映画評

  • 当劇場は劇場主のための映画館です。訪問者を期待しておりません。内容の客観性、正確性は保障できません。でも、真摯な批評を目指します。

劇場主


Conflict of Interest

  • 特にありません。

おことわり

  • 当劇場は誹謗中傷を目的としておりません。もし権利を侵害されたと感じられた方は、申し訳ありませんが管理会社や公的機関に御相談ください。

« アラフォー女子のベイビー・プラン(2010) | トップページ | 宇宙兄弟(2012) »

2012年5月21日

ジョニーは戦場に行った(1971)

Timothy_bottoms

- 人類愛の話 -

第一次世界大戦の戦場、ヨーロッパに出征したジョニーは、傷を負って病院に収容される。回復の見込みなしと判断された彼だが、しかし意識はちゃんとあった・・・

・・・学生時代から評判だけは聞いていたが、実際に鑑賞したのは初めて。「8ミニッツ」と共通する話の設定。戦傷で植物状態に近い状況になった主人公が思わぬ活動をする。つまり兵士に対する扱い、ひいては戦争に対する問題提起、反戦が題材となっている。

そこに加えてSFの色づけをするか、あくまで悲劇を際立たせるか、その話の持って行き方が違う。この作品が舞台でやられていたのかは知らないのだが、作り方は完全に舞台風で、やや前衛的。そのまま舞台に持っていけそうな演出だった。

ジョニーを演じていたティモシー・ボトムズ(上画像)は、当時の世相に合致したヒーロー。ナイーブな印象を受ける個性。何かのために人を出し抜こうとする役柄には全く向かない印象。そのせいか、大スターにはなれなかったように思う。70年代限定のスター。

(勇気に敬意を表したい)

この作品の原作は、第二次大戦の頃に発表されたらしい。大胆なことだ。当然ながら発禁処分になったらしいが、戦中もそうだし、戦後に反戦=共産主義として扱われる時期には酷い目にあったろう。よく生きていられたもんだ。

加えて、映画化されたのはベトナム戦争の最中という念の入りようで、特に反発が予想される時期。原作者のトランボ氏は赤狩りのせいで服役したのだから、相当なタマだったのだろう。才能あるインテリであるだけではなく、しっかりした意見を、おそらくは命を賭けて訴えることができた人物。

人類愛が彼にそうさせたと信じたい。もしかすると、ナチスやソ連が彼を実際に利用しようとしていなかったとも限らないが、いずれにせよ勇気は本物。戦争に向かう時期に人類愛を問うのは、笑いごとでは済まない。普通だったら、戦争が終わって一息ついた頃に発表しようと考えるだろう。

アメリカが戦争に向かうときの熱狂は激しい。イラク戦争の時がそうだった。ブッシュ・シニアが宣戦した時の議会の賛成は、確か90%を軽く超えていた。ブッシュ・ジュニアの時には、さすがに情報は本当かな?と疑う報道もあったが、それでも米国民はかなり熱狂していた。

そんな時に反戦を訴えるとは!おそらく、よほど頑丈な家に住んでないと暴徒が侵入してきてリンチに遭う。道も歩けない。遠くから銃撃されても不思議ではない。警察も味方になってくれない可能性だってある。仕事も回ってこない。友人も去っていくだろう。勇気のあることだ。金があって、ホテル暮らしでなんとかしのいだんだろうか?

アメリカでも危険だが、他の国でも死に直結する行動。流れに抗う・・・後で正しいことと言われるとしても、なかなか耐えられるものではない。理不尽な迫害を受けたら、自分の行動の意義を自分でも判らなくなる。

一般の米国人は、権利を侵す国を善しとしない。権利は力でもって守り抜こう、そのために強い軍隊を維持しているんだと考えているように見受けられる。民主主義を守り、自分達の信仰、信条、生き方を守ることは正しく、その権利があると考えているはず。力があるのに行使しないなんて許されない!キリスト教精神か、愛国心かガッツか金か、理由は何でもいいから攻めちゃえ!ってな考え方。

