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2015年5月19日

小さいおうち(2014)

Shochiku

- 経済論理 -

戦前の東京郊外、奉公に出ていた女中は、雇い主の家庭と家族同然の関係。ある日、主人の会社の新人社員が訪問してくる・・・

・・・DVDで鑑賞。この作品は日本アカデミー賞を取っているそうだ。それほどの名作かというと多少の疑問も感じるが、まとまった小作品で、出来栄えが良かったのは間違いない。細やかな心情や、戦前戦中の市井の人の姿をよく描けていたのかもしれない。

直接表現は排除された作品で、微妙な演出によって登場人物の感情が浮かび上がるように、芸術的というか、繊細な表現が多かった。

そんな演出の代表は、女中が雇い主である家の奥様を引き止めた時。奥様が急にその意見に従って部屋に戻り、手紙を書き始めるシーン。普通の芝居ならいったんは口論になるか、無視して出かけようという動作、迷いが出てきそうだ。本当に急に部屋に戻っていた。あれは奥様の性格をよく表していた。

強情な女性が、何かの拍子で急に素直に人の意見に従うことがある。多くは、ほんの些細な気分の変化、自分の頭の中での論理の結論によるものだろう。そんな時、自分が言い込められたように相手から目されるのが嫌で、全くの無表情でプイと向きを変えることが多い。表情を隠すわけだ。子供によく見られる反応。強情な大人にも多い(我が家にもいらっしゃる)。

あのシーンは、それを再現していた。もしかして山田監督は、我が家をごらんになったのか?

主人公を演じていた黒木華という女優さんは、これまで全く知らなかったが、この作品で女優賞を取った。助演ではなく、主演女優賞の対象と思う。個性が役柄に上手く合致しており、田舎育ちらしい雰囲気や、ちょっとした動作のタイミングなどが自然で、その人物が何を感じて行動しているのか、誰にもよく分かるように演じていた。若くて体力があるのも理由だろうが、動きのタイミングが素晴らしい。妙に表情による演技にこだわらず、役柄を理解して運動神経を使って表現できる稀有の存在かも。

松たか子も素晴らしかった。彼女は気性の激しい女性の役柄が多い。目鼻立ちから考えても、そんな役柄が合うだろう。若奥様役が似合う年齢になったので、こんな役がしばらくは続くかも。

若い社員役は、できればもっとイケメン俳優のほうが良くなかったろうか?松たか子が可哀そうだ・・・・と、言うと悪いけど。若者は凄い演技派である必要はないと思う。見た目の魅力、セクシーな感じがあれば良い。言葉少なでも振る舞いが美しい男優のほうが、印象が強く残ったのではないかと思う。

女中は、奥様のために大事なところで邪魔をしたのだが、その際の心情が一番の問題で、美しくもあり、また疑問も残るところ。女中は、奥様を人として愛していたと思う。家族を守るのと同じ感情で、奥様の邪魔をしないといけないと考えたのは間違いない。

でも、その他の感情がなかったか?その点を疑わせる演出だった。例えば、ボーイッシュな友人が女中の心情を察する点から考えて、ホモセクシャルな愛情が全くなかったかは微妙。さらに、若い男を廻る妬みのような感情が、女中嬢に全くなかったかも微妙。

その微妙さを、微妙なままに描けていたのが、この作品の素晴らしいところと思う。

原作があるらしい。戦前や戦時中の一般庶民の感覚について、どのように書かれているのか気になる。一般の人には当面の景気がどうかのほうが気になり、長い戦争になって物資が不足し、自分達の命に関係してくるなど、思いもよらなかったのかもしれない。日本が大陸に進出(侵入)したことは、大陸側の人々にとっては災難のはずなのに、良いこと、当然のこととしか感じられなかったのかも。

したがって、この作品の表現は、他の国からは非難されてしかるべきと思う。市民の正直な感覚で描かれているかもしれないが、配慮が足りないという見方はできる。反省の色が見あたらない、自分達を犠牲者のように描いているといった批判は覚悟すべき。

いっぽうで、物騒な国際情勢、経済情勢と関係なく、この作品で描かれた世界は本当に小さく、優しさと愛情、心配や細やかな配慮に満ち溢れ、美しいものだった。不倫話でさえ、当人には大きな問題でも、当時の日本の情況を思えば些細なこと。生活の一頁のようなもの。普通の人の感覚は、きっとそうだろう。戦争で悲惨な結果が来るなど、毎日考えても仕方ないのだから。

南北戦争当時のスカーレット嬢は、戦争のことより自分の恋のほうが大事だった。女子のかなりの人は、そんなものかもしれない。この作品は、慎ましい日本版スカーレットを描いているようにも思える。・・・・でも、だいぶキャラクター違う、特にレッド・バトラー役が。

