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2014年7月 9日

そして父になる(2013)

Gaga

- ミッションを続ける? -

主人公は、子供が取り違えられていた事実を知る。裁判を経て、子供の交換が試みられる。主人公は子供に、新しい家庭で暮らすミッションを与える・・・

・・・DVDで鑑賞。劇場で観るべきだったかもしれないが、しんみりした映画を劇場で観ると、他人の眼が気になって充分に楽しめないような予感がしたので遠慮した。DVDを観た感想としては、大泣きするメロドラマのような作風は避けてあるので、劇場のほうが向いていた印象。

DVDの映像は画質が良くなかった。音も聞きづらい時があり、カメラや音響器材の性能は大手の作品には及ばないかも。

是枝裕和監督らのオリジナル作品らしい。どうして子供の取り違えをテーマにしようと考えたのか、そのへんの理由は知らない。自身の子育て体験などがアイディアにつながったのだろうか?古くから繰り返されてきたテーマなんで、今更どう描くのか難しいと思うが、上手く作れていた。

一昨年だったか、取り違えがイスラエルとパレスチナの家庭で起こったらという映画もあった。それなら最初からドラマになるし、映画的な設定だと誰でも思う。この作品は違っていた。作品として成立させたのは、腕が良かったからと思う。

普通の商業的映画とは少し違った作り方に好感を持った。メロドラマ路線に流れず、演出過剰にならないように、それでいて人の感情の描写にこだわる真摯な態度が素晴らしい。例えば法廷においても、激しい対立のシーンはなく、真相が淡々と語られるのを呆然と聞くだけというのは盛り上げを無視した流れだが、法廷闘争に比重を置かなかったのは結果的には良い雰囲気につながったようだ。

でも、ちゃんと商業的にも成り立つように良い役者を集め、絵になるシーンを作ってあった。本当にこだわった芸術映画のスタッフが作った場合は、おそらく予算が集まらないので、配役も限られる。過去に監督が何度か賞を得て有名だったことなど、条件が整ってできた作品なんだろう。解りやすさにも気を配っていたようで、芸術にこだわりすぎていない点も素晴らしい。

この作品は家族で観ることができると思う。子供でも泣けるだろう。純粋なメロドラマほどくどくないので、恋人と観ても悪くないかも。ただし、恋を中心に描いた作品ではないので、互いの感情への意味合いを考えてからのほうが良いかも知れないけど。口論になる可能性もある。「私なら子供は直ぐ交換するわ!」「まさか、ずっと育ててきたんだぜ?」といった意見の対立はあるかも。

最も印象に残ったのは、ラスト近くで子供が道に飛び出し、ヒョコヒョコと歩くのを主人公が追う場面。あの歩き方は元々なのか、何か演出があったのか分からないが、可哀相な子供の境遇を表していた。あの少年の目線も良かった。親達の顔をじっと見つめるようにしていたようだ。あのシーンのおかげで、この作品の印象は強く残ることになった。

福山雅治は、元々がぶっきらぼうな話し方をするので、エリートの雰囲気に合致していた。大泣きするシーンがない点も彼に合っていて良かったが、子供が自分をこっそり撮影していたことを知るシーンは、野生的な顔の俳優だと演技が過剰になってしまって映画の質を損なう気がする。福山が最適だった。本職の役者だと芝居くさくなったろう。

尾野真千子が演じた妻の役は、少し演出をやっても良かったような気がした。「私が悪いと言いたいんでしょ!」と怒る女性は、非常にしつこく敵意に満ちていることが多いのである。なぜ詳しいかと言うと、年中そう言われているからである。家内が皿も鍋も洗わないで数日ほっぽらかしにしているから私が洗っていると、急に起きてきた家内が「 」内のセリフを述べるのであるが、尾野嬢には家内のような呪いの表情が出せていなかった。ミスキャストかもしれない。家内のほうが向いていたろう。

リリー・フランキー演じた相手側の父親は、期待通りだと思うが良きオヤジの雰囲気が充分に出ていた。真木よう子の奥さんも、いかにもという雰囲気。彼らも出しゃばりすぎないで良いバランスを保っていたので、全体の雰囲気を保てていた。そもそも彼らを選んできた時点で、上手く演じてくれることが約束されていたかのような印象を持った。

さて映画の結果であるが、元の家庭に子供が戻るべきか、やはり血縁優先で強制的にやるべきか、私には分からない。映画のように子供達の反応に従うというのは、確かに自然なことかもしれないが、その選択が後々どのような結果になるかというと、予測は簡単ではない。

