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2013年1月16日

スーパーチューズデー(2011)

- 娯楽性に感心 -

理想肌の大統領候補モリスの選挙スタッフであるマイヤーズは、敵対候補の参謀から引き抜きの打診を受ける。しかし問題となり、上司からクビを言い渡される。失意の彼だったが、恋人から思わぬ情報を得て、逆転を図ることになる・・・・

・・・・いかにもありそうな権力闘争を、裏切りや逆転のサスペンスを通じてドラマにした作品で、なかなかの娯楽性を感じた。サスペンス映画と言っていいと思うが、現実の政治の問題点をも感じさせ、本当によく考えられていた。

驚いたことに、原作は実際の選挙スタッフが書いていたそうで、すると彼が勤めていた候補者は、とんでもない悪人候補だったのか?ってな想像が働き、元の雇い主から製作に圧力が加わらないかと心配するのは日本的発想だろうか?

応援を依頼する大物議員が、自分を副大統領にすることを条件にするなどは、実際にはあざとすぎると思うのだが、何かの長官などのポストの要求はあるはずだ。副大統領には、通常は一定の勢力を持つ敵対者を懐柔して優位を保つために選ばれるケースが多いようだ。

日本でもそうだろう。民主党でも自民党でも、党首選挙の後には功労人事が普通に行われている。派閥単位で誰かを順番に選ぶシステムが薄れた後は、友人や選挙での条件交渉の結果で選ばれるといった人事が主流になっている様子。

そうしないと自分が選ばれないし、選ばれた後に足を引っ張ってライバルに鞍替えされるから当然だ。したがって、選ばれる人物が有能かどうかより、選挙後の御礼が流れを変えることになり、交渉上手な人間か運の良い人間に有利なシステム。本当の能力や信条信念は、あんまり関係なくなる。どうも海外の政治家と比べると、国内の大臣達には交渉能力や日々の発言内容で、実力を感じないのは気のせいだろうか?

党内や派閥内部での処世術と問題処理、企画、外国との交渉などは、必要となる能力がだいぶ違うと思う。国内の勝者が、国を破綻させることはありえる。いかに国内の競争が激しくて、その競争で勝つということは有能だろうからと言っても、実際には内弁慶の役立たずも多いのでは?

今の状況だと、大臣になるのが有能かどうかが関係しない欠点はあるし、仲間うちで間違った選択をした場合に修正が効かないのは問題。いっぽうで、閣内の意志は統一されやすいという効果も期待できる。ビジョンが明確な問題に関しては、決定から行動が早くできる。復興などの問題は単純で早いほうが良いので、有効かも。

現在は株価が上がっているようだ。これは安部政権が財政出動やインフレ目標の設定をやると言っていることへの期待感によると思う。単純な方針が一気に決まるのは、株屋の気分には痛快だろう。

ただし国債の価値が暴落でもしたら、本当に深刻な経済変動を呼ぶ可能性もあるし、円安によって輸出産業が利益を得れば、直ぐに製造業が復活するとも限らない。既に産業の空洞化はかなり出来上がっているのだから。長期的に好調にならない限り、企業は新たな正規雇用には慎重なはず。思った程の効果が出ないと、事態を悪化させただけという結果もありえる。

映画のように、敵対する選挙スタッフを引き抜くということは、内部の情報を得るためには有効な手段だから、おそらく裏ではどんどん行われていることではないか?相手がどんな点を攻撃してくるか事前に判っていれば対策もとりやすく、運動の方向を修正できる。だから、下っ端のスタッフの中での裏切りは頻繁に起こっているはず。

でもスタッフのナンバーツーが敵対する陣営に移動を考えるか?そんなことをしたら、信頼をなくすのは間違いなく、その後の自分のキャリアに良い影響があるはずがない。よほどの事情がない限り、敵と会うこともないはず。その点に関しては工夫をしていたものの、説得力は不足していた。脅迫がないと、普通は提案を無視するだろう。

女性をめぐるスキャンダルには、多少無理を感じた。女性のほうも命を賭けて何かを得ようと謀っていて、虚々実々の壮絶な修羅場が待っていてもおかしくないと思う。彼女を利用しようという取り巻きと、ボスと敵陣営とマスコミと、激しい物語が展開されるのが自然だったはず。暗さを嫌って曖昧にしたのか?

ジョージ・クルーニーは面白い役者で、いつのまにか大物になっている。製作に関するセンスが素晴らしいようだ。真摯なテーマを描く際にも娯楽性を維持するセンス、やんちゃ坊やをイメージさせる実生活の行動など、スターに必要な度胸も能力も充分に感じる。

主役のライアン君は迫力に欠ける印象があったが、ボス達のほうが迫力がないとおかしいし、良い配役だったかもしれない。もし可能なら、ディカプリオのような人気俳優が演じたほうがヒットしたのではないかとチラと感じたが、実際にどうかは解らない。

 

 

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