映画評

  • 当劇場は劇場主のための映画館です。訪問者を期待しておりません。内容の客観性、正確性は保障できません。でも、真摯な批評を目指します。

劇場主

  • 乙女座 AB型 どの占いでも最悪の運勢 内科クリニックやってます。

Conflict of Interest

  • 特にありません。

おことわり

  • 当劇場は誹謗中傷を目的としておりません。もし権利を侵害されたと感じられた方は、申し訳ありませんが管理会社や公的機関に御相談ください。

« 東京公園(2011) | トップページ | 連合艦隊(1981) »

2014年4月13日

現金に手を出すな(1954)

- 成果に手を出すな -

老境にさしかかったギャング。引退を前の大仕事に成功したが、新興ギャングがブツの横取りを計画。相棒を拉致される。人質を引渡し、金を奪い返せるのか?

・・・1954年製のギャング映画。有名な作品だが、初めて鑑賞。こいつは確かに傑作だと感じた。後の東映映画のような、人情とバイオレンスが入り混じった独特の雰囲気を持っている。主人公達の演技は渋すぎて、今の若い人には芝居くさいと思われるかもしれないが、雰囲気は良い。

DVDの画質は驚くほど良かった。リマスタリングの技術が進んでいるからだろう。高性能の画質調整をできるようになってる。作品も、よいものを作りたいと考えていることがよく判るような作り方。

子供には向かない作品だが、こんな作品はマセガキにはたまらない魅力を持つ。ギャング団に入会を希望するわけではなくても、秘め事めいた作戦を共にやった仲間は、友情~腐れ縁~迷惑な感情のような複雑な心理が発生する。それを裏切るクールさが良いか、もしくは情に流される方がよいかと問われると、普通なら情を選ぶ。子供ながらに、仲間を裏切るのは辛いのだ。

最近のヤクザ映画と違って、最初から殺し合いが始まるわけではなく、とぼけた風貌の相棒とレストランやバーのような店をうろつき、女達と付き合ったり会話を楽しんだり、あんまり仕事らしいことはせずに過ごす時間が長い。

実際のヨタ者がどんな風に時間を過ごしているのかは知らないのだが、想像するに大金をつかんだら、後は小まめに働く気はしないと思う。実際も始終だべりながら、店店を回ってあーでもない、こうでもないと話してるのでは?

その会話が実は、この作品では非常に役立っている。主人公らの結びつきや、互いの考え方などが理解できるように、古典的な手法で描かれているようで、基本に忠実に演劇をやっていることは間違いない。

仕事しろよ!と言いたくなるような主人公の生活ぶりだが、好感を持ってしまう。仲間を思っていることは分かるし、ただの殺し屋ではなく、尊敬らしきものを集めていること、ユーモアも分かる人物と理解できる。悪人かも知れないが、好人物であることは分かる。

今の映画だと、犯罪者の二人組みが登場すれば、片方は変人で考えの足りない人物か、もしくは完全な異常者であることが多い。タランティーノ監督の作品で、監督自身が演じるような極端な異常者が代表で、そうでないと客に受けないと思っているようだ。でも、本来はそうと限らない。この作品を観ると、そう思う。

それに、今のドラマではあっさり殺しをやってしまっていることが多い。無表情、無感動のまま、あっさり殺す、それがクールな現代風犯罪者と見るのが流行のようだ。仲間のために、あるいは復讐に燃えて・・・という表情は流行らない。逆に、古い映画のほうが新鮮に写る気がするのは、私だけだろうか?

ラスト近くの銃撃のシーンが興味深い。実際の戦いの場合、車を運転しながら銃を撃つのは相当難しく、滅茶苦茶な乱射戦になると思う。当時の車だと、おそらくクッションやハンドリングの性能に限界があったろうから、激しく揺れる車の中で、どこを撃っているのか分からないくらい、酷い戦いになっただろう。

私が敵のギャングなら、ダイナマイトを複数投げつけて、後は用意した鉄板か何かに隠れて逃げることを考えるだろうか?爆弾一発だけじゃ、生き残る相手が必ずいる。追って来られない状態にする必要があるから、もう少し工夫すると思う。この当時のギャングは勇敢だったのか?

4月9日の午後、テレビでは小保方研究員が記者会見をやっていた。注目を集めるSTAP細胞捏造の疑惑に対して、自説を主張するためだったらしい。真相は分からないが、明確に自分は実験に成功したと述べる態度は勇ましい。心労は相当なものだったろうが、少し前に辞任した渡辺党首よりも立派な態度だったと思う。

もし彼女の言う通りなら、彼女を陥れる意志が誰かに働き、個人的にか組織的にか分からないが、彼女の成果を破壊し、名誉を失墜させ、何かを得るか何かを守ろうと、さながら敵のギャングらのごとく、周到な準備をして行動していることになる。ネット上での攻撃は下品だが、同僚らは雑誌に手記まで発表して自分の擁護に走っているようだ。

事実がどうかはともかく、潔くない。この作品の場合は、主人公のために命を張ってくれたギャングがいた。同僚らはギャングにも劣る態度だ。もちろん女性だから、若いからと擁護する必要はない。決着が着くまで、自分は自分の責任の取り方を考え、覚悟を決めておくだけで良い。それまでは自分に与えられた仕事をこなし、結果は甘んじて受け入れるべき。

共著とは、自分の著名に責任を持つことである。もし間違いなら、吟味しなかった責任はある。騙されたとしても、責任は全うしないといけない。事の真相は、再現実験が成功するか否かにかかっている。他の施設が成果を妬む、または横取りしようと画策しているだけの可能性だってあるのだから。手記を発表して逃げようなんて、人としても研究者としても許されない態度。

科学者なら、批判する場合は実験を試みて、不可能だと確認することが望ましい。何も試みずに批判した後、もし小保方氏が正しかったと分かれば、責任をとって引退する覚悟は必要。理研の上層部や、山梨に移った研究者なども、総ざらえで責任をとるべき。

会見は断片しか見なかったが、疑問点は多かった。実験する場合は、記憶違いや見逃しを避けるため、私がやっていたようなマイナーな実験でも、年間で数冊はノートが必要になる。何時に何を入れた、何回転で沈殿させた、何時間培養した、何分遅れた、何に失敗したなど書くだけでも直ぐ数ページは要る。4-5冊しかないとは驚く。実験の態度に問題があったとは言える。

成功したのが200回とは驚いた。200回も成功を確かめる方法とは何だろうか?そこを聞かないといけないのだが、記者達は科学実験の経験がなかったのか?STAP細胞であるという確認は、おそらく複数の蛋白を検出し、分化を証明しないといけないが、それには相当な時間がかかる。200回も実施できるはずはない。

したがって、何か証明方法を勘違いして成功を誤認したか、あるいは誇張したり作為的に述べた可能性が高いことになる。幼弱な細胞を作製したのが200回であっても、その総てがSTAP細胞とは限らない。‘成功’という言葉を使う表現の正確さに問題があった。~を検出できた、~が発現した、成功と思えるのが200回といった表現のほうが正確では?

ただし、あんな吊るし上げ状態で正確な表現は期待しにくいので、会見の内容でもって事の是非を論じることは適切ではない。再現性に期待して、経過を見るしかない。その間に、ギャング団ならぬ某国のベンチャー企業が、STAP技術の特許をがっぽり取得していたりして・・・成果を横取りするな!と言っても遅い、なんてことはないだろうか。

 

« 東京公園(2011) | トップページ | 連合艦隊(1981) »