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2014年1月 8日

甘い生活(1959)

Astorpictures

- リメイクの時期  -

文芸を目指しつつも堕落した記者が主人公。ゴシップ記事集め、パーティー、美女達との交際に日々うつつを抜かすが、恋人とは険悪な状態・・・

・・・かなり長い映画。DVDで鑑賞したが、意外に時間がかかって驚いた。やや冗長な印象を受け、もっと短くできたのではと思った。‘ドルチェ・ヴィータ’という言葉は映画の流行りの域を超えて、普遍的なイメージを持つ言葉のように感じる。この映画のインパクトが大きかったからではないか。

主人公のマストロヤンニの顔が非常に良い。影のないハンサムでは、この役のような魅力は出てないだろう。陰鬱な表情が必須だった。大柄でもいけない。

意外にも、彼自身は作品の中で酔っ払ってばかりではない。ラストで誰かの屋敷に押し入るパーティー以外では、素面に近い。この点は良かったのかどうか解らない。ひどく酔って無茶するシーンと、苦悶するシーンを交互に写したら、主人公の苛立ちが解りやすかったかも。

甘い生活が、戦後のローマで一般的だったのか疑問に感じてしまう。歴史のある街だから、復興も早かったろうとは思うものの、国全体の疲弊がなかったはずはないし、この物語の舞台としては、絶対にハリウッドなどのほうが相応しいと思う。

大きな屋敷や城は、ローマ近郊なら確かにたくさんあったろう。そこを舞台に、優雅な生活を送れる富豪も、戦争を生き延びてたくさんいたはずではある。ただし、巨大なリムジンを連ねるアメリカのようなパーティーではなく、スポーツカーであっても小型車が主流、やはり経済力の差は出ている。

屋敷の部屋で、床に座ってギターなどを聞きながら居眠りしている姿が、この作品に登場する人物の代表的な姿。アメリカなら、派手なダンスなどで疲れきるまで盛り上がっていたろうに。

主人公のような人物は実際にいたのだろうか?たぶん、監督たち自身が有名でチヤホヤされ、パーティー三昧の派手な生活をしていたのかもしれない。監督個人がどうかは知らないが、スタッフの若手の中には必ず浮ついた人間がいる。自分たちの生活の空しさをもヒントにしたような気がする。

「ローマの休日」でも記者とカメラマンが登場していた。戦前から、報道の世界でしのぎを削る連中はいたはずで、有名人を取り囲み、いっしょに派手な生活をおくり、友人関係を作ろうとうごめく人間は多かったはず。芸能界に限らず、権力や金が動くところ、ハエのようにたかる人間は古来からいたはず。そこを題材にしようという、そのアイディアが素晴らしかった。

「NINE」だって、その流れにあるのかも知れない。監督に取り入ろうとする女性記者、際だつ美人女優達、スタッフらが、スランプ状態の監督を追っかけていた。あの映画も、作りようによっては悲しみをたたえたリメイク版甘い生活となりえたかもしれない。

パパラッチオという名前のカメラマンがいて、改めてパパラッチの由来が気になった。蚊というイタリア語が語源になったと書かれていたが、この作品で一般的になったようだ。確かに、バイクなんかで有名人を追い回し、相手のプライバシーなど気にしない様は、強い嫌悪感として印象に残る。

主人公が敬意を覚えていた知人が自殺した後、その婦人を追いかけるパパラッチ達は非道極まりないが、今でも彼らはああだろう。そうしないと記事を書けないし、写真が載らないと記事にならないから、道義的に悩むことも許されない。

この作品は、子供には受けない気がする。リマスタリングされていて、画質音質は良かったが、子供が喜ぶようなシーンは少ないし、全体として難解かつ長い。恋人と選んで観るタイプの作品とも思えない。これは、現代風に作り直すべき時期が来ているように思う。バブル期の日本を題材にしても良いかも。

もっと短く作ったほうが、興行的には良かったと思う。パーティーシーンはもっと派手に、そして騒ぎの後の疲れきった酔っ払い達の惨めな姿はさらに惨めに。無意味で、嘘や虚勢ばっかりの会話を強調して描くことに徹し、何か冒険させて事故や怪我によって激しい苦痛に苦しむ、そんな内容なら誰でも作れそう。

ラストには、普通なら大きな不幸を持ってくると思う。この作品では美少女と会話できないことで、純真な世界にタッチすらできない主人公の状況を象徴していたように思ったが、もっとイメージを高める映像技術が今ならありそうだ。

私自身が派手な乱痴気騒ぎに興じたことは、ほとんどない。せいぜい学生仲間と安い居酒屋で憂さを晴らしたくらい。カラオケでイェー!と叫ぶくらいの、安上がりの甘い生活だった。できれば、アニタ・エクバーグみたいな女性とプールに飛び込んでみたかったが・・・

アニタ嬢は確かに凄い存在感。逞しい体格、巨大なおっぱい、ギリシヤ・ローマの彫像をイメージさせる古典的な美しい顔。バーグマンのような演技の趣向はなかったようだが、この作品を観る限りは下手くそとは思えない。充分に演技している。甘い生活の派手な部分を表現する重要な個性だったと思う。

セリフで「マリリンにも教えなきゃ。」と言っていた。イメージとしては、マリリン・モンローそのものを演じていたに違いない。香水だけを着けて寝る話もしていたから。あんな女神のような美人でも第一線を維持できないとは、映画界は怖ろしい。

もしも彼女が出演していなかったら、この作品はきっと大きくイメージを損なっていたはず。イタリヤ人の美人女優を大勢出演させても、究極の女神のイメージを出すことは難しかったのではないかと、そんな風に感じた。それに、カメラマンの求めに応じてタラップから降りかけてまた戻るなど、浮かれた様子の演出も効果的だった。

カラオケという娯楽は、庶民の宴会のあり方を変えたと思う。広い会場で正式なパーティーをやっても、大勢の目があるから無茶はできない。でも、狭いカラオケルームなら下手な踊りを披露しても、そんなに恥ずかしくはない。そして値段が安い。庶民としては、滅多に行けない大きなパーティーより、カラオケルームが好ましい。

・・・でもやっぱり理想としては、アニタ嬢のようなドレス姿の女性達と深夜デートをしたかった。アニタ嬢なら、こちらの生活が多少乱れたって構うもんかという気になる。ドルチェ・ヴィータへの憧れは消えていない。

 

 

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