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2011年12月26日

ディープ・インパクト(1998)

- いいタイトルでした・・・ ー

地球に迫る小惑星が存在することが判明した。アメリカ政府は、宇宙船で核爆弾を運び込んで、天体を爆破することを計画。クルーが選ばれ、爆弾のスイッチが押されたが、爆破に失敗してしまう・・・

・・・ほぼ同時期のアルマゲドンよりも高級で、撮影も丁寧。無重力状態は、ほぼ完全に表現されていた。アルマゲドンはひどかった。

ヒロインのティア・レオーニが政府高官のスキャンダルを追うところから事実を知るというくだり、親が離婚して傷ついている状況、そのようなドラマの部分が秀逸。ただのディザスタームービーでは2時間も間が持たないし、持ったとしても底の浅い作品になってしまう。ドラマは必要。

いっぽうで、ドラマばっかりでは観客が退屈する。バランスは必要で、たぶんスタッフ達の間で討論がなされるんだろう。討論の結論に不満な人は、他の映画会社で自分の意見を通した作品を作りたい。そんなやり取りがあるのかも知れない。似たような作品が続く。動物が旅する作品やアリの映画(「アンツ」と、もうひとつ)も、同時期に複数作られた。

これはきっと大統領が登場しそうだ・・・あの場面で最初に思ったのはそのこと。でも現れたのが壮年の白人というイメージが裏切られた。あれは、ちょっとしたヒネリのようなものだったんだろう。いかにもという感じもしたが。

ドラマの部分も、いかにもといえばそう。底の浅い点は否定できないだろう。あんまり複雑な韓国風ドラマを持ち込んでしまうと、肝心のディープ・インパクトよりもドラマのほうが深いインパクトを与えかねない。それはまずい。「ああ、これはお涙頂戴のドラマだな。」と観客が感じないように自然なドラマを作ることは難しい。

イライジャ・ウッドが恋人を救うために故郷に戻るシーンは必要だったか判らない。でもヒロインが父親と思い出の場所に戻って死ぬシーンは印象的で、確かに必要だった。

ティア・レオーニという女優は、この映画ではあんまり魅力を感じなかった。バッド・ボーイズではセクシーな衣装をしていたが、この作品ではイメージが冴えないような感じ。彼女が誰かと不倫しているなど、何か色っぽい話題もあったほうが良くなかったか?

彼女の父親役は素晴らしい雰囲気。娘の反応に戸惑う様子、表情もそぶりもリアルだった。

ロバート・デュバルの宇宙飛行士は、さすがに無理もあったかも。存在感の重みは素晴らしく、さすがに齢を経ただけのことはあったが、もう少し若い役者のほうが自然ではあったはず。

ただし、じゃあ誰が?と考えると、すぐには思い浮かばない。それくらいデュバルが素晴らしかったということか。もしかすると、悪役でならした役者がドスを効かせて演じるという手もあったかも。仲間を殺さんばかりの問答無用の迫力があれば、役割を果たすことができたかも。

実際に自分が大勢の人の生命を救う犠牲になるかどうかという局面に立ったら、どうするだろうか?人類を救う、この作品のシチュエーションの場合は悩むことはない。やらなければ、自分達が帰る場所すらなくなるのだから、どうせ死ぬことに変わりはない。でも、自分の犠牲の意義が限られている場合はどうか?

日本の場合だと、戦場で死んだ人達と、生き残って幸せな人生をおくれた人達を比べると、戦略に問題があった関係で、犠牲の空しさを感じてしまう。命令した上官はいい思いをして、命令されたほうが犬死すると考えたら、素直に犠牲になろうとは思えない。

疑念の余地のない平等な選ばれ方で犠牲になるなら、まだ納得もいくだろうが、実社会では明らかに不正な手段で選ばれることが多いので、自ら死のうと考えるのは難しい。会社でも病院でも、不正な選挙、出向、転任は日常茶飯事。不正な人事が組織の力を損なう最大の要因だと理解されることはない。

組織の力を自分がそいでしまったことが後で明らかになる、そう認識できたら人は不正な選択はしにくい。古代から強い組織力を発揮した集団では、これが上手くいってる。いじめに似た恐怖で人を縛ろうとしたら、人は生き残ろうとして犠牲をなんとか避けたいと画策するのが道理である。本当に犠牲が必要な場合に、それでは組織がもつはずがない。

原発事故の後、中曽根元首相のことをよく考える。位を極めた人物だが、正力氏とともに原発を推進した有力者なんで、結局は消えようのない事故をもたらしたということになる。彼の同僚や先輩達、軍人も役人も壮大な失敗をしたが、優秀な人材を残し戦後の復興に尽力するという理屈で生き残った。代表たる中曽根氏は原子力村に担がれたシンボル的存在だった。

今、どのように感じているのだろうか?存在自体が許されないほどの状況と言ったら、言い過ぎか? 失敗を認めることは国家にとっては道を誤らないために大事なこと。時が過ぎるのを待っているだけか?

中曽根氏は優秀さの極みと言えるほどの秀才だったらしい。だが当時の秀才には、やはり能力的な限界があったようだ。原発を購入させようというアメリカの思惑から全く外れることはできなかったとしても、危険性を減じて協調する工夫が望まれた。技術屋ではないから仕方ないが、予測能力、分析能力に欠けていたと思う。

厳しい言い方をすれば、彼は、彼だけではないが、8月15日に死んでおくべきだった。

感情的反発、荒んだ心情、激しい嫌悪感。中曽根氏のような人物に対する感情は、事故をみた人たちの後遺症になる。そんな心情では、自らが犠牲になることに了解できるわけがない。それが国の力を減じる。精神、心情は大事な要素だと思う。

犠牲は、美しい話で終わらないことが多い。この映画のように後進の力となるような犠牲は、稀だと思う。

 

 

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