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2013年7月 1日

華麗なるギャツビー(2012)

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- ごめんねギャツビーと言いたい -

豪邸で連夜繰り広げられるパーティー。でも、屋敷の主ギャッツビーの正体は誰も知らない。彼は、ある狙いがあってパーティーを開いていたのだ・・・

・・・という有名な作品。何といっても我々世代はロバート・レッドフォードが寂しげに演じたギャツビーのイメージが強い。この役をまた演じるのは、相当な自信家でないとできない。レオ様はレッドフォードほどのハンサムではないが、恋愛物の数々を演じてきたキャリアはある。

確かに魅力的な主人公だった。観る人によって感じ方は違うと思うのだが、前知識のある人にも結構納得できる演技だったと思う。この主人公は、超ハンサムである必要はない。立ち居振る舞いが上品であること、勇敢さや熱情、悲しみ、純粋さを持っていそうな雰囲気があることが大事。

最近のレオ様は、ちょっと落ち目の気配があった。何といっても「タイタニック」のイメージが強過ぎる俳優だから、物凄い大ヒットを続けないかぎり失敗に思えてしまう。特に最近の作品では性格的におかしな人物を演じていたので、余計に失敗と感じる。今回は彼の演技に好感を持った。

この作品は、もし前知識なしの人が観たら、どう思えるのだろうか?単なる恋愛メロドラマだろうか?小説ファンの人からすると、第一次大戦後の後遺症や、あくなき成功への野心と挫折の表現などの点が気になりそう。純愛の物語であり、不倫の話でもある。観る人によって全く違って感じられる。そこが良い点だろう。

この作品、前作よりも派手だった。映像技術が進んだこともあるのだろう、パーティーの乱痴気騒ぎは、それはもう凄いものだった。花火も、紙ふぶきも、映画ならではの迫力。だから、この作品は劇場で観て正解だった。

その迫力の点から、この作品は映画本来の魅力を持つと思う。やはり、ショーの場面はとことん派手でないといけない。ただし、子供向きの映画ではない。家族でこの作品を観るのは勧められない。恋人となら観れると思うのだが、純愛が成立しそこなった不倫映画ではあるので、ちょっと考えたほうがいいかも。女性には受けそうな気がする。

音楽もずいぶん考えてあったのだろう。古い時代の音楽を、今でも理解できそうなイメージにアレンジしてあった。ダンサー達も本職の凄みが感じられた。演出家の技が凄かったのだろう。

映像の技術が、前作とは圧倒的に違う。私にはちょっとやり過ぎの印象があったが、「ムーラン・ルージュ」と同じく、やたら立体的で、視点がぐんぐん移動する独特の演出は、ニューヨークや、その近郊の位置関係、立場、雰囲気の表現には有効と感じた。

ニューヨークとロングアイランドの間に、汚い地域があったことを、この作品は上手く表現していた。前作でも、田舎町みたいな風景の場所にメガネの看板が立って、何か異常な雰囲気が出ていたが、今回はCGのレベルが非常に上がっているので、前作ではどんな地域か不明瞭だったのが、その汚さが実に強調されて明確に解る。

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ヒロインの友人役を演じたエリザベス・デビッキという女優さんは、もともとバレリーナだそうだが、そのせいか身のこなしが優雅で色っぽく、当時の流行の先端を行く女性の雰囲気が出ていた。スパイ映画の相手役などにはピッタリの雰囲気。もし彼女がヒロインを演じていたら、見た目だけで充分。あんまり演技をしなくても作品は大ヒットしたかも。背が高過ぎて、レオ様とバランスがとれなかったかもしれないけど。

ヒロイン役のキャリー・マリガンは、日本人の感覚で言えばオバチャン顔のように思う。この役は、社交界の花のイメージが必要なので、目が大きくて優雅、仕事などしたこともないように華奢な体型、派手好き、自分勝手、自分の魅力に自信を持っている、そんな女優が望ましい。彼女は、私にはピンと来なかった。わがまま女優というイメージが彼女にあるだろうか?

性格の面で言えば、私の家内なら最適のキャストだったかもしれないが・・・

このヒロインは可愛らしい人物だが、やはり悪役だった。主人公を裏切り、破滅させ、自分は逃げてしまおうというわけだから、神様が見ていらっしゃるなら真っ先に血祭りにしないといけない。でも、女は悲劇のヒロイン面をしながら、しぶとく生きぬく伝統を有する。自分が悲劇の原因とは考えない。ごまかすのである。

でも、純愛に目覚めながらも安定、安心を優先するのは正解。私がヒロインの恋人なら彼女を許せないのだが、私が彼女の父親なら、良い選択だったねと言わざるをえない。まさかギャングといっしょに逃げろとは言わない。ギャツビー君、死んでくれてありがとう、ごめんねギャツビーと言いたい。

トビー・マグワイアは良き友人役、良心を感じさせる役柄にはまっていたと思う。ただ、演出の仕方が納得できない。彼がギャツビーのことを小説に書く必要はない。ましてや文字が画面を右往左往しても、それに大きな効果があるとは思えない。脚本に問題があったのでは?

脚本で言えばもう一点、ギャツビーが過去を明かす下りが2回あったが、必要ない。ギャツビー自身は何も話さないほうが、演出上の効果があると思う。ラスト近くまで真相が判らない、または最後まで明確に解らないが観客が推理できる、そんな脚本のほうがより優れている。

当時のセレブたちは、本当にあんな生活を送っていたのだろうか?昼間から酒を飲み、連日パーティーや遊びで暮らしていたら、体を壊しそうな気がする。今のセレブは、おそらく結構運動しているのではないだろうか?酒もほどほどにして、菜食なんぞにはまっている可能性がある。この映画の金持ち達は無茶苦茶だった。

あくなき成功への野心と恋愛、特に純粋な愛情を扱った作品には心うたれる。「陽のあたる場所」も似ている。不倫をしていても、結局は恋が実らなくても、それでも美しい話になり、人物に共感してしまう。成就しない恋心や野心には、誰でも自分に置き換えてみれるからだろう。特にギャツビー君は魅力的な個性だった。日本のバブル紳士にも、似たような人物はいたはずだが、あんまり美しい話を聞かない。

 

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