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2016年8月21日

日本会議の研究(2016)・その二

- 扶桑社・菅野完 -

この本に対して、日本会議側は批判しているらしい。もしかすると、この本は本当に虚偽の内容かも知れない。したがって、これは現時点での感想文である。実態は知りようがないと思う。

この本は日本会議を分析する内容で、多くの批判が含まれていた。著者は自分のことを保守側の人間だと述べていたが、保守にもいろいろあり、日本古来の保守的穏健勢力があれば、明治維新以降の新しい神道、皇道勢力もあり、その中でも穏健派や過激派と、様々あるようだ。互いに批判的になるのも当然だろう。

「京都ぎらい」(朝日新書・井上章一)に書かれていたが、宗教に関わる勢力にも色々あって、敵側まで鎮魂する神社・寺院があれば、味方だけしか祭らない、例えば明治の最高の功労者である元君西郷であっても反乱者だから祭らないという神社もある。情念部分の違いは、各々の勢力の行動に関わるようだ。情動は、人の判断の方向性、生き方に関与するものと思う。

「西郷をどう評価?」→「功労者だが反乱者」→「反乱者は許さない」→「功労は無視」・・・そんな思考パターンがあれば、「第一の功労者」→「無私無欲の反乱」→「敵も味方も同じ国民」→「ともに称えよう」・・・そんなパターンもありうる。情念と理屈が作用して、同じ事象に対し、頭の中での評価が正反対になることがある。おそらく、そのようなことが起こっているのだろう。

仲間以外を冷遇したがる勢力は、昔からいたはず。動物本来の、生き残りのための感覚かも知れない。学校のクラス内部や会社内部の人間関係を思うと、グループに別れて互いに険悪な関係になる場合があるが、あれはグループにいる安心感や、味方への縛り、敵への恐怖などが関係する情動的現象のようだ。ときに派閥争いが組織全体の成果を台無しにする場合があっても、争いに熱中してしまう。

情動以外にも、‘反省’に対する感覚の違いが重要かも知れない。どの団体、どんな主義主張であるかにかかわらず、宗教や主義を根拠として人を鼓舞し、過剰に管理し、悲惨な運命をもたらした場合は、できれば結果を認め、反省すべきと考える。もちろん数十年以上前のこと、例えば大戦中の行状で私たちの世代が責任を問われても、生まれてない時代のことで如何ともしがたい。これは土下座しろ、賠償せよといった意味の反省ではない。

‘反省’にも、いろんなニュアンスがある。反省=謝罪だと、謝罪は絶対に嫌だ!→ 反省も嫌だとなる。このような単一のニュアンスしか理解できないと、態度が強硬になる。・・・そう言えば、平成28年度の戦没者慰霊祭で、天皇陛下は反省のお言葉を述べられたが、無視した政治家もいた。誤訳されて謝罪を要求されたくなかったのかも知れないが、陛下をどう思っているのか、疑問に思える態度ではある。戦前の青年将校と共通する態度。

反省を毛嫌いする人は多い。反省は敗北、弱い立場、弱気を連想させる。だが反省を伴う正確な分析は、我々を強くするためには必要で、道を間違えないため、判断を曇らせず、失敗しないことを目標としてやるもの。謝るための反省ではなく、過去の失敗を把握しているかどうか、その意味での反省を経た思考パターンは、考えのレベルに直結する。都合の良い分析だけでは、低レベルの戦略につながる。

ところが宗教や主義の世界は、まず思考の第一に教義を信じるもので、基本的には理屈抜き。まして教義に関わることを反省するなど、最初から思考の範囲外だろう。いっぽう、国民の運命が関わる問題では純粋に戦略に則って考えないといけない。よって自ずと宗教の影響を排除すべきと決まってくるはずだが、教義が第一と考える人が、そうですかと身をひいたりはしない。

教義第一の人物、あるいは自分の人生での勝利が第一、結果に責任を認める気などない人なら、身を引くことに納得するはずがない。子供の喧嘩で、口を尖らせながら言い合う姿を思い出せば、予想がつく。子供は口喧嘩に勝つことが第一で、正しい正しくないは関係ない。激論に持ち込んで、その場を支配することしか考えない。

結果を認め身を引くこと=自分の敗北、権威失墜を意味するから、当然そうなる。これも自然な成り行きだろう。譲ることを知らない強硬な人は目立つから、指導的立場に立ちやすい。でも、いかに強い態度で、どれだけ理路整然としていても、そんな人物は信用できない。そして、この種の人間の説得は難しいので、大事な判断をする責任者は、彼らの取り扱いに用心する必要がある。もちろん、責任者自身が彼らのようになってはいけない。

国民の運命は、常に厳しく圧力をかける外敵に振り回されている。残念ながら、宗教や主義的な判断が入り込むスペースは、ほとんどない。厳しい世界を生き抜くためには、クールな現状分析と効率的な対処を繰り返すしかない。したがって、宗教関係者は基本的に政治の世界からは引っ込むべき。現行憲法は、その意味で国民を守る内容と評価する。

もし宗教家が国を愛するならば、己の分をわきまえ、必要に応じて政治から距離を置くのが本道。多くの宗教団体は、そうしていると思う。右翼も左翼も同じ。極端な政治信条で、大事な政治判断を曇らせてはならない。宗教や主義主張を捨てる必要は全くないが、政治家と利益を融通し合ったり、選挙の際に票をとりまとめたりは、国家の行く末を危うくするだけで、結果的に教義をも逸脱する。

どのように真摯で純粋な考えがあろうと、国民や皇室を、再び危険にさらして欲しくない。

会議は今後、発展するだろうか?国内では、さらに支配的になりうる。中国が圧力をかけてくると、国内の状況もエスカレートするだろう。でも、キリスト教国やイスラム圏で勢力を伸ばすのは非現実的。米国の利益を侵害しないなら生き残ってはいけるが、勢力は国内に留まると思う。そうなると、立場は厳しい。国内の支配だけ可能でも、今は鎖国の時代じゃないのだから、海外との利益調整は必ず必要。

リアルな国際舞台において、クールで戦略的な敵を相手にすれば、宗教的な国内と、リアルワールドである国外で態度を変える必要が必ず出る。そうなると、主張の一貫性を維持できない。矛盾が表面化し、破綻、あるいは過激化、分裂が予想される。戦前がそうだったと思う。

この本を読んで、改めて過去にたどった道を連想した。

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