離婚再婚率の高い業界人相手なので、すぐ妻の座を奪おうとする輩が出てきかねない。厳しい世界である。

私も、そんな激しい争奪戦の対象になることを夢見ていた。ロックスター、野球選手、テニスプレーヤー、オリンピック選手など、群がる女の子をかき分けながら歩いてみたいと思っていたが、とうとう一かきもしないままであった。

せめて運動会の花形になれれば、もうちょっと楽しい学生生活がおくれたろうに。

グルーピーも大変だが、花形プレーヤーも大変に難しい。

グルーピー達には、ついつい同情してしまう。そして結構、漁夫の利を得る人間が業界の中に出現するのである。もしかして、藤原紀香と結婚したコメディアンや、有名歌手と結婚するテレビ局員は、漁夫ではなかったのか?

この映画の中の評論家の卵も、もうちょっとで漁夫になれたのに、ちょっと失敗してしまったらしい。でも、それでいいのだ。そんな失敗が人生を美しくしてくれるのだろう。

私も、できれば何かのツアーに同行して、男も女も雑魚寝するような生活をしてみたかった。当時なら、おそらくエイズの心配もなかったし、様々な人間模様を当事者になって経験することができたろうに、部活動や受験なんかで、すべて素通りしてしまった。

かえすがえすも残念である。フリーセックスでなくてもいい。せめて雑魚寝したかった。ティンエージャーの女の子の匂いを嗅ぐだけで私は満足だったのに。

2008年6月20日

アポロ13(1995)

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- ギャグがお呼びでねえ世界   -

ロン・ハワード監督の作品の中で最も最近観たのは「ダヴィンチ・コード」だったが、あれは失敗だった。各々のシーンはそんなに悪くないし、映像も美しく、小説はベストセラーで大変な話題になったくらいなので、ストーリーにも問題ないはずなのに、何か歯車が狂った印象を受けた。

ところが、同じ監督のこの作品は実に素晴らしい。盛り上るべくして盛り上がり、緊迫すべくして緊迫する、ほとんど狙い通りにバッチリはまった感じがする。主演もトム・ハンクスで同じなのに、これは何でだ?

脇役は、こっちのほうがそろっていたかも知れない。NASAの管制局のチーフを演じるエド・ハリスと、風疹の疑いのために船に乗れなかったゲイリー・シニーズは、存在するだけで訴える力があった。彼らが演じると、オーバーな演技でも笑って済ませられないような緊迫感を作る。

主演はトム・ハンクス以外の役者でも良かったと思う。それなりの存在感さえあれば良い。しかし、ケビン・ベーコンやエド・ハリスなど、他の役は代役では印象が違ってくる。配役が素晴らしかった。

これは大事なことである。どんなに優れた意見でも、話しているのが仮に志村けんか間寛平だとすると、何かのギャグかな?と考えて、笑っていけないことでも噴き出したくなる。「ダヴィンチ・コード」の場合は、「アメリ」の女優が深刻な顔をして逃げているのを見て、常に違和感を感じていた。配役、その役者のイメージは大事だと思う。

作品にもどるが、この映画の題材になったアポロ13号の失敗は、実に驚くべき話だ。普通なら宇宙空間で酸素タンクが爆発したら、そのままバラバラになって終わりのはずだが、おそらくタンクが破裂した時のことも計算に入れて、宇宙船本体が操縦可能な状態で残るように設計されてたことが不幸中の幸いだったのだろう。

さらに、事故の後の対処の仕方の数々には恐れ入る。理論に優れているだけでなく、様々な情報を収集し、ベストを尽くす気力と能力に脱帽する。換気扇を即席で組み立てるなんて、遊び半分なら可能だが、命がかかった状況では難しい。

実際の事故と映画の状況では、多少の違いがあるそうだ。事故に対しての対処法は、優秀なスタッフによって、あっという間に解決策が見出され、一発の実験で成功したとか、クルーの間でケンカなどもなく、皆が黙々と対処するので精一杯だったと書かれていた。

この映画を見ながら、ICUで患者を診療している時のことを思いだした。

映画のように世界的に注目されるような場面ではないが、救急患者を受け入れた時は、一歩間違えれば殺人になりかねない緊迫した状況もある。私は内科なので、せいぜい呼吸や心臓が止まったか、吐血下血の患者くらいしか診ないが、それでも充分に重症であるから、判断が適切で処置が有効に働いた時は、自分に拍手喝さいしてやりたくなる。

ある患者さんで、救急隊も家族もスタッフも、皆が皆こいつは仕様がない酔っ払いだと言っている中で、一人「もしかして農薬中毒じゃないか?」と、気がついたことがあったが、あれはスマッシュヒットだった。

心不全か喘息か簡単に判断できないが、とにかく息が苦しそう。もしくはお腹が痛いと言ってきたが、どうも痛いのは胸みたいで、心筋梗塞もあやしい。風邪をひいたと言っているけど、どう見ても癌が隠れている印象。こういった患者さんの場合は、うまく病態を把握できるかどうかが、その後の経過を決めてしまう。

間違えれば、直ちに訴訟が待っている。緊迫することは同じである。

もしこの緊迫した場面で、志村けんとそっくりの男から、「あなたは心筋梗塞です。」と言っても、やはりギャグにしか聞こえないだろう。どこかにカメラがあるに違いないと、きょろきょろされるだろう。「君なんか、お呼びじゃないよ!君は誰だ!」「そーです、ワタスが変なお医者さんです。あっ変なお医者さん♪」と、踊り始めるのかなと期待されてしまう。

この映画では、それは全くなかった。ギャグの入りこむチャンスはない作品だった。色気もなかった。最後まで緊迫感が維持され、最後に感動的な成功が待っていた。人間の努力と工夫に感動できる、すばらしい作品だった。

途中で無重力のはずなのに、そうでない変なシーンがあったが、ほとんどは上手く撮影されていた。

家族でも恋人とでも、誰とでも見れる、かなりの秀作だと思う。

 

 

2008年5月27日

アラビアのロレンス(1962)

Photo_2 - 007の宿命 - 

砂漠で命をかけて助けた男が、掟によって殺さねばならない運命の人だったとは!主人公の表情がゆがむ・・。

間違いなく傑作であった。ちょっと長すぎる点は否めないが、壮大なスケールを感じることができて、映画の醍醐味を味わうには必要な長さだったのかも知れない。家族で観ることができる映画だが、ちょっと重過ぎる印象がする。年末年始の、ゆっくりした時間に重厚な作品を観たい時があるが、あんな時には最高だろう。

印象的なのは、砂漠の向こうからオマー・シャリフが登場する場面。こちらから見ていると、蜃気楼のような姿が徐々に明らかになるのを長まわしで撮影している。本当はなんでもない登場シーンのはずが、凄い出会いになって印象が全く変った。

砂漠を横断して、アカバ要塞を攻撃せんとするときに、ロレンスが手で合図をする瞬間、そして一気に要塞になだれ込むシーン。この映画のハイライトであった。

後半はイギリスの戦略によって彼とアラブ諸国の立場が悪くなり、無力感を味わうシーンが多くなるため、我々としては退屈な場面が多くなる。やはり、ロレンスは砂漠にいないとダメである。無力なシーンは、もっと省略しても良かったかも知れない。

