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2014年1月14日

ガン・ホー(1986)

- 異文化について -

企業が撤退したアメリカの地方都市。起死回生の一手として、日本の自動車会社に進出させようと計画。しかし、異文化の日本人は強敵だった・・・

・・・80年代、日本車の攻勢にさらされた米国の自動車工場、住人と日本の会社員達のドタバタを、コメディタッチに仕上げた作品。DVDで鑑賞。

作品自体は知っていた。でも、なかなか観る機会がなかった。当時は雑誌でさかんに紹介されていたが、ヒットした記憶もないし、DVD化が話題になるような名作とも思えない。映画館に行く暇もなかった。必然的にビデオ屋の片隅に陳列される運命の作品と評価する。

マイケル・キートン、ジョージ・ウェント、ジョン・タートゥーロといった懐かしいメ面子が出演している。マイケル・キートンは自分の感覚では理解不能な役者だった。なんで彼がバットマン役に?カッコ良いイメージは全くない印象だったが?いまだに彼の評価は解らない。

作品を観てまず思ったのは、別な描き方はできなかったのだろうかという疑問。町が衰退する哀感を丁寧に描き、単なる喜劇ではなく、故郷に対する愛情や敵との友情をテーマに、泣き笑いをともなう劇にしようと思わなかったのかという点。少しシリアスな面を入れるということ。そこまで考えないから日本の自動車会社にしてやられたんじゃ?と、これはチャチャ。

もしかすると、ドタバタコメディが好きらしいアメリカ人に観てもらうためには、能天気な主人公がバカな失敗、偶然の幸運を演じてもらわないといけないという意識があったのか?とにかく、社会問題に起因するドラマにしては、底の浅い映画だった印象。

でも当時のデート中に鑑賞する場合は、もしかして悪くなかったかも。バカみたいな笑いが、結構よい状況を作る可能性もあるから。さすがに今は無理だろう。子供が楽しめる映画ではないように思うのだが、本当におバカな子供は、いっときの楽しみとして喜んでくれるかも。でも、あんまり勧められた趣味とは思えない。

主人公が強がって、日本人経営者の前で車に乗り込み、動き出したらタイヤが外れる・・・そんな漫画的ギャグは、アメリカ人でもそれほど爆笑できなかったのでは?陳腐すぎる。高級な喜劇とは、少なくとも自分には思えなかった。

そのシーンの日本側代表である山村聡。小津映画などで良い味を見せていたインテリ俳優だが、この作品でキャラクターとして成立しうる存在だったろうか?魅力を感じる役柄とは思えなかった。彼に失礼ではなかったろうか?

日本人社員を演じていたのは日系の米国人達らしく、日本語の発音がおかしい。中国人のようなイントネーションで、ローマ字読みのセリフを話している。せっかくだから、ちゃんとした日本人の俳優を連れて行けば良かった。端役でも個性を出させると、映画の面白味は増しただろうに。そんなことも解らないようでは、日本の自動車会社にしてやられる・・・と、チャチャ。

編集にも問題あり。主人公のバカぶりを強調し、どこに行ったら良いのか解らないことを表現するため、日本の田んぼやカプセルホテルで苦労する主人公を写していたが、順番を考えてアメリカ人にも解るように、主人公がどう迷い、何を間違ったか表現できたほうが良い。細かいことだが、観客には勘違いが無理なく解ったほうがいいから。

ガン・ホーというのは、元々は中国語らしい。中国と日本の区別がつかないで使われたのかも知れないが、イメージとして勤勉な民族である日本人の雰囲気を表す言葉だったように思う。そのイメージを、ノルマ達成に努力した町の人達をも含めて使ったのか?

