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2011年10月20日

小説・医療裁判(2011)

Hougakusyoinn

- 判例・・・ -

熱中症の高校生が救急車で運ばれた。状態は悪化し、救命センターに転院したものの亡くなってしまった。家族は治療ミスを疑って、法律相談所を訪ねる。担当した新人弁護士は、勉強しながら対処することとなるが・・・

・・・これは弁護士、小林洋二氏の小説の読書感想文。映画化はされていない。紹介されて読んでみたものの、法律用語が難しく、理解できない部分も多かった。過去の裁判の判決文などは特に難解で、読みやすい本ではない。でも本全体としては興味深い内容で、よくできていた。

できれば素人が読む時のために、本の中で弁護士が素人に対して解説していく形式で話を進めて欲しかった。作者は読者の対象を法律家を志す人に設定されていたようだが、専門家用の雑誌でならそれもいいとしても、本になる場合は易しくしてほしい。

エンタメ目的の作品ではないそうなので、登場人物の個性が目立つとは言えなかった。あんまり娯楽性を高めると、作品の品位を落としてしまうかもしれない。相棒の女性弁護士は、色気のない勝気な女で普段はケンケンしているが、酒が入ると主人公に結婚を迫り、翌日は忘れてる・・・なんて設定が欲しい。

現役の弁護士が題材として選んだ話は、全くの架空の例だろうか?過去に扱った実際の事例なら、亡くなった方の家族や病院の職員も実際いるわけで、全ての人の心情に配慮することは難しい。もし似たような事例を扱っておられたなら、ペンネームを使われるべきだったかもしれない。

(判例の使い方)

作品の中で、過去の判例を根拠として論じる手法が気になった。議論する場合には、根拠のある知見を並べて話を進めることが望ましい。数学の定理のような、圧倒的な根拠。裁判においては、動かぬ証拠、信用できる証言などがそれに当たる。過去の判例が根拠となりうるか?それを口に出してよいのか?

私には誤った議論の仕方と思えた。

裁判官が頭の中で過去の判例を参考にするのは勝手だが、私からすれば過去の判決は何かが間違っている可能性もあるので、根拠にはなりえないと思う。司法の世界のクセのようなもので、本来なら口に出して根拠めかしく判例を述べてはならない。

法律が現状に即していないことは多いし、司法制度も問題ないわけではないのは常識。判決は、とりあえず裁判官の判断がどうかを示すものであり、もともと根拠になりえないはず。言葉は悪いが、屁理屈に満ちた判断も少なくないのでは?偏見とは思うが。

判例を根拠として使ってはならない。真摯な議論をしようと考えるなら、暗黙のうちに自然とそうなる。平気で判例を持ち出すということは、最初から根拠など気にせず、裁判に勝てばよい、法的な整合性だけ考えている、といったことを露呈する。

法的整合性ばかり気にされたら、一般人はたまったもんじゃない。純粋に憲法の定める精神と、実際の事象だけで個別に判断すべきであるから、間違っている可能性がある判例は、少なくとも口に出して述べてはいけない。

仮に医者がこう言ったとする。「今まで当院では、熱中症の患者はクーリングだけで回復していました。だから、この患者にも同じことをした。」 これは、いわば医者にとっての過去の判例=経験。標準治療をしても患者ごとに反応が異なるし、例外的な副作用はあるので絶えずチェックが必要。まさに、それが物語でも問題だった。

恥を知るなら、病院の過去の治療など根拠にしない。文献、自分の出した統計、学会の指標など、客観性に優れると思われるものを根拠として提示する。

裁判でも、根拠が完璧でない判断は持ち出すべきではない。持ち出すべきは法律の原文と、動かぬ証拠、証言だけ。判断能力の限界を認め、真摯な態度で仕事に臨む人は、当然過去の判決は考慮に値しないという態度になるはず。根本姿勢が判る。

法の世界と医療の世界は違う、判例を持ち出すのは伝統で構わないと思われるか?そうかも知れないが、誤った判断を下したくないと願う姿勢には、なんら変わりはないはず。そうなると、自ずと使う言葉や議論の道筋も決まってくる。法曹界の一員でも、伝統的な悪癖を嫌悪する人がいるのでは?認識レベルの問題と思う。

ただし、法廷で誰かが「過去の判例はすべて嘘八百で、役に立ちません。」などと言ったら、そりゃもう大変な騒ぎになるだろう。裁判官から退廷を命じられるに違いない。はっきり言っちゃだめ、本当のことを。

(訴訟=実刑)

真実を探ることは、何においても重要。だから医療に関しても裁判によって医療ミスを明らかにし、改善につなげる・・・ことは現状では期待できない。

親と子供の愛情を法的に処理することはできない。「クレーマー・クレーマー」で敗訴した主人公がそんなことを言っていたが、法には限界があるので、法的な決着がただ人を引き裂くだけの結果に終わることも当然ありえる。