演出の仕方、全体の話の順番、オチのつけ方などは、よく検討され計算されたオーソドックスなものだったが、それが古い名作を見る雰囲気につながっていた。イギリスの伝統に則って作られたような印象。そのまま舞台に使えそうな構成だった。(そもそも舞台用の脚本かも)

ロレンスの伝記を読んだことがある。実際のロレンスは小柄でがっしりした男だったと書かれていたはず。この映画の主演のピーター・オトゥールはシェークスピア劇向きの役者だから、実際とは全く違った配役であったことになる。しかし、後半の悩めるロレンスを演じるのには最適だった。下は本当のロレンスの写真らしい。

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ロレンスが活躍した頃、イギリスは苦しい時期で、ヨーロッパの戦線ではドイツと塹壕での撃ち合いを続けて戦死者ばかりが増えていくという状況であったはず。彼の成功は大々的に宣伝され、一躍国民的ヒーローになったと思う。彼を悪く描くことはできなかったろう。

本当はバリバリの帝国主義者だったのか、映画や伝記の通りに時代を見越したアラブの友だったのか、本当のところは解らない。純粋にイギリスの利益のためにトルコ軍を攻撃しただけかも知れない。今で言うスパイに過ぎないのかも知れないが、それにしても活躍が派手だった。007以上だった。

当時のイギリスの歴史本も読んでみたが、どうすれば良かったのか解らない。ドイツがフランスを攻撃してもイギリス本国の安全ばかりを確保する方針だったら、おそらく国力をそぐような事態にはならなかったはずだが、ドイツへの敵対意識が強かったことと、フランスと条約を締結してしまっていたので、大陸に出て行かざるをえなかったのだろう。

記録では、西部戦線での戦死者は双方が毎年数十万人にのぼったそうだが、せめて戦死者が膨大にならないように戦い方を変えることはできなかったのだろうか?ドイツ軍の攻撃が激しすぎて、他に手がなかったのか?

当時のイギリスの首脳部は、不足する戦費を補う目的だろうと思うが、あるものはユダヤ人からの融資を得るためにイスラエル建国の約束をし、あるものはトルコを攻撃するためにアラブの独立を約束するという綱渡り的交渉をやっているから、戦後さぞ居心地が悪かったろうと想像する。イギリスでは、必ず理性的な意見をはく人がいるから、国のためにとはいえ裏切りは非難されたはずである。

彼も結局、アラブ諸国を裏切ったことになるので、堕ちたヒーローは消えるかのように、事故で死ぬしかなかったのかも知れない。007の宿命か。それにしても、美しい物語だった。

 

2008年5月 5日

アンタッチャブル(1987)

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- 古典的手法   -

アンタッチャブルというと、テレビシリーズが子供の頃にあって、楽しみだったのを思い出す。内容や俳優は忘れてしまったが、緊迫感だけは覚えている。

この映画は、ブライアン・デ・パルマ監督がサスペンス映画の手法を忠実に再現しながら作った印象が強い。あまりに忠実すぎるので、私は少々嫌な感じがしたくらいである。

階段を乳母車が落ちていく設定は有名な古典的映画でも使われていたが、もちろん昔の擦り切れたフィルムとは全然違う迫力と美しさを持つ良いシーンだったものの、やはり真似と言われれば、その通りだろう。でも、観客の誰もが「あ~!赤ちゃんはどうなる!?」と、気にせずにはおけない。

静かな駅の構内で、悪人達を待ち伏せる緊迫感が良かった。時々関係ない人が通り過ぎて行くが、「あれがマフィアか?」などと思ったとたんに一般の人だと解ると、観ている人の気が抜ける。すると、また別な人物が現われる・・という、しびれる演出だった。

テレビでは、カツカツというあの靴音の音響や迫力が出しにくい。非常にゆっくり時間をかけて、緊迫感の盛り上がりを作り出したのは映画だからこそできたことだろう。しかし、あんまり教科書的な演出ではなかったかい?

かえって懐かしい感じさえする手法だった。ただ、極めて見事に描かれていたのは間違いない。

カポネが野球の話をしながら、裏切り者とおぼしき男をバットで殴るシーンも良かった。怖いシーンで子供には見せないほうがいいが、カポネの怖さを表わすには最適な方法だった。テレビの時には、こんなシーンはあったか?

ショーン・コネリーも良かった。渋さと強さ、頑固さを表わすには、彼をおいて他の役者はいなかったと思う。ジョン・ウェインやなんかでは、悲惨な最期のシーンには無理がある。ロバート・デュバルなんかでは、体力的強さの表現に欠ける。

いっぽうで主役のケビン・コスナーだが、彼の代わりはいたような気がする。彼は良心的だが迫力に欠けるキャラクターであるので、本来のネス役のキャラクターには合っていないかも知れない。タフネスぶり、冷静さ、豪胆さなどを表わすには、別な役者のほうが良かったのかも知れない。

ハリソン・フォードではどうか?・・・鞭を持っていないとダメか?

実際のアンタッチャブルは、数十人の軍団だったらしい。主に会計や文書を調査する調査官が多かったと思うが、コワモテの実働部隊もいたろう。ショーン・コネリーやアンディ・ガルシアが、それを代表していた。

仲間が惨殺されていく場面、復讐に乗り出して犯人を捕らえ、さて法律で裁くべきかという時に、昔ならやっぱり私情はおいといて法廷の勝負に持ち込むべきですよという展開になっていたはずだが、この映画では思い切り私情をはさんでいた。いいのか?

陪審員まで買収されていたら、確実に敵を倒すためには法廷に持ち込むのはマズイが、ああもあからさまに映画で見せてよいものか?裁判所から何か言われなかったのだろうか?

日本でも陪審員制度が始まる予定だが、自分が陪審員になって暴力団の容疑者相手に「有罪!」なんて言ったら、どうなるのだろうか?狭い町なんで、きっと私が誰かは解る。もし復讐されて私が殺されれば、確かに犯人は捕まるだろうが、やられちまった私は生き返らないんだけど・・・。

陪審員の名前が書かれたメモを見つけ、ケビン・コスナーが一芝居をうつ展開も非常に見事だった。鮮やかな展開で、痛快さを味わえた。よくできていた。

もしかして敵の殺し屋を捕まえ、メモを見つけて、「これは、つまり陪審員を買収したってことだな。よーし、お前らの思惑を無駄にしてやる。」なんちゃって、口惜しがる殺し屋にアッカンベーをする展開でも良かったのでは?殺し屋が生きていては満足できない観客が多いのだろうか?

