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2016年8月 6日

アルバート氏の人生(2011)

Albert_nobbs

- 女傑登場前 -

ダブリンでホテルに勤務するアルバート氏は、男装の女性。彼女は秘密を隠しながら、事業を始める計画を練っていた。計画のために若いメイドを誘うが、彼女には恋人がいて邪魔される・・・・

・・・・DVDで鑑賞。女性が男装して何かの目的を果たそうとする作品は多い。逆もそうだ。異性を演じようとすると、それを知っている観客には滑稽に写るし、いつか秘密がバレないかとハラハラするのが普通なんで、そのハラハラ感で物語が盛り上がりやすい傾向がある。

この作品は、そんな男装物語の中ではかなり異質で、笑いの要素がほとんどない。一貫して静かで、悲劇的な調子に終始していて、単調と言えばそう。ハラハラすることを目標にはしていなかったようで、安っぽい緊迫感がウリになった物語ではなく、真摯に女性の境遇を描き、その権利に目を向けようという目的があったように感じる。

でもヒロインのグレン・グロースの男装は、体格の関係か今ひとつの印象を受けた。もう少し大柄の女優のほうがリアリティが出たはずだ。顔だけとれば元々フェミニンではないので、適役だったのかも知れないが、動きが写り、他の俳優との体格差がはっきり分かる映画の場合は、ガタイも重要。ただし具体的に誰が好適な俳優と挙げることはできない。

この役は、意外に男優が演じても面白かったかも知れない。細身で美しい顔の俳優なら可能だと思う。あちらには実際にホモセクシャルだったり、性的な嗜好が独特の人は多いから、たぶん凄い才能の人がいたと思う。有名女優に演じてもらう必要はない。女形が演じることで、表現が派手になることは可能では?

悪役でアーロン・テイラー=ジョンソンが出演し、非常に好演していた。アメリカに脱出せざるをえない境遇や、メイドに悪だくみを命じる思考過程が実に自然に演じられていた。彼は「アンナ・カレーニナ」でもジゴロ的な役を演じていたから、はまり役なんだろう。メイド役のミア・ワシコウスカも、素朴で痛々しい雰囲気がよく出ていた。この役は絶世の美人が演じる必要はなく、お色気が濃厚である必要もないが、庶民的な感じや飾り気の少ない印象がないといけない。よく彼女を選んできたと感心した。

ストーリーとしては、もう少し激しさがあっても良くなかったかと思えた。対決、裏切り、騙し合いなどがあったほうがハラハラするはず。そこを懸命に乗り越えようとする主人公の姿に、我々は共感するものだと思う。成功するか、失敗するか最初から分かっているような話は、感情移入が難しくなる。もっとトラブルが多いほうが良かった。

この当時のアイルランドの状況はよく知らない。少なくとも経済的には好調だったはずはない。英国の支配があって、地域社会として破綻に近い状態で、絶えずテロと権力の対決が蔓延し、希望はアメリカに行かないと掴めない、そんな状況ではなかったかと想像する。でも、ホテル内部を子供が自由に歩けるということは、IRAが活躍してない時代もあったのだろうか?

映画で出てくる子爵連中は当然イギリス人であろう。何をするためにダブリンに来ているのか知らないが、あまり仕事はやってなくて、資産で生活できている人種らしい。農場をアイルランドに持っていたということだろうか?大戦後には没落した人達もいたのだろうが、当時は階級が固定し、格差が激しかったろう。

しかも、女性の権利も酷く侵害されていたようだ。まさか本当に男装が一般的だったはずはないけれど、待遇は戦前の日本よりも酷いように感じた。同時代の日本でも、独身女性が一人で生きていくのは大変だったはずだが、店を営む女傑はいたはず。男装も現実的ではない。あくまで物語だけの話。事業主でない女中、奉公人には、いちおう生計が独立した女性もたくさんいただろう。

北アイルランドは歴史の中心ではなかったので、歴史をよく読んだことがない。いちおう法治国家だったろうが、参政権は資産家にしかなかったのだろうか?ほとんどは英国出身の企業関係者、ごく一部は現地のエリートだろうか?進んでいたはずの欧州でも、参政権は意外に限定されていたらしいから、現地の女性の権利は酷い状況だったろう。

気づかないうちに、自分も女性の権利を侵害しているのかも知れない。権利に関する感覚は、時期によって凄く変わるものだ。子供の頃の感覚は、もしかすると戦前には一般的だったが、今では時代遅れのものかも知れない。我が家の家内が寝っ転がっていると腹が立つが、その感覚のどこかに女性蔑視が含まれているかも知れない。そんなことはない、性に関係なく、人間として怠惰を怒ると自分では思っていても、客観的にどうかは分からない。

平成28年7月31日に、小池百合子氏が都知事に決まった。立候補した後、石原元知事が、彼女のことを「厚化粧」と皮肉ったらしい。石原氏は放言癖の激しい人間ではあるが、何を言っても許されるわけではない。あれは、おそらく皆から諦められている特殊な存在。だから、気にする価値もないのだが、公的な場所で許される発言ではない。そこを許してしまう勢力は、やはり時代錯誤の連中なんだろう。

いかに都民のため、国家のため行動すると彼らが言おうとも、時代錯誤の認識に基づく人間のこと。言葉の解釈、発現の意味合いは、違う認識に基づくと考えたほうが良い。言葉通りでは通用しない。何か崇高な提案があろうと、それは彼らの欲の発現ができた上でという条件付きであって、違う認識から発する言葉に信用、信頼はおけないと、如実に表れている。

小池氏は人生を戦い抜いてきた女傑だから、彼らとも上手くやって行けそうな気はする。でも、選挙のしこりは、相当残っているはず。手打ちのような交渉が必要だろう。都連の大物が小池氏に頭を下げて引退すれば、形として分かりやすく、スッキリすると思う。

都には渦巻く利権があるらしい。小池氏は、それにメスを入れると述べたらしいが、本当にやると大変な騒動が起こるだろう。味方が多ければ、敵を作って抵抗勢力に仕立て、都議選で一気に勝負をつける手法も可能かも知れない。でも、それは本当の改革にならない。小泉氏の改革がそうだった。派手だけど、その意義は結局のところ、大したことなかったように思う。

 

 

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