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2012年9月12日

ラスト・タイクーン(1976)

Paramountpic

- この作品にも敏腕スタッフを -

映画会社の敏腕プロデューサーである主人公は、スタジオのボス達からねたみを買っていた。主人公が恋に夢中になる間、彼を失脚させる動きが進んでいた・・・

・・・MGMの創設者のひとりであるメイヤー氏と、彼の敏腕部下が題材になっているそうだ。原作者からしてギャッツビー風の、悲劇的結末が待っていることは間違いないと思える作品。美しい恋人が人妻になり、失意の主人公がヘマを犯す・・・その流れは、いかにも映画的だった。DVDで鑑賞。2012年までDVD化されていなかったのか?

監督のエリア・カザンはイスタンブール出身、MGMのメイヤー氏は東欧生まれのユダヤ人、主人公のモデルもブルックリン生まれのユダヤ人。マイノリティ出身の彼らは、才覚と運でのし上がって、大きな権力と収入を得た共通点を持っている。思い入れがあったことだろう。

のし上がろうという情熱は、いかなる倫理や愛情をも乗り越える強烈な力となる。若い頃は生き残ろうとする動物的なファイト精神で済むが、老人になっても同じような考えのままでは、若者を破滅させ、友人や同僚を敵に売り、多くの犠牲の上に成り立つ成功となる危険性がある。倫理を乗り越えるほどの野心を、どこでギリギリ倫理感の鎖につなぐか、そのへんにはセンスも要るのかも。

圧倒的な権力者をイメージさせる‘タイクーン’というタイトルは良かった。原作はフィッツジェラルドの遺作となったらしいが、映画のほうも監督エリア・カザンの遺作にもなったらしい。この作品のストーリーからして、いかにもラストのイメージにふさわしいような気もする。

「ギャッツビー」でも栄光の後に悲劇が待っていた。たまにはハッピーエンドの話があっても良いような気がするのだが、とにかく失われた世代の型にはめないと気がすまない傾向は、おそらくは鬱にはまっていたんだろう。映画が始まったとたんにラスト、悲劇、失恋、破綻のイメージが付きまとう。

その関係で、この作品はヒットを狙うのが難しい。子供は絶対に楽しくないと感じるし、恋人と観ていると別れたくなるかもしれないし、基本的にこの作品は誰かといっしょに観るタイプの映画ではない。ハッピーエンドでないと好まないアメリカの客を納得させるためには、「タイタニック」のようなスペクタクルか印象的な別れを用意しないといけない。

脚色して、やや安っぽい方向に変えて、悲恋物語にすべきだったのかもしれない。色恋ドロドロのメロドラマなら、女性客は観てくれると思う。

主人公を演じていたロバート・デ・ニーロは、同じ頃タクシー・ドライバーにも主演している。非常に痩せていて、神経質そうな、それでいて自分の行く末に無関心なようで、ヒョロヒョロ歩いているように見えるのは、おそらく病弱だったらしいモデルのイメージに合わせたのではないか?

敵となるボスの娘役が、かなり重要な役どころだった。当時の化粧法に合わせたのか、表情が判りにくかったが、本当の思いやり、自分が恋の相手になれない怒り、そんなものが入り混じった娘さん独特の臭いのようなものが感じられた。

これに対して、恋の相手となるヒロインは、外見のイメージとして丸顔すぎて役柄に合わないし、ハリウッドに興味がない割にはハリウッド周辺をウロウロして意図を判りかねる、不倫するほどの激情も判らないなど、全く理解不能な女優さんだった。美人ではあったが、ミスキャストではないか?

判りやすい演技ができて実績のある有名女優のほうが良かったと思う。セリフも簡単に、結婚を前の恋に悩む単純な個性にしたほうが良かった。安っぽいメロドラマでも構わないと思うのだ。自分の売り方に迷う女性は、結婚の前には多いと思う。結婚してしまえば、やはり基本として道徳から大きく外れることはできなくなるので、「この結婚でいいのか?」という悩みは必発。

この作品は、編集に関しても理解不能。ラブシ-ンの使い方に問題があり、何を訴えたいのかよく判らなかった。主人公が恋愛にのめりこんで、仕事上の失敗をする、どんどん敵を作ってしまう、そんな明快な流れが欲しい。

権力闘争として描くのも悪くなかったと思う。主人公は自分に対するボスの意識に無頓着だったようだが、ラストで惨めに敗れ去る主役となるためには、生き残ろうとあがく姿が欲しかった。無頓着なのは、小説なら許される個性だが、映画では観客の理解を得にくい。まず、そこの違いを認識すべき。