ちょっと考えたのだが、アンディ・ガルシアが乳母車を止めた途端に、慣性の法則に従って中の赤ちゃんが飛び出して、あわれ階下の石床に激突してしまったら・・・

・・映画の盛り上がりのためには、物理の法則なんかくそっくらえだ。

 

 

2008年2月 8日

アップタウン・ガールズ(2003)

ー ブリタニーのために -

ブリタニー・マーフィーは、あちらではよくみる顔をしていると思うが、適度に色っぽくて美しく、目つきが強かったり、動作がしなやかだったりの優れた点がそろっているように思う。

途中でダコタ・ファニングを笑わせるために、「自由に踊ろうよ!こんな風に!」と踊るダンスは、ショーのエキストラがするような派手な踊り方でした。セレブの女の子がするようなものではなかったが、ぶっ飛んでる彼女だと納得できます。

気に入った男とペッツを食べながら一夜を明かし、「ペッツ!」と要求するのもなかなか楽しいシーンでした。

日本で同じようなキャラクターの女優がいるかいな?と考えてみましたが、楽しいだけじゃなくて性格がきつそうな、ちょっとキレたような感じのするヒネたような部分を持った人が、あんまり思いつかない。きっと日本でも受けると思うが・・・。

近年の中谷美紀は、結構な汚れ役~喜劇~悲劇を同時に演じられる珍しい女優だが、少し系統の違う感じがする。ブリタニーほどの色っぽさを感じません。人種の違いか、日本では成立しにくいタイプかも。

この作品の変ったところは、普通のロマンティックコメディではなくて、子供と大人の間の友情がメインテーマになってた点。狙いとしては面白かったが、はたして成功したのかどうか、ちょっと解らない。男女のラブロマンスと、子供との友情をうまく織り交ぜていたとは思うが、その狙い自体が良かったのかどうか?

普通なら友情一本に絞るべきでは?男との関係は、フラレたらフラレたままでも良かったのではないか?。主演のブリタニー・マーフィーの魅力を最大限に引き出すために、いろんな関係者を作りたかったのかも知れないが、今回のやり方は万人が納得できるほどの効果を生んでいないような気がします。

ダコタ・ファニングの踊りは、あんまり上手ではありませんでした。体が固くて優雅さに欠けました。今後どのような女優になるか解らないが、動きが優雅でないと大人になってから大成しないかも知れない。ダンスの練習をすべきと思う。

 

2007年12月 2日

アンドロメダ・・(1971)

- たいへんよく出来ました。 -

この作品は、マイケル・クライトンが原作者だったのですが、観た当時はマイケル=Who?という時代でしたので、その後にメジャー作品を次々発表するようになるとは全く予想していませんでした。

でも当時も、この作品がただならぬ才能を覗かせる傑作であることは解りました。低予算で、ほとんどはスタジオ内で撮影されたはずなのに、盛り上がる緊迫感、謎解きの要素をうまく配置した、芸術のような作品だと思った記憶があります。

この作品は、ビデオ屋さんにあるのでしょうか?私の行くところにはなさそうです。映画好きでないと知らない作品です。

家族で観れる作品だったと思いますが、今はCG技術が進んでいますので、この作品はSFとしては迫力に欠けるようになったかもしれません。大人なら、見た目の派手さ以外の魅力で納得してくれるような気がします。試しにYahooのレビューを見てみましたが、悪く書いている人はいないようです。恋人とも、懐かしの名画でも観るような感覚で観れると思います。

ウイルスが増えることを示す画面が何度かありましたが、笑ってしまうくらいチャチな映像です。今なら気味の悪い増殖ぶりを技術で表現できるでしょうに、当時は紙芝居のような特撮でやるしかなかったのでしょう。この場面は、当時の私ですら笑いました。

赤ちゃんがずっと泣き続けるか?普通なら1~2時間も泣いたら疲れて眠ってしまうのじゃないかと、この点も気になりました。もしかすると当時のマイケル・クライトンは独身で、赤ちゃんの世話をした経験がなかったのかも知れません。科学的な視点で作られているはずなんですが、荒唐無稽な点もあります。

細かいことはさておき、未知のウイルスで血液が固まってしまい、体を切っても砂みたいな物しか出てこないというのは面白いアイディアだと思います。話の始まりで、ゴーストタウンのようになった町を捜索隊が探索するシーンは特別なんでもないシーンなんですが、カメラワークがいいのか気味の悪い映像のためか、印象に残りました。

最後の爆発ハラハラのシーンまで、巧く話をつないだ展開の良さが見事でした。途中で中だるみして、つまらない心理劇で終わらないように様々な工夫をしてあったようです。脚本が良かったに違いありません。研究所は、おそらく撮影所のほんの一部を使って撮られていたはずですが、うまく撮影してるので、地下の壮大な建物の中で走り回っているかのような錯覚を起こしてしまいました。

ただ線だけの画像ですが、コンピューターで研究所の構造を説明していました。今なら普通ですが、当時は立体的なグラフィック映像を見せる映画は多くなかったはずです。それまでは磁気テープが回る、巨大な機械がコンピューターでした。モニターを見ること自体、あんまりなかったような気がします。その分野でも、この作品は走りだったかも知れません。

2007年10月15日

明日の記憶(2005)

- 名演でした -

渡辺謙演じるサラリーマンが若年性アルツハイマー病にかかって、急速に認知症が進む話です。仕事や家庭に、様々な障害が発生し、樋口可南子演じる妻も翻弄されます。

渡辺も樋口も、素晴らしい演技だと思いました。この作品で夫が自分のことを認識できなくなったのだと知った時に樋口が見せた表情は、真にせまるものだったと思います。

認知症の患者さんと家族をたくさん見てきましたが、このような場合に家族が見せる表情には、いくつかのバリエーションがあるようです。①「困った人だ、恥ずかしい。」という苦笑に近い表情、②「今後どうなるの?」という困惑絶望の表情、③「なんで自分がこんな目にあわないといけないの!」という怒りと悲しみの表情、④「重篤な段階に入った。」という驚きにも似た、目を見開くような表情が主ですが、これらの表情が繰り返しながら、様々に組み合わさって出ては消え、また出ては消えします。

いっぽう、家族がこのような表情をしているときに、本人は多くの場合は理解できずニコニコしていますが、時には「何か自分に文句を言ってるのか?」と、こちらの顔色を伺ったり、「自分のせいじゃないのに何で怒るんだ!」と怒りをあらわにしたり、あるいは病気を自覚して失望したり、こちらも様々な表情を繰り返しながら、徐々に安定(進行)していくようです。

不幸な病気を知ると、理解し頭の中で生理し、心づもりが出来上がるまでには相当な時間が必要です。介護しながら我慢している家族も、時々感情が爆発して泣き叫んでしまうことが少なくありません。殴り合ってしまいましたと、白状されたことも少なからずあります。相手を傷つけたことで、また悲しみが深くなるものです。

私は若年性アルツハイマー病を確定診断したことはありませんが、急速に認知症が進行する患者さんはよく経験します。脳の写真で信じられないくらい急速に萎縮した患者さんもいました。極端な理論派で、病状の説明に3時間くらいかかった人が、半年後には呼びかけても無言という経験もあります。薬に反応する人もいますが、やはり今の時点ではワクチン療法の実用化待ちという状況でしょう。

自分の脳の衰えを自覚するのは悲しいことですが、進行が早いと分ればショックは測り知れません。この作品では、その苦悩の表現が素晴らしかったと思います。渡辺謙の演技力のおかげだと思います。彼は白血病を乗り越えていますから、死に直面した人間を演じる時の迫力が違っているような気がします。

