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2015年7月15日

処女の泉(1960)

Jungfrukllan

- 神と人の関係 -

DVDで鑑賞。この作品は有名だから、存在は知っていた。何度か鑑賞会が開かれたようにも記憶しているが、古い映画のリバイバルでは画質が問題になると、さすがに筆者(劇場主)も学んでいる。最近はうかつに参加したりはしない。酷い目にあって、反省して初めて人は学ぶのである。少しは賢くなれた。

先日、衛星放送で鑑賞した「わが母の記」の中で、主人公の娘が映画館から呼び戻されるのが、この「処女の泉」を観ていた時。娘はそれが非常に悲しかったと泣き出すのだが、そんなに良い映画なら観なきゃと思った。

確かに、文学少女なら絶対に見逃せない映画かも。

ベルイマン監督作品で、民謡が原作らしい。神と人との関わり方がテーマのようだ。欧米人にとっては非常に大きなテーマであろう。日本人の場合は、神に対する感覚が違うので、深く重い思考につながりにくいテーマのように思う。

モノクロ映画で、リマスタリングのおかげで画質は非常に美しく、セリフもよく聞き取れる。でも英語ではないから、意味はさっぱり分からない。

カエルをパンにはさむ行為があった。でも意味が分からない。誰でも知っている呪いのまじないだろうか?一本の木を倒して葉を切り取り、体を清めることに使っていたようだが、これも何かの謂れがありそうな行動。

冒頭で登場する女中役は野性味あふれる女優さんで、オーディンの神を信仰している立場。一般的には魔女のような役割。この作品では、彼女を完全な悪役にはしておらず、人間味ある人物としていたようだ。少なくとも娘役よりは、役者としてやりがいのある役柄だったはず。

娘役は非常に可愛らしい、清純そうな女優さんだった。しかし穿った見方だが、実はこんな女優こそ乱れきった私生活の乱交女であることが多い気がする。スウェーデン流フリーセックスの信奉者なのでは?・・・・でも、これは芸能ニュースの見すぎによる偏見かもしれない。 

主役の父親役は、見た目は全くイケメンではないし、メーキャップのせいもあって、実際に荒野の剣士か何かにしか見えない。後年、エクソシストの神父さん役もやっていたから、敬虔な人物の雰囲気が上手く出る役者なんだろう。にやけた二枚目では、こんな役は勤まりそうにない。

母親は、キリスト受難の日に自分を傷つけようとする敬虔な信者だが、父親の方はその考え方には拒否反応を示す。おそらく、父親の方も充分に敬虔なクリスチャンなんだろうが、神に傷つけられるのを我慢するほどまでは敬虔ではない。微妙な違いを象徴していたように思った。

確かに見ごたえのある映画だったが、子供には向かないし、恋人と観る映画でもない。映画好きな人間が、たぶん同性の友人と楽しむ作品だろうと思う。

第一に思うのが、神はなぜ娘を救おうとしなかったのか?これは大きな疑問点。おそらく多くの人が憤り、不快に思い、天罰がないのはなぜだ?と考え、それなりに結論づける問題。

キリスト教徒も、いろんな理解の仕方をするように思う。泉を噴出させることは、すなわち神の啓示を意味する。神は全く見捨てているわけではないことを明らかにしている。でも、助けなかった理由が判らないことも確か。

助ける必要がないのか?家族の信仰が不足していたから罰を受けたのか?命に関しては自分で守れという警告?あるいはオーディンの神にも力があって、キリスト教の神のほうが負けただけなのか、そのほかにも色々考えられる。屁理屈に近いくらいの理屈をつけない限り、説明は困難。

助からないことが多いのも現実であるから、あくまで現実を写し、後は自分らで考えることを神から求められたとも思える。神は気安く助けてはくれない、理由を問われても答えない、でも見られていることは意識せよ・・・そんな理解の仕方もある。神と人間の関わり方は、さまざま考えられる。

第二に、復讐は是か非か。復讐の後に、父親は神に許しを請うていたし、少年に母親は同情していた。そもそも、宗教の教えでは復讐を禁止していたはず。父親は明らかに、神に背きながら行動していることを自覚している。

父親は復讐の前に体を清め、なんだか日本のあだ討ちめいた儀式的な行動をとっていた。西洋も東洋も、修羅場の前には精神統一のためと、神に誓うために身を清める行為が必要なのかもしれない。父親の行動は、宗教が何も意味を成していないことを示すようにも思える。おそらく、日本でも中国でも、インディアンでも、父親の行動は似たようなものだったのでは?

監督は黒澤映画に影響されたらしいので、武士のあだ討ちのようなイメージで表現したいと考えたのかもしれない。直ぐに押し入って寝ている相手を闇討ちしなかったのは、西洋の考え方ではおかしい。刀を肉きりナイフに代えたのは、何か意味があるのだろうか?単に狭い所で戦うから便利と考えた?

神のことを考え直してみたいなら、この作品は良き材料になる。大学の神学の時間などに討論する際には、いろんな意見が期待できる。でも、デートの時に観るのはいけない。

 

 

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