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2013年5月17日

アンナ・カレーニナ(2012)

Focusfeatures

- 思い切った演出  -

文豪トルストイの名作を映画化した作品。劇場と実写を交錯させた演出で、華やかな社交界と恋物語、奔放な女性の運命を描く。

非常に変わった演出。近年の作品だと「ムーラン・ルージュ」の演出や、シルク・ド・ソレイユの映画などに似ている。舞台で役者が演じていたかと思えば、周りの装置がバックで急に動いて、人物はそのままで場面が変わっていく手法。芸術的で、相当手順を考えてやらないと難しい手技だろうが、上手くできていた。

ストップモーションを多用すること、それに競馬のシーンで馬が右から左に走るところを眺める映像は「マイ・フェア・レディ」とほとんど同じだったが、技術が進んで馬が飛び出して倒れる立体感が出せていた。ヨーロッパの観客は、あんな映像が好きなんだろうか。

ただし、あくまで舞台の上で背景を代えるだけなら理解できるが、頻繁に舞台装置の天井部分を使っていたのは気になった。一回で充分ではないか?楽屋、廊下、着替え室など、場所はいろいろ変えられる。舞台周りは雑然とした場所だから、場末の店などと雰囲気は似ているが、でも良いアイディアだったとは感じない。何を言いたいのか解らない観客もいると思うし、そもそも必然性のない演出では?

せっかくCGの技術が進んだのだから、人物が会話しながら歩き、そこにスタッフの誰かが舞台の背景に相当するパネルを持って来て、それがレストランの風景なら、そのまま実写のレストランのシーンに移り、また屋外のパネルの前に来たら屋外の実写が写るといった単純な約束で場面を代えたら、たぶん観客は解りやすかったと思う。

劇場風の演出ということで興味を持って鑑賞。DVDでは味わえない迫力があるかもしれないと思い、事前の評判は良くなくても劇場で観ようと考えたから。でも印象としては、やはりDVDで充分だったかもしれない。せっかくの芸術的試みが、充分な効果につながっていなかった印象。

もともと家族で楽しむタイプの作品ではなく、大ヒットは狙いにくい企画。どうして作ろうと思ったのか解らない。恋人といっしょに鑑賞するのも疑問に思う。恋人には内緒でこっそり見るほうが、恋愛の行く末について考える意味では良い。おそらく、昼メロが好きな女性には受ける内容か?だから女性だけで観るなら、良い作品だと思える。

華やかだったろう社交界の晩餐会のシーンは、ハリウッド映画よりは部屋が狭かったようだが豪華に再現されていた。衣装や装飾品なども素晴らしく、照明や音楽などの総合的技術は非常にレベルが高い。女子は、あれだけでも満足するかも。

なぜ身の破滅になりかねないと解っていても、危険な恋に踏み込んだのか?せめて手順を踏んで先に離婚できなかったのか?そういった心境に関しての疑問は、私のような無粋な人間にはどうせ解らない(と、家内が言う)ので、あえて考えない。とにかく、ヒロインの感情は私には解らなかった。

私の不感症のせいだけではないと思いたい。ヒロインの心の動きを中心に描き、カメラの視点も彼女の視点もしくは、彼女の顔のアップに限定し、涙ボロボロの完全なメロドラマとして作り直せば、冷たい私でさえ泣けたかもしれない。男も泣かすような作り方をしないと、メロドラマはヒットしない。

キーラ・ナイトレイが主役のアンナを演じていたが、非常に魅力的と感じることは出来なかった。キーラ嬢は笑顔がかわいいタレントで、ボーイッシュなスタイルをさせると映えるのだが、こんなドレス姿ばっかりの作品ではスタイルは関係ないし、魅力を強調できるシーンが少なかった。独特の笑顔は、例えばリゾート地で遊んでいる時には最適だが、社交界の笑顔は気品を重要視するから別物。

強い主張をする時に確かに奔放そうな印象は受けたので、全くのミスキャストだったとは思えないが、たぶん他の女優のほうが向いていたのでは?ワイルドそうな女優なら、数え切れないほどたくさんいると思う。一見クールそうで、実は非常に激しい感情を見せる女優、古典的な例に習えばグレタ・ガルポ的女優が最適だと思うが・・・

男も泣かすことを目指すなら、純真で幼い感覚の持ち主のヒロインを選ぶと良かったかもしれない。浮世離れした貴族の娘が純愛に生きて、世間の冷たく非情な仕打ちにあう、その非条理を描くなら、理解はしやすいと思う。この作品は、そんな路線ではなかったようだ。