そして、戦いで犠牲者が出ないとは言えないが、少数の犠牲は仕方ないもので、それを針小棒大にして反戦を訴えるようなヤツは許さない、きっと敵のスパイだ・・・それが多数派の感情だろう。仮に戦争反対を訴えて戦いを破棄し、容赦ない敵に支配されたら、誰が戦争反対と言いやがったんだ!と考えるのが普通。

どこの国でもそう。イスラム諸国もそうだろう。生活の困窮や不当な抑圧が理由になるし、信条に誇りを持ち、そのために戦う姿勢は、集団の規模が色々あるとしても必ずのように形成される。これは、我々の脳の奥深く、情動の部分からくる自然な流れだ。

(縄をどこに張るか)

ここで述べる内容には、確たる根拠がない。想像に基づくに過ぎないことを断っておかないといけない。でも大きな事件の時に垣間見れる事象からは、見当は大きく外れてはいないように感じる。

まず現実問題として、冷静さを許さないほどの激情にかられた相手に、冷静な判断を求めるのは無理な話。相手は自分の仲間集団の境を絶えず気にし、境界に縄でも張っているかのように、こちらが敵か味方か絶えず気にする状態と考えたほうが良い。動物は、相手を敵と判断したら攻撃してくる。あれと同じ。

人類愛のような曖昧な領域にこだわる人物は、味方にするメリットがない。トランボ氏の言うことが正論だとしても、支持はしないといった反応になるのが自然。むしろスケープゴートにできたら、便利な材料になる。立場が弱い者をいじめて力を見せつければ、勢力を維持する方法のひとつとなるから。

もしサル山で覇権を争い、激しい戦いを制した集団があり、その内部が完璧に統制がとれたとしても、戦いによってサル全体の活力が損なわれて防御力を失い、例えばイヌ集団に山ごと乗っ取られたら、いかに完璧な統制だったとしても意味はない。有害で無意味な統制になる。

でも、その習性が間違っているとは言えない。自然の成り行きの結果であり、ある意味で正しいことだ(サルでは)。

派閥形成は自然な流れで、多くの高等動物はグループ単位で生きている。派閥内部にはルールを設け、統制をとることで力を維持しようとするのが自然。常にまとまっているとは限らない。路線の違いが生じれば、信じていた仲間に裏切られて・・・そんな話は動物でも人でも延々と繰り返される。ヤクザ映画によく見られ、”健さん”が許さないパターン。

派閥のテリトリーをイメージする際の、境界(=縄)の位置、張り方が大きな問題。人間の脳の奥深くに刻まれた習性が決めること。縄を適切に張ることで立つ位置が明確になるため、速やかな対応が可能となり、力を伸ばすことにつながる事象を見るうちに、ついつい縄の張り方に熱中してしまう。

サル山を愛そう、もしくはサル類を愛そう・・・そんなことを言うサルがいたら、きっと嫌われる。縄が広すぎると訴えが曖昧になりやすいので、分が悪い。

逆に言えば、大きな戦略を練る場においては、それ以外の要因を排除できる保障、仕組みがないと過ちを犯す。我が国では、そのような仕組みを作ることにまず嫌悪感を覚える人が多いように思う。頭の中の縄の位置がそうさせるのだろう。仕組みを作ることは、せっかくの縄を無効にするから怖いのだろう。

(坂本竜馬を思い出した)

ここで、なぜか坂本竜馬を思い出した。もし、彼が現代の日本に生まれ変わったら、どのように評価されるのだろうか?今でこそ尊敬を集める竜馬だが、かなり独特の考え方をしていたかもしれない。

彼は、おそらく縄を国家全体に置いていたと思う。武士だけ、自分や仲間だけの利益を優先したり、単に藩に恨みを持っていたようには思えない。少なくとも、勝海舟の影響を受けてからは、国家意識が強かったはず。明治の元勲達は多少藩士の意識が強かったように思うが、坂本竜馬は国家単位。

もしかすると、基本的な縄張りとしては土佐の下級武士にやや比重を置いていたかもしれないが、その利益を代表する考えより、国民の利益に重きを置いていたように感じられる。商売っ気もあったようだが、財閥を作るタイプではなかったようだ。

