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2013年10月28日

ジャンゴ・繋がれざるもの(2012)

Weinsteincolumbia

- 性暴力を扱う勇気 -

黒人奴隷のジャンゴは、賞金稼ぎに救われ、彼の相棒として腕をみがく。そして自分を傷つけた賞金首3兄弟と対決し、さらには妻を救出するため富豪と対峙するが、狙いを見抜かれて窮地に陥る・・・

・・・非常によくできた娯楽作品だった。ただし、マカロニウエスタンの表現方法を使っていたので、主役も適役も随分と残酷。銃撃された女性が吹っ飛ぶ、鮮血が飛び散るなど、子供にはあんまり良くない映画だった。

恋人とみるのは悪くないと思う。基本的には妻を救おうと努力する活劇なんで、表現方法に問題があっても許容されるカップルが多いのでは?ただし、血をみるのが辛い人には絶対に向かない。不必要に血が飛び散る。

フランコ・ネロが登場していたので、彼の出演作品へのオマージュシーンがあるはずだが、問題のマカロニ本家のほうを観ていないので、ストーリーからして踏襲してあるのかどうか解らなかった。黒人が主人公のマカロニウエスタンは聞いたことがないので、たぶん雰囲気や裏切りの仕方、仕返しの仕方などに、過去の作品から踏襲したものがあったという具合では?

音楽がジャンゴ♪~という懐かしい曲で、そのまま使われていた点も凝っていた。マカロニウエスタンの再現にこだわった作品。もしかすると「スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ」という無茶な企画の映画に出演した頃、アイディアが浮かんだのかも。

ギャグ気味の展開も面白い。捕まったジャンゴが、どのように監視の連中に話を持ちかけるのか、監視員のひとりがタランティーノ監督で、見るも無残なやられ方をするのも、監督の作品では既にお約束になっている気がするのだが、「ああ、こいつらバカだなあ。」と、笑わせる会話がおかしい。

ダイナマイトの使い方が劇画的なのも、おそらくはお約束なんだろう。派手にふっ飛ばさないと爽快感が得られない。ただ、銃で殺すばかりでは陰湿な映画になるだけ。吹き飛ばす必要があった。よく考えられていた。

極めて残酷なシーンも多い。グロテスク好みのタランティーノ作品のお約束のようなものだろう。奴隷を犬に殺させるシーンを繰り返し写して、残虐だったろう当時の行為を、その非人道的さを強調して描くことに成功していた。殺された彼の分もちゃんと復讐シーンが作られていて、少々やり過ぎのような気もしたが、独特な娯楽性の点では良かった。

屋敷の内部で黒人同士の拳闘試合をやらせるシーンがあったが、血で汚れるし、大きいと言っても室内では限界があり、普通は庭でやらせるだろうと思う。そして、おそらく大勢の人間を集めたリングのような場所でないと金にならないから、大事な奴隷を無駄にするようなやり方はしないのでは?

ジャンゴのキャラクター設定が素晴らしかった。銃が生まれつき上手いというのは、ちょっと出来過ぎだったと思うが、師匠の指示するキャラクターを演じる、そのために衣装も変えていくという設定は、映画的には面白さにつながっていた。

魅力的な敵役が多数いた。敵役によって映画が面白くなる好例だと思う。

悪役ナンバーワンのクリストフ・ヴォルツが、今回は主人公を助ける人物として存在感抜群の演技をしていた。セリフも良かったのだろう。本来はガンマンとしての迫力には欠ける気もする。とぼけた会話で町の保安官を呼び出すシーンは、西部劇のガンファイトの醍醐味。他の映画でも色々なパターンがあったが、この作品のパターンは実に面白い。紳士的な口調、いやらしい表情が効果的。

ディカプリオも悪役として出演していた。もしかすると彼は助演男優賞でも狙ってたのかもしれないが、クリストフ・ヴォルツが断然良かったので、残念ながら無理だった。でも、彼も非常に素晴らしい。そもそもレオ様は今後、悪役のほうが向く気がする。

