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2013年10月16日

普通の人々(1980)

Paramount

- 真摯さ -

両親と高校生が暮らすアッパーミドルの家庭。しかし、高校生の精神は不安定で、親や友人達との関係も順調ではない。青年は精神分析医に通うことになる・・・

・・・・レッドフォード監督作品。安易なドラマとは一線を画した作風。歴史的事象などとは関係のない、小さな世界に限定したドラマで、大悲劇、超大作などの派手な面は全くない小品。これで興行的に成功すると確信があったのか?でも、この作品はアカデミー賞に輝いている。私が理解できない部分で高い評価を得たに違いない。

この頃のアカデミー賞は、こんなドラマ路線が選ばれる傾向があったようだ。クレイマー・クレイマーなどもひとつの家庭を丁寧に描いていた。ベトナム戦争などの後で、荒んだ精神に慈しみを・・・そんな時代だったのか。たぶん、郊外に暮らす白人達は家庭円満、苦難に耐えて夢を語り合い愛し合って、いつまでも幸せに暮らしましたとさの旧来のドラマ路線で立ち行かなくなったのだろう。家庭崩壊は珍しくなくなっていたはず。

普通の家庭が崩壊する過程を描いた作品を目指していたはずだが、普通には見えない立派な屋敷に住む。かなり裕福に思えた。父親は弁護士で、個人で開業しているのか事務所に勤めているのか不明だったが、たぶん相当な収入がありそう。南部に長いことゴルフ旅行に行くくらいの余裕はあるのだから、普通と言っても私には普通に見えない。

兄が事故で死んだことが、青年の心に大きな動揺を与えていることが繰り返し映像で表現されている。ただ、転覆のシーンは技術的限界のせいか迫力が感じられず、また青年が真剣に働いていなかったらしいことを表現しようとしていたのか、緊迫感に欠けた印象を受けた。でも緊迫感は、それほど重視する必要がなかったのかも。

青年が苦しみながらも改善し、自分で行きぬく力を得たかに見える希望的な展開が、旧来の映画としては望ましい展開。でも、残念ながらそう簡単に事は運ばない場合も多いだろう。噓くさいドラマには飽きてきた頃だ。メロドラマ的な展開は、昼メロや韓国ドラマで見ればよい。この作品は真摯に描こうと決めていたようだ。

青年と病院時代に知り合った女学生の表情は素晴らしかった。病的な状態の青年とは話す内容がかみ合わず、自分が巻き込まれてしまいそうな危機感を感じ取る様子が解る。悪い印象は持っていないとしても、話していて居辛いし、自分の精神に悪影響を与えそうで怖いといった感情が湧きそう。それが感じられた。

母親役にも存在感があった。子供の問題で自分の神経が参りそうな場合、楽しみに専念したいと考えたとしても罪とは言えない。青年を置いて、自分はゴルフ旅行というのは私には信じがたいけど。

実際には子供の安定のためには多くの場合は母親の存在が必要だから、この母みたいに家を去ってもらっては困るわけだが、母親個人にも我慢できる限界はあり、母のキャラクターや能力によっては、子供の傍に居ても効果をみないか、逆に悪い結果が待っているケースもあるかも。そう、この母の場合は残っても関係は悪化するばかりだったのかも知れない。

ラスト近い場面で、急に青年が母親を抱くシーンがある。普通のドラマなら、母親は喜び涙し、和解が成立してめでたしとなるだろう。ところが、この作品ではそうならない。そこが、この作品の独特のところであり、リアルで真摯な態度と評価できるように思う。メロドラマだったら、絶対に涙を誘う見せ所になっていたろうから。

あのシーンで母親は困惑したような表情を浮かべていた。そう簡単に泣かないのは、母親の個性もあるだろうが、リアルで真摯な描き方のせいだろう。理解不能な息子が、なぜ自分を抱くのか?急に病気が良くなるはずはない・・・そんな戸惑い、疑いの気持ちは不自然ではない。

そう考えると、やはり転覆のシーンは別の描き方があっても良いのでは?もっと悲惨で、毒々しいものがあってもいいのでは?命がかかった場合、兄から「助けてくれ!引っ張ってくれ!」と言われても、「俺も死にそうだ、手を延ばせない!」と、救助を断わることはありうる。それが明確なセリフで解れば、つまり殺したのは自分だという拭いがたい心の傷が明快になる。