たぶん彼は現代でも、亡くなった後でしか評価されないタイプの人間では?例えば、彼は民主党や自民党の中で中心的な政治家にはなりにくい。有力になれても、中心に長くはいられない。有名にはなれるし、会社を興したりイノベーションに成功するとしても、それで終わりではないか?失脚しやすいような気がする。

役人からすれば、自分達のキャリアに危険をもたらしかねない逆賊。財界からすれば、新しい発想でマネジメントをやらかす不気味なライバル。名古屋や大阪あたりで知事になって、名前をあげることは可能かもしれないが、権力を持つ連中が虎視眈々と隙を狙い、失墜を画策してくる。

国家より自分の生活、家族を養うこと、財産の確保のほうが大事と考えることは自然なことで罪ではない。もし国家のために何かの犠牲を強いてくると認識されれば、竜馬はでかい縄を拡げたがる妙なヤツで、ほとんど敵だと判断されるのでは?漠然とだが、損失をイメージさせると思う。

もともと天下国家を論じる人間は、勘違いや強制、犠牲、敗戦、軍国主義、大風呂敷、嘘つきを連想させる。むしろ、着実な藩の利益を優先する藩主や家臣たちのほうが強い支持を集めやすい。竜馬は、おそらく当時も変わり者の根無し草的な存在だったと思うが、今日でも敬遠されるだろう。

実際、国家の利益は、国民にひどい負担を強いることも多い。国家を論じるから正しく、個人や派閥の利益を望むのが悪いとは限らない。

国民は竜馬の存在意義を把握できない。偉い人だろうが、自分らの縄の外にいる人物のような気が、なんとなくしてしまう。竜馬君は青臭い人物だ。そりゃあ理想論だろうよ・・・そんな感情が生まれる。そして結局は、竜馬君を助けない。

タイムスリップした坂本竜馬が住民に無視され、亀山社中の不正経理をでっち上げられて、裁判で有罪になって牢屋に入ってしまうドラマができそうだ。「ワシは会社の金は使っとらんぜよ!」住民は思う、「フンフン、皆そう言うのよね。」 

これはブラックユーモアではない。高い確率で起こるであろう、予測だ。

(結局は・・・)

そもそも、国民の利益を優先すべきなんだろうか?役人やグローバル企業の利益優先で問題がなければ、改革など必要ない。年金がなくなろうと、原発が事故起こそうと、気にしないなら考える必要もない。良い生活を維持できれば、他の誰かに犠牲が生じても仕方ないと考えても、それだけなら犯罪ではない。

国民の利益を論じるのは、現実から外れた理想主義や過激派の主張につながり、滑稽である。人類愛など、もっての他。動物から見たら意味などありえないし、縄の中で目に見える利益を確保するのが、しっかり地に足がついた考え方とも言える。その考え方の結果が良ければ。

結果をどう見通すか、そこの見識、予測能力が、一般人と竜馬とでは違っていたのだろう。幕末なら、列強に支配されるかどうかが大きな問題であった。今は、欧米資本の意志から独立してはいないが、自由と豊かさを手にしており、国の利益より自分の立場を優先しても問題は生じない。つまり、改革の意義を解りにくい時代であろう。

あまたの改革者が、その力を発揮できなかった。問題を解決しようと考える人がいても、よほどの支持を集めなければ、派閥争いの泥沼に引き込もうとする敵対者に勝つのは難しい。心情的に、また制度的に派閥形成が容認されているからだろう。我々の習性による。個人でどうにかできるものではない。

改革の手はあるのだろうが、妨害に遭う中で論点がすり替わり、消耗するのに耐えてルールを作るのは難しい。総合的な改善策は出せない。人の習性を乗り越えるのだから、ウルトラC的な展開が必要だ。

ちょうど糖尿病患者にダイエットを勧めるようなもの。相手は頑強に改善策をはねつける。「ダイエットが必要です。」「今でも空腹です。絶食しろと言うんですか?」「いえ、過剰な摂取が問題です。」「〇〇の本には、カロリー制限で感染症が増えると書いてあります。」「過剰でないレベルの摂取は必要ですが、貴女は過剰です。」「全然食べてないんで、空腹で倒れそうですよ。」・・・・そこで家族に聞いてみると、1日中何か喰ってるという証言。あんたは冬眠前のクマか!敵は頑強で、まさに本物だ。

