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2016年2月 3日

マン・オン・ザ・ムーン(1999)

- 偽善への嫌悪 -

アンディ・カウフマンというコメディアンの伝記映画。ジム・キャリーが主人公を演じている。同名の歌があるそうで、そこから映画のタイトルもとられたのだろうか?DVDで鑑賞。

カウフマンの人物像に迫るという真面目な路線ではなかった。冗談や演技を抜きにした彼の心情がほとんど出てこないと、話としての奥行きはないことになる。彼の仮面の奥を、もっと描いて欲しかったと思う。描く人物は破天覧でよいが、描き方には原則がある。

売れない時代もあったはずと思うのだが、作品で描かれたように、苦には感じていなかったのだろうか?修業時代などがなかったのか?それがないと、観客が彼に共感することが難しい。作り手の視点に問題があったと考えられる。

この作品は子供には全く向いていない。ギャグが常識を逸脱している。影響を受けたらロクなことはないような、そんな人物像が描かれているからだ。もともとカウフマンのギャグがそうだったのだろうが、描き方にも問題があったように思える。恋人と観る作品としても、勧められるとは思えない。

当時、同時代でテレビを観ていた人なら、思い出して笑う作品として推奨・・・推奨という表現は適切ではないような気もするが・・・される作品。芸人の中では非常に評価が高い作品かも知れない。新しい笑いを追及している芸人達には、過激でシュールな彼の芸風は受けるだろうと思う。

ただし、この作品は興行的には惨敗だったようだ。そこがいかにも、彼の物語らしく、この作品らしいと思う。

カウフマンは芸人に該当するようだが、過激な芸風が特徴だったらしく、演技なのか真剣な話なのかが曖昧なまま、きわどい騒ぎを続けたらしい。テレビや劇場を悪ふざけの道具として楽しむかのような、妙な精神興奮状態を感じる。ヤク中のような雰囲気がする。

ジム・キャリーも非常に派手な演技を特徴とする俳優だが、カウフマンは彼の先輩にあたると言えるかも知れない。顔や体の芸というより、通常なら公衆の面前で言えないような顰蹙ものの表現を、制限もなくやってしまうのを芸にするという、常識破りの路線が売りだったようだ。

劇場主も常識破りのギャグが好きだ。時々場をわきまえずにやらかして、後で後悔している。カウフマンも一時期はアル中でヤク中だったらしいが、劇場主も高校から大学にかけてはアル中に近い状態だった。中毒者に共通する、タガが外れた恍惚感、自由を好んでいたのだろうか?

なんとなく想像するのだが、常識破りがクセのようになっていたのではとも考える。一種の病気のようなもので、上手く運べばアイディアマンだが、間違えれば爪弾きになりやすい個性。画期的なアイディアを生んだ真のパイオニアは、病気に近い個性の人物も多いから、一概に悪いものではないと思う。

悪意を持って詐欺を働く人物や、過剰な欲望のせいで他者を虐げる人物より、カウフマンは良心的な個性と思う。もちろん品性は良くないかも知れないが、行動の目的が犯罪的ではない。その点を忘れてはいけない。紳士的で理性的でも、偽善的な大犯罪者は多い。彼らと比べたら、下品なギャグは許されてしかるべき。

そもそも、破天覧なギャグは、現実社会の偽善や矛盾に着目して発生する例が多い。ビートたけしなどの漫才がそうで、「赤信号皆で渡れば・・・」などは、正しくないが現実的にはよくあること。くそまじめなルールに反抗し、笑っているとも言える。年寄りをお荷物として扱うギャグも同様。おそらく、カウフマンの破天覧さには、偽善への嫌悪感が関係している。

偽善について、最近考えなおすことがあった。偽善に敏感すぎると、別世界(~月世界)の住人のように破天覧になるし、鈍感すぎると人間のクズになりやすい。

劇場主自身も結構な偽善者である。全くのボランティア精神だけで仕事や生活をこなしているわけじゃない。利潤も追求している。偽善について語るには、だから役不足。でも、他者の不利益を前提とした行動は採らない。結果はともかく、基本は利他の精神が自分にはあるから、消極的偽善者と言えるであろう。

ただし、これも微妙なラインだ。偽善を嫌って何かにこだわる場合、それを批判されたりすることに対抗する必要性が生じ、えてして別種の偽善につながることが多い。さらに批判精神が嵩じると、何に対しても皮肉屋になる傾向も出るから、取っつきにくい人物になる。劇場主は、まさにこの袋小路にはまっていると思う。

