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2012年4月26日

ハーバード白熱教室講義録(2012早川書房)

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- 哲学 vs すっ飛ばし -

クレヨンしんちゃんの最新作で、妹か人類の運命のいずれかを選択するかという難問が出てきたので、この本を連想した。

ハーバード大学で哲学を教えるマイケル・サンデル教授の講義録の文庫版。2冊組みだった。NHKで放送されていたが、この種の話の内容は文章のほうが理解しやすい面があると思ったので、文庫本を購入。哲学というより、社会倫理学というべき内容と感じた。

途中から用語が専門的になり、かなり難解に。よく理解できない部分も多かった。

この内容が学生の人気を集めるというのは、やはりアメリカのエリートクラスの学校でないと考えられない。アメリカでも、例えば技術関係、ビジネス関係の学校では必ずしも注目を集めるとは限らない。政治家になる可能性のある学生でないと、興味はないのでは?と、想像する。フランスでも白熱するだろうが、白熱しすぎて収拾がつかなくなるかも。

日本の場合は、後述するような理由によって、さしてエリートの興味を惹かないと考える。ハーバード大では、国をリードし人を導こうという考えを持つ人が多いと思うし、その意義も理解している人物が多いはずだが、なかなか日本の社会には少ない。リードされる側の反応にも違いがある。

話の内容は誰でも考えそうなこと。私は哲学の教育を受けたことはないが、”デカンショー”と歌いながら学んだ先達の影響は受けている。読んでなくても、彼らが学んだ理屈が自分の考えにつながっているから、ある程度のポイントはわかる気がした。

本に書かれていた限りでは、サンデル教授の講義でも結論は出ていないことが多い。いろんな哲学の紹介や比較が中心であって、結局の答えは述べられていない。批判はするが、考えさせて終わり。そうならざるを得ないのだろう。それが限界なのかも。

日本の社会において、この種の話題はほとんど受けいられなかった。受け入れていたら、原発事故などの対応も随分と違っていたのではないかと思う。社会正義よりも経済的な繁栄、会社の売り上げが第一、自分の出世が重要、青臭い理屈なんぞ言っていたら置いてけぼりを喰らうぞという冷ややかな態度が一般的。電力会社はもちろん、役人も学者も一般人も。

立身出世を優先する意識や、農村の価値感を持つ人が大きな勢力だったことが原因かも知れない。企業のトップといえど農村出身の人、もしくは親がそうだった人物が大半なんで、意識のレベルは完全に農村社会と同じ。国家的な規模の社会正義という概念は、田んぼでは成長しない。

農民としては置いてけぼりされず、村の中での出世と繁栄が確保されることが最優先だから、よほど余裕がないと社会正義に興味が沸かない。正義は、しばしば自己犠牲や損を意味し、流れに抗い正義を貫くことで自分の立場は悪くなる。それに、大きな集団の利益を優先する人が狭い集団から嫌われるのは、洋の東西に関係ない傾向。正義は村意識の強い人には耐えられない。

村社会で哲学は役に立つのだろうか?

村の中では、村のルールや意見の流れ以外はあんまり必要ない。喰えない状況では、哲学よりまず生活。封建的に支配された中で、正義を論じても仕方ない。 村の流れが間違っている場合に、その間違いをただすという感覚はない。流れ、もしくは専門家に任せるのがルールと考える。それが村社会の伝統。

欧米にも、そんな傾向はある。いかな優れた哲学があっても、経済や政治の大きな流れの中では、それに対抗して踏みとどまることは難しい。第二次大戦で戦った国々は、デカルト、カントの末裔だったはず。優れた思想も、流れにあらがう力にはなりえなかった。正義のためには近隣の人との関係を捨てる覚悟がいる。つまり、哲学には限界があるのだろう。

アメリカはたまたま国力が大きかったので、自由な哲学が生き残る余力があったに過ぎず、ひょっとしたら共産主義や全体主義に反する考え方は全て排除される状況になっていた可能性もある。広大な土地があれば、他人に縛られず、流れを気にしないで生きることも可能。銃があれば、権利意識も保ちうる。

社会理念、倫理を貫こうとすると、反対する勢力との争いは激しくなる。宗教対立もそうだが、宗派、主義といった理念の戦いは、純粋になるほど深刻。ときには激しさのせいで、宗教の教えを外れるほどの殺戮を犯す。いっそ、理念などないほうが良かったと思えることもある。

