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2016年11月10日

サピエンス全史 (2016)

- 文明の構造と人類の幸福  -

イスラエルの学者、ユバル・ノア・ハラリ氏の著書。宗教や国籍、政治的主義によらない自由な視点で、人類の歴史を見直した内容。シニカルな表現、クールな分析が目立つ。文章は、とても読みやすい、内容も簡単とは言えない。一部は難解な表現もあると思う。

内容は、かなりの部分が他の学者達の本にも書かれていたように感じた。著しく独自性のある内容は少ないだろう。劇場主の観点だって似たようなものだ。空想めいた分析なら、劇場主にもできる。だが、なかなか通史を書こうとは思えない。人類の歴史全体を通して見直そう、再評価しようという努力、その姿勢に感服する。学者が時間をかけて調べ、宗教的な視点を考え直し、国家主義的価値基準の残像を取り除かないとできないこと。普通の人間では難しい仕事だろう。

誤った価値判断、根拠の薄い信用の形成、そんなものが人類の歴史に大きく関わっていたことは、半ば常識ではあったものの、この本ほど端的にそれを語った著作はないのでは?語る人間にもよるのかも知れない。語る人間が勘違いしていると思われたら、もう誰も読んではくれない。信頼されるための条件が必要。イスラエルの学者なら可能性あり。でも日本人の言葉は負け犬の遠吠えに聞こえてしまう。人類通史は書けないと、日本の知識人は感じているだろう。書くだけ無駄。内容のレベルにかかわらず、勝っている集団だけが説得力ある文章を書ける、そんな傾向はある。

多くの点で劇場主は作者と同感だったが、劇場主だって勘違いは多い。日本の国家の利益、国民の利益を他より優先して考える傾向がある。つまり、日本の強欲によってなされたことは仕方ないこと、日本に向けられた強欲は許しがたい、そんな感情がついつい起こる。国家単位の思想から抜けていない。考える時くらいは、国家的史観から抜け出したいものだ。

似たような文明批評家のジャレド・ダイアモンド氏も、宗教や主義的なプロパガンダを除外して批評する姿勢があって、この本と視点が似ていた。より考察の範囲を広げ、歴史全体を通じる一貫性を見いだす方向性が少し違う。しかしジャレド氏のほうが、本の内容の点では本当の学者らしいようにも思える。

学問的でないと感じた部分は、たとえばユバル氏によれば、農耕が始まったことで生活レベルが下がったように書いてあったが、これは強調しすぎだろう。通常は農耕によって食料が安定的に確保できる可能性が高まり、少なくとも平均摂取カロリーは増えたと考えられる。貯蔵された農産物が、それを可能にしたはず。相対的に炭水化物に偏った食事になったかも知れないが、人口を養える可能性が出たことで、狩猟時代より良い面が多かったと思う。狩猟ばかりでは人類は繁栄しない。バランスも大事だが、よりカロリーが大事。

狩猟時代は、食生活で雑多な物を食べられたというより、そうせざるをえなかったと考えられる。食べられる物で食いつないでいただけで、安定的に食料を確保できたかどうかは怪しい。おそらく季節変動を受けやすかったはずだし、カロリー不足による様々な弊害、狩猟中の事故も多かったに違いない。農業革命は、良い面が多い。それが普通の認識だ。農耕民族だからそう思うのかも知れないが。

ただし、勘違いを強調して考えてみる姿勢には賛同したい。劇場主だけじゃなく、過去の歴史家の多くは視点が偏っていた。古代の歴史を追っている時、英雄礼賛に偏った分析がなされる傾向があった。古代ローマの歴史が、その代表。効率の良い軍事組織があったからというのが、ローマが栄えた理由という理屈。でも例えばポエニ戦争の当時、ローマ周辺の都市がハンニバルになびかなかったのは、ローマのほうをより信頼したからだろうが、その信頼は、勘違いであった可能性がある。勘違いが力の元だったかも知れない。

認識や精神面のことを、実感として、あたかも当時の人々のように共感して感じるまでの解説は今までなかった。この本でも、そこに到達しきれていないかも知れない。だが、当時の人々はなんらかの勘違いをして、過剰な信頼の下に団結したり、無謀な勇ましさで戦っていたのだろう・・・そんな視点も理解のためには必要。

勘違いという表現は、古来の人々への敬意に欠ける言葉かも知れない。独特な認識の方向性とでも言い直すべきか?間違ったかどうかなど、誰にも判断できるものではない。かっての帝国主義の時代に、国粋主義者が命をかけて信じた価値観は、結果的には間違っていて無意味で有害だったかも知れない。でも、だから彼らを非難すべきものではないように思う。

この本は優れた本と思う。しかし、歴史的な価値が生じる書物だろうか?たとえば‘国富論’は意味が大きい本だろうが、それは本が資本主義的手法の根拠になり、それによって利益を得る人が多数いたからだろう。この本の視点は、利益を生むだろうか?むしろ無視して強欲に身をゆだねたほうが得しないか?いかに内容が正しかろうと、利益につながらないと、ただの分析に終わる。

教養として読むには良い本。でも問題点としては、世の中に錯覚、勘違いが蔓延しているという、まさにその点。たとえば、いざ宗教的過激派と論争になったら、この本は宗教裁判にかけられそうな内容。うかつに本を支持すると言わないほうが身のためだ。国家主義者、資本主義者、あらゆる人達から集中攻撃を浴び、いっぽうで支持者達はほんのりと支持してくれるだけ、誰も狂信的にこの本を支援してくれない、だって狂信するなと書いてる・・・そんな運命の本でもある。

また実社会では、凝り固まった主義を持つ人のほうが成功しやすい。条件反射的な対応ができるし、無駄に悩まないからだ。有名な人間は、多くの場合が勘違いに満ちていないだろうか?一般に、支配的な人々は、この本を心から支持してはくれないはず。彼らの利益に反する内容だから。しかし、非支配勢力の間では支持を得ることができる。キリスト教がローマ帝国内に拡がったように、弾圧は被るだろうけど拡がりうる。今は昔と違って無記名の投票というシステムがある。票を集めることによって主流派にだってなりうる。

ただし、社会の潮流がこの本の認識によるようになったとして、それで社会が上手く運営されるとは限らない。資本主義は幻想じみたシステムだろうが、それで金が流れて経済が回っているし、国も宗教も、それなりの役割は果たしている。役人は一般に勘違いが多い連中だが、役人なしで自治体は運営できない。それに、株式会社の全部が間違った存在だといえど、営業停止というわけにもいかないのではないか?会社が存続するのなら、勘違いは生き残る。そうなると、この本の価値も限定的にならないだろうか?

 

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