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2016年6月16日

ペイル・ライダー(1985)

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- 孤高もいろいろ -

金の採掘をめぐって脅迫を受けていた村に、蒼い馬に乗った男がやってきた。彼は村人の独立のために協力するが、いよいよ対決の時、彼はガンマン達に一人で立ちむかうことになる・・・・

・・・6月14日、衛星放送で鑑賞。「シェーン」「真昼の決闘」などと同じようなストーリー。孤高のヒーローが戦い、去って行くまでを美しく描いていた。過去の名作との違いの第一は、カメラの性能だろう。非常に美しい風景をバックに、前面の人間達の姿も実に明瞭に記録され、ビジュアルに関する進歩が凄い。「シェーン」などは、スタジオ撮影であることが明らかなシーンが多かった。

冒頭で、娘が神に祈る。そして、救世主が登場する。しかも、少女は小説を読みながら、蒼い馬に乗って現れるのは不吉な人物であるという前置きをしてくれる。よく使われる手だが、叙情的な劇では有効な方法と思う。少女らしい空想を表現していたので、あざとい印象は受けなかった。

名作の伝統に従って、美しい作品を作ろうという意識を感じた。出来映えも良かったと思う。ヒロインは若い娘と、その母親も相当するようになっていた。母親のほうは、少々付け足しに近い感じもして、もしかしてもっと美人女優だったら違った味わいが出たのではと、少し惜しい感じもした。

銃撃のシーンはあるし、何度か頭部を撃ち抜く様子がリアルに映し出された。作品の全編が血みどろの激しい殺戮シーンだらけではないとしても、子供に好ましい映画とは言えないかも知れない。それでも、最近の映画よりは大人しいと思うけど。

主人公が別れを惜しんでいることが明らかだったのは「シェーン」のパターン。この作品も、おそらくはそうかな?という雰囲気は漂っていたが、観客全員がそう思えるほど明確に表現されてはいなかった。そこで、主人公の境遇に同情することが難しくなってしまったかも知れない。

よき脇役が多数いた。村の真面目な男は、雰囲気からして真面目そうな印象がよく出ていた。彼がラスト近くで活躍してくれたことも、話の流れから考えて正解だった。主人公ばかり活躍しても、ちょっと味気ない面があるから。

雇われた保安官役は、銃を抜くのが遅すぎなかったか?あれならクリント・イーストウッドでなくても倒してしまいそうだ。でも、顔は素晴らしい悪役ぶりだった。

金塊を見つけて町に繰り出す人物も印象深い。劇場主は、かってこの作品を観たことがあったのだが、覚えていたのは、この男だけだった。金塊を持ったまま酔っ払って、敵の首領に毒づくシーンは、次がどうなるか容易に予想できるし、ひょうきん者の最後はなにか哀れさが違うので、効果的だったと思う。

懐かしいリチャード・キールも出演していた。ちょっと存在意義に欠けていたようには感じたが・・・・・

強大な敵に対し、孤高の人物が単独で立ち向かう姿は心を打つ。恐怖を感じないはずはない。それでも勇敢に戦う人と、自分には関係ないと協力を拒む人と、見ていて共感できるのは当然前者のほうだが、でも実際には周囲の流れに従って遠巻きに見てしまいがちなのが現実。

今、最も孤独な立場は・・・舛添氏だろうか?

6月中旬までの舛添知事の辞任劇は、ニュースバラエティの大半の時間を占めてしまうので、嫌気がさしていた。地震関連の話題より面白いからだろうか、各局とも長時間にわたってコメンテイターが繰り返し批判し、氏はサンドバック状態だった。確かに報道の通りなら、人物的に氏は信用ならないと思う。

東京都民でないからかも知れないが、この問題にあまり興味を持てない。氏が起訴されそうなら辞職は必要だろう。違法が証明されたら辞職は必須。でも、法に欠陥があって違法性が曖昧な場合は、法治国家においては勢いまかせに辞任させられない。法治国家とは、そんなものじゃない。「信頼できないから一時も許せない、即刻辞任せよ。」というのは、幼子の理屈。違法性か公約違反を証明できないといけない。

首長を選ぶのは基本的には選挙であるべきで、辞任は違法性や公約違反が明白な場合に限るべき。主要会派の意向が辞任の要求であっても、恣意的な圧力で事が決しないようにしないといけない。正式な手続きは、選挙だけである。たとえば昭和の青年将校が声高に何か言った場合、その勢いに負けていいだろうか?圧力行為の結果を忘れたのか?いかな内容でも、圧力で事を進めるのは好ましくない。

クズ人間の首長なら、次の選挙で落として欲しいと思う。しかし違法行為がない場合は、いかにクズであっても辞任を要求して良いとは言えない。選んでしまった選挙民に責任がある。主要会派の談合より民主的な手続きを大事に考えるほうが、歴史的なセンスに従えばより重要。

冷静に考えるのもバカバカしい例だと思う。実際、舛添氏が辞任せず頑張っても、議会を解散して再度辞職勧告決議が通るだけ、時間の無駄は明らか。辞任すべきだった。でも感情任せで手続きをスルーし、都政の混乱を際立たせて良いとは思えない。問題行為をやった氏が最悪なんだが、議会にも報道機関にも問題がないわけじゃない。

都民の意向を議会がおもんばかって、辞任勧告決議案が提出される方向が決まっていたと聞くが、彼を支持してきた運動家達も政党も、同時に責任をとるほうが正しい。支援者は舛添氏の本性を知らなかったはずだが、それでも責任はある。支持するという判断に責任を持つべきだ。

無責任はいけない。一人だけを犠牲にするのは、この映画の村人達を連想する。理想を言うなら、氏を支援した議員が辞職願をそろって提出し、自らの責任を認めるべき。氏を支援したなら辞職するのが筋であり、支援団体も自民公明の都議連も解散、ついでに議会も知事選も再選挙・・・・うわああ、責任を取るって大変だ。そこまでやると、いよいよ都政が無茶苦茶になってしまうww。

こういう例を見ると、議員連盟単位で誰かを支援するのは禁止すべきだろうと思う。本来、行政府の長たる知事は、立法機関の都議会からすれば敵~競合関係であるべき。支援するなんて、おかしい。議事運営の融通を優先し、根本を忘れていないか?

 

 

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