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2014年1月29日

ハンナ・アーレント(2012)

Heimatfilmetc

- 再発予防のセンス -

ドイツ系ユダヤ人の哲学者ハンナは、ナチスのアイヒマン裁判を傍聴し、手記を発表する。しかし、それはアイヒマン擁護ともとれる内容で、激しい非難を受けることとなる・・・・

・・・実話らしい。そう言えば「ホロコースト」だったか、アイヒマンが普通のサラリーマンのように描かれた番組があったが、あれはハンナ・アーレントの影響を受けたものだったのかもしれない。劇場で鑑賞。観客は数人。

彼女の友人達には存在感があった。哲学者仲間、その妻、秘書など、それぞれの立場がよく解り、彼女の発表が彼らを傷つける結果になることなど、各々の人物の表情でよく理解できた。夫婦の会話や生活の様子も丁寧に描いてあって、ドラマとして高級な印象を受けた。

テーマは、‘非人道的行為の再発予防’とまとめることができる。でも、それは根底に隠れたテーマであって、作品で直接描かれていたのは、発表がもたらす人間関係の破綻、誤解、無理解と言えるかも。単なる社会派ドラマとして観た論評もあるが、本来彼女がこだわったのは再発予防と思う。

そんなテーマだから、この作品は子供向きではない。大人でも、情に流される凡人の場合は、なかなか彼女に賛同できない。私もそうだ。敬意は表したいが、彼女のように論じることはできない。「あんなヤツを許すなんて、考えられない!」といった感情が先に来るだろう。恋人と観る映画としては、高級感を感じたい時は良いかも。そんな風に思う。

彼女が講義で自分への批判に反論した後、学生たちは拍手喝采を送ったが、友人の一人はそれでも彼女を許さなかった。あれは仕方ない。彼女が正しいとしても心情的に許せない、それくらいの大犯罪の中心人物を論じたのだから。観る人も同様かも知れない。彼女に賛同できない人がいまだにいるだろう。

タイトルとして、「アイヒマン裁判」「アーレントVSアイヒマン」といったものも可能だったかも知れない。アーレントを演じていたのは有名なドイツの女優らしい。本人としか思えないような迫力だった。いろんな賞をやらないといけない気になるような、凄い名演だった。

でも、まず気になったのは、タバコを始終吸っている点。他の登場人物もそうで、当時の風習とは言え、常識の違いに驚く。私は子供の頃さえタバコの煙が嫌いだったが、あれだけ吸う人物は、いかな優秀な学者としても何かおかしいセンスを持っているのではないかと疑う。禁煙運動が一般的になる以前の段階でも、体のことを考えなさ過ぎると思う。

哲学的な論理を使えば、おそらく禁煙せよと言われても言い逃れることが可能。それこそ、こちらが煙に撒かれてしまうってわけ。彼女も、友人の誰かをタバコで殺してしまったかも知れない。夫や彼女自身も動脈硬化性の病気で倒れているようだが、哲学では健康維持のためのセンスは持ちえないのだろうか?

タバコに害があるという研究結果が出る以前に、常識や勘のレベルで禁煙できる人だっていただろう。哲学を持ち出す必要もない。そもそも、哲学がどのように役立つのか、私には全然解らない。

ハイデッガーの高名は知っている。でも彼がナチに協力していたとは知らなかった。しかも、アーレントと不倫していたとは!哲学は不倫を禁止していないようだし、ナチス擁護も、どんな風に結びつくのかは知らないが、複雑な論理をめぐらせば可能なんだろう。そんなら、日本で閣僚が神社に公式参拝するのも、論理をうまく使えば可能だ。

ハイデガーとの関係も、もしかすると彼女の論評に影響していたのかもしれない。ナチ関係者を擁護する部分があった可能性はある。どう擁護するか、理屈をこねくり回した結果と、悪くとれば解釈もできる。

哲学は、どうやら人間性を培うものではないようだ。アーレントは、もしかすると人間性を目指そうとあがいて、それであのような発表をしたのかもしれないのだが、彼女の周囲の人物を始め、彼女の師も、倫理に反する部分が垣間見れる。

哲学が欧米で盛んなのは、たぶん弁論の場で有効だからではないか?相手の言い分を、著名な人物の格言で論破したい場合に、哲学の学習は非常に有効だ。格言集を記憶し、直ちに使えるためには哲学の学習も必要。つまり、社会の中での競争の道具として、たしなみとして必要という面は感じる。

日本の場合、哲学者の格言を持ち出すと逆効果。役に立たない思考方法に陥ったアホウくらいの評価を得てしまう。口ばっかり達者なディベート型の人物は、中身がないとして敬遠される。情の段階で話が進んでしまう欠点はあるから、日本型が良いとは言えないが、ディベート優先も内容が伴わないといけない。

単純細胞型の私の場合、ディベート的な発言は最初から信用しない・・・というか、頭が単純すぎてついていけないようだ。実証せよ、証明せよという姿勢が大事だと感じている。だから、今流行のEBMが出てくる前には、実証主義で治療している人間は私くらいのもんで、周囲としょっちゅう方針の対立を生んでいた。

ガーゼ交換などは、その最たるもの。交換すると肉がガーゼに付いてしまうので中止すると、看護婦が外科部長に密告する。怒鳴られて仕方なくやってると、理解のある外科医が「俺もおかしいと思ってるけどねえ・・・」となぐさめてくれる。怪我の措置は誰も見ていないところでしかできなかった。内科的な治療もそう。昨今、やっと自分の治療にガイドラインが近づいてくれた。

