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2015年8月29日

フランク(2014)

Frank

- マスクと鎧 -

バンドに参加した主人公の前に現れたのは、奇妙な人物フランク。けっして仮面を脱がない。彼の音楽の才能に引っ張られ、バンドはついに音楽祭に出演するが・・・

・・・DVDで鑑賞。かなりマイナーな企画だったらしく、このビデオはツタヤでしか観れないと宣伝されていた。でも、出演者は一流で、マイケル・ファスベンダーやマギー・ギレンホールが熱演。

主役の青年役は、どう見ても堺雅人とそっくり。表情やキャラクターまで共通するものがある。昨今のIT事情だと、堺を参考にキャラクターを練られた可能性だってある。キャラクターのパクリだ!と訴えてよい。

この作品の企画は実にマイナーで、カルト的な路線に徹していた。彼らが何度かステージ上で歌うのだが、ちっとも上手くない。歌詞も意味不明で、完全に常軌を逸している。歌以外も個性的で、全員が異常と言ったほうが早いくらいに個性的な人間の集団。

芸術家をあつかった映画でよくあるパターン。個性を強調するあまり、現実感のない人間関係が作品の基調だったようだ。

脚本家が、モデルとなったコメディアンの‘フランク’と行動を共にしていたらしい。実際のフランクはコメディアンで、仮面を脱げないような人物ではなかったようで、あくまで個性を浮き立たせるために、この作品のような設定にしただけらしいのだが、アイディアとして良かった。

おそらく本国イギリスでは、この作品もカルト的な人気を生んだのでは?オリジナルのフランクのアイディアも良かったが、それを使って障害者のミュージシャンとするアイディアも良かった。

面白いと言えば面白かった。登場人物が個性的だったからだ。でも、現実味をもう少し出したほうが、観客の感情に訴える力は大きかったのではないかと思う。こだわった映画はよく失敗する。観客の嗜好に従いすぎるのも飽きられる元だが、完全に遊離するのもいけない。

ほんの少しで良いからタッチを変え、奇妙な人物フランクの生態を中心に描くなら、きっと万人に受ける悲喜劇になると思う。役者には喜劇俳優で実績のある人間を揃える必要がある。その価値はあると思う。約束されたギャグのほうが、観客は安心して笑えるだろうから。

そして基本としては不幸な物語だから、物悲しい結末に心を打たれることも期待できる。素晴らしい企画になりうる。

おそらく、この作品は子供には向かない。理解不能に終わると思うし、退屈に感じるだろう。こんな作品を恋人と観ても、なんだか後味が悪そうな印象。爽快感はない。この作品に向くのは、相当な暇人、現実から遊離した人物かもしれない。音楽をやっている連中は楽しめるかも。

でもフランクは好感を持てる人物。彼の存在によって、このバンドグループは保たれていたようだ。まず音楽的な能力、センスが優れていたらしい。いかに良い人物でもトンチンカンでは、皆を引っ張っていくことはできない。能力は必要。

調整能力もあったようだ。主人公がバンドの旧来のメンバーと不仲であっても、なんとか活動を続けられたのは、彼の調停によるものが大きそう。どうやらフランクは主人公の音楽的能力に呆れていたようだが、それでも彼を傷つけまいという態度をとっていた。

ただ、フランク自身も相当な障害を抱え、無理していたこともよく分かった。実際、彼のような個性の人間がいたら、あんな風になっていたかも。マスクなしでは人前に出ることすら難しいのも解る気がする。フランクの場合はマスクだが、化粧や表情などでマスクの代わりをできる場合は、それがマスクと同じような意味で使われることもある。

ミュージシャンには個性が要求される。音や楽器は共通のものだから、微妙な違いを出し、自分を表現することに徹しないといけない。しかも売れるために、それは強烈に訴えかける物でないといけないし、独特でないといけない。完成度も高く、芸術として成り立っていないといけない。

それらを達成できるためには、相当なプレッシャーに耐え、演奏の実力をつけ、トレーニングと新しいアイディアの構築に努めないといけない。奇抜であるために、生き方まで妙になってしまう傾向はある。薬物の誘惑も強いらしい。ヤク中が多いから。

強烈な目立ちたがり、成功への野心などがあれば、プレッシャーや苦難にも耐えて成功できるかもしれないが、競争も厳しいから這い上がれないグループが多いだろう。没落の恐怖も絶えない。

それに薬物が蔓延した業界だから、何か心に問題を抱える人間は依存にはまりやすいと思う。人気が落ちれば・・・新しいアイディアが浮かばない・・・離婚問題、バンドの仲間割れ・・・いろんなことで精神に限界が生じうる。

そんな状態の人間には、仮に好意からであってもストレスを強めることは危険。この作品を観て、そんな風に思った。バンド仲間にも個性は色々だろう。野心家で、なんとかして売れたいという強い気持ちを持つ人間は、多少の妥協をしてでも売れたいと願うが、妥協に耐えられない人間もいる。

そうやって対立は生まれる。その対立が、ミュージシャンの場合は直ぐに音楽に直結する。微妙な表現の違いに、仲間割れにつながる反発が生じそうなことは、筆者にも理解できる。バンドマンたちの関係は、常に離合の危険をはらむようだ。

筆者も、人間関係を上手く作れていない。もしかして、マスクを借りるべきか?

