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2012年4月 1日

マネーボール(2011)

Columbia_pic   

- 大阪GM構想 -

アスレチックスのGMであるビリー・ビーンの伝記の映画化作品。金のない球団が、データ野球で強豪球団に変わるまでを描いていた。

独特の間合いが良かった。ホームランでガッツポーズ、歓喜のラストといったお気楽映画ではなく、ひとりで車を走らせる横顔のシルエット、若く有望だった時期の回想シーンなど、寂しげな場面が繰り返されたことで、落ち着いた作風になっていた。

ベネット・ミラー監督の作品だった「カポーティー」でも独特の間合いが気味の悪さを出していた。この作品の場合は、重厚さにつながっている。重厚すぎて、子供には受けない気がした。恋人と観るのには構わないだろうが、感涙を期待できる映画ではないから、名作と言われる可能性は高くない。

でも名作ではなかろうか?ほんのり感動するタイプの作品。良いセリフも多かった。先駆者は常に激しい攻撃にさらされる、それは本当だ。少女が歌うギター曲も印象的だった。

ブラッド・ピットが主演でなくても良かったような気はしたが、本人が製作をしているから絶対に出たかったんだろう。実際のビリー氏も主人公と同じく短気な性格らしく、物を投げたりする姿は実像に近いそうだ。でも、スカウトに転進してからは高い能力を発揮している。他の球団と選手のやり取りをする場合は、映画のような短時間の判断でやっちまうのだろうか?選手はたまったもんじゃない。

実際のところ、プロ野球では盛り上がることが最優先だと思う。勝率が高くても、面白味のないチームは経営的にどうか?プロなんだから、魅せる部分は必要。出塁率の高いかどうかは勝率のためには重要だが、何にせよ完成度が望まれる。長期的な面を考えると、集まった選手によっては破壊力ある打線で勝負できる時期、投手力で勝負できる時期など、チームの方針は流動的なものだと思う。

その流れに沿ってなければ、例え3拍子5拍子揃った選手でも、他球団に移ってもらったほうが良いこともありえる。その流れは、作品のような分析では把握しにくい。いかにメンバーを育てるかという視点が必要になる。職人的なスタッフの出番になる。頭抜けた選手がいない時期には、出塁率も重要というだけ。そんな風に理解したが・・・

日本の球界でGMになるのは、通常は元有名選手が多い。GMの制度を持っていない球団では編成部長が相当するのか?おそらく多くは能力でGMになってはいないように想像する。選んだ選手が将来使い物になるかならないかを予想するのは確かに難しい。松阪や江川投手のような群を抜く選手なら誰でも判るが、イチローのような選手を選ぶのには勇気がいるだろう。

スカウトとしてどのような判断をするか、その辺が判りにくい。理論派にもいろいろある。迫力があるので説得力がかもし出され、編成会議で大きな顔をすることはできるとしても、それは正しい意味の理論派とは別な力。本当に最大限の力で選手を選んでいるかは別の問題。別な能力が必要。

実績があるから有能なスカウトかというと、単に知り合いが多かっただけということもありえる。有名な学校につてがあれば、自然と有能な選手に触れ合う機会も多くなり、結果としてたまたま活躍するということもありえる。その人の判断力が本当に正しかったことにはならない。

選手として二流だったビリー氏がGMに就けるという、その判断に賞賛を送りたい。GMを選んだ時点で良い成績をあげる条件が設定されたわけだから、選手や監督を選ぶだけに集中しそうな我々とは、最初から違うということ。以前の日本ハムの監督も、這い上がってきた有能な人物だった。野球選手というより、ビジネスマンタイプだった。

使い物にならない選手を集めて勝利をあげ続けたなら、それは間違いなく有能なスカウトだと言える。その証明が難しい。普段は会議で決定するから、誰の判断なのかが明確でなくなる。球界に限らず、日本の会議では責任の所在が不明瞭なので、画期的な判断を下すのが難しい。ソツのない判断が得られる点では良いが、事故対応、危機管理といった個人の判断力が必要な場面では対応が難しくなる。

