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2016年9月 5日

ブリッジ・オブ・スパイ(2015)

Fox


- 不屈は難しい -

冷戦時代が舞台。主人公はソ連のスパイを弁護する。世間から冷たい視線を浴びながら仕事をした主人公に、スパイ交換の交渉人の依頼が・・・・

・・・・実話に基づくという。静かなテーマで、大ヒットを狙える作品ではないが、スター俳優とスター監督が作っているから、それなりの理由があるに違いない。スピルバーグ監督は、そう言えば最近は戦争映画ばかり作っているようなイメージがあるが、何か特殊な興味の偏りがあるのか、あるいは政府から求められているのか?

監督はオーディションの際にセクハラをかましたりする人物だというし、読書障害もあるというから、何か弱みを握られて政府機関の注文通りに宣伝映画を作ることを強要されてはいないか?邪推に過ぎないだろうが、あまりにも旧式の映画が多くなっており、不自然な印象を受ける。

健全な精神に基づく作風。愛国心や家族への愛情、友情、責任感、そんなものが物語を彩っている。激しいアクションやお色気の路線ではない。したがって、若者達にはそっぽを向かれる運命にあるのではないか?デート中にこんな映画を観るのは、おそらく米軍関係者だけだろう。

ソ連のスパイ役が素晴らしかった。マーク・ライランスという俳優らしい。強い意志、信念に基づく人間であること、冷静沈着な態度などが実によく分かった。助演賞を取ったのもうなずける。彼を、いわばヒーローのように描いたことで、この作品のレベルは上がったと思う。彼が子供の頃の体験を話すことが、やがて主人公の評価にそのままつながる流れが良かった。つまり脚本がよかったということだ。

主人公のドノヴァン弁護士には敬意を表したい。劇場主は、とても真似できそうにない。彼は実際に不屈の意志を持ち、仕事に誇りを持ち、義務を果たし、法に忠実で周囲の圧力に対抗しうる人物だったようだ。彼だけではなく、彼のような存在に力を与え、行動を可能にしうる米国社会も、優れた部分を持っていると思う。

米国といえど、無茶な勢力はたくさんあって、それこそ主人公の家に発砲してくる連中も本当にいただろう。多種多様な意見の混在ぶり、乱暴ぶりは日本よりもずっと激しいと思う。でも、住民全体が団結して主人公を圧迫し、彼の権利を停止したりはしていない。権利に関するセンスを持つ人も多い。彼に圧力をはねのける力があったことも理由だろうが、彼は最低限は保護されていた。

日本では、権力者に反抗したような場合は簡単に保護が失われる。職場はクビ、クビにする権利があろうとなかろうとクビ。家庭では離婚の上に慰謝料を請求され、彼は反論すら許されない。兄弟は連絡不能、友人は率先して彼を排斥、近所は石を投げてくる、マスコミと暴力団が協力して攻撃といった四面楚歌状態に陥る。警察も裁判所も、法をいじくり回して彼への協力を拒み、それでも仕方ないのよといった顔をする。そんなことも充分に起こりうる。

歴史的なものが違うのかも知れない。米国の場合、主人公も言っていたが、雑多な人種、宗教が混在した米国をまとめているのは法の支配である。法に反した行動は、米国の誇りを損なう。いっぽう、日本で法の支配というと、法を楯にした権力者(実は無法者に近い)に支配されるという歴史認識が優勢なので、良いイメージを持ちにくい。過剰に縛られるもの、国民を支配する目的のものという法へのイメージがある。

政権側も同じ認識を持っている。閣議決定で何でもやっちゃおうと考える。認識が同じなのは良いこと・・・・・の、はずがない。

経済的なものも違うはず。クビになっても、なんらかの資産か収入が得られ、生きてはいけると判断できたら、自分の信条にこだわることもできる。こだわれば生命の危機、経済的にも持続困難、援助は全く期待できないなら、いかに優れた信条でも捨てないと仕方ない。彼には資産があったのでは?

日本も国際社会の中では国内法、国際法と条約に従って行動せざるを得ない。中国のように強大な国力を持つなら、国際法を無視することも可能だろうが、日本の場合に勝手は無理。猛烈な圧力、実際の力の行使もあって、酷い目に遭うことも増えるだろう。そこで不屈の意志を持って行動できるか、そこが問われているということ。

 

 

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