でも国家レベルでは、なんらかの社会正義の意識がないと、長期的繁栄は望めない。ご無理ごもっとものご都合主義だけで正しい政策は採れない。流されるままの判断の積み重ねの結果、ひどい構造疲労に陥って有効な手立てができないようでは、やはり力が衰退する。それに、もともと理念を訴えて政権が出来上がってきた歴史がある。

その意味を理解していれば、サンデル教授の講義でも受けてみようかいと思えるだろうが、日本の場合は難しい。理念を潰されて再スタートした経緯がある。真面目な人たちが敗北する様を見てきた先輩達の世代には、ちょっと難しいことだった。できないわけではないが、遅れてしまう。

そう、例えば全共闘への対応は国力を落とす結果になった。当時の指導者達は社会正義より経済、対米関係を優先したのだろう。間違いではないだろうが、やり過ぎていたかも。完全に押さえつけては、正義なんぞ気にしない風潮になる。短期間繁栄なら得られるが、長期的に正しい手をうち続けるのは難しくなる。社会正義なんぞ気にしない人が選ばれて意志決定をするから当然。

敗戦の後遺症も大きいはず。私が仮に軍国少年だったら、日本の権益をそごうとする欧米には激しい敵意を持つだろう。彼らが正当なことを言っても、いっさい認めないはず。そして敗戦によって愛国精神が裏切られたら、拠り所を失って正義など気にしなくなる。

ただし、哲学かぶれも過激で困る。哲学を始めとする理屈で社会を一気に変えることは危険。実務的に、積み重ねる判断で改善を目指すべきであろう。会社の中、町議会、県議会のレベルから国政レベルまで、御都合主義だけで対応してはまずい。

例えば裁判所の判断が、流れに抗う手段となりうる。

仮の話だが、福島原発の立地や構造が危険であることは常識のある人間だったら判るので、もし住民訴訟が起こっていれば、安全性を保障できないという判断を下すことも可能だった。企業秘密があるから、裁判所以外に会社内部のシステムや危機管理体制をチェックできる組織はない。訴訟を起こし、チェックすることが社会正義上は必要。

とりあえずチェック目的だけの訴訟でも良い。現行制度だと検察委員会等を利用する手もあった。でも出来なかったので、結果は甘受するしかない。他の原発では実際の訴訟もあったから、裁判所には大きな責任があった。だから、もはや信頼回復不可能なほど無責任だったと言われても仕方ない。

どんな結果でも甘んじて受け入れる覚悟なら、社会正義は不要。事後処理に徹すれば良い。あのような事故を予防し、あらゆる危険から住民を守り、戦いによる損失を予防し、戦えば敗北を避ける、そのためには理念が必要。事後処理では限界がある。

ちょっと思ったのだが、エリートは別として一般人である我々は、哲学的難問は苦手。例えば本の中で最初に紹介される話だが、列車を運行中、線路に立つ作業員5人と、別な路線の1人の人のいずれを殺すか?といった難問に対しては、問題のすり替えが正しい解決法だと思う。

つまり、そのような事故が起きないように、そもそも工事の人員がいる線路に列車が進入する可能性を排除するという当たり前の対策を採り、哲学的な問題が発生しないようにすることだけが正解。まともに考えず、いわば難問をすっ飛ばすのだ。演者のサンデル教授は怒るだろうが、難問の解決は大変だから、逃げをうつのだ。

さらに、難問が発生したらマニュアルに従って行動するのも正解のひとつ。死ぬ人間が少ない方を選ぶというマニュアルや、列車の転覆を避けることを優先するというマニュアルもありえる。その場での哲学的な判断を要しないことが大事。難問が生じること自体がよろしくない。哲学の授業を台無しにする”論点すり替え”が正しい結論。

もちろん、そのマニュアルを作る場合には哲学が必要だが、マニュアルの作り方には修練が必要であり、実証と推論、仮定と検証を繰り返してやっとできるもの。教室の中でなんとかなるものではないはず。

実社会は授業ではないので、サンデル君が何と言おうと真正面から答えないで済む状況を目指す、それが答えだ。サンデル君より、私の白熱ブログを読め!と勧めて、今日の講義を終えよう(一同拍手・・・ならぬブーイング、次回に続くってか)。

 

 

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