ただし、ひょっとすればですが、演出の仕方には一工夫あっても良かったかも知れないと思います。冒険になりますが、渡辺の頭のレベルに合わせて周囲の人間の顔が分らなくなることを、カメラの視点やメーキャップで表現してもよかったのではないかと思います。程度が過ぎると、シュールすぎる映画になってしまいますが、渡辺の独り言をバックに流しながら、異常な認識が進んで行く様子を見せてもよかったのではないかと思いました。

例えば前半では、渡辺が部下の顔を忘れて素通りするような時に、部下の顔をぼかして写し、渡辺の素知らぬ態度と、通り過ぎた後の部下の「どうしたの?何してんの?」という怪訝な表情が対照的になります。

さらに例えば、樋口が妻であることを分らなくなった場面では、樋口が歩いてくる場面で彼女の顔を映さず、首から下だけを映して、さっと顔を映すと樋口であると分るが、渡辺はそのまま視線を変えて行き過ぎる、そして今度は樋口の顔を映すと彼女の表情がこわばる、という具合にすれば、その異常さが分りやすかったのではないかと思います。渡辺の穏やかさと樋口の絶望の表情が対照的になり、陳腐な表現法ですが有効だと思います。

個性的な友人を登場させておいて、同じ衣装の別人が話しかけて困惑する、あるいは親しげに話しかけられるが、まったく初登場の俳優で観客も「おやっ?」と違和感を感じるというようなシーンも面白いかも知れません。ちょっと間違えれば、難解な作風になってしまいますが、可能だと思います。

もしくは、CGを使って風景が理解し難いものになることを表現できなかったかと思います。映画のタイトルバックから続く場面で多少の合成像がされていましたが、冒頭でやっても何の意味もないと思いました。どんどん病的になっていく気持ち悪い場面でやるといいと思います。

さて、妻が分らなくなって通り過ぎようとした渡辺は、「良かったら、いっしょに歩きましょうか?」と言いますが、普通は認知症が進んだ方は、このように心配りをすることは少ないと思います。異常にニコニコするか、険しい顔をして考え事をしながら通り過ぎることが多いはずです。心配りには、高度な認知機能が必要です。

樋口可南子のファンになりました。思えば、私は以前からファンでした。彼女の記念すべきヘアヌード写真集をいまだに持っています。それも2冊!

2007年8月20日

雨に唄えば(1953)

- アイディア倒れ寸前  -

ドリームガールズは、いい映画でした。ミュージカル映画が好きになれない人は、「何で話しているうちに歌いだすの?おかしいよ。」という違和感を感じるようですが、このへんの決まりごとにさえ納得すれば、エンターテインメントとして極上の作品はたくさんあります。

ミュージカル作品で思い出して、この映画を観なおしてみました。

この作品のアイディアは、サイレント映画からトーキー作品に変る時期の混乱から出ていますが、もともと’雨に歌えば’という曲はありましたから、その古い曲にドタバタコメディを織り交ぜて長編映画にしようという考えで作品化されたようです。作品の成り立ちがアイディア、作り方もアイディアいっぱい、思いつきの継ぎはぎの印象はあります。

ジーン・ケリー演じる男は、スタントマンとして映画界に入りましたが、チャンスをつかんでスターになります。その頃、映画会社はいっせいにトーキー作品を作ろうとします。サイレント映画でスターだった女優が実はダミ声のため、歌のシーンでは困ります。彼女は契約を武器に代役に歌わせて乗り越えようとしますが、そこでトラブルが発生します。

ストーリーを追うよりも、継ぎはぎだらけのダンスシーンを観ているほうが楽しめます。ストーリーは、あくまでダンスの間の休憩みたいなものです。特にジーン・ケリーが自分のアイディアを会社の重役にアピールする途中劇は、完全にストーリーから遊離しています。こんなシーンを延々とやって作品にしてしまっていいはずがないのですが、まあ愉快な映画だから気にしなくていいと思います。

共演者が箒と踊るシーンなどは、映画用ではなく、ストリップショー合い間の芸に向きそうな気がしますが、観ているだけで充分笑えました。内容がない、つながりがないことに腹を立てたりしないで、ただバカみたいに笑うのが、この作品の楽しみ方でしょう。

「雨に歌えば」を踊る有名なシーンは、ウキウキした気分を表現した素晴らしいシーンだと思います。名画特集の番組では、決まってこのシーンが紹介されます。タレ目で、本当にウキウキしながら歌う表情と動作は、バカバカしいけど楽しい気分にさせてくれる名演でした。

デートの申し込みに成功した時は、何であんなにウキウキするのでしょうか?私の場合は、ほとんど一回のデートで相手に飽きられてサヨナラになってしまうと予想されるのに、「今度こそ!」という甘い期待を抱いてしまうのでした。人が見ていなければ、同じような踊りをしたい気持ちになったものです。

ギャグがたくさん織り込まれていますが、さすがにセンスの古いギャグですので、うちの子供達は笑ってくれません。わけのわからない踊りをやっている、という顔をします。この作品は、若い人には勧められないかも知れません。恋人に見せる時も、ミュージカルに理解を示すかどうかを確認しないといけません。

ダミ声の女優が実は美声の持ち主で、本当か知りませんが、歌は自分で歌っていたそうです。このへんも、映画を作っている現場の人達にはおかしい話だったでしょう。

音声を録音する時に、役者の動作音がガサガサと入ってしまったり、顔の向きで音が消えたりするシーンは、私には笑えました。でも子供達は、「だから何?」という顔をしています。

昔はテレビの中継ミスで音声が出ない、つながっているのに気づかず変な顔をしているなどはしょっちゅうありましたし、テープが伸びて音がおかしくなるのも頻繁にありましたが、今はテープを知らない子がほとんどですし、中継で失敗することも非常に少ないので、おかしさが理解しにくかったのかも知れません

2007年8月 3日

アイスエイジ2(2006)

- 冒険映画の冒険   -

パート2では主役の3匹の友情は確固たるものでした。メインのストーリーはマンモス2匹の出会いと恋、そして洪水から逃れるための旅でした。パート1と同様に、旅をしながら互いの理解が深まっていく話でした。

主演のもう一匹のネズミは、いつものようにドングリ~シイノミ?を追っかけていましたが、途中で本来のストーリーに関係してきます。

家族で見るための映画でした。恋人と見ても悪くないと思いますが、ギャハハと笑える作品ではないし、少し幼稚な感じを受けてしまって、相手の反応は良くないかも知れません。

地球温暖化で氷が溶けていくのは、南極の氷河が崩れるお決まりの映像でよく見ていますが、この映画の洪水は海にはさまれた谷に皆が暮らしているという設定でした。谷に流れ込んだ水は、いままでいったいどこに流れていたのでしょうか?でも、いちいち設定にイチャモンをつけていても仕方ありません。

途中、ナマケモノの集団がダンスするシーンがありましたが、派手なパフォーマンスを1曲分やるわけではなく、ほんの短時間で止めてありました。ハゲタカが「早く皆死んで食べさせて。」と歌うシーンも短いと感じましたが、これは私がディズニー映画を見すぎているからかもしれません。ミュージカル仕立ての作品をついつい期待してしまっています。

巨大な魚の化け物との格闘や、やじろべえになった岩を渡るスリルの場面がありましたが、これはディズニー映画で観たような気もします。

いろんな要素を織り込むことが、この手の映画の製作会議ではきっと議論されていると思います。ダンス、スリル、恋、自然などの要素を織り込んだ旅の物語はディズニー映画と同様ですけど、何か少し違う感じは、やはりミュージカル場面の短さによるものなのでしょうか?

