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2015年5月16日

永遠の人(1961)

Syoutiku

- 赦しの問題 -

ヒロインは、恋人と別れさせられ、地主一族の息子と強制的に結婚させられた。その恨みで、険悪な夫婦関係が続く。長男は学校の問題児、次男は学生運動家、長女は駆け落ちと、次々問題が起こる・・・

・・・阿蘇谷の村落が舞台になっていた。当時の阿蘇の風景は、今日より全般に木が少ない印象。おそらく山は野焼きで焼かれ、平野の木々も焚き木や建築で使われてしまって、戦後に植林した木もまだ大きくならず、禿山と草むらだらけだったのでは?

屋敷があったのは、山の角度から見るに赤水から永草、狩尾付近ではないかと思うが、一部は一宮町の北西部とも見える。でも赤水付近で、あんな屋敷を観た記憶はない。あの位置だと、水害の時は完全に被災するから、田と同じ高さで家は建てないと思う。よく出ていた道路は、小学校そばを通る旧道路かもしれない。

もしかして、農地解放で没落した地主の家を借りたのだろうか?あるいはセットをわざわざ作ったのだろうか?一の宮には今も現存する複数の屋敷があるので、場所を借りて撮影の向きを工夫したのかも。

ヒロインが飛び込む川は、赤水の橋の下かもしれない。あそこは本当に危ない。今は水量が少ないから比較的安全だが、ちょっと先は滝になってるから、憐れな主演女優が水死体になる危険性だってあった。

青年が中岳火口に向かうシーン。あれも実に怖ろしい。ちょっと風向きが変わったら、憐れな青年役者も火山ガスにやられて、後年のニヒル役者になれないまま終わったかも知れない。当時は俳優の人権は認められていなかったのだろう。

駅は内牧駅か市ノ川駅だろうか?今だと杉の木に覆われた線路をすり抜ける感じだが、映画では殺風景で荒野の中にあるように見えるから、それこそイタリヤやスペインの風景に近い。フラメンコを使ったアイディアが生きてくる。

当時の南欧の映画をヒントにして作った作品だろうか?なぜ阿蘇を舞台にしようと思ったのか、やはり風景か?あるいは、スタッフに阿蘇出身の人がいたか、当時の阿蘇観光の売り込みに町と会社で話が一致したか、あるいは監督が阿蘇に旅行して決めたのか、そのへんの裏話があれば読んでみたい。

普通に考えると、田舎ならどこでも良かったような気がする。作品で出てくる千人塚の話。どこの地方にもありそうな伝説で、別に阿蘇地方限定の物語ではないと思う。つい最近まで、反乱や一揆に対しては厳しい処罰がされていたはずだから、虐殺された側の怨念は百年経っても残るだろう。

それでも、支配者と被支配者の関係で泣き寝入りせざるをえなかったことが、全くもって信じられない。つい最近まで、小作農の立場はあんなものだったのだろう。終戦まで、小作農の権利を保護する法律はなかったのだろうか?よく知らないが、おそらく田舎での実効性に乏しい法律しかなかったのでは・・・

赦すか赦さないか、そこが作品の大きなテーマ。

それを際立たせるためには、赦し難い人物に登場してもらう必要がある。それを仲代達也が演じていた。彼はまだ若かったはずだが、皮肉っぽい表情や、後半の年老いた人物の雰囲気などを実に見事に演じていて、滅多に見られないほどの名演。

ヒロインのほうは、やや不利な立場。さすがに、ある程度は赦してあげたほうが、子供達のためだよと言いたくなる。悲劇のヒロインのはずが、実は悪役になってしまっている。でも、声の音質を変えて若い頃から老年の女性まで演じ分ける確かな表現力を感じる。

ストーリーによって、悪役が悲劇の主役、悲劇のヒロインが悪役へと代わるなんて、よく考えられた逆説的展開。ひょっとして、ヒロインが外人にも表情が解りやすい女優だったら、この作品はアカデミー外国映画賞を取っていたかも知れない。ノミネートはされていたから、評価は高かったはず。外人には、おそらく高峰の表情は理解できない。

実際に罪を総て赦していたら、何でもやってよいことになりかねない。実生活では、そのへんのバランス感覚が難しい。レイプ事件は、基本的に赦すべきではない。イジメ問題も、予防しようと思うなら時効の概念を持ち出してはならないと思う。

PTSDを来たすことが明らかな行為は、時効の概念を超えた影響があるので、過失事故の場合とは考え方を変えるべきということ。今の法律はPTSDの概念がない時代に作られたものが多いので、時代遅れと思う。

国際的問題では慰安婦など、蒸し返し、もめ続ける問題は多いが、どう対処しても解決は無理だろう。解決できるものではない。

大前研一氏は、SAPIO誌で単に謝ったほうが良いといった意見を述べているという。本当に氏がそう言っているのか確認はできないが、いずれにせよ、それで話が収まるはずはない。事態をさらに悪化させる危険性も充分にある。

もちろん、韓国の一部の人は納得するかもしれないが、次の要求につなげたい、それで自分の立場に利したいと考える人物も必ずいる。謝罪が新たな要求を生むだろうと考えないといけない。そこを覚悟し、得るものと失うもののバランスを考えて対応すべき。

筆者(劇場主)は、村山談話はそのまま継承されるべきと思う。そこから踏み出すべきではなく、ただ踏襲し続けることが最も望ましいのでは?新たに踏み込んで何か解決しようといった話はいっさいする必要はない。具体的な補償は何もできないが、談話はそのまま認めざるをえないと思う。

赦されるわけがないので、それで問題が解決するわけはないが、今の状況は引きづるべきではないと思う。謝罪という言葉を政府は使わない方針のようだが、使い続けるべきと思う。

医療事故の事例などでは対処法が決まっている。具体的なことはさておき、態度として謝罪を続けることで、攻撃する側とされる側の立場が替わる・・・この作品のような逆転現象にも通じるが、それを目指すのが鉄則。事実関係の詳細を論じるのではなく、不快な感情には謝罪。次の段階の要求には移行させない。そういう手もある。

 

 

 

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