真摯な関係でありたいと願っている家族とも、心が通じているとは言えない。自分が子供の頃、親に対して抱いていたような感情は、子供たちの場合も漠然とはあるようだが、随分すねた形になっている。

子供の頃は簡単に思っていたが、心から打ち解けることは、大人になってみると意外に難しい。自分の精神の発達具合が足りていないせいもあるだろう。相手と心を通わすには、こちらの理解力が充分ないといけない。たぶん、相手側にも必要だろう。そして似たような事を考えていたほうがやりやすい。

世の中には理解不能な人間が多い。妙にイジケていたり強烈な野心を持っていたり、ISなみの激しい敵愾心に取り付かれていたら、うすボンヤリした筆者のような人間には理解できないのが当然。だから、理解が不充分な自分に、あまり悩むこともないのかも。それが当然と考えたほうが良いかもしれない。

震災や原発事故の経緯を見て、いろいろ考えた。震災の前、地震対策に関しての一般常識に、筆者は納得できなかった。原発に関することを考えると、イライラしていた。でも、ほとんど人は筆者とは感覚がズレていたように思う。そもそも、事故を考えること自体、普通の人はしていなかったのでは?きっと「考えても仕方ないよ」で済ませていたはず。

地震防災はもちろん、原発行政も他人事ではないのだが、意味の理解は難しい。被害にあって初めて解る人が多いと思う。被害者とそれ以外で、ズレるのも当然。興味や危機感の持ちようも様々だろう。原発の近くにいる人でさえ、考えても仕方ないと思っていたのではないか?

会話ってのは難しい。会話の進め方に関して、センスが合ってないと成り立たない。

いつも正しい判断を目指すと、都合はよろしくない。正しい答えを追求してばかりだと、相手が疲れる。仲のよい関係は、正しいかどうかより、利益があるかどうか、楽しいかどうかを優先しないと保てない。実利を与えなくても、相手に夢を持たせないといけない。関係を維持するためには、正しさにこだわらないことも大事。でも、そんな関係ばかりだと情けない。集団全体が間違う結果にもなる。

原発に関しては正しさを求めて議論しないと危ないでしょと筆者は思うが、いやいや経営が最優先じゃから、国民がどうなってもいーじゃん、細かいこと言うなよと考える人がいても不思議ではない。あるいは、どうなるか予測できず議論にならない人もいただろう。

感覚の違いは正しさゆえの場合はあると思う。もちろん根拠なしの過信は禁物。筆者のほうが勘違いすることも多いはず。それが怖いから、基本発言が少なくなる傾向はある。意見を押し付けることはしない。意見が合わないと、相手のセンスを疑うから自然と黙り込むという態度になる。でも、それも人間関係を悪くする。

皆の結論に、かなりの場合、筆者はついていけない。全員、何もかも思い切り間違ってるみたいだと思うこともある。だって原発政策はおかしいし、少子化対策も景気対策も、医療行政も社会保障政策も、何もかもおかしいもん。・・・そんな状態では、人と面と向かう時には支障になる。同じように、感覚的な違いに折り合いをつけにくい人は多いと思う。

いっぽう、思い込むことで精神状態を保つ人も多い。いろんな意見を取り入れたら、考え込んでしまって精神衛生上、良くない。したがって、それを避けるために意固地になり、意見が違えば強硬に押し付けを狙う、それが幼少時から身につけた防衛反応のようなもの。防衛の意志から発生したマスクか、‘鎧’だ。

鎧は、脳の中での認識と対処のパターン。条件反射で自分を守る。

事故があって大きな被害が出る時に残念に思うか、それとも関係ないこととして日々の暮らしに没頭するか、「おや、想定外だったね。」で感傷なしでおられるか、何か責任を感じても無視して逃げるか、判断はいろいろある。その判断に際し、およその人は鎧のような防御的思考パターンを作って、自分の心の平静を優先したいと願う。それが精神的防衛のパターン。

自分が防衛の鎧を身につけていることを自覚し、他者の鎧のありようも認識できれば、ルールが解る状況になり、集団に参加できる。そんな関係が縦横にひしめき合った状態が、一般の社会と言える。妙な緊張状態。そこで互いの鎧の誤りを指摘するようなことは、反発を生むから良くない。防衛反応は、本能から発生しているのだから。

相手の本能には手をつけずに、折り合いをどうにかつけるしかない。フランク君も、どうにか折り合いをつけてくれることを期待する。どんな障害があっても、できると信じる。マスクなしでも、世間に出て行くことは可能。音楽を通じてか、他の活動によるかは分からないが。

 

 

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