技術の進歩や、時間的な経過によって状況が明らかになれば、風向きも変わってくるかもしれない。患者の認識も絶対に変わらないわけではない。説得が成功することもある。糖尿病は一般に体の代謝失調が主体だが、この社会の失調も、おそらくは後述のような原則に基づき、個々に対処しうると思う。

竜馬のような人物に力を発揮させるためには、サル山のボス達の活動を制御することが必要。ボス達をやっつけるという意味ではなく、我々が情動に流されて竜馬を排除しないように、我々自らを制御するという意味。規則を用いて、恣意性が場を支配しないようにすることが原則。

縄を拡げようと演技するボスザルに対しては、精神論ではどうにもならない。上手に縄をたぐられて、気がつけば我々は手下にさせられ、竜馬を襲う下手人にもなる。「あれ?おかしいなあ、俺は彼を尊敬してたはずなのに?」・・・と思っても遅いぜよ。

会議で話し合う際にも注意が要る。勢い任せの多数決を民主主義とすり替えるのが、相手の常套手段。冷静な判断から視点をずらし、感情の部分に訴えて、全体の利益を自分達の利益とすり替え、派閥争いの泥沼に持ち込むのである。サルの時代から、そうやって生き残ってきたのだ。話し合いが恣意的にならないように、ルールを作るしかない。

我々も縄の外にはじき出されないように必死だから、冷静な判断はできない。ただし、覇権主義、グローバル企業などの巨大勢力の餌食にならないためには、戦略的になる必要がある。ボスザルに従うだけでは、勝てない時代だと思う。でも残念ながら、我々に自由に人を選ばせると、いまだに安易にボスザルを選んでしまうのが現実。我々は、そんなレベルなんである。

重要な判断を下すポストには、できれば竜馬のような人物を選びたい。トップの人を選ぶルールに、まず改善が必要だろう。我々自身を律し、恣意性を排除する必要がある。それは山全体の生き残りのため。でも彼のような人物には先に述べた理由で、激しい中傷や妨害がついて回る。だから、妨害を無効化し、人物の判断の仕方(縄の位置)を明示させ、我々が冷静になれるように規定しないといけない。

はっきり言えば、我々が自由に選べないように規定することが原則。自由にやらせると、サル並みの判断をやっちまうから仕方ないのだ。冷静にならざるを得ないように、恣意性を排除する規定を作るのが原則。

縄の張り方を明確にするルールは重要。利害関係をもれなく確認する必要がある。もちろん閣僚の資産など、今でも公表されている部分はあるが、完全だと思う人はいないだろう。敵は個人情報保護を盾に反対するからルールは簡単に作れるものではないが、利害や情動の影響を排除しないといけない。

我々はサルの子孫なので、人の恣意性を見抜くことはできない。ボスザルのような相手は、恣意性を隠すプロと思ってよい。隠せない規定が必要。法的には可能だと思う。個人情報保護法に、対象から自治体の議員、課長以上の役人、会社役員は例外とするという規定を設ければいい。

団体を代表する人物は、利害が関係しない分野でしかトップにつけないという原則も制度化する必要がある。利害関係がある分野で冷静に対処し、公平に扱うことは最初から期待できないので、公平性や判断力を専門性より重視するわけだ。この方針には反対意見(=情動)も多いだろうが、反対は戦略上の負けを意味する。

専門性のある人物が必要だという理屈が、組織改革を阻む大きな理由になっているが、専門家は判断を下す人の下にいれば良いのである。確かに委員会の委員には専門家が必要だが、決断するトップは、判断力があって恣意性の少ない人物でないといけない。そのルール化が必要。

・・・これは原発事故を例にとると解り易い。馴れ合いになった管理体制(原子力保安院)では、職務を果たせない。

調査をする独立査察官(員)制度は意味があるかもしれない。例えば今、事故調査委員会が福島原発の事故に関して設けられているが、残念ながら委員は独立した存在ではないだろう。原発事故の前にどのような立場にいたか、問題を事前に指摘していたかが不明瞭。おそらく、原子力利用の側に属していた者が多いと思う。委員の選定には、裁判員のような一般人の判断が望まれる。