今のアメリカは好景気らしい。消費が伸びたと聞く。それによって日本の景気も好調で、もしかしたらアベノミクスの成功と思われている好況も、実は完全にアメリカの好景気が押し上げた結果なのかも知れないという意見もある。確かに否定できない。また、EUの景気に不安があるので、とりあえず日本に投資しようと考えるのが普通。アベノミクス自体も間違いではないと思うが、効果が続くほど優れているとは限らない。

いろんな要因があるだろうが、何といってもシェールガスなんて、想像もしていなかった資源が開発されたことが大きい。とてつもない資源が新たに入手できるとなれば投資に対する気分が高揚し、産業全般に金が舞い込み、総てが活性化されるだろう。わざわざ中国の人件費を当てにする必要もなくなる。米国内に投資し、安い費用で生産すれば良い。少なくとも、その方向で期待が高まり投資が増える。

今のガソリンの値段は、1Lあたり税込みで150円少々だろうか?考えてみると、PETボトルの飲料水でも近い値段のものはある。水と油が同じ値段で入手できるなんて、税金で高いはずの日本の燃料も知れていると言えるから、アメリカでは雨水程度の感覚かも。日本の感覚で幾らくらいなんだろうか?

とにかく、この状況は相当続きそう。すると日本の好景気も続くはず。就職難で苦しんだ雰囲気は、昨年くらいから急に変わってきた。

80年代の米国の製造業は違った。普通に日本車と勝負していたら、米国全部の自動車会社が潰れていたろう。自主規制が働いたから生き残れただけで、車の出来が全くレベル違いだったと思う。徳大寺氏の本では褒めていなくても、故障の割合、総合的な安定性、イメージ的な面で日本車は優れていたはず。

根本的な技術では、今は差が少なくなってきた印象。燃費も、ハイブリッド技術が一般化した関係で、数割程度の違いに落ち着きつつある。やがてフォルクスワーゲンなどから一段と優れたシステムが登場する日も近いはず。

今のアメリカ地方都市は、たぶん企業の誘致については80年代よりは良い状況ではないかと思う。日本の自動車会社は、ほとんどが進出してしまったようだ。スバルなどは、アメリカのほうが主要市場なので、車の設計自体がアメリカ仕様になっている。おかげで車内が広く快適にはなった。

作品の主題は、日本人とアメリカ人たちの文化の違いによる交流の失敗、間違い勘違い対立、そんなものだった。特に、仕事に対する姿勢の違いは、雇用被雇用の立場となると非常に重大な問題になる。労働運動の激しさは、アメリカの場合はギャングや銃撃も絡むので、笑えない世界。喜劇にはなりにくい。

チャップリンのように、もっと主人公は大きく勘違いしていたほうがよかったはず。大きな嘘や哀れな失恋、惨めな境遇など、徹底ぶりが足りなかった印象。そもそも、マイケル・キートンではなく、もっと小柄で貫禄に欠ける役者のほうが良かったのでは?

・・・ここで異文化、特に日本の異文化ぶりに関して

日本人の働きぶり、生き方や風俗は米国の一般人からすると笑い話でしかなかったようだ。

ワーカホリックぶりに関しては、以前は随分と報道されていた。我々も自嘲気味に感じていた。狭い家に暮らし、ろくな休暇も取らず仕事をこなす日本人は、当時の米国人にとっては気味の悪い異人種だったろう。もっと休めといった意味の評論をやっていたが、あれは日本のマスコミの意志ではなく、米国側の戦略だったのでは?

米国政府からの要求めいた希望に、マスコミが総出で応じたような、しつこいほどの報道ぶりだった。でもアメリカの研究者やビジネスマンなど、本当に一流と言える人たちは、日本人よりも激しくはたらいているらしい。気が狂うほどの忙しさと底なしの強欲、それに見合う桁違いの収入は米国の仕事人間を作る。休暇は日本人より派手らしいが。

・・・安倍総理の靖国参拝に関して

一般の米国人にとって、安倍首相はどう写るのだろうか?あまり良い印象は持っていないと報道されている。仲良くすると中国を刺激するからかも。だが、ポーズかも知れない。平成25年末の安倍総理の靖国神社参拝に対して、米国政府は瞬時というべき早い段階で非難の声明を出していた。あまりに早いので、事前に用意していたはず。つまり、事前に相談もしていたということ。理解していたかどうかは解らないけど。