偽善を嫌う利他の精神は、医療現場では厄介な判断が必要になる場合もある。検査や処置で害が予想されるが、やらないと診断が曖昧な場合、劇場主は患者の利益を優先しすぎて検査を省略することが多いが、出世するタイプの医者は侵襲をためらわない。「私が医学的に必要と思ったからやる。」そんな理屈で、特に問題を感じていない。

研究の場では、ある程度の冒険も必要。でも一般の診療の場で、ためらいのない行為ができるのは、おそらく多くの場合は学問への信奉が過剰すぎるか、何か情緒面で鈍感だったり、自分の功名心、自己実現欲の過剰さ、そんな要因に引っ張られていることもあるはず。

利他の精神でやっていると口では言っても、実は偽善と言える場合も多いのではと、劇場主は彼らの口調や態度から感じていた。そこを指摘すると、彼らは偽善者に典型的な態度で、決まり文句を並べて反論するのだが、どこまで正直に言ってるのか分からない。本人も、自分が正直に言っているか正直な気になっているだけか、分からないのかも知れない。

時々、臨床試験の作為的操作が明らかになって、劇場主の感覚が外れてはいなかったことが分かる場合もあるが、あんな事件は氷山の一角で、作為的行為はいたることろに潜んでいる。ほとんど医者の自己実現の野望、金銭的野心を隠した偽善の元に、医学研究も医療行為も行われている・・・・それも否定できない。

さらにやっかいなのが特に日本人の場合、偽善という言葉は近代の歴史認識に関係する。かっての侵略行為や軍国主義精神は、それをどう理解しているかが問われやすい問題。これは戦勝国から教育や憲法を押しつけられ、他力で理念を変えられてきたからこそ生じた、独特な現象だと思う。伝統的な価値観が偽善に関係したと教育されたら、善悪の判断に、引っかかりが生じてしまう。我が国の弱みを攻撃したい場合は、そこをついてくるのがパターン。

敗戦は古いことだが、影響は残る。人の考え方は、特に深く考える人ほど歴史認識に引っ張られる。古い時代の理想が偽善だったかどうか、それは戦争だけじゃなく、震災や事故、犯罪や何かの失敗も、認識への信頼を揺るがせるので、同じように影響される。固定観念の誤りが分かると、理解のし直しに時間がかかるものだ。自分を指導してくれた言葉に偽善を感じると、立ち位置が分らなくなる。

偽善を良しとしない人は、生理的に過去の偽善を嫌悪するが、えてして嫌悪しすぎて厭世的になったり、精神的に不安定化する。いっぽう、こだわらない人は偽善の有無より、生活の維持や資産形成、業績のほうが第一という考えられる。それも立派な考え方である。それに集中することができるから競争に強くなるし、業績もあがる。生き抜かないと仕方ない。

加えて宗教も、偽善に関する考え方が影響する領域。宗教団体は、組織の論理でヤバイ橋を渡らざるをえない場面もある。キリスト教団だって異教徒を殺し、征服を重ねてきたが、それは宗教の教えとは別の理屈によるもので、かなりの偽善的判断が重ねられたはずだ。宗教家は、偽善と無縁であるはずがない。立派な宗教家ほど、御自身の偽善には目をつぶってくれよと願っているものと考える。

キリスト教、イスラム教の双方に、素晴らしい経典があって、壮大な思想体系が構築されているが、何を偽善と判断し何をそうでないと判断するかには、さほど食い違いはないように思う。微妙な表現の違いがあって、解釈が違ってしまうだけだ。そして、実は宗教本来の対立というより、解釈する双方の宗教家の偽善の隠し合こそが、争いの本体のように感じる。そこに、対立の根深さの理由があるとともに、対立解消の糸口があるのかも知れない。

つまり、宗教宗派同士は何も対立していないことを明示できて、常に宗教家や政治家などの偽善が対立をあおるのだという認識からスタートし、指導者の偽善的見解抜きで意見を調整できれば、あるいは従来とは違った領域で整合できるのではという可能性の話だが、なにしろ激しい宗教、宗派対立の現状を考えると、ひとつの改善策にはなるかも知れない。

あらためて思ったが、偽善の内容を皆が隠すために、偽善の存在の客観的な証明が難しいので、ジョークの題材にはできても、冷静な議論の対象にはなりにくい。常に隠された真の狙いの存在を想定しながら、偽善的会話にもこだわらずに対応しながら(つまり、こちらも偽善と付き合うということになる)、良い方向を探るしかないと思う。

過剰に偽善を取り上げて皮肉ったりする感覚は、できれば避けたほうが身のためだ。偽善とは、付き合うほうが良い。

 

 

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