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2012年12月20日

幸せの 教室(2011)

Vendomeint

- 良品だが安易 -

ショッピングセンターに勤務するラリー・クラウン氏は突然解雇される。ローンを抱えた氏は困窮するが、自分を変えるためカレッジに入学。そこで彼は若い仲間に触発され・・・

・・・ハッピーな話で、後味が良い。健全でありながら、時々ユーモアや悲哀が漂う。オーソドックスな内容。

その印象に最も貢献していたのは、上の画像のググ・バサ=ロウという女優さんだったと思う。笑顔が素敵で、颯爽として人生を楽しみつつ、周囲の人に良い影響を与えそうな得がたい雰囲気をかもし出していた。少し良い役すぎて重みはなかったかもしれないが、今が旬といった魅力の持ち主だった。

彼女に影響された主人公が、自信とやる気を回復させ、新しい道に踏み出す姿に好感を持った。失業中の人の中には、「ケッ、そう上手く行くかよ。」と思う人もいるかもしれないが・・・

最近、幸せの~シリーズが多く、少々混乱。動物園を購入する話は「幸せへのキセキ」、ソフトボール女史の話は「幸せの始まりは」、他にも色々あった。日本語タイトルのつけ方としては、安易な感じがする。特徴を出すように、配給会社には注文したい。

主人公が遅れて教室に登場した時、ヒロインが白目を見せる表情は確かに心情を表現していたが、リアルとは言いがたい。それに、その後も白目を繰り返し過ぎで、編集ミス。安易な表現と言われても仕方ないのでは?もう少し微妙な表現の、例えば一瞬の間といった表現もあったと思う。役者として一流のトム様も、演出には欠陥あり。

バイクに乗ったヒロインが、主人公の話しに繰り返し天を仰ぐような仕草を見せる、明らかにやり過ぎと私は思った。困惑したように、何と返事してよいか、自分の境遇も知らずに・・・といった悲しげな表情のほうがリアルでは?

昨今のアメリカの失業率は9%くらいで推移しているらしい。日本とは状況が違うだろうが、クビが珍しくないのは確かだろう。しかも、かなり突然に通達されるようにドラマを見る我々からは感じられる。たぶん、解雇する側は用心するだろうが、人種や学歴による差別は相当あるだろう。

ローンを抱えてクビになった人物の奮闘を描く作品は多い。世相を反映しているのだろう。特に、今は製造業が中国に移転して、工場労働者達の職場は職にあぶれてしまう傾向が強いはず。中国の賃金上昇で少しは米国に工場が回帰しているそうだが、まだまだ一気に回復する可能性は低いだろう。

人生は20~50年単位で考えないといけないので、ローンを組んだ後に急激な生産地の移転が起こったら、ローンの年数に及ばない期間でリストラや賃金カットが起こってしまう。でも企業としては、急いで移転しないと競争に負けてしまう。私には無駄で無慈悲な変化のように思える。

法律で、急激な変動の影響によるローンの破綻を保護する仕組みが欲しい。企業が破綻してはまずいので、借金の残高を政府が肩代わりといった方策で、何かソフトランディングはできると思う。契約どおりの破産続出では芸がない。

製造業は海外移転し、アメリカの主な産業は基本となる農業、資源や軍需関連と、新しいITブランド、製薬などの技術、金融などへと移行している様子。製造業関係は、いずれにせよしばらくは厳しいのでは?仮に製造拠点が中国から離れても、東南アジアに移転するだけではと思う。

そうなると、手に職がない人達には相変わらず厳しい。どうやって失業の試練を乗り越えるかというのは大きなテーマ。日本でも同じ。30歳過ぎて、クビになったから介護の学校に通う人が実に多いが、将来に不安を感じつつ記憶力の落ちた頭で学習するのは辛かろう。

もし、自分が30歳で失職したら・・・・想像しただけでも怖ろしい。そんな不安定な状況では、家庭を持ち子供を作るといった気持ちにはとてもなれないだろう。人生設計ができないと、子供を作ろうという気持ちにはなれない。そんな人達が増えれば、極端な少子化しか残らない。

皆、明らかに間違っている。職場の確保 → 巨大企業の倒産の回避または生産コスト削減 → アウトソーシング → 職場形態の変化・・・・くらいで済むと思っていたのだろうが、その場しのぎの考え方であった。若者の人生設計や意識といった面からは、職場の変化は国力そのものの問題、若者の生きる権利、生きがいの消失と考えるべきと思う。

論理の運び方に問題があったのだろう。大企業の成績確保を中心にすえるのも大事だが、論理の → の運び方には修練が必要。国の官僚達には、何か視点の狂いがあったようだ。最終的に国民の利益を目指す論理が必要だった。

大儲けの好景気が続くなどはありえないが、人生設計も許さないような事態は、政府の責任重大と言える。

この作品は真面目に前向きに、少しユーモアを持ちつつ、とにかく暖かくという視点で作られていたように思う。その路線は正しかったはず。良いイメージのまま作品を観ることができた。でも、演出として涙を期待した方向ではないので、例えば主人公に家族はいないから、自由に時間を使うことは可能。実際は多くの失業者は家族を抱えて、明日の食費や家賃をどうするかといった深刻な面から考えないといけない。この主人公は恵まれていた。安易すぎると批判したい人も多いだろう。

もし主人公が黒人だったら、絶対にもっと酷い目にあっていたはず。学校でも無視されたり、不当な扱いを受けた可能性だってある。そもそも学費がなかったり家族の世話の関係で、学校に行けない可能性も高い。そんな彼らにとって、この作品は夢物語に過ぎないのだ。

この作品は夢物語であるので、家族が楽しめる作品。恋人と観るのも悪くないと思う。あんまり辛辣で真摯すぎると、鑑賞が辛くなる。安易な視点は、作品の雰囲気の点では正解だった。

スクーターの集団が登場したが、米国のバイクというとハーレーというイメージがある我々には奇異に写った。たぶん、実際にはそれほど小型バイクで失踪する連中は多くなく、小型の移動ツールとしては自転車がメインではないかと思う。バイクメーカーが協賛したのか?

日系の経済学の先生は良いキャラクターだった。学生仲間でラテン系の若い男、黒人で妙なダンスを披露する男など、共演者のレベルが非常に高かった。彼らを集めるに際しては、トム・ハンクスのキャリアがものをいったのでは?

ヒロインの歩き方が気になった。「プリティ・ウーマン」の頃はドレスを着ていてもガニ股気味に歩いていたが、あれは演技だったのか?その後、矯正したのか?この映画での歩き方は、非常に美しく、モデル並みだった。

 

 

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