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2015年1月31日

西の魔女が死んだ(2008)

Asmikace

- 耐える意味 -

田舎で一人暮らす祖母の下に、登校拒否に陥った少女が同居する。少女は祖母が実は魔女だったという話を聞かされる。少女の魔女特訓が始まる・・・

・・・素晴らしいアイディアに満ちた話だった。祖母が魔女という設定、少女の傷ついた心が癒される流れ、少女の成長などが美しく、健全な形で描かれていて感心した。元々は梨木香穂氏の児童文学書が原作らしいが、児童文学に留まらない拡がりを感じる話だった。

祖母役のサチ・パーカーも、孫役の少女も非常に存在感を見せていた。前半部分ではさすがにパーカーのセリフが不器用すぎる印象を受けたが、それも徐々に慣れて後半では違和感を感じなくなっていた。少女役のキャスティングも素晴らしかった。もっと可愛い娘だと、多くの場合は演技力の点で納得できない場合が多かったろう。そこらの娘のような平凡な外見と、生き生きした表情が素晴らしかった。

少し思ったのは、魔女役はイギリス人でないといけなかったのかという疑問。日本人でもそれほど不都合はなかったのではないか?どうせ童話のような話なんで、日本人の魔女がいても不思議には感じられないのでは?作者はイギリス在住が長かったようなんで、そこの文学の匂いにこだわりがあったかもしれないが、必須の条件だったとは思えない。

日本人で、怖い顔をした女優ではどうだったろうか?魔女の雰囲気が出ている人なら、怪しくて何かが起こりそうな気配が、作品の良い魅力となったと思う。

気味の悪い隣人役や、愉快な郵便局員など、脇役も良い味を出していた。文学的な設定や、セリフの内容なども非常に高度なセンスを感じた。本職の文学者でないと出せない雰囲気なんだろう。

この作品はもっとヒットしても良かったと思うのだが、確か熊本市では電気館で少しばかり上映されただけで、テレビコマーシャルもなく、いたってひっそりとした上映だったように思う。商売がかっていない作品ではあるものの、何か訴えるアピール力に欠けていた面があったかも。

実際に魔法を何か見せるという手もあったかも。ささいな術のようなものでも良く、それで何かが大きく変ることはなくても良いが、少女には意味が分かり、その術で自分が癒されたのだと感じることができる何か、そんな演出はあざといということだろうか?

登校拒否。幼い心が深く傷つき、疎外感や不安でいっぱいになるのは可愛そうだ。自分が子供の頃は拒否など全く考えることすらなかったが、実は知らないだけで学校に行こうにも行けない児童は多数いたに違いない。ある子は自宅に引きこもり、ある子は施設などを介して世間に出ていたのではないか?おそらく中卒で就職する子も多かったから、登校しないまま卒業して就職し、問題化しない場合もあったのでは?

昨今は高学歴が当然だし、昔より経済的に安定した家庭が多いから、学校を出て仕事に就く必要のない場合は、そのまま家にいることになり目立ってしまうかもしれない。登校拒否の実数が増えているのかも。競争が激しく、他人をいじめることで戦いの本能を維持する連中がはびこると、どうしても家に逃げ込まざるを得ない子供は増えるだろう。

子供自身の能力や精神状態も大きなウェイトを占めているに違いない。酷い待遇を受けても、負けん気の強い子供はかなり耐えることができる。でも闘争本能に欠ける子や、耐える意味を見出せない子供は耐えられない。つまり相手に勝つ意味がないと自然に判断している子がいるのかも知れない。その子が単に孤立したといった安易な分析は、もしかすると本質から外れたものかも。

夏目漱石や芥川龍之介の伝記や作品を読んでいて、彼らのような感性の持ち主は一般人と話をするのも嫌だったのではないかと感じることがある。英文学者として共通する価値観は、一般の日本人とは少し解離している。「こころ」の先生や芥川自身は、帝国主義国家としての当時の風潮に違和感を感じ、行く末に関しても誰よりも優れた感覚で見抜くことができたのではと、なんとなく感じる。

日々の人々の判断、話の内容、国から発表される方針などを聞いていると、誰でも世間の風潮というものが感じられる。筆者は経済に関して学んだことはないが、それでも風潮と現実を比べて、景気の動向や国の成長具合は分かる。行く末が分かり、現時点の出来事の歴史的意味も、それなりに分析できる。改善を目指さない人々が嫌になる。おそらく芥川などは、もっと鋭く予測し不安でいっぱいになっていたのでは?

皆といっしょに社会を良い方向に向けようと考えると、皆のことなど考えたくない人物からは邪魔だ。「皆のための意見だってよ!俺には嬉しくない。」と、他を出し抜こうとする人からは排除されやすい。何か良い方針を訴えた時、それが全く支持されず、力関係の都合によって無視される・・・それが支配的な構造となれば、希望など持ちようがない。

なすべきと納得できる方向に皆が向かっている時期は、たとえ苦しくとも我慢できるが、おかしな方向に世の中が移っていると、芥川流の‘ぼんやりとした不安’に取り付かれてしまいやしないか?嫌にならないか? 登校拒否する子供は、社会の認識と自分のセンスの違いを感じているだろう。子供のほうが能力的に劣っている場合も多いだろうが、この社会は間違い続けている可能性も高いとしたら、彼らは先を読むことが出来る子供かも知れない。

仮に家庭も学校も社会全体も大きく間違っており、妙な方針でやたら強硬なことばかりやっているとしたら、優れた感性の持ち主は社会の中で耐える意味など感じない。・・・問題はそんなことだけじゃないとは思う、やはり彼らは勘違いしており、克己心や敢闘精神に欠けるだけかも知れないが、例えば経済で言えば20年くらい国の成長率が伸びないのは、資源がないことだけじゃなく、妙な判断が幅を効かしているからと思う。我々は間違っていたし、今も間違っているはず。

 

 

 

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