勝訴に終わっても、訴えられた医者は基本的には元の仕事に復帰できない。実際に、手術しないことを病院から要求された有能な外科医もいた。それは、ほとんど引退、実刑に近い。独特の精神性、無茶とも言えるほどの信頼が要求される職種だからだ。

訴訟≒実刑である。

病院が下す人事面の対応は、検察、警察や司法が関知することではないかもしれないが、それが現状。悪意が疑われたら訴えるべきだし、確実なミスがあれば処罰は必要だが、曖昧なケースに実質上の”実刑”を下す権利はあるのか?歴然たる悪意のある医者は、自分の周りにはいない。無茶なほど懸命な努力をしている方がほとんど。

営利企業への訴訟とは分けて考えるべきと思うのは、驕慢だろうか?それとも医者を見る時の私の眼が節穴なのか?

「真実が判らないから、裁判で明らかにする!」という考え方は理想。裁判で真実が判る可能性もあるのは本当だが、結局判らないか、判らないけど見事に被告を実刑にしてしまった、無実の罪を着せてしまったという結果も多いはず。討論で真実が明らかになることは、もともと稀なのだ。数学のようにいくはずがない。

他の業種ばかりに文句は言えない。医者も真摯でなければいけない。私にも反省すべき点は多い。

(反省)

ICUや救急外来での自分の明らかなミスによる死は、約20年間で二人。幸いにして訴訟にはならなかった。個人的印象として、扱った病気の割にミスによる死は少ないはずだが、ゼロでないことは悲しい。直ぐ外科に頼んだ例も多いので、自分だけミスが少ないと威張れない。自分で気づいてないミスによる死も、おそらく十数人いる。

言い訳になるが、予測が難しいミスはある。私はビニールのチューブで胃に穴を開けてしまったことがあるが、普通は想像できないはず。喉なら本にも書いてあるが、胃のような壁の厚い臓器に軟らかいチューブで穴が開くなんて・・・でも間違いなく私の責任。

産科の場合は、予測不能な事態は日常茶飯事。ニコニコ笑っていた妊婦が数十分後には呼吸停止ということもある。何度か応援に呼ばれて婦人科病棟に行ったが、対処するなど絶対に無理という急展開ぶり。したがって、産科医は必ずミスしており、最初からほぼ全員がなにかしら有罪。

熱中症も怖い。最初から意識がないなら重傷度も想像できるが、本人は意識清明、でもデータ上は死人並みという状態の場合、対応を間違えると予後は厳しい。治療への反応をモニターして、反応が不充分な場合に方針を変える臨機応変の対応は必要。

おそらく小説の中の少年には、対処法があったかも。肝機能の異常は、あった時点でヤバイ場合がある。臓器障害=細胞破壊≒DIC≒MOFを意味するから。ただし、もっと凄まじい検査異常があっても回復する例が多いので、一回の検査で判断は難しい。どう対処し、次にいつ検査するかがセンスの見せ所だが・・・

体温41度以上は熱射病の指標?確かにそうだが、平均41度というデータが出ても、その数字が一人歩きしてはいけない。37度で熱射病になることはないとは言えない。42度で後遺症がないことも多い。37度だから注意義務を免れることはないし、42度だったら有罪とも言えない・・・・可能性で人を裁くのは、法的な観点ではない。

測定する器材の本来の正確さ、耐用年数、電池の容量、測る看護婦のキャラクター、精神状態、能力、その時の忙しさ、職場環境、政府の規制、季節、監査の時期、となりの患者の病状、周囲の温度、汗の具合、部屋の湿度、衣服の状況、風向き、患者の位置や向き、エアコンの機種、能力、フィルターの掃除具合、点滴の内容、スピード、計画量、実際の輸液量、その他もろもろ、数百の変動要因があるのだから、体温が何度かを論点としても、本当に微妙な問題。

体温41度が目安という数字が統計上出ても、患者は体温を横軸にして正規分布しているので、実は曖昧な数字。どれを統計の対象に選ぶかで、大きく数字は変わる。さらに治療の指針だけとして使うか、法的な判断として使うか、どのように使って良いという根拠がそもそもない。学会が指針を法的な指標と名言したわけではないので、治療指針の法的な意義は曖昧。指標も始終改正されているから、間違いもあるということ。

例えば、心停止後の蘇生の際にピトレッシンという薬剤を使うような指標が出たことがあった。根拠に疑問を持ちずいぶん調べたが、個人的には説得力に欠ける印象を得た。でも学会は推奨。仮に蘇生に失敗してピトレッシンを使わなかった医者を訴えるとされると、指標に反した私は厳しい立場に立たされる。根拠を厳しく追求されるが、学会の検討に反するのだから判事によっては有罪もありえる。

でも、指針の発表の10年後くらいの昨今は、どうやらピトレッシンの効果は限定的という統計も出つつある。もともと必須ではなかったはず。そうなると逆転無罪か?でも、たぶん私は職場にいれないだろう。推定有罪。

あらゆる間違いや誤解を想定しながら、法則に従いつつ、ウルトラCを使ってでも結果的に患者を救うのが医療人の務め。どの時点で、どの指標に基づいていたか、言い訳ばっかり考えながら医療することが法的に求められている。法的武装というやつ。患者を敵として認識する考え方。それが皆の願いか?