魚の化け物は意外にあっさり退場してしまいました。旅の途中の谷や山を見ると、洪水になったら船に乗るより、山に登るか谷の上のほうにいればいいのではないかい?と思えましたが、子供たちには黙っておきました。

パート2とくれば、普通ならせっかくの友情にヒビが入り、それを克服する話を作るような気がします。パート1を観た人が同じテーマを期待すると考えるからです。この点で、この作品は何かの考えで冒険をしているようです。結果的に良かったのかどうかは分りません。

 

2007年8月 1日

アイスエイジ(2002)

Photo_29暑いので、アイスエイジの話を。

この作品は、3匹の主演と、もう一匹の変なネズミのキャラクターが中心の作品です。ネズミは第一作では3匹とは別行動をしていますが、パート2では重要な役割をして、主人公たちを助けます。

氷河時代のある村をサーベルタイガーの群が襲うことから話が始まります。子供を奪おうとして失敗し、群の中の一匹が川に流された子供を捜していくうち、マンモスとナマケモノのコンビといっしょに旅をすることになります。要素としては、股旅物であり、美しいCG画像を鑑賞できる作品でもあり、友情や人間愛、スリルも適度にあるというディズニー的な作品でした。

私の子供は、この作品を2~3回繰り返して観たがりました。私は、それほど感動する話のようには思えませんでしたが、旅の物語が良かったのか、動物が演じていることが良かったのか、ギャグが面白かったのか、子供自身は理由を説明できませんでしたが、とにかく受けていました。この映画は家族で見れる作品だと思います。

CGは非常に美しくできていました。人間だけは省略したのか、北京原人みたいな無表情(原人を見たたことはないけど)な顔で、あまり現実感がありませんでしたが、動物が主役なので仕方ないかも知れません。動物は、毛の動きまで表現されていました。大画面で観ると余計感動します。

ギャグは全体的に大人しく、家族で見ることを考えていると思いました。トムとジェリーのようなドタバタ劇を期待したわけではありませんが、奇想天外な冒険ものの作品と比べると、盛り上がり方が少々穏やかすぎたかも知れません。

ナマケモノが 別な動物、例えば動きの早いサルなどだったら、どうなっていたでしょうか。一般的には正義感の力持ち、コワモテの後には、落ち着きのないオッチョコチョイのやせっぽちが好まれるキャラクターではないかと思います。動きが早いほうがドジのギャグの幅も拡がったのではないかと思いましたが、逆に話の落ち着きはなくなってしまったかもしれません。

きっと何か考えがあってナマケモノにしたのでしょう。

2007年1月29日

アレキサンダー

- 偉大なる征服者像? -

ギリシアが衰退した時代、マケドニアの王子であるアレキサンダーは、王を心底嫌いヘビを使う怖い母親に育てられ、暗殺された父親に替わってマケドニア王になります。様々な部族をまとめて、彼は当時の欧州諸国の宿敵で世界帝国であるペルシアを倒そうと遠征を開始します。広大な地域を遠征し、大王と言われるようになりながら、長年の戦友を自分の猜疑心のために失い、ホモセクシャルの友人以外に心を開ける人もなく、心も体も傷つきます。

アレキサンダー大王は、欧米人にとっては源義経か織田信長のような存在でしょうか? 東洋の島国の田舎者とは感覚的に違うものがあると思いますが、アメリカ人なら誰でも教養として私達より深く彼の歴史的事実や余談を知っているはずです。

大王の記録をいくつか読んだことがありますが、常識人でないのは間違いないと思います。生まれも、育った境遇も普通ではありませんが、大王のものとして伝えられる言葉を読んでみても、おそらく性格的にもバランスの取れた人間ではなかったと推測します。この作品で描かれた性格と結構近いものがあったのかも知れません。そうでなければ、地図にも載っていないような場所まで遠征するはずがありません。

オリバー ストーン監督が訴えたかったものが、いまひとつ分りませんでした。戦いに明け暮れるアメリカを批判したかったのでしょうか? 妙な教育をした母親を非難したかったはずもなく、単なる歴史ドラマを正確に描きたかっただけでしょうか? とにかく強いメッセージが伝わってきませんでした。 矛盾に満ちてはいても、他に例のないアメリカという存在への愛情を訴えたかったのかも知れませんが、私の考えすぎでしょうか。

アンソニー ホプキンスが長々と語っていますから、そのセリフに何かポイントがありそうですが、私の理解力ではサッパリ分りませんでした。誰でもアメリカを連想するような話だったでしょうか? それとも観客が自由に解釈できるように、あえて曖昧にしたのでしょうか? セリフには問題なかったのでしょうか? 感動させるかどうかは、彼の話や、できれば彼の涙にかかっていたのではないかと考えますが、淡々と語っていたので我々に伝わるものが不足していたような気がします。

ギリシア、マケドニア、スペイン、イギリスなど、世界の覇権を争ってきた国々は、拡大する時にはいずれも熱情としか言いようのない狂った強い意欲を持っています。拡大する際の理由づけは、文明を広める、民主主義や宗教を教えるだの色々ありますが、侵略には違いありません。たまたま、ファランクスのような戦術や武器が優れたほうが勝って来たに過ぎません。

アメリカもそうでしょう。マケドニアと精神のレベルにおいては変わりないと思います。 単純な理屈にしたがって、国民が浮かされたように平気で戦争をしかけるのが両国の共通点です。でも、その熱情そのものが我々にとっては魅力に写ります。うまく彼の国のキャンペーンに乗せられているのでしょう。その魅力と国に対する愛情を訴えたかったならば、セリフを変えないといけません。

また、この作品は子供向きとは思えません。恋人向きでもないように思います。

コリン ファレルは、カリスマ性に欠けると感じました。もっと目に狂気が宿ったような役者が適役だと思います。 若い頃のメル ギブソンのような俳優のほうが良かったのではないでしょうか。

2007年1月 9日

荒馬と女

- 文芸に意味が? -

主演 クラーク ゲーブル、マリリン モンロー

この映画は、大スターの遺作になったことから有名ですが、作品自体は文芸調で、娯楽よりもインテリうけをねらった映画だと思います。この内容では大ヒットは望めないような気がしますが、映画自体のデキは良いと思いました。

子供が見てもしょうがない作品だと思います。テーマは男と女、生き方、価値観の違いなどのようです。重々しいタッチの描き方はしていないので、大人ならば一応見て楽しめる部分もあると思いますが、恋人といっしょに見るのが良いとは思いません。家族で見る作品としても、お勧めできないと思います。じゃあ、誰が見るんだ? やはり、スターのファンか、本当の映画好きでしょうか?