子供が徐々に自立し、親と感情的対立が生じた時には、いかに育ててくれたと言っても赤の他人のことを思いやれるとは限らない。子供の感性が充分かどうかが、事を決するだろう。感性が充分なら、実の親でも育ての親でも思いやれると信じる。情緒的な何かに欠けていたなら、どちらの家庭でも前途多難だろう。

そのような情緒の成長は、家庭環境だけで育つものではない気がする。私は子育てには失敗続きで、発達障害の子供ばかり育ててしまったから大きなことは言えないが、小さい頃から一度も親に従うことがないほどの子供は、環境がどうであろうと育てるのは難しい。

我が子達はショッピングセンターに行く度に迷子になる。どのような行動をとるのか隠れて観察したことがあった。親のほうを少し気にする様子が感じられる子と、完全に忘れてしまって興味の趣くまま、飽きるまで放浪する子と、明らかな違いを感じた。

放っておいて、自分で親を探すようになれれば訓練になるかとも思ったが、自分の興味外が気にならなさ過ぎる子の場合は、そんな生易しい子育て法は通用しない印象。他人の手も普通に握るし、別の家族に平気で付いて行きかねないレベルでは、危険なことはできない。

キャッチボールやサッカーなどに誘っても最初から嫌がって、とうとうやらない子、自分から誘いに来る子、おだてに乗って自分だけでも何かしようとする子、同じようには育てられない。精一杯思いやったつもりでも、親の感情を感じるレベルでない子もいる。情緒が育つには、下地が必要。

私自身は親や周囲の状況を気にしすぎていた。人ごみで親から離れたりは絶対にしない。迷子にならないのは良いことだが、あるはずもない危険を神経質に考えていた記憶がある。親が心配することを怖れていた。自分がはぐれる怖さより、親の視野から外れて迷惑をかけたくないと、恐怖のような過剰な意識があった。

親に嫌われたくない、心配をかけたくない意識は甘えの一種だったかもしれないが、今思えばかなり病的で、逆に親は心配したかもしれない。

私が子供だったら、育ての親も実の親も、あまり関係なく同じように接していたと思う。自分の気持ちより、親の気持ちを心配してしまうから。どちらの親にも、おそらく同じように愛情を持てたのではないか?真の愛情か、親に自分を認めて欲しいという欲求か分からないが、人を悲しませても自我を通したいとは考えなかったろう。

私が主人公なら、話が出来る年代の子供の場合は、どちらの家庭で暮らすか子供に選ばせてあげたいと考える。でも、それは一般的なやり方かどうか分からない。子供によると思う。家族のキャラクターにもよるかも。子供がどれだけ傷ついても血縁を優先する家族も多いと思う。

去年ごろだったか、劣悪な家庭に間違って引き取られた男性が、病院を訴えた裁判の判決があった。確か勝訴していたと思う。判決をどう下すか、裁判官達も困ったかも知れない。劣悪な環境でも努力によって抜け出せたのではないか・・・そんな判決もありえたと思う。良き人生を歩めたと仮定することができる場合は、その権利を損なった責任は請求しうるというのが法律の認識らしいが、そんな仮定の話を論じるのはおかしいという考え方もあるだろう。

別な見方もある。子供の成長のためには何か困難なことが必要。仲良く暮らすだけでは、能力的な面で将来が厳しい。忍耐や工夫をすることによって、戦いに耐えうる精神力がつく傾向はあると思う。子供の自立を目指す主人公のような親がいないかぎり、子供は能力の欠けた人間になるかもしれない。親子の心の結びつきも大事だが、競争できる人材の育成には、それなりの教育法も必要。

少なくとも努力に価値を感じる姿勢は必要。「努力したくてもできない人間もいるのよ。」というセリフがあったが、追い込まない程度に努力を促すのを基本としないと、人としての成長を阻害する。自然に意欲を持って頑張ることを期待するのが理想だが、安易な考えとも言える。

ひょっとすると、主人公に二人とも引き取らせるのが最も良い結果を生んだ可能性だってある。今日が競争社会であるという現実も、忘れてはいけない。人道を無視した強制、あくなき成功への妄信がなければ、問答無用の敵にやられてしまう。努力を偏重するくらいで、やっと生きていけるのなら、偏った養育はむしろ正しい。

 

 

 

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