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2013年7月10日

平気で嘘をつく人たち(M・スコットペッグ著)

M_3 - 集団心理は無視 -

この世には、一見普通に見えるが邪悪な心に満ち、人を欺き支配しようとする人間がいるといった内容。原作は随分前に発行されていたそうだが、邦訳は最近らしい。

この本は、精神科の病気、心理分析に興味がある人に向くと思う。それ以外の人には、変わった視点で物を見る好奇心の強い方、そんな方達の本。やや面倒くさい内容なので、軽い気持ちで読むことは難しい。なぜ自分がこの本を買ったのか忘れてしまったが、表紙のデザインが気に入ったのかも。

邪悪性の定義が難しい。単に人に害を与えることを気にしないといった意味から、奥深く病的で悪魔を連想させる意味など、色々あると思う。

親が子を独占しようとする、自分の周りに居させようとする感情は、愛情の一種だと思うが、よく見かける。マザコンになった人物は身の回りにもいる。

我が家の子供達も、自分の下着の管理でいつも母親の世話になっている。勝手に片付けると母親が怒るから、自然と母親任せになる。家内は「自分で管理しろ!」と言いながら、必ず他の大事な用事をほって服を探すことを優先する。

こんな行為の連続で、親離れしない人ができるのだろう。やがて就職でもして独立したら、相当なショックが来ると思うが、ほとんどの母子では、しばらくドタバタした後、独立が果たせると思う。それを願っているが、母親が付いていったり、子供が直ぐ舞い戻ったりする可能性もある。

愛情と、支配欲≒害を与える意味で邪悪な心情は、必ずしも明確に分けられないと思う。母子関係の場合はそうだ。子供を独立させようという気持ちは、前頭葉を使った理性の分野から起こると思う。子供に害が生じても、自分のそばで過ごして欲しいという感覚は、理性とは違う。ペットと勘違いしているのか?

ただし、動物でも子供を早く泳がせようと促したり、空の飛び方を練習させようと厳しい態度をとることがある。あれは、脳のどんな反応でなされるものだろうか?あんな動物よりも人間のほうが安易な道に陥る場合は、かえって高度な思考が子育てに有害な結果をもたらす危険性を示しているのかも。よく解らない。

本の最後の章では、ベトナム戦争中の虐殺事件であるソンミ村のことが題材になっていた。確かに邪悪な行為で、ソンミ村では数百人が殺されたらしいが、小さな部落の数十人程度の場合は、もしかするとゲリラの選別が難しいからと全員殺して証人もいないような例も他にあったのでは?

旧日本軍や、ベトナム戦争時代の韓国軍も酷い虐殺を繰り返していたという。全員虐殺するので、証言者がなく証拠が揃わないことまで計算に入れているようだ。戦争では一般に、関係ない住民への暴力、略奪、殺害が日常。一般的行為だから、兵士個人の問題とは考えられない。

軍隊は、邪悪になることを強いる組織。基本的に敵の最も大事な権利である生存権を奪うのが職務なんだから、倫理や同情を頭から外す訓練をやってこそ、兵隊になれる。邪悪性を論じても仕方ない面はある。虐殺を正当化するつもりはないが、戦争はそんなもの。

邪悪な人というと、悪行を個人の問題であるかのように扱っていることになるが、本質から考えれば集団、組織や規則、法律の問題だと思う。作者があえて個人のほうに焦点を変える理由がよく解らない。本が売れるための独自性を出すためか?

確かに、なかには個人で非常に特異な性格で、独特の害を他人に及ぼす人物もいる。本の中で例示されているような極端な例はそうだろう。でも現代社会の場合、ほとんどは集団による残虐行為だと思う。

私自身を鑑みるに、充分に邪悪な性格を自覚する。若い頃は特に酷かった。世間を恨んで、回りの誰でも殴ろうかといった破壊的衝動があった。実行しないのは、その一方でやたら公共精神が強く、妙に高貴な意識があるからだろう。矛盾したまま頭が整理できていなかった。

そんな私でも、例えばいじめられている人間をいっしょにいじめたいとは思わない。楽しみのため人に害を与えるセンスは理解できない。立場を利用していじめるのは卑怯という観念があるからと思うが、学生時代には楽しみでいじめてるとしか思えないワルも結構いた。彼らは私より邪悪かも知れない。