真実にこだわるのは危険だと、だから身をもって感じる。皆そうだろう。周囲が許さない人物に対して、悪い点ばかりじゃないなどと言うのは、安全を確保してからでないと止めたほうがいい。無理解は世に満ちているのだから。イジメの行われる場所で、イジメルなと言えないのも同根だろう。

アイヒマン裁判を、哲学的に評価する企画そのものが失敗だったような気もする。高名な哲学者だし、ナチスの犠牲者の彼女だから、文章の重みが違うだろうと企画者たちは思ったのだろうが、哲学者というものを理解していなかった。どんな論理を組み立ててくるか解らないアナーキーさを持っているのが哲学者。他のジャーナリストにすれば良かったのだ。

でも、編集者達のおかげでアーレントの文章に注目が集まり、裁判を再考するきっかけにはなったろう。その点を感謝しないといけない。彼らも命を懸けたんだろう。それにしても、勇気のある発表だった。彼女自身も、出版社も、怖ろしい危険にさらされるのは自明の利。なぜ彼女らが、そんな発表をしたのだろうか?単に真実を書きたいという良心か?

奇をてらう内容でないと注目を浴びないので、危険であっても譲れないと考えたのか?犠牲者である自分なら、表立っての非難は免れるという計算が働いたのか?真相は解らないが、どれもが真実かも。いろいろ考えたはずだ。怖ろしい時代を潜り抜けてきたつわものの彼女のことだ、ばか正直なだけではないはず。

イスラエルの法廷がナチス幹部を裁くのは、正当なことだろうか?こんなことを考えることがモサドからすれば危険だろうが、あの裁判は国外における犯罪を扱い、外国人が当時の外国人(今は自国民だとしても)を虐待した罪を裁くこと、しかも被告は正式な手続きを経ずに連行されている点など、正当な行為とは言えない。アメリカだったら、棄却されかねないと思う。

そのまま収容という選択肢はなかったろうか?本でも書かせて、自分の行為を記録させることは意味があると思う。彼を許すことなど、ユダヤ人にはありえないことなのは解るが、逮捕のために違法行為を働き、非人道的手段を使ったことは間違いないから、人道面で裁く整合性が損なわれてしまう。誰がやったか解らない形での暗殺が、もしかするとベストの選択肢だったのかも。・・・これはイスラエル政府にとっての話で、それも非人道的なんだが。

さて、メインテーマ。虐殺の再発は予防できるだろうか?法律、役所の組織形態、命令系統、宗教、哲学、権利の意識、経済活動、人道、倫理、それらの関係について色々考えるが、結論めいたものは出ない気がする。法律や宗教が再発を予防するのは難しく、それどころか余計に激しくする傾向があるので、再発予防は‘再発予防学’のような別な観念に期待するしかないのかも。

法律でも宗教でも、以下のような理屈の流れが生じる。虐殺予防→規則の徹底→反抗する人の規制→・・・→虐殺しかない!理屈の偏向が成立しうる点を忘れてはいけない。法律家、宗教家をはじめ、一般に誰でも成功欲、出世欲や保身のための情動に勝てる人はいない。情動に左右されて、虐殺の危機管理のような問題は後回し。話題に持ち出すことすら嫌悪。それが現実。

法的に有効な手続きを経て誰かを攻撃せよと決まり、命令されたら、その行為が非人間的だから嫌とは言えない。法に従う義務がある。仮に拒否できても、それで職を失い家族を犠牲にしたら、家族に対する責任を破棄したと誹られる。もちろん自分の命が危険にさらされる場合もある。宗教団体における指示でも同様。指導者が敵を殺せと指示を出しているのが現実。人道と他の要素は相反する。

経済活動で倫理に反すること・・・それも珍しくないはずだが、利潤を得る権利や合法性を盾にとられると、人道主義側が負ける。権利の侵害と、逆に罰せられる。経済が成立しないと困るので、周囲の人たちからも阻害されかねない。

非道な行為をどう防ぐか、再発しないようにするかを真面目に考えると、法律の作り方、経典の記載内容、組織の作り方から考え直さないといけないのだが、実際問題として無理。宗教も法律も、何かを規制する力には強制がともなう。実効性=強制力。その結果、必ずのように非道な部分が生じる。残虐な行為が、正当な命令の元に繰り返されることになる。

法には、もっと倫理に関する規定を盛り込まないといけない。そのセンスが足りない。非人道的な段階に入った時、命令を拒否できる規定、命令実行と拒否の責任のとり方の規定、命令を拒否しても安全が確保される規定など、複雑な内容を始めから明確にしておく必要がある。曖昧にせず、命令とセットで命令拒否の意味が誰にも解り、裁判所や上司が介入できないよう規定する必要がある。専門的知識がなくても解るような、そんなレベルに法が達していない。

再発予防のための危機管理・・・その視点が大事だと考える。「法の規定を厳格に・・・」「宗教の指導通りに・・・」「自由な経済活動を維持する・・・」「各自の倫理感を向上・・・」そのような主張では、予防できっこない。まず再発予防を優先すべき。

その視点で思い返してみれば、虐殺の再発予防策を、劇中でハンナ以外の誰かが語っていたろうか?ハンナにはそのセンスに基づく発言があったが、他の誰も語らないで劇に違和感を感じないようでは、やはり再発予防のセンスは一般的でないこと、その結果として実際に再発すると考えざるを得ない。

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