実際に当時の庶民感覚はどうだったのだろうか?モボ、モガの時代から、どんなに変遷したら軍国主義に納得できるのか、理解は難しい。たぶん、納得なんてしてなかったはず。

当時は、特に戦時体制になってからは、自由に物を書いたりするのは難しかったはずなので、本音は不明。想像くらいしかできない。戦後の引揚者に聞いたかぎりでは、皆が軍国主義だったとは思えない。彼らの言葉を信じれば、現地の人たちと仲良く隔てなく接していた人も多かったらしい。

今でも似たようなものかも。ヘイトスピーチをやる人間もいれば、差別意識の全くない人、婚姻関係に発展する人も珍しくないから。

作品の中で、会社の人間が日中戦争について語る場面があった。自分達の仕事を考えると、大陸は良い市場で商売が大きくなるから、進出には大賛成、軍部にも応援、外交交渉は生ぬるいといった勇ましい態度になるだろう。当時はどこの国もそうだったし、今だって多くの国が実態はそのまま。

しかし、そんな人でも、目の前で野蛮な行為や差別が行われていれば、好意的には感じないと思う。利益がかかっていたから、侵略も商売の一環、当然の権利と考えたのでは?自分は野蛮で悪辣なことはしていないと。

あのシーンで侵略を勇ましいと評していた人たちは、悪人ではなく市井の一般人で、当時なりのイノベーションを目指した事業家、税金もちゃんと払う良き市民、そして良き家庭人でもあったと思う。

たぶん規模は違うが、欧米の資産家達も同様に、中国市場を日本が奪うのは許せない、自分達こそ覇者となるべき権利がある、日本は良い商売の相手だったが市場を渡すわけにはいかない。不景気を打破するためにも戦争は必要・・・そんな思惑があったかも。

結局、中国市場は共産圏に取られたから、米国投資家にとっての大戦は空前の大失策だったかもしれないけど、当面の景気対策としては最高だった。それに、日本と中国が合体して欧米資本の手が届かない社会が巨大になったら、それは彼らにとって最悪。禁輸措置を徹底して、日本を潰すしかない。

ビジネスだから権利を主張する。自由な貿易を阻害するな・・・という感覚は、自然な流れとして非道な行為につながるのが現実。ただし、それがないと景気も技術も沈滞し、社会が発展しない。大いに主張して利権を確保した勢力が、結局は生き残っているのが現実。野心がないと人は頑張らない。欧米諸国が人道主義に徹していたら、世界は中世のままだろう。

大きな流れの中で、良き市民も侵略に加担し、結果的には極悪非道の一巻を担う。これは残念だが現実で、誰かが止めることは難しい。やってる本人達には、自分の行為の意味が解りようがないから。大陸に進出した企業家、移住者達に文句を言っても、わけが解らなかっただろう。したがって、今後も同様のことは起こると思える。

筆者がもし戦前の日本に育ち、何かの事業をやってたら、大陸への進出をどう考えただろうか。現地の人が困るから反対? 

おそらく否だ。「俺は現地の人を虐げず、従業員に雇って給与を与え、現地の発展に寄与する。だから進出は是である。」と、考えるのではないか?資金を投入してしまえば、「工場進出は契約で認められた権利で、邪魔するのはテロリスト。」 → 「住民が反対運動を起こすのは、テロ行為だ。」となるだろう。筆者の人格のいかんは、あまり役に立たない。

今後、日本もそうだが、どこかの国同士が経済的な理由で対立し、権利の調停が上手く行かなくなったら、かってのような狂乱が起こらないとも限らない。日本にその意志があろうとなかろうと、自国の苦境を脱するために仕掛けてくる勢力があってもおかしくない。

かっての帝国主義やブロック経済は、ビジネス追求の結果、自然に生まれたものではないかと思う。正しいという意味ではなく、成り行きのままだとそうなるという意味でだが。今日だと、帝国主義的な行動は民族の権利を侵す悪徳と考えられるが、自由な商売、契約の遵守、投資と利益の回収といった理屈を追求すると、武力を背景にした支配被支配の関係にたどり着きやすい。国際条約で調停できれば良いが、争いになるのも珍しいことではないから。

資産の過剰な集中についても同じかも。危機を乗り越え、資産を増やし続けるのは一定の規模があって、リスクに耐えられる巨大資産家、巨大企業だけ。自然な流れで、資産はピケティ流に集中しやすい。 自由な投資、規制緩和、課税から逃れる海外流出などによって、国内は予算不足、沈滞が基調になり、貧困層が結婚もできないとしても、それが自由な経済活動の帰結。

でも、おそらく自由なままではいけないのだろう。流れは、法や条約、税金で調整しないといけない。調整が悪いことのようにいう論調は、もともとありえない。こんな状況だから、アベノミクスの理屈はやはり20年くらい遅れているのかも。

 

 

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