映画評

  • 当劇場は劇場主のための映画館です。訪問者を期待しておりません。内容の客観性、正確性は保障できません。でも、真摯な批評を目指します。

劇場主

  • 乙女座 AB型 どの占いでも最悪の運勢 内科クリニックやってます。

Conflict of Interest

  • 特にありません。

おことわり

  • 当劇場は誹謗中傷を目的としておりません。もし権利を侵害されたと感じられた方は、申し訳ありませんが管理会社や公的機関に御相談ください。

« おっぱいバレー(2008) | トップページ | サンキュー・スモーキング(2006) »

2013年3月 5日

欲望という名の電車(1951)

Warneretc

- 存在感抜群 -

妹を頼ってニューオーリンズに着いた姉だったが、妹の夫とはソリが合わない。家に出入りする友人の一人と姉との結婚の話が持ち上がるが、姉の過去が明らかになってくる・・・

・・・ヴィヴィアン・リーが30代後半に出演した作品で、オスカーを受賞している。確かに気味の悪い、存在感のある演技だった。この役は、初演ではジェシカ・タンディ嬢が演じていたそうで、今となれば彼女の後年の活躍も納得できる。タンディ嬢は本当の女優で、映画スターになりそこねただけだったようだ。

作品の中間くらいで、ヴィヴィアン・リーの化粧が変化している。おそらく演劇の世界では常識なんだろうが、演技を変えていよいよ狂気を発揮させようという場合に、化粧も変える、照明も変えるといった演出をするのだろう。

マーロン・ブランドは当時27歳くらい。タフだが粗野、バカではないが聡明でもない、酒とギャンブルに生きてそうな姿がリアル。演技臭くない演技ぶり。確かな存在感を感じた。人への思いやりなどには興味ない悪い役と言える、そんな個性に好感さえ持たせるほどリアルに演じていた。役者の力のなせる業だろう。

何度か服が破れてしまうが、そのまま外出する様がおかしい。キザな若者なら、服が破れることを非常に気にするだろう。殴られても平気だが、服を破られると怒る人もいる。外見に気を使わないのも、個性を表現する方法のひとつ。実際にも、あんな雰囲気の連中は多い。

町の酒場の周りや、ギャンブラーが集まる場所では、独特の考え方が場を支配する。動物の群れと同じ状態。いかな正論であろうとも、そんな場所で丁寧語を使ったらアホと思われる。動物相手に説教するようなものだから当然。そこで日々をしのいでいけるのは、動物めいた感性の人物だけとなる。

何かの製造業に勤めている様子が、短い時間だが映像にあった。今は中国あたりに職場が移っているだろうから、ブランド氏の職種も違ってしまったことだろう。とにかく、ギャンブルに狂う人物は、確かにあんな感じがする。

田舎の方だと、ギャンブルと言ってもせいぜいパチスロかマージャンくらい。賭けると言っても桁は小さいのだが、積もり積もれば破産することがある。うちの近所の方も、悪徳金融業者から追いかけられる破目になっていた。

今はネットで住所を調べて、近所の家に電話して「〇×さんに電話に出るように言って下さい。」などと圧力をかけてくるそうなんで、近隣は非常に迷惑。ネットの進歩も考えものだ。ハチンコ業界は巧妙に警察と同化しているから、社会問題になることを避けてはいるが、財産を減らす人物は多く、基本的にはもっと規制をすべきでは?

おどろおどろしいタイトルだが、実際の電車に欲望~望み?という名前が書いてあり、一種のユーモアで街に名前をつけ、それが電車の行き先に書かれることになってるようだ。希望という名の電車と訳されたら、何てことはないタイトルになってしまうのだろうが、特に‘欲望’としたのは大正解だった。

ヒロインのような人物が実在しえるかは、よく判らない。日本で言うなら、旧華族か武家出身の娘が経済的に困窮して歓楽街に身を投じるようなものだろうが、日本とアメリカでは雰囲気が違うと思う。広大な大地に広い農園を営んでいた家族が、何かの理由で破産し、娘が街に出てくるとしても、アメリカではもともと貧富の差が著しいし、一発当てれば巨大な資産を一大で形成する可能性は常にあり、ドライな割り切り方をする人間が多いのではとも思う。少なくとも、貴族ではないのだから。

それに名家といっても、歴史がせいぜい二百年程度である。戦国時代から続いた旧家の没落とは、悲しさの度合いが違うと思う。でも、実際に破産した家の娘は、大きく心が傷つくことだろう。精神異常を来たしてもおかしくはない。

この作品のディレクターズ・カットにはラストにレイプシーンがあるそうだ。鑑賞したのは映倫を通ったオリジナル版らしく、暗示させるだけで終わっていて、それはそれなりに上手い演出方法だったと思った。全体の流れから考えれば、オリジナル版でも充分では?

この作品は異様な雰囲気が漂い、狂気寸前の人達が狂気の行動に陥るまでを表現したと考える。欠点や互いの感情を洗い出し、お互いが何を感じ、どのように干渉し合い、事態がどのように悪化していくか、それを分析し劇として構築したとでも言おうか?演劇的な人間分析の表現だったようだ。

個人的には雰囲気が楽しい劇ではないので、感動は生みにくい。何で大ヒットしたのか理解に苦しむ。もちろん劇の完成度は高く、リアルで存在感あふれる役者達の仕事は見事なものとは認める。でも自分が当時生きていて、これを観て楽しいと思うか、観たいと思うかは判らない。金や時間に余裕があって、何か変わったものを観てみたいと思わない限り、たぶん行かないだろう。暇なギャンブラーだったら行くかも。

おそらく、リアリズムを極めようという演劇界、映画界の業界人達の想いが当時は強く、規制側との激しい攻防をも辞さない姿勢が高く評価されたのでは?

現代の若者に、この作品を勧めるか?そこもよく判らない。たぶん、今の若者は夢がない時代に大きくなっているから、こんな暗い作品でも気に入って「オレの気持ちを表現している!」などと支持してくる割合も高いと思うのだが、現実を再確認して何か楽しいだろうか?

子供達には全く勧めたくない。恋仲の二人でこんな映画を観たら、付き合うのも嫌になるかもしれない。どぎつい内容だった。演劇好きの人でない限り、あんまり人に勧めるタイプの作品ではないのだろう。

« おっぱいバレー(2008) | トップページ | サンキュー・スモーキング(2006) »