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2014年5月10日

ザ・マスター(2012)

Weinstein

- 指導者とは -

第二次大戦の帰還兵が主人公。アルコール中毒に陥っており、騒ぎを起こしては放浪する。宗教団体に潜り込んだ彼は、教祖と深く関わることになる・・・・

・・・宗教、戦争の後遺症、精神的な依存などの問題を扱った作品。テーマから考えても当然だが、非常に重く暗い内容で、楽しむための映画では全くない。最近は娯楽映画ばかり見ていたので、懐かしい気分になった。

芝居を観るという点に限れば、役者達が渾身の演技を繰り広げ、見ごたえのあるドラマになっているので、確かに芝居らしい芝居。でも、舞台劇のようなドラマを映画で観ても、なんだか損したような気持ちになる。映画には映画用の演出があると思う。

監督のポール・トーマス・アンダーソンのアイディアによる作品らしい。どうして、こんなテーマを取り上げる気になったのかは知らないが、確かに欧米のインテリにとっては重要であろうテーマ。宗教とは、指導者とはといった普遍的なテーマに関して、彼らは考えざるをえないのだろう。

でも日本の一般人にはいかがだろうか?宗教に非常に熱心な人以外は、あんまり興味が湧かないか、気味が悪い映画にしか思えないかも。創価学会や幸福の科学の信奉者達は良い印象を持たないだろう。子供や恋人と観るタイプの作品ではないと思う。

主人公のホアキン・フェニックスは、この役者は実際にもヤク中に違いないと思えるほどの熱演だった。極端な猫背と偏ったような歩き方は、演技とはいえやりすぎのように思えたが、徹底していたのでサマになっていた。中毒に関して、本当のところは知らない。元々両親が特殊な団体に所属していたはずだから、新興宗教に関して無関心だったはずはないと思う。

教祖役のフィリップ・シーモア・ホフマンは、彼こそまさに薬物中毒で亡くなったらしいから、この役柄は実像に近いものがあったようだ。彼は演じてきた役も非常に凝った人物だったし、オタクや偏執狂のような人物を演じさせると、実在感は素晴らしいものがあった。実際に、まともとは言えない状態だったからかも。

実在感を保って演じていられるのは、演出や演技の力の証だろうが、薬の影響があったのかもしれない。相手の質問に答える時の微妙なタイミングは、相手への感情を表す。嫌悪感や猜疑心、苛立ちなどを実に的確に表していた。役になりきるために、自分の思考さえ異常な状態にしていた気もする。

教祖の妻役エイミー・アダムスも面白い女優。今回の役柄は、強さと的確な判断、勘の鋭さを感じさせる必要があったが、小柄ながらどっしりした印象がある彼女には最適だったかもしれない。

彼女がマスターに意見し、従わせるシーンがあった。性的な関係を介すると、優れた指導者といえど意見を無視はできないということがリアルに描かれていた。現代では、マスターも法の縛りを受ける。突出した神のような存在の男だとしても、自由に妻をとっかえてしまったら裁判が待っているだろう。・・・マスターも辛いのだ。

当時の衣装や風景の再現も素晴らしい。現代のほっそりしたモデル体型の女性は、あんまり出演していなかったようだった。ヌードのシーンでも皆が肥満体型で陰毛の手入れはしていない。今のモデル風だとリアリティを失ってしまうから、当然だった。

演出の方法には疑問も感じた。話が飛び飛びになっている感覚を覚えることが何度もあった。各々のエピソード、それぞれのシーンの舞台はちゃんと成り立っているのだが、それらが流れとしてつながっていない場合があった。唐突に場面が飛ぶ印象。

それもあって、この作品は大ヒットはしなかったはず。テーマから考えてもしょうがない。本当に楽しくない映画。でも、いろんな賞を取っている。業界関係者には受けそうなタイプの作品らしい。

宗教的指導者=マスターの意味を考え直してみた。

我々の社会で、一般的に指導者的なカリスマと言えば、宗教では池田大作氏以外には考えつかない。だが、彼に対して批判的な人も多い。公明党の委員長だった矢野氏もひどく批判していた。

経済面ではソフトバンクの孫社長や、楽天の三木谷社長はカリスマと言えるだろうが、マスターという言葉に相当しそうな雰囲気は、おそらく会社内部の人間を除き、彼らには感じられない気がする。松下幸之助の域には達していない。

医者の世界では、山中教授は既に権威者の風格が漂っているが、おそらく個人の能力から言えば山中氏より優れた資質の医者は多く、マスターというより幸運の持ち主といった、若干の軽さも感じてしまう。今後、実用化が進んで技術が身近になれば、誰もが感謝と尊敬を抱くマスターになれるかも。

山中氏は最近、過去の論文の画像に切り貼り処理を施していたことを明かしていた。残念ながら、我が国の科学者のトップと言える彼ですら、何らかの画像処理をしたし、記録は確実に残すという基本を守っていなかったようだ。つまり、日本の大学の先生の多くは、それ以下のレベルのモラルしかないだろうと推定されることになる。

実学的な学問に関しては、少なくとも結論は信頼できると思う。実際の証明ができるから。しかし、基礎研究の分野で再現が難しい分野の場合は、安易に信頼すべきではないだろう。海外の学会もそうだろう。

この作品のマスターには、彼の子供が「総て嘘っぱちだよ。」と言ってのける部分があった。独特の手法でトランス状態に陥る人がいても、それが宗教的に意義のあるとは限らない。人が無意識に何かする不思議な光景を目にした人は、そこに宗教的なものを感じるだろうが、実は単に意識レベルが変わっただけかも知れない。

マスターが公演の中で話す内容は、支離滅裂だった。各々の言葉は力強く、話す表情も豊かで力を感じさせるが、本質的に内容はない。マスターがダンスを見せる場面で、急に女性達がヌードになって見えるシーンも、禍々しい面を表現しようとしたのだろう。

新興宗教は、もしかすると原始宗教を再現しているのかもしれない。書物に記載されていないだけで、いたるところで優れたマスターが登場し、消えて行ったのではないかと思う。

原始的時代の人は、たぶんトランス状態を分析することはできない。今だって分からないのだから。それに神聖なものを感じ、それが大勢の人の中で繰り広げられることで宗教として成り立っていったのだろう。教会で教えられるだけとは違う、目で見て得た確信に近い体験を通じて信じたのでは?

教団や教典を持つ巨大な宗教の場合は、単にトランス状態を体験できるかどうかより、社会的な活動など、実態のある集団になっているから、様相が違う。規律や規則の類、集団としての方針、広報活動、財政管理など、事務方の活動が大きな要素を持つ。でも新興の集団の場合は、カリスママスターの個性に惹かれるだろう。

今より死が身近で、怖れることが多かった昔は、誰かに不安を打ち明け、解説してもらう必要も大きかったろう。昔と今とでは、マスターのあり方も違うはず。ただし、近年でも大戦争や大災害の後は、心の拠り所を失う人は多いから、宗教のあり方も変り、新しい宗教や宗教に限らない考え方、何かのノウハウが栄える素地はある。

結局のところマスターも主人公を救うことはできなかったようだ。強い思い入れで指導していたはずのマスターだったが、限界はあった。そこを描いてしまう点で、この作品は新興宗教をかなり分析していたと言えるかも。でも批判的すぎるという印象も受けた。

 

 

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