アメリカとしては、対立を煽る日本の言動は好ましいとはいえないだろうが、日本が中国側に尻尾をふるような最悪の事態は回避できるし、見かけ上、日本に米国が批判を加えると日本を悪者にできるから、この場合は非難すれば良い。そこを考えたに違いない。

真相は解らない。国際関係における発言には独特の解釈の仕方がある。批判していても、微妙に表現を和らげるか相手を特定しない場合は、「ある程度許すよ」といったメッセージになることもあるらしい。言葉の使い方を知っていないと、誤解してしまう。私のレベルでは理解不能。

アメリカの了解なくして日本が何かやらかすのは難しい。参拝は許可するが、米国政府は批判するぞと事前にうち合わせしていたはず。総理の参拝は、中国政府に対する揺さぶりの意味はあるし、日本の右翼に対して総理が約束を果たすギリギリの時期だっただけとも思える。

たぶん、総裁選挙において、参拝は重要な交渉材料だったのだろう。参拝の約束を果たさないなら、梯子を下ろすぞと脅されてもいたのでは?そもそも、本来なら石破氏が総理になるはずだったのを覆したのだから、右翼や米国との取引がなかったはずはない。

中国にとって、安倍総理のような人物が存在すれば、日本との対決をネタにできる利点がある。軍国主義者がいる日本は中国の明確な敵。現政権を支持せよ、政府を支持しないと日本の味方だといった問題のすり替えができる。まさか、中国政府との打ち合わせにより、昨今の安倍氏の言動は決められたのか?とにかく、中国にとっても安倍政権はありがたい存在。

日本にとっても、当面は安倍氏が総理のほうが良い。好景気のイメージが定着してしまったし、中国政府が転覆した場合は激しい経済変動がやってくるので、互いに批判しながら安定してるのが最善と思う。攻撃的な言動に制御が効くなら、ベストの総理かも。

・・・中国の真意に関して

中国が覇権の拡大を望むのか、その真意もさっぱり解らない。勢力範囲の拡大には、それなりの費用がかかる。日本や東南アジアを制圧し続けるとしたら、財政的に破綻する危険もある。よほど経済的な好調を維持できなければ実行できない。輸出依存度が高いはずだから、戦争のような混乱があると酷い状況になるだろう。それは首脳達なら知っているはず。

でも、やむをえず拡大路線に走らざるをえない場合はありうる。海外に資産がない軍幹部は、高級官僚が単身生活しつつ自分達の上に納まるのが許せないかも。文革のようなクーデターはありうる。日本側が配慮のたりない言動を繰り返し、看過すれば政権が持たないと判断したら、打って出ざるを得ないだろう。

兵士は多いので、確かに東アジアに覇権を確立することは可能だと思うが、米国の世論が黙っているか、商売相手の他国との貿易がダウンしないか、危険性も大きい。日本とは貿易をやっていたほうが利益があるのに制圧しても何かを得る可能性は低く、費用ばかり嵩むだろう。何のために軍事行動をやってるんだと、国内からも非難されるはず。

チベットやモンゴルの制圧と、日本やベトナムの制圧は意味が違うと思う。例えば日本の歴史認識が許せないので制圧したといった理由付けが可能であっても、やがて侵略という評価が定着するはず。影響力を強めることはできても、制圧し続けるのは無理。素人考えだが、そんな風に考える。

たぶん国内に向けての顔があるので、中国政府は声明で攻撃的なことを言わないわけにはいかないが、資金はどうか?圧倒的な軍事力を持つ旧ドイツやソ連だって、結局は崩壊してしまった。維持というのは難しい。拡大路線は損するのでは?