交通事故の死者数が5000人、医療ミスによる死者は数万人という文章があった。印象としては、そこまではないように思うが、少なくないことは間違いない。ただ計算方法の根拠は乏しいので、実態は私にも判らない。数字を一人歩きさせかねない記述であろう。

(人員の問題)

仮に私がクーリングを直ぐ始めて!と叫んだとして、実際に始められるだろうか?行ってみたら、布団を被せられていたというのが現状かも。「冷やさないといけないから布団は使うな!」と叫んで外来に戻り、しばらくして観察に行くとまた布団を被っているなんてことも考えられる。

「もっと冷やしてください。」「この病院では今までは冷やすなんてしてませんでした。どうしても冷やしたいなら、ドクターがやって下さい。」と言われたりする。言われるならまだ良い。「はいはい。」と、言いつつ勝手に暖めてる場合もある。人事の制度、職員の自覚、能力などによって、意志の疎通が図れない場合も多い。

「安定するまでは冷やすこと。」「もう体温は下がりました」「・・・って、君は氷に直接体温計を当てているジャン。不正確だよ」「先生が冷やせと言ったから冷やしながら測ったんです。じゃあ先生が自分で測って下さい。」「他の患者の診療もあるから、それは無理。」「私達だって無理です。」そこへ別な看護婦がやってきて、「まあ!患者を裸にして酷い医者!布団を被せよう。」「いや、だから・・・」「・・・じゃあ、先生が自分でやって下さい。」

「直ぐ直腸温を測ってください。」「患者が苦しみます。暴れます。どうしても必要なら自分で測ってください。」「外来患者は待たされて怒っている。隣の患者が死にそうなんで手いっぱい、無理です。」 裁判になったら、無理にでも冷やせとは指示されませんでしたと証言されるだろう。そんなやり取りを毎日繰り返していたら・・・もう、立ち去るしかない。

予め職員を指導しておくべき? 新しい技術を導入するため勉強会を企画し、総婦長などに掛け合って開催したら、数百人のうち一人しか参加しなかったこともある。参加していたのは県外の学校を出た極め付き優秀な看護師で、職場に幻滅したのか、直ぐ退職していった。

研修会に人が集まらないのは私に人望がないせいだが、職員の意識にも問題はあるだろう。看護婦の人事権が医者から独立した職場では、医者の指示を無視してもいいと伝統的に考えられている。医者は転勤していくから、もめても放置する方針で解決が図られる。労使交渉が激しかった頃の名残りの気風が、治療における指揮系統にも影響している。

もし訴訟になれば、指示の仕方が不充分であったというつもりか。

科学的認識が行き渡るまでには、タイムラグが必ずある。嘘と真実が混在する情報の中から、正しい規範を選ぶのは易しくはない。でも参加者一人とは・・・その現状を変えるために、裁判沙汰が必要か?・・・本当にそうかもしれない。でも、そのために医者を訴える?

基本的に看護婦の人員は全く足りないし、職責に比べ給料は安い。夜の病棟はブザーが鳴りっぱなしだが、看護師は二人しかいないのが普通。人を増やしたら、経営が成り立たない。保険組合から病院への支払が少ない。そして、保険組合も赤字。

仕方ないから、手の空いた医者に頼んで直接管理してもらおう・・・って、おんやあ誰も空いてない。そうだった、医者も嫌気がさして立ち去っていたんだ。臨床研修制度のせいで若手はいない。耳鼻科、眼科のほうが儲かるから、内科外科には人がいない。

人数が違えば、昔の常識や古い法律は現実的でなくなる。新しい治療法が判っても、対応するための人的能力が揃っているとは限らない。人間が不足して対応できないのに対応を迫られるし、対応したら訴訟が待っている。救急医には覚悟が要る。もはや、その場にいるだけで無罪と言いたい。

現場における立場は奴隷に近い。患者が安定すれば自由の身に戻れるが、こちらの意志と関係なく患者が搬送されてくる実情は、かなり権利を制限されているのが事実。奴隷を可哀相と思うなら、救急現場にも同じ感情を持って欲しい、というとオーバーか。

使命感から出たギリギリの判断が、事実上の実刑という結果に終わると、やりきれない。実際の体制、経済的な状況の変化~現場へのしわよせに、法律は素早く対応できない。司法判断も対応出来ていないようだ。過去の判例を根拠にすような姿勢では期待薄。真摯な態度であるはずがない。

だから臨機応変に対処するしかない。出たとこ勝負。訴訟は覚悟。期待はしない。

 

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