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2015年3月 8日

あなたを抱きしめる日まで(2013)

Phantom

- 契約と権利 -

カトリックの修道院で息子を手放すはめになった主人公。やがて彼女はジャーナリストの助けを借りて、子の行方を調査する旅に出る・・・

・・・静かで悲しく美しい物語。実話に基づいているらしい。よくできた作品だった。ジュディ・デンチ主演の作品と言って良いだろうが、ストーリーを運ぶ役割はスティーブ・クーガンという男優さんが演じていた。コメディでは有名な人らしいが、今まで印象に残ってはいなかった。

ジョークを絶やさないユーモアセンスたっぷりの人物を演じていたが、上流階級の人間の設定であり、吹きだすような激しいギャグをかますわけではないので、作品の味付けのような意味合いに過ぎない。主人公がそんな人物では、作品の魅力に関わると思うが・・・

その点から考えても、この作品は子供には向かないと思う。美しく悲しい映画だけど、大多数の子供はつまんないと思うのでは?

また、恋人と観るべき映画と言えるかどうか、そのへんも微妙。若い恋人の逢瀬の結果が不幸になるかもと考えたら、恋に何か影を差してしまわないだろうか。考えすぎか?

描き方として、おばさんらしい行動を強調したシーンや、ジャーナリストの境遇などの描き方は、何かに失敗した人物が自虐的に描かれる際の手法に則っており、分かりやすい上に充分にほほえましいもので、上質で大人しいドラマになっていた。単純なメロドラマにならないように、またドタバタ劇が目立たないように、アイロニーと多少のコメディを基調にして、雰囲気良く描けていた。

もっとドラマティックに描くこともできたと思う。緊迫感を出して、修道院側の陰謀を暴くような、手厳しい態度を演じていたらサスペンスものとしての説得力は出たであろう。そのほうが作品はヒットしたかもしれない。でも、セリフなどを考えても、この作品は修道院側を非難する意図はさほどなく、‘赦す’態度が中心であったので、適度な演出に止めていたようだ。それで良かったのかは分からないが。

実話に基づいていることと、教会が相手だから、過激なことはできなかった。

問題となるのは、自分の子供の行方を探らないという契約・・・それは修道院側としては必要と思える契約だろうが、人道的には問題がある。子供を心配する、会いたいと願うのは人の親としての権利であろうし、引き受け先や子供自身の心情、宗教団体を守るためにとは言え、許されるものとは思えない。本来、契約で縛れるものではない。

契約が至高のものと、筆者は思わない。いったん契約書に書いたら、いかなる理由があっても破棄できないという概念は、商取引なら良いかもしれないが、人権に関わる場合は人権を優先すべし。その点は、契約社会の欧米でも一定の理解が得られるのでは?少なくとも昨今は、そんな事象が多いと感じているはず。

ピケティ氏指摘の格差問題もそうだろう。資本主義の契約、取引だけを徹底的に貫徹したら、SFのような格差社会になってしまう。後々の税制、法的処理によって、後出しじゃんけんのように公平化するしかない。

結論として、この作品の養子縁組はどうすれば良いのか、どうすれば良かったのか、そのへんは分からない。もしかすると今、熊本市で続けられている「ゆりかご」の運動も、実は数十年後に訴訟が待っているのかもしれない。

原則を考えると、第一には子供の生命を守ることが重要。何もしないでおくと、重圧に耐えかねた家族や母親によって、子供の命が奪われてしまう。出来ることは様々ある。そして保護と育児システム自体は、どのような理由があろうと続けなければならない。

①妊娠判明後、宗教的寛容を直ちに表明すること・・・

生まれてしまえば、不義の子供であろうと、どこかの施設が必ず保護し、母親に最悪の危害が加わらないことを明文化しておくこと。これは、生命保護のために大事。

ただし、そうすると不義を積極的に推奨するような結果も起こりうる。教会からの反対が激しく、案は修正され、不文律のようなものに押し込めようとされる。そこが問題の原因となる。不文律だから、対応する修道院スタッフの態度にバリエーションが起こりうる。厳しすぎる解釈をするスタッフは、子供の母親を虐待に近い形で管理することが宗教的に求められていると解釈する。

つまり、規則の作り方、組織の作り方の歪みが、この作品に描かれたような悲劇を生む原因だったと考える。修道院側も、悪い結果を望んで隠蔽工作に走ったとは思えない。宗教的なルール、組織のルール、規律などを重んじるために、原則を貫こうとしたに過ぎないのでは?

②宗教団体の権利を制限し、法的な規定のある団体に管理させる・・・

実質、今の制度はそうなっているはず。宗教団体の組織の論理が問題を複雑にしているなら、他の仕組みに主役を移すのが最善。もし、ある組織に問題が発生すれば、組織に自己改革を求めるより新たな組織に権限を移行するのが簡単・・・そんな理屈もある。

恣意的な判断が関与しないようにすることは望ましい。これは、この問題に限らず、何にでも当てはまる。修道院のシスター達も悪意だけで動いていたはずはない。組織的な都合、自分の立場、宗教上の制約、そんなものに抑圧されていたからこそ、あのような行動をとったのだと思う。

組織的、かつ構造的な問題。つまり彼女らの手を煩わせる必要をなくせば良い。

③商業的要因が入り込まない工夫。

修道院にも経営は必要で、資金援助と引き換えに子供を欲しがる人物が関与してくる可能性は常にある。その場合、援助するから秘密を守れという要求は当然のように付いてくる。そういった条件付けを最初から断わるべきで、そのために経営的な補助が必要なら、それこそ税金を使う分野だろう。

④子供や親が、後年に互いを知りたくなった際の対処を規定しておく必要はある。

‘ゆりかご’ではどうなっているのか知らないが、筆者は大多数の子供が、やがて自分の生みの親を知りたいと思うだろうと考える。親のほうの事情によって、それが望ましくない場合もありうるので、いちいち訴訟が発生しないように、細かく設定をしておく必要はあり、また情報の管理も大事になる。

情報開示は万事の原則だと思う。親か子いずれか開示拒否の希望がある場合だけ例外規定となるといった方向が基本では?どうしてそうしなかったのだろう?受け入れ先の方を重視しすぎた偏重があったのか?

また、規定は政権が代わろうと国が代わろうと変らないといった、かなり厳格な保護が望ましいが、実際にどうするべきか分からない。

少なくとも米国に渡って、第三者が現地の新聞社で調べれば一発で分かるなど、管理が不充分。情報の保護が最も大事な分野で、今どこかの政府有識者会議が検討しているような無茶な内容よりずっと意味がある。当時は今日のネット社会など予想もしていなかったろう。ネットに情報が漏れないように、外部と遮断した記録は必要。

幸いなことに、筆者は子供ができても経済的不安から養育拒否する必要はなかったが、昨今の経済状況だと、人によっては子育てが非常に厳しい生活につながるだろう。自分の生活さえやっとの時に、妻と子供を育てるなど実質的にありえないと感じるかも。

皆が貧乏で、やっと生活するのが当然の時代ならよいが、戦後の好景気の時代から今は国の経済が縮小に向かう時代、若者、特に男子の懐具合と感情は、暴発しないのが不思議なほど。

 

 

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