この作品には、おそらくだが主人公のような敏腕スタッフが必要だったのだ。監督に任せていても、原作にかぶれていてもいけなかった。

映画に限らず、会社内部では引き立てられての早い昇進と、ケンカによる失脚や降格は日常のこと。自民党の党首は引きずり降ろされてしまい、読売新聞のナベツネと部下、愛知県知事と名古屋市長の対立、たくさんある。会社も政界も人が作るものだから、人事の動きは絶えないし、悲劇も繰り返され、映画の題材には困ることがない。

私のようなクリニック院長は、儲けの野心は最初から考えられない。運営のテーマは良心的な医療を提供することで、営利的なことは二の次になる。そうならざるをえない。クリニックの規模から考えて、大儲けは最初からできない。逆に言えば、青臭い理想論で生きていけるのは幸せなこと。しかし営利企業においては、利益をあげないのは悪。内部の対立も、営利をあげ続ける実力、実績がカギとなり、常に足元をすくおうとする勢力と戦う必要がある。理想を追うのは無理。

同じ映画業界に所属する者としても、脚本を書く立場と製作サイドで力ずくの戦いが起こる事もありえる。それが自然な流れだ。「いい映画を作ろうね。」ってな仲良し談義で済むはずがない。クリニックの医者になったのは、ある意味では厳しい現実の競争から逃れた面もある。医師会にも所属していないのは、医師会内部の汚い争いに嫌気が差したからだ。医師にも色々いて、かなり良心に蓋をする人間が多い。

競争意識を丸出しして、他の医者を攻撃する医者も実に多い。切磋琢磨の段階に止まらず、営利企業の出世争いのように叩き潰しを狙う。世界最先端の研究の現場や、教授になれるかなれないかの瀬戸際なら解るが、日常診療の場においても、クセになって戦うのは場をわきまえない勘違いだ。

国内の勢力争いで激しく戦って党利党略に終始する民主党と自民党も、状況をわきまえない勘違いだと思う。昔からそうだった。陸軍と海軍の間の予算取り競争、学閥出身地がらみの派閥争い、いずれも目の前の利益や利権に目がくらむからだろうが、国を考えた有効策を出せないままの争いのように思える。

東日本の復興予算に関しては、被災後1年以内に全てメドを立てるべきだった。かなりの無理はあるだろうが、利害を調停してスピードある決定が欲しかった。被災者が何をどうやったら良いか解らない状態は最悪。万単位で人が故郷から追われる事態は、利害を度外視してでも解決を目指すべき状況だと思う。国内の勢力争いに執心している人物は、排除すべきだ。青臭いようだが、仲間を裏切り自分が失脚しても、国家と被災者を救う意識が望まれた。今は腹を切っていた時代ではない。失脚しても、生きてはいける。

脚本家組合に関しては詳しくない。最近もどこかの組合がストを起こしていたと報道されていたが、地域によってたくさんの組合がある関係で、ハリウッド全体が麻痺するほどの事件にはならないようだ。フィッツジェラルド氏自身も、ハリウッドのシナリオライターとして契約していたらしいから、ひょっとして実際に主人公のようなプロデューサーにこき使われた経験があるのかもしれない。

おそらく製作側の人間は、脚本家を脅し、なだめて傘下に置き、効率的にシナリオを作るシステムを構築していたはずで、脚本家達が組合を作って交渉相手となることは自分達の仕事を邪魔するものとしか考えられなかっただろう。

共産主義者の仕業だと攻撃し、ギャング達を使って相当激しい工作をしたのではないか?そうでないと、要求を抑えこむのは難しい。犯罪スレスレか、もろに犯罪になっても、効率よく映画を作り上げ、ヒットを続けていれば失脚はしにくい。それに失敗したら、直ちに転がり落ちるだろう。

もしかすると、実際に組合対策に失敗して失脚した幹部もいたかも知れない。組合活動がどのように活発化するか、反共の動きがどのように力を得るかは、景気やヨーロッパの情勢によって変わるから、個人では判りようがない。

いかに優秀で高潔な人間でも、ワリを喰って失脚してしまうことはある。でも、それは会社では普通のこと。失われない世代でも常にあること。悲哀をいかに美しい話にするか、そこに集中するなら、もっと別な描き方があったろうと思う。

 

 

 

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