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2012年2月20日

下山の思想(2011)

- 下山仲間ゲットだぜい! -

日本社会は戦後の高度成長やバブルを経て今は下り坂の時期にある。その時期にふさわしい考え方を持ち、誇りを持って進もうといった内容の話。五木寛之氏の随想集。映画にはなっていない。そのままでは映画になりえないだろう。

押し寄せる文献に埋もれてしまって滅多に普通の本を読まないが、天下のNHKが特集していたので読む気になった。一般教養がない自分だから、たまには随筆なんか良いのでは?と思った。本屋さんではメインの場所に置いてはなかったので、たぶんベストセラーとは言えないのでは?

五木氏の小説は映画が評判になった時期に読んだことがある。明治の文豪達とは作風が違い、物語の深みや意味合いで楽しむ教科書的文芸とは一線を画している印象。今風というか流行作家であり、時流から外れることはない印象。外見も気にしておられるのだろう、絵になる作家。

この随筆を読んで初めて知ったのだが、氏は引揚げ者で苦労して学び、社会人として放送業界から作家に転進するという、苦労人でありながら言わば作家界のスターで派手な存在。いっぽうで、流行作家でありながら仏教の歴史にも詳しい相当なインテリのようだ。

イメージとして軽薄な流行作家に近いものと誤解していたが、考え方は少なくとも出身の放送業界や、財界、政界の人間とは全く違うらしい。一種のポーズかも知れないが、フランスの学生運動についても、感じるものがあった様子。

そもそも悲劇を経験した慎重さが根底にある印象。根っから明るく底抜けに楽しむなどという軽さがない、そんな個性のような気がする。もともと多少は下り坂が好き、衰退期の感傷に意義を見出すタイプの人間ではないか?衰退することが大好きとまでは言えないだろうが、衰退期の過ごし方にすんなり納得できる、それだけの諦観を人生の初めから経験済みなのかも。

私も下山志向の人間。人生の最初の頃からいきなり下山をイメージしていた。氏ほど苦労したことはないが、それはもう、えっらく暗いのである。ああ下山仲間が見つかって嬉しい・・・・

私が変わっていたと思うのは、青年期に今日の国の状況を予想し、どうするべきかなどと、起きてもいない将来のことを気にした点である。大真面目に悩んでしまった。成長期に、しかも景気がよい時代に、このままでは未来はないと絶望するなど絶対におかしい。

個人がどんなに頑張っても、独りよがりの予想に皆が納得することがあろうはずがない。特に上り坂のときに、「この社会の命運は決まった・・・」ってな調子で絶望めいた予言をするのはアホである。将来を全く気にしないのもアホウだが、対処できないのに対処しようとする私も見事にアホウだ。

自分の周囲には優秀な人間が多かった。下り坂の社会のイメージを持っている人間など全くいない印象。人生に絶望した私は、わけのわからない変人にしか見えなかったはず。

明治維新を例にとると、その前にたくさんの志士達が、「このままではいかんぜよ。」と叫んでいたにも関わらず、大きな動きになるまでには随分と時間を経ているようだ。多数の人が”確かにいかん”という認識に立つまでには、相当なタイムラグがある。

「そのようなことを口走ると、お上の目に留まって打ち首か切腹じゃぞ!」と言われた人物が多数いたはず。「そうかも知れんが、今はお上に従おう。」という賢い人も多かったろう。徐々に認識が統一され、激しい主導権争いを経て多数派になれば、今度は意味が解らない人までなびいてくる。そして維新が始まったのでは?

認識の仕方は様々で、その人なりに分析して整理、情報が更新されるので、認識に至る経路や時間までは一様じゃない。おそらく本の中で氏が度々気にしていたように、被災者の心情を、自分が被災者だったらとして考える人間は、地域全体の下り坂を直ぐイメージしてしまう。しかし、自分のこととしてイメージしない人間は、当面は他人事として考える。それが自然だろう。

もちろん、他人事と考えても救助や援助はするし、より献身的だったりはするが、過度に情緒的になったりはせず、ちゃんと自分の仕事はこなした上で必要と思えることをやるかどうか、その姿勢が微妙に異なる。思いやりがないとか悪いわけではなく、たぶん冷静なのだ。

どうも上から目線になってしまうが、大きく外れてはいないはず。情緒豊かで、他人を深く思いやれるから偉いとは限らない。冷静に状況を観察し、自分の仕事をこなすのも大事なこと。

情動・・・脳の基底の部分、辺縁系のどこかで情報が直ちに深い処理がなされるか、繰り返しの情報でゆっくり始まるか、処理の仕方は様々あっても、日常生活では困らない。あんまり感情的にならないほうが、素早い処理には有利。

