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2012年9月27日

グレート・ディベーター 栄光の教室(2007)

Weinsteinco

- ディベートの功罪 -

大学対抗討論大会に出場する黒人学生達の話。連勝していたが、担任の教授は組合活動で逮捕され、仲間割れ、親子喧嘩、敵は圧倒的な有名大学といった難問が立ちはだかる・・・

・・・デンゼル・ワシントンが主演、監督を務めている。少しオーバー気味の演技に思えたのは、自作自演だったからかも。少年役の俳優は目がたれていて朴訥そうで、いかにもモテそうにない感じで役柄に合っていた。

黒人の大学があるということすら知らなかった。設立は古い学校らしいのだが、自然と白人が敬遠して黒人系になったのか、設立の意図からそうなのかは判らない。私立なんで、おそらく奨学金などで通っているんだろう。

人種差別は今も酷いらしいが、70年代より前は想像を絶するものがあったはず。リンチに遭わないために、相当気をつける必要があったに違いない。それに、黒人側の反撃もエスカレートして、おそらく互いの暴力沙汰は問答無用の激しさだったろう。

そんな殺伐とした地域に討論を持ち込むなんて、無意味じゃないか?そんな風に認識されてる状況は想像できる。それでも弁論に賭ける、その気概もセリフにして強調して欲しかった。何度も繰り返す必要がある。彼らはそれに賭けていたはずだから。

女学生の顔が非常に良かった。意志の強そうな独特の顔つきは、役柄に非常に合っていた。女性の場合は、特にハンデが大きかったと思う。懸命に身を立てようと努力する姿を体現する顔だった。

フォレスト・ウィテカーが教授役をやっていたが、冒頭のアジテーション風の演説~講話の意図はよく判らなかった。彼の信条を提示するつもりだったのか?大人しい学者が、友人を守るために保安官を脅すといった流れに徹しても良かったのでは?ウィテカーの意見によってシーンを追加したのかも知れない。演出の統一性に何か問題があった。

ストーリーには多少の演出もあるそうだが、史実に基づいているという。テキサスのような土地で組合活動をしようとする教授、しかも黒人なんて、ほとんど死は確実としか思えないような話。夜道を歩くのも危険、一軒家など危なくて持てない、そんな気もする。でも、ちゃんと社会生活をおくれたということは、白人側にも理解者がいたからだろう。

力も必要だった。時間も、法律の改定も。法の後ろ盾がないと、自警団などに殺されても訴えることができない。法を作るためには、やはり言論で説得する必要がある。多数派の白人の中で協調してくれる人を増やし、法によって保護されないと、武装して抵抗しようとしても限界がある。だからこそ黒人は、ディベート能力を磨く必要があった。

厳しい差別に置かれた現状から、なんとか改善を目指そうと努力した方たちに敬意を表したい。白人達も、おそらくインディアンやメキシコ人達から権利を守り(奪い?)、戦う日常の中で、黒人達に権利を奪われないように懸命だったとも言えるだろう。権利や尊厳を神様が公平に分配してくれるわけではないから、要求し続け、実力で勝ち取る必要はある。

我が家の子供がおもちゃを買う権利を請求する場合に、金を使わない判断を通す私の闘争にも、一定の価値はある。家内も、できることなら私に敬意を持ったらどうかと思う。

毎月職員と同じ額の給与を家内に支払っている。若夫婦なら暮らせそうな額だ。しかも電気水道ローン代は別、食品のほとんどは私が買っているから、家内が自由に使える金は、一般の主婦の数倍に達していると思うが、家内は残金がある限り、かっちり使い切るので税金の支払いに支障が出ることも多い。そして、さらなる金を要求してくる。

不当な要求に対しては、戦わないといけない。充分な金額を渡していない場合は、私に非がある。明細を記録し、どのように不足するか明示できるなら検討の義務が私にある。ただ不足する金よこせのディベート論法では、エセディベートである。判定は私の勝利であることをを期待したい。家内は、リンチ的な手段で対抗するだろうが。

そう言えば子供の頃は、目があっただけで因縁をつけて来る上級生がいたが、彼らの考え方はどんなものだったのだろうか?この映画ではブタをひいた黒人に法外な賠償を要求する白人が出ていたが、洋の東西を問わず、同じような理屈で無理な要求をする輩は多いものだ。想像するに、彼らは彼らなりに権利を主張していたんじゃないか?