もちろん、日本側としても何も抵抗しないわけにはいかないだろう。権利は主張し、実際の摩擦は避け、互いの破綻や被害を避ける努力は必要。制圧されるような、最悪の状況も想定しないといけない。準備を怠ることはできない。

・・・法的な面から素人的考察

閣僚の靖国参拝は、批判のネタにはなっているが基本的には国内問題だと思う。本来、海外のいかなる国も、過度に非難すべき事象ではない。彼らの反感も心情的には理解できるが、批判だけに留めるべき。ただの非難を超える行為、例えば交流事業の中止をやった場合は、内省干渉に相当すると思う。

政教分離を唱えた法的な面から言えば、閣僚は宗教団体とは一線をひいた関係であるべきと思う。国を代表する人間の参拝は、出雲や伊勢も含め、本来は法で禁止された行為。歴史を思えば、伊勢神宮くらいは特別で良いような気もするが、文面どおりに解釈すれば違反。法を改定してから参拝すべき。

政教分離という規定が正しいかどうかは別問題。敗戦によって勝手に決められたものではある。日本の歴史では、神社と統治機構に独特なつながりがある。江戸時代まではそうでもなかったと言えるが、明治以降は完全にそれを目指していた。だから、分離分離と言ってもできない人が多くて当たり前。古代の王朝がそのまま現代に至ったかのような特殊な文化、伝統。ただし、法は成立しているので、遵守せざるをえない。

欧米だって充分に特殊。戦没者の墓地には十字架が立てられている。多くは、ただの石碑ではない。もろに宗教色が国家権力とかぶっている。でも、日本と状況が違うことにより法の規定がないので、たまたま問題視されないだけとも思える。靖国神社参拝は、日本流の形式で戦没者墓地に参っているとも言えるが、法的には妙。

戦犯の合祀に関しては、政府が口を出せる問題ではない。法律上はそうで、この点に関しては法を根拠にしているようだ。私達も口出しはできない。神社が独自に判断すべき問題。そもそも‘戦犯’は欧米が決めたもので、勝った側が裁判というのは無茶な発想。勝手に裁く権利はない。ただし、法の規定を選んで都合よく事を進める態度は、周囲に悪影響を及ぼしかねない。

・・・彼らの意志に沿うのか?

私の個人的心情としては、敗戦の将は責任をとるべきと思う。あくまで自分に置き換えての話で、私自身が将なら、そう思いたい。自分の失敗を恥じて、許して欲しくない。終戦時の将はともかく、開戦時の将や参謀達は責任をとって「自分には合祀される資格がない」といった遺書を書いて欲しかった。犠牲が大きすぎたのだから。あやうく国を崩壊させるところだった。彼らには気の毒で、あくまで心情的な話だが。

犠牲者の心情のほうを、より優先させたい。靖国神社は本来、戦地で死んだ兵士を供養する神社だと思う。無残に散った哀れな兵士達に敬意を払うためには、敗戦の将への英雄視や特別視は相応しくない。どれほど立派な人物だったとしても一般の兵士と同等に扱うべき。軍における序列に関係なく、奉って欲しい。

どんな形であれ、奉じかたによって国民に迷惑をかけるようなことがあってはならない。そもそも、死後に国を批判されるネタとなることを、彼らが望むだろうか?

国の不利益を承知で独自行動する伝統は昔からある。例えば幕末には、天誅と称して互いに敵の勢力を殺しあった連中がいたらしいが、その心情には上役や同僚におもねる部分、外面を気にする部分、自己顕示欲、自己陶酔など、動物的ないし良く言っても情動的な脳の働かせ方を感じる。真剣で真面目な考え方だが、冷徹で無慈悲な敵にとっては、良い標的でしかない。

主張が正しいかどうかは別として、閣僚の基本的な態度が良くない。法治国家であることを強調しながら、法を適当に解釈して無理を通すと、やがて悲劇を生む。良いタイミングで参拝したと首脳達は思ったかも知れないが、後で意味が出てくる下手な一手かも。海外から見れば、どう見ても法を盾にとったごまかしで、攻撃の材料を与えることには違いないから。

力を損なわないこと、敵に攻撃材料を与えない、敵を知り隙を見せないこと、それが戦いの原則と思う。自らは犠牲となり、約束違反をなじられて失脚しようとも、国益を優先すべきでは?

 

 

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