アスレチックスの編成会議でスカウト長に相当する人物は、「俺達は分析結果を報告する。決めるのはアンタだ。」と言っていたが、日本の場合はスタッフが決めて、GMが決定できない構造になっているのでは?分をわきまえない人物が多いというより、ルールが定着していないのだろう。血気盛んな青年将校が暴走する伝統がある。

たまに日本の首脳が何かを決めると、おそろしく妙な方針を出す気がする。そんな人物しか首脳になれない不思議な現象が起こっている。つまり、自分で何でも決める人物が上についてしまうと、自分達の活躍の場がなくなるので、やる気を失う、だから自分達の意見を採用してくれる人物を担ぎ上げる → 首脳が無能な傾向が発生。

政界で言うと鳩〇元総理などは本当に理解不能な意見ばかり出し続けているが、今も実力者。金がなければ学者にすぎなかったはずだから、当然なのかも。本来、政治家には向かなさそうだが、理想主義的なイメージがトップには向くのか。

アメリカと日本の違いは、発言力が過去の経緯や派閥で決まるのを、仕方ないと考えるか否か、感情に反しても正しい判断ができるかどうか、自らが犠牲となっても会社や社会の利益を優先できるか、そのあたりの積み重ねの結果だろうか?

映画の主人公のようなな役割を果たす人物が渇望されている。大阪市の橋下市長が、目下の候補選手だろう。派手な発言、極端な手法で実績を重ねている。合議制で物事を決めていると、役人のいいなりで事態が改善しないのは明白なので、トップダウンの行政も悪くないと思う。

本来なら、あまりに過激な対決姿勢は好ましくない。何にせよ、急激な変化は悲劇と混乱を生む。改善が成し遂げられるなら、緩やかな改革が望ましい。でも、常に会議でしか物事を決めないようではダメ。頻繁に密室で意見調整をしてもいけない、それは確か。トップダウンの行動と、ボトムアップの合議を常にバランスよく保つことが必要だと思う。その加減が難しい。

役人の権限を減らそうかどうか考える時に、会議を開いて役人と相談をしていては話にならない。そこはトップダウンでやるしかない。逆に何かを誘致する時に、トップダウンはまずい。トップが懐柔されて、住民の不利益を鑑みないから。単純に考えれば、問題の性格によって対応を変えればいい。

でも、それが理解されない。「あの人に任せろ。」「責任はどうする?」「制度を無視するな。」「俺達スタッフの気持ちは無視するのか?」そんな小言で、自分らの利益を確保しようとされてしまう。権限を制約する仕事においては、やはり断固たる改革が必要になる。手法を正しく選ばないといけない。

閉塞感が漂う場合には、橋下氏のような変わり者も必要では?そうなると、変わり者仲間の私にもチャンスがあるということ。そういえば、私もラケットを投げて先輩から怒られてた短気もの。

短気な人は人間的にダメだが、だから仕事を任せられないと考える必要はない。偏屈者で嫌いだからGMにさせないという判断も、成績のことを考えれば正しくない。必要な場面では、変人も悪人も持てる能力を判定すべき。・・・おおう、いよいよ私もGMになれそうだわい。

二世議員を選ぶ人が信じられない。一見すると有能で、言が立ち、さぞ素晴らしい仕事をすると思われたサラブレッドが、実は能力も覇気も足りないということは珍しくない。元総理の安〇氏には失望した。坊ちゃん育ちは、せいぜい受験くらいしか経験していないこともあるので、実地では役に立たない。原則的には排除すべき。

でも、それができていない。偉そうなことを言うようだが、そんな国民の判断の結果がもろに出ている。国の中枢部には、映画で言えば言の立つスカウトみたいな人間ばっかり、そんな状況だと思う。

 

 

 

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