離婚のために立ち寄った町で、マリリン モンローはゲーブル達と仲間になります。ゲーブルはカウボーイの成れの果てみたいな人間で、かっこいいのですが、子供たちとはうまくいってないようです。モンゴメリー クリフトは、母親の再婚をきっかけに心に傷をおっているようで、自暴自棄な行動をとっています。やがて、彼女は新しい人生を歩もうということになりますが、ロデオの場面や野生馬を捕まえる場面などで、お互いの生き方がぶつかり合い、心がフィットしない状態になります。

当然でしょう。やさしさだけでは生活できませんし、皆がモンローを欲しがれば、当然あぶれた男は本性を現して仲良くしてばかりもいられなくなると思います。この辺のやりとりは描写が自然だったと思います。でも、見ていて楽しい気持ちにはなれませんでした。

荒馬ではなくて、かわいそうな野生馬(野生化した、もと家畜だと思いますが)を生け捕るシーンは興味深く拝見しました。タイヤをつけた投げ縄で捕まえるとは、誰が考えたか知りませんが、良いアイディアです。馬としては、たまったものじゃないでしょうが。ワンシーンとしては、非常に迫力があって誰でも楽しめる程の魅力あるシーンではないので、この映画自体が迫力に欠けると言えるかもしれません。

ロデオの場面も、あまり近接で撮影していませんでしたので、特に迫力を出そうと考えて撮ってはいなかったようです。モンローがモンゴメリー クリフトの怪我を心配することの表現を優先していたのかも知れません。私としては、誰かが血だらけで運ばれるシーンをはさむなどして、怖さを出したら良かったのではないかとも思いましたが、文芸作品には必要ないとも言えます。

クラーク ゲーブルの演技は、やたら上手かったと思います。大スターですが、私は「風とともに去りぬ」でしか彼を見ていませんでしたので、作ったような笑い顔が気になる、現実感のないスーパーヒーローのような印象しかありませんでした。でも、この作品では細かい表情や酔っ払った演技などを初めて見て、味のある演技だと思いました。モンゴメリー クリフトが頭を打っておかしくなる演技も悪くないと思いました。ちょっと頭が良くないけれど、人が良い青年のような話し方、表情がちょっと過剰表現だったかもしれませんが、上手かったと思います。

モンローの役は、やさしさと無邪気さにあふれた美しい女という設定で、彼女の夫が脚本を書いたくらいですから、もしかすると彼女の実像に近いものがあったのかも知れません。そう思えるほど、役にハマッていたと感じました。彼女の本当の演技力は私には分りませんが、自然さを重視しているように感じました。彼女はデビュー以来、一貫して大仰な演技は避けていたような気もします。大仰な舞台劇のような演技を名演と感じてしまいがちですが、彼女の世代は自然さを重視する俳優が多かったようです。

こう来ると、うまい俳優が名演技をして、文芸調のシナリオでやってるわけですから、よい作品ということになりそうですが、私は2回見たいとは思いませんでした。少し皆が名演をやりすぎて、芸術かぶれをしてしまったからかも知れません。思い切りおバカな作品か、涙なしでは見れない大作でないと、なかなか印象には残らないと思います。

2006年12月31日

アイ ロボット

- ロボットの感情表現に注目 -

 主演 ウィル スミス

この作品は、子供といっしょに見れると思います。殺人現場のシーンはありますが、血しぶきが飛ぶような場面は出ませんし、人間が追われ拘束はされてもバタバタ殺されまではしません。ただし、女の子がおぼれるシーンがあって、これは夢に出る子供もいるかも知れません。恋人とは問題なく見て楽しめるはずです。見た後の気分も、少しほっとする感じがあり悪くはないと思います。

家庭用ロボットが普及した未来、新型ロボットの宣伝がさかんにされています。刑事のウィル スミスは、なぜかロボットに偏見を持っていて、ロボット工学の博士が殺された事件の犯人はロボットだと主張しますが、警察上層部やロボット会社の圧力で、休職させられてしまいます。

独自に真相を探ろうとするウィル刑事を、会社は殺害しようとします。真相を確かめるためには、会社の中枢部に忍び込まなければならないのは、この手の映画のお決まり定食コースですが、とにかく忍び込みます。殺人容疑のロボットに加え、会社の数千台?のパワフルなロボット達が主人公に襲いかかってきますが、はたして勝算はあるのでしょうか?普通なら絶対勝ち目はなさそうなくらいロボット達はパワフルですが。

この作品のロボットの表情は見事でした。ウインクが話のカギになりますが、ロボット君は上手にウインクしていました。表情の表現が良くないと、ウインクの場面で興ざめしてしまいますから、CG技術が出来ばえのカギになっていました。動作は、その後に作られた作品と比べると重力の影響を盛り込む技術が未発達で、少し躍動感に欠ける印象がありますが、たくさんのロボット達が各々暴れる様を細かく表現できていると思います。

ウィル スミスの演技も悪くはなかったと思います。母親との会話は結構おかしく、アクションにも迫力を感じました。狂いかけて見えるほど、過去のトラウマを表現できていたかというと意外にあっさりしていましたが、彼はもともと表現を期待してキャスティングされたわけではないと思いますし、配役は失敗していないと思います。できれば、悩みに悩んで悪夢で泣いている苦悩を出せる人の方が良かったかもしれません。喜劇で力を発揮する俳優ですので、雰囲気がちょっと違う気もします。ヒュー ジャックマンなどが演じたら、雰囲気が変っていたかもしれません。

コンピューターを止めるために、何かの液体を注射するというのは、具体的で良いのか、幼稚で良くないのか判断できません。CDのようなものを挿入するのもおかしいので、液体か電気ショックが良いのでしょう。

作品の基本的アイディアもまともでしたし、話の展開の仕方や、なぞが解けていく具合も観客の予測通りに運ぶように分りやすくしてありましたので、話に乗せられやすいと感じました。スミス刑事と同時にナゾに迫っていくような感じです。この展開の仕方が絶妙でした。話が複雑すぎず、筋が予想できるのも良かったと思います。

ラストは、もうちょっと意図がはっきりしたほうが良いと思いました。続編を作るなら、それの予告。作らないなら、スミス刑事とロボットがいっしょに映って互いの友情を感じさせるほうが良かったと思いました。感動作ではないようですが、出来のいい映画でした。

2006年11月19日

アビエーター

- 求むホリエモン  -

監督 スコセッシ 主演 ディカプリオ

この作品は、子供に見せてもあまり面白いと思ってはくれないような気がします。恋人と見たときの反応も、その方次第で随分違うような気がします。自信を持ってお勧めできるのはディカプリオのファンだけですが、そういう方はおそらく既に劇場で見ていらっしゃるはずですので、もしかしたらビデオ屋さんでも意外に借り手が少なくて、やがて大量に中古販売になるかも知れません。

私はこの映画を傑作とは思いませんが、凝った作りの出来の良い作品だと思います。CG合成もかなり使ってあるようでしたが使いすぎではなく適切なやり方で、空中の撮影の迫力は映像も音響も相当なものでした。豪華なセットを使って雰囲気を出してあり、映画としての魅力は相当ありました。確かアカデミー賞も何部門か取っていたと思います。