サミュエル・L・ジャクソンのキャラクターも独特だった。白人の主人に忠実すぎるくらい忠実で、主人公の邪魔のために中心的な役割を果たす。人種に限れば矛盾したかに見える存在だが、でも確かに彼のように行動する人物はいそう。

うかつに主人公の味方をしたら白人と敵対し、自分が生き残れない。とことん白人のために働き、場合によっては黒人の最悪の敵となる、それは彼の頭の中では正しい判断。この種の政治的判断をする人物は実社会でも多い気がする。近い意見の人間を攻撃し、正反対の意見には目をつぶる政治判断、生き残りだけを考えるとそれが正しいのだろう。

考えてみると、社会ではひろく一般的に、この種の人間は多い。社員や国民を抑え込むことに熱中し、それによって評価されることで安心する人物が。えげつない手法も厭わないので、部下にとっては上層部よりも凶悪な存在。軍隊などでもよくあるパターンでは?敵よりも凶悪な上官というのは、珍しくないはず。生き残りに必死でそうなるから、批判されても宗旨替えすることはない。

奴隷制度を扱った点は褒めるべきと思う。娯楽性を保ちながら、少なくとも問題点は表現できたと思う。史実と異なる表現も多かったとは思うが、残虐性を強調したりするのは商業映画では仕方ないのでは?記録映画ではないのだから。

この作品では性暴力の問題が扱われていた。これも珍しいと思う。表現を問題視して攻撃してくる人も多いだろうから、勇気ある選択。史実としてしか知らないが、アメリカでは深刻な性暴力があったと疑う。混血の進み具合が証拠。混血児が多すぎて、その子孫が国民の相当部分を形成するなんて有史前の国家のようだが、大いなる現実。

語るからには断わっておかないといけない。もし私がアメリカ南部の農場主だったら、ディカプリオのように行動したかも知れない。立場にものをいわせ、暴行することがないと断言できない。さらに、もし私が旧日本軍の兵士だったら、慰安婦と関わらなかったとも思えない。兵士の場合、孤立は死に直結するから。いずれにせよ、私は語るに資する人間ではないようだ。

そもそも性暴力については、語らぬほうが利口なのは間違いない。語ることが、さらなる対決と暴力を生むのが怖い。何か改善策を述べても、それで数千年の悪弊を解決するなど無理。でも、目をつぶる態度は人道に反しているし、犯罪を助長してしまう点も否めない。声高でなくとも、正そうという姿勢は望ましい。意見は示すべきと考える。

当時の白人の御婦人方は、どのように考えていたのだろうか?彼女らの多くもDVにおびえる存在で、声をあげることは難しかったのか?または彼女らも、豊かさを犠牲にしてまで人道支援はしたくなかっただけ?米国人の多くは敬虔なキリスト教信者のはずだが、奴隷制度が容認された点は理解できない。酷い話だが、経済的欲求がある場合、宗教は人権を気にしないようだ。

ただ、当時の感覚を糾弾しても仕方ない気がする。当時の支配層の意識では、まだ奴隷制度が必要だったのだろう。性的虐待もその一環で、問題視はナンセンス。正しいかどうか論じるなんて、笑い話だったろう。過去の犯罪だから許してよいわけではないが、‘解決’といった言葉は通用しないと思う。

映画における奴隷の価格が気になった。一般人の年収の3~5倍くらいが相場だったという記載を読んだことがある。女性の奴隷が300ドルというのは、今日の価値に換算するとどれくらいに相当するのだろう。おそらく、経営が成立する程度に安かったからこそ使ったに違いない。

トラックを買って運送業を始めるのと同じ感覚で、奴隷を買って産物を大量に作れば大きな収入になり、さらに大きな規模で商売できる、そんな農園に対して奴隷を提供する業者も大儲けできる、仕事に価値を感じ、税金だって払う、そんな経済が成立してしまったのだろう。経営が成り立てば、モラルは吹き飛ぶ。儲けて悪いかという感情が生まれる。怖いことだが、現実だと思う。

 

 

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