つまり、「オレをなめるな、オレに敬意(怖れ)を持て、オレを優遇しろ!」それを不必要なほどに主張していたのでは?その理屈から、ワルは自然発生するんだろう。ワルなりの論理でディベートしてくる。しかし、それでもディベートが成立していることは確か。不正で不公平な議論でも、何らかの論理が存在する。

討論の内容には、古典的な哲学から現代の学者の意見やらを取り上げ、根拠として使う手法が目立った。単に「私はこう思う、こうではないか?」といった問いかけだけでは、やはり根拠に乏しいから、当然そうなるだろう。ただし過去の格言は、用い方によっては詭弁的な議論にもつながる。詭弁をいかに暴くか、そこに集中していると、議論のために議論しているかのような状態になる。

禅問答、宗教問答、哲学問答、そんな伝統に近いものが、ディベートには内在している。空理空論、現実からの遊離に陥ることは避けたい。

ディベートは、政治家や弁護士を目指す学生にとっては必須の技術、学習の場だろう。ただし一種の演技、技能に近いものかも知れない。例えば倫理感に満ちた弁論をした本人が、実は全く倫理感の薄い論者であることも競技ディベートの場においては許される。映画であったように、ディベートは競技として使われているのだから。

でも、それを実際の社会でやられてはいけない。論者の倫理そのものが問われることが、本物の討論であるべき。競技と実社会は、ルール設定が違うべき。でも、その認識が足りないように思う。

ディベート能力がないと、特にアメリカ社会においては惨めな結果になるらしい。激しい競争が根底にある社会では、強烈に自己主張し、権利を守る力と弁論の能力が必要。譲り合い精神だけでは、敗北するしかない。移民の国だから、そいつがどこから来たのか、過去に何をやっていたのか判らない状況で人を判定せざるをえなかった歴史が関係しているだろう。

民主主義においては、公開された場で一騎打ちの勝負で勝敗を決めるのがよい決定方法と考える伝統がある。ただし、ごまかされて聴衆がことごとく欺かれる事例が多いことも認めないといけない。ディベートには技術が必要なので、外見がパッとしないと信用できないような印象を受けることがあるし、技術に優れた人物が、本当は詭弁能力に長けただけのクズであっても、支持を得ることはある。

アメリカ大統領の討論会の映像と、その後の大統領の行動、スキャンダルなどを考えてみると、ほとんど常に観客(米国民)は騙されたんじゃないかとさえ思えてくる。完全に演出された党大会の映像を観ると、候補者は役者として考えたほうが良さそう。

選挙、商品採用、企画会議、そのような場において、ディベート以外に適当な方法がない場合は多い。詳しく内容を聞いていたら個人的、金銭的癒着によって判断が狂う危険性が高いので、公開された場で選択するという手法は基本にすべき。ただし、ディベート手法の欠陥にも留意する必要はある。

欠陥は、誰にでもある程度は既に認識されている。論者のスキャンダルが、選挙戦の場で暴露され、イメージと違った実像に気づかされることは多い。暴露合戦、足の引っ張り合いなどは常にある。その場の論議だけでは、その人の実像は判らないことは常識。でも、制度として実像と論述内容の食い違いを許さない仕組みは滅多にない。良い方法がなかった。

今は、例えば大統領を選ぶ方法に、IT技術を使った検証を導入することも可能だろう。

①フェイスブックなどの技術を駆使すれば、候補者のスキャンダルは幼少時から検索できる。事前にスキャンダルを募集するわけである。これに最初から応募しなかったスキャンダルは、全て悪質な暴露行為として社会的に立ち直り不可能な重罪と設定する。それによって敵側に演出された暴露が減る。

②COI(利益相反行為)に関係しそうな支持団体、個人を明示する義務は立候補の条件に設定する。このような設定だけでも、本性に近いものが公開される。

マニュフェストといった文書では、残念ながら裏の狙いが判っても、それを広く認知させることができない。情報が広がる前に選挙が終わっても、後の祭りというわけだ。文書の場合は検索機能がないから、公開する能力に限界がある。ネットの場のほうが、その点では優位。

逆にネットの匿名性は、選挙においては弊害も大きい。スキャンダルを募集した途端、大量の真偽不明なスキャンダル情報が寄せられ、判定が面倒という事態は予想される。虚偽の情報に対して、よほどの厳罰がないと収拾のつかないことになるだろう。匿名性を制限し、虚偽の情報が出回った場合に対処するのは、技術的に難しい。ただし、これは罰の設定によって調整できる話。虚偽の情報提供は終身刑となれば、よほどの覚悟が必要になり、信頼度が増す。

スキャンダル暴露合戦にマスコミが介在していることが、今の選挙の欠陥のひとつだろう。情報に飛びついて大きく報道されると、イメージが大きく変わる。必ず演出されていると思ってよい情報だから、それこそ厳しい制限が必要と思うのだが、報道自体を制限すると、今度は悪質な候補者に有利になる。後だしスキャンダル情報に罰則が伴えば、信頼度は増すと思うのだが、法令化は難しいのか?

おそらく、公開討論方式のディベート、マニュフェスト公開、ネットでの公式の情報公開、それにマスコミの活動などを併用するのが今の時点での現実的な選挙ではないか?併用することで、互いの欠点を修正することができるから。

 

 

 

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