他人事ととるかどうかの違いが大事かどうかは解らない。でも、このような分析に対して「何を下らないことを・・・」といった感情を抱くなら、それは怖ろしい誤謬につながる。有能だが結果的に破滅を招く人は、この種の意味を理解できないようだ。自分の成功意欲などの情動のほうを優先してしまうから。

例えばの話が、めいっぱいの被災者援助をして、復興が一段落したら現地に進出して商店街を駆逐してしまう、巨大な資本の流れを作って、それに反する小さな経済の存在を事実上許さない、そんな行為は心情的には納得できない。

進出した企業や誘致した人は、おそらく「被災地に職場を提供した。」などと理由付けをするだろう。確かに何かの投資がないと、いつまでたっても復興できない。打算づくだろうと、進出してくるものは受け入れないと仕方ない。感傷に浸っていても物事は進まない。結局は害と効果を天秤にかけて、慎重に判断するしかない。

巨大公共事業や大型店舗の出店には、必ずそんな天秤が必要。天秤の使い方にはセンスが要る。そう言うと、私こそ正しい判断ができると言ってるように聞こえるだろうが、私は地域の首長になって判断できるほどの器ではない。人徳が足りないから、選ばれることもない。ただ、多くの人に支持されるから判断が正しい人とは限らない。

正しいことを言う人間は、ほとんどの場合嫌われる。正確であればあるほど、悪い部分もある。そんな話を好む人などいるわけない。出世した役人や政治家は、だから多くの場合は予測能力に欠けていても当然。

福島に原発を誘致したのも、似たような構図だったはず。資本を投入し、金を回さないと町は衰退するばかり、原発をどこかに作らないと電力不足で国の経済ももたない、危険性ばかり気にしていては何も解決できない。一定の事態を想定した上で、進出、資本投入こそ正しい道と判定したのだろう。結果は最悪だったが、まるきり間違った考え方ではない。

ただし、私なら福島のような形での誘致に賛成はできない。怖くなって反対に回るだろう。万が一の事故に対する対処法はそのうち考える、大きな津波は来ないと考える、外部電力が失われるとは考えない、そのような想定に基づくことには、とても耐えられない。役場勤めでも、電力会社勤務でも辞表を書くしかない。

今日なら、なるほど辞表も解るよねと感じる人もいるかもしれないが、ほんの数年前だったらバカと思われたはず。お前はバカか、辞めちゃダメよ、中に残って批判しなさい、理想論では喰っていけないわよ、アンタの辺縁系は狂ってない?ってな感じ。

貢献したはずが、とんでもない重荷を地域にもたらす、その失敗は頭の中で何を正当化し、何を拒否するかの判断の結果。自分を地域の当人達と一体に感じることができるか、心情をどの程度からませるか、そこに決定的な判断ミスの要因があったと思う。おそらくドライになりすぎたか、妙なところで感情的になりすぎるといった、誤謬の連鎖にはまったのでは?

国や県、町の役人や、電力会社、日立、東芝などは地域を発展させた。皆が優れた能力を持ち、暗い予想に捕らわれることなく、自分達の仕事をこなし、成功意欲を満たし、実際に貢献は多大であった。でも、与えた害も底知れぬものだった。

後だしジャンケンになってしまうが、でも私は30年以上前に原発事故の時の会社や政府のコメントを、話す表情や目線、口調から使う用語に至るまで予想していた。つまり、彼らにどんな感情が沸き、どのような言い訳になって出てくるか、どんな人間かの分析は、おそらく正しかったということだろう。

ただ、それに自信がなかった。何も証明する材料がなかったのだから。

五木氏の年代なら、私よりずっと早く正確に予想できたのではないのか?原発に限らず、経済や広く国民の意識の病態、それに衰退、つまり下山のことを。一般の人に受けないから、今まで書けなかっただけなのか?

とにかく、下山仲間の存在を感じられたことは嬉しいことだ。でも、今は破綻や危機を論じると売れる時代。実は氏といえど長らく成功神話を信じていたのかもしれないし、機を見て宗旨替えしただけかもしれない。ずっと共に歩き、導いてくれるかは解らない。

どう導くか・・・それをコメントしてはいけない。周囲の理解を超えることを言っても無駄で、危険。作家にとっては命取り。ちなみに仏教の教えに従うなんてことはありえない。仏教国は、欲と野心溢るる国に侵略されるのが運命である。国単位に限らず、村単位でも少人数のグループでも同じ。五木氏のポーズにすぎないのでは?

うがった見方だが、やや現実離れした理想論を述べたほうがカッコイイという、受け狙いのような気がする。本に書く場合は、そうでなきゃ仕方ない。売れなければ、書く意味もなくなる。

下山と言っても、あくまでイメージの世界の話で、一本調子に降りるわけではないはず。かなりの昇りもある。楽しいこともあるだろう。そう悲しむことではない。大勢の人間の判断ミスの結果、すう勢としては下り坂になっているが、個人では大成功を上げる人もいるだろう。

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