反対を乗り越えて、これを制度化できればいいが、できなければ当然ながら全ての委員会は恣意的判断に引っ張られる。サル山の内部抗争に熱中して自滅する、そのことへの危機感、それを認識できるセンスが決め手になる。きっと誰でも認識したことはあるはずなんだが・・・

トップの立場を強化し、個々の派閥や業界から独立させることが必要だろう。独立した立場の行政官を作り、判断をゆだねる。おかしなトップが選ばれると困るが、少なくとも小田原評定や派閥の対立による長期の低迷は避けられる。

そういえば最近、学会で発表する演者は、自分が援助を受けている製薬会社を公表することが義務付けられるようになってきた。製薬会社の都合で意見を曲げていないか、聴講者に判断させるためだ。これは全ての演説、出版物に拡げるべきだろう。特定の団体の利益が影響してはいけない場所では、その団体との関係を排除することが望ましい。

これは役人や委員、あらゆる公的な立場の人に要求されるべきだろう。そういうルール作りに対して反対意見が多いうちは、戦略的な対処は無理。いかなる委員会も議論も、所詮はサル山のレベルになり、ボスサル達が強い支持を集め、しっかり間違うという結果に終わる。

また、トランボ氏のような人物に対しては、やはり時期を選んで対処すべきと思う。侵略されるかどうかという時に、人類愛を論じるのはナンセンス。トランボ氏は戦略会議の場には向かない。敵は必ず彼を利用してくる。事が済んでから、例えば戦争の再発をどう防ぐか話し合う場合は必要。絶対に彼を排斥してはいけない。雑多な意見を残さないと、サル山ごと妙な方向に行く時の修正ができない。

歴史の教訓からは、そう考えるが、これは心情から出た意見ではない。心情としては、自分を優遇してくれるか、自分に利益をもたらしてくれるか、力があって頼り甲斐があるか、毅然としているか、そんな動物的な情動に影響される。私もサルの子孫だから。

おそらくサル山全体のことを全く気にしないサルは、無条件にトランボ氏的なサルを排斥しようとする。理由を聞くと、サル氏は答えるだろう・・・・「ムシが好かないんだ、あいつ。ウキー!」

(材料)

負傷した兵士が、実際に実験材料として扱われることは少ないと思うが、皆無ではないだろう。アメリカの医療技術は、おそらく戦争が誘引となって発達してきたはず。軍事技術が医療器械に反映されたり、試験が戦地やキャンプで施行されたりしている発表を垣間見ることがある。

でも、この映画のような兵士は実際にいるのだろうか?稀にだが、ありえるとは思う。トランボ氏も聞いたことがあったのかも知れない。脳卒中の患者の中に、たまにだが動けなくても話を理解できる人がいる。ノワルティエ症候群の典型例は診たことがないが、近い例は経験がある。気の毒な病態だった。

発声や身振りの機能だけ失われた場合には、目の動きが頼り。開眼できている場合は意識はあることになるので、脳のCT画像がどうだろうと安易に回復不可能と判断してはいけない。神経所見を過信してはいけない。神経反応を完全に失い、どんな専門医でも間違いそうな擬似脳死はいる。

もし、意識がある患者を回復不能と判断したら、おそらく今なら臓器を移植に使われる危険性や、そもそも殺人や監禁の問題が直ぐに発生してくる。このまま無駄に死なせるのか、それとも移植臓器として有効活用するか、そりゃあ当然・・・といった簡単な判断をされたら怖い。

アイディアとして、富裕層のための移植用臓器が不足したから、戦争を起こして臓器を確保する・・・そんなSFも考えられる。亡くなりましたという報告を受けた家族が探索すると、軍から妨害を受ける。そして、実は味方によって脳死状態にされた兵士から臓器が提供され、収入源となっていた・・・そんな話はありえる。

戦争も必要ないかも知れない。ガンマナイフなどを利用して、ピンポイントで神経反応を遮断することはできる。怖ろしいことだが、某国の死刑囚などを計画的に脳死状態に持っていき、必要な臓器を安定供給というビジネスも成立しうる。

« アラフォー女子のベイビー・プラン(2010) | トップページ | 宇宙兄弟(2012) »

無料ブログはココログ