ストーリーは省略します。脚本はハワード ヒューズの本当の人物像に迫った力作だと思います。彼の右腕だったノアによる伝記を読んだのですが、映画にはなかったエピソードとしては、ライバル会社が出現した時はスパイもどきの手段で技術をパクったり、力で買収したりの企業家としての活動も紹介されていました。まったくの財産つぶしの道楽だけの人物ではなかったようです。いっぽうで、映画のように女優達と浮名を流したのも本当のようですが、中には歯医者の受付嬢のスタイルを気に入ってハリウッド女優にしたという逸話もありました。これこそ面白いエピソードだと思いますが。

主演のディカプリオは、当時のフィルムや資料をかなり研究したと言われています。もともと有名人ですので、年配の方達はヒューズのことをよくご存知ですから、あまり適当なことはやれないでしょう。ディカプリオは、アップの画面のまま長時間の演技を繰り返していました。演技に自信がないとやれないことです。迫力は感じました。でも、彼は恋愛映画のほうが絶対いいと思います。本来は、市民ケーンのオーソン ウェルズのように、存在するだけで迫力のある俳優の方が分りやすいと思います。また、病気の症状を長く演じると観客は耐えられませんので、もっと表現法を間接的にしたほうが無難だと考えました。

巨大飛行艇が実際に飛んだとは知りませんでした。ノアの伝記では、確か試験飛行をしただけで終わったと軽く書いてあったような気がします。映画では感動的なシーンになっていましたが、ビジネスマンにとっては嬉しくも何ともない出来事だったのかも知れません。私達にとっては、夢のある国で夢のようなことをやってのけたスターのような存在ですので、喝采を送りたいと思います。自由は素晴らしいと思います。こんな無茶な人間が存在しえることは悪いことではありません。ライブ ドアのホリエモンも日本人に夢を与えたという意味で喝采を送るべき人だと私は思いますが、現時点では犯罪者らしいので残念な気がします。拝金主義の面を非難されていますが、やっかみがほとんどでしょう。

もし若いアイディアマンが冒険をしたら応援し、そして大きな成功を収めたら祝福することが社会を発展させる基本だと思います。犯罪は犯罪として法的に処理すべきですが、それでホリエモンの冒険自体に意味がなかったとは言えないと思います。

2006年9月25日

アニマルハウス

監督 ジョン ランディス 主演 ジョン ベルーシ

 ハチャメチャな映画す。よくこんなもの作りましたね。少々オーバーな言い方をすれば、この映画の存在自体が犯罪みたいな、超おバカな作品です。

 子供には絶対よくありません。大学在学中でも、真似して騒ぎを起こそうとしてマズイかもしれません。恋人と見ると人格を疑われる可能性があります。やはりこの作品は同性の友人と見てギャハハと笑うに限ります。

 ストーリーなんぞどうでもいいような作品ですが、いちおう筋があります。アニマルハウスというのは学生寮の「デルタハウス」のことですが、あまりに激しく騒ぐのでアニマルとつけたようです。対立する寮があってオメガハウスという名前です。オメガハウスは校長に協力する優等生のクラブで、日本にもいそうなタイプの学生が皮肉たっぷりに描かれています。学校を改革しようとする校長一派と、乱痴気騒ぎが好きな学生が対決する話です。校長によってデルタハウスは閉鎖され、学生達は処分されることになりますが、そこからまた騒ぎを起こして反撃しようとして、とんでもないことを計画します。

 学生というより、浮浪者に近い風体のジョン ベルーシが一応の主役です。学生のリーダーは別にいるので、彼の役割はひたすらおバカに暴れまくるだけです。自由を愛するとか管理に反対するなどの思想があるわけではなく、野獣のような役柄で実にくだらない人間なのですが、なぜか魅力的です。彼の伝記のようなレポートを読んだことがありますが、実際の生活もひどかったらしく、ヤク中で早死してしまいました。

 その他の俳優も、中には時々テレビドラマに出演している人もいますが、あまり大成していないような気がします。この映画のラストに、その後の学生達のことがレビューされますが、できればその後の俳優達のこともまとめて欲しいと思います。先生役のドナルド サザーランドだけは有名ですが、友情出演かも知れません。似たような配役で、「1941」という映画もありましたが、こちらは少しまともな作品でした。

 メチャクチャですが、この学生達は本当に楽しそうですね。

2006年9月24日

愛と追憶の日々

監督  主演 シャーリー マクレーン,ジャック ニコルソン

 今では話題に登らなくなった映画ですが、最近見なおしてみて良い映画だと再確認しました。子供には向かない作品だと思います。それほど露骨なシーンありませんが、テーマが子供向きとは思えないからです。恋人と見ると、不倫の場面があるので縁起でもないかもしれませんが、しんみりしてハンカチを出してあげるタイミングを計れる作品です。夫婦で見るなら、仲が良い間はいい作品だと思います。実際に不倫をしている場合は、ドキドキするかもしれません。同性の友人と見ると、あまりピンと来ない感じでしょうか。

 シャーリー マクレーン演じる未亡人と娘の家の隣に、ジャック ニコルソン演じる元宇宙飛行士が引っ越してくるという設定です。少々奇抜な話ですが、宇宙飛行士は地球に帰還した後で変になる人が結構いるらしく、その辺にヒントを得てのストーリーかもしれません。

娘は反対を押し切って教員と結婚しますが、結局はあまり幸せとは言えない結果に終わるようです。それでも精一杯生きる姿に同情します。主演の2人以外にも、この娘役と、その他の脇役(ダニー デビートまで出てます)達も芸達者で、自然に近い感じで演じられています。シャーリー マクレーンのほうがかえって浮いてる感じがするくらいです。色んなエピソードが適度に散りばめられているので退屈しません。

ジャック ニコルソンは、この作品のカギとなる役割を充分はたしていると思います。下品でセクシー、酔っ払いで英雄という雰囲気がよく出ています。他の俳優で代わりになれそうな人は思い浮かびません。

浜辺で車から吹っ飛ばされるシーンがあります。アクション映画なら何でもないシーンですが、この作品では印象的なアクセントになっています。結局はこの役も脇役で、ストーリーに彩りを与えるための存在なのでしょうが、この強烈な個性がない場合を想像すると、薄っぺらなメロドラマになってしまうような気がします。

難点は、まずタイトルです。ありきたり過ぎると思います。主演のシャーリー マクレーンは、私は最高に適役とは思いません。演技は下手であったとしても、もっと気の強そうな美人の方がこの作品に合うような気がします。

ラスト近くは悲しい場面が待っていますが、後で考えるとベタベタした感じではなく、実際の病院の状況そのままです。悲しいけど人生ってそんなものさというヨーロッパの映画みたいなタッチで描かれていたことに気がつきました。非常に良く出来た作品だと思います。

2006年9月22日

アリー マイ ラブ

アリー マイ ラブ シリーズ1

 監督 知らない人 主演 キャリスタ フロックハート

 テレビシリーズです。 最近まで放送されていましたので、ご存知の方も多いと思います。最初のシリーズの第一話は、主人公がセクハラを受けて学友の弁護士事務所に転がり込むところから始まります。その事務所には、分かれたけれど今も未練たっぷりの元恋人がいて、しかもその元恋人の奥さんが弁護士で、よく事務所に現れては何かとアリーに疑いの眼差しを、、、という具合に、トラブル続きのおかしな生活が描かれています。