アーロン・テイラー=ジョンソンという俳優が恋人役を演じていた。確かにハンサムではあったが、「キック・アス」で情けない主人公を演じていた俳優で、滲み出る色気があるようには思えなかった。まあ私が男性の色気など解るわけないのだが。

ジュード・ロウは、かっての役柄とは全然違っていた。政府の高官という役柄をきっちり演じていたと思う。派手な表情はなくとも微妙な心の動き、戸惑いなどが窺える好演だった。かっての色男代表選手もそろそろ40歳。とうとう寝取られる番が回ってきたってことか。意欲的に、いろんな役を演じているようだ。

農場主のリョービンと、令嬢のキティがアンナと対照的な生き方をする人物として描かれていた。農場で自らも労働し、社交界で色恋沙汰に熱中する生き方を嫌うのは、おそらくトルストイの考え方を代弁していたのだろう。ヒロインのアンナと直接話す接点がもっとあれば、より比較するのに便利だったろう。

ダンスには何か工夫をしていたように感じた。普通のクラシックダンスと手の動きが違う。あれが本式のロシア風なのか、映画用の振り付けなのか知らないが、初めて見たのでたぶん映画用か?なまめかしいという点では効果的だろうが、少しやりすぎと感じた。ほんの少しの違いのほうが味わいが出る。ワビサビの極意を知らないのか。

農場の風景が面白かった。独特の草刈ガマを横に振って草を刈っていくようだが、あれは腰を痛めるとしか思えない。腰を使わずに、腕で刈る日本式の鎌のほうが体調管理のためには有効ではないだろうか?平地でしか使わないし、日本よりも草の分布がまばらで、なぎ倒す風の鎌でないといけないのいか、以前から疑問に思う。

実際の撮影はイギリスでされたそうだ。おそらく、地平線まで農園という地域は、あちらでは多いのだろう。農奴たちとともに、一生のほとんどを農園で暮らす人生。華やかな世界で生きてきたキティ嬢が、はたしてあのまま満足できるのだろうか?「アンナ・カレーニナ・パートⅡ」があるとしたら、次はキティ嬢の奔放な物語が・・・・ってなこともありうる。

日本の女性達も、多くは家庭の中で農奴なみの労働をして、一生を狭い世界の中で過ごしていたことと思う。たまに村祭りに参加したり、買い物で町に繰り出すことはあったろうが、基本は屋敷の切り盛りと子育て、親の介護に明け暮れたろう。でも、不満を垂れながらも耐えていたはず。彼女らには敬意をはらいたい。

阿蘇地域では、ちゃんとした仕事や財産を持っていても自殺する人が多い。娯楽が少ない関係か、農業の未来に希望を持てないのか、やはり何か華やかなものが足りないのか?パチンコ、焼酎などでも気を紛らせればいいのだろうが、周囲の音や気候、それに周囲の家とのかかわりなどが精神状態に影響し、独特の田舎の憂鬱を生むように思う。

田舎の生活が最高とは限らない。平穏な社会なら、農場主の生き方が正しいとは思うが。

社交界の人々は、その後しばらくして本当に革命が勃発しようとは予想できなかっただろう。原作が発表されてから革命まで50年ほど経っている。ひょっとすると、リョービン農場主は年老いて、子供達は革命軍によって殺されているかも。そう考えると、社交界で有名になって外国の友人を頼ってさっさと逃げていたほうが正解で、真面目に農場で労働なんぞするのは間違いだったということになる。

短い人生、戦争や革命などの大きな不幸に出会う前に自由に生きるのも、一定の理屈のある哲学。革命は滅多にあることではなく、幸い私は今のところ戦争や震災も経験することもなく、平穏な人生を歩んでこれたので、冒険に満ちた生き方をしようと思わないが、それが常に正しいとは限らない。生きのこらなければ、正しいもへったくれもないから。

トルストイの原作は苦労して読んだはずなのだが、ほとんど記憶にない。受験勉強をしないといけないのに、アホみたいに色々本を借りて読んだ時期があって、トルストイとドストエフスキー全集はほとんど読んだ。そして、ほとんど忘れてしまった。あまりに大作すぎて、頭のHDDの容量を超えたから?

社交界が舞台になっていることが理由かも知れない。興味がわかない世界、実感が持てない舞台では、記憶に残りようもないのかも。同じ頃に読んだ「エデンの東」「ルーツ」などは印象がまだ残っているのだが、ロシア文学は別世界の話のようだ。

ギャグはよく覚えている。美味しいカレーを食べた後に家に帰って奥さんに、「あんな美味しいカレーを煮な!」→「あんな・カレーにな!」→アンナ・カレーニナって・・・・お後がよろしいようで。

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