優位な立場に立つと途端に高圧的になるパワハラ人物がいるが、結果として集団全体に邪悪な精神を蔓延させ、軍隊なら敵に対する残虐性、会社の場合は極端な管理主義、成果主義といった方向に向かうように思う。役職や立場というのは概念に過ぎないが、システムや規則などで人をしばり、凶行に走らせることもできる。

何かあれば下級生をいじめようとする先輩。二人きりになったら意外に大人しい。居心地悪そうにしていた。他の人の目があって始めてイジメ道に励むようだ。誰かの目を意識しながらの悪行は、彼の強さや容赦ない性格を表現するための、荒ぶる行為。多くのイジメは、彼らのパターン。

一人でも悪行をできるのは、本物の邪悪さと思う。でも、そんな人間は自分が先頭に立ってワルさを働いたりはできないことが多い。隠れて、一人で、そして自分が安全な立場で弱者相手にといった特徴がある。通常はボスの下の下に位置する人物で、下っ端と言える。その位置にあることが、鬱屈した感情を生むのではと想像。

さらに、極端に残虐な行為を働くのは、普段は大人しい人物のほうに多い。楽しみのためではなく、自分を守る意識が極大化するため、もしくは溜め込んだ衝動を一気に発揮するため凶暴過ぎる行為を働く、そんな印象が強い。駅や秋葉原などで最近起こった無差別殺人事件は、そんな傾向がないだろうか?

そういった事件の社会的な病理に関しては、作者も言っていたように他の本で語られている。重要度から言えば、個人の問題より社会的な要因、集団心理のほうがずっと大きい。でも、奥底に潜む邪悪な面を全く無視することも良くない。センスは持っていたほうが良い。邪悪性を上手に隠されている場合は、センスがないと解らないから。

私が思うに、邪悪な人間でも偉業をなすことは可能だと思う。邪悪性は、倫理の縛りを越えて職務に邁進することを可能にする。また、邪悪な視点から同じように邪悪な敵の狙いを感知することが可能。味方を守るために、邪悪性が必要な場合もあると思う。

したがって、偉い人は例外なく邪悪。政界や財界を見れば解る・・・というのは言い過ぎだろうが、そうそう外れてもいないのでは?

全くのお人良しでは人を信じすぎるから、何かを企画しても夢のような話で終わってしまう。何らかの敵や障害となるものの存在を感知し、企画に沿いやすく誘導することが必要だが、それには邪悪な面のセンスも必須だと思う。場合によっては、きたない騙しや脅しも必要。

そして、おそらく邪悪性はほとんどの人間にある。邪悪性は自分を守ろうとする情動に直結しているように思う。自分を守ろうとする動物時代の反射が、自分の意図を相手から隠し、出し抜き生き抜こうとする目的のために働き、そのための害は無視、そんな情動の名残りではないか?

時にはそれがオーバーリアクションになり、自分自身や友人、家族をも敵~異物のように扱ってしまう、一種の免疫アレルギー反応のような過剰防衛、それが邪悪性と表現できると思う。そんな視点は、この本にはあまりなかったようだ。

いっぽう、宗教の良い点は規律で我々の邪悪性を縛り、実際の悪行に至らないように押し止める効果があること。問答無用で、「神はこう言った。聖人はこう諫めている、聖書では・・・」といった強力な抑制ができる、それは素晴らしい点。

それが宗教の本質に近いのかもしれない。ちょうど兵士の訓練と逆方向への洗脳。怒りを抑えて相手を理解し、衝動で殺したりしないようにと、多くの宗教は説いている。動物のような反射から離れ、理解や共感を持つこと、それは兵士にはあってはならない性質。

他人や本人の邪悪性を例示し、それに対する解説や分析を集大成した治療対処マニュアル、指針、規範集が聖典に他ならない、そうではないか?

それなのに、宗教がらみのテロリストが残虐のかぎりを尽くすのは逆説的な展開。宗教の限界を示しているのだろうか?もともとイスラムの場合は、そういった修道士的な規範とは違うのかも知れないが、一般に宗教家といえども、特に集団で行動している場合は、集団論理が優先し、邪悪な心境に陥っている人物は多いのでは?存命中のキリストだって、ユダヤ教の神官たちからは酷く排斥されていた。ユダヤ教の神官も、敬虔な宗教家だったのでは?

 

 

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