 この作品は、たまに濃厚なラブシーンや下ネタジョークが織り込まれるので、子供にはあまり良くないかも知れません。クライアントの案件も、売春がらみや、そんなのあり?という異常なものも多いので、その点でも基本的には大人の番組だと思います。恋人と見るのは、結構盛り上がるかもしれません。女友達と見ると最高ではないかと思います。

 このシリーズの優れた点は、主人公のおかれたシチュエーションの面白さと、脇役たちの実に個性あふれた顔ぶれ、それと織り込まれる歌、CGも使っての感情表現にあると思います。とにかく登場人物でまともなやつは、ほとんどいないのです。最高に変わっているのは、「ゴースト バスターズ2」にも出ていたピーター マクニコルです。同僚として登場しますが、常識離れしているが法律の能力だけは一流という感じがいかにも出ています。鼻糞をつまらせてピーピー鼻を鳴らしたり、その鼻糞を取った手で依頼人の手を握ったりするシーンもあって笑わせます。

 実はこのシリーズは、英語の教材として知りました。私はテレビでは見ていません。アメリカでは日常的に使われるらしい法律関係の用語、依頼人に対してのpolite な表現、いさかいの相手への汚い言葉が上手に使い分けられているので、教材に向くのだそうです。DVDを使って、実際に話している英語を読んでみると、スピードが速いのと、法律用語がさっぱり分からないのと、慣用句かスラングか判別できない言葉が混ざっているので、なかなか理解できません。

 主人公のキャリスタ フロックハートは、あのハリソン フォードおじさんの恋人だ(だった?)そうですが、以前にはバード ケージという映画に出ていました。これも困ったシチュエーションに陥ってドタバタする喜劇でした。アリー シリーズとよく似ています。美人ですが、冷たい雰囲気がなく、濃厚なお色気は感じさせないというキャラクターは、このシリーズにぴったりです。脇役達も映画にチョコチョコ出ていて、それに気がつくとこのシリーズを思い出して笑ってしまいます。彼らはもうシリアスな映画には出にくくなっています。

 ビデオ屋さんに行くと、10年分くらいのシリーズがズラリと並んでいますが、後半の方は脇役たちの方が中心になっている話もあり、アリーの魅力で売っていた最初のシリーズとは様相が変わっているようです。私はシリーズの最初の方をお勧めします。

 自分はアリーほどドン詰まりではないと思いますが、職場でも家庭でもそんなにうまくいってないなあと考えると、もしかすると他人から見れば自分もアリーに近い点で笑えるかもねと、ちょっと気になります。それにイライラしている時は、アリーじゃないですけど道でぶつかりそうになった人にも、「どこ見てんだ、このボケ。」などと、心の中では言っています。ただ、アリーのように法律用語を持ち出してとっちめたりしないだけです。だからアリーが実際に行動してしまうと、「ありゃ~、やっちゃったよ~。」という後悔の念が他人事でなく感じられます。そこも人気の理由のひとつでしょうか。

 それにしても、あんな職場と、あんなバーがあったら、さぞ楽しいでしょう。あこがれます。

2006年9月18日

アビス

 監督 ジェームズ キャメロン  主演 エド ハリス、 メアリー エリザベス マストラントニオ

 アビス 深淵を意味する言葉だそうです。 深海の冒険物に止まらない、ファンタジー、恋愛の要素をも持つ傑作と思います。 監督は、この映画に前後してターミネーター2を撮っていますが、その時の形状記憶合金の動きと、この映画のムニュムニュした水の動きが同じで、見どころのひとつになっています。

 もうひとつの見どころは、深海で遭遇する生き物と乗り物です。ラストでこの生物が「びっくりするぞ。」と言いますが、お言葉通りに私はビックリしてしまいました。

 さらに見どころは、主人公が相手役のマストラントニオを蘇生させようとするシーンです。 心臓マッサージを必死にやるんだけど、反応がない。 仲間はあきらめようと言うけど、もういちどトライしてみるシーンは、私は医者ですから現実に当事者になる場面なので見入ってしまいます。でも蘇生の手技は、正しくありませんでした。

 私と、私の妻が同じような境遇になったらと考えてみましたが、

①妻がこの2人のアイディアを了解せず、自分だけ潜水服を着けてハイ、サヨナラする可能性が高いこと 

②仮に私が潜水服をつけてもキスなんかしないで、妻は私からマスクを奪い取ろうと暴れて2人とも死んでしまう可能性が高いこと

③もし、うまく私が彼女を連れて帰ってきても、その前のバトルで嫌気がさして、この主人公ほど蘇生に心がこもらない可能性があること 等を考えました。 生き残るためには、愛が必要であることを、この映画で学んじゃったりして。はは。いや、笑いごっちゃない。

 この映画の撮影は、大きな石油タンクを借りてやったそうですが、実際に海で撮影すると、ここまでの静けさ、怖さは表現できなかったような気がします。深海に落ちていく場面では、底なしの雰囲気がよく出ていて、数十メートルの深さのタンクで撮影したようには見えませんでした。

 恋人といっしょに見ると、2人で感動して盛り上がるシーンもありますし、適度にスリルとファンタジーも楽しめますし最高です。家族で見るのもいいでしょう。ただし、潜水艦の中で死体が浮かんでいるシーンは、小さい子には少しショックがあるかもしれません。

 私の奥さんにも見せると、どう反応するでしょうか? 「もしものために自分だけはマスクを確保しとこうっ。」と、買いに行くかもしれません。

2006年9月17日

アイランド

 「アイランド」。

監督 誰か? 主演 ユアン マクレガー、スカーレット ヨハンソン

 この映画はとにかくきれいな映像だなというのが第一印象。主人公の男女達が収容されている施設が、白を基調にして清潔感あふれるためでしょう。

 主演のユアン マクレガーは、私は特別うまいとは思わないのですが、大作によく出演してますので人気があるんでしょう。 相方のスカーレット ヨハンソンはすごい美人ですが、このような映画においては主演が美人でないと話になりません。 ブスだと、助かって欲しいと思いませんもん。 容姿で差別しちゃいけないんですけど、映画ならしょうがありません。 仮に山田花子が出演してたら、「さっさと死んじまえ! それも思い切りぶざまに。」と、思ってしまうかもしれません。

 ストーリーも古典的といえます。悪く言えば斬新さに欠けます。漫画か何かで何度か見たような気がするストーリーです。主人公が、ある日虫を見つけたことから、ふと自分達の境遇に疑問を覚えて、というところから話が動きます。ドンパチやりまくるハードな映画ではありませんが、つかまって殺されそうになって、結構ハラハラする場面もあります。 全体に良くできた映画だと思います。

 ここまで書いて、監督や原作について調べてみようかと思ったのですが、やっぱり止めました。この映画はよくできた映画ですが、感動するような作品ではないので、調べるまでもないような気がします。暇な時に、一人か恋人、友人と見るには良い時間つぶしになる上質の作品です。好ましくはないかも知れませんが、子供にも見せられると思います。

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