父親役を演じたドナルド・サザーランドは実に息の長い俳優。いろんな役柄を演じているが、怖い悪人を演じても声を荒げたりしない印象はある。外斜視ではないかと思える独特の目線のせいで、顔が写ると表情を注視せざるをえない。自然と存在感が生じる。

この作品の中での父親は、まさに普通の人々なのかも知れない。理性的で、簡単に暴力に訴えるような軽はずみな行動は採らない。相手の意見を尊重するから、奥さんにシャツの色を咎められて言われるままにしたことを、随分後になって話すような態度。理性が役立つとは限らない現実を代表するようなセリフだった。

シャツの色に、さほど重要性はない。葬儀の場合は青色は妙に思えるのが日本的な感覚だが、アメリカでもそうかは解らない。問題は、シャツを変えるように言われて、納得して変えたかどうか。「白か黒でないと、葬式には不適切だよな」と納得しているなら問題ないだろうが、納得させないまま事を仕切りたがる奥さんに引きずられていたら、良い関係は維持できない。

くどく言うなら、重要でないシャツの色に関しては、奥さんが意見を言う必要がないし、言うなら言い方に気をつけ、丁寧に説明し納得を完了させる必要がある、というのが正解なんだろうが、実際にそこまで相手を思いやれない。理屈を言い合うのが面倒で、私なんぞも「ヘイヘイ」と従ってしまう。それで家内は支配欲を満たして満足する。

支配欲、我がまま、配慮のなさ、丁寧な解説が不足・・・・などなど、表現次第ではとんでもない悪質な奥さんになってしまうが、たぶん何も言わずに夫のおかしな服装をほっておいたら、それはまた気の利かない、ぼんやり、といった評価をすることもできる。昔おしとやかなと表現されていた個性は、時には凡庸な女性とも言いうる。一概に言えない。普通の家庭というのも難しいものだ。

女性が社会進出するために、家庭は犠牲にならざるを得ないこともある。スーパー優秀女史なら、仕事は完璧、家事も育児も申し分なし、夫を立てていながらしっかり大事なことは意見を言うことができるだろうが、そんな人間は稀では?また子供の側も、幼くして皆が自立心を持ってるわけじゃない。

女性にとっては、少なくとも自分の能力を評価される機会はあってほしいだろう。夫に従属しただけの生活で我慢しなさいなどとは、言えたものではない。その個性や意志のせいで子供に害が及ばないなら、進出を妨げてはならない。

子育てには興味がないような人や、子供が大きくなったら楽しみも満喫したいという強い欲求を持つ母親がいても自然なこと。昔は問答無用で家事育児ををやらねば生きていけない状況があっただけで、実は子育てなぞ嫌いな女史は多いと思う。家族の願いを無視して、その個人的欲求を追及してもらったら家族にとっては迷惑なんだが、個人の自由を制限し続けるのは良くない。自分の欲求と家族の希望と折り合いをつけて、日々交渉していくのが‘普通の人’だろう。

加えての問題。もう随分前から女性が家庭を取り仕切れる時代ではなくなっている。日本の場合は産業や社会体系が変化し、共働き夫婦が主流。妻が育児に専念できないと子供の数は増えにくいし、維持できなければ社会は衰退する。それは大事なことなのに、女性の社会進出の意義などに霞んで、専業主婦が評価されない傾向がある。

社会を守るためには、人口が大きく変動しないことが大事。維持できなければ、あらゆる施策が無駄に終わる。崩壊した集落を見れば、人口変動の意味くらいは解りそうなものだが、施策には盛り込まれていない。子供を育てていること自体が社会を維持する大事な仕事で、社会進出して行く女性だけが偉いと考えるのは間違いのはず。

仕事と子育ての両立は実際のところ、余程な能力がないと難しい。じゃあ夫が家事をやれば良いというのが、今のイクメンパパ達の評価につながっているのだろうが、本末転倒であろう。もちろん、労働力不足を補うために女性を社会進出させるなども、同様に逆説的な論理。勘違いだろう。

 

 

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