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2014年11月30日

それでも夜は明ける(2013)

Fox

- 日本でリメイクは? -  

1850年ごろの原作小説を発掘し、映画化してアカデミー賞を取った作品。DVDで鑑賞。

最も印象的な演技をしていたのは、悪役のマイケル・ファスベンダー。農場経営者で、敬虔なクリスチャンとも言えるのだが、奴隷制度には疑念を持っていない。常に体罰を伴う酷い虐待を繰り返している。夫婦関係にも人間的なものが失われている。そんな人物像をリアルに演じていて、役の表現が優れていた。

悪役を憎々しげに演じるのは難しくないと思うのだが、実際に生活してそうなレベルまで実在感を出すのは難しい。黒人たちの踊りを眺めながら酔っ払っている表情、夫婦の諍いの際のセリフ、そんな直接虐待していない時間にも演出を凝らしている点が素晴らしかった。

景色がまた美しい。酷い話を続けながら、背景となる風景は非常に美しく叙情的ですらある。その対照も印象的だった。よく出来た作品。でも、子供には向かない。残虐なシーンも多かったので。それに恋人と観るテーマの作品とも言えないように思う。

主人公の俳優は最近何度か観たが、今回特に印象が強かったとは思えない。過去にも酷い目にあう上手い黒人役者は多数いたし、それに比べると体格が良すぎたのか?何かの魅力~迫力に欠けていた印象。あまりリアルに演じると、観てて耐えられないという配慮があったのだろうか?

アカデミー賞の選考には一定の傾向があるように思う。定期的に人種差別関係の作品が賞を取る。選考委員のメンツの関係か、娯楽中心ではレベルを下げるといった怖れか分からないが、明らかな傾向。この作品も、もしかしたら最初から賞を意識して製作されたかも。

監督が黒人のマックウィーンであることも大事な要素。ただし、監督は米国人ではないので、おそらく先祖は米国流の奴隷ではないと思う。スパイク・リーなどに監督をさせたら、話がやっかいになるという印象も受ける。いまだに後遺症は強いと想像する。

奴隷制度は今も続く話。ボコハラムなる組織は、今も女学生をさらって奴隷化しているそうだ。イスラム経の組織の中には想像を超える行動をとるものがある。イスラム経が奴隷を奨励しているとは思えないが、確かに中世から長い歴史を持っていることも確か。敬虔な宗徒が奴隷制度に違和感を抱かない理由は、筆者には理解し難い。

かっての奴隷貿易も、今の感覚では理解が難しい。異宗教の人間は正当に扱わなくても良いといった理屈が働いたのだろうが、そこから発展して権利書があれば自由に人を売れるといった感覚になったのだろう。人権意識のあるなし、人種に対する感覚によっては、知的な人でも疑問を感じない場合はあるのだろう。

あるいは疑問を感じても、自分を守る必要から、何も行動できないという側面もあると思う。農場主はちゃんと書類を持って奴隷を購入し、権利があるのだから、それを剥奪するのは難しい。批判しても立場が弱い。地域の産業が奴隷にって成り立っているなら、地域全体の利害と対立してしまう。リンチに遭うことが予想されるから、何も言えない。

昔はこの手の良心的な作品をよく観たものだったが、最近は子供映画のほうが優先で、芸術や政治、告発めいた作品は滅多に観ない。今回はさすがにアカデミー賞の重みを重視して、こんな楽しくなさそうな作品でも観てみたいと考えた。やはり受賞は大事だ。

若い頃に悲劇的な作品をよく観たのは、自虐的歴史観の影響があったと思う。朝日新聞を読みすぎたわけではないが、戦前戦中に、日本軍や移住者達の中には現地の人達に酷い行為を働いた人は多かったはずという意識が根底にあり、先輩の成したことを反省しなきゃといったニュアンスで、義務として観るべしと思っていた。

かっては学校でもそう言われていたのでは?「人に害を成しておいて知らんぷりするやつは最低だ!」・・・おそらく、今のテレビ討論会に登場する論客たちは、戦後の学校教諭たちからは叱られるかも。今の先生達は、いったいどんな話をしているのだろうか?「戦時中の日本の非人道的行為は、証明できていないから気にするな。」と言う?

自虐的な感覚が要らないとは思えない。人道に関するセンスは望ましい。もちろん極端な自虐歴史観も良くないが、自分の権利も主張しつつ、失敗や悪行への反省や人への同情も、本来は望ましい。それができる状況ならばだが。

そのバランスが難しい。世の中では、こちらの反省につけ入る連中が大半だから、敵を見て態度を考えないといけない。反省して良い関係を築ける相手には反省、反省や譲り合いの精神がない、ただ攻撃しかしてこない相手には、残念だが防御するしかない。また、相手を見て判断したつもりが、性質の悪い相手に情報を漏らされたり、思わぬ裏切りに遭うことも多い。全てを把握することは無理。

自虐意識がある人は、排斥を受ける傾向がある。緊張関係が基本である国同士の関係は当然そうだが、身近な個人と個人の関係も、要するに容赦ない人間のほうが優位に立てるせいで、攻撃が基本になる。皆自分がかわいいので、ネタになるとふむと攻撃はエスカレートし、情け容赦ないものになる。そういった緊張関係の中で普通に生きていける人は、基本は攻撃か無視、裏切りをすることが習慣になっているはず。

逆に言うと、自然と人から愛される人間、いいヤツは、失敗や悪行に対して無反省で無関心、能天気で利にはさとい、そんな傾向があるとは言えないか?人を眉ひとつ動かさずに殺すが、後輩や少年達には優しい、そんな兄貴は最高にカッコ良く感じる。弱みを見せないためには、理性や道義的な面にこだわってはいけない。

いわゆる良いヤツが「俺達って罪人だよな。」なんて言うのは似合わない。まずい話題の時は口をつぐみ、攻撃する時は何も考えずに容赦なく行動、単純だから颯爽としている、そんなヤツに好感を持つのは筆者も同じ。自虐人間に頼り甲斐は感じない。正しいか間違いかに関係なく、単純さが望まれることは多い。

もちろん、自制を保ちつつ包容力に長けた有能な人物はいる。真に尊敬に値すると思える方も少なくない。それに対して、例えばテレビ討論で目立つような人物は、過剰に自己防衛と他者攻撃に走った、かなり特殊な人間だと思う。彼らは怖れられるが、真に尊敬を受ける人とは敬意の持たれ方が違う。怖れられるだけに近い。テレビの場合は演出もあるだろうが、

米国の場合は万事余裕があって、しかも独特な歴史があるから、自虐的な作品も作れる。おそらく、戦勝国でなかったら、こんな作品を作るのは難しい。そして日本では、この種の映画を作れる状況にはないように思う。戦前戦中の炭鉱などでは酷い虐待が行われていたはずだが、そんなことは無視していかないと、この社会から排斥される傾向が強いからだ。

そんな意識は、原発への態度にも関係してくる。反対意見の表明で立場を危うくする危険性を感じて、逃げてしまうのだろう。筆者は原発事故の経過を予測できたが、そんな‘正しい’認識は、一般社会からは要求されない。事故があったことすら忘れることが推奨されているかのようだ。それが可能なのは、誰でも犠牲者のことより、自分の立場が大事だからだろう。

 

 

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