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2014年1月 2日

チャップリンの黄金狂時代(1925)

Uartists

- 喜劇から昇華する -

ゴールドラッシュに湧くアラスカに、浮浪者チャップリンが現れた。ドジを繰り返して凶悪犯や大男、恋敵などと騒動を起こす物語・・・

・・・DVDで鑑賞。DVDの前には淀川長治氏の解説もついていた。これも今となっては非常に懐かしい。淀川氏は相変わらず要領を得ない、繰り返しがやたら多い話で、こんな話しっぷりでよくテレビに出られたなと感心する。解りにくさと妙な調子が、逆に個性になった例だろう。

正月に家族で観る映画は何が良いかなあ?と考えていたら、ハタと目が止まったので久しぶりに全編を見てみた。記憶していたとは別に様々なシーンがあり、意外に長かった。

クマが主人公の後ろを歩いているのに気がつかないシーンや、靴を料理して食べるシーン、空腹のあまり人がニワトリに見えてしまうシーン、小屋が崖に引っかかって落ちそうなシーンなど、有名なものは覚えていたが、酒場のシーンなどは記憶に残っていなかった。

この作品は非常に古くさいのに、我が家の子供達にも受ける。古典的なギャグ、古めかしい画質、サイレント映画であるにもかかわらず、万人に受ける要素を持っているようだ。さらに20年後、百年後にはどのように感じるのだろうか?とにかく、今年の正月には、家族でこれを観ようと思う。

この作品にも恋物語がある。主人公が一方的に片思いし、ヒロインは好意は持ってくれるのは同じだが、恋愛感情が希薄なのは、他の作品とは少し違っている点。他の作品では、恋は成就するが貧乏だったり、極めて不幸な想いをしていたりするから、ただの喜劇からは完全に逸脱している。この作品は、まだ喜劇と断言できる。

「街の灯」は1931年、「モダンタイムズ」は36年、「独裁者」は40年、「殺人狂時代」は47年、「ライムライト」は52年。だから、いかなチャップリンとて、悲しい喜劇にまで作風を昇華するに至っていない、その前段階にあったのかも。

年越しパーティーのシーン。女性客の中の少なからぬ人数が、ホタルの光を聞きながら泣いている。それまでのシーンからは妙に感じる。そう言えば、同じようなシーンの「フォレスト・ガンプ」の中で、‘隊長’がフォレストや今後のことを考えて真剣な表情を浮かべていた。喜劇が格調高いものを生もうとする際には、ホタルの光は良い道具なんだろう。

その前のチャップリンは、一人寂しくテーブルに座って客が来ないことを知るが、そのシーンも全く笑えない。誰でも彼が気の毒になる。そんなシーンがないと、観客は主人公に好感を抱いてはくれないだろうし、一段レベルアップする印象づけも難しい。笑えないシーンの使い方が、喜劇にとっては重要なんだろう。

あれが、喜劇から昇華する瞬間だったのか?

この作品のヒロインは、リアルな存在だったとも言える。浮浪者に恋をするようでは、さすがにアラスカの寒空では生きていけない。金を持たない間は、ただの好意で済ませるのが正しい判断。ラストで始めてキスしたのは適切。そして、きっとドジ男とは離婚して、多額の生活費を手に入れるのが最高に正しい。

チャップリンのことだ、きっと他の女に目移りするに違いない。私がヒロインの父親だったら、彼女の行動には満点を贈りたい。私が主人公側の立場だったら、慰謝料目当てで態度を決められては困るわけだが、そこは立場の問題であり、仕方ない。

この作品のアイディアを作品化する際には、どんな風に考えたのだろうか?「雪山を撮影しても面白くないのでは?」「厳しい世界を舞台にしたら、笑えない客も多いのでは?」「飢えや寒さを観客は笑うか?」・・・そんな疑問は当然出てきたろう。下手すれば、チャップリンのキャリアも終わりでは?そんな疑念すら起こりうる。

チャップリンの人気の度合い、もともと貧困が売りになったキャラクターであること、そんな面から企画として通用するかもと、話が進んだのだろうか?有無をも言わせぬほど、当時の彼には発言力があったのも確かだろうが。

当時は特撮の技術が限られていたはずなんで、人間が鳥の姿になったシーンでは、かなりの観客が理解できなかったのではないかと思った。今でこそ約束事として当然の技法だが、「なぜ鳥がいきなり出てくるんだ!」と憤慨する人だっていたのでは?

最近、ドリフターズのギャグを集めた番組を見ていて、改めて思ったが、加藤茶や志村けんの動作は完全にチャップリンを真似ている。たぶん浅草芸人の多くは、チャップリンに憧れて道に入ったはず。似てくるのが自然だったんだろう。そんな気がした。

ギャグやコントの完成度が高いが、総てチャップリンのオリジナルアイディアなのかは疑問に思う。若い頃の芸人時代には、周囲にたくさんのアイディアがあふれ、楽屋芸のようなものが常に身近にあったはずで、模倣や微妙なバージョンの変化で自分の売りにしたのでは?芸の世界を見る限り、そんな風に思う。

United_artists

特徴となった服装に関しても、似たような衣装の芸人が全くいなかったはずはない。たぶん、芸をする中で彼がつけた衣装に、皆が爆笑したか、もしくはキャラクターとして目立つ方法を、彼が鋭く思いついたかによって生まれたのでは?

30年前くらいに彼の自伝を読んだことがある。衣装についても何か書いてあったが、その記載を信用する必要はないと思う。芸人時代のことだから、その解説も芸のひとつのようなものと理解する。

チャップリンの場合に感心するのは、非常に受けたギャグを、他の映画で使う傾向がないこと。転び方や、殴り方殴られ方などは約束のようにパターン化されているが、大事なギャグは一回きりにしているように思う。私が観た範囲では、そうだ。素晴らしいギャグを大事に使うことは確かに必要。次々とギャグをひねり出すセンスがないと、できないことでもあるけど。

靴を料理するシーンが、観客にどう写ると考えたのだろうか?食べ方が非常にマナーを守った点は、厳しい状況を考えると笑える。気持ち悪い物を食べるシーンで、酷すぎる状態を逆に笑う妙にシニカルな感情が多くの人に浮かぶだろうと確信できていたのだろうか?

おそらく他の俳優の場合は、同じギャグをやっても同じようには受けない。例えば、いっしょに出てきた大男がどんな演技をしても、汚い物を食べるなあといった嫌悪感くらいしか浮かばないのでは?酷い目に遭うと観客からおかしく感じられる俳優は、喜劇俳優になれる。たぶん、二枚目やスタイルの良い俳優より、小柄でお調子者のイメージの強い俳優が望まれる。どう受けるかを、よく